はてなキーワード: イプセンとは
北村紗衣さんの著書『批評の教室ーチョウのように読み、ハチのように書くー』(ちくま新書)が面白い(ダイレクトマーケティング)。
一言で言えば『批評の教室』は、読書を単に「面白かった」で済ませるのではなく、より深く楽しむために、精読・分析・批評執筆を如何に行なうかを、初心者向けに平易に解説した本である。文学作品・書籍だけでなく、映画作品等についての批評も視野に入れて書かれているので、他のジャンルへの応用も可能だろう。初心者向けとしては悪くない。図書館などで試し読みするなり、書店で購入するなりして欲しい。
同書には、冒頭から良いことが書いてある。一つの作品について良い批評を行なうためには、他の作品・文献なども読み漁り、多角的に観察・考察を行なうといった主旨の、大抵の読書術・批評入門には書いてあるような良いことである。
最初に私は、この本のことを「面白い」と書いた。しかし正直に言えば、それは本来の意味と違う意味の、意地が悪い面白さである。
今日現在の一般読者が『批評の教室』を読んだならば、きっと次のように思うことだろう。
「草津町長及び町民のことを、イプセンの『民衆の敵』に擬えて、一方的に悪者扱いした時、北村紗衣さんは、広く情報源に当たり、多角的に観察・考察することをしなかったのだろうか?」
「あの町議の告発書籍や草津町議会の記録を読めば、判断を誤らなかったもしれないのに、北村紗衣さんは読まなかったのだろうか?」
「読まなかったとすれば、それは手抜きではないか。北村紗衣さんは、肝心の方法論を実践できていないではないか」
「何故、北村紗衣さんは、自分では実践できない方法論を、読者に推奨しているのだろうか?」
この「他ならぬ北村紗衣さんが実践できていない」というのは、同書のサブタイトルにも顕れている。
同書のサブタイトル「チョウのように読み、ハチのように書く」というのは、ボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリを形容する言葉「蝶のように舞い、蜂のように刺す(float like a butterfly, sting like a bee)」を捩ったものである。これは同書にも明記してある。
私は格闘技が好きなので、ここで少しだけそういった話をさせてもらう。
モハメド・アリ以前のヘビー級ボクシングとは、大男が鈍重な動きで力任せに殴り合うような代物だった。そんな場所にモハメド・アリは、まるで軽量級のように軽やかにリングを縦横無尽に動き回る華麗なフットワークと、的確なジャブを活用する力任せではないアウトボクシングを持ち込んだ。しかもモハメド・アリは、対戦相手のジャブに、自分の右ストレートをカウンターで合わせることすら出来た。「神業」という言葉は、モハメド・アリのボクシングのためにある。そんなことすら思う。
文字通り、モハメド・アリはヘビー級ボクシングの革命児であった。「蝶のように舞い」とは「対戦相手の攻撃を華麗に躱す姿」を、「蜂のように刺す」とは「一撃だけでも致命傷となりうるような鋭い拳を対戦相手に打ち込む姿」を、それぞれ表現したものである。分かりやすく言い換えれば、全盛期のモハメド・アリのボクシングは、ワンサイドゲームである。
さて、北村紗衣さんは『批評の教室』の読者には、読書に付き纏う「腰を据えて、地道に読み進める」といった古い先入観を払拭し、花から花へヒラヒラと飛び回る蝶のように、もっと自由に沢山の本から本へと次々に読み回るようにして欲しいと、そんな思いを込めて「チョウのように読み」という言葉をサブタイトルに入れたようである。
沢山の本を読んで見識を広げるというのは、非常に良いことなので、それを奨めること自体には異論は無い。しかし、それを表現するためにモハメド・アリの形容である「蝶のように舞い」という言葉を用いるのは、ハッキリと言えば「的外れ」ではないだろうか。
「蝶のように舞い」と言うのは、対戦相手の打撃攻撃を躱すという防衛行動を不可分・不可欠な要素として含む、ボクシングという打撃系格闘技の中で用いられるからこそ意味を持ちうる言葉・表現なのである。それも、ただ躱すのではない。モハメド・アリが立っていた場所は、リングという狭く限定された空間である。その狭い空間を最大限に有効活用し、対戦相手の攻撃をスレスレで躱していたからこそ、モハメド・アリは称賛されたのである。単に躱すというだけならば、それがリングの外の広い空間であれば、足の速い人間は走って逃げることも出来よう。しかし、狭いリングの上に逃げ場は無い。逃げ場が無い状況下で、対戦相手の攻撃を華麗に躱していたからこそ、モハメド・アリは称賛されたのである。それにまた、ボクシング(だけでなく打撃系格闘技全般)は、顔が腫れ上がったり流血したりと、非常にハードなものである。そのようにハードな格闘技の中で、場違いとすら言えるような華麗な舞いを見せたからこそ、モハメド・アリは称賛されたのである。決してモハメド・アリは、一つの場所から別の場所へと自由に動き回れる状況下で、蝶のように動いたのではない。逃げ場の無い空間的な制限の下で、死中に活を求めるためにモハメド・アリが身につけて実践したものこそが「蝶のように舞う」動きなのである。
北村紗衣さんは、読書のスタイルとして「チョウのように読み」と言うが、モハメド・アリの「蝶のように舞い」という言葉を、表面的にしか理解していないのではないだろうか。上で述べたような「蝶のように舞い」という言葉の持つ『重み』を、本当に理解していたら、本から本へと自由に飛び回ることの形容に当て嵌まる言葉なのか否かと、違和感を持つのではないだろうか。そもそも、読書には攻撃を躱す必要が無い。躱すどころか、先ずは書いてあることを受け止めなければ、読書は始まらない。
北村紗衣さんは、自ら「私(北村紗衣さん)の言語化能力を知りたければ『批評の教室』を読め」と言う(Twitterで批判者から自身の言語化能力に疑いを持たれたことに立腹したために出た言葉である)。確かに『批評の教室』を読めば、北村紗衣さんの言語化能力を窺い知ることが出来るであろう。自著のサブタイトルに使うほどの重要な言葉を、表面的にしか理解していないままで使うという、底の浅さを。
まあ、私のような格闘技好きが「チョウのように云々」の意味に拘ることは、北村紗衣さんにはどうでもよいのかもしれない。しかし、北村紗衣さんが草津町長及び町民を一方的に悪者扱いしたことが知れ渡った今では、この「チョウのように読み」という言葉からは、ポジティブな印象よりも、むしろ「軽佻浮薄」というネガティブな印象を受ける人が少なくないのではないだろうか。「読書をするにしても、そのような軽佻浮薄な読み方しかしていないから、言葉や物事を表面的にしか理解していないから、深く理解しようとしないから、草津町長及び町民のことも安易に悪者扱いしたのではないか」と。
それにしても、沢山の本を読むことを表現したり推奨したりするだけならば、単純に「読書というものは『乱読・濫読』で構わない」と言えば済むのではないだろうか。ただ、そういう風に言うのは「お洒落」ではない。だから「チョウのように読み」とお洒落っぽい言葉を採用した。そういったところではないだろうか。
これは個人的な意見ではあるが、サブタイトルに「チョウのように読み」という言葉を入れるのは「ダサピンク現象」の一つに思える。「女性を読者として取り込みたい。女性は蝶々とかが好きでしょ?」みたいな。ジェンダーの押し付けと言えばいいのだろうか。
高い言語化能力を持つはずの北村紗衣さんは、自著のサブタイトルでダサピンク現象やジェンダーの押し付けが発生することに、違和感を持たなかったのだろうか。
北村紗枝氏がむやみに叩かれているそうなので、周辺を調べてみた
表面的な問題は草津の公職者の冤罪か犯罪隠しであるが、あえて掘ってみるならば原因はイプセンの「民衆の敵」ではないかと思われた
「民衆の敵」(1882年)は鉱毒被害の告発本で、明治日本の主要産業は銅の輸出であったので、銅山営業のために、出版禁止にされていたと思われる書籍である
主要な銅山である足尾銅山の鉱毒は早くも1878年(明治11年)には報道されており、酸性雨、草木の枯死、魚の大量死、洪水もあった
そこで1882年(明治15年)、イプセンがスウェーデン下のノルウェーで「民衆の敵」を出版した
しかし原書か英訳を読むことができたのは、商社関係者か、法曹か医師ぐらいだったと思われる
日本政府がしぶしぶ鉱毒調査委員会を設置したのは、1897年(明治30年)で、その後の1901年(明治34年)にようやくイプセンの邦訳がある(大阪の元医師高安月郊)
それから更に何年も経過し、「人形の家」(1879年)の29年遅れで1910年(大正9年)、「民衆の敵」は39年遅れで1921年(大正10年)にようやく邦訳
戦後の高度成長期には、日本の銅は1ドル360円の固定相場で輸出された
僅かな被害対策が行われたまま鉱山は稼働し続け、1973年(昭和48年)に閉山となったときには、為替レートがあっさり変動制に移行している
したがって、「民衆の敵」の邦訳遅れや円安固定相場制は、日英米共同の銅ダンピング政策だった可能性もあろう
群馬県草津町の町長及び町民を、北村紗衣さんがイプセンの『民衆の敵』に擬えたのは、当時の彼女が「草津町の町長や町民は、悪者に違いない」と決めつけて考えたからであることは、論を俟たない。
では、何故そのように北村紗衣さんは、町長や町民を一方的に悪者と決めつけたのだろうかと、思考実験として考えてみた。そうすると、第三者の立場から見れば、今のところ2つの可能性が考えられる。
――――――――【可能性1】――――――――――――――
あの町議の主張に疑念を抱くことも無いぐらい、北村紗衣さんの頭脳の働きが鈍かった。
――――――――【それに対する考察】―――――――――
この可能性は考えにくい。
と言うのは、全国的なニュースになった当時から既に、あの町議の主張には信憑性の点で疑問符が付けられていたからである。ある程度の知能を有する人間ならば、あの町議の言い分を信じて町長や町民を悪者扱いすることには、躊躇を覚えたはずである。はてなブックマークユーザの中にも、あの頃の町議の告発書籍を実際に読んだ上で「これは信用し難い」と判断した人がいる。
シェイクスピア作品に関する研究の業績によって高名で、文学を能くする、テクストの解読を専門とする学者である北村紗衣さんが、あの町議の主張や告発書籍の内容に疑問を抱かないことは、彼女の知的能力の面から言えば、あり得ないことである。
ーーーーーー【可能性2】ーーーーーーーーーーー
北村紗衣さんは「男性や地方居住者の主張は聞くに値しないものとするような思想」の持ち主であった。
ーーーーーー【それに対する考察】ーーーーーーー
これならば、北村紗衣さんが、あれほど一方的に、町長や町民を悪者扱いしたことについては説明がつくと言える。
しかし、それは差別思想以外の何物でもなく、北村紗衣さんが、そのような思想の持ち主であるとは考え難い。
また、もし仮に北村紗衣さんが差別思想の持ち主であるならば、女性差別発言を行なっていた歴史学者・呉座勇一を研究職から追放したように、今ごろ大学や学会の自浄作用が機能して、彼女を排除していたはずである。現に排除されていないということは、北村紗衣さんが差別思想の持ち主ではないということの証しである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
他の可能性を考えつく人がいるかもしれないし、今後、北村紗衣さん自身が何らかの説明を行なうかもしれない。いずれにしても
(1) 草津町長を"性犯罪の加害者"扱いした上に、イプセンの『民衆の敵』に擬えて"権力を悪用して悪事を揉み消そうとした悪人"扱いしたという事実について、北村紗衣さん自身が認めていること
(2) 草津町長及び町民に対して謝罪を行なうつもりであることを、北村紗衣さんが明言されていること
なので、真逆この文章の削除依頼を行なって、自らの不祥事の記録を抹消するようなことはしないものと信じている。このような過ちを繰り返さないためにも、我々は記憶を語り継いでいくべきであろう。
https://anond.hatelabo.jp/20221117054344
既に指摘あるけど北村先生は草津町をフィクションに準えただけで侮辱も誹謗中傷もしてない。この謝罪で十分。むしろ北村先生を叩きたいがために過大な責任を要求して、謝罪や退任を訴えてるほうが「民衆の敵」では?
はてな左翼には何を言っても無駄だなと思わされるすごいブックマークコメント。
この人たちってまじでその場のフィーリングで生きすぎだろ。
程度でいえば呉座先生よりよっぽどきついと思いますが、呉座先生をオープンレターでボコボコにして辞職に追いやったんですよね?
バランス感覚どうなってんのこれ
それはそれとして、北村先生ちゃんと謝ってるわけで、北村先生は立派だと思います。
謝ってほしくなかったわがままはてな左翼ちゃんは梯子外されて今どんな気持ち?
https://twitter.com/Cristoforou/status/1592857816267894785
2020年の末くらいに、報道にのってイプセンの戯曲と草津の状況を結びつける発言をしていまいましたが、その後に自分がネットで虚偽による誹謗中傷を受ける経験をして、軽い発言でもいかに人を傷付けてしまうかを身にしみて感じました。そういう発言をすべきではなかったと非常に後悔しています。なお、これについて私が草津町民を民衆の敵だと言ったというようなことを拡散している人がいますが、これはデマです。アーカイブ見ればわかりますが、私が言ったのは草津がイプセンの戯曲『民衆の敵』みたいだということで、本作で民衆の敵認定されるのは告発した人です
草津をイプセンの『民衆の敵』にたとえた件について、既に一度お詫びしてツイートを削除しているのですが、黒岩信忠町長が裁判を起こすということで、あらためてお詫びしたいと思います。軽々しく連想で現実の出来事をフィクションにたとえるべきではありませんでした。
https://twitter.com/Cristoforou/status/1592854601103179779
草津をイプセンの『民衆の敵』にたとえた件について、既に一度お詫びしてツイートを削除しているのですが、黒岩信忠町長が裁判を起こすということで、あらためてお詫びしたいと思います。軽々しく連想で現実の出来事をフィクションにたとえるべきではありませんでした。
武蔵大学の准教授、北村紗衣先生がツイートで謝罪をされています。ただ、該当ツイートは削除されており、何を謝罪したのか分かりにくくなっているので見ていこうと思います。
該当ツイートはこれらしいです。
https://pbs.twimg.com/media/FhmScNbVIAAAFTB.jpg
草津、イプセンの『民衆の敵』じゃん(地元の温泉に都合の悪い事実を公表しようとした科学者が、貴の町長の画策で「民衆の敵」認定される)。
草津町長が強姦したというのは元町議による虚言だった(可能性が極めて高い)にも関わらず、草津の方を悪者にして『民衆の敵』と【元町議がしたてあげられた、と】言っておられます。確かにこれには謝罪が必要だと思います。
そう、『フィクションに例え』たことを謝罪しただけで、嘘に基づいて草津を悪と断罪して誹謗中傷を加えたことについては何も謝罪してはいらっしゃらないようです。
では、『既に一度お詫びして』とおっしゃっているので、そちらを見ていきましょう。
https://twitter.com/Cristoforou/status/1485542575461208064
あの後いろいろ考えて、実際の出来事を何でもフィクションに重ねて考えてしまう(「ああやって演出したら面白いのでは!?」)のは批評家はやりがちですけど良くないなと反省しました。ただし、あなたがこのタイミングでその話を持ち出してくるのは単純な嫌がらせだと思いますけど。
はい、やはりここでも『出来事を何でもフィクションに重ねて考えてしまう(「ああやって演出したら面白いのでは!?」)のは批評家はやりがちですけど良くないなと反省』し、謝罪したのであって、草津に対して誹謗中傷を加えたことへの謝罪はなされていないようです。
少なくともこれをもって、草津町や草津町長へ真摯に謝罪したとは感じられません。
強姦(強制性交等)は刑法において5年以上の懲役とされている、かなりの重罪です。
町長をこの犯人にでっちあげようとした元町議がリコールされたことについて、北村先生は『民衆の敵』と評しているわけです。
それに対する謝罪として、相手に伝わるかどうかも分からない(おそらく伝わらない)ツイートによる謝罪は適切な行為なのでしょうか。
例えば、北村先生に誹謗中傷を加えていた呉座先生は、以下の2点を行い、また社会的制裁を受けています。
○失職(テレビドラマの時代考証のポストの降板、研究職の更新停止)
北村先生も真摯に謝罪なされるのであれば、それ相応のやり方があるのではないかな、と愚考する次第であります。
【元町議がしたてあげられた、と】
ご指摘ありがとうございます。
なんと北村先生御自身に取り上げていただきました、ありがとうございます。
https://twitter.com/Cristoforou/status/1593040488617357312
匿名ダイアリーで私が草津町民を民衆の敵だと言ったというようなことを拡散していたものがあったのですが archive.ph/Qsv8A 、まずいと思ったのか直されていました。
また、私は、北村先生が「草津町民を民衆の敵だと言った」とは一言も書いていませんが、御指摘のように誤解を与えかねない表現だったことについて、大変申し訳ありません、謝罪いたします。
この修正内容で誤りはないでしょうか?
この案件ね。全く証拠がないどころか不自然な点ばかり目立ってたんだけど、やっぱりかという感じ。
書類送検ではなく起訴で、この罪状なら検察はまず有罪に持っていけると踏んでやってるね
群馬県草津町の黒岩信忠町長からわいせつ被害を受けたと虚偽の告訴を行ったなどとして、前橋地検は31日、虚偽告訴と名誉毀損(きそん)の両罪で、新井祥子元草津町議(53)=同町=を在宅起訴した。
で、このもと町議を証拠もないのに擁護しまくってた人が居たけどなにか弁明してくれるんだろうか。リツイートやいいねだけで名誉毀損・誹謗中傷が成立しうると判示されたところだけど。
#草津町の新井祥子町議を支持します のタグなんて、町長を強姦犯人扱いしてるんだから、名誉毀損だぞ。町長の性犯罪を立証できる証拠持ってる人なんて、一人もいないだろ。
Twitterで『#草津町の新井祥子町議を支持します』タグを検索してたら山ほど出てくるんだけど、刑事はともかく民事で芋づる式にいけそうだね。
このタグを使ってない人でも
眞子氏が小室氏と出会ったICUという大学では、入学式で新入生みんなが「学校生活において世界人権宣言を遵守すること」を誓う学生宣誓に署名する。
https://www.icu.ac.jp/globalicu/pledge/
みなさんは、その世界人権宣言の中身ってどんなものか知ってますか。
第一条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
第二条
1 すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
2 さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。
第四条
何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。
第五条
何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない。
第六条
すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する。
第七条
すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。
第八条
すべて人は、憲法又は法律によって与えられた基本的権利を侵害する行為に対し、権限を有する国内裁判所による効果的な救済を受ける権利を有する。
すべて人は、自己の権利及び義務並びに自己に対する刑事責任が決定されるに当っては、独立の公平な裁判所による公正な公開の審理を受けることについて完全に平等の権利を有する。
第十一条
1 犯罪の訴追を受けた者は、すべて、自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。
2 何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない。また、犯罪が行われた時に適用される刑罰より重い刑罰を課せられない。
第十二条
何人も、自己の私事、家族、家庭若しくは通信に対して、ほしいままに干渉され、又は名誉及び信用に対して攻撃を受けることはない。人はすべて、このような干渉又は攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。
第十三条
これで全部。眞子氏の境遇に照らしてみれば、皇籍離脱前の彼女の人権がどれだけ制約されていたかが改めてわかる。民主主義国家を標榜する日本で、大半の日本国籍の人々が当然のように享受している人権の多くが制約された、とても特殊な立場の人が、自らこの大学への編入を選び、4年間の教養教育で人間中心主義(humanism)の理念と気風を涵養され、立派に「人間」になった。というか、人間としての自覚を得た。そういうことなのだ。
ちなみに天皇は敗戦後に「人間宣言」したと言われているけど、実は「ぼかぁ人間なんです、すまんかった」などとは言ってない。原文の官報詔書『新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ』(1946/1/1)、別名『新日本建設に関する詔書』に書かれている該当箇所は
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ
となっている。「天皇は現御神で、日本国民は優越民族で、世界を支配する運命にある」という戦前に言ってたことは「架空なる観念」でした、としか言っていないのだ。じゃあ現御神ではなくなった天皇が戦後どうなったかといえば、「日本国及び日本国民統合の象徴」になった。それはもはや神ではないし、といってただの人間=日本国民でもない。それは「日本は一体である」という(敗戦後にギリギリの交渉の結果残すことができた)国民国家のファンタジーをまるごと引き受ける、人間ではない何かだ。天皇と皇族は「平和憲法を遵守する新国家」を象徴する「何か」として、常に国民をいたわり思いやる理知的で心優しいファミリーの役回りを多世代にわたって演じ続けることになった。それって、ありていに言えば「人形」でしょ。
かつてのように神聖不可侵でもなく、かといって市民・国民としての人権を与えられてもいない「人形」は、やがては人々のおもちゃにされてしまう。今はみんながそれを使って「人形遊び」という娯楽に興じている。政治家や宮内庁職員や皇室ジャーナリストや評論家らが「本人が言った言葉」とその解釈のあいだにいくらでも恣意的な読み替えを挟み込むのも、メディアが皇居というドールハウスの内情について真偽不明のゴシップを書き立てるのも、辛酸なめ子や倉田真由美が赤の他人同士の結婚について大仰に憂いたり消耗したり絶望したりしてみせるのも、本質は人形遊びだからだ。相手が人間ではないから、そういう非人間的な扱いをしても許されるし、人形のほうが「与えられた役柄」を勝手に逸脱し始めたら嘆いたり憤ったりしてもいいのだ。
本件をイプセンの『人形の家』をひいて論じていたのは、意外なことに山口真由ぐらいだったけど、今回の騒動を見ていて、天皇家が「人形の家」ではないと言い切れる人はだいぶ減ったんじゃないか。人形の家には人間は住めない。だから、人間になった眞子氏は人形の家を出た。
窮屈な人形の家を、人間が住めるような間取りと風通しにしてやらない限り、そのうちまた同じことが起こるだろう(直近では、同じ大学で同じように「人間」に目覚めてしまった佳子氏にも同じことが起きるかもしれない)。風通しを良くするには、これまで75年にわたって「人形遊び」をしてきた我々自身がこの遊びを卒業して、その他の「市井のなんでもない人々」に接する時と同じような儀礼的無関心を貫くことなんじゃないかと思う。ことさらの敬愛も嫌悪もいらない。ただの人間として扱い、他のただの人間に抱くような尊重の念を持って接しよう。
偉大な事業を完成するためには、人はつねに緊張していなければならない。サン・シモン
志を立てて以て万事の源と為す。吉田松陰
着るものは新しいうちから、名誉は若いときから大事にせよ。プーシキン
われわれは、ことばではなしに、行為を見守らなければならない。そしてまた、われわれも、ことばではなくて行為で示さなければならない。J.・ケネディ
大変な仕事だと思っても、まず、とりかかってごらんなさい。仕事に手をつけた、それで半分の仕事は終わってしまったのです。アウソニウス
汝の活動、ひとり汝の活動のみが、汝の価値を決定する。フィヒテ
規律は、宗教に似ている。ばからしいように見えても、それが人間をつくるのだ。サン・テグジュペリ
至上の処世術は、妥協することなく、適応することである。ジンメル
決心する前に、完全に見通しをつけようとする者は、決心することはできない。アミエル
他人のために尽くすことによって、自己の力を量ることができる。イプセン
取らんと欲する者はまず与えよ。老子
学生をして自重の風を養わしめるためには、これを紳士として待遇しなければならない。アーノルド
礼儀は人を神聖にする。カント
一事をよく為す者は多くをよく為す。トマス・ア・ケムピス
余り考え過ごす者は何事をも成し得ない。シラー
まず汝自身を落ち着かせよ。そうしたら他人の間にあっても落ち着くことができよう。トマス・ア・ケムピス
とてもかくても、つとめだにすればできるものと心得べし。本居宣長
神は自ら助くる者を助く。フランクリン
心は盤石の如くおし鎮め、気分は朝日の如く勇ましくせよ。黒住宗忠
始まりはすべて小さい キケロ
意志あれば道は通じる。ハドソン
死を決するの何の難きことやある。ただ死すれば足る。難きは死地にありて生を決するにある。河村瑞軒
正しく思考されたものであるかぎり、それは必ず明瞭な表現をとる。ボワロー
鶏鳴に起きざれば日暮に悔あり。楠木正成
ときとして勇気は、征服者の心さえ動かす。ヴェルギリウス
道徳的勇気が正しいと感ずれば、なしえないという個人的決意はない。ハント
一つの冷静な判断は千のやかましい会議に勝っている。なすべきことは光を与えることであって熱を与えることではない。T・W・ウィルソン
人間の一生について、また彼の運命全体について決定するのはただ瞬間のみ。ゲーテ
過ぎ行く時をとらえよ。時々刻々を善用せよ。人生は短き夏にして、人生は花なり、彼は死す。ああ、何ぞ死するの早きかな。S・ジョンソン
機会が二度君のドアをノックすると考えるな。ジャンフォール
大人物と小人物の差異は、一度意を決すれば死ぬまでやりとげるという覚悟があるかないかにある。シェリング
賢くなることを明日に延ばすな。明日の太陽は汝の頭の上に輝かないかも知れない。コングリーズ
最も堅固な決心は最も有用な知識である。ナポレオン
心強くして進め。汝のすべて往く処には汝の神も偕に在せば、懼るるなかれ戦慄くなかれ。旧約聖書
用事を弁ぜんとせば自ら行け。リチャード
およそ世に障害のない仕事はない。障害が大きければ大きいほど、その仕事も大きい。マクドナルド
力は一切のものを征服する。しかしその勝利は短命である。リンカーン
各人は天より与えられて、各自自身の思想の主人公たる権利を有す。スピノザ
思案しないで我々を働かせよ。これこそ人生を堪えるものにさせる唯一の方法である。ヴォルテール
偉人の達した高峯は一躍地上から達したのではなく、同伴者が夜眠っている間も、一歩一歩とよじ登ったのである。ブラウニング
他人を支配せんと欲する者は、まず自らの主人であらねばならぬ。マシンジャー
一つも馬鹿な事をしないで生きている人間は、彼が自分で考えているほど賢明ではない。ラ・ロシュフコー
敵に勝ったからとて勇者ということはできない。おのれに勝った時初めて真の勇者といえる。T・ブラウン
井戸を掘るなら水の湧くまで掘れ。石川理紀之助
一日延ばしは時の盗人である。上田敏
神は行動せざる者をけっして助けず。ソフォクレス
汝ら善き行いをもってその身の飾りとせよ。キリスト
初めに計画せよ。然る後に実行せよ。モルトケ
確信をもつこと、いや確信をもっているかのように行動せよ。ゴッホ
功の成るは成る日に成るにあらず。蘇老泉
心ある人は時間の損失を最も悲しむ。ダンテ
人の持つ尺度は、その異常な努力によってではなく、その日常的な行為によって測定されるべきものである。パスカル
真面目とは実行するということだ。夏目漱石
汝もし真に熱心ならば、後と言わず今ただちにこの瞬間においてなすべきことを始むべし。ゲーテ
一日作さざれば一日食わず。百丈禅師
ことばと行動は、神の力のまったく異なったモードである。ことばも行動であり、行動もことばの一種である。エマーソン
われわれがいくつかの危険に気づいているというので、動かずにじっとしていることを自己に課するならとんでもないことである。トリアッテ
人間の行動は思考の最上の通訳者だ、と私はつねに考えた。ロック
してしまえば片付くのだったら、早くやってしまったほうがいい。シェークスピア
一日善いことをしなかったら、生きている価値はない。ロバーツ
行いは必ず人に先んじ、言は必ず人に後る。大載記
君の心の庭に忍耐を植えよ。その根は苦くともその実は甘い。オースティン
この秋は雨か風かは知らねどもきょうのつとめの田草取るなり。二宮尊徳
幸運と愛とは勇者とともにあり。オヴィディウス
勇気こそ、君よ、これこそ男をも女をもいと美しく見せしむれ。テニスン
大人は虎変す。中国のことわざ
現在われわれは悪い時期を通過している。事態はよくなるまでに、おそらく現在より悪くなるだろう。しかしわれわれが忍耐し、我慢しさえすればやがてよくなることを、わたしはまったく疑わない。チャーチル
公正をもって生活すれば、ゆくとして安全ならざるところなし。エピクテトス
希望が逃げていっても、勇気を逃してはいけない!希望はしばしばわれらをあざむくが、勇気は力の息吹である。ブーテルヴェク
いやしくも悔恨しないことを欲するならば、人は何事もしないほうがよい。しかしながらまた、何事もしないところの人生も、ひとしくまた悔恨なのである。萩原朔太郎
己に克つの苦功を用ひずして、怒りを遷さず、過を再びせざるは、柔惰振わざるの士にあらずんば、かならず奸を掩ひ非を飾る者なり。大塩平八郎
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。織田信長。
昨日憎しと思ふこと心に染み、昨年の嬉しと思ふこと心につきて、はなれねば、それより根ざして、まよふとか、聞けり。松平定信
気随に成り行き候はゞ、一日一月と延び、一月は一年と遅々に及び、一生空しく打ち過ぐべし。土井利勝
道に堀があるからといって、渡るのを嫌って、そこに止まってしまったのでは、その人はいつまでたっても、進歩することは難しい。大きな溝の中に落ちたからといって、いたずらに悶えるばかりであったならば、その人は一生溝の中で終わらねばならない。藤原銀次郎
困難とは作業衣を着た好機会にすぎない。H・カイザー
諸君が困難に会い、どうしてよいか全くわからないときは、いつでも机に向かって何か書きつけるがよい。小泉八雲
今日はよく働いたと夕方になって考えることほど、私にとって大きな楽しみはなかった。大倉喜八郎
身には疾あり、胸には愁いあり、悪因縁は逐えども去らず、未来に楽しき到達点の認められるゝなく、目前に痛き刺激物あり、慾あれど銭なく、望みあれど縁遠し、よし突貫して此逆境を出んと決心したり。幸田露伴
境遇とか!われ境遇を作らん。ナポレオン
金を失うことは、小さく失うことである。名誉を失うことは大きく失うことである。しかし勇気を失うことはすべてを失うことである。チャーチル
男子、死中に活を求むべし。坐して窮すべけんや。范曄
理想はわれわれ自身のなかにある。同時に、理想の達成をはばむもろもろの障害もまた、われわれ自身のなかにある。カーライル
人もし忍辱の鎧を着て戦うときは、一人の力をもって八万四千の魔軍を挫くべし。釈迦
人は幸運の時には偉大に見えるかも知れないが、真に向上するのは不運の時である。シラー
禍福は天上より出ずるにあらず、地中より出ずるにあらず、おのれ自ら之を生ずるなり。説苑
キホ積まずば、以て千里に至るなし。荀子
「夫と子供への義務は最も神聖だ。それを放棄するのか」。
家を出ようとする妻ノラに、夫が声を荒らげた。彼女は言い返す。
「神聖な義務だったらほかにあります。わたし自身に対する義務です」
人生は夫に操られていたと妻が気付く。鍵を返し玄関を出る。扉が閉まる音。
イプセンの「人形の家」だ。女性の自立を考える作品としてかつてよく読まれた。
今年は没後百年だが、大きくは注目されなかった。女性の地位が向上したからであろうか。
そうとばかりも言えそうにない。女性を家庭に縛り付けるどころか、暴力を振るう事件の多さは目に余るものがある。
政府の調査によれば、既婚女性の二十人に一人が、命の危機を感じるほどの暴行を夫に加えられたことがあると答えた。
加害男は「バタラー」と呼ばれる。
夫や元の夫ばかりでなく、恋人の場合もある。他人の前では普通の男性だが、家の中ではまったくの別人だ。
一方、相手を許しがちな女性もいる。何度殴られても、もう一度だけ、とチャンスを与えてしまうそうだ。
近年はそんな心理研究も進んできた。
ドナルド・ダットン「なぜ夫は、愛する妻を殴るのか?」