はてなキーワード: 放射線治療とは
数年前に癌になった
ステージ3で手術→抗がん剤→放射線治療と標準治療を全て体験した
今は再発しないよう定期的に病院に行く日々
ア●ラックは所謂保険会社。癌や白血病などに罹った芸能人をメインにしたCMが多い
今は白血病を体験した笠井アナウンサーが出ているが、実際に病気に罹った人の言葉は重みがあり自身も頑張ろうと思うのだが、問題なのはCMメインタレントや病気には罹っていないのに、何故か出ている芸能人だ
CM内にインタビューしているシーンがあるが、言葉も心があまりこもっていないし、大変ですねーとか言う言葉が軽くて見るのも辛くなる
病気に罹っていない芸能人がもっともらしい事を話されても心に響かない
CMメインタレントが某アイドルの方なのでうっかり言い難いけど、もう少し癌や病気に罹った人の気持ちを分かってくれるタレントにCMをしてほしいと思う
世の中にはポックリ信仰だのコロリ観音などというものもあり、「ぽっくり死ぬ」のが一つの理想とされている。
まあ確かに、死ぬと判っていて長く苦しむのは、特異な死生観を持っている人以外は嫌だろう。
また、認知症などで長く家族に負担をかけて、とてつもない醜態をさらし続けて「いつ死ぬんだろう」と半ば願われながら死ぬのも、物寂しい話である。
とはいえ、1人暮らしの人などがいきなり自宅で死ぬと、発見されるまでに時間がかかってしまい、遺体や自宅が無残な状況になりかねないリスクがある。
友達少ないから、全社会議とかで大勢にお別れしてもらえるのはまあちょっと興味あるけど、正直、社長とか上司とかが何言い始めるか分からない危険性があるし、
遺族が過労死や労災を疑ったりして、後味が悪い結果にもなりかねない。
かといって通勤中とかに死ぬと電車が止まってしまい、何千何万の通勤客の呪詛を受けながら死ぬ、という割とキツいシチュエーションになってしまう。
なので、ポックリ死ぬなら、旅先が良い。
旅先の人にはちょっと迷惑をかけてしまうが、恨みつらみは残らないし、何か楽しく人生を生きて死んだ感が漂うから、遺される人も若干気が楽だ。
とはいえ、ポックリ死ぬのは、何の準備もしてないので、本人は良くても周囲に面倒をかける。
心の準備もできない。お別れも言えない。喧嘩中だったりしたら後味も悪い。連絡すべき関係先を洗い出すのも一苦労だし、遺品の整理も面倒だし、部屋が汚かったり、恥ずかしい所有物とかが発見される危険性もある。
という事で、お別れを言う時間くらい欲しい。
しかし、お別れを言うには「大病を患っている」という前提が必須である。
事故で死ぬ場合は、即死を免れても意識不明のまま死ぬ可能性が高いので良くない。ふためと見られない顔になってる可能性もあるし、恨みつらみや相手方の保険屋との交渉とかがあって面倒極まりない。
やはり病死である。それも死ぬと判ってから1週間程度の猶予は欲しい。
部屋の整理は諦めるとしても、せめて3日はないと、遠方にいる家族が死に目に会えない危険性があるし、お別れがあわただしくなってしまう。
しかし半年以上入院というのも厳しい。最後の方はかなり苦しみそうだし、そんだけ入院すると費用も馬鹿にならない。家族に金銭的負担がかかっているのを気にしながら死ぬというのも、きつい。
という事で、1か月前くらいに余命が判って、家族や親戚・友人に連絡して、身辺整理を済ませて、1週間前くらいに入院して一通りお別れを済ませて、最終的になんか良いセリフを言って眠って3分くらいで、ピー、ご臨終です、というのが理想である。
コロナは割と近いが、あれは陽性反応が出たら1日かそこらで問答無用の入院である。身辺整理もできないし、入院する段階ではまだ死ぬと決まってないから、関係者に通知もしにくい。
それに、コロナで死ぬ場合、途中からなんかゴツい機器で呼吸を助けてもらう形になるので、お別れを言えない。感染するといけないから遺族も立ち会えないし、遺体の顔すら見えないという。
じゃあガンならどうかというと、ガンで死ぬのは相当キツい。最後はモルヒネ使って痛みを取り除くとしても、そこに到達するまでに、手術や放射線治療などがあり、相当苦しむ。
それに、専門家じゃないから良くわからないけど、末期がんで余命1ヵ月になるまで気づかないというのも、さすがにレアじゃないだろうか。半年前には気づいてしまう気がする。そうすると、死ぬまで長い。
1か月前に死ぬとわかって、あまり苦しまず、身辺整理をする余裕があり、お別れも言える。
そんなの、何か凄い感じの宇宙船事故で冷たい方程式的な何かが無ければ、ありえないのではなかろうか。(私は宇宙飛行士じゃないし、前述の理由で事故死はちょっと問題あるので、どのみち却下である)
世間的には新型コロナウィルスがそれなりに騒がれてきたころだった。
そのあとはもう抗がん剤治療がすぐはじまり、8月頃に手術をしてひと段落かと思った。
全然そんなことはなかった。
腫瘍マーカーの数値はだんだん悪化していて、本人もそうだし俺もめちゃくちゃ落ち込んだ。
落ち込むというより、混乱と不安と恐怖と悔しさだな。
これは早期発見すれば乳がんは治る!って広告を見て、早期発見できなかった人の話も書くかと思って書いた話。
でもできない。
まず俺(28)は同居してないし、400kmくらい離れたところで働きながら一人暮らしをしている。
親は二人で田舎に住んでいる。しかも近隣の県では新型コロナウィルスに感染した一家が自殺に追い込まれたりしている。
病院側も神経をとがらせていて、GWに息子さんが帰省するなら、息子さんとの接触を控えてくださいとまで言っていた。
そんな場所だから、親も帰って来いなんて言えるわけがなかった。
今年の三月に会って以来、現時点では一度も顔を合わせていない。
実はすでに、乳房に良性腫瘍があると10年前の時点で判明していた。
それ以来、良性腫瘍の存在は毎年のことであって、今年の1月の健診でも問題がなかったとして放置していた。
それが3月になり、乳房が少し痛むというので病院に行き、針で生体組織を採取する、いわゆる”生検”を行った。
タイトル通り乳がんであり、タイトル通り早期発見には程遠いステージⅢだった。
ステージⅢの中にもaとかbとかあるが、もう覚えていない。
とにかく乳がんはすでに組織内に留まっておらず、その先のリンパ節まで転移していて、すでに体の血管にがん細胞が散ってしまっていた。
しかも乳がんには種類があって、その中でも治療できる方法が少ないトリプルネガティブという種類だったらしい。
簡潔に言うと、増殖が速くて、効く薬もなかなかなくて、すぐ再発してすぐ悪化する性質を持つ。
最悪だった。
確実に親の死を意識した。いまもしている。
というか統計データ上では1~2年以内の再発発生率が高い(転移も含め)のと、ステージⅢのトリプルネガティブ乳がん患者の5年生存率は40%切るんだよな。
しかも転移したらステージⅢどころかⅣに移行するし、そうなるともう完治は激難しくて、基本的にがんの進行を遅らせながら、痛みを少なくしてQOLを維持することに方針がシフトするんだよね。
もう無理じゃん・・・
でも心のどこかで、(俺が死ぬまで親は生きているんじゃないか・・・)みたいな、祈りに近いような考えはあった。
でもやっぱり義務教育を修了しているので、そんなことはないってわかる。
じゃあいま、何が一番苦しいかって言ったら、母親の気持ちを考えることだよね。
言ってたんだよ、退職したらお父さんの車を車内泊できるように改造して、いろんなところ行こうねって。
俺のところにも旅行に来て・・・弟のところにも行って・・・いろんなところに行こうねって。
やべ少し涙出てきた。
抗がん剤は肉体の免疫を落とすので、人込みとかはそもそも避けなきゃいけない。
これがなかったら俺は今すぐ母ちゃんのところ行って安心させたいし安心したい。
親もいろいろなところに行って、不安はありながらも気晴らしにはなったと思う。
でもぜ~んぶできなくなっちゃった。
親が死ぬこと自体は、まぁ悲しいといえば悲しいけど、それは前から想定していた悲しみだからもう受け入れてる。
受け入れられないのは、やりたいことすらできないまま、とどまり続けているうちに何もできなくなってしまうこと。
その状況に母ちゃんが置かれていること。
その気持ちを想像しただけでめちゃめちゃ悲しくなるし、やりきれない気持ちでいっぱいになる。
不安でいっぱいの母ちゃんを思うだけで俺の気持ちも心細くなる。
親父も頑張っているし、母ちゃんも親父と結婚してよかったとまで言ってたけど、俺は母ちゃんに死んでほしくないよ・・・
彼女もまだ紹介してないし(まだいないから)、孫の顔も見せてないんだよ
4~5年以内にはこっちで家建てて親を呼ぶつもりだったんだよ
80くらいになったら(そろそろかな・・・?)なんて嫌な想像もしつつ親の死を受け入れると思ってたんだよ
なんでそんなに早いうちからなんだよ
本当になんでしか口にできない。
予想以上に叱咤激励いただいて、本当にありがたいと思う。
既に家族を亡くされた方や、現在進行形で闘病中の家族がいる方、さまざまな方からのコメントは非常に悲しかったが、また慰めにもなった。
悲しいというよりは、悲しみが伝わってきたというほうが正しいのかもしれない。
やっぱり誰の死でも、予想以上に速い別離は非常に悲しいものだと改めて思った。
昨日、思いきって母に病状のことを聞くことにした。
トリプルネガティブ乳がんと聞いてから、あまりにも怖くて病状のことを聞くのを避けていた節があったのは事実だ。
でも多くのコメントに(このままではいけない)と背中を押され、聞くことにした。
実は10/1からCT検査やMRI、追加で多くの検査を行っていたらしかった。
追加の検査を受けることになった際には、さすがに転移を覚悟していたらしく、気分の落ちようがすごかったと話していた。
結果は転移なしだった。
冗談抜きで、痛みや悲しみ以外の感情で泣くということを経験した。
でも冷静に考えれば安堵もできないんだよな、状況は好転したわけじゃなくて並行移動したままなんだから。
今日も仕事中にTNBC(トリプルネガティブ乳がん)について調べていた(許して)。
依然として今後も楽観できるような情報はなく、やはりというか、暗い思いになった。
それでも、コメントしていただいた方のおかげで、後悔しない選択をしていきたいと、そう思えるようにはなった。
まずは手紙を書きたいと思う。
この間手紙に関する映画を見たばかりだし、思いを伝えることは大事だなって思ったから。
コメントでもいただいたが、やはり父親もつらいようで酒の量が増えたらしい。
少し調べてはいるが、アルコールのがんへの影響は「確実」としている結果と、「影響あるかはわからんね」としている結果がある。
健康にもあまり良くないし、毎日飲むのは良くないんじゃないかな?とは思う。
参考になるかはわからないが、以下に勉強になった本を記録しておく。
同じような状況の人が少しでも気が楽になるように(気を楽にすることくらいしか他人にはできない)。
アマゾンのリンクしか貼っていないが、特に私自身に何か還元されるものでもないし、リンクトは別に調べて買っていただいても結構です。
がんに関する情報は虚実さまざまあり、当事者にとっては非常に選択に迷うと思われる。
確固としたエビデンスをもとに書かれた本を購入するのが一番確実と感じた。
そのため、以下には基本的に学会の名前で出している本や、がんセンターの院長が著者の本を挙げた。
この中の一つでも、わずかな情報でもあなたの救いになったら、私も救われる。
<非当事者として読む本>
・親ががんになったら読む本 主婦の友社 \1540
http://www.amazon.co.jp/dp/4074380153/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_G0dGFbYY3ME2H
・身近な人ががんになったときに役立つ知識 ダイヤモンド社 \1650
http://www.amazon.co.jp/dp/4478069212/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_S2dGFb0P29WM5
・国立がん研究センターの乳がんの本 小学館 \1980
http://www.amazon.co.jp/dp/4778037936/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_.3dGFbGX8B6NX
・患者さんのための乳がん診療ガイドライン 2019年版 金原出版 \2540
http://www.amazon.co.jp/dp/4307203992/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_94dGFbJZ9EDN9
同年代がん患者さんの情報発信がきっかけで、幸いなことにステージ0の超早期乳がんを発見したのがこの夏。
早期のがん患者は治療を終えそのままひっそりと日常に戻って行く人が多いのか、あまりインターネットに体験談も見当たらず…
この度約6ヶ月の治療を終えたので、簡単ではありますが自分の体験談もインターネットに漂流させてください。
出産直後は乳の生産が安定せず、両胸しこりだらけ(これはあるある)。
そして徐々に安定供給が始まり1年が経ち…そろそろ乳が枯れてくる時期にやってきても1箇所だけ残り続けるしこり。
丸というよりは、いびつな楕円形…?
触れて見た感じでは2センチくらい。
「ここだけ母乳が溜まりやすいのかな?なんか気になるな」と思いつつ、体調面での自覚症状は何もなし。
あと最大の難関は、自分が病院に行きたくても0歳児を預かってくれる先もなく…しこりに気づいてから半年はゆるやかに過ぎて行きました。
これまで、TVでピンクリボンの特集を見ても、芸能人が乳がんになったニュースを見ても、全部人ごとだと思ってました。
両親も健在。
でも、そんな私でもなっちゃうんですね…がんに。
しこりに気づいて半年が経ち、子が1歳になったので保育園に預けて復職。
その頃、同じ職業の30代子持ち女性の乳がん闘病記を読む機会がありました。
なんとなく「授乳中だから、関係ないだろう」で済ませていたしこりがまた気になり始めます。
「安心するために、乳腺科に検査に行っておくか」という軽い気持ちで
早めに会社を早退し病院を予約、保育園にお迎えに行くまでの1時間に検査に行きました。
過去に会社の健康診断で乳がん検診も受けたことがあり、エコー検査もマンモグラフィも受けたことがあったので、検査自体に特に不安はありませんでした。
(検索すると、よく「マンモは泣くくらい痛い」とか出てくるが、個人差あるのでビビってないでとりあえず検査には行って欲しい)
ホッとしたものの、「念のために精密検査受けますか?」と言われ、「まぁ安心するために受けとくか」くらいの気持ちで
悪性腫瘍だということがわかりました。
最終的な病理結果は以下。
あれよあれよという間に精密検査の日程が組まれ、手術日が決まり、手術決行。
ジェットコースターのような数カ月でした。
思えば、はじめに町医者に行って検査結果を待っている間が一番気持ちの谷底でした。
今、標準治療がすべて終わって当時の自分の心境に一問一答で答えて行くと
→ステージ1でも、5年生存率100%。2019年においては、早期の乳がんは治せる病です。信頼できる最新の統計データを見て一旦落ち着こう。
→医学的に、子に対して影響はないとエビデンスが出ているそうです。
→実際には、手術入院の5日間を除いては、通院しながら継続して働くことができました。焦って会社辞めないで!人事とか社労士さんに相談して!!
→テレビドラマの悲劇的な演出に毒されています…これは抗がん剤の副作用。乳がんの放射線治療では髪は抜けません。
→左胸に手術の傷はありますが、驚くことにサイズにほぼ左右差がありません。目立ちにくく仕上げてくれたそうです。先生ありがとう!医学ってすごい!
→トータルでかかった治療費は、半年間でだいたい40万円くらいでした(加入している健保で上限を超えた分はこのあと戻ってくるので、この半額以下になります)
身近に患者がいない人にとっては、先入観で「がん=治せない病気」だと思っている人も多いと思います。(私もそうでした)
正しい医学情報に触れましょう。しかも最新の。2000年代と2010年代でも標準治療の内容は変化しています。
私の場合は、夫が徹底的にここ最近のデータを調べ上げてエビデンス武装してくれたため心強かったです。
仕事をしていたから、がんのことを考えすぎずに生活できたと思います。
身近な例としての啓発も含めて、割と気軽に周囲の友人にカミングアウトしていたのですが、
友人がドン引きしてしまい変な空気になってしまったことが何回かありました。
相手も、わたしとどう接していいかわからなかったんだと思います。
そもそも「相手に自分が乳がんであることを伝えて、どうしたいのか?」を考えた方が良いなと感じました…。
子育て世代のみんなー!皮膚科、小児科、耳鼻科…子の通院行脚お疲れ様です!
自分の通院ってついつい後回しになるよね。わかる!
あとこれを読んでるパパさん、ママが検査に行くために会社を遅刻/早退して子供を見ていてくれると嬉しいです。
ひとまず一区切りということで。
驚くほど多くの人に読んでもらえて嬉しい!あたたかい言葉ありがとうございます。一点だけ補足。
【町医者はどうして見逃したのか?】
「曖昧な記述があってはいけない」と具体的な医学情報を端折った関係で、言葉足らずになってしまいました。
近所の乳腺科では「穿刺吸引細胞診」という検査を受けました。これは即日検査できる反面、取れる細胞も少ないので確定判断が難しいそうです。(ちなみに転院時、検体を大病院にも持ち込みましたがそちらでも「良性」との判断でした)
大病院では、局所麻酔をして更に多くの細胞を採取する「針生検」という検査を事前予約して行いました。
ステージ0で見つけるのも難しい段階のがんだったと思いますし、むしろ町医者の先生が適切に大病院へとご紹介してくれて大変感謝しております!先生ありがとう!!
外国に比べて人口比でベッド数が多いから、減らすってアホじゃないのか?
日本は、限界まで生存期間を延ばそうとして、既に四肢が拘縮している高度の認知症で発語も追視もできない高齢者に平気で胃ろうを作るのが現状だよ。
医療側は生存期間をできる限り延ばそうとする。なぜなら、それを患者側、特に患者の家族側が望むからだ。
生存期間をできる限り延長しようとすれば、そういう患者が増える。そういう患者が多くなれば、在宅介護は無理だから長期入院になる。
日本は外国に比べて在宅での介護力が低いからこうなるんだよ!それも当たり前だ。上記のような患者を在宅介護なんかできるわけがないんだから。
要するに、できる限り生存期間を延ばそうとする治療行為を止めさせることが最も必要なのに、ベッド数を削減なんて全く方向違いの政策だろう。
寝たきりの状態になったら、原則的にすべての内服薬を中止するように勧告せよ。
透析治療は1年までを期限として、1年以上継続する場合は保健診療ではできないようにせよ。
75歳以上の抗がん剤治療及びがんに対する手術/放射線治療を保険診療から削除せよ。
根本的な原因に目を向けずにベッド数を削減なんてことを断行したら、生存期間を延長させることを要求する患者家族側と医療側の溝が深くなって、もっと医療不信が強くなるだけだろうが!馬鹿じゃないのか!
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191028/k10012153731000.html
父親が亡くなってから、早いもので二ヶ月が経った。肺癌が主な原因だった。
私は父親が嫌いだった。昔ながらの亭主関白な夫と言えばわかりやすいだろうか。母を召使いのように扱い、母がいなければ娘の私を扱き使う父親だった。
例えば夕飯時、口を開けば「早く箸を持ってこい」「飲み物を持ってこい」と偉そうに命令した。反発すれば怒鳴り散らし、机を叩くなどして威嚇する。その影響で私は人が(特に男性が)怒っていたり怒鳴っていたりすると、身が竦むほど恐ろしさを感じるようになったぐらいだ。
父親は典型的なクレーマーでもあった。理髪店で自分の気に入らないヘアカットにされた時は、相手が泣くまで怒鳴りつけたそうだ。同じことを他の店でもしている。本人が武勇伝のように語っていた。相手に落ち度があるのはさておき、そこまで怒る必要は断じてないし、店員にどんなトラウマを植え付けたのか考えるだけで忍びない。
そんな父親ではあったが、小さい頃は私を目に入れても痛くない程に可愛がっていたようだ。記憶は薄れているが、確かに可愛く思っていたのは事実だろう。しかし私はその愛情に、思春期らしい気持ちの悪さを感じていたことを覚えている。今思えば、それは都合の良い人形を可愛がるようなものだったからではないだろうか。
小学生ぐらいの記憶を引っ張り出してくると、休みの日に父親が家にいたことは稀だった。一人もしくは母とパチンコへ行くことが多かったからだ。いたとしても日がな一日ゴロゴロと寝転がっているだけで、家族で出かけるようなことはなかった。泊まりで旅行など、温泉に一度行ったきりだ。
今や定番であり行ったことがないというだけで子供に惨めな思いをさせるというディズニーランドなど、その頃の私には想像もつかない世界だった。ある程度成長するとディズニーランドに言ったことがないのは少数派だとわかり、私は友人と話を合わせたくて「行ったことがある」と何年間も嘘をつき続けた。
「子供を可愛がる」というのは、子供の遊びに付き合い、行きたいところへ連れていき、一緒に経験を積み重ねることではないだろうか。父親からはそういった愛情をもらうことはなかった。
私には兄がいる。私とは違い、高校も大学も両親の期待以上のところへ進んだ、彼らにとって自慢の息子だ。父が兄に対して怒ったのは、小さい頃以外だと私が知る限り大学留年の危機に瀕した時だけだ。また、兄を小間使いのように扱ったこともない。
そもそも兄は私の四つ上で、中学の時は部活や塾で朝早く夜遅く、高校の時は遊び回ってほとんど家におらず、私が中学生の時にはもう家を出ていたため記憶が薄い。仲は悪くないが、まるで他人のように感じる。
そんな兄と私はよく比べられた。よくある話だ。優秀で友人も多くクラスの人気者な兄とは違い、私は特に秀でておらず人見知りも激しく友人は少ない。父にとって私は「理想の娘」ではなかっただろう。よく冗談で「お前は橋の下で拾った」と言われたものだ。私は、先に生まれただけで両親の良いところを全部持っていった兄が憎らしく恨めしく、そして何より羨ましかった。この頃の私は成績にしろ資格を取るにしろ両親が喜ぶだろうと思って行動していた。その成果である様々な賞状がうちには飾ってあり、父はよく自慢していたようだった。
私にとって父は畏怖の対象でもあり、自分を認めて欲しい存在でもあったのだ。
社会人になってからの数年間も、私は実家にいた。勤め先が実家のすぐ近くであったこともあるが、精神的に自立していなかったからだ。
その頃父との関係は冷戦状態で、口を開けば互いに怒鳴り合うこととなった。私は他人からは怒ることなどない穏やかな人間に見られていたが、それは人見知りを拗らせた内弁慶だからであり、家ではとても口が悪く我儘だった。
父は二言目には喧嘩腰に「なにぃ!?」と眉を吊り上げた。それに恐れをなして怯む自分を気付かれたくなくて、いつも怒鳴り返していた。
家を出てからはほとんど実家に帰っていない。父と口を利きたくなかったし、母とも何を話せばいいのかわからなくなっていた。
その内に私が結婚し、父が定年前に退職して数年後、肺癌が発覚した。他の病気まで併発していた。当たり前だった。あまりにも酷い生活だったのだから。
今まで何年…いや何十年と、私は両親に煙草を止めるよう苦言を呈してきた。それに加えて父は甘いジュースが好きで、見るからに不健康な体型だったが運動はしなかった。そして、職場でほぼ強制的に受けさせられる健康診断も逃げ続けた。恐らく何か見つかるのが怖かったのだろう。
退職後から発熱したり咳が続くことが多くなり、具合の悪さにとうとう病院へ行った時にはもう手遅れだ。他の病気のせいで放射線治療はできず、低血圧のため手術もできないと言われた。
それでも父はめげずに抗がん剤治療を始めた。この辺りのことを考えると気が滅入るので省くが、とにかく辛く過酷な日々であっただろう。
担当医に「今夜が山でしょう」と言われた日から二日ほど過ぎた。付き添い人である母と兄はゲッソリとしていた。父は夜中の決まった時間にパッと目を覚まし、叫び暴れるのだと言う。「痛い」「苦しい」「殺してくれ」と。
モルヒネの量を増やしたため、父は最早会話ができなかった。たまに独り言を呟いたり、かと思えば急に会話に入ってきたりしていた。
私が最後に父を見たのは亡くなる三日前だ。まるで死を待つように、ただベッドに座ってぼうっとした目で息をしている父の姿に、私は何故か涙が込み上げて部屋から逃げ出した。それ以上見ていることができなかった。
寝れなくて辛いから付き添いを代わってくれと兄に頼まれたが、今の姿ですら見ていられないのに暴れ出す姿を見たら更に正気でいられるはずもなく、断るしかなかった。兄はこのことを恐らく恨んでいるだろう。
母からの電話を受けて夜中に病院へ向かった。道中、ずっと涙が止まらなかった。
父のことが大嫌いだった。父そっくりなせいで私は不細工だし、すぐ怒鳴りつけるし、母や私を扱き使うし、我儘で自分勝手で金遣いも荒く、不貞を働いたこともある最低な人だ。何度となく「死ねばいいのに」と思った。
それなのに何故、涙が出るのだろう。何故、苦しんで死んだのだと思うと辛いのだろう。何故、遺品である携帯やタブレットから父の痕跡を辿っては苦しくなるのだろう。
今もまだ、父を思い出すと胸が詰まったような気持ちに苛まれる。
葬式が済めばすっかり日常に戻れるぐらい父に対して思い入れがないというのに、ふとした時に見てもいない死に際を思って胸が詰まるのだ。
きっと父は長生きしても人に迷惑をかける老人になったであろうから、早くに亡くなって良かったのだと思っている。
生きていたら、やはり何度となく「死んでくれないかな」と思っただろう。
今日、もう稼働しなくなった家族全員のグループLINEがふと目に入った。入院中の父が母へ毎日のように「あれ買ってこい」「早く来い」とそこに送っていた。そのやり取りを見て、どうしようもなく誰かに吐き出したくなった。
両親が怪しい「手当て」にハマっている。
父78歳 母70歳。
月に1度、車で片道2時間かけて「おばあさん」に会いに行く。
その「おばあさん」は身体に手をかざしただけで悪い場所を探し当て、気を送って治す。
時にはグイグイっとその患部と思われる所を押す。(医療行為に当たるので違法では…)値段は安く、数千円との事。
そんな事を数年続けていたが、先日 母が癌を宣告された。
骨に転移もしており、ステージは告げられていないが症状はかなり進んでいるように見える。
数ヶ月前から痛みを訴えていたが、原因が見つからず、病院を何件も周ってようやく癌が見つかった。
「おばあさん」に癌は見つけられなかった。
即入院となり放射線治療が始まった母。足元がおぼつかず、転ける事もしばしば。
父曰く…「『おばあさん』が毎晩強めの気を送ってくれている。気が強すぎると転けてしまうから夜8時頃は横になっておけ!転倒の原因はソレに違いない。」との事。
また、「骨に転移してなかったら病院ではなく『おばあさん』の所に連れて行くんだけどな~これまで『おばあさん』の手当てで癌が消えた人が何人もいる。」とも。
個人的には神頼みや迷信、願掛け、更には輪廻転生や死後の世界、不思議な力の類を全く信じておらず、「そんなモン」にハマる父を理解出来ない。
これから先、病院での放射線や抗がん剤治療を止めたり、「おばあさん」から高額な請求をされたら真剣に父と話し合おうと思う。
二十代後半で乳がんが見つかった。
乳腺症のひどい胸をしていて、二次性徴が見られるころからずっと胸が痛かった。
二十代半ばをすぎたころから何となく胸全体が柔らかくなった気がしていたけれど、
よく触ると固い部分があるからやっぱり自分の胸はこういう胸なんだと思った。
巨乳にあこがれて、理想はEカップだったけれど、長い間Cカップだった。
がんが見つかる2,3年前に下着屋さんで測ってもらったらDカップになっていた。
Dカップも小さくはない部類だなとのんきに考えてはいたけれど、
しこりが大きくなってきているのは薄々感づいていた。
自然と乳がんの話になり、乳がんは肉まんの中に梅干しのタネが入っているみたいな触り心地らしいよ、と、年上の同期が言った。
肉まんの中に梅干しのタネ入ってるのなんか触ったことないですよね~、と、呑気なフリをしていつもの通りおちゃらけて私は返事した。
実は私の胸にもしこりがあるんですよ~、触ってみます?と、いつも通りの雰囲気で、しかし内心焦って続けた。
胸のしこりは、想像の中にある肉まんの中の梅干しのタネに触り心地がそっくりだった。
彼女たちは触らず、微笑みながら言った。
帰国して約一か月、土曜日にトイレでぼんやりしながら、そういえば、と思い出した。
何となく人気らしい病院を選んだ。院長が講演活動なんかもやっているらしい。
電話がつながったものの、案の定、初めての患者は一か月くらい診てもらえないと応答した女性は言う。
「しこりがあるようなら、うちじゃなくても良いんで、一刻も早く診てもらってください」
あまりにも真剣な声だった。電話で問い合わせただけの相手に言うにはあまりにも真剣だった。
予約がとれなければ面倒だからやめとこう、そう考えていた私に次の病院へ電話をかけさせるには十分すぎる熱量だった。
仕方なく次の病院に連絡をしたら、その日のうちに検査ができた。
マンモグラフィーは痛いものだと健診で受けたことある友人から聞いていた。
それにしても痛すぎるのではないか。
それまでの人生、私は自分が痛みに強いのだと思って生きてきた。根拠があるわけではないのだけれど。
しこりのある胸を挟まれた時、あまりの痛みに体が震えて、冷や汗が出た。
検査技師のお姉さんに肩を抱かれて、一旦休憩しようかとベッドに座らされたときにパニックになりそうだった。
こんなに痛い検査が侵襲性のない検査とされているのがおかしい、どうかしている、
痛みを我慢できなくて恥ずかしい、情けない、あまり働かない脳みそを使ってぼんやり考えた。
しこりの少ない胸を検査された時も痛かった。だけども反対側より随分と楽に思えた。
自分の名前を呼ばれて診察室に入った時に、お医者さんからかけられた第一声は「大丈夫?」だった。
大丈夫ではなかった。血の気が引くとはこういうことをいうのかとしみじみと考えた。
そういう知識は持っていた。普通の会社員として働いてはいるけれど、学校で習った。
エコーでお医者さんが見せてくれたしこりは、もこもこしたクリームパンのような形をしていた。
お医者さんは、難しい顔をしている。モデルのように美しい女医さんだ。
良性の腫瘍の表面はつるりとして、悪性の腫瘍はデコボコしている。
そういうことも学校で習った。
これがもしも何ともなければ、がん保険に入ろう。
だから大丈夫だ、言い聞かせるように胸の中で何度もつぶやいた。
医師の友人に連絡をとった。
友人はマンモグラフィー読影の講習を受けたばかりだから何でも聞いてくれといつになく自信にあふれていて、
エコーがこうで、というと、段々と友人の返信に元気がなくなってきた。
当時、転勤になったばかりで、それまでとは全く別の職種にコンバートされていた。
それまでは暇で仕方なかったのだけれど、打って変わって忙しく
新しい職場は単身赴任のおっさんばかりで、慣れない環境に日々翻弄されるばかりだった。
登録していない番号に胸騒ぎがする。折り返すと病院に繋がり、すぐにお医者さんへと代わった。
電話で細胞診の結果を言うことはできない。でも詳細に検査がしたいので予約時間を変更してほしい。
結果を言うことができないも何も、それは告知のようなものではないのか。
人生を揺るがすほどの言葉を、私は残業中に、会社の非常階段で受け取った。
診察室で細胞診の結果を見た。
あまり詳しくはないけれど、学校で見たことのあるような悪い顔をした細胞が並んでいた。
バコラ生検といって、皮膚を切って漫画のような太い針をした注射器のようなもので組織を吸い上げる。
局所麻酔を打つ。痛みがありますよ、なんてお医者さんは言ったけれど、マンモグラフィーの方がよっぽど痛い。
検査をしてくれた個人病院ではなく、大学病院へそのまま紹介状が書かれた。
色々な説明を受けた。
詳細な検査なしにはわからないけれども推定されるステージ、予後、タイプによる治療方法の違いや色々。
がんのサイズは3cmあったので、ステージⅡ以上は確定だと、悲しい顔で告げられた。
「先生、すぐ治りますか」お医者さんにバカみたいな質問をした。
「うん、すぐに元気になるからね」お医者さんは、今思えばとんでもない嘘つきだった。
大学病院での検査の結果、私はホルモンレセプター陽性、HER2タンパク陽性だった。
簡単にいうと、乳がんの治療薬に対して感受性が良いから治療しやすいタイプだ。予後も非常に良い。
その時は、結果に対して良いことだと感じた。
しかしそれが不幸なこととだと後々思い知る。
術前に二種類の抗がん剤をし、術後に放射線治療とホルモン療法をする。
卵巣の保護とがんの発育を防止するために女性ホルモンを止める注射を打ち
手術は、温存できそうであれば乳房は温存、シリコンは30年で入れ替える必要があるからおすすめはされなかったので
術中にすべてが終わる、同時再建となる。
私の乳がんは治療効果が出やすい。出やすいということは、可能な限りの治療法をすべてやってしまうということだ。
予後が良いことと、元気に余生を送ることは違う。
若いから体力がある、回復が早い、とあまり知識のない周りは言う。
元々同い年の友人と比較しても筋肉痛になりやすく新陳代謝の良かった私に副作用はてきめんに出た。
2,3回の抗がん剤でがんは柔らかくなり、一種類目の抗がん剤を終えるころには触れることさえできなくなった。
それでも、標準治療という、乳がんに決められた治療は命に関わる副作用でもない限り続けられる。
味覚障害にならなかったことで体重はどんどん増えていってしまった。
病気のストレスでどんどん食べる。抗がん剤の副作用の吐き気がおさまれば、
副作用止めのステロイドのせいで食欲がとどまることを知らない。
乳がんです、と職場に言えば早期と言った覚えもないのに早期のがんの扱いをされる。
実際に早期の分類ではあるものの、どうせ早期なんだろ、と軽くみられるのは納得いかない。
咳が止まらない風邪のおっさんが、俺もガンかな、と独り言を言う。
病人扱いはしない、と言われたけれど、仕事は当たり前に1人分用意されていて
懇願しないと手伝ってもらえない。
確定診断の前、がんかもしれないと連絡したらいつもお前は私たちを驚かせてばかりだとなじられた。
そのあとに、あんたが落ち込んでると思って、と電話をかけてきた母に優しさは感じたけれど
最終的にはがんは自業自得だと罵られて終わった。
突然健康と容姿を奪われてしまって、なおかつ職場と家族の理解が伴わない、そうなると当然頭がおかしくなる。
手術はうまくいった。乳首も残せた。傷跡も自分ではそれほどは気にならない。
少しずつ萎縮しているようで、元々がん抜きにしても健側の乳房より大分おおきめだった乳房がかなり小さ目になっている。
それでも医療機関で新しいスタッフに出会うたびにきれいだと褒められる。
術後4年とそろそろ半年がくるが今はがんのためには何もしていない。
時期的にはそろそろ寛解といっていい。
手術痕はきれいなものの、剥がれた背中の筋肉や、弄り回されて傷ついた神経は軽い疲れや天候不順で大いに痛む。
この手術がうまくいっていないようで周辺のスジがひどく痛むし、こうしてキーボードを打っていても
薬指や小指のあたりに力が入らない。
抗がん剤で傷ついた手の表面の神経はいまだに感覚が怪しく、ざらざらした布を撫でると奇妙な不快感を覚える。
足も不意に菜箸でつつかれるような痛みを覚えるときがある。
私は元々婦人科系のホルモン疾患があって、ピルを飲まなければ日常生活を送ることすら困難だった。
しかし、ホルモンがエサになるタイプのがんだから使用することができない。
ホルモンの乱れ、心身に蓄積したダメージ、見た目が元気そのものだからこそ理解されないタイプの不調を抱えている。
こんな体調だし、あまり弱みを他人に見せることが好きではないから彼氏はいない。
太ってしまったものの、髪の毛は生えてきているし、我ながら顔は普通レベルには整っている方だと思う。
だけれど、結婚して、子供を産んで、ということは私には夢物語だ。
人生で一番色恋にうつつを抜かさなければならない5年間私はひたすらに体調が悪くて自分の世話さえままならない。
がんが連れてきた不調によっては死に至ってしまうかもしれない。
幾度も孤独な夜を越え、みじめさと苦しさと痛みに、毛のない頭を抱えてもだえ苦しんだ。
粘膜が弱って、鼻が蛇口になったのかと思うほどの量の鼻血が出たこともあった。
ホルモン療法を始めてすぐはひどい鬱状態に陥り、首を吊りたい欲求を抑えることに必死になった。
それと比べれば瞬間最大風速は今の方がぬるい。
でも、終わりもないし先が見えない。
次にがんができたら、そう、一度でもがんを体験したことのある人間なら頻度はともかく頭に浮かぶだろう考え。
できれば死にたい。
何もなくて、安心を得る人もいる、見つけて、切って、はいおしまい。で済む人もいる。
でもそうでもない人もたくさんいることだろう。
そもそも私は乳がん検診適用の35才より若くに自分で病院にかかったから
がんサバイバーがエネルギッシュな姿をさらすことは勇気を与えるかもしれない
でもサバイバーがエネルギッシュにならなければいけないという無言のプレッシャーがある。
現に、私の母は新聞で見た乳がん患者はこんなに元気なのに、あんたはいつまで病人気取りなんだと叱責してきた。
元気がない人にも声を上げさせてほしい。
下手にがんが見つかるとこういう辛い思いをして、死ねずに生きる羽目になる。
だからそれでも生にしがみつきたい人だけが検診をする覚悟を持てと。
やさぐれて、どうしようもなくて、地の底を這いずり回って泥水すするような気持ちで毎日を送る羽目になるぞ。
末期で見つかっていれば、大事な人にありがとうと、嫌いな人へ呪詛を伝えて心軽く天国だか地獄へ行けていただろうに。
病気になる前よりずっとずっと性格が悪くなってしまって悲しい。
長い長い、そろそろ自分を乳がん患者と呼ぶのにためらってしまう三十路女の独り言。
たくさんの方に愚痴に付き合っていただけたことに、少し気分がすっきりしました。長くてすみません。
Amazonの欲しいものリスト!?公開したら物をいただけるの!?さもしい私は飛びつきそうになりましたが、三十路レディなので澄ました顔で見ない振りができます。
お肉食べたい!不眠改善のために良い寝具欲しい!楽して痩せるダイエット器具!
…物欲は止まることを知りませんが、あなたの周りの少し元気がない人に美味しいご飯やおやつをごちそうしてあげて下さい。
回り回っていつか私がご相伴に預かることになるかもしれません。
◆母のこと◆
クソ!母親が!!うちひしがれている娘に!!!そんなことを言うだなんて!!!と、当時発狂しそうに悲しんだんですけど、母も恐かったんでしょう。
恐がりなんです、恐がってる自分を受け入れられなくて、私に当たることしか出来なかったんだと思います。
今も、私が一刻も早く普通に戻れることを期待しています。私の体調が悪いこと、気持ちの落ち込みがあること、すべてを気の持ちようで片付けようとしています。
私は、母の中では病人であってはならないのです。あって欲しくないのです。
だからと言って、娘に言って良いことと悪いことの区別がついていない理由にはなりませんが。
母は、母なりに私に愛情を持っていることだけは誤解されたくなくて追記しました。
内弁慶で臆病なおばさんなんです。
ちなみに、近親者で乳がんは父方の祖母(60代発症)だけで、姉も、おばや従姉妹、その他男性、他に誰も乳がん患者はおりません。
◆職場について◆
国家資格は取得しているものの、勤めている会社ではその資格を使ったお仕事はしていません。
ですので、デリカシーのないおっさんらもあんまり医療知識がないです。
とは言え、どう考えても非情な対応をされたことは間違いありません。
もっと貶してください。
叩いて下さい。
あの頃耐えて笑っていた私が報われます。
今は優しい人達の多い職場に転勤しています。仕事にも人にも恵まれています。
泥水をすすりすぎて、濾過した雨水うめぇ!水道水最高!って言っている状態なのかもしれません。
分子標的薬で心不全症状がガンガン(乳がんだけに)出ていた最中に引越しを伴う辞令を出した会社には多少わだかまりはあるものの、結果オーライで職場環境は確実に改善されています。
それでも体が辛いものは辛い。
そうなんです、八つ当たりなんです。
わかっているんです。
気軽に乳がん検診に行こう、それで簡単な処置で助かる命がある、それは尊いことなんです。
ファッション感覚でピンクリボン、ウェーイ!としている女子が妬ましいんです。
ウェーイしている女子がいるからこそ気軽に検診が出来る、それが本来の目的なんでしょう。
ただ、若年性乳がんって、乳がん全体のほんの数%なんです。貧乏くじ引いてしまった感が否めないんです。
元々ちょいちょいツイてなかった私が、こんな所でもツイてなかったかー、と。
妬ましく思っても許して下さい。
エネルギッシュに闘病体験を語って、良い感じの活動をしている先輩サバイバーを見て、そうはなれない(なりたい訳でもないけれど)不定愁訴がしんどいんです。
残っている後遺症のようなものも障害レベルではなくて、1個1個は誰しもが抱えている何らかの不調なのかもしれません。
不調の数が多すぎて、歯車がガタガタで、支える気力も尽き果てた状態が今の私です
ぶっ飛ばさせて、レッドリボン軍だか、クリボーだか、びっくらぽんだかのアイツを。匿名のこの場でくらい。面と向かっては、きっと吐き出せないので。
優しい言葉をありがとう、長い愚痴に付き合ってくれてありがとう。
嵐のような感情の発露は鍵付きのTwitterだけで行っていました。
初めて書き散らしたこの場で、思いもよらずたくさんの方に見ていただけて、嬉しく思います。
大好きなアーティストに懇願して(服の上から)触って貰ったことあるので、本体の私は乳のせいで地獄のクソ煮込みをわんこそばで注ぎ込まれている割に、乳だけは世界で1番幸せ者かもしれません。
増田でも時々骨髄バンクや移植について話題になっているのを見かける。
私もそれに関わる立場になったので初めてエントリーしてみることにした。
この度私は骨髄を提供してもらう側になった。つまり骨髄移植が必要な病気になったということである。私は20代前半だ。
正式にはまだバンク登録をしていない、HLAハプロタイプを調べただけの段階だ。病状の経過が悪く、先に抗がん剤治療が必要と判断されたため、まだ骨髄移植の日程を決められる状態にないのだ。
しかし、すでに雲行き怪しく、日本人には非常に珍しい型だという結果が出ている。なんでも、0.0001%以下だとか。HLAの検査結果にも、「非常にまれ」と書かれてしまった。
現在バンクにドナー登録していただいている方との適合率も調べたが、フルマッチはいない。ミスマッチも数人という結果だった。
日本骨髄バンクが公開している現在の登録ドナー登録者数は74万人強、ドナー登録数は48万人強、適合報告ドナー数は30万人弱である。
患者とドナーの適合率は約3割だそうだ。そこからさらにふるいにかけられて、最終的に骨髄提供および移植日が決まる。
患者は適合するドナーが見つかるまで、病気を抱えたまままずは体力を温存しつつ生きなければならない。
ドナーはいつ見つかるかわからない。なぜならドナー登録は善意の行動で、適合するかどうかは運次第なのだ。
2〜3ヶ月で見つかる人もいれば、半年かかる人や最期まで見つからない人もいるだろう。
HLAハプロタイプ は生まれながらに決まっている両親から受け継いだ白血球の遺伝子型である。変更はできない。
自分のHLA型が珍しかろうと頻出型であろうと、その時ドナーがいなければ移植はできない。
出る時は出るし出ない時は出ない、なんて過酷なガチャなのだろう。
残念ながら「出るまで回せば100%」なソシャゲ脳的思考は通用しない。
それはドナーさんの善意に頼った骨髄バンク制度であり、何よりドナーさん自身にも少なからずリスクのある治療だからだ。
現状のドナー制度は、病気になるまで考えもしなかったが、限界に来ているのでは?と感じることがままある。
善意だけで人の命は救えるのだろうか。
骨髄ドナーは、命のボランティア、いや命がけのボランティアである。
それでも、バンク登録患者が一人でも多く生き残るためには、一人でも多くのドナー登録が必要だ。
きょうだいなど、ハプロタイプの近しい親族がいる場合を除き、命がけのボランティアをお願いする以外に方法がないのである。
ドナー登録自体は各献血ルーム等で比較的簡単に、すぐに登録可能である。
ただし登録後、適合患者が見つかりドナー候補となった場合、非常に面倒と言える書類審査、家族や医師同席での最終的な同意、提供完了までの厳密な体調や薬の管理が必要となる。
骨髄バンクのドナー登録条件はドナー登録に関して十分理解した18歳以上54歳以下、男性45kg以上女性40kg以上の健康体の方である。詳細は是非日本骨髄バンクのHPを参照していただきたい。
このような条件である以上、ほとんどの方は学校や会社勤めであろう。
もし候補者となった場合、そちらにも報告し、数日間入院しての骨髄提供への理解・許諾を得なければならない。
また、自治体や民間団体によってはドナー提供者へ助成金を出しているところもある。
それでも、患者の命のためとはいえ、そこまで善意でできる人間はそう多くはいないだろう。
返せるものは厳密に個人情報等を隠した手紙一通と、ドナーさんに直接知らせることは叶わないその後の病状の回復・社会復帰だけなのだから。
ミスマッチとは1型欠けの許容範囲内の合致数で、それも数名である。
私の命が助かるのかどうか、今は誰にもわからない。
数名の彼らがたまたま運良く都合がつき、体調も良好で、私自身も移植するだけの体力があるタイミングを引き当てなければいけない。
それでも、見つかるまでは生きなければならない。
何があっても生きなければ、移植後の人生は存在し得ないのだから。
言いたいことがまとまらないエントリーで申し訳ないが、願うことはただ一つ、一人でも多くの方にドナー登録に協力してほしいということである。
登録は簡単であっても、適合候補になった場合の手続きが面倒ということは重々承知している。
それでも一人でも多くの方にご協力願いたい。
時間がかかってもいい。いつか私のドナーさんが見つかるように。それだけを願って。
そして一人でも多くの方がドナー登録にご協力くださいますように。
それだけを願ってやまない。
反応くださった方々、ありがとうございました。
記事を書いた時点では存じ上げなかったのですが、10月は臓器移植・骨髄バンク推進月間なんだそうです。
元増田にも書いた通り、命がけの善意のボランティアを"お願い"する以外、患者にできることはありません。
HLA型の適合率は、非血縁者の場合数百〜数万人に一人と言われています。
一人でも多くの方がドナー協力してくだされば、骨髄移植が必要な患者はその後の人生を得られる可能性が上がります。
私はまずは骨髄移植が受けられる状態になるまで、血液内のがん細胞を叩かなくてはなりません。
骨髄移植でも死ぬ可能性は大いにありますが、骨髄移植の前処置としての抗がん剤・放射線治療にも死のリスクがあり、何より移植後が一番大変と聞いています。
移植までも生きなければなりませんが、移植後も多くの問題を抱えながら生き延びなければなりません。
医療技術の進歩した現在でも、骨髄移植はかなり高度な治療技術なのです。
フルマッチとミスマッチ、なかなかこういう使い方をする場面はないでしょうが、骨髄移植の世界ではよく使われる表現です。
本当に全てが運次第なのです。
記事へのコメントで、売血の問題にも触れられていましたが、現行の制度が色んな意味で滞りなく進むやり方であることは承知の上で、それでも負担を考慮すると何も返せないのが心苦しい思いです。国や自治体でもっと何か補助があればいいのですけどね。
移植後、様々な問題を乗り越えて社会復帰して、幸せな人生を少しでも長くまっとうすることがせめてもの返礼と考えるしかありません。
また、記事への反応で親兄弟肉親でも命がけのボランティアだと指摘を受けましたが、おっしゃる通りです。
しかし、その命がけのボランティアを赤の他人に協力してもらうのと、肉親に協力してもらうのとでは、肉体的・心理的・社会的負担が大きく異なることは確かだと思います。言葉足らずですみません。
それから、現在ドナー登録をしてくださっているみなさん、過去登録していただいていたみなさん、骨髄ドナー経験のあるみなさん、登録を考えてくださっているみなさん、本当にありがとうございます。
一人一人にお礼を言って回りたい気持ちでいっぱいです。
あなたたちの勇気ある善意のボランティアのおかげで、生きられる方がたくさんいらっしゃいます。
ご自身の負担も大きい骨髄ドナーですが、血縁ドナーがいない患者にとって非血縁者ドナー(骨髄バンクの登録ドナー)さんは、「生きる」ための選択肢を与えてくださる存在です。
「生きる」ために不可欠と言っても過言ではありません。
この増田が一人でも多くの方の目に触れ、骨髄移植や骨髄バンク、ドナーに関する理解がより深まるきっかけになれば、これほど幸いなことはありません。
私もがんばって生き延びます。
物心ついて間もない時期に、母から無理心中を迫られたことがある。
死についてよく分かってなかった自分は、「死にたくない」と母に答えた記憶がある。
母はその場で泣き崩れ、何とか死なずに済んだ。
後で詳細を描くかもしれないけれど、自分の生まれた家庭は不完全家庭だった。
とにかく、その日から、死ってなんなんだと考えこむようになった。
幼稚園に上がってしばらくした頃、悩みはピークに達してあまり眠れなくなった。
周りの子供に相談しても不安がらせてしまって、当時の幼稚園の先生からこっぴどく怒られた覚えがある。
書いてて思ったけれど、幼児が眠れなくなるって大ごとだ。
小学校に上がってからの記憶はほとんどない、ただ周りに合わせてテキトーに振舞い続けた。
唯一記憶に残っているのは三年生だった時で、担任が超熱血教師だった。
うちに家庭訪問しに来た時、和室に入った時の言葉は今でも覚えている。
和室にある仏壇を見て、「ああ、創価学会員でしたか、うちは妻が幹部をやっておりまして。ちなみに私は共産党系です。」
当時はあまりピンとこなかったが、しばらく経ってから自分で調べてみた。
親に連れまわされて行っていた会館などの集いも、小学校に上がる前に全力で拒否して行かなくなっていた。
当然親からは殴られた。それでも反抗した。
父はそれほど熱心でもなかった、気が向けば仏壇に手を合わせている程度。
三年生だったころはその熱血教師とも気が合って、それなりに楽しく過ごせた。
でも家庭はぐっちゃぐちゃで、母からよくなじられた。
「お前が(ryから父さんもあまり家庭と向かい合ってくれない。」
父も父で、母に対して気に喰わないことがあると自分を経由して文句を伝えさせようとしてきた。
言わないとそれはそれで面倒なので、父の伝言を母に伝えた。
母は激怒し、私に当たり、そして父にこう伝えろ、と迫る。
そういう板挟みが続いたころ、もうどうしようもなく死にたくなって、自宅で包丁と飛び降りコンボを使って未遂を起こした。
ベランダの上に立って、首を切った瞬間に飛び降りようとしたのだった。
その時、家には誰も居なかったのだが、実行しようとしたタイミングで母が帰ってきていた。
私は母に気が付かず、後ろから羽交い絞めにされた。
母は号泣していた。
この人、昔心中を迫ってきたくせに泣くんだなと思った。
「あなたはこんなことする子じゃないでしょ、何があったの?」
いやいや、目の前でこんなことをしようとしてたのが、アンタの子だよ。
中学に上がってからの記憶もあまりない、気が付いたら中二の年越しで食物アレルギーを起こした。
唯一携帯電話を持っている友人が私の家族に電話しても全く出ず、友人たちは仕方なく私を自宅に運んでくれた。
寒い、寒い、とうわごとを繰り返す私に友人が毛布を掛けて温めてくれる。
両親が帰ってきたのはそれから2~30分後。宗教の集会に行っていたらしい。
そして病院に運び込まれ、友人と両親、私は病院で年越しをした。
「蕎麦アレルギーで年越しとは幸先が悪いね、ハハハ。ところで、その手首の傷は自分でやったの?」
思いがけない質問が飛んできたけれど、意を決して私は頷いた。
あとで知ったけれど、その医師は小児神経科も診ることが出来る人だった。
「…二時間くらい。」
「何とかしたいと思う?」
私は静かにうなずいた。
私につけられた診断名は自律神経失調症とそれで発生した鬱、そして重度の不眠だった。
治療内容は、ルボックスという抗うつ剤と、生活リズムを記録につけるように指示された。
治療は三歩進んで二歩下がるという感じの速度で進んでいき、気が付いたらリストカットをやめていた。
鬱がひどい時でも気合いのような何かで無理くり体を動かし、学校へ通った。
精神的に辛くて行きたくない時は、母が私をぶん殴って無理やり車に乗せ、保健室に突っ込まれた。
そんな凸凹でも何とか成績は維持していたらしく、高校入試は指定校推薦を受けることが出来た。
ちなみにこの時点でまだ鬱の治療は続いている。
「お母さんの信心が届いたおかげよ。」
この人は自分のやっている事しか見えていないんだな、と思った。
不思議なことに落胆はしなかった。
あきらめていたんだと思う。
高校は楽しい記憶で埋め尽くされていたけれど、相変わらず頭の中は生死の概念を掴むことに夢中だった。
高2の春休みが終わる頃に、自転車で日光に行き、華厳の滝に飛び込んで、すべて終わらせようとした。
夜の7時ごろに家を出て、携帯の電源を切って、ひたすら自転車を走らせた。
国道四号線をずっと北上し、もうそろそろ日光につく頃だったと思う。
東の空が明るくなった。
夜明けだ。
夜明けなら、夜はどこに行ったのだろう?
そう思って反対側を見るとまだ夜だった。
月と太陽が同時に見えた。
その時の自然の美しさに心を打たれてしまって、私はその場で泣き崩れた。
けっこうな時間泣いて、家に帰った。
そんなこんなで、そこから数ヶ月経過した高2の夏休みの最後に、小児神経科の主治医の判断により治療がひと段落した。
希死念慮だけは消えてなかった。
主治医の見立てでは、「まあ何とか乗り切れると思うよ、強いし。」とのことだった。
実際強かったと思う、よく耐えきれたと思う。
大学はかなり白熱した環境だったので研究や学業にのめり込んだ。
2年後の卒業を経て、私は教授のツテで食品物流会社に就職した。
仕事は楽しかったけれど、忙しい部署にいたのでしょっぱなから残業まみれになった。
今度の病名は統合失調症。
そこからは闘病しつつも、ちょくちょくバイトを始めて、そして体力的限界で辞めての繰り返しだった。
統失の治療を始めてから最初の5年の間に、母はがんで亡くなった。
悲しかったけれど、多分一般家庭の子供よりは悲しんでいなかったと思う。涙は一応出たけど。
そこから5年後に、当時所属していたコミュニティメンバーの誘いを受けて、ルームシェアみたいな環境に引越しをした。
そして実家に戻ってきたときに、もう一人友達付き合いが続いていた元恋人が自死。
私が実家に引っ越してから、父の治療は順調に事が進み、抗がん剤と放射線治療、本人努力の甲斐があって腫瘍が消えた。
これには驚かされた、父本人が一番驚いているけども。
あとは5年間再発が無ければ安心とのことだった。
そして現在に至る。
今日は暇だったので、思い出しながら勢いでバババっと書いてみた。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
お互い、人生を良い旅にしていきましょう。
眼窩の裏あたりに扁平上皮癌が出来ていると。
放射線治療も投薬も切除も出来ないので、
完治は無理ですと言われた。
転移はせず、臓器不全には繋がらないものの、痛みで食べられない時が来て、おそらくそれは半年〜一年以内に訪れるとのこと。
それまでは痛み止めの薬をやって、食べたいものを食べられるだけ、好きな事を好きなだけさせてやって上げてください、と。
まだ8歳。早すぎるよ。。。
前の奥さんと別れたとき、お前と男ひとり猫一匹の生活が始まったっけ。
離婚したてで一人で項垂れてたとき、子猫だった癖に俺を慰めにきてたな。
いつも玄関まで迎えに来てたな。
仕事で忙しくてあまり帰れなかった時、寂しさのあまりか家にあるケーブルを齧りつくしたよな。
新しく出来た彼女を家に呼んだとき、見たことない顔で威嚇してたな。
隙あらばテーブルのご飯を盗ろうとして俺とバトってたな。
その後、奥さんとなる人と暮らし始めたら速攻で懐いてたな。
今建てている新居にはお前用のハッチ、遊び場、トイレ置き場を用意しておいたのに。使う所を見たかった。
追記
経緯をちょっと書くと、
9月頭頃、抜歯した側の目が充血し涙が出るように
10月中頃、角膜に潰瘍が発見。合わせて口腔内陥没が発見。主治医からここで扁平上皮癌の疑いありと。
先週、医療センターでCT撮って、扁平上皮癌と診断。写真で見ると頬骨の裏がなかった。。。
という感じ。あっという間。
2ヶ月前までは普通に暮らしてたのに、今では腫瘍で押されているからか、片目が閉じられない状態になってる。
ただし、食欲はめっちゃある。ドライフードは嫌がるけど、食事量は前の倍くらい。
ずっと続けばいいけど。
ググって同じ癌の画像を見たけど、かなり凄惨なものもあり、正直胸に来るものがあった。
出来るだけ長生きしてほしいのは本心だけど、痛み止めも効かないくらいツラくなるなら楽にさせて上げたいってのも本心。
わからないよ。
まだ正確なことは何も分からない。
父が大腸検査のためにクリニックにいった。内視鏡カメラで様子を見ようにもポリープがS字結腸のところで5cm程度に膨らんでいて詳しくは見れなかったらしい。
結局そこの小規模クリニックでは検査を受けることができなくて私立の大きめの病院で無理やり検査をして貰った。
ポリープは1cmを超えるとほぼガンらしくて、今がステージ3か転移しているステージ4なのかはまだ分からない。週明けに入院をして詳細な検査をするらしい。
父の自営業のことやら、親が死ぬのか?とか、自分は今年から無職をしているので今度を継ぐのかとか、別で就職するかとか、考えることがいっぱいだな
たぶん継がないけど、いや、今は上手く考えが纏まらない
2017-10-18追記:
追記してコメントをくれた人に通知が行くのかとか、よくわかりませんが追記します。
検査の結果としては、他の箇所への転移はありませんでした。一部肺に怪しい箇所もあるそうですが、腫瘍かどうかは分からないそうです。職業柄で粉塵を吸ったりするのでその影響でしょうか・・・わかりませんが。とりあえずは静観して後の抗がん剤治療で無くなるかもしれないとのことです。
今週手術をして、もう翌日には歩く訓練をするそうです。今は手術後歩かせるみたいです。
今後なんどか通院する必要はあるそうですが、早ければ今月末~来月初に退院予定です。
とりあえずは、無事のようです。
もちろん、開腹手術中に何かあるかもしれないし、大腸部分の転移?侵食?が強いかもしれない。まだ分かりませんが、とりあえずは一安心というか落ち着けます。
検査の結果が出るまで短い間でしたが、色々考えました。
事業を継ぐ気は元々ありませんでしたが、癌といってもすぐに死ぬわけではないので、事業収縮・廃業するのか、もしくは父の遺志を継いで仕事をするのか。
継ぐというのは会社の従業員の事とかもありますが、父が病魔に侵されながら最後の、何か形に残せる、もしくは目に見えないけど本当に遺せるものだとしたら、継いだ方が良いのか?とかも考えました。
親は死ぬんだ、それが改めて感じられたと言いますか、僕らが成人した時には親は50~60程度だと思いますが、そこで突然死しても「そんな、まだ若いのに。早かったね」程度でいつ死んでも可笑しくないですからね。
何もできないし、結果を待つことしかできなくて、祈ったところで検査の結果なんて変わらないと分かっているのに祈るしかありませんでした。
2017-11-03追記:
ステージは2でした。ですが大腸がん以外にも膀胱がんも見つかりました。他の部分にも癌があるのにステージ2なのか?と疑問が沸くかもしれませんがリンパ経由で癌が増えると?ステージ4となるそうです。今回は大腸がんの細胞が侵出して膀胱がんになったのでステージ2とのことです。
実は術後すぐの報告の際に膀胱がんあるのでステージ4ですと伝えられました。その後大腸がんの細胞を病理に出してリンパの転移がないと判明した訳です。
これは医者側の話術というか、希望を持たせて落とすよりは、一度落として上げてからの方が本人や家族が安心するからだと納得しています。
あとは人工肛門(ストーマ)を設置することになりました。腸の手術をすると一時的にストーマを設置する事があるようですが、父の場合は永久的ストーマになります。
2日に一度程度の周期で糞便が収納される袋を交換する必要があります。死ぬまでです。何とか人工肛門を外せないかとも思いましたが神経に触る?て間違えてしまうと糞便垂れ流しになってしまうようで、自己排便は難しそうな雰囲気を出していました。
今後は放射線治療と抗がん剤の投薬で残った膀胱がんを寛解させていきます。
最初の一ヶ月は入院をして、その後は容態を見て入院して治すか通院で治していきます。
父は大酒飲みで毎日お酒を飲んでいました。その結果がコレです。もしかしたら膀胱がんが駆逐できずに他に転移して死ぬかもしれません。もしくは膀胱がんが寛解した後に再発するかもしれません。膀胱がんは再発し易いそうなので。
自分は大酒飲みではありませんが飲み過ぎることがママありました。今後気をつける、というよりお酒を飲みたくなくなりました。翌日残りますし。
テレ東の人気アナウンサーだった大橋未歩が退職するとかいうことで、ちょっと話題になった。そういえばこの人、一度倒れてなかったっけ、と思って調べてみると、旦那の介護もあって数ヶ月で復帰したものの、その後離婚、ほどなくして若い男性と再婚という経歴になっていた。
この経歴を見て一部の人は大橋について「献身的な旦那を捨てた悪女」みたいな評価をしている。自分も最初そう思ったが、自分の周りに似たケースがあることを思い出した。自分の両親だ。もしそれと同じだったとすると、評価は逆転する。
自分の父は、いわゆるモラルハラスメントで、とにかく人にケチをつけるのが好きだった。人が弱音を吐くとすぐに叱りつけ、質問をすれば「自分で考えろ」と撥ねつけ、失敗すれば「よく考えればわかるだろう」と嫌味をいう。とにかく取り付く島がない人間だった。
そんな父と結婚するような母親なので、気は弱く、自立心のない女性だった。
そんな母が50の頃にガンになり、放射線治療始め様々な抗ガン対策を受けることになった。ご存知のように抗ガン治療は身体の負担が重く、一人で外出できない状態になることもしばしばだ。母は若い頃から腰が悪く、40代で杖をついているような人だったから、なおのことフォローが必要だった。自分の家は三兄弟だけど、どれもすでに自立していたので、母の送迎などは父が担った。
モラハラ家庭に生まれた人ならわかるかもしれないけど、モラハラの男性は、一度義務感を覚えると、機械のように動き続ける。なので、会社と都合を合わせながらなんだかんだで父がずっと送り迎えをしていた。
そして五年間治療を続け、母は亡くなった。それでは、母が父に感謝していたかというと、そんなことはなかった。母の携帯のメールに「離婚したい」と彼女の姉(僕の伯母)に送っているのを僕は見つけていた。結局家に近寄らなかったので詳細がわからないけど、結局父はいつまでも嫌味を言い続け、母を小言で責め続けていたのだろう。
その後、父の母(僕の祖母)も父が面倒をみることがあったが、これも何かあるとすぐ怒鳴るということでひどく評判が悪かった。祖母が亡くなった時、親戚は葬儀が終わると挨拶もろくにせずにさっさと帰ってしまった。父と話したくないという態度がありありと伺えた。
大橋の元旦那はプロ野球のコーチだ。プロ野球というのは、一年の半分近くが試合で、それ以外の日も練習や準備に追われる。そんな生活をやり抜くには、自分に厳しいルールを課し、きついスケジュールを組んで、身体をスケジュールに同化させる必要がある。そんなプロ野球関係者は、おそらく普通の人から見れば鬼のような性格をしているはずだ。
石井一久のような例外はあるけど、たいていのプロ野球関係者は、奥さんに厳しい。奥さんがきつく叱られるエピソードなんて、たくさん聞いている。意味があるとはいえ、一般家庭から見たらモラハラも同然だろう。
大橋の元旦那は、大橋が脳梗塞で倒れて以後、賢明に看病していたらしい。でも、それが優しさに基づくものではなくて、僕の父のように、義務感から生まれたものだったとしたら? そうであれば、彼女は病気以前から、昼夜を問わず責め立てられていたかもしれない。
大橋と僕の母が違うのは、大橋は十分に魅力的でかつ自分で稼げる立場だったこと、病から復帰することに成功したことだ。もし僕の予想通りであれば、僕の母と同じように、大橋がどこかの段階で離婚を考えるのも無理はない。そして彼女は脱出に成功した。
これはあくまで自分の予想に過ぎない。もしかしたら、この予想は外れていて、大橋は本当は男を捨てるのに躊躇がない悪女なのかもしれない。でも、自分の予想もそこまで間違っていないのではないかと思っている。
今契約してる医療保険は入院費と手術費はでるけど通院費がでない。
ガンになっても手術費と入院費は医療保険のほうでカバーできる。
がん保険の通院特約をつけたほうがいいか迷ったから検索してみた。
最近のがん治療は入院より通院が増えてると書いてあるページがヒットする。
通院特約はつけたほうがいいかと思ったけど、さらに検索を続けたらがん治療の一年の通院日数の平均は11.x日とか書いてあるページが見つかった。
さらに検索したら、抗癌治療は一セットが6週間とか三週間で、それを何セットしたみたいな経験談が見つかった。
これは6週間とか三週間に一回通院するってこと?
素朴だけど優しく私を愛してくれる夫と2児に恵まれ、幸せな人生を手に入れてそれなりに満足感のある日々だった。
幸せな日常を一瞬にして真っ暗な絶望に追いやった乳がんの発覚。
乳がんは罹る人も多い病気。負担はあるけど、治療なんてさほど難しくないと思っていた。
でも全然カンタンではなかった。
家族、友人、そして自分自身多くの人を深く傷つけ、心身共に疲れ果て全てを失う寸前まで追い込まれた。
判断ミスもあり、軽度とは言えない状態までいってしまった私だが、良き出会い、周りの人の支えに助けられたことは幸運だった。
手術、抗がん剤治療を行い私は今、再発の不安は抱えながらも元の幸せな生活を取り戻すことができた。
いろんな後悔が今も心に残っている。
こんな思いをする人を一人でも減らせたら。そう思って私の体験を伝えてみたくなった。
興味があったら読んでみて下さい。
ほんの些細なこと。
10月1日、夫と食事に出かけた帰りに見かけたピンク色にライトアップされた東京タワーだった。
その時は何も思わなかったが、少しだけ「乳がん」という言葉が頭をよぎった。
それから1ヶ月が経った頃、
朝、着替えの時に左の胸に固い感触を感じた。
違和感を感じ指でふれた。コロコロとした1cm程度の小さなしこりを感じた。
ピンク色の東京タワー、ピンクリボン、その記憶が私にそう思わせたのかもしれない。
ただし、その日は家事に忙しいこともあり、夜にはしこりのことは忘れていた。
夜の入浴時にもう一度触ってみた。朝のしこりはもちろん、あと2個程度小さなしこりを指先に感じた。
大きな病気をしたことが無い私は些細なことでもすぐ心配になるタイプだった。不安にかられ、髪も乾かさずインターネットで幾つかのサイトを調べた。
しこりがある=乳がんというわけではない。40歳未満の場合は良性のしこりの方が多いらしく乳腺線維腺腫の可能性が高いと書いてあった。
人間、不安なときは都合のいい方の考えに飛びついてしまうものだ。
私は、
と勝手に安心し、「こんなものはそのうち消えてなくなる」なんて、根拠もない解釈をしながら、眠りについた。
翌朝、しこりは消えていない。やはり気になる。「もしかしたら」が再び頭をよぎる。
考えないように過ごそうと思ったが、家事が何も手につかない。
今まで感じたことの無いものが私の胸に存在している。その事実から目をそむけることができなくなっていた。
一刻も早く安心したい。その一心で私は病院を探し始めた。乳がんを検査してくれるのはどこか?今まで考えたこともなかったから検討がつかない。
よくわからないが、とにかく近くの産婦人科に行ってみることにした。
そういって若い女性の医師は近所の外科への紹介状を書いてくれた。
その翌日は外科の診断へ。私は一日がかりで色々な検診が行われることを想像したが、触診だけだった。
診断は
違和感があった日に確認した見解と一致していたため、その診断を疑うこともせず飛びついてしまった私がいた。
乳腺線維腺腫は放っておけば3ヶ月程度でしこりはなくなってくるとのことだった。私は安心して、日常の生活に戻った。
「大丈夫でしょう」という自分の安易な判断と、夫に相談せず自分で納得してしまったことがあんなことを引き起こすなんてこのときは思いもしなかった。
それから2年、私はしこりのことなどすっかり忘れて平穏な生活を続けていた。
日々の家事、娘息子の世話、当たり前のことを当たり前にこなす。傍からみれば退屈かもしれないけど、愛のある満たされた毎日。
その日もいつもと何一つ変わらない一日だった。
夫と同じベッドで寝ていると、寝返りをうった夫の手が私の胸に当たった。すると夫が「え?硬っ!」驚いた様子で声を上げた。
暫く自分の胸に意識が向いていなかった私は自分の胸を触り、全身から血の気が引き、突然得も言われぬ恐怖感が襲ってきた。
私がもらした一言を聞いた夫の青ざめた顔が今でも印象に残っている。
夫はすぐに「明日会社を休むから、一緒に病院に行こう」と言ってくれた。
とにかく早くということもあったが、2年前にいった病院は割けるため、隣町の女性クリニックへ診断に行った。すると「確かにしこりがありますね。技師が3日後に来るのでエコー取りましょうか」
との回答。
しかし、今すぐにどうなっているか知りたい。不安が募りの募った私達夫婦は待つことができなかった。
「乳がんの専門医でなくてはわからないのでは?」と夫の意見を採用し、インターネットで調べ最も近くにあった乳腺外科のある病院へ行った。
まずは触診。先生の無表情さが不安を掻き立てる。その後針生検へ。これは正直かなりの痛みがあり、辛かった。
終了後、先生は「結果は一週間ほどで出ます。検査結果によっては大きい病院を紹介する形になります。」と。
もはや1週間を待てる心理状態ではなかった。一刻もはやく白黒を知りたい。先生にお願いをして大学病院への紹介をすぐにもらった。
これらの検査を一気に検査を行うことができた。これで自分が乳がんなのかそうではないのか、ハッキリと分かる安心感はあった。
この一週間は今まで感じたことのない長さだった。
加えて、2年前、なぜしこりが気になった時点でもっと詳しく調べなかったのか、夫に相談しなかったのか、激しい後悔にも襲われた。
診断結果を聞かされた瞬間、私は頭が真っ白になった。
先生が言っている言葉は聞こえるが頭に入ってこない。隣の夫も呆然としていた。同じ状態だったのだろう。
何も考えられない、何も声発せない状態が3分は続いただろうか。
我を取り戻した私は、
「どうすれば治りますか」と先生に聞いていた。
結論は手術。
私は家族と一日でも長く幸せにくらしたい。その思いが人生の最優先だと強く認識した。
女性として葛藤もなかったと言えば嘘になるが、全摘を選択した。
医師から告知を受けると今度は身内や親しい人に話をする必要が出てくる。
まずは娘と息子に12歳の娘、10歳の息子。
ともに私が大変な状況にあることは理解してくれたようで、神妙な顔つきをしていた。こんな状況だが「泣いたり喚いたりせず立派だな」と成長を感じ少し嬉しい気持ちもあった。
次に両親へ説明をした。福岡に住んでいるのでまずは電話で話をした。母が出た。
母とは昔から何でも話し合える仲だ。あまり回りくどく説明しても仕方がないと思い、率直に「乳がんになった。手術をする」と伝えた。
と私に声をつまらせながら何度も何度も謝った。
親の前ではやはり自分は子供に還るのだろうか、今まで必死に堪えていた恐怖心や悔しさ、絶望感があふれ、私も涙が止まらなくなった。
仲の良い友人にも伝えておく必要があると私は考えた。
私のこの考えは安易だったのだろう、結果闘病前に友人関係で心のダメージを負うことになった。
仲が良いと思っていた主婦仲間、ママ友に告知をすると
という反応。
特に親身になって欲しいとかそういうわけじゃない。何が欲しいのかもわからないけど、何か嫌だ。そんなダダっ子みたいな自分も嫌になった。
更に追い打ちを掛けたのは「親友」だった。
中学校からの友人、由美とは今でも週に一度は会う仲で、何でも話せる間柄。
私と由美はまるで姉妹のように、同じような進路を辿り、同じようなレベルの男性と結婚し、同じように幸せな家庭を育んでいった。
昔から進路の話、異性の話、結婚してからはお互いの家庭の話、旦那の愚痴。家族ぐるみでも付き合える最高の友人だった。
由美になら何でも話せる。親兄弟よりも私の気持ちをわかって親身に寄り添ってくれるそんな勝手な期待をしてしまったのだろう。
由美にも率直に
と伝えた。
ただ、由美にだけは同じ女性、同世代ゆえに全摘によって片胸が失われることに関しての悲しさがあるという話をした。
するとA子は
と言い放った。
彼女は明るい性格だ。彼女なりに私を励まそうとしたのかもしれない。
死を意識する日々、あまりに多くのものを失っていく毎日、私があらゆるものに敏感になりすぎていたのかもしれない。
ただ、この一言はどうしても受け入れることができなかった。
私が置かれていた状況は私の平常心を奪っていたんだろう。滅多に感情的になることがなかった私が怒りを抑えきれず、由美に対して激しい言葉をぶつけてしまった。
これまで長年にわたり育んできた暖かな友情に大きなヒビが入ってしまった。乳がんはまた一つ私から大切なものを奪ってしまった。
家族の不安、両親の涙、友人との離別、多くのネガティブな感情を抱えながら私は手術に挑む。
スケジュールが出た。
手術は診断結果が出た日から20日後に決定。全摘を選択したために術前の化学療法はなし。
手術2日前から入院となった。前日からは食事も取れない。当日は朝から各種検査を行い以異常がなければ全身麻酔をして手術開始。目を覚ませば手術が終わっている。
手術は予定よりも2時間遅れて終了。遅れた理由はリンパ節への転移が見られたから。麻酔が切れて朦朧とした中で、病室で夫がずっと手を握ってくれていたことは記憶の中にうっすらと残っている。
乳がんが発覚し自分の信じていた世界が全て崩れてしまったと思っていた。
でも夫だけはどんな状態の私も暖かく包んでくれていた。こんな時だからこそ夫の愛情を強く感じることができた。手術が終わった安堵感と、愛を感じられたことによる充足感か、そのまま深い眠りに就いた。
翌朝の目覚めは心地よかった。起きたら包帯でぐるぐる巻きだ。まあ夢ではない。現実だ。左のおっぱいないよなー。と思って触ってみるとやはり・・・ない。
わかっていたけど、現実を突きつけられると涙がこぼれた。
術後に体内にたまるリンパ液や血液を出すためのドレーン管が二本入ってたが。ここから液がでなくなれば退院だ。
7日後、遂に退院が出来た。退院時の値段は50万円だった。私はがん保険には入っていなかったので正直この金額は厳しいものがあった。備えあれば憂い無し。
そんな言葉が頭をよぎったが、今は無事に退院ができたことの喜びの方が勝っていた。
左の胸がなくなってしまったことへの喪失感はあった。お風呂に入るときなど自分の身体から目を背けたくなる時期もあった。
でも、疑似おっぱいの性能が以外と良く、服の上からでは見た目にわからない状態になった。そこからはだいぶ気分が楽になった。
気分は元に戻ってきたが、治療はまだ終わりではない、手術から30日経過した時点で今度は抗癌剤治療が始まった。
期間は3週間を1クールとして、8クール、複数の抗がん剤を組み合わせての実施。
抗癌剤治療と言えば、ドラマでも度々その様子が描かれる。そのためわずかに恐怖心があった。でも生きるため。
抗がん剤治療は想像していたよりはキツくはなかった。最初の一週間は特に異変もなかったけど、8日目辺りから吐き気と貧血が出始めた。割りと調子が良くなってきた17日後に遂に髪の毛は完全に抜けてしまった。「あー、やっぱこうなるのねー」と思った。
覚悟は出来ていたので、思っていたよりはショックは少なかった。
2クール目は特に問題なく過ごすことができた。まあ抗がん剤の点滴の際は気が重いくらいかな。
3クール目に入る前にはかなり抜け落ちてきた髪が目立つので、ウィッグを買いに行った。季節をまたいでの治療なので冬用と夏用を両方買った。
それにしてもケアグッズも高い。
あまり大きな声で言う人はいないと思うが、乳がんは治療以外にかかる金銭的負担も大きい。
4クール目に差し掛かる頃には髪の毛は全て抜け落ちた。髪だけでなくまつげ、眉毛、体毛全てが抜け落ちた。顔色も悪く自分を鏡で見るのがちょっときつくなった。
いつも看病してくれる。夫も私の姿をみてどう思っているのかな。。。と少し気になる時期だった。
こうして、長かった化学療法も遂に8週で無事に終わりを迎えることができた。もう吐き気に悩まされることもないと思うとかなり気が楽になった。
楽しい時期は2ヶ月なんてあっという間だが、治療となると1年間のような長さに感じる。
抜け落ちた髪も徐々に生えてきて、昔に戻れるのかな-と淡い期待を抱かせてくれた。
化学療法を無事に終えた私は最後の治療、放射線治療に入ることになる。
放射線治療は、全部で30回。毎日通院が必要で、一ヶ月半ほど平日は病院通いが必要になった。経済的な負担も引き続き大きかったが、仕事の調整をして一緒に通院してくれた夫に負担をかけているという罪悪感も多くあった。
放射線治療にも副作用がある。軽い火傷のような症状だ。熱い、かゆい、痛い。放射線を当てている患部は赤黒くなってしまい、見るからに痛々しい感じだ。
ただ化学療法と違い体外的な副作用しかなかったので、辛さで言えば全然問題なかった。
手術をしてから約半年が過ぎて、ようやく私の乳がん治療は全て終了した。
毎日毎日通った病院。乳がんを発見してもらった病院にそのままお世話になって本当に良かったと思う。
検査のときは無表情で怖かった先生も病に真剣に向き合って時には優しく、時にはハッキリと私が不安にならないように、また過剰な期待を抱かないように上手に説明をしてくれた。
お陰で私は現実と向き合い、治療の目的を正確に理解しながら集中して治療を受けることができた。先生本当にありがとう。
そう言えればどれだけ幸せだろうか。
一般的ながんは5年再発しなければ完治と呼ばれるが、乳がんは10年後20年後も再発の恐れがあるために、ほぼ一生に渡って再発の恐怖との戦いになる。
こんな人生を送ることはまっぴらごめんだ。
そのなかで私の心は強くなっていた。がんを再発させないように生活を改善していけばいいじゃないか。そうポジティブに捉えることができるようになっていた。
乳がんによって手に入れられたこともあるのかなと思うと、最悪なことばかりではないかと思った。
幸いといっていいかな。見た目以外は正直、乳がんが発覚する前とあまり変わらない状態だ。
ただ髪の毛はやはりなかなか生えてこずまだ5cmほどしかない。出かける時、来客のときは帽子を被るようにしている。
左胸がないことにはさすがにもう慣れてしまった。残念に思うのは大好きだった温泉に行きたくなくなっちゃったことかな。
胸のコンプレックスが薄くなった今なら親友の言葉も笑った受け流すことができたのになーと思うと少し心が痛む。
以前は特にお肉が大好きでカロリーは紀にしながらも好きなものを食べていたけれど、今は野菜を中心とした食事と抗酸化作用の高い食品をメインにしている。
そのおかげもあってか、再発は今のところなく、検査結果も良好。適度な通院も生活のリズムを整える意味で意外と気に入っている。
家族との結束は乳がんによって以前より固まった気がする。長女は14歳になったが私の身体を察してか、家事も積極的に手伝ってくれるし、反抗期の気配もない。12歳になった長男もだいぶ私を労って自分のことを自分でやるようになった。時々一緒にお風呂に入るが胸のことには触れてこない。なかなか優しいやつだ。モテる男になるかも。
夫は病気の前から優しい人ではあったが以前に比べて、私を心の底からいたわってくれている。先週末、酔って帰ってきた時に話していたが、乳がん告知の際、私を失うかもしれないと思った時に本当の愛が溢れてきたそうだ。
先日からかったら、覚えていないと本人は言うが、どうだかは知らない。
親友との関係は残念ながらまだ修復には至っていない。先日スーパーで顔を合わせたが会釈程度で終わってしまった。今の精神状態なら素直に私から謝ることができる。彼女との関係修復は今の私の一番の課題だ。
こんな感じで意外と悪くない日常を過ごすことができている。
でも、今こうして、振り返ると悪くないことも多いなと思うに至った。
どうしても後悔はある。それが今回私が体験談を語ろうと思った理由。いまでも本当に後悔していることは一つ。
乳がん発覚の2年前、最初に気になった時点で乳がん早期発見の機会を逃したこと。
もしここで、私の治療をしてくれた大学病院までたどり着くことができていたら・・・
早期発見というくくりの治療となり切除も再発のリスクも存在しない状態で治療が終わっていたと思う。
親友との離別も家族への過度な負担。これらも起こることはなかっただろう。
10月1日ピンク色に染まった東京タワーを見た時にもっと深く乳がんを自分ごととして考えられていればな-なんてことまで思ってしまう。
乳がんは女性の12人に1人がなる病気と言われている。確率は高い。あなたもなる可能性が十分にある。正直発生自体を防ぐことは生活習慣などにもよるし、生活習慣を気をつけていても病気はいつ襲ってくるかわからない。
離れて暮らす両親の話。
親父が癌だ。今は食道癌。
最初の癌は15年前。白血病。抗がん剤→骨髄移植で一応元気になった。
次は皮膚癌。発症は顔のほっぺた。小さかったのと初期に見つかったので薄皮一枚削った。
次は今も闘病中だが食道癌。見つかった時はステージ3。皮膚がんはたまたま見つけやすいとこだったから医者が気づいたわけだが、白血病で毎月検査しているからかあんまり他の癌に注意してなかった模様。まぁアホな親で困る。一度治療を終えたが、再発が見つかった。また抗がん剤が待っている。
食道癌は喉に出来たこともあり、切ろうと思っても声帯ごととる大手術になる。最初の白血病の時にだいぶ体力を失っていたこともあり、手術に耐えれる体力が無いと医者に判断され、抗癌剤と放射線治療のみ。
抗癌剤治療の副作用は凄まじい。巷では副作用が少ない抗癌剤がとか、科学の進化がとか色々言っているけど、親父は白血病の頃から数えて10回以上抗癌剤治療を行っているわけで、傍からみててもう限界に近い。一回一回痩せていくその姿はとても痛々しい。元々痩せ型〜普通くらいの体型のくせに、体重は15kg前後落ちた。髪の毛が再生するのは最初のうちだけで、骨髄移植後はなかなか生え揃ってくれず、陰毛みたいな白髪がうっすら生えてくるだけだ。カツラをつけるって言っても、留める毛すら揃わない。大手保険会社の部長を勤めたイケメンの姿はもうない。
抗がん剤治療を乗り越えるには、それなりに体力が必要。手術する体力が無いと言われた親父は、本当なら10日で退院できる抗がん剤治療でも1ヶ月半くらい軽く入院してる。色んな病気を併発するからだ。白血病の時は肝臓にウイルスがどうとかで1年以上入院した。前回の食道癌の時は肺炎になり、元々肺気腫気味だったけど悪化した。おかげで現在は5分も歩けないし力仕事なんてできない。
また、これだけ抗がん剤うてば、口の中も荒れ放題になる。もともと虫歯一つない歯だったのに、今では奥歯はほとんどない。入れ歯は抗がん剤後には合わなくなり、調整してもまた治療したら微妙に合わなくなり。次の抗がん剤を間近に控えて、現在は痛くて使わなくなってる。
味覚も狂う。最初の抗がん剤治療後(骨髄移植前)は、何を食べてもまずく感じるなか、唯一ラーメンだけが美味しかったらしく、街中のラーメン屋を片っ端から食べ尽くしたらしい。骨髄移植後は割と味覚も戻り、美味しいものを美味しく感じれる生活を送っていたが、食道癌になってからは何を食べても美味しく感じないらしい。喉に引っかかるから飲み込むのも辛いとかなんとか。
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おかんは熱心な宗教家でもあり、エセ科学とか大好きだ。もともとそんな人なわけだが、抗がん剤治療で日々弱っていく親父を見るとなんとかしたいという一心から、様々なエセ科学を調べる。俺自身、身近な友人を抗がん剤の治療関連死(まだ元気だったけど治療開始後一週間で亡くなった)とかあったので、抗がん剤を心から信じているわけじゃないし、おかんの気持ちはよく分かる。
んで、最近は食事療法的なよくわからんやつにご執心だ。体にいい食べ物、悪い食べ物に分類してあれはダメだ、これはダメだっていうやつ。これは良さそうに見えて本当は良くないとか色々ある。興味本位で色々聞いてみたら、おかんに入れ知恵している先生的な人曰く、坊さんの精進料理的なものしか本当に体にいい食べ物はないらしい。肉もダメ、野菜も大半ダメ、魚もほとんどダメ。なんだそれ。
とはいっても夫婦で食べる料理はそんなに極端に変わっていない。あからさまに体に悪そうな食べ物(ファストフード的なやつとかポテチとかそういう系)は元々食べないし、別に我が家の食卓でそんなに大幅な変化はない模様。二人とも元々同郷の農家だし、昔ながらの食い物ばかりな感じ。
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生きることはとどのつまり食べること。病人だって美味いと思えるものをしこたま食べれば体力も少しは戻ってくるだろうさ。少なくとも運動もできない体になった以上、食う以上に大切なことは思い浮かばない。
おかんにはそのことを話した。抗がん剤治療を信じない、食事療法で内側から治すという考え方は大事だと思うけど、病気を倒す体力や元気を身につけるには、体に良い悪い食事よりも親父が食べる事に喜びを感じる方が遥かに大事って。俺はさすがスピリチュアルなおかんに育てられただけあって、スピリチュアルに伝える技術はいくらでもある。割と簡単に納得してくれた。ちょろい。
問題は本人。つまり親父だ。何食べても美味しいとは思ってくれない。そもそも奥歯がなくても食べやすくて美味しいものなんて俺にはなかなか思い浮かばない。刺し身と鍋は比較的いけるっぽいけどあまり楽しんでくれない。クソ。
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最近一つわかったことがある。
親父はおかんと二人の時より、俺がいた時の方が美味しいと感じるらしく、俺の嫁がいる時の方がもっと美味しく感じる模様。同様に姉家族が孫を連れて帰って一緒に食べる時などとても美味しい模様。
前回俺が嫁と一緒に帰った時に4人で外食したわけだが、その時に食べた鍋焼きうどんがとても美味しく気に入ったらしい。で、後日一人で食べに行ったみたいなんだけど、全然美味くなかったとかなんとか。
姉には子どもがいるが、俺にはまだいない。俺がガキつれて帰った方がご飯は美味しく感じるのだろうか。たぶんそうなんだろうな。
確かに孫と囲む食卓だったら、何食っても美味いだろうな。
贅沢な親父め。クソ。
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あれだけ弱っていて、かつ自分の死期が比較的近いと考えている人間が、あと何回抗がん剤治療を乗り越えられるのか、あと何年生きられるのか。
出来るだけ美味しいご飯を食べさせてやりたいなと思うところです。