はてなキーワード: レスラーとは
ブックに書いてあるキャラクターを演じ、そのキャラクターに命を吹き込むことを売りにしてる。
そのキャラクターを演じきるために自分自身を鍛えた結果、常人よりも優れた能力を有している。
演者自身の生まれ持った部分がブックにも反映されることでキャラクターと演者が少しずつ融合していく。
融合しているとは言えあくまでキャラクターを演じているだけなのに、それを区別できない人がキャラクターの方をその人物本人だと勘違いし始める。
完全にプロレスラーじゃん。
レスラーとしての人格と個人としての人格は別物だって皆分かった上で、リングの上ではキャラクターそのものに完全に成り切っていることを皆評価しているのに。
プロレス界はそういう文化に馴染んでいるけど、プロレス界から遠ざかるほどにその文脈理解が下がって、生きている限りずっとキャラクターを演じることを強要されたりするんだろうな。
続き
(さらに続く)
2023年の新日本プロレス「G1クライマックス」は内藤哲也の勝利で幕を閉じた。ファンの方は嬉しかったことだろう。
しかし、今回のG1は確実にある男が話題の中心に居続けたのは疑いようのない事実だ。
その名は清宮海斗。プロレスリングノアの若きエースといわれる男である。
今年1/21のオカダへの「蹴撃」から始まった清宮の行動は他団体のシングルリーグ戦出場へとつながって、リング内外で想定外の渦を巻き起こした。それが何を示しているのか。
まず、今回のG1への清宮参戦はどちらの希望だったろうか。これに関して私は新日本側の要請とみている。ここでの参戦が大きな話題になることは自明であり、チケット売上や専用アプリへの登録数を
増やせるいい機会である。ここで新日本側から感じるのは自団体の試合内容やレスラーへの自信だ。きっかけさえあればある程度以上の他団体ファンのとりこみが容易だと判断したのだろうと思う。
ノア側からみても清宮には良い経験になるし、知名度に劣り、参戦発表段階では新日本ファンからは諸手を挙げて歓迎されているわけでもない彼への「誤解」を解くいいタイミングでもある。
加えて若いとはいえ団体最高王座に2度(一度目は最年少記録での戴冠)就いた選手である。無碍な扱いをしないような話はあったろうし、そうでなければ送り出すようなこともないはずである。
しかし、ここから(おそらくどちらの団体からしても)想定外の事態が起こりまくった。
まず、新日本での発表時にファンから想像以上の歓迎を受けたことだ。おそらく新日本的にはブーイング半分の状況を想定していたのだと思う。それが想像以上の歓声とともに受け入れられたのだ。
次に新日サイドが目の当たりにしたのは、当初の予想や見積もりをはるかに超える技量をいかんなく発揮する清宮海斗のレスラーとしての能力だった。条件の厳しい(全くのアウェイ+一般的ではない20分一本勝負)中出る試合出る試合で、様々なタイプの対戦相手の特徴を引き出したうえでそれを超えてみせるという、清宮にとっては当たり前の、だが新日本サイドとしては予想だにしなかった状況を現出させたのだ。
その技量の突出の度合いが令和三銃士と名付け、なかで団体としては筆頭扱いであった辻陽太戦で現れた。この試合での清宮は普段の試合では見せない挑発的な技も駆使しつつ、最後は完勝としか言いようのない組み立ててで勝ってみせたが、現場やフロントはここまで技量差を見せられるとは思っていなかったろう。さらに海野翔太戦でも技量で圧倒しつつも海野の気の強さを存分に引き出して引き分けに持ち込んだ。さらに現IWGP世界ヘビー級王者SANADAとの試合でも試合をリードし、最後は時間ギリギリの敗北となったが、王者を差し置いて週刊誌の表紙にまでなってしまう状況となった。こうなればファンは正直である。新日本のファンが一目置くのは必定だ。
自団体の選手を差し置いて会場(=ファン)の信頼を次々に勝ち取っていく清宮を見て、新日本のフロントや現場は何を考えたろうか。その一端がゲイブ・キッド戦で現れたのではないか。
この試合、挑発的ヒールファイトをするスタイルに隠れているが、明確にゲイブは試合を壊しにかかっていたように見えた。清宮は最初受けるスタイルで修正を試みていたが、ある段階で完全に「これは違う」と判断したようだ。
セコンドも連れず、文字通り「単身」敵地に乗り込んでいる彼は試合そっちのけで自らと団体の尊厳を守る行動に出る。最低限の行動(眼球への攻撃や急所への打撃を行わない)は守りつつ立ち向かったのだ。ちなみに観客席で自らの頭を椅子で殴ってから相手に襲い掛かるという奇行ともいえる行為も、湧き上がる怒りを抑える行動とすれば納得もいく。清宮の突然の「試練」に対しても全く臆することなく、むしろ敢然と立ち向かう姿に、おそらくレスラー間で彼を見くびるものはいなくなったはずだ。
だが、一部の人間がそれを完全に脅威としてみたこともまた真実だろう。
私は、この試合を見たときに「これが<仕掛け>であるなら、予選突破はないのかもしれない」と思い始めた。普通に試合を行っても引き分けは当然あるわけだが、この引き分けはそういうものとは違うと見え感じたのだ。その後報道で清宮がスタッフを突き飛ばした、という記事が出た。普段は試合後でもそのような態度をとらない彼がとった行動はその内容が全く予想外であったことを示している。このあたりから、当初の思惑とは違う流れが起こっていたのではないか。
話は飛んで清宮は成田蓮戦で「まさかの」敗北を喫しあえなく予選落ち、となったが、翌日にノアの副社長を兼ねる丸藤正道がかなりセンシティブな内容のツイートを行った(https://twitter.com/noah_marufuji_/status/1687979081059762176?s=20)。真意は以前丸藤との対戦を希望した成田の勝利後に自身と対戦すると清宮のランクが下がってしまうということ、と言っているが、タイミングがタイミングなだけに鵜呑みにはできない。時系列の文脈からすれば成田の勝利を隠れ蓑にしてG1興行全体のピエロとして清宮を扱ったのはおかしい、という風に解釈するほうが無理がないからだ。丸藤の立場でこの発言をしたこと自体、新日本側に対するけん制の意味があるわけで、けん制せねばならない事案が起こっていたという推論にたどり着くことになる。
リーグ戦敗退後もG1興行に参戦を続けた清宮を待っていたのは、なんとほぼ第一試合でのタッグマッチ、というものだった。当初から決まっていたグレート・O・カーン&ジェフ・コブ戦はともかく、その後のマイキー・ニコルズ&藤田晃生、天山公吉&マスター・ワト、矢野通&オスカー・ロイベとの試合とあっては、いくら興行のハナが大事だといっても他団体のトップレスラーをあまりにもぞんざいに扱いすぎている。これはなぜだろうか?
私は準々決勝の組み合わせでAブロックの選手の相手を見たとき、ふと「ヒクレオのところにSANADAが、SANADAのところに清宮がいたほうがはるかに盛り上がったのではないか?」と感じた。これだと内藤がSANADAに勝利していたろうし(結果として優勝後の興行の流れもこのほうがスムーズだった。)、清宮とEVILの試合は相当に盛り上がったはずだ。しかもここで清宮が勝てば準決勝でオカダ戦ということになり、興行の盛り上がりは最高潮だったろう。
しかし、それこそが新日本側の最も恐れていたことではないか。清宮がG1興行の柱になってしまうのだ。この流れでオカダが清宮に勝っても決勝でその盛り上がりを上回ることができるか。決勝は内藤でもオスプレイでもそれは盛り上がるだろう。しかし、仮に清宮がそこまでの試合のようにベストマッチ連発の内容を見せていたらどうなるか。清宮の試合の積み重ねが新日側にあった「自団体の試合内容やレスラーへの自信」を揺るがせたのではないだろうか?
そうなれば最も安全なのは「観客の記憶の奥に清宮の存在を眠らせる」ことである。それはノア側の「想定外」だったろうことが丸藤の態度に表れている。
しかし、両団体にとって(良くも悪くも)更なる想定外は「G1によって清宮の支持が大きく広がった」ことではなかったか。
清宮敗退の報がネットに流れた際、新日本の方針を批判する発言が多く流れ、想像以上の数の新日本のファンがそれに賛同していたのは正直驚きだった。会場でも第一試合や第二試合の出場であっても大歓声で迎えられた。新日本側のレスラーたちの思いも天山戦後に天山自身が清宮を讃えた態度で伝わってきた。そしてなにより清宮本人が腐ることなくしっかりと試合を行いファンを裏切らなった。これこそ清宮が再三言っていた「ノアを広める」が具体的な形になった瞬間ではなかったか。
清宮は正式に使用技の伝授をされている関係から武藤敬司の影響が語られることが多いのだが、元は三沢光晴に憧れノアの門を叩いた生粋の「三沢チルドレン」である。ここまでの清宮の行動を見ればわかる通り、「レスラーは試合で魅せる」「いざとなったら筋を通す」「ファンを裏切らない」という三沢光晴の思想が彼のレスラーとしての行動に裏打ちされている。彼の恩師である小川良成の指導が大きく花開いた瞬間でもあったと思う。
さらに、清宮はあの若さにして日本プロレス発祥のプロレス技術の継承者としての側面を持っている。彼と新日本でタッグを組んだ大岩陵平は清宮にスカウトされる形でノアに留学となったが、すでにノア道場の道場主でもある清宮は指導者としての側面も期待されている。
裁判所とかどうでもいい。
伊藤和子に利用されていても論外。
暇空茜
@himasoraakane
48分
木村花を題材にした実はノンフィクションとかドキュメントとかなら文句言っていいけど、じゃあオウム遺族いるから新興宗教ネタも全部禁止になるし津波も地震も原爆も使えないし、俺のじいちゃんシベリアで共産主義者に殺されたから共産党解散しろよ
なる
@nalltama
50分
テレビアニメ「推しの子」の“恋愛リアリティーショー編”、逝去した木村花さん母が批判 「傷つくことは想像できないのかな」(ねとらぼ)
https://news.yahoo.co.jp/articles/339b18bfa0001984aabecfd74a032f27506e2ad2
https://youtube.com/live/LOQU162vAp4
あっ(察し)
暇空茜
@himasoraakane
47分
木村響子がプロレスをやめてダンサーやモデルになりたい木村花にこういう毒親メソッドやっていたことがよくわかる。
くらげ
@nekoneko__sanma
プロレスごっこという名の虐めで自○した人の遺族や知人のこと考えてプロレス止めろって言われたらこの人はどうするのかな?ってなった🥲
暇空茜
@himasoraakane
36分
遺族棒を理解されないレベルでぶんぶん振り回して迷惑なやつがでてくると遺族ってだけで白い目でみられるようになるとおもうんだけど
一番好きな映画は「レクイエム・フォー・ドリーム」なんだけど
※のちにレスラーやブラックスワンなどを撮るダーレン・アロノフスキーの初期作品
その劇伴である「Lux Aeterna」がめちゃくちゃいい。
本当にいい。
良すぎてなぜかロード・オブ・ザ・リングの予告編のためにフル・オーケストラに編曲し直されたバージョンが存在して、なんならそっちのほうがより広く知られている。
『Lux Aeterna Clint Mansell』で調べてもらえばYoutubeにも鬼ほど出てくる。
あぁ、この曲かってなる人も多いと思う。
急激な温度差で風邪をひくかもしれないが、アニメゆゆ式の劇伴もよい。
特にGet Wild的に使用される楽曲で「TekiPaki (Yui's Theme)」は
これもまぁ、アレな動画をどこかで視聴できると思うので聞いてみてほしい。
過去の国政選挙はだいたい「選挙区は民主党系、比例区は共産党」。吉良よし子議員にも入れたことがある。ただ、立憲民主党が立ち上がったときは御祝儀で両方立憲民主党に入れたし、れいわ新選組が立ち上がったときは一票入れた。「俺の一票が国会議事堂のスロープになった」と思うと誇らしい。ロシア非難決議に対する対応とかで「どうしようもねえなこいつら」と思ってはいるけど、国会に何人も重度障害者を送り込んだ実績があるので完全に嫌いにはなれないんだよな……
政治的スタンスとしては、象徴天皇制支持、日の丸君が代に愛着あり、日米安保支持だが、どうせ今すぐに共産党が政権獲ることはないだろうし、と思って少しでも生活をマシにしてくれそうな党に入れていた。共産党が恒常的に第二党になり天皇制や自衛隊への攻撃を強めてくるようになったら流石に別の党に入れるだろうけど、現状の勢力ならまあ天皇や自衛隊の脅威にはならんだろうな、という判断。
過去の地方選挙はだいたい共産党一択。地方選挙なら共産党がいくら勝とうが天皇制や自衛隊に直ちに影響があるわけではないので、安心して共産党に入れられていた。
で、前置きが長くなったけど、昨今の共産党について。正直、かなり失望している。
失望のその1は表現規制問題だ。かつて共産党が表現の自由のために戦ってくれた経緯があるのは知っているし、そこは感謝しているが、最近の共産党は表現規制派のフェミニストに乗っ取られてしまったかのようだ。『温泉むすめ』へのバッシングには何人もの共産党の地方議員が参加していた。地方とはいえ仮にも公職にある者が、たかだか地域おこし用のご当地萌えキャラ程度のものに「ゾーニングすべき」などと堂々と言ってきたのだ。『月曜日のたわわ』だってそうだ。他にもいくらでも事例は挙げられる。そしてとどめが、一昨年の衆院選だ。
不安定な雇用に振り回される萌えオタクの俺は、安定した雇用や充実した福祉と天秤にかけて、俺の嫁たちを選ぶことにした。まっとうな仕事がないのは俺が人文系などというカネにならないことでは定評のある学問を専攻したからであり、自己責任であると諦めもつく。一念発起して資格を取るなり起業するなりすれば一発逆転ができるかもしれないのにしていないのも、最終的には俺が怠惰なのが悪いのだ。しかし、彼女たちがいったい何をしたというのか。たかだかスカートに皺が寄っていただのといったくだらない理由で、彼女たちがあそこまで攻撃され、貶められてよいはずがない。金がないのは耐えられる。でも俺たちの文化が貶められ、排除されようとしているのは耐えがたい。
失望のその2は、まあその1とも絡んでくる話だが、Colaboの件だ。モリカケサクラであれだけ特定の民間人との癒着や公的リソースの私的流用や公文書の黒塗りを批判してきた共産党が、Colaboをあそこまで庇うとは思っていなかった。まだ知らんふりしてColaboを詰めてくれた方が全然よかった。暇なんちゃらが「共産党と強いつながりのある~」って枕詞を使ってたときは「まあそりゃ事実っちゃ事実だけど下品な攻撃だなぁ」と思っていたんだけど、あそこまで全力で都の不明朗な会計を庇い始めるのは予想外すぎた。本当にあったのかよ強いつながり。俺はお前らが行政の透明性をうるさく追及する党だと思って、そういう政党が議会制民主主義には必要だと思って、だからずっと貴重な一票を入れてきたんだぞ……
そして失望のその3。今回の党首公選問題だ。たかだか党首公選すべきだと本を出し記者会見をした程度の党員をあそこまで攻撃するのはドン引きするほかない。「気持ちはわかるけどすぐには難しいっすね~。貴重なご意見あざーっす」で済ませていればすぐに鎮火しただろう問題をここまで燃え広がらせているのは、すべて共産党自身が招いたことだ。
俺は党首公選が絶対に必要だとは思わない。それは2つの理由からだ。理由のその1は、紙屋研究所の人が書いていたように、公選のみが民主主義だということになったら、じゃあ国会はどうなんだ、という話になってしまうからだ。当たり前だが首相は国民による直接選挙ではなく、国民に選ばれた議員の互選である。それでも、安倍晋三や菅義偉や岸田文雄は競争的な選挙で選ばれた政府の長であるということになっている。ならば、別に政党内部でも間接民主制であって悪いわけではない。すべてを直接選挙に還元するのは議会制民主主義の否定だ。
けれど、問題は、それで20年以上も同じ人物が党首の椅子に座り続けていることだ。いやもちろん、指導者の在任期間が長いことそれ自体が直ちに問題になるわけではない。たとえばドイツの首相は非常に長期にわたって在任することで知られており、アンゲラ・メルケルは16年にわたって首相府に君臨してきたが、ドイツが民主国家ではないと言う人はいない。しかし、ここは日本だ。たいていのアメリカ大統領が経験する8年間の任期を勤め上げたら憲政史上最長の長期政権になってしまう国だ。かつては1年単位でコロコロ首相が代わり、選挙に負けたら与野党の党首が腹を切らされ、ポスト○○は誰だという話でワイドショーがもちきりになる国だ。麻生太郎も野田佳彦も、そして最初の組閣時の安倍晋三も、選挙に負けて党首を辞めさせられてきた。選挙にはめっぽう強かった再登板以降の安倍晋三は、コロナで失政をやらかした(と国民から思われた)ために首相を辞めた。じゃあ、志位和夫は? 共産党の党勢を爆発的に伸ばしたわけでもなく、有能な首長を何人も輩出したわけでもなく、山本太郎や福島瑞穂のように事実上の個人政党を統べているわけでもない彼は、なんでずっと党首の椅子に座っていられるんだ? ヘルムート・コールが25年にわたってCDU党首を努めたドイツであればいざ知らず、安倍晋三ですら10年も自民党総裁の椅子を温めることができなかった日本において、それはあまりにも異様で非民主的に「見える」光景だ。
もちろん、党内で綿密な議論を重ねた結果、たまたま有為な人材が連続して選出されているのだ、という主張をすることは可能である。自民党の世襲政治家の皆様も、有能な人材がたまたま息子だった、と言いたいことだろう。我が国には職業選択の自由があるので、それは一概に否定できることではない。そこで、党首公選が絶対に必要だとは思わない理由のその2になる。共産党の人びとがここ最近力説されているように、憲法には結社の自由が定められており、なおかつ、政党は党員による直接選挙で党首を選べ、と規定している法など存在しないのだから(政党内部の民主主義に関する法がないにもかかわらず多くの政党が党首選挙を採用しているのは、日本が成熟した自由民主主義社会であることの証左だと思う)、そんなもんは共産党の自由なのである。究極的な話になるが、神のお告げで党首を選ぶ政党があってもよいし、レスラーが立ち上げた政党であればリングで党首を決めたっていいのだ。嘘をつかずに「我が党は格闘や神託で党首を決めています」と言ってくれさえすれば、あとは国民の方で判断すればいい話なのだから(現に、「○○の息子でございます」と名乗った上で自由選挙で選ばれている世襲政治家は大勢いるわけで。そして世襲政治家であっても当選が保証されているわけではないことは、偉大なる田中角栄のドラ娘が見事に証明してくれた)。
レスリングやイタコで党首が決まる政党であっても、俺たちの利害を適切に代弁し、国民の自由を保障してくれるのなら一票を投じてもよい。非民主的な発想かもしれないが、少なくとも俺はそう思う。だから共産党にとっての真の問題とは、そのようにして擁護してくれる人の数を年々減らしていったことにあるのではないか。俺は、あんたらがフェミニストと手を組んでゾーニングだの何だのと喚き散らしたりしなけりゃまだ共産党に票を入れてただろうし、松竹伸幸を強引に追い出したりしなけりゃ、結社の自由戦士になって共産党を庇ってもよかったんだけどね。
レスラーを死に追いやってそうだよね
仲の良い友達男女7人くらい集まってる。
手筈が整っていなかったらしくちょっと寝室で漫画でも読んで待っててといわれる。
キッチンやリビングからはキャッキャしながら何か作ってる音がする。
ベッドに転がってうとうとしてたらロバート秋山が静かに部屋に入ってきて
起きてるよ、きてって呼んだら
すごいニコニコしながら、なになにーって来るからあんまり可愛くて、寝たまま
「だっこしてー」ってお願いしたら、
えっ、いいの?って抱きしめてくれた。
大きくて厚みがあって弾力があっていい香りのする体は最高でどきどき感と多幸感であたまがぶわーーーっとなった。
ロバート秋山が「すごい、ふわふわだ、意外と厚いね」って照れ臭そうに言うから
「おんなじだね」って返したら
ロバート秋山の腕がウエストの方に降りてきて「うわ細っ」て言うから私の理性が抑えきれなくなって
「したい」って伝えたら抱きしめたまま首にキスされたとこで夢は終わってしまった。
レスラー系の体格に厚い唇って最高だよね。
数多くの面白い漫画が他にも有る中で、わざわざ、つまらない漫画を選んで読むところが凄い。マゾヒストか?
死んだ魚みたいな目をしていて、中身が空っぽで、人間的な魅力がゼロの主人公。
海賊王の定義があやふや。それに加えて「これを成し遂げたら海賊王と認められる」というチェックポイントも不明。
しかも「何歳までには海賊王になりたい。ならねばならない」という時間制限も無いので、話に緊張感も無い。「なろうなろう明日なろう」とか言って。「明日は檜の木になろう」とか言っちゃって。あすなろサンシャインか。
緊張感が無いといえば、主人公が白目を剥いて失神しているのに、悪役は心臓を貫こうとも、首を切り落とそうともしない。「どうせ主人公は死なない」と分かりきった緊迫感ゼロの接待バトルなど、今日日は小学生でも馬鹿にする。だから、ONE PIECEのバトルはプロレスみたいとか言われて馬鹿にされている。しかし、試合の筋書きが有るプロレスの方が、むしろ「レスラーが死ぬのでは?」という緊迫感が有るので、ONE PIECEを批判するための比喩にプロレスという言葉を使わないで欲しい。
そんなふうに主人公サイドの人間のほとんどが死なない中で、唯一、間抜けな犬死にをしたエース。犬死にしたのは、挑発に乗せられて、頭に血が上ったから。
で、エースが死んだら、主人公が小便器みたいなアゴをしてグシャ泣き。でも、エースの死に方が間抜けなので、読者は誰も感情移入できない。感情移入できないのは、エリンギみたいな変な髪型のオデンとかいう登場人物もそうだった。だから、ワノ国は終始読者から不評だった。50倍面白くなります!とか作者は言っていたが、もうすぐワノ国編は終わるのにいつ面白くなるのか?そもそも、ゼロは何倍してもゼロである。
感情移入できないといえば、作者が読者に思わせたいことを、登場人物が「なんという男気!」とか「なんて自由な戦い方だ!」といった説明的なセリフ回しで「こう思え!」と押し付けてくる。漫画表現として稚拙の極み。
そもそも、主人公が海賊王になったとして、物語の世界に暮らしている脇役の一般人に恩恵が有るか?無い。
例えば、吸血鬼や鬼を倒すことを目的にしている主人公を描く物語なら、その戦いを脇役の一般人も応援するし、その脇役の気持ちにシンクロして読者の気持ちも盛り上がる。「海賊王に俺はなる!」とか言われても「お前がそれになったとして、だからどうした?何か俺(脇役の一般人=読者のアバター)に恩恵があるのか?」としか思わない。読者と作者の心の距離感が大きい。
心の距離感が大きいといえば、トムとジェリー的なギャグキャラに主人公が变化して、アヒャヒャヒャヒャ!楽しいなあ!と笑いながら闘う描写が、満を持して披露したのに、長年の読者にすら不評だった。たがら、普通にシリアスな顔での戦闘に戻り、結局はデカいパンチでKOするという、カタルシス皆無の決着。
だいたい、あれだけ大泣きするぐらいエースの死を悼んでいたのに、主人公はエースを殺した人間を倒して仇を討とうともしない。それより宴が大事だ。サイコか?
もっとも、仮に仇と対峙していたとしても、アヒャヒャヒャヒャ!楽しいなあ!と馬鹿笑いしながら戦闘するようになった主人公では、仇討ちの緊迫感や雰囲気もブチ壊しになる。これだけでも、作者が登場人物たちの内面や人間性について、何も考えていないことが分かる。つまり、考察するなんて無駄。
格闘技で世界一!とかゴルフの国際大会で優勝!とかならまだしも、定義不明の海賊王なんて、カバディ世界一よりも無意味。むしろ、カバディ世界一を目指す漫画なら、喜んで読みたい。絶対にONE PIECEよりも面白いと思うから。海賊漫画なのに、登場人物たちがドタバタ走り回っているだけなので、マラソン漫画と呼ばれるようになったONE PIECEよりも、カバディのトレーニングや試合の方が面白く描写できるはず。
日本の声優の吹き替えが~とか聞きやすさが~とか演技力が~って言うけどそういうの言ってるやつって大半がアニメオタクなんだよね。
過剰に芝居がかった演技がものすごく苦手。なんか如何にも俺の演技すげえだろ?みたいなドヤ感。
それに無駄に感情を強調しているようで映像とリンクしていないのが多々ある。原語版見てから吹き替えしてるのか?っていう。
元レスラーのドウェイン・ジョンソンとかスティーブ・オースチンの吹き替えなんかは本人の声に慣れてるから尚の事日本語の吹き替えがキツイ。
だからといって英語とか中国語以外の映画を見る時に字幕版だとキツイ。
韓国語とかフランス語とかドイツ語の映画なんだけど、その言語聞き慣れていなさすぎてそっちにばかり気が向いちゃう。
ドイツ語とか喜んでるシーンなのに話し方の問題なのか発音の問題なのか怒ってるように聞こえる。
難しい。