はてなキーワード: 真逆にとは
女風呂や女子トイレに入ろうとするトランス女性なんていません!にしても
トランス当事者が風呂やトイレから自撮り写真アップしたり、20分で性同一性障害診断書をゲットって動画作ったり、すぐ取れる病院情報ネットで共有したり、試しに性同一性障害じゃない記者が取りに行ったら20分で取れたりしてるのに。
挙げ句に、即日取れる病院があるって突っ込まれて、すぐ取れるならそれはとてもいいことです!とか言い出したり。
JKローリング叩きにしても、彼女はトランス界隈が身体女を生理のある人と呼ぶことに異を唱えたせいで差別者のレッテル貼られたのに、JKローリングが女は生理のある人と呼んだ!って真逆に拡散して叩いてるし。
逆にしてるってことはトランスたちの呼び方には問題があり突っ込んだローリングには問題がないってわかってるってことなのに、何であんなに執拗に攻撃するの?
信頼できないにもほどがあるわ、何なのあの人たち。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210810181919
https://web.archive.org/web/20210810225700/https://anond.hatelabo.jp/20210810181919
原著の刊行は71年、当時の部落解放同盟書記長の中山氏とともに長野県内の被差別部落の古老たちを訪れて聞きとり調査したもので、現代よりずっと差別が苛烈で激しかった時代や大正デモクラシーの波にのった解放運動の記憶もまだ生々しく覚えている人が多く、本当に大変貴重な証言ばかりだった。
(まず基礎知識ですけど、部落をよく知らない人はなんとなくイメージで、関西にしか無い、関東は関係ないと漠然と思っている人が多いみたいですが(私もそうでした)葬儀や処刑人、農村で使ってる牛馬の解体処理など死に関わる仕事(ケガレの仕事)全般を請け負っているので、基本的にどこにでもある(最北端は旧松前藩あたり、最南端は奄美大島らしい)。私も北海道には存在しないと思っていたが間違いのようです)(被差別部落の中でも同和事業を適用される同和指定地区をうけなかった地区も多いのがこのような認識を生んだ理由でしょうか)
この本はまず信仰の話から始まるんだけど極貧の生活のためか日頃より信仰心が篤いのに死んだら畜生と同じ埋葬方法で墓が作られても墓地の北側の日のあたんねえ所とか、雑で差別的な戒名つけられたり、それでも檀代は一般(部落外)より高い額ふんだくられてたりもうさんざんで、序盤からひどい話ばっかりなんだけどこのあともひどすぎてこれがジャブ程度に思えてくる。長野といえば教育県を掲げているけど部落民は一般と同じ学校に行かせてもらえない、行かせてもらえても徹底的なイジメが待っている、教師すら[チョオリッポをチョオリッポと呼んで何が悪い]と差別に荷担する。さらに生活苦ゆえに家の仕事を手伝わなくてはいけないといった理由も加わってまともに学校通った人の方が珍しくて、聞き取り対象の老人のなかにはいまだに文盲の者も少なくない。それから公衆浴場も別々で回り風呂といって運搬が可能なお風呂が部落じゅうを回ったりしてたらしい。ケガレの仕事だけでなく、今でいう巡査や牢屋の見張りのような危険な仕事を押し付けられたり、農家の手が足りないときだけ日雇い従事したり季節労働をやったり等収入が安定しない..
もう要するに公権力が徹底的にそうやって差をつけている。また、同じ人間であると思わせないためか、部落民は睾丸が四つある、あばらが足りない、血の色が違うなどいわれのない身体的特徴をでっちあげられてそれを理由に侮蔑される。今でこそ誰もが馬鹿馬鹿しいとわかるけどこんなことが真剣に信じられていたんである。
それから今でこそ同和事業で部落のインフラが整備されて、見かけは一般と変わらない町並みになり、住民の流出・流入が容易になり、その結果元々部落だったと知らずに引っ越してきてずっと知らない人などたくさんいるけど、明治の末ごろの話だけど比較的裕福だった部落の老人が一般の大通りに家を建てたら村じゅう大騒ぎになって、
村役場が主導して執拗な嫌がらせを開始。果ては物理的に家ぶっ壊されて(!)老人は訴訟をするけど村役場が殺し屋を差し向けてきたり費用の問題などで訴訟断念するしか無かったらしい。役人が殺し屋を雇う???????????????? ???????
明治といえばその初頭に四民平等令、部落解放令がやっと出た時代なのに..この解放令ってやつもうほっとんど意味なくて、差別は続いて、でも以前は免除されていた税金が一般と同じように徴収されるようになっていっそう生活が苦しくなっただけらしい..てかまじ、体制側が一市民に殺し屋を差し向けてくるとかまるでフィクションの話みたいであまりに信じがたくてここ読んだとき一日くらいずっとポカーンとしてた。殺し屋て…殺し屋て..明治の末とかって歴史上からみたらほとんど最近じゃん 最近の話じゃねえか ひでえやばすぎる。どーなってんのよ
どこそこの地域が部落みたいな程度の浅い知識ならネットでちょこっと調べれば出てくるけど、こういう具体的な差別事例ってこんなふうに本でも読んで能動的に調べないとわからないんだよね、、まぁこういう時代からは随分ましになったとはいえいまだに部落の人にたいして暴言吐く人、差別する人はゼロにはなってなくて、全然過去の問題じゃないんですけど、同じ部落の人のなかでも[部落問題を知ってほしい][寝た子を起こさないでほしい、学校なんかで教えるから差別が再生産されるんだ][もう差別なんかないんだからほっとくべきだ]とさまざまに意見が分かれていて人間だから当然と思う。
でも悲惨な歴史にふたをして忘却してしまうと過去の人々の苦しみまで無かったことになってしまわないか?というのと、現代の人間が過去から教訓を得られなくなってしまう、それと苦しみだけでなく部落にも豊かな文化と生活があり、(著者は部落の文化遺産と呼んでいたが)文化そのものも葬られてしまう。そういう理由から、現在の、部落の[ぶ]の字すら言ってはいけないようなタブーの空気はいやだなと思うので積極的に気軽に部落の話をするようにしてる。
でも後述するけどこのタブー化が差別の緩和に繋がったわけで、でもそれを加味してもやはりもうそろそろタブ一の段階は終わっていいだろうと思う。
私は部落民ではない女性なんで女性差別にしか興味がありません。主にどうして被差別部落がここまで差別を打破できたかの部分に興味があって調べておりその歴史に女性が差別に対抗するすべを学べないかとそう思い何年も前からあれこれ勉強しています。
はっきり申し上げておきますと部落差別より女性差別のほうがひどい。上記にあげたような苛烈な差別事例を知った上で言うことです。その理由のひとつに無徴の存在である部落民に対して女性は有徴の存在であり、部落差別から逃げるために素性を知られてない遠方に引っ越すという手段もあり実際多くの人がそうしていたようですが、女性が女性であることから逃げる手段は自殺しかありません。
(当然、無徴ゆえにだれも[被差別部落][部落民]とはなんなのかをはっきりと定義できないゆえに権力側に恣意的に身分を決められていた歴史もあるでしょう。それも知っています。でも、なお..なのです。ちなみに、部落民とは一般と先祖やルーツが違う別人種なのではと思う人もいるでしょうが、一般人でも部落民になったりするし、どうもそのへんあいまいというかはっきりしていないようです。本書には、とある部落民にむかって自分たちは先祖が同じだ]と言った一般民がいたという証言もあります。差別の根拠など全くないのです。さらに言うなら死にまつわる仕事がケガレというのも恐らく権力が恣意的に決めたことがし、ケガレの仕事ではない、たとえば内職などしかしない部落民も沢山あってケガレともイコールで結びつかないのです。)現在進行形でさ女は毎日女ってだけでなぐられ殺され犯されおとしめられてんだよ
家から一歩出るだけで醜いおっさんがジーロジロ品定めここから逃げる手段ないんすよ
女性の参政権だってGHQの鶴の一声であって日本の男はんなもん女に与えてくれたこと無いんですわ
すいません話それました!
国を動かしての解放令発布でもやむことがなかった差別が現在ここまで緩和されもはや部落問題を全く知らない人も多くなった、その主たる理由はやはり水平社(のちの部落解放同盟)の強硬な、時には暴力的な闘争姿勢によるものだったのではと思います。著者の柴田いわく、長野のなかでも東信地方は寒風が吹きつけてひどく底冷えがする地域で、昔から気骨のある男、気性の荒い男が多く、それが東信で水平運動がさかんだった理由ではないかと分析しています。逆に寒さがゆるやかな地域では[寝た子を起こすな]の論調が強かったり水平社よりも穏健だった同仁会がさかんだったらしい。でも同仁会も交渉の場では「水平社の連中よぶぞ]が殺し文句だったらしく虎の威を借りてたとか..そして水平社と同仁会、歴史に名を残したのはどちらかというともうこれは言うまでもありません。ふだんから竹槍の戦闘訓練も行い、武力闘争も召さなかった水平運動こそ歴史を変えた。彼らが起こした暴力事件の仔細はネットでも簡単に読めます。部落民は乱暴だ、奴らは犯罪者だといった風評も辞さない徹底的な闘争で、部落は怒らせると怖いと、部落がなんなのかよく知らない人すら何となく感じて、アンタッチャブルな話題だと感じる。タブーだと思う。その空気を牽引したのがテレビ等マスメディアの徹底的な自主規制でしょう。部落解放同盟ににらまれたら厄介だという理由で前述のように部落のぶの字も出さない、触らぬ神にたたりなし。先日もエタヒニンと発音しただけのアイドルが活動自粛に追い込まれたけどそういう過剰なまでの自主規制が、差別の存在そのものを透明化した。長い間メディアは頼まれてもないのに四本指の表現すら自主規制していた。
そのような、暴力や脅迫で勝ち取った自由の歴史を勉強していると、心底彼らがうらやましく、やっぱり権力もなにもあてにならずとにかく徹底的に相手に恐怖という根源的感情を植え付けて支配するしか対抗の方法は無いのかなと思ってしまう。なんだかわからないけど女性差別問題は怖いから少しでもセクハラと誤解される表現は自主規制しよう、万が一表に出てしまったら即座に責任者の首とばそう、そんなふうになってくれたらいいのにと夢見て泣きそうになります。
しかしながら水平運動に加わった男たちがそこまで暴れることができたのも男という性別ゆえかなと、同時に諦念を抱きます。
女はやさしさや思いやりといった(あえて言いますが)宿病をかかえています。それは先天的なものか、それとも後天的なものか、両方だろうか?とにかくフェミニストを自称する人たちすら、女性は優しくなければ、人の気持ちが分からなくてはという教条に縛られているので、そういう人たちと肩を並べて武力闘争が可能かどうかはあやしいものです。ねえ、やりすぎは良くないよやめよう、とお目目ウルウルのいい子ちゃんが必ずまざってしまい男たちはそのすきをついてくる気しかしません..
この本書のなかにはある村の一般の村長が出てきます。彼は比較的リベラルで、部落の子でも学校に入学できるようはからったとのこと。そのせいで彼は妻の実家の敷居をまたぐことを拒否されるなど反発され、水平社の者も彼のそのような行いを知っててもそれでもダメな所は徹底的に糾弾したので、「両方から突き上げ食らってもうさんざんだ]といったことを自嘲してるんですけど女性たちも同じように全く糾弾の手を緩めないってことが可能かと考えると難しい。
痴漢の手に安全ピンぶっさそうという(本来痴漢は殺されてもいいくらいなのだから穏当すぎるくらいなのに)呼び掛けにすらいい子ぶりっこがそういうのよくないよとたしなめるしまつ。
繰り返すけど殺されてもいいのに。
やさしさというのは女たちが生まれつき体に埋め込まれた起爆装置なのだろうか?差別に抗戦しようとした瞬間、それは作動し、女の体は爆発四散するのでしょうか?
この本の巻末、作者の生前の夫だった人による復刊によせての解説で言及されてた2014年の長野県連続差別事件がやばい。部落民の女性に対して、真ん前に引っ越してきた男が差別語連発で罵倒するのをやめない。裁判所から禁止令が出てもやめない。逮捕されても執行猶予で、けっきょく彼が万引きという別件で再逮捕され収監されるまでの2年間なにも解決しなかったそうです。
昔も今も権力なんてなんのあてにもならないどころか被差別階級にとっては敵でしかないんじゃないのとますます不信感がつのります。2014年とか最近じゃん昨日じゃんか
みんな本気で、ハッシュタグ(笑)だのツイッターデモ(笑)なんかで女の現状が救われるとおもってんのかな..こんなのなんにもならんってうすうす気づいてるんじゃないかな。男に殺される女が一人でも減るかそんなんでって思う。やってる感だけ得られたらいいんすか? けっきょくレベルを上げて物理で殴るしか無いんじゃないのか。それもわたし一人がやったところで社会的にインパクトないから組織だってやるしかないけど、以下ループ
水平運動の男たちは献身的に支えてくれる妻がいてそれで運動なりたってた部分でかいと思うけど女には妻おらんのですよな~
暴力ができないならせめて男がみんな自分に正直にホモ願望を解放してホモセックスし、抑圧している内的女性を現実の女性に投影するのをやめればミソジニー無くなって平和になると思うんですけど、でこう書けばホモは差別語だから差別はいけませんとかほざくぶりっこがフェミニズムの邪魔をしてくるのでもうどうしようも無いです! バーカ!ちんこ—
それで思い出したけど水平社=部落解放同盟は徹底したシングルイシューで在日朝鮮人を差別して反省しなかったり、男と女で日当に差をつけて差別してたという話も聞きます。イシューを抱え込まないことがやはり運動の成功の秘訣のひとつであったのかと感じますが女性は女性というだけでやはりシングルイシューではいけないといった脅迫をされます。色々な差別問題に敏感ではなければいけないような圧力にかかって、あらゆる差別に眉をひそめなきゃなんないあの感じ、全ての弱者のために涙しなきゃいけないような義務感、女だから聖母を求められてるんですよね。それもバーカ死ねでございます。女性差別以外知ったこっちゃねーでいいんだお
ところでこの本の作者柴田道子は童話作家で部落民じゃない一般です。長野市に引っ越してきて被差別部落と接触し、興味を持ち、この本を上梓したあとは狭山事件の被告のサポートに尽力、当該事件の本を執筆中わずか41歳の若さで急死したとか。
解説文でだんなさんが男社会のなかで女性としてうけていた差別があったから部落問題に熱心だったのでは的なことかいとるけどんじゃー女性差別問題に集中すればよかったのでは、女なら自分が当事者である女性差別問題に注力すればいいのに、しろよと思ったし、そうすべきだろがいすら思うんだが、そういった、正しくない女柴田の正しくない思いで発刊された、正しくない存在である力作のこの本によって後世の人間である私が歴史を知ることができたわけで、そしてこれは間違いなく後世に保存し読みつがれるべき大名著なんです!!!何が正しいか間違っているのか、どう思うべきか、どう行動すべきかって本当は一切なにもないのかもしれない。なのでフェミニストならこうすべきだ、こう思うべきだ、こう感じるべきだみたいな考えに固執している人はちょっと考え直したほうがいいな、正しいか間違ってるかなんて時代によって基準がぐにゃんぐにゃんで明日にでも真逆になるけど、なんか結果だけ見て、他人がジャッジしてもシャーナイつか、結局ね、なにかに汗かいて真剣にがんばったりさえして、懸命に生きさえすれば、それはもう…だれにも、文句は..まあいいや
フォンテーヌの世界任務はそれぞれが関連しあっていることが分かるようになっている。
内容も世界観の根幹に関わる、各国の横断的な要素もあって興味深い。
また、これらはメインシナリオが残している謎にも示唆を与えているはず。
不思議な本のページ・12を読んでいた時、突飛な発想が浮かんできた。
これは、諭示機のプロトタイプなのでは?
諭示機の位置は四象限の一角、あるいは鍵である剣の位置だとしたら?
その下はきっと原初の海に接続していて、水に溶けた過去のフォンテーヌ人の意識に接続している――
憶測にすぎないが、諭示機がまるでシビュラシステムのように機能している原理を説明できる。
10ページ目が脱落しているが、ここにルネの結末の核心があるはずだ。
9ページで人間としてのルネは死に、水と融合したが、11ページからの書き手はルネとは同じようで別人のような書きぶりに見える。
これを水に溶けたがゆえの統合意識、あの噴水の声のようなものと解釈することもできるし、やはりルネ的な意志を継いで先導しようとする、結社側の人間のようにも見える。
また、溶けたあとに地上に何らかの形で顕現することが可能なようにも受け取れる書き方になっている。
現時点では「マリアン」に扮した純水精霊と化した水の記憶ソースは、リリスのように思われる。
純水精霊の形を取ることで人間(の記憶)が実体(投影?)を伴って顕現可能なのはヴェルーリヤ・ミラージュや、安眠の地で見てきた通り。
もっと遡れば、テイワットの地下を這っている地脈は過去の記憶の奔流であり、その投影が現れることがあるのは稲妻編以降、度々目にしてきた。
フォンテーヌにおいては、地脈にあたるものがおそらく、海、というかグレート・フォンテーヌ・レイクなのだろう。
海がせり上がり、文明を飲み込んでいくという地域特有の歴史があるのは、だいぶ深刻な現実だが、噂レベルまで矮小化されている仕掛けも気になる。
あと、一般的な湖は下に凸だが、フォンテーヌ全体で見るとそれは上に凸で、その上に文明が築かれているのは壮観ではあるが、それ以上の意味がある。
女で逆の立場です。
私は食事への興味が薄め、彼氏はかなり食事が好きでこだわりもあるタイプです。
逆の立場の人間がどういったことを考えているのか、彼氏とどう折り合いをつけているのかを一例として書きます。
長いですけどすいません。
私は1人の時はあまりちゃんとしたご飯は食べません。生野菜を齧ったり、シリアルを食べたりしてます。
なんとなく体感で「そろそろ普通のご飯食べた方がいいかな…」って思った時や、気が向いた時に外食したり、お弁当買ったり、自分で料理を作ったりします。
ただ1人の食事となると「面倒」な気持ちが勝つので適当に済ませてしまいます。
食事の内容を考えたり決めたりすることを「手間」「労力」だと考えてるので、基本的にやりたくないです。
自分が何食べたいか分かってる時はそれに従えばいいんですけど、基本的には無いというか分からないので考えるのめんどくさいし適当、決まったもの食べればいいやって感じです。
毎食ちゃんと美味しいもの、違うものを食べたいと思ってるそうです。
食べること自体も好きだし、何を食べるか考えたり店を調べたりするのも好きみたいです。
あんまり食べたくない気分だけど彼氏に付き合って食べてる時も正直ありますが、苦ではない程度です。
本当に食べたくない時は「今は食べたくない」と言うようにしてます。
「付き合わせてしまってるのでは…」と不安ならば、「本当に食べたくない時は言ってね」と伝えたら良いと思います。
彼氏は食べたいけど私は食べたくない時は、外だったら彼氏は食事、私はお茶するだけにできる場所(カフェやファミレス)に入ったり、毎回話し合って決めます。
常に毎食食べたいものが同じ人間っていないと思うので、程度は違えど毎回話して決めるしかないものだと思います。
1人だと碌な食事しないので彼氏に助けられてると感じる部分もあります。
色んなものが食べられるし、人と一緒に食事することは好きなので。
そんなに毎日毎食何が食べたいか分からないので、提案してもらえたり決めてもらえるのはありがたいです。
「何食べる?」って聞かれると、もう何食べるか考えなきゃいけないのか…考えるの怠いな…勝手に決めてほしい…って思う時もありますけど、私の意見を聞いてくれること自体はありがたいなと思います。
食へのこだわりってグラデーションだと思うので、こだわり度が離れていればいるほど共同生活はしづらくなるかと思います。
彼氏さんは全く食事が嫌いという訳ではないようだし、一緒の食事は楽しいと言ってるならそれを信じてあげれば良いんではないでしょうか?
不安に思うのは、彼氏さんの言うことを信じられてないからですよね?多分。
私みたいに食事に付き合わされることを割と助かってると感じてる人間もいるので、彼氏さんから不満言われたりしてないなら良くない?と私は思いました。
何を不安に思ってるのかいまいちよく分からないんですけど、自分でもそこがはっきり言語化できてないならちゃんと考えた方がいいと思います。
ただ彼氏さんが不満を言えてない可能性も0ではないのでそこは対話してください。
極端に決定的に食への方針が違う場合付き合い続けるのは難しいとは思いますが、本当にお互いストレスになるくらい折り合いがつかないのかは、食事について色々話し合ったりして判断するべきだと思います。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』を読んだ。ナチスの行った行為についての<事実>や<解釈>については自分が誤解していたこともいくつかあり、とても面白く読めた。一方で、著者らの<意見>は、タイトルの問いに対する十分な回答ではないというのが正直な感想である。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』というタイトルを読んで私がまず考えたことは、著者らは「良いこと」をどう定義しているのだろうかということである。
②Xは善い(価値判断)
①については著者らの言う通りナチスが実施した行為について歴史学の方法で事実とその解釈を検討することは重要であろうし、素人の考えが誤っていることは多々あるだろうこともよく理解できる。素人の私が専門家の整理に対してとやかく言うつもりは(あんまり)ない。
一方で、②については、"「~である」から「~べき」は導かれない"というヒュームの法則が端的に表すように、事実・解釈とは独立した善悪についての価値判断である。①についてお互い同意していたとしても、②が異なれば善悪の意見が真逆になることは十分あり得る。
もちろん、何を善いとするかは自由に決められるわけではない。「ナチスは良いこともした。なぜなら ②ナチスのしたことは善い からである。」という主張は(そう言うのは自由だが)多くの人を説得できないだろう。
そこで普遍化可能性という基準が出てくる。普遍とは簡単に言えば、固有名詞を含まない、という意味合いである。例えば、「金を返さないのは悪いことだ」という価値判断を採用するのであれば、誰であろうと金を返さない人は悪人であると判断しなければならない。
「あなたが私に金を返さないことは悪いことだ」とするならば、「私があなたに金を返さないこともまた悪いことである」としなければならない。ナチスの行為を何らかの理由で善い/悪いこととするならば、他の〇〇国がした同じようなことについても、別扱いをする普遍的な理由を挙げなければ、同様に善い/悪いこととしなければならない。
ナチスの政策Aが良くないことならば、同様(に見える)〇〇国の政策Bも良くないことですよね?という問いはWhataboutism論法ではなく、価値判断の普遍化可能性についての確認である。同様に良くないことだと言うならそれでいいし、違うならその理由を説明すればいい。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』は歴史学の本であり倫理学の本ではないから、ナチスの政策についての事実・解釈の説明がメインなのは当然である。しかしながら、「良いこと」もしたのかというタイトルにするならば、著者らの価値判断が普遍化可能であるのかについてもある程度の紙幅を割くべきだったろう。
さて、本では素人が考えがちなXとして、A:オリジナルな政策、B:目的が善い政策、C:結果が良い政策 の3つを挙げ、「素人考えでは政策AはXに見えるが歴史学の手法で解釈するとAはXではない。よってナチスは良いことをしていない。」とする方式で説明が進む。
まず、著者らがオリジナルの定義をかなり狭いものとしているのが気になる。まったくのゼロから何かを考え出すこと以外にもオリジナルさを見出すことは特段おかしな考えではないはずだ。
私はメーカー勤務の研究者である。ニーズ先行の商品開発は、(i)市場調査部が計画を立て、(ii)R&Dがラボ試験をして、(iii)工場が大量生産化するという流れで進む。ここで、市場調査が計画をしたことをただ実験して、ただ大量生産しただけなので、研究者も工場技術者もオリジナルなことはしていないと言われたら、ちょっと待てよとなる。
また、実はコピー製品も安定的に製造するのはかなり難しい。同じ会社の別工場で品質がぜんぜん違うことは珍しくないし、他社製品をコピーするのに数年以上かかることも珍しくない。
私は政策を計画・実行したことはないが、計画を実際の法案として成立させることや他国の制度を法律も文化も経済も違う自国で同じように実施することには何らかのオリジナリティが必要であろうことは想像できる。
これについては、著者らも書いている通り、オリジナルであることと良いことは何も関係がない(もちろん、オリジナルでないからといって良くないとも言えない)ことを説明するのが適切だったのではないか。
「確かに狭い意味ではオリジナルでないことは同意する。しかし広い意味ではオリジナルであったし、A:オリジナルは善い という価値判断の元、ナチスは良いこともしたという意見は変わらない」と言われるだけのように思う。
著者らはナチスの政策の真の目的は戦争のための「民族共同体」の構築であるとして、それは良くない目的であると価値判断をする。これは(i)戦争のためという目的は良くない、(ii)「民族共同体の構築」という目的は良くない という2つに分解できる。
(i)戦争のためという目的が良くないとすると、例えば福祉政策が戦争のために発達したことは多くの指摘があるが、福祉政策は良くないことと言えるのかという疑問がでてくる。またインターネットやロケットなど戦争のために生まれ発展した技術は良くないことと言えるのかという疑問もでてくる。
先に書いた通り、これらを良くないとするなら(同意を得られるかは別として)普遍化可能性についてはクリアしている。しかし、これらを良いとするならば説明が必要だろう。
また(ii)「民族共同体」の構築が良くないとすると、例えば「国家共同体」の構築のために移民(特に既存の国民にとって良くない影響を及ぼす可能性が高い移民)を排除することは良くないことなのかという疑問がでてくる。
私はリバタリアンとして個人の自由を尊重する立場から国家が移民を制限することは良くないことだと考えるが、日本はもちろんヨーロッパやアメリカの現状を見るに、世界全体で受け入れる人は少ないと思われる。
「民族共同体」の構築という目的は問題ないが、その方法としての搾取・断種・敵対者の排除が問題であるという主張も考えられる。私もそれらの方法について全く支持しない。
しかし、目的は問題ないとするならば、②目的が善い政策は善い の反論としては不適である。
また、占領地・植民地からの搾取や障害者の断種、反政府思想の弾圧などは同時期の他の国でもあったことであり、それらと比べてナチスの政策はと同程度に悪いのか、それともより悪いと言えるのかという疑問もでてくる。
先に書いた通り、①事実・解釈について素人の私が専門家の整理に対してとやかく言うつもりは(あんまり)ないが、気になる点をいくつか挙げる。
(i)失業者600万人に対して雇用創出政策では50万人程度であるから効果は限定的というのは乗数効果を全く考慮にしていない。私個人としては政府の雇用創出政策の効果に懐疑的ではあるが、ケインジアンはこの<解釈>に文句があるだろう。
(ii)「膨張する国家支出と巨額の負債は国家財政を圧迫し、やがて財政破綻の危機とインフレ圧力に直面することになった」について、例えば日本の社会保障政策も同様という論者は多いが、良くない政策だと言えるか?(なお、私は良くない政策だと考える)
(iii)「「軍備の奇跡」なるものも結局のところ戦争の集結を引き延ばし、多数の人命を犠牲にするだけに終わった」は枢軸国側が負けることを知っている前提の意見ではないか。(現在はともかく)露宇戦争開始当初はウクライナが人命の犠牲を避けて早く降伏すべきという意見はそれなりの数あり、またそれに対する批判も多くあった。
(iv)例えば医療分野の発展はその大部分を動物の搾取を前提としているが、動物愛護思想の人が「医療は"何も"良いことをしていない」と主張することを認めるか?もし動物愛護思想を認めた上で医療分野は「良いこと」もしたと言うならその理由はなにか。
(v)タバコについて、一方では「最終的には自己責任であった」と強制がなかったことを問題としているが、もう一方では特に女性について「家父長的干渉主義」という強制があったことを問題としている。これはダブルスタンダードではないか。
ナチスの政策・行為の"総和"として大きくマイナスであることは多くの人が認めるだろう。
しかし、"個々が全て"マイナスであったというのはかなり強い主張になる。
「ナチスは「私たちはこうあってはならない」という「絶対悪」であり、そのことを相互に確認し合うことが社会の「歯止め」として機能している」ことが正しいとしても、それは"総和"で達成できるのではないだろうか。
くろんぼとかチョンとか差別に何も言わなくなった人というのは穏健派ではない。消極的加害者なのでそこは混同しないように
理解があろうがなかろうが、インセンティブがあろうがなかろうが、差別を看過してる人も差別の片棒担いでるので
そもそも反差別は既にある恩恵や社会規範や権益を壊していくものなので成熟とか高潔とか人間性の問題。インセンティブをむしろ手放していくものでインセンティブとは真逆に位置する思想
フェミとアンチフェミの間に中間層はいないので、どちらかしかない
フェミ(性差別反対主義)じゃないなら消極的セクシストでしかない
フェミというか差別についての知識が昭和レベルだなお前。高齢者か?
フェミ思想とか黒人差別反対思想とかに個人の好意を語るのがそもそもヤバい。黒人差別反対に好意的とか、好意的じゃなくなったとか、なんなんだ?お前は好意によって他人に人権を認めてやろうとか考えてるの?バケモンだな
全部俺の感想だよ。
タイトルみたいな話は無限回されているので、今更その社会的背景がどうたらとか書きません。少子高齢化のくせに子どもを産む風潮ができず、外国人を入れるか入れないかとかいう目先のことにだけ集中して、とにかく先のことを考えなさすぎた政府および国民の怠惰さのせいで滅びます。本記事では、この「怠惰さ」って所を少し深く見ていきたいです。
で、この怠惰ってのが具体的になんなのかというと、これ「人が人を尊重しないこと」に起因してくると思います。
言い換えると、「人が人をバカにし続けている」ってことです。こちらの方が実態を表しているかもしれません。
本当にこの国の人間は、家族や友達といった繋がりのある人間はともかく(とはいってもそれすらバカにしてるやつはしこたまおりますが)、他者に対するリスペクトってのが圧倒的に足りないです。もちろんそういうのが備わっている人もいるにはいるのですが、少なすぎて薄れています。筆者はこういうの「備わっているのが当たり前」だと思っているんですが、皆さん全然ダメです。 じゃあどういう場面でこのイカれた国民共が「他者をバカにしている」「他者をリスペクトしていない」のかなというのを見ていきたいです。
①ブルーカラーへの軽視
ブルーカラーの人手不足が半端ないです。 なぜかって、そういった人たちをバカにしまくってきたからです。 世の中の親御さんがこう言ってるシーン、あるあるでは?道路工事をしている人を見て、子どもに「勉強しないとああなるよ」って。職業差別・軽視も甚だしすぎてもうどうしようもないんですよね。彼らが作ってくれる道路を歩いて、運転して暮らしているのに、それを作ってくれる人を軽視するのはどういう理屈なんでしょうね? 確かに彼らが一律に高学歴であるとか、そんなことは無いかもしれません。 確かに彼らが不良っぽいとか、そう見えるかもしれません。 でもそれとこれとは全然関係がないですよね。相手は仕事を「してくれている」自分は「恩恵を受ける」立場なんだから、相手のステータスがどうであろうと感謝の意は示すべきだし、そうでなくても軽視する方向に行くべきではないですよね。 なんだろう、小学生でもわかってるやつはわかってると思うんですが、改めてこういうこと書くのって「1+1=2」っていうのと変わらないですよね。
これは、その言葉の範囲の中にいる人と人が、職場内ー職場内の人間関係と、職場内ー職場外の人間関係という点で異なると思うんですけど、どちらも「人をバカにしている」ことに変わりありません。 相手が「若い・能力が低い・弱そう・なんだか気に食わない」からといって、自分のストレスをガンガンぶつける反社会的な人間が多すぎます。一見普通の人に見えても、いざ自分が相手の不手際によってちょっとでも損害を被ってしまった場合、鬼の首を取ったかのように変貌する人が大多数います。まあこれは「お客様は神様」とかいう言葉を曲解して自分の都合のいいようにしか考えてないバカが広まり切ってしまったという背景もあるんですが、この言葉を言った人はほんとこの国に大きな禍根を残したなと思います。 んで、こういう反社会的な人間が増えると、当然相手も人間ですから、「アホくさ」っつって別の場所で幸せを探すようになるんです。ここの部分を甘く見ていつまでたっても対策もせず「客」を増長させ続けてしまったところにこの国の罪業があるんですが、その結果、必要な人員が確保できず、色々な面で衰退していく一方になってるのですよね。そうしてケツに火が付いた状態で慌てても、無いものは無いし、一度染みついた印象というのは、インターネットの情報の波に刻まれ続けて消すのは非常に困難になりますよね。 店員だろうがなんだろうが、相手は同じ国の人間だし、親兄弟もいるかもしれんし、友達もいるかもしれん。その時たまたま役割が違うだけの普通の人間で、タイミングによってはその役割が真逆になるかもしれない。そんな当たり前のことも理解しないでただギャーギャー騒いでいる「カス」タマ―が本当に多いよね。カスハラなんて言葉が流行るわけですよ。自分が、あるいは自分の身内がカスからハラスメント受けたとしたら、どう思うんでしょうね?相手の痛みを知らない人間が多すぎる。日本人って世界でも有数な「意地の悪い民族」らしいですよ。
①、②を踏まえて少子高齢化
①と②と少子高齢化ってすごく関係がありますよね。高齢化はぶっちゃけどうでもいいんです。子どもがバンバン生まれれば薄まります。問題は子どもがバンバンところかバンも生まれてない。何でかって言ったら、「子ども」および「子どもを産む人(つまり親)」に対するディスり具合もすごいんですよねこの国は。 育休取ろうとして、快く取らせてくれる職場ってこの国にはそうないです。表面上は良い感じかもしれませんが、内心クソだるいと思っている人もいます。代替の人員が必要ですからね。すぐ見つかるなら良い。けど人手不足で見つからないだろうから、残っている人に負担がかかるわけで、救済措置もロクにない所が大多数ですよね。だから子育てするヤツにヘイトが向けられていきます。まあこれは救済措置がとれないぐらい余裕のない職場もどうかと思いますが。
あと、子どもの声がうるさいと言って公園に怒鳴り込む老人とかもニュースになりますよね。自分が子供のころの事を棚に上げて、自分だけが実害を被ったらキレだすあたり、意地が悪いですよね。家に悪戯されたとか窓割られたとかじゃない限り、声ぐらい受け入れてしかるべきではないでしょうか。
あーあと、出産子育てを「誰か他の人がやってくれる」って感覚の人間も多すぎな。まあこれは自由恋愛における弱者の増産と、低給料高税金のせいで子どもを産み育てる自信がない人が増えたってのがデカいし半分くらい政府のせいなんだけど、政府がおかしなことしてるなら是正することができるのがこの国の仕組みなのに、面倒だからといって何も行動しない人が多すぎますね。面倒だからって選挙に行かない若者の割合とか、見たことありますか。んで、そういうのが積み重なった結果、「自分には子育て出産とか関係ない」「他の人がやってくれるだろう」っつってぼんやり毎日を過ごす人が増えまくっている。増えまくっているから、今こうなっている。とことん他力本願な人が増えていて、黙っていてもどうもならんのですよねこれは。
というわけで、人が人をバカにしまくって、尊重しない結果、インフラも経済も仕事環境も全部ボロボロになってオワるのでした。ちゃんちゃん。上位数%の有能は海外に逃げて助かるかもしれませんね。でもそれ以外は、沈みゆく国でブラックと貧困と弱った国を強奪しようとする外国人に苦しみながら死んでいきます。天寿を全うできるなら良いかもしれませんが、脆弱になったインフラによるしょーもない事故とか、医者が足りなくて病院にかかれなくて死んでいくとか、自殺とか増えてくでしょうね。 この国の行く末が本当に楽しみだ。
でもなあ、差別しない世界ってみんなが気持ちよく暮らせる世界じゃなくて「みんな不快だけど黙ってるしかない世界」に近づいていくだけじゃないのかって思うんだよな
言いたいことを言い合うことができる世界ではないなとネットとか見てると思うよ。お互いを不快だって罵れないからそれっぽい理由をこじつけて正義だの正当性の名の下に排除しようとする世界でしかない。だってみんな、自分だけは不愉快になりたくないんだもん。
自分と、自分の許す人たちが許せる範囲で自由であればいいだけで、許せない奴らは叩き出したい。自由とか不要だと思ってそうな人があんまりにも多すぎる。
みんなが平等に不愉快や不快を許容しなきゃ差別のない世界なんて来ないのに、実際は真逆に突き進んでるからどこかでデカい歪みができて、この流れって断ち切られてしまうんじゃないかと思ってる。
例のプール付き公営公園で"健全"や"卑猥"という指針が出され、この指針に定数も定量も無いなぁと感じたのだけれど、それよりも気になったのが「18歳未満のグラビア撮影を禁止にしたらどうか?」という試み的な提言をされている方が結構居るのが気になった。
ざっくりわかりやすくいうと、人物をメインの被写体として撮影することをポートレート撮影と言うのだけれど「18歳未満のグラビア撮影を禁止にしたらどうか?」を試み的に提言している人はグラビア撮影とポートレート撮影をどうやって線引きするんだろうか?
個人的におそらくは無理だと思われる。
何故ならグラビア撮影はポートレート撮影という大きなジャンルに含まれる小ジャンルであり、ポートレート撮影の近接用語は景色を撮影する風景撮影や、香水瓶や人形やガジェットなどを撮る小物撮りなどであり、ポートレート撮影というのははてな界隈で言うところの主語デカ問題だからだ。
グラビア撮影はご存知の通り、別に水着や下着、肌面積の多い女性だけを撮るというものではなく、少年青年漫画雑誌の表紙もグラビア撮影だし、露出とは真逆にライダースーツを着込んでバイクにまたがっている人物を撮影するのもバイク雑誌ではグラビア撮影である(バイク界隈のグラビア撮影には峰不二子的な方向性もあるけれど全体で言えば少数派だ。何故なら峰不二子に比肩できる女性はそう居ないから)。
いや撮り鉄のように特定の被写体が好きな連中も居るけれど、実際のところ撮り鉄が列車ばかり撮ってるのか?と言われると大半の撮り鉄は主な被写体が列車なだけで、奴らは列車の無い風景も撮っているだろうし旅先のメシも撮っているはずだ。
カメコとしてイメージしやすいアイドルの追っかけだってそうだろう。何なら筆者には妻も子も居るし、筆者の主な被写体は妻と子である。妻と子で培った撮影経験をアイドルの撮影に応用していると言っても過言ではないだろう。それくらい妻と子を撮ってる。
カメコへ共通する特徴は何なのか?と言えば、キモデブでオタクなおっさんではなくカメラと撮影の知識だろう。カメコなんだからそりゃあカメラを趣味にしていない連中よりはちょっと詳しい。
近年じゃスマホカメラの性能があがり誰も彼もが気軽に写真を撮るようになったが、女の子をより可愛らしく綺麗に撮るという点ではスマホカメラってちょっと不向きだよなという印象をカメコならば誰しもが持っているだろう。
スマホカメラのレンズはいわゆる広角レンズが大半であり、広角レンズは歪みが大きくて太って写る。標準体型がデブになり、デブはよりデブになる。それがスマホカメラのレンズだ。
世の中にはポッチャリ好きが居るというのは非常に重要な指摘だが今回はそこを問題にはしていない。今の自分よりもスマホカメラは太って見えやすいということを問題視しているのだ。
じゃあどうするべきなのか?と言えばズームするわけだ。最近のスマホカメラは多眼になっているので最も拡大できる望遠レンズを選択して撮影する。
ポイントはデジタルズームは使わないことだな。デジタルズームは単に画像ピクセルを拡大しているだけなのでレンズの歪みに影響しないので意味がない。
望遠レンズは広角レンズと比較して歪みが少ないので、痩せて写るわけではないが広角レンズにように太って写りにくい。
まだ女の子を可愛らしく綺麗に撮るポイントはある。1枚の写真へ全身を収める場合は顔を中心にではなく腰を中心に撮るのだ。
顔を中心に撮るとレンズというのは多少なりとも歪みが発生し、レンズの中央はレンズの端へ向かって歪んでいくので顔がデカくなり首より下が小さく写る。
自分の顔がデカいと悩んでいる女の子が居るとしたらレンズの中央で撮るというのは更にコンプレックスを強調する結果となるわけだ。顔はレンズの端へ持っていけ。
更に良いことがある。腰をレンズの中心に添えることで、前述した歪みから腰の部分が多少広がり相対的に上半身と下半身が細くなる。つまり小顔足長になり女性らしい身体の曲線が強調される。
ほんの少し下から煽るように腰を中心に撮影すると小顔脚長効果が更に増すぞ。
胸が小さめなのが悩み?いや一部に需要あるぞ?えっそういうの良いから大きく写す方法を教えろ?
逆に広角レンズを使え!広角レンズは歪みが大きいため、広角レンズで胸を中心に据えて顔もレンズの端に写るように近接撮影しよう。相対的に胸デカ小顔の写真が撮れる。これは逆にスマホカメラが有利だな。
ここに書いた写真撮影術を使えばマッチングアプリのプロフィール写真とかもちょっとは印象良くなるんじゃないか?需要あるか知らんけど。
カメコはこういう知識がある。撮り鉄は主な被写体が列車なのでポートレート撮影の知識がアイドルカメコと比較すると少々乏しいだろうけど、このくらいは知っている。逆に撮り鉄は雄大な自然とか真っ直ぐなものを歪み少なく真っ直ぐ撮る方法とかに詳しいぞ。
このようにカメラと撮影にちょっと詳しいヤツが疑問に思うわけだ、グラビア撮影とポートレート撮影をどうやって線引きするんだろうか?と。
何が健全で何が卑猥か?なんてポッチャリ好きや貧乳好きが居る世界で一定の線引きなんてできるわけがなく、世の中にはおそらく女性用リクルートスーツが性癖ですみたいなヤツとか、北海道とかに居そうなコートで厚着してモコモコになってる女の子良いよねとか言うヤツが必ず居る。そういう連中に取ってみればリクルートスーツもモコモコなコートのポートレート撮影も卑猥な写真になるのさ。
この世界には衣服を燃やす様子を映したアダルトビデオが存在するんだぞ?もちろん女性、というか男性を含めて人間、何なら生物は一切出てこない。本当に服が燃え上がる様子だけが淡々と流れる映像だ。ハイレベルすぎて理解が追いつかないがアダルトビデオとして実際に販売配信されている(一説には服が燃える映像がアダルトビデオとして販売されている事自体に意味があるらしい。こんにちわ宇宙猫)。
最後に蛇足だが、筆者の妻は不定期に筆者が撮影した妻自身の写真をセレクトし「これ遺影に使ってね」と言ってくる。カメコ冥利に尽きるよね。
わかり手こと小山晃弘も、白饅頭も、弱者男性のことを収入・容姿・コミュ力・モテなどが不足した社会的弱者ととらえてきた。
そしてその層の生きづらさと鬱屈の責任を、弱者男性と対をなす「強者男性」ではなく、「弱者男性を相手にしない女性」に結びつけてきた。
声なきマイノリティのあり方に耳を傾けるテイを取りつつ、彼らの声を聞き届けないのはあくまで「女」だということにしていた。
こういう風に「女性」に矛先を向ける議論は、多くの弱者男性当事者にとって心地よい、受け入れやすい議論だった。
自分を弱者男性だと考える人が「強者男性」の格差について正面から向かい合ったら、そこには自責の余地が生まれる。
自分は「彼らより」収入が少ない。容姿が劣る。コミュ力がない。なぜそうなのか。どうすればいいのか。
考えても解決するわけではない「劣り」について考え続けるのは、緩慢な自傷行為だ。
それとは真逆に、「女性」に矛先を向ける議論は、他責の矛先を提供してくれる。
弱者男性が救われないのは、彼らの弱さに配慮しない社会、彼らの弱さを受け入れない女が悪いから。
そこでは「弱さ」は所与の前提になり、ことさらに「なぜ」を問われるべき課題ではなくなる。
ところが去年、白饅頭が医療従事者を社会的強者として叩いて炎上した。
https://togetter.com/li/1926636
今回、わかり手が大谷の容姿をネオテニーだ中性的だとdisり、白饅頭がそれを擁護して炎上した。
https://togetter.com/li/2098940
どちらも、これまで彼らがあえて焦点化してこなかった「強者男性」自体を直接射程に入れた議論だ。
「医者はもっと強者であることを自覚して(医療負荷について悲鳴を上げたりせず)わきまえろ」「大谷の顔は小綺麗で知的でブルジョワっぽいからキモい」「SAPIXっぽい」「高学歴エリート層と同じ」「実家が経済的に豊かであり、幼いころから潤沢な英才教育を受けていたアマチュア・エリート出身者」「メス化」…。
ここで語られていることが事実かどうかはさておき(たぶんだいぶ事実と違う)、
それも、「強者男性にはもっと旧来のマスキュリニティを発揮してほしい」という、倒錯した批判だ。
(「白饅頭の言う「かわいそうランキング」で下位に位置する強者=医療従事者の訴えが世間に聞き届けられるのはおかしい」と言いかえてもいい)
彼らがこれまで語ってきた世界観と、世間で活躍する「強者男性」たちの実像のズレが露呈しつつある。
だから彼らは、そうした現実をファンタジーの方に合わせようとして、
彼らの先入観と違う振る舞いをする「強者男性」を批判している。
彼らは強者男性にいつまでも「古き良き強者男性」らしくしていてほしい。
雄々しく、力強く、堂々としていて、だからこそ思うままに「メス」を手に入れられる、
そうした軸において弱者男性がかなわない「アルファオス」であってほしいのだ。
この数年プチバズり続けているタワマン文学(窓際三等兵など)は、
こういう「おとぎ話のような強者男性」像に対するアンチテーゼにもなっている。
そこで語られるのは、端的に言えば、教育・就職先・文化資本・社会階級をめぐる堂々巡りの自意識だ。
そこでの「成功者」は、マッチョでもないしモテるわけでもないしコミュ力が高いわけでもない。
単純に「親が金持ちで人脈があってSAPIXや鉄緑会に入って良い大学を出て良い会社に入って
高収入を得て美しい妻を娶って生まれた自分より目鼻立ちの整った子を自分以上のレールに乗せられる男」が
人生の勝ち組であり、その中でも新参者や中途半端な位置づけの人間は「さらに上」への嫉妬に身を灼かれる。
この世界観の中でも女性は相変わらず「トロフィー」ではあるが、
トロフィーを手に入れられる人間とそうでない人間の差はほとんど宿命的な筆致で描かれ、
そこにはもはや「女性は弱者男性に目を向けるべき」などという主張が介在する余地は全くない。
一億総中流と言われた社会が解体しきって、日本でもペアレントクラシーによる
階級再生産のサイクルが強固に確立したことを苦々しく再確認する物語だとも言える。
わかり手や白饅頭らは大谷批判の中でこうした論点を取り込もうとして、失敗してしまった。
その白饅頭自身が今やnoteで稼いだ金で買ったタワマンに住んでる勝ち組だから、という皮肉な現実はさておいても、
そもそもこうした露骨な階級社会論は、これまでの「女性が悪い」系の弱者男性論とすこぶる相性が悪いからだ。
タワマン文学時代の強者男性とは、すなわち階級的強者であり、自らがずっと勝ち続けるための盤石の基盤を整えた勝ち組たちだ。
そうしたペアレントクラシーによる階級の固定化を緩和するなら、再分配すべきは、女ではなくカネと教育だ。
でも、こんな野党みたいな話をして、弱者男性を自認する当事者が「そうだそうだ」と溜飲を下げるだろうか。
そんなわけがない。「いま」弱者男性である当事者が、カネと教育の再分配によって階層を浮かび上がれるはずがない。
語ってはいけない真実、語れば絶望しかもたらさない真実というものがある。