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2020-07-08

天気は気まぐれ雷予報増田住まう帆より波枯れ具巻は禁手(回文

おはようございます

遠くで雷が聞こえます

天気のことじゃなくて本当はそんなに遠くはない隣の部屋から

あーくわばらくわばらだわ。

最近本当そんな空模様だから触らぬなんとかってわけよ。

空模様って言っても天気のことじゃなくて

比喩からそこは分かってちょうだい!

とばっちりがきたらたまったもんじゃないし

時間のロスよ!

ただでさえ変に午前中が混み合っているときがあるって言うのに。

あんまり関わりたくないわね。

私は大人しく自分のところでせっせと今日は伝票印刷するわ。

寝耳に水で怒られるのはたまったもんじゃないわ。

でもさ

寝耳に水

スモモに桃

おのののかにの

北斗の拳ケン

って言ってたら楽しくなってきちゃったそんな午後にしたいものね。

ご機嫌になるおまじないよ。

速く雷雲がどっか行きますように!

くどいようだけど

天気のことじゃなくて

これは比喩からね。

行きますように!雷雲がどっか遠くに。

これは倒置法よ!

本当かどうだかは知らないけど、

倒置法っていう雰囲気でてるっぽくないかしら?

でもさ

きまぐれクックの動画を観ていたら

何でも魚さばけるような気分にならない?

映画館出たあとで強くなった気がする現象と同じブルースリー現象というか、

そんな感じで、

私その魚のえらの外し方、

包丁どこに入れて良いか知ってるもんね!って

ふわっさーってドヤ風を吹かしながら言うことができるわ。

でもきっとあんな上手には行かないわよね。

と金に物を言わせた感じの魚買ってくる感じも、

私にはせいぜい鯖が限界よね。

大きさ的な意味で、

鯖ってさ今まるまるとプリッと太った美味しそうな鯖ちゃんなんだけど、

魚屋さんの店頭で見てるとそう思わないけど、

家のキッチンまな板の上に乗せてみると、

鯖と言えどもデカわ!

しかも3匹は大杉漣って感じだし、

でもここだけの話

きまぐれクックって本当は見たことなくて、

噂で聞いたことを書いてみたか

噂通りね!って言えるように

今度はちゃんと本当に見てみるようにするわ!

うふふ。


今日朝ご飯

またまた目玉焼きベーコンレタストマトサンドがなかったので、

全粒粉パントマト野菜サンドよ。

白色より茶色い方が

健康的なイメージ栄養があるようなイメージも併せ持ってるから

茶色ってちょっとずるいわよね。

白より茶色い方が栄養あるんじゃないの?って

思うのはお蕎麦もよね。

都会に行くとたまにある白い蕎麦を食べると思い出すわ。

デトックスウォーター

スーパーマーケッツに桃もう出回ってたのたうち回ったわ!

まだまだ高いから手が付けられないけど、

その代わり上から指で押してみました!

ウソウソ

中条きよしさんばりにウソよ!

指で押したりなんかしちゃ駄目なんだからね!

でも出始めの桃1つ奮発して買ってみたので、

今日モモモウォーラーです。

ミントも入れみてもいいかもね!


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2020-07-07

anond:20200707101955

魚屋じゃないから朝から市場行かないし、前日の鮮度落ちた刺し身食いたくないし、まかり間違って当たろうものなら大惨事だし、鰹のタタキなら多少置いとけるけど「カツオ」だけじゃ普通刺し身を想像するし

2020-06-19

7日後死ななかったカニと2時間で死んだドジョウ

さっき増田知ったから読んできたんだけど

いや食わんのかい

鮮魚の店でドジョウを買って帰った日の事を思い出す

私は小学校2年生だった

海無し県なのにそこそこ新鮮で良い魚を揃えている魚屋

大手スーパーの隣という立地にも関わらず

八百屋肉屋が併設されておりそこそこ活気があった

スーパー駐輪場に出る焼き鳥屋鯛焼き屋目当てで買い物について行った

母は魚屋トロ箱に入っていた活きドジョウをひとすくい買った

緑色プラスチック笊ですくわれたドジョウ我が家のものになった

食べられて死ぬドジョウと生き残ったドジョウ魚屋の手の動き次第で

きっと事故死ぬのもそんな感じだろうなと思ったのを覚えている

ドジョウ不安定ビニール袋に入れられていたので私が持つ事になった

そこでわずかに責任感と、動く生き物の感触への庇護欲が芽生えた

いや嘘だ、それは大人になった自分感性であり私はもっと愚鈍小学生だった筈だ

とにかく私はドジョウを無事持ち帰った

母はドジョウを下洗いし、衣をつけ、揚げ油に入れていった

ドジョウはほんの数センチ油鍋の中を泳いでからぷかっと浮かんだ

私はその様子が恐ろしくて、母に頼んでドジョウを三匹分けてもらった

イチゴの空き容器に入れて飼おう、このドジョウを守ろうと思った

めそめそとしている私を尻目に祖父は揚げたてのドジョウを食べた

祖父っ子だった私もそれに倣って食べた

これが異様においしかった

泥臭さもなくサクサクとして塩だけでも旨味があった

もうドジョウないの?と聞くと食べきってしまったようだ

揚げ油はまだ温かく別のものを揚げている

私は床の間に置いていたイチゴの空き容器を台所に持って行って

「これも揚げて」と言った

私は小2からそういう人間

いただきますとごちそうさまは必ず言う事にしているが

それも行儀ではなくそういう自分を許すためだ

2020-06-14

底辺非国民の僕、10万きたので魚屋中国産ウナギ蒲焼を買う。めちゃデカくて1500円。

国産は2500円で手が出せなかった模様。差の1000円でビールとツマミを買う。

2020-06-06

イエノミ

昨晩は入眠したのが1時近くで、起きたのが6時半。睡眠時間約5時間半か?短い!昼寝でとりかえさなければ( ^ω^)・・・

昨日は、おチビちゃんサイクリングした。「遠いよ」とか嘆かれることもなく、スイスイ漕いでた。成長したなぁ。むかしはそれなりにかわいかったが・・今は・・・ハンサム路線と言えば聞こえはいいが・・かわいらしさがなくなってきたわ。

今朝は確か甘味料が届くはず。楽しみ。あとは近くのお店にライム果汁かもしくはレモン果汁を買いに行こう。今晩カクテルが飲めるわ。楽しみ。居酒屋など外でお酒を飲んでない。全然行ってない。いつのことからだろう?この前最後居酒屋に行ったのはいつのことだろ?2月2月末に焼肉屋ハイボールを注文した記憶が明確にある。3月は?出張新幹線の中でプシュッと開栓し飲んだ。それは記憶している。店には行ってない。2月から起算して3か月ちょっとご無沙汰しております

宅配便受け取りのため、魚屋行は辞退。妻子2人で行ってもらおー。

2020-06-03

魚屋弁当は魚はうまいがそれ以外がまずい

先日から私が愛用している弁当屋が復活した。

そこの弁当は品数が多く、一品一品が丁寧でフライ系を除いたら大体どれも美味しくて

社内で食べる必要性を感じるときはそこを利用することが多い。

しかコロナ対策の影響で、しばらくの間閉まり、数日はコンビニパンで過ごしていた。

セブンイレブンコロッケパンコンビニパンの中でも至高といえる。

あくる日いつも通らない通りからコンビニに向かうと、そこには魚屋があり、弁当があった。

その弁当はほっけがドン効果音が付くような分厚さで、弁当の半分以上を占めている。

弁当恋しさと縁を感じ購入を決意。少々値は張るが、炭火で焼いているらしく、少し気分は高揚。

社内に戻り、弁当をあけると確かにはいものだと主張するにおいが立ち込め、気分が高揚。

食してみるとほっけは脂が乗り切った状態冷凍保存していたらしく、非常に美味。炭火で皮の可食部が少ないのは残念だがそれを差し引いてもおいしい。

しかし気分が高揚したのもこのほっけだけで、それ以外があまりよろしくない。まず漬物は安物と一目でわかるつけ具合で

なおかつ、量が少なすぎる。付け合わせの総菜は私の記憶が正しければ業務スーパーのやつだ。気づきたくない事実というものはどこにでもある。

そしていただけないのが白米だ。私的表現使用すると人間味がないのである

この味には覚えがある。デイリーヤマザキおにぎりだ。これはただの勘だが古米を洗浄しすぎるとこういった味になるのだろうか。

米を大事にしている私は少々残念ながらあの道を通り、あの魚屋弁当を買うことはない。

米をついばむうちに、気がかりが生まれた。ほかの魚屋弁当はどうなのだろうか。もしくは肉屋弁当も同じく米がいただけないのだろうか

気もそぞろに仕事が片付け、家近くの商店街にいき、専門店弁当を買いそろえる。

まずはスーパーの中にある魚屋が出しているお寿司。ここはスーパー改装を行う際に遠方から移転してもらっただけに

魚の品質が高いので愛用している店だ。愛用しているがここも魚は美味しい。が米はいただけない。

どうも魚屋弁当の米はまずいということは確定してもよさそうである

次に口直しにお寿司屋さんで買ってきた弁当を食べてみる。うまいシャリという違いがあるにせよ。雲泥の差は間違いなくあり、食べてみるだけで幸福である

次は肉屋弁当を食べてみる。ここのトンカツは遠方の友人が来るたびにお土産に買う一品で肉はだいたい美味しい。

しか専門店からと期待していなかったが、期待に反して魚屋よりは味があった。なんとも言えない気分になった。

最後オーガニック野菜専門店弁当で占めにする。野菜は甘みをあまり感じられず、野趣あふれる弁当なのだ

肝心の米がいまいちである。完全に予想外だが、これは察するに炊飯器古いのを使用している。変ににおいがついている

米そのものはたぶんきっとオーガニック故に質は悪くないはずだと思いたい。少なくとも魚屋よりはマシだ。ずっとずっとマシだ。

弁当を食べきり、私の中の結論は「魚屋弁当は魚がうまいがそれ以外がまずい」

ほっけは美味しかった。だから今度帰りに単品で買っていこう。

2020-05-30

anond:20200530114919

もしこの世から肉屋さんとか八百屋さんとかお米屋さんとかパン屋さんとか乾物屋さんとか卵屋さんとか雑貨屋さんとか洋菓子屋さんとか和菓子屋さんとか豆腐屋さんとか佃煮屋さんとかなくなったら

お前はスーパーマーケット行くんですか? 魚屋さんもなくなるよ?

もしこの世からスーパーマーケットがなくなったら、

お前たちはお肉屋さんとか八百屋さんとかお米屋さんとかパン屋さんとか乾物屋さんとか卵屋さんとか雑貨屋さんとか洋菓子屋さんとか和菓子屋さんとか豆腐屋さんとか佃煮屋さんとか行くんですか? 魚屋さんにも行けよ? 

2020-05-16

小さい頃の思い出の場所が次々と駐車場になっていく

自粛中ではあるけどフラット散歩してみると、思い出の場所がどんどん無くなっていることを痛感する。

かつての思い出の場所は次々と駐車場になっている。

先頃の不景気では店を閉めようにも、物件をどうしようもないから、駐車場にしちゃった方がいいって判断なのかな。

かに一軒は店主が◯吊りで死んでたって聞いた。

そうなると次入れないもんなあ。

見事に後がコンビニになったり飲食チェーンが入った場所もあるけど。

俺が子供だった頃とはかなり様変わりしてるが、たった数十数年でこんなに明暗別れるか。

魚屋スーパーになった後駐車場になった。

八百屋飲み物屋になった後駐車場になった。

カメラ屋はそのまま駐車場になっていった。

カメラ屋は店主のお爺さんがうちの死んだほうの祖母ちゃんと昔恋人感覚だったなんて話も聞いたことあるから他人事では無かった。

まあ、元はと言えば俺が中学時代に初めて童貞を失った場所でもあるのだが・・・その話は勘弁してくれ。

まあそんな話は置いといて、本当に悩んだんだろうな。

悩みに悩み抜いて悩んだ結果。

本当は孫の代まで続かせようとも思ってただろう。

でも高齢化社会では後継者も到底OKしてくれないだろうし。

結局月極駐車場にするのが鉄則なのかな。

2020-05-12

anond:20200512224616

釣りをする人間に「そんなに釣りがしたいのか?餌代と時間無駄じゃないのか?魚屋で買った方が安いことも分からない低脳なの?」と聞くようなもん。

趣味に対して言うようなことではない。

2020-05-04

anond:20200504111423

一回の人生毎日好きなもの食べていいというとすご自由なように思えるけど、

実際、よく出来た八百屋魚屋肉屋、輸入食品店、農産物ショップなんかがそばにないと、

あんまり代わり映えしないものしか食べられないよね

2020-04-04

anond:20200402201627

うちは父が素麺のつゆを、エビでとるのが好きで、たくさんお魚屋さんで小エビ買ってきて

母と私が必死エビをカラむいて、出汁をとってたなぁ。

2020-03-09

最寄り駅の再開発で何もかも不便になった

金沢八景という駅の近くに住んでるんだけど

何年も前からやっていた駅前再開発がやっとほぼ完了した

その結果、何もかもが不便になってしまった

駅はキレイになり駅ビルが出来たが

今までは改札入って階段を上がるだけだったのが、3階まで上がって2階まで下がらなければならなくなった

駅前には本屋八百屋があったが、そこは綺麗なバスロータリーになり店は帰ってこなかった

肉屋魚屋が併設されていたスーパー駅ビルに帰ってきたが、肉屋魚屋は帰ってこなかった

ついでにホームセンターマツキヨも無くなった

路線シーサイドライン)との乗り換えは簡単になったみたい。利用者は助かってると思う

ただ私はもとの駅の近くに家があったので、これも不便になった

あーあ、前のままが良かったなー

2020-03-03

魚屋のおばちゃん病気で無い事を祈る女の話

東京砂漠職場手形を持って働きに行く埼玉都民の女の話である

2年前にたまたま歩いている時に見つけたお弁当屋の話である

当時の職場のすぐそばにある、お昼しか空いていないお弁当屋さん

ちいさな個人宅の一階で焼き魚450円、お弁当700円、おむすび200円で売っている

そばにお肉屋さんがやっているお弁当やさんもある

その個人宅のお店のおむすびがとにかく美味しい

最初たまたま一つ買ってあまりの美味しさに即トリコになり

お店が開いていておむすびがあれば即買いに行くように

とにかく美味しい、タラコいくら鮭の3種だが全種あると悩むくらい美味しい

埼玉県まで持って帰って母と食べた事もある、美味しい

味噌汁付き800円のお弁当も美味しかった

お店を覗いておばちゃんがいると

「まってて今握るから

と言うようになってくれた

とにかくおむすびが美味しい

しか職場が変わり買いに行けなくなってしまった

(日比谷から有楽町に異動になった感じでそこまで遠くはない)

二週間前のことである帰宅前に店の前を通った所

本日都合によりお休みを頂きます

とチラシが貼ってあったのだ

そして本日仕事が昼までのため、おむすびを買いに行こうと

弁当屋さんに行った所、同じチラシが貼り続けられているのだ

あの人の良いおばちゃんと、愛想が無いが味噌汁を縁までいれてくれる息子さんに

何かあったのか心配でたまらない

特定されるのを覚悟手紙を書こうか悩み中である

おばちゃんと息子さんに何もなければ良いのだが、あのお弁当が食べたくてたまらないが

あのお店の二人に何も無い事を祈る日々である

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-01-29

anond:20200129113701

田舎は美味い魚屋が多い。

あしからず

都会の人間は了見が狭い。

特に東京人は、猫の額🐈🐱

anond:20200129111022

田舎魚屋

もっと安くて新鮮で美味いのが

パックで売ってる。

とにかく街の魚はまずい。

2020-01-19

anond:20200119143420

🐟ご存じないのですか?彼女こそ、代役からチャンスを掴み、スターの座を駆け上がっている 超時空シンデレラ、お魚屋さんの🍣お寿司ちゃんです

最近スーパー寿司コーナーでよく見かける「魚屋さんの寿司」という謎ワード

魚屋さんとは何なのか

2020-01-10

anond:20200109101802

最近八百屋魚屋は減って行ってデイケアセンターや塾になっているけど、

逆に近所の農家コンビニ道の駅に納入して近所で取れた野菜コーナーみたいなのを週末に置いたり、

脱サラというか転職して農家始めて、

タブレットサイト作ってネットオーガニックレストラン契約を結んで……

みたいなのも増えてるとテレビで見た

2020-01-09

anond:20200109103042

ワイの地元商店街荒川区)は生き残ってるとはいえビッグ・エーが一個あってその周りに往時の規模の1/3になった八百屋とか魚屋肉屋がほんのちょっと残ってるだけでほぼ死に体だぞ。

2020-01-06

anond:20200106003648

魚屋さんだったら、幸せだニャ🐟🐈💝

🐟ヒレに吸い付かないでくださーい

😸えへへ

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