はてなキーワード: セーラムとは
表紙:
焦る部長「なっ、何をお前…汗」
目が覚める部長。まだ寝ぼけている。
「夢か…」
「あいつ(池チャンの顔)と話し込んでからろくなことがないな」
映子voice-over、V.O. 「もちろんでありまする」
ガタッ 慌てる部長
「おまっ」
映子。いつもの姿。
マリア「お疲れのご様子でしたので起こさないようにしていたのですが」
映子「ちょうど最近公開になった映画の話をしていたところだったのですよ」
『ずっと独身でいるつもり?』
(プレゼン開始)
映子「大人気作家おかざき真理先生の漫画の実写化でありまする」
部長:お前の好きなやつ~
部長「お前も見たのか」
マリア「4人の女性の恋愛や結婚、さまざまな生き方を描いた群像劇なんです」
部長「え?」
映子「主人公の母親も描かれるので20代から60歳まで実質5人の女性にスポットが当たるのですが」
部長「短いな!ワンクールのドラマでもいいくらいだろ。誰だ脚本は」
部長「と言われても」
??「『極上!!めちゃモテ委員長』『プリキュア』など日本を代表する女児アニメ脚本家の一人ではないか坪田文先生と言えば。お前はどうやって生きてきたのだ」
部長「お前はシーズン4の第11話プリキュア回に出て来てそれっきりの女児アニメ研部長の早乙女愛(1年)!」
マリア「『KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-』も書いておられます」
主人公は10年前ベストセラーを出したあと本業は鳴かず飛ばずのライター本田まみ36歳(演:田中みな実)」
部長:その番組のタイトルが「ずっと独身でいるつもり?」なんだな 素人の女性は本家と違って一人…
マリア「トークゲストが”パパ活女子”で、実は主人公の一人松村沙友理さん、田中みな実さんはコメンテーター」
マリア「田中みな実さんのベストセラーは結婚なんてしなくていい、という主旨のエッセイだったもので、業界の人からはずっと独身でいるつもりだろうと思われているのですが、お母さまからはまだ結婚しないのと電話がかかってくる日常」
映子「ところがひょんなことから、付き合っていた年下の彼氏橋田公平にプロポーズされ魔がさしてOKしてしまいます」
部長「魔がさして、って」
映子「劇中ご自分でもそういわれているのですよ?」
映子「ところで部長は3Cというのをご存じですか?」
部長「いや知らん」
映子「女性が付き合うと苦労する職業、美容師、バンドマン、バーテンダーを3Bというのだそうですが」
映子「カメラマン、クリエイター、カレーをスパイスから作る男のことだそうなんであります」
https://news.yahoo.co.jp/articles/6f7032c5c4b28f793026f2c244b4db8b421fcc9b
映子「そんなことはないですよ部長。彼は一流商社マンで趣味は、涼風真世さんには負けますがhttps://ameblo.jp/suzukaze-mayo/ 雲の写真」
で
映子「一流企業に勤めているだけあって向上心もあるのです。スパイスからカレーを作っている間、待ちぼうけの主人公は公平の読んでいる本を手に取りまする」
部長「どんな本なんだ」
マリア「『スティーブ・ジョブズ』(https://www.amazon.co.jp/dp/4062171260)はちょっとあざといかなと思いました」
映子「隣にひろゆきさんの『自分は自分、バカはバカ。』ともう一冊、それから 西野亮廣 さんの本を読まれていたのでがあったのでそれを読んでみたいですね〜」
部長「よく覚えているな」
部長「ただの小道具じゃなくてキャラ付けするために許可貰って撮影したのか…」
映子「それにフロアを沸かすこともできるようなのです」
映子「婚約お披露目に友人のカフェ開業パーティに二人で行くのですが公平の写真が掲示されているのですが、陰で心無いモブに”どれも似たような写真でダサい”とダメ出しされてしまうのです」
部長「つらい」
映子「そんなことも知らずに遅れてやってきた公平、婚約をポロっと発表するとパリピでウェイ系の友人たちに祝福されます」
マリア「教室の真ん中にいるリア充(シーズン7第二話 福田雄一論参照)みたいでした」
映子「興が乗った公平、DJを始めます」日ペンの美子ちゃんカットイン
ヤンヤン「DJやるようには見えない部屋でいきなり”まわしちゃおっかな?まわすぞ?まわせまわせ!”というカラ、暴力シーンが始マルかト思ったゾ」
部長「お前は韓国ノワール映画の見過ぎだ。というかお前も見たのか」
映子「そこで場面転換されてしまったのでわかりませんでしたが、真昼間の白い内装のカフェでどんな音楽がかかったんでしょうかね」
映子「その『スパイスからカレーを作る男』を知らずにディスるのが市川実和子演じる由紀乃」
マリア「10年前のベストセラーにはまっていた過去があるため、宗旨替えし婚約を番組で発表した本田まみに裏切られたと感じ、番組放送ごとにSNSでネガティブなことを書き込みます」
映子「番組はネット配信なんですが、なぜかリアルタイム視聴者ばかりなんですよね~」
部長「うわ~」
映子「大丈夫ですよ部長~最後は反省して直接主人公に謝罪しますから~」
マリア「そして結婚して幸せな主婦生活の様子をアップして多数のフォロワーにちやほやされているものの、実際はなんちゃってイクメンな夫に虐げられている徳永えり演ずる彩佳」
マリア「後に、この二人が実は大学の元同級生だったとわかるのは群像劇って感じで素敵でしたね」
部長「ちょっと待て、市川実和子と徳永えりって10歳以上年が離れているぞ」(欧米ではキャンパスに30歳40歳の学生がいるのは普通らしいが…)
映子「いいではありませぬか部長~ 主人公は36歳という設定ですが俳優さんは34歳ですから~」
部長「いやそれは!」
https://news.yahoo.co.jp/articles/47c3f05302794b35341a727ad884264ea6e2d427
(”脚本では田中さんと同じ34歳に引き下げられていたまみの年齢設定が、田中さんの進言によって36歳に戻された”)
マリア「松村沙友理さんについては残りのページがなくなってしまいましたね」
映子「ジル・スチュアートの商品を企業案件で自撮りしてSNSに載せたりする20歳代後半の女性役でしたがファンにはたまらない熱演だったでございまするね」
映子「結局つもりつもったすれ違いこまごまとした男サイド(両親含む)の無神経エピソードを経て主人公と公平は婚約破棄することになるのであります」
映子「婚約破棄発表シーンで主人公の片方の目の周りにあざがあったのはちょっとパンダ🐼みたいでしたね」
映子「なんと、そうだったのですか。矢口史靖監督ばりの妄想ウェディングドレスドライブシーンで婚約破棄を切り出し口論になった後、婚約者さまは一切登場されませんでしたので、パンクなメイクかと思っておりました」
部長「ひろゆきと西野亮廣 の自己啓発本を読み女性に暴力を振るいカレーを作って馬鹿にされる男の役…誰だかよく知らないが俳優さんも大変だな」
部長「はあ?」
御影「仮面ライダードライブに出てくる仮面ライダーマッハを演じた稲葉友氏だよ橋田公平役の俳優さんは。いつになったら常識を身に着けるんだお前は」
マネージャー「主人公と婚約者が新幹線のぞみに乗って挨拶に行く実家にいた母親(標準語)役は筒井真理子、実写版『美少女戦士セーラムーン』のセーラーマーキュリーの母親役っス」
部長「知らん!」
映子「”僕たちは与えられた役柄を、仕事として演じるだけです”と」
映子「うろ覚えですが」
映子「無理に結婚しなくてもいい、とすっきり着地した主人公、実は身近なところにロールモデルがいたんです」
マリア「独身で好きなことをやっている叔父さんですよね。あの人は清涼剤のようでしたね。スナフキンぽいというか」
御影「橋爪淳さんだ!ゴジラvsスペースゴジラ(1994年) の主役だぞ! 」ゴジラFINAL WARSにも出ているのは3rdシーズンでやったから知ってるだろお前ら!」
マネージャー「ウルトラマンZ(2020年)でもレギュラーっス」
部長「まだいたのかお前ら」(への字口)
マリア「結局この映画で幸せな結婚をしているのは独身で行こうかなと思っていた初期の主人公に『婚活体験レポ』を連載しませんか?持ちかけた男性編集者だけなんですよね」
部長「実際藤井隆はアイドルと結婚して幸せそうだから、的役でもあるな」
映子「そうなのでありますか?」
部長「お笑い芸人さんは美人女優と結婚したりするよな。最近で言うと南海キャンディーズの山ちゃんと蒼井優とか」
映子「蒼井優さんと、まんがの実写映画『ラブ★コン』に出演されていた山崎静代さまは存じ上げておりまする」
部長「おまえはまったく…」
~~~~~
映子「何の話ですか?」
部長「俺が寝ている間にマリアとそんな話をしていたんじゃないかと」
映子「あれは…」
(回想)
マリア「師匠は映画『ずっと独身でいるつもり?』ご覧になりましたか?」
映子「もちろんでありまする」
という会話だったのですが…
部長「そ、そうか」
映子「私たちはまだ学生でありますゆえ、そんな未来のことはまだまだ決められないでありまする」
部長「そうだな」(にやけ顔)
(飽きたので終わる)
Twitter上で議論が錯綜している、自分の気持ちの理解のためにも、論点を整理してみたい。とにかくめちゃくちゃムカついてるし、フェミニズムを失墜させる最悪な出来事だと思う。
1. フェミニスト議連(地元の市議を含む)という団体が女性を表象した表現に対しどこからOKかという線引きをし、削除を求めることをしていいのか?
自分としては、これはダメだと思う。女性表象云々の問題ではなく、表現規制に対する権力の濫用には反対する立場だからだ。民間から「これはさすがにエロいんじゃない?」とか、市民や県民の多くが異議を唱えるならいいが、議連という県警が忖度する可能性のある立場から、表現の線引きを行うことは非常に危険なことだと考える。表現をどう感じるかは自由だが、議員という立場から物を言うということの重大性を認識するべき。
実際のところ、千葉県警は議連だから忖度したんじゃなくて、「やべ、なんか燃えそうだ。燃える前に消そう!」とか、偉い人から「これ燃えそうだから消しといて」的な話があって消しちゃったという、消すほど燃えるという昨今のデジタル広報の基本を理解してなかっただけだと思うけど。公的な権力からの抗議→取り下げという前例を作ったことは悲しい出来事。
2. 警察という公機関のポスターに、ヘソだしルックの少女を起用すべきなのか否か
→公機関の制作物はどのようなチェック基準でつくられるべきかという問題
個人的には今回のVTuberのデザインはかわいいと思う程度で、女児向けコンテンツに多い表現方法で性的に過度に強調されているとは思えません。
ただ思う人もいるかもしれない。何を公共の場にはふさわしくないとするかは、年齢や住む地域、所属するコミュニティ、時代、そしてそのキャラや個人と地元の関係性によってもだいぶ違う。だからこそ大事なのはガイドラインを定め、市民のコンセンサスを得ながら定期的にアップデートするということなのかもしれない。警察の動画は税金でつくっているのだから。松戸の方々が同意している基準があれば尊重すべきだし、この話は民間での表現や女性自身の表現の自由(ミニスカでヘソだしで街を歩いていいか)とは関係がない。
今回のVTuberさんは地元応援系の方でもあり、良い関係を地元の方と築いてきていた可能性もあるので、それをあまり理解せずに議連が質問状を出したのは市民を置いていきすぎじゃないの?とは感じる(実際はどうかわかりませんが、社長や本人の釈明からはそう感じる)。やはりフェミニスト議連はやりすぎである。
目線を変えて、マーケティング的な観点からすれば今回の動画は若年層向けで、プリキュアやアイカツを見て育ったり、見慣れたりしている世大に向けられたものだと思う。Vtuberというジャンルのタレント起用も、議論になっている見た目も、自分たち向けのものと感じてもらうに機能するものになっていると思う。ターゲットの価値観を無視しているということになれば、フェミニスト議連は相当ナンセンスというか、アップデートが必要な人たちにはなってしまう。
3. 社長も女性、VTuberの中の人も女性、女性の自由な活動をフェミニストが奪っていいのか。
まず社長やVtuber本人が女性かどうかは、あまり重要なイシューではない。ポイントは、フェミニスト議連の"スタンス"にある。スタンスによっては、フェミニストであれ女性を批判することはできる。歴史的に見れば、今回の主張で、フェミニスト議連は、(かなり極端なラディカル)フェミニスト議連ということになる。これは、たとえ女性が自分の意志で着てようが、女性の隷属制などを感じさせるものならば、家父長的な価値観を内在化させていて本当の自分の意思とはいえないから規制してもいいいのだというスタンス。
フェミニスト議連がどれほどフェミニズムに詳しいかは疑問だが、表現規制を推進するラディカルフェミニズムの対象はポルノだ。その際のポルノはただエロいとかそういうことではなく、特定の集団(女性とか女児)が、隷属的だったり性差別的に描かれ、その集団が実被害を被るものということ。今回の質問状から見ても、フェミニスト議連は戸定さんというVtuberの衣装をラディカルフェミニズムの立場からポルノと見ていることが明らか。性犯罪誘発の懸念って言ってるのだから。
この議論はフェミニズムの歴史から見てもあまりスタンダードではない。第二波フェミニズム、1970年代のフェミニストセックス論争でも、表現規制派のラディカルフェミニストと、あくまで実被害のみを批判するリベラルフェミニストで意見が割れた話。なにをポルノにするかは個人の見方だよねという意見が主流になった第三波フェミニズム以降で、局所戦的にラディカルフェミニストが起こしたゲーマーゲート論争でも、売春婦の表現だったり、男性に従属的な露骨な表現が批判されたにすぎない。(その程度でもゲームにポリコレ持ち込むな!と超炎上した)
児童ポルノの規制は実被害の観点から多くの国で採用されているが、キャラクター等創作物に関しては規制しないというのが各国対応の主流なはず。ヘソだしミニスカで若干胸が揺れる程度の女子アニメ的デザインをポルノと認定し、規制をかけに行くのは、ラディカルフェミニズムの立場からしてもかなりかなりかなり極端と言わざるを得ない。この点から「プリキュアやアイカツも似たようなものだろ!」「セーラムーンの方が性的だ!」という疑問はもっともである。戸定さんをポルノと認めたら、世の中のそこら中のキャラクター表現はポルノになる。
もはやフェミニズムは第四波とも言われ、よりヒューマニズム的な側面が強くり、インターセクショナルな視点を取り入れて進化している。バトラー的な女って立場を拠り所にフェミニズムを語ること自体、性の固着化につながってるという議論にもフェミニズムは影響を受けながら、よりさまざまなジェンダーとの連帯も模索しながら進んでいる。
その中で、未だに第二波フェミニズムの残滓のようなフェミニストたちが、「フェミニスト議連」と名乗って、フェミニストの代表かのように振る舞っているのは、日本のフェミニズムの遅れを改めて感じさせる。本物のフェミニストなんてものはいないのだろうが、少なくともかなり古臭く、世界的に見ても相当に極端なラディカルフェミニストたちではある。
「ミニスカはフェミニストが獲得したものだろう!」という批判にはあんまり意味はない。貞淑をよしとする女性的な服装へのカウンターとして誕生したファッションであり、新しい女性の自由なあり方を示す手段のひとつがミニスカというだけであって、公機関の制作物に好ましいかは別の話。また、そのカウンターとしての効力が陳腐化している日本では、ミニスカが性表現の固着化につながっているという議論自体は成立すると思う。だから、スカートを伸ばせという議論だったら完全にバックラッシュで笑っちゃうが。
●結論●
今回の件、フェミニストもフェミニズムも関係ないから、目的語を大きくした、批判はやめよう。
ただひたすらにフェミニスト議連のスタンスが時代的に遅れていて、キモいだけ。ラディカルフェミニズムのスタンダードですらない。(性犯罪誘発って言ったのが戸定さんをポルノ認定してて一番ヤバいとこ)
あと、千葉県警はそんな極端な団体の意見なんて聞かずに堂々と動画を復活させてほしい。その上で松戸市議会や千葉県議会で公的機関の表現のあり方を議論した方がいい。
Twitter上で議論が錯綜している、自分の気持ちの理解のためにも、論点を整理してみたい。とにかくめちゃくちゃムカついてるし、フェミニズムを失墜させる最悪な出来事だと思う。
1. フェミニスト議連(地元の市議を含む)という団体が女性を表象した表現に対しどこからOKかという線引きをし、削除を求めることをしていいのか?
自分としては、これはダメだと思う。女性表象云々の問題ではなく、表現規制に対する権力の濫用には反対する立場だからだ。民間から「これはさすがにエロいんじゃない?」とか、市民や県民の多くが異議を唱えるならいいが、議連という県警が忖度する可能性のある立場から、表現の線引きを行うことは非常に危険なことだと考える。表現をどう感じるかは自由だが、議員という立場から物を言うということの重大性を認識するべき。
実際のところ、千葉県警は議連だから忖度したんじゃなくて、「やべ、なんか燃えそうだ。燃える前に消そう!」とか、偉い人から「これ燃えそうだから消しといて」的な話があって消しちゃったという、消すほど燃えるという昨今のデジタル広報の基本を理解してなかっただけだと思うけど。公的な権力からの抗議→取り下げという前例を作ったことは悲しい出来事。
2. 警察という公機関のポスターに、ヘソだしルックの少女を起用すべきなのか否か
→公機関の制作物はどのようなチェック基準でつくられるべきかという問題
個人的には今回のVTuberのデザインはかわいいと思う程度で、女児向けコンテンツに多い表現方法で性的に過度に強調されているとは思えません。
ただ思う人もいるかもしれない。何を公共の場にはふさわしくないとするかは、年齢や住む地域、所属するコミュニティ、時代、そしてそのキャラや個人と地元の関係性によってもだいぶ違う。だからこそ大事なのはガイドラインを定め、市民のコンセンサスを得ながら定期的にアップデートするということなのかもしれない。警察の動画は税金でつくっているのだから。松戸の方々が同意している基準があれば尊重すべきだし、この話は民間での表現や女性自身の表現の自由(ミニスカでヘソだしで街を歩いていいか)とは関係がない。
今回のVTuberさんは地元応援系の方でもあり、良い関係を地元の方と築いてきていた可能性もあるので、それをあまり理解せずに議連が質問状を出したのは市民を置いていきすぎじゃないの?とは感じる(実際はどうかわかりませんが、社長や本人の釈明からはそう感じる)。やはりフェミニスト議連はやりすぎである。
目線を変えて、マーケティング的な観点からすれば今回の動画は若年層向けで、プリキュアやアイカツを見て育ったり、見慣れたりしている世大に向けられたものだと思う。Vtuberというジャンルのタレント起用も、議論になっている見た目も、自分たち向けのものと感じてもらうに機能するものになっていると思う。ターゲットの価値観を無視しているということになれば、フェミニスト議連は相当ナンセンスというか、アップデートが必要な人たちにはなってしまう。
3. 社長も女性、VTuberの中の人も女性、女性の自由な活動をフェミニストが奪っていいのか。
まず社長やVtuber本人が女性かどうかは、あまり重要なイシューではない。ポイントは、フェミニスト議連の"スタンス"にある。スタンスによっては、フェミニストであれ女性を批判することはできる。歴史的に見れば、今回の主張で、フェミニスト議連は、(かなり極端なラディカル)フェミニスト議連ということになる。これは、たとえ女性が自分の意志で着てようが、女性の隷属制などを感じさせるものならば、家父長的な価値観を内在化させていて本当の自分の意思とはいえないから規制してもいいいのだというスタンス。
フェミニスト議連がどれほどフェミニズムに詳しいかは疑問だが、表現規制を推進するラディカルフェミニズムの対象はポルノだ。その際のポルノはただエロいとかそういうことではなく、特定の集団(女性とか女児)が、隷属的だったり性差別的に描かれ、その集団が実被害を被るものということ。今回の質問状から見ても、フェミニスト議連は戸定さんというVtuberの衣装をラディカルフェミニズムの立場からポルノと見ていることが明らか。性犯罪誘発の懸念って言ってるのだから。
この議論はフェミニズムの歴史から見てもあまりスタンダードではない。第二波フェミニズム、1970年代のフェミニストセックス論争でも、表現規制派のラディカルフェミニストと、あくまで実被害のみを批判するリベラルフェミニストで意見が割れた話。なにをポルノにするかは個人の見方だよねという意見が主流になった第三波フェミニズム以降で、局所戦的にラディカルフェミニストが起こしたゲーマーゲート論争でも、売春婦の表現だったり、男性に従属的な露骨な表現が批判されたにすぎない。(その程度でもゲームにポリコレ持ち込むな!と超炎上した)
児童ポルノの規制は実被害の観点から多くの国で採用されているが、キャラクター等創作物に関しては規制しないというのが各国対応の主流なはず。ヘソだしミニスカで若干胸が揺れる程度の女子アニメ的デザインをポルノと認定し、規制をかけに行くのは、ラディカルフェミニズムの立場からしてもかなりかなりかなり極端と言わざるを得ない。この点から「プリキュアやアイカツも似たようなものだろ!」「セーラムーンの方が性的だ!」という疑問はもっともである。戸定さんをポルノと認めたら、世の中のそこら中のキャラクター表現はポルノになる。
もはやフェミニズムは第四波とも言われ、よりヒューマニズム的な側面が強くり、インターセクショナルな視点を取り入れて進化している。バトラー的な女って立場を拠り所にフェミニズムを語ること自体、性の固着化につながってるという議論にもフェミニズムは影響を受けながら、よりさまざまなジェンダーとの連帯も模索しながら進んでいる。
その中で、未だに第二波フェミニズムの残滓のようなフェミニストたちが、「フェミニスト議連」と名乗って、フェミニストの代表かのように振る舞っているのは、日本のフェミニズムの遅れを改めて感じさせる。本物のフェミニストなんてものはいないのだろうが、少なくともかなり古臭く、世界的に見ても相当に極端なラディカルフェミニストたちではある。
「ミニスカはフェミニストが獲得したものだろう!」という批判にはあんまり意味はない。貞淑をよしとする女性的な服装へのカウンターとして誕生したファッションであり、新しい女性の自由なあり方を示す手段のひとつがミニスカというだけであって、公機関の制作物に好ましいかは別の話。また、そのカウンターとしての効力が陳腐化している日本では、ミニスカが性表現の固着化につながっているという議論自体は成立すると思う。だから、スカートを伸ばせという議論だったら完全にバックラッシュで笑っちゃうが。
●結論●
今回の件、フェミニストもフェミニズムも関係ないから、目的語を大きくした、批判はやめよう。
ただひたすらにフェミニスト議連のスタンスが時代的に遅れていて、キモいだけ。ラディカルフェミニズムのスタンダードですらない。(性犯罪誘発って言ったのが戸定さんをポルノ認定してて一番ヤバいとこ)
あと、千葉県警はそんな極端な団体の意見なんて聞かずに堂々と動画を復活させてほしい。その上で松戸市議会や千葉県議会で公的機関の表現のあり方を議論した方がいい。
Twitter上で議論が錯綜している、自分の気持ちの理解のためにも、論点を整理してみたい。とにかくめちゃくちゃムカついてるし、フェミニズムを失墜させる最悪な出来事だと思う。
1. フェミニスト議連(地元の市議を含む)という団体が女性を表象した表現に対しどこからOKかという線引きをし、削除を求めることをしていいのか?
自分としては、これはダメだと思う。女性表象云々の問題ではなく、表現規制に対する権力の濫用には反対する立場だからだ。民間から「これはさすがにエロいんじゃない?」とか、市民や県民の多くが異議を唱えるならいいが、議連という県警が忖度する可能性のある立場から、表現の線引きを行うことは非常に危険なことだと考える。表現をどう感じるかは自由だが、議員という立場から物を言うということの重大性を認識するべき。
実際のところ、千葉県警は議連だから忖度したんじゃなくて、「やべ、なんか燃えそうだ。燃える前に消そう!」とか、偉い人から「これ燃えそうだから消しといて」的な話があって消しちゃったという、消すほど燃えるという昨今のデジタル広報の基本を理解してなかっただけだと思うけど。公的な権力からの抗議→取り下げという前例を作ったことは悲しい出来事。
2. 警察という公機関のポスターに、ヘソだしルックの少女を起用すべきなのか否か
→公機関の制作物はどのようなチェック基準でつくられるべきかという問題
個人的には今回のVTuberのデザインはかわいいと思う程度で、女児向けコンテンツに多い表現方法で性的に過度に強調されているとは思えません。
ただ思う人もいるかもしれない。何を公共の場にはふさわしくないとするかは、年齢や住む地域、所属するコミュニティ、時代、そしてそのキャラや個人と地元の関係性によってもだいぶ違う。だからこそ大事なのはガイドラインを定め、市民のコンセンサスを得ながら定期的にアップデートするということなのかもしれない。警察の動画は税金でつくっているのだから。松戸の方々が同意している基準があれば尊重すべきだし、この話は民間での表現や女性自身の表現の自由(ミニスカでヘソだしで街を歩いていいか)とは関係がない。
今回のVTuberさんは地元応援系の方でもあり、良い関係を地元の方と築いてきていた可能性もあるので、それをあまり理解せずに議連が質問状を出したのは市民を置いていきすぎじゃないの?とは感じる(実際はどうかわかりませんが、社長や本人の釈明からはそう感じる)。やはりフェミニスト議連はやりすぎである。
目線を変えて、マーケティング的な観点からすれば今回の動画は若年層向けで、プリキュアやアイカツを見て育ったり、見慣れたりしている世大に向けられたものだと思う。Vtuberというジャンルのタレント起用も、議論になっている見た目も、自分たち向けのものと感じてもらうに機能するものになっていると思う。ターゲットの価値観を無視しているということになれば、フェミニスト議連は相当ナンセンスというか、アップデートが必要な人たちにはなってしまう。
3. 社長も女性、VTuberの中の人も女性、女性の自由な活動をフェミニストが奪っていいのか。
まず社長やVtuber本人が女性かどうかは、あまり重要なイシューではない。ポイントは、フェミニスト議連の"スタンス"にある。スタンスによっては、フェミニストであれ女性を批判することはできる。歴史的に見れば、今回の主張で、フェミニスト議連は、(かなり極端なラディカル)フェミニスト議連ということになる。これは、たとえ女性が自分の意志で着てようが、女性の隷属制などを感じさせるものならば、家父長的な価値観を内在化させていて本当の自分の意思とはいえないから規制してもいいいのだというスタンス。
フェミニスト議連がどれほどフェミニズムに詳しいかは疑問だが、表現規制を推進するラディカルフェミニズムの対象はポルノだ。その際のポルノはただエロいとかそういうことではなく、特定の集団(女性とか女児)が、隷属的だったり性差別的に描かれ、その集団が実被害を被るものということ。今回の質問状から見ても、フェミニスト議連は戸定さんというVtuberの衣装をラディカルフェミニズムの立場からポルノと見ていることが明らか。性犯罪誘発の懸念って言ってるのだから。
この議論はフェミニズムの歴史から見てもあまりスタンダードではない。第二波フェミニズム、1970年代のフェミニストセックス論争でも、表現規制派のラディカルフェミニストと、あくまで実被害のみを批判するリベラルフェミニストで意見が割れた話。なにをポルノにするかは個人の見方だよねという意見が主流になった第三波フェミニズム以降で、局所戦的にラディカルフェミニストが起こしたゲーマーゲート論争でも、売春婦の表現だったり、男性に従属的な露骨な表現が批判されたにすぎない。(その程度でもゲームにポリコレ持ち込むな!と超炎上した)
児童ポルノの規制は実被害の観点から多くの国で採用されているが、キャラクター等創作物に関しては規制しないというのが各国対応の主流なはず。ヘソだしミニスカで若干胸が揺れる程度の女子アニメ的デザインをポルノと認定し、規制をかけに行くのは、ラディカルフェミニズムの立場からしてもかなりかなりかなり極端と言わざるを得ない。この点から「プリキュアやアイカツも似たようなものだろ!」「セーラムーンの方が性的だ!」という疑問はもっともである。戸定さんをポルノと認めたら、世の中のそこら中のキャラクター表現はポルノになる。
もはやフェミニズムは第四波とも言われ、よりヒューマニズム的な側面が強くり、インターセクショナルな視点を取り入れて進化している。バトラー的な女って立場を拠り所にフェミニズムを語ること自体、性の固着化につながってるという議論にもフェミニズムは影響を受けながら、よりさまざまなジェンダーとの連帯も模索しながら進んでいる。
その中で、未だに第二波フェミニズムの残滓のようなフェミニストたちが、「フェミニスト議連」と名乗って、フェミニストの代表かのように振る舞っているのは、日本のフェミニズムの遅れを改めて感じさせる。本物のフェミニストなんてものはいないのだろうが、少なくともかなり古臭く、世界的に見ても相当に極端なラディカルフェミニストたちではある。
「ミニスカはフェミニストが獲得したものだろう!」という批判にはあんまり意味はない。貞淑をよしとする女性的な服装へのカウンターとして誕生したファッションであり、新しい女性の自由なあり方を示す手段のひとつがミニスカというだけであって、公機関の制作物に好ましいかは別の話。また、そのカウンターとしての効力が陳腐化している日本では、ミニスカが性表現の固着化につながっているという議論自体は成立すると思う。だから、スカートを伸ばせという議論だったら完全にバックラッシュで笑っちゃうが。
●結論●
今回の件、フェミニストもフェミニズムも関係ないから、目的語を大きくした、批判はやめよう。
ただひたすらにフェミニスト議連のスタンスが時代的に遅れていて、キモいだけ。ラディカルフェミニズムのスタンダードですらない。(性犯罪誘発って言ったのが戸定さんをポルノ認定してて一番ヤバいとこ)
あと、千葉県警はそんな極端な団体の意見なんて聞かずに堂々と動画を復活させてほしい。その上で松戸市議会や千葉県議会で公的機関の表現のあり方を議論した方がいい。
当方下っ端コンビニ店員。これはあくまで職場でこの煙草を買っていく人はこういう人が多いよというだけの話しなので、見下してる訳でもないのを了承してほしい。
セーラムライトとかゴールデンバットとかほとんど売れない銘柄は除外。なお箇条書きなので見やすさは考慮してないよごめんね!
○メビウス系……老若男女問わず普通に人気なので買っていく人も普通の人がほとんど。一番落ち着いてる。
○マルボロ……メンソールでないやつは若いお兄ちゃんが多い。メンソールやアイスブラストは良くも悪くもイキイキした男女、金髪のキャンキャンした姉ちゃんが多い。
○ピース……おじさん〜おじいちゃんしか買わない。雰囲気は落ち着いた人が多い。
○ピアニッシモ系……ターゲットが女性なので買うのも女性がほとんど。年齢層は割と広い。
○キャメル……メビウスぐらいこれといった特徴がない。買う人もあんまりいない。
○アイコス等加熱式タバコ系……これも老若男女幅広くって感じ。ただアイコスでいうイエローメンソールとかオレンジ色のやつとかは若い姉ちゃん多め。
○セブンスター……現場作業系の人が多いかなーぐらいでメビウスぐらい特徴がない。
○ラーク……サラリーマンが気持ち多いかも程度。あとはおつかいで来てるっぽい主婦の人とか。基本はおじさん。
○ウィンストン……キャスター率高くほぼおじいちゃん。そしてウィンストンと呼ばれることが少ない。
○クール……若いお兄ちゃん多めなぐらい。ペンギンがかいてあるやつかわいい。
○アメスピ……うちだと年齢層の低さと客の雰囲気はマルボロメンソールぐらいだけど荒っぽい人はいない。
○ケント……ほぼメビウスみたいなもんだと思っているしこっちも客層広い。カートン買いしていく人が割と多い。
○ラッキーストライク……ベージュ地に赤丸がついた方は渋い見た目したお兄さんが多め。青い方やメンソールはそんなに特徴なし。
○わかば・エコー……ほぼ50以上のおじさんかおじいちゃんだけど女性も買う人は買う。安かろう悪かろう商品だからなのか、正直客層はそれほどよくない。
以下はその他思ってたこと
○……「君未成年だよね?」って見た目の男の子はだいたいメビウスメンソール系かマルボロメンソールを選ぶ。そして大抵店員と目を合わせようとしないか、無駄に店内を回ってから来たりするのでわかりやすい。しかし何故か懲りずに来る。多分他の店員が確認サボってるんだろうな。
○……ウィンストンは元々別銘柄だったキャビンとキャスターを統合させたようなものなので、それぞれの名前は残ってるけどウィンストンキャスターとかそういう名前になってる。なのでウィンストン1ミリとだけ言われると、キャビンなのかキャスターなのかわからんので少し困る。
○……セブンスターをセッターと言ったりマルボロを赤マルという人はそんなにいない。けれど過去にアイスブラストのことをアイブラと呼んでるお姉さんがいたけど正直ださいと思っている。
○……お客さんがほしい銘柄を言った時、特に指定がなければ一箱持っていく(常連さんでたまに複数買う人なんかは個数を聞く)。おばちゃんに多いのだが、カウンターに戻ってきてからカートンでと言われると普通に面倒なのでカートンが欲しいなら最初から言ってほしい。
○……おつかいで来てるであろうおばちゃん〜おばあちゃん。頼まれた銘柄がよくわからなくて…って時はこちらも出来る限りのことはするが、レジが混んでる時だけはやめてくれよな!相方の人に片方レジ開けてもらっても追いつかない時あるから…
「思考停止」というタイトルにしたのは沢山の人に見てほしくて、煽りも含めてつけました。
結果、沢山の人には見てもらえたけど、ここに突っかかって議論が違う方向にいってしまったことは反省してます。
また、ブコメやツイッターは文字数制限や文化から短文で「また変なのが騒いでる」とか「なんでも規制するな」みたいに、問題の表面だけ見てコメントして終わっている人が多いと感じたからです。
(最近のネットにありがちな悪なら無条件に叩いても良いという雰囲気とあいまって余計にそう感じてしまったところがあります)
また「性的消費」という言葉が全てまとめてしまい、伝わりにくい表現にしてしまったことも私の落ち度です。
文章が長くなりすぎないように、便利な言葉として使ってしまいました。
また、文章が全体的に感情的になりすぎてたなーと、二晩寝て落ち着きました。
質問リストを更新しようかと思いましたが、AはNGでBはOKなの?じゃあCはどうなの?と水掛け論が加速するだけなのでやめました。(そこを議論したいわけではないからです。答えることで相互理解のきっかけが生まれる可能性はあるが、そして媒体として無理があります)
結局、言いたかったこととしては「現代社会はまだまだ男社会であり、女性は生きにくい」に集約されます。
時代の流れとともに変わってきているとはおもいますが、まだまだ女性は「男性に選ばれる性」から抜け出せていない。
(こう書くと、いやキモ男は女性から排除されてる!選んだことなんてない!といわれそうなんですが、男性の生きづらさについては後述するので今は置いておいてください)
だからこそ
「女性の少しくらいエッチな絵を公的の場に置いてもいいだろう、その方が男性が楽しいし」「これくらいのことをいちいち気にする女性は付き合いにくいな、君はそうじゃないよね?」
「こんな小さなことで文句を言ったら男性に煙たがられ、男社会では損をするからやめておこう」「男社会で得をする為には、男性に媚びるしかないんだな、これは仕方のないことなんだから諦めよう」
という男社会を迎合するようになっている図に危機感を感じています。
女性間のしがらみとか、全てとは言いませんが男社会によって形成されている部分もあると思います。
また女性らしさを武器に、男社会をうまく生き抜く術を努力して身に着けている女性がいるのもわかります。
だからこそ「男性に媚びることができない自分が悪いんだ」「男社会で得をしている女性に嫉妬する自分が間違っているんだ」と、ずっと苦しかった。
例として「男性をたてることが良い女性です」という本や記事は世の中にあふれていますよね?
そういった男社会を当たり前のこととして肯定する文化に疲弊していたことに、気づいたんです。
「男性をたてること」の中に広義にはなってしまいますが、今回の「男性受けのする性的魅力を誇張した絵を公的な場に設置することに対して【これは普通の表現です】と、違和感を唱えないことが良いとされる」事に反論したかったんです。
今回は女性の話を書きましたが、同様に女性とは違った、男性の生きづらさも存在してると認識しています。
それは否定しないし、もっと言語化して主張したほうが良いと思います(この場は女性の生きづらさを主張したいので、違うところでお願いしたいですが)
私は長いこと、女はイージーモードと言われるけど、男の方がイージーモードじゃん!と思ってました。
そして、女性では傷つかないようなところで傷ついている部分があったからです。
それからは、なるほど今の世の中は男性も生きづらいんだな、と思えるようになりました。
だからこそ、男性にも女性の生きづらさがどこから生まれ、どのように傷ついているのか知ってほしかった。
本当は世の中の判断基準が男性だから、女性だから、ではなくて「人間だから」になってほしい。
「気遣いができるなんて女性的ですね」ではなく「気遣いができる優しい人ですね」
「男性は頼りになりますね」ではなく「しっかりしていて信頼できる人ですね」
というように人間性を評価してもらえると、お互いの性的役割に縛られる苦しみが緩和されるんじゃないかと思っています。
今まで傷ついてきた人たちが我慢することで成り立っていた社会がかわってほしい。
それは新たに誰かが傷つく社会ではなく、時代に沿った落としどころを見つけられる社会です。
お互いの落としどころを知るためには、まずお互いのことを知る必要があると思います。
なので傷ついている人たちのことも知ってほしくて書きました。
普段はエロい!良いですね!とコメントしているのに対し、こういう問題になると「この絵は性的には見えないけど?」と急に真顔になる理由が私にはわかりませんでした。
だからこそ、疑問を感じていました。
一番納得がいったのは、この程度の表現が規制対象になったら、いずれは書店などからも規制されてしまう恐れがあるから、性的と認めるわけにはいかない、でした。
実際、書店に並ぶのも嫌!という主張も知っているのでわかります。
そういう人には、まだこちらからの説明が足りていないんだなーとは思います(聞きたくないかもしれないですが)
あと「輸血が必要な人のことを考えていない」とうのはそのとおりです、すみません。
輸血を必要としているひとは、献血してくれる人が増える事が一番大切ですよね。
その人たちに対して目が向いてませんでした。
だからといって、私の意見を取り下げるということはないのですが(規制したいわけではないので)配慮ができていなかったことは事実です。
追記終わり、以下原文
↓↓↓↓↓
ただ、男女ともにこのような表現を許容することが、現在の「女性が性的に消費される苦痛」の温床になっていることを知ってほしい。
性的に消費されることの苦痛を男性にわかってもらうのって難しい事だと思ってます。
性的に消費されることを受け入れている女性もまた、私のような事をいちいち言う存在は煩いことでしょう。(でも、煩いと感じるということは、性的に消費されることで傷ついた事があるからではないでしょうか)
キモい、エロいのが駄目なんでしょ、お気持ち案件、と言われるのが耐えられず長文を書きました。
献血という公的な場で、女性を性的に見ることを許容する描かれ方をしている点です。
胸を平均的な大きさにしたとしても、身体のラインそのままの衣装や、アヘ顔とも取れる表情やポーズが残ります。
つまり、イラスト全体が女性を性的に見ており、またイラストの女性もそれを許容している表現が公的な場に相応しくない、と言いたいのです。
女性を性的に消費する事は普通の事なんだよ、という教えが公的の場におかれていることが問題なんです。
当たり前のように世の中にあったら、それが当たり前なんだ(文句を言う方がナンセンスなんだ)と思ってしまいませんか?
若い頃からそういった環境に身をおいていると、段々感覚が麻痺してしまいます。
男性向け雑誌など、意図がある媒体で表現されているのは問題ないです。
男性向け、という意図があるので、当たり前なんだ、とはなりにくいです。
女性を性的に消費する絵が公的の場に置かれ、許容されている事が問題なのです。
現実の巨乳の人は公的な場で、性的に見られることを許容していませんよ。
その服が巨乳を強調するようなものだったとしても、その人が良いと思って着ているのであって、男性に消費されたくて着ている訳じゃないです(あくまで公的な場では)
ワンピースの女性キャラの胸も大きく描かれていますが、公的な場で性的に消費されることを許容するようなポーズをとったイラストが使われることはないですよ。
作中でお色気シーンがあるのはストーリー上の意図があるので今回の問題には当てはまりません。
セーラームーンは女性の為のコンテンツであり、性的に消費されることを許容するようなイラストなどは無いと思いますが…。
女性の強さ、美しさなどを表現している作品で、男性に媚びるような意図はないと思います。
大きいお友達がセーラームーンの衣装を見て、エロいことを考えるのは別に良いのです。
エロいと思っても、公的な場で女性向けに展開されているコンテンツに対して「セーラー服で戦う女性ってエロいよな!」とは発言しないですよね?
(セーラームーンを男は読むな、とかそういうのではないですよ。)
エロではなく、女性を性的に消費する絵を許容することが駄目なのです。
女性らしさや、女性の美しさを表しているだけのものは問題ありません。(モデルさんの水着姿など)
私もオタクなので、表現が規制されることに怯える気持ちはわかります。
受け手にとって都合の良い表現を生活の糧にしている気持ちもわかります。
そういうものを、見たい人が自分で選択して見ることは良いことだと思います。
ただ、公的な場において公的なコンテンツですよ、と展開されていることが問題なのです。
小さい頃からのこういった刷り込みで「女性は性的に消費しても怒らない存在なんだ」「女性は性的に消費されるのは当たり前の事だから怒ってはいけないんだ」という意識が少しずつ形成されていくと思っています。それを危惧しています。
今までは許されてきたことなので、感覚が麻痺してしまうのもわかります。
実際、私も数年前までは何が問題かわかっていませんでした。
感情論にせず、言語化して訴える人がまだまだ少ないからだと思います。
こういう絵を公的な場で起用しても女性は怒らないと思われているんですよ。
些細なことだとは思うし、今までのように目を逸らしてやり過ごすこともできます。
・この間まではバイトも日常生活も溌剌として送れていたんだけど、最近はよく寝ても疲れが取れない。
・シフトを増やしたがよりによって金曜日にシフト入れたのは大失敗だったきがするw
死ぬほど忙しすぎわろた。
・でも暇よりはいいんだ。忙しい時はずっとレジ打ってればいいんだから。
・バイトを始めたての頃(4月下旬)、お酒といっしょにサラダチキンや揚げ玉を買っていくお客様がしばしばおられたけど最近はあんまり。あの頃はチキンと揚げ玉でおつまみを作るのが流行ってたか何か?
・バイトを始めたての頃、半数のお客様がクレカか電子マネーでお支払することに驚いたのだけど、今もそういう感じ。
ただ、以前はiDとQUICPay多めだったのに最近はiDとEdy多めなんだけど気のせいかもしれない。あと、au walletカード多い。
・そういえばバキバキに割れたカードをテープで貼ったやつを使っているお客様がいらっしゃるんだけど、さすがにそのカードもう寿命じゃねえかなって内心思ってるけど言わない。
・鰻のシーズンだけど全く推していない。申込書はお店の片隅にそっと置かれているけれど。
・タバコでもっとも注文受けたくないのがメビウスのシリーズ。種類があまりにも多すぎる!
・なのにメビウスをおもとめになるお客様に限って、自分の欲しい箱の名前を覚えてないんだよ!!
あと、番号で言いたがらないしね(たぶん遠くて見えないんだと思うけど)
・十数年前、水商売のバイトをしてた時は店に常時置いてあるタバコといったら、セブンスター、わかば、ラッキーストライク、セーラム、ラークマルボロなどだった覚えがあるんだが、今はそれらはあまり売れてない感じがする。
・スピリットって初めて見て特徴的なパッケージですぐ覚えたけど、へーこんなん吸う人いるの?って思ったが、売れるわー。
・日系ブラジル人小銭持ってきすぎ問題はほんとどうにかしてくれ!
・中東系のお客様はプリカなどで支払う事が多いので、ブラジル人が小銭持ちすぎなのは英語力の問題なのではないかって気がした。プリカの説明をポルトガル語で書いて店頭に貼っとけばいいんじゃないかなあ。
『けものフレンズ』の面白さの本質は、ガイナックス的なアニメの価値観から抜け出しているところにある。
少し補足すると「抜け出している」という意味は、ある価値観に反発したり、故意に避けたり、過剰に抑圧したりすることではない。一例を挙げると「あんなクズな父親のような人間には絶対にならない!」と考えることはすでに父親の重力に捉えられている、ということだ。
もうひとつの「ガイナックス的なアニメの価値観」は少し複雑だ。細部へのフェティッシュなこだわり、現場のいぶし銀の技術者、ひとつの生物のように有機的に躍動する集団、学校文化と官僚システム/軍組織への熱い礼賛、マスメディアやと民主主義への蔑視……古い世代のアニメオタクの王道ど真ん中の価値観。この価値観の根底には「責任のとらなさ」がある。これについては後述したい。
私自身、『けものフレンズ』は話題になっているのをtwitterで見て、5話くらいから興味を持った後追い組のひとりだ。徐々にハマり、最後にはとても感動した。けれども、しばらくたってもその面白さをまったく言葉にできないことに気づいた。まるで「解」だけが前触れなく控えめに差し出されたようだった。この困惑について、福原慶匡プロデューサーもインタビューで語っている。
「皆さんも、なぜ魅力を感じるのか、はっきりとは言語化できてないと思うんです。食べ物でも、なぜかクセになっちゃうみたいなものってあるじゃないですか(中略)というのも、僕が5年前にその感覚を経験しているんですよね(笑)」http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20170327/E1490547358865.html
放送終了後、ネット上でいくつか探してみたが「大ヒットの理由」や「エヴァとの共通点」などIQの下がる批評しか見当たらなかった。その清新さや核心について書かれているものは無かった。自分で分析してみてもやはりわからない。一見すると『けものフレンズ』は、パワプロで喩えるなら「オールBでよくわからない特殊能力がたくさん付いている外野手」だ。ツッコミどころがあるようで、よくよく見ていくと隙がない。(あくまでも「一見すると」であり、構成についてはほんとに素晴らしい。監督自身は「怪我の功名」と謙遜するアライさんパートは発明と言っていいぐらいだ)
たつき監督の過去作を見ていくと、クオリティをまんべんなく上げた作品を作るというスタイルは昔から共通しているようだ。『けものフレンズ』では登場キャラクターの紹介とストーリー展開を均等に進め、両者が高いレベルで一体になることを目指したという。インタビュー記事「最終話放送直前! アニメを作るのが得意なフレンズ、たつき監督に『けものフレンズ』の“すごーい!”ところを聞いてみた!!」(以下、「最終話直前インタビュー」)ではこう話している。
「「キャラ先論」「話先論」があると思うんです。そこをまったく同じパーセンテージか、行き来をすごく増やして、キャラ優先なのか、お話優先なのか、わからないレベルでその2つが有機接合できるといいなと考えていました」http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12855680/
ところで、仕事でも3Dアニメを作り、休みの日も3Dアニメを作っているというたつき監督だが自主制作アニメ『眼鏡』発表後の2010年に行われたインタビューでは興味深いことを語っている。ここに一部抜粋したい。
―― アニメはお好きなんですか。
たつき 大学時代に「アニメ作りたいわー!」とか思い出したころからちょいちょい見だしたんですよね。
―― 「すごいアニメ好き」みたいな感じじゃないんですね。そもそもアニメをあんまり見てなかったのに、なぜアニメを作ろうと?
たつき アートアニメみたいなものは学校で見させられていたんですけど、もっと俗っぽいほうがいいなと思って「眼鏡」を作りました。http://ascii.jp/elem/000/000/532/532388/index-3.html
本人の発言を鵜呑みにするわけにもいかないが、そう質問せざるを得ないなにかを質問者も感じたのだろう。確かに『けものフレンズ』は熱心なアニオタが作ったアニメという感じはしない。1話の出会いシーンと休憩のシーンが例外に思えるほど性を表現すること行わない。その他ではペンギンの脚やカワウソのケツぐらいだ。もちろん全年齢向けというコンセプトもあるだろうし、動物と人間という認識の違いに厳密に取り組んでいることもある。だが、繰り返し見てもそこに「ほんとはエロくしたいけど抑えよう」や、「萌えを感じさせよう」などという作為が感じられない。肩の力が抜けているというか、監督の視線が別のところを見ているような奇妙な感覚があるのだ。
話題にもなったペンギンの脚については「最終話直前インタビュー」で、こだわったポイントは肉づきであり、それは未だ言語化できていないパラメーターと語っている。やはり焦点が別のところに当てられているようだ。このたつき監督独特の感覚について、チームの中では「ガラパゴス的」「ほどよく鎖国している」「天然」(「最終話直前インタビュー」)と表現されている。
たつき監督の制作に対するスタイルがかすかに見えてきたが、根本的なところ、なぜ面白いのか、なにが新しいのか、どこが違うのかが一向にわからない。繰り返し観ても「サーバルちゃんかわいい」「言われるも!」以外にこの作品を語る言葉は見つからなかった。
そんな時『シン・ゴジラ』についてのツイートがたまたま視界に入ってきた。ああ、あの作品は私にとって全然ダメだったな、なぜってあれはオタクのウェーイだったから。だから受け入れられなかった……だから『けものフレンズ』は良かったのか。本来なら過去や同時期に放送された作品に触れ、その違いを論じることで導き出すのが正統な論証だろう。だがここでは『シン・ゴジラ』を補助線に引くことでショトカしたい。
『シン・ゴジラ』はあの庵野秀明監督による作品だ。詳細は割愛しよう。宮台真司の批判とか概ね同意だ。私がアレルギー反応のような拒否反応をおこしてしまったのは別の部分になる。同作でも、指揮命令系統のフェティッシュともいえる再現、圧縮された膨大な情報量、巨大な生物のようにフル回転する官僚機構がたっぷりと描かれる。ああ庵野秀明だ、ああガイナックスだと感じた人も多いだろう。ただ、結構な面積が焼き払われ、放射能に汚染され、東京の中心で彫像のように固まったゴジラが実写として映し出されるとシニカルな感想も浮かぶ。「想定外の天災」とはいえ主要な登場人物はなんの責任も取らないだろうな、“庵野秀明だから”。
ガイナックスや庵野秀明に代表される彼らが、凝縮し、エッセンスを取り出し、世に提示してきた価値観。古い世代のオタクの王道ど真ん中の価値観。そこには、新兵器があるなら使おう、ボタンがあるなら押そう、ロケットがあるなら飛ばそう、人類補完計画があるなら発動させよう……後は野となれ山となれだ、という姿勢がその根本にある。責任の取らなさ。それが露出してしまうと、フェティッシュに埋め尽くされた119分はオタクが「ウェーイ!」とはしゃいでいるようにしか見えなくなる。
新しい爆弾が作れるなら作りたい、作ったなら使ってみたい。そういう欲望はギークな価値観として近代には普遍的にあるものだろう。それは責任とセットになっていなければ極めて危うい。『ジュラシックパーク』(1作目)に出てくるでぶが度し難いように。『シン・ゴジラ』の官僚たちは誰一人弾劾されず、断罪されずスムーズに復興へ移っていくだろう。彼らの合理性なら、半減期が2週間なら翌月から暮らすことができるだろう。三権が一体化した効率の良い行政システムを築くだろう。責任を切り捨てたからこそ、フェティッシュの興奮に耽溺できたのだ。棄てられた責任は野ざらしにされ担う者はいない。
2000年代、2010年代のアニメにおいてもガイナックス的な価値観は揺るいでいない。おそらくこんな声が聞こえるだろう。「『ハルヒ』は?『らき☆すた』は?『けいおん』は?『まどマギ』は?『化物語』は?日常系を無視するなとんでもない!“大きな物語”をまだ求めるのか?!」このあたりはもっとその分野に詳しい人の評論を待ちたいと思う。私の見立てでは、それらは(主に女性の)キャラクターについてのフェティッシュを深めたにすぎず、逸脱はしていない。フェティッシュに注力すればするほど与えられた価値観の中での反復行為となり、自らをその価値観の内部に限定させるという結果を生む。そして、目を背けた価値観そのものは形骸化しながらもしっかりと保存され、視聴者を貴族的な愉しみという隘路に導く。
もし汲々とした再生産のサイクルの中にどっぷり浸かった人なら、そこから抜け出すには並々ならぬ苦闘と意志が必要だ。たつき監督にはそうした努力は必要なかっただろう。『けものフレンズ』は最初から“できている”。
これは自由の味だ。
ジャパリパークではフレンズたちは当たり前のように責任を持ち、細部へのこだわりは新しい領域に向けられているがそれ自体に耽溺していない。古い価値観を超えるものを作ろうとして頑張った結果やっとできた、ということではなく、初めからそうした問題意識そのものが存在していないかのように新しい価値観を持っている。それほどあまりに自然に表現された作品として我々の前に現れた。
可能にしたのは主に3つの要素からなる。「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」。この3つは密接に関係している。「手書きには温もりがある」という言説は否定できないが、大勢が1枚1枚セルに色を塗るという時代ではなく、1人である程度は全部作れる3DCGという環境がたつき監督にとって不可欠なものだったことは想像難くない(実際はirodori時代から分業していたことはブログからも伺えるが、作業量や機材を比較して)。Wikipedia情報によると、彼はサンライズ作品のCGを担当することで商業的なキャリアをスタートさせ、以降手がけた仕事は一貫してCG関係だ。これがもし手書きのスタッフとしての参加なら、今の形の『けものフレンズ』は存在しなかったし、たつき監督もおそらく従来の価値観に染まっていただろう。
3DCG上で現在主流の2Dの表現をそのまま再現することは難しい。「不気味の谷現象」ではないが、3DCGから2Dアニメに寄せようとすれば違和感が増え、それを克服するためには新しいアプローチが必要になる。たつき監督はレイアウト(構図というよりも画角)の段階からキャラクターの正面を巧みに演出し、同時に正面ばかりで飽きさせないように一話一話を構成することでこの問題に挑んでいる。技術的な分野における刷新、さらに強く言えば断絶。これにより従来のアニメ表現から自然と距離をとることができたことは『けものフレンズ』にとって幸運なことだった。
次にバランス感覚が挙げられる。たつき監督のスタイルにも作品の全てをコントロールしたいという欲望が見える。映像作家としてこうした欲望は一般的なものだ。ただ、「監督、コンテ、演出、シリーズ構成、脚本・たつき」と商業アニメで網羅しているのは尋常ではない(脚本についてはWikipediaの項目を参考にした)。福原Pは、その秘訣はレイアウトからビデオコンテ、セリフ、声の仮当て、声優への細かな演技指導、修正、差し替え、調整という全ての作業をやりつつも「作業のカロリー計算ができる」ことだと語っている。
「そこらへんはプレスコで作ってきた『てさぐれ!部活もの』の経験が活きていると思います。たつき君はその場のグルーヴ感で「これはやったほうがいい」と思ったら作業しちゃうんです。その後のカロリー計算も、しっかりできる人」
http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395
「北風がバイキングを作った」ではないが、繁忙期は1ヵ月ほぼ泊まり込みだったという『てさぐれ!』における過酷な進行がたつき監督を鍛え上げたことは間違いない。余談だが、ファンによるスタッフロールの解析やたつき監督のTwitterでの発言から、『てさぐれ!』2期からirodoriメンバーを関西から呼び寄せたようだ。一部で話題になった出来事もこのあたりに遠因があるのかもしれない。閑話休題。
福原Pの言うカロリー計算とは、「作業量」と「かかる時間」と「納期まで時間」を正しく見積もることができるという意味だ。結果、各話を見ても全体を通して見てもまったく破綻していないばかりか、各話のバランス、全体のバランスがとても良い。ほとんどの工程にアクセスし、手を入れ、なおかつどこか一場面に片寄っていないということは特筆すべき能力だ。このバランス感覚はミクロの視点とマクロの視点、ミクロの作業とマクロの作業の両セットを備えていないと成り立たないものだろう。シナリオ含め、一貫してたつき監督の思想が反映された『けものフレンズ』。そこでは、「美少女の細部にひたすら耽溺したい」というような偏ったフレームは分解され、ごく抑制の効いたボリューム/表現としてバランスが整った形で配置されることになる。
最後は、アニメばかりを見ていないアニメ監督。これは富野由悠季が公言し宮﨑駿も暗に語る「アニオタが作るアニメはつまらない」という言葉の裏返しである。たつき監督がケニア育ちだったから、というわけではないが本人の発言ではアニメを「ちょいちょい」見るようになったのは大学で「アニメを作りたい」と思った頃からだという。この時点で「東浩紀は『セーラムーン』をリアルタイムで観ていなかったニワカ」とディスられたレベルでのガチのアニオタではないとも言えるが、ここではirodori制作の短編を元に検証してみたい。
1作目『眼鏡』にあるのはメガネ萌えの主人公、エヴァ風ギミック、NARUTO風アクション、ジョジョネタ(格闘ゲーム版)、東方という、既視感のあるオタネタだ。テンポの良さやオチの付け方など評価できるポイントはあるが、お約束というメタ設定(いくら殴られても負傷しない、カエルが空を飛ぶ、怒りで異形化、いくらでも撃てる弾薬など)のあしらい方はごく普通のオタクが価値観を共有している人向けに作った短編という印象だ。
続く『たれまゆ』では全体的にパステルカラーでキャラクターの柔らかい描写に取り組んだことが見て取れる。手描きによる2Dアニメで制作され、架空の田舎の超常的儀式を通して小さな世界が描かれる。しかし、作業コストが高かったのか、合わなかったのかこの後は2D手書き手法は行われていない。
第三弾『ケムリクサ』では再びソリッドな3DCGに戻る。NARUTO風のアクションはレベルアップし、設定も作り込まれている。リナちゃんズと呼ばれる5人の可愛らしさと非ー人間ぽさには独特の魅力がある。『眼鏡』のようにネタをそのままネタとして扱うことはなくなり、説明は最低限。たつき監督の作家性の輪郭がはっきり見えだした時期だろう。30分弱の作品にかかわらず、構成やカット割りに無駄がなくかなり洗練されている。しかし、完成度の高さと裏腹に、注目を集めた『眼鏡』よりも再生数や評価は低調だった。ニコニコ動画の過去のコメントを見ると『眼鏡』の軽いパロディのノリを期待する声が多く、制作側としては不本意な結果だったのではないだろうか。ここでは、1作目でふんだんに盛り込んだパロディで注目を集め、2作目では手描きアニメに挑戦。結果、手描きからは撤退し3作目では3DCGでストイックな作品に挑戦したという流れを指摘するに留めたい。
4作目となる『らすとおんみょう』は福原Pと出会うきっかけとなった作品と言われているが、1話を作ったのみで未完となっている。女性のキャラクターの表情はまた一段レベルアップしており、3DCGの中で2Dアニメ表現に歩み寄りたいという制作者の努力が見て取れる。何がこの作品を放棄させたのかは推測でしか語れない。多忙となったためや、異国の魔女と「適当だけど超強い男子中学生っぽい陰陽師(の下請け?)」が子作りするという設定に着地が見出だせなかったのではないかと思われる。現在残された多くの断片からは具体的な落としどころは示されていない。同作はいわゆるハーレムものの構造を取っており、一方でたつき監督の描く萌えはごく控えめだからだ。
5作目となる『のための』はirodoriとして最後の自主制作作品となった駅長さんシリーズ。できあがった時期は前出の『てさぐれ!』の激動を超え、プロフェッショナルとして確立した後になる。正確には『らすとおんみょう』より前に断片的な映像が出ていたが途中に長い中断があり、実質的に『てさぐれ』後に作られたものとみなすことができる。時系列で書くと2012年に2年がかりで『ケムリクサ』が完成。2013年前半に『らすとおんみょう』(1話)。2013年後半から2015年まで『てさぐれ!』シリーズ。2016年8月末に『のための』が『駅長さん フル版』(以下、『駅長さん』と便宜的に表記する)として完成した。この作品は5分という短い時間ながらプロの仕事というべきものだ。目が描かれていない駅長さんの動く姿には、これまでに向上した技術が昇華されシンプルな姿で完成している。
ここで「アニオタの作るアニメ」(以下、オタアニメ)の定義について考えてみよう。もちろん厳密な定義などできようもないが、本文章が求める要件は「特定の層だけをまなざしている作品」であり、具体的には「アニオタ視聴者を満足させることを目的とした作品」である。たつき監督は『眼鏡』では明白にオタアニメを目指し、続く『たれまゆ』では本格的に手描き2Dを試み、より迫ろうとした。ここで最初の転機が訪れる。手描きという手法があまりにハイカロリーだったからか、ここでこの方向は放棄された。なろうと思っていたがなれなかったのだ。以降、アニオタ視聴者をメインの観客に据えることはなくなり、アニメばかりを見ていないアニメ監督として本来の姿、幅広い層へアプローチする道を歩むことになる。
『ケムリクサ』の段階で3DCGによる手法に迷いはなくなり、削られたカットからも抑制の効いた演出を志向していることが見て取れる。この作品から作風が変わったようにみえるのはテーマがシリアスだからだ、という批判も予測されるが「ストーリーがシリアスになる=オタクに媚びていない」という短絡は採用しない。実際、表向きはオタク向けの作品ではないと装いながら水面下で「今回はこういう感じで行くのでひとつよろしく、へへへ」と、メタ構造(オタアニメにおけるお約束の構造)やメタ構造を逆手に取った仕掛けを差し出すという交渉を行う作品は実に多い。同時に「まったくオタクに媚びてませんよ」という宣言は、冒頭に挙げた父親の比喩と等しく、オタアニメの枠組みから実は一歩も踏み出していない。『ケムリクサ』では前2作であえて“なろう”とした努力が消えている。木の枝が河に落ちるように自然に、観客と交わす密約もなく、反発もなく、媚びていない。ピンポイントに評価される層よりも広い範囲をまなざしている。『眼鏡』よりクオリティは高いにも関わらず受け入れられなかったことは間接的な傍証になるだろう。
『らすとおんみょう』ではその揺り戻しといえる現象が起こっている。ギャグがテーマとTwitterで発言しているが、いかにもオタアニメという構造(そのままアフタヌーンあたりで掲載されても不思議はない)にチャレンジするも1話を完成させた後に頓挫。理由は色々考えられるが、これまで見てきた通りハーレムものの企画自体がたつき監督に合わなかったと考えるのが妥当だろう。この時期が2度目の転機になる。ある程度スタイルが固まったのだ。それは『ケムリクサ』で表現されたスタイルの延長にありジャパリパークへ続く道だ。キャラクターに瞳を描くことさえ取り止めた『駅長さん』は『らすとおんみょう』の続きは作らないという静かな意思表明とも受け取ることができる。
再び繰り返しておきたいのは「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」この3つはどれかひとつが先立つものではなく、お互いに深く関連しており不可分なものだ。『けものフレンズ』ではこの全ての要素が花開いている。この作品に超絶的な技巧が込められた作画や、ぴちぴちとした美少女あるいは美男子を求めることはできない。あるのはサバンナに向けて開かれたような、開け放たれた窓だ。振り返ると、室内にはエヴァ以降20年にわたる作品がある。時代を代表する色褪せない傑作もあるだろう。でも、もう昔の作品だ。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、清々しい朝日に貫かれた後では、戸惑いつつも思い知らされるのだ。どれだけ偏狭な価値観に縛られていたか。こんなにもこだわっていたものは汲々としていたか。自由とはこういうことだったのかと。
自由の味。開放されるということは、決定的に変わってしまうということでもある。一度開放されたことを理解してしまうと、重さの無いなにかが失われてしまい、二度と戻ってはこない。それを無視して、例えば「エヴァ風けもフレ」というように馴染みのある文脈に引きずりこみ安心することもできる。「ローエンドなCGでもいいものは作れるんですよ」と心の平穏を装うこともできる。でも、そういうことはもうやめにしよう。『けものフレンズ』はこの20年間潜在的に待ち望まれていたアニメばかりを見ていない監督によって作られたアニメなのだ。その面白さの本質は、ガイナックス的なアニメの価値観とは別の場所に立っていることによるのだ。私はたつき監督の成果に最大限の賛辞を贈りたい。素晴らしい作品をありがとう。
ただ、アニメを見る目がこれまでとは違ったものになったことは少し寂しく感じてしまう。世に次々と出てくる新しい作品がどれだけ面白くても、それらが“過去の遺跡の新作”ならばそれだけで手放しで楽しめなくなったからだ。つまり、ちょっとした困難をかかえこんでしまったことになる。でもそんな心配はあまり気にする必要はないのかもしれない。なぜなら、すでに誰かが言っていたようなのだ。困難は群れで分け合えと。