はてなキーワード: UWFとは
試合の内容の是非というよりは、後世に残した影響の強さを重視して選出しました。
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』でもお馴染みだが「プロレスとは何か」を深淵の底に落とした試合である。この試合の真実に関しては諸説あるが、ともかく力道山が木村をシュートで潰したことは単純に眼前の事実である。「プロレスとは八百長ではなかったのか?」日本プロレス史における「プロレスとは何か」という問いへの解答がこの一戦で全て分からなくなってしまい、今もその謎が解けたとは言い難い。また、当時のプロレス界は柔道出身が多かったものの、木村がこのような形で潰されたため、もし木村が勝っていたら今のプロレス界は柔道の系譜がもっと強くなってまるで違う別物に変わっていた可能性が高い。当時の日本の強さの象徴といえば柔道であり、その柔道をプロレスが上回ったのだから当時の衝撃たるや、である。少なくとも逆水平チョップという技がこれほどスタンダードな技として使われる(アメリカなどはナックルが主流)のは間違いなく力道山の影響だろう。
言わずとしれた世紀の凡戦であるが「猪木・アリ状態」が発生しただけでこの試合は人類史に残す価値のある試合である。この辺はあらかた語り尽くされているので多くは書かない。また、試合を実現させる猪木マジックとも呼ぶべき「巻き込み力」はエネルギッシュだった昭和の世相を反映していると言えよう。
初代のタイガーマスクがデビューした試合で、今見ても全く色褪せない。漫画のキャラクターが実現するメディアミックスという手法も新しかったが、マスクを被った佐山の才能は20年ほど時代を先取りしていた。四次元殺法とも評されたその戦いぶりは軽量級レスラーに偉大な影響を残した。
選手としてはピークを過ぎて会社内での立場も危うくなってきた馬場が、自身のレスラー生命の生き残りを懸けて行われた一戦。ハンセンはこの当時、選手として全盛期であったため馬場は殺されてしまうのではとさえ言われていたが、試合開始直後に放った16文キックがクリーンヒットし、会場の空気が一気に馬場一色となった。この試合は引き分けという不透明決着に終わるも、馬場はその人気再沸騰で会社内でのイニシアチブを取り戻すこととなる。レスラーはリング上でこそ輝きを取り戻すという、レスラーの原点を示した一戦。個人的には倒れているハンセンの左腕をガッツリ踏み潰すキラー馬場が滲み出た瞬間が一番アツい。
公私ともに何もかも上手くいかず、自暴自棄になっていた時期の猪木が行った一戦(元々の発案者は藤波であったとも言われているが、なぜか猪木がやることに)。猪木と巌流島に立てられたリング上で時間無制限、ノールール、レフェリー無し、無観客試合という前代未聞の試合に付き合えるのはマサ斎藤くらいしかいなかった。後年、この試合を振り返るマサ斎藤のインタビューがあるのでこちらも読んで欲しい(https://number.bunshun.jp/articles/-/842688)。試合は2時間を過ぎたところでマサ斎藤が裸絞めで失神し、猪木が勝利した。観客を排して一切のしがらみを捨て、レスラーが純粋に二人のためだけに試合をしたらどうなるのか、という後年でも見られない極めて前衛的な試合になったと言える。
プロレスを守るためにプロレスをした武藤と、プロレスを強くするためにシューティングをした高田の一騎打ち。新日本とUWFインターの対抗戦として行われたこの興行のメインイベントは、新日本4勝、UWFインター3勝で迎えられた。高田としてはこの試合に勝てば4勝4敗で終われるが、この試合に武藤の保持するIWGP王座がかかっていたため、4勝4敗でもベルトが動いた分UWFの方が上を取れるという状況であった。お互いのスタイルをお互いが貫き合い、武藤の持つドラゴンスクリューという極めてプロレス的な技が、高田の多用するキックへのカウンターとして機能することが勝敗を分けた。最後も足4の字固めというプロレスを代表する固め技で武藤がギブアップを奪った。戦いのスタイルが全く違っても、そのスタイルを両者がいかに主張できるかで試合は面白くなる、ということを示した貴重な一戦。
橋本の1勝3敗で背水の陣を敷くべく「負けたら即引退」を掲げて小川へのリベンジを臨んだ一戦。この二人のシングルマッチで一番面白いのはやはりこの5戦目である。橋本はジャンピングエルボーを炸裂させて小川の肩を脱臼させるも、その後の三角絞めで腕を取った際に外れた肩を偶然嵌めてしまうという珍事も小川に味方し、最終的には小川がSTOの連発で橋本をKOした。完敗した橋本は本当に引退するも、折り鶴兄弟(詳細は省略)の助力もあり復帰。最終的には小川とタッグチームを組み、親友となった。戦いの末に友情が生まれるというジャンプ漫画でありそうな展開は現実でも起こるという、プロレスにフェイク無しを魅せつけた一戦。
既に引退していた長州をなぜか大仁田がストーキングとも言える言動を繰り返すことで呼び戻すことに結果的に成功し、大仁田のお家芸である電流爆破デスマッチが実現した。プロレスは「ネバー・セイ・ネバー」(絶対に無いということは絶対に無い)という矛盾を孕んだ言葉のまやかしを大仁田の執念が証明してみせた一戦。試合は長州の勝利。なお、この大仁田が長州へしつこく対戦を要求する様子は当時のプロレス番組で放映されており、それをレポートする真鍋アナウンサーとのやり取りも「大仁田劇場」として注目された。最初は大仁田からの理不尽な扱いに「サラリーマンって大変だなぁ」とファンに同情されていたほどだったが、最終的に真鍋は大仁田へ「電流爆破、見たいです!」と直言するまで成長し、この試合の実況も大仁田に傾倒する内容で行った。
2000年はプロレス界激動の年だった。6月に全日本プロレスから選手がクーデター同然に大量離脱し、残った選手は川田利明と渕正信の2名だけとなった。全日本はなんとかして起死回生を図らなければならず、鎖国状態にあった同じ老舗団体である新日本プロレスとの交流に活路を見出した。8月11日、渕がスーツ姿で新日本のリングへ上がり「(鎖国状態にあった)壁をぶち破りに来ました」と話し、新日本の現場監督である長州力と固い握手を交わしたところへ抗議しに現れたのが蝶野だった。乱闘をしかけようと興奮する蝶野だったが、渕は冷静に受け流し、蝶野が落とした帽子を「蝶野、忘れ物だ!」と帰ろうとする蝶野へ投げつけるシーンが完全にプロレスファンの心を掴んだ。これを受けて行われたのが全日本のリングでの二人のシングルマッチである。結果は蝶野の勝利であったが、全盛期をとうに過ぎた渕が堂々とした態度とマイクで第一線を張ったおかげで全日本は辛うじて生き残ることができた。いつ誰がどんな形で主役を張らなければならないかは分からない、運命の数奇というものがプロレスにはあり、渕は突如訪れたその大役を果たすことができたから今も全日本という団体は存続している。
一方、全日本プロレスを大量離脱した選手たちによって旗揚げされたプロレスリング・ノアは、旗揚げして1年足らずで日本テレビの中継がつき、ほどなくして日本武道館興行が行われるなど、ハッキリ言って順風満帆だった。試合のクオリティも高く、当時の2ch・プロレス板で「ノアだけはガチ」というフレーズも生まれた。この試合で三沢は小橋を花道から場外マットへタイガースープレックスで投げ飛ばすという荒業を敢行。実況していたアナウンサーが「死んでしまう!」と絶叫した。しかし最後は小橋がバーニングハンマーを繰り出して逆転勝利。ベルトの価値、そして団体の価値というものをどうやって高めるのか、を方舟に乗ったレスラーが探し求めて辿り着いたのがこの試合である。純プロ路線でありながらその究極系を突き詰めた結果という意味において、選出すべき試合であることは間違いない。
以下、選外
この当時、最も権威のあったNWAヘビー級ベルトを日本人で初めて戴冠した試合。
全日本プロレスで開催されたこの年の最強タッグリーグ戦の優勝決定戦で、ブロディの親友であるハンセンがセコンドに帯同。場外戦にもつれ込んだ際、ハンセンが試合にラリアートで介入し、ブロディ、スヌーカー組の優勝をアシストした。この暴挙に馬場が怒り狂い、試合終了後にハンセンと乱闘を繰り広げ、前述のシングルマッチへ発展する。
故意か事故か、川田が三沢に対して垂直落下式パワーボム(通称:三冠ボム)を敢行した試合。勝利した川田だったが、試合中に実は腕を骨折しており全治3ヶ月となった。
ハヤブサ(FMW)、新崎人生(みちのくプロレス)というインディー団体のレスラーでもメジャー団体のベルトを巻けることを証明した試合。この当時のインディー団体の立ち位置は非常に弱いもので、これを覆すのは至難の業だった。この両名はインディー団体の中でも頭2つ抜き出た存在で、全日本プロレスの至宝を獲得することに成功した。なお、このコンビは米マット界でも活躍しており、日本を代表するタッグチームと呼んで良い。
犬猿の仲となり、顔を合わせるのもNGであった二人のシングルマッチが、みちのくプロレス創立10周年という大舞台で実現。ホーム戦であったサスケが敗れ、試合後のマイクで弱音を吐いたところ、客席より「みちのくプロレス50年化計画はどうなるんだ!」という野次に勇気づけられ、顔を上げたサスケは「みちのくプロレスは永久に不滅です!」と改めて宣言した。客もまたプロレスを作り上げる1人であることを明示した試合である。
デスマッチの「やれるところまでやる」をやり切った試合。頭の中に引退がチラついていた葛西が後楽園ホールのバルコニー席からテーブルダイブ攻撃を浴びせるなど、デスマッチの限界を攻めた試合となった。30分1本勝負のところを29分45秒で葛西が勝利し、この年の週刊プロレス大賞ベストバウトを受賞した(デスマッチが受賞するのは極めて珍しい)。試合後のインタビューで葛西は現役続行を宣言したことから、デスマッチというジャンルにおいて次の時代への扉を開けたワンマッチであったと言えよう。
今もなお語り継がれる衝撃映像のアレだが、そもそも試合ではないことと、別に重要ではないため選外。
10選じゃなくて10戦にすればよかったなぁ。でも検索に引っかかりにくくなるからいいか。
・全日本プロレス軽視では?
⇒そういうつもりもなかったが、全日本は良くも悪くもプロレスというものを護ろうとして頑張っていた保守団体なので、地道な積み重ねをしていて変革が起きる瞬間というのが限られていたので仕方ない。逆に全日本があったから新日本はハチャメチャでも許されたのだと思ってるし、ハチャメチャし過ぎた結果、何度も会社ごとハチャメチャになりかけていた点をプロレスファンは忘れていない。選外には全日本が多いのでご容赦を。
⇒自分が最近の試合を追いきれていないのもあるが、どちらかといえば後年振り返ってみて「アレがあったからだよなぁ……」と思わされる要素があるかどうかで選出した。タイガーマスクがいなければ今のジュニア戦線はヘビーの焼き直しかルチャのマネごとレベルになっていた可能性もあるし、渕があそこで全日本を崖っぷちで踏みとどまらせたから後々の団体交流戦の活性化が生まれたのだと思う。歴史を紐解いた時に外せないかどうか、って感じ。例えば「猪木vsホーガン」みたいな試合は事件としてはとてつもなく大きなものだけど、じゃあアレが後年に何か影響を与えたかって言ったら、そういう種類の話ではないので。
・総合格闘技戦について
⇒自分も桜庭和志には胸熱した世代ではあるものの、さすがにPRIDEリングでの試合を選出するのは違うだろうと思った。そもそもアレは総合格闘技という競技をたまたまプロレスラーと柔術家がやっていただけである。桜庭が勝ったのはもちろん嬉しかったが「プロレスラーは強いんです」と言われたのは複雑で正直、気持ちとしては受け入れ難かった。それは桜庭個人が総合格闘技という競技に向かい合って努力した結果であって、プロレスラーというものに一般化してしまうのは危険なのでは……と思っていたら翌年、普通に永田がミルコに負けていた。
・女子プロレスは?
⇒女子は女子で深いジャンルなので、もうそこまで踏み込んじゃうと10選じゃ足りなくなるので恐くなって考えるのを止めました。そもそも女子はそこまで詳しくないので。というわけで、これを見ている増田! 書かないのか!? 今しかないぞ、俺達がやるのは!
・信彦じゃなくて延彦な
正直すまんかった、正直ポカした。
こう書くと妻にATM扱いされた夫の話だと思われるかもしれないがそうではない
読んで字のごとく、自分がATMの中の人として働いたときの話である
今から20年ほど前、某金融機関に入社した私は適当な集合研修を受けたのち、とある支店に配属された
今では多くの金融機関はATMの管理・現金装填を警備会社へアウトソーシングしている ただ当時はそういった雑務も全て職員の仕事であった
郊外の支店であれば比較的平和だったのかもしれないが、私の支店は繁華街のど真ん中にあり、周囲は飲み屋やパチンコ屋、場外馬券売り場などに囲まれていた
そうなると客層は当然悪い
紙幣しか入らない投入口に硬貨を投入しATMを壊そうとするおっさん(口座残高が800円だったので200円入れて1000円にして引き出してパチンコに行きたかったらしい)
「UWF銀行に振込したいのに画面に出てこない」と怒鳴るおっさん(どこの格闘技団体だよ)
紙幣にゴムをつけたまま入金しようとするおっさん(面倒でもゴムは自分ではずせ) などなど
そしてそういったATMトラブル以外にもう一つやっかいだった仕事がATMの現金検査である
これは抜き打ちで行われ、朝出社すると上司から「増田君、今日3号機と5号機の検査ね」と通告される
土日にATMの現金が足りなくなっては一大事なので、金曜の夜にはATMに相応の現金を装填する
これを悪用して金曜の夜にATMから1000万円ほど抜き取り土日の競馬で単勝1.1倍の銀行レースにぶち込み1100万円に増やして1000万円は月曜朝に元通りに返却
そういった手口で着服していた職員が過去に居たらしく、抜き打ち検査は週明けを中心に徹底的に行われていた
ATMを利用停止状態にしたうえで、現金精査ボタンを押すと10分程度でATM内の現金残高が表示される
そののち、中のお金を抜き取り全部数えたうえで上司立ち合いのもとでチェックを行う これだけで1台あたり40~50分はかかってしまう
その間もおっさん客たちはあの手この手でATMを破壊しようとするので、私は朝から晩までATMのメンテナンスに追われていた
最初のころはいくらやってもエラーから復旧せず業者を呼んでいたのだが、自費でピンセットやエアースプレー等を購入した成果もあり、いかなるエラーでもすぐに復旧出来る腕前となっていた
週末の現金装填についても、当初は適当にやっていたので現金不足や現金入れ過ぎになっていたが、支店周辺の情報収集を隈なく行い、
「明日は隣のパチンコ屋で北斗のイベントなので装填額普段の2割増し」「日曜は宝塚記念なので現金目一杯いれて帰ろう」などしっかりした予測が立てられるようになっていた
ATM担当となり半年が経過し、本来ならジョブローテーションで私はもう一人の新入社員と職務を入れ替わる予定だったのだが、そいつが休日にフットサルをやっていてアキレス腱を断裂するという
とんでもないことをやらかしたせいでさすがにATM担当は無理という話となり、これまで同様にそいつは融資事務見習い、私は引き続きATM担当を続けることとなった
当初は重労働だったATM担当も慣れてしまえばなんのことはない 鼻くそをほじりながらでもエラー復旧が出来るようになった私は適当に仕事をさぼりはじめた
ATMの裏は個室となっており客からも他の職員からも見えない そのうえ空調も万全なので居心地もよい 私はこっそり持ち込んだ文庫本を読んで暇を潰していた
そんな私にとんでもない天敵が現れた 今では誰も見ることもなく手にすることもない、そう幻の二千円札の登場である
ATMメーカーは二千円札に対して必要最小限の改修で対応した 「二千円札は入金可能だが出金は出来ない」というシステム変更である
通常のATMは千円札と一万円札は循環(他の顧客が預け入れた紙幣を、別の顧客の支払に充てる)させているが、五千円札や二千円札はその他紙幣用のボックスに収納する仕組としている
通常であればその「その他ボックス」に入るのは五千円札か使用に耐えないくらい損傷した紙幣だけ なのでその他ボックスはかなり小さめに作ってある
そこに二千円札が入るようになってしまったのでその他ボックスが満タンになるというエラーが発生するようになってしまった その都度ボックスから現金を抜き取る作業に追われる私
「まあ二千円札も目新しさでみんな使ってるだけで、すぐに流通しなくなるだろう」そう考えていたところ、二千円札の不人気ぶりに業を煮やした日本銀行はとんでもない手を打ってきた
日本銀行の金庫に山のように積まれた二千円札をどうにかして市中に出すため、各金融機関に対して二千円札の使用を義務化してきたのである
金融機関は新札が必要なときには、日本銀行から必要な分だけ都度引き出す
その引き出しの際に「必ず一定の割合二千円札を引き出すこと」という頭のおかしい通知が出され、日本銀行内に山積みされていた二千円札が市中の金融機関の金庫へと運び込まれていった
しかしながら窓口で二千円札を引き出そうとする顧客はほぼいない 仕方ないので職員に対して「給料支給日には二千円札で現金を引き出して持ち帰ること」という社内通達が出されてしまった
職員はとりあえずは二千円札を持ち帰るが当然使い切れるわけもないので、適当な頃合いを見てこっそりATMで入金する
「窓口で二千円札を引き出して持ち帰る」⇒「使い切れないのでこっそりATMで入金する」⇒「二千円札が大量に入金されてATMでエラー発生」というコンボが完成し、私はエラー対応に追われた
入社2年目の四月、私は1つ下の新入社員にATM担当を引き継ぐはずであった
しかし残念なことに、当支店に配属される予定であった新入社員が入社後の集合研修中に退職するという面白イベントが発生し、私は更に続投することとなった
9回を投げ終えてベンチ裏でアイシングしていたところで、「ごめん、明日以降に備えてリリーフ陣を温存しておきたいんで延長も投げて」と告げられた先発投手の気分を味わいながら私は引き続きATMを直し続けた
そしてある日、「自分が入社したのは日立でも富士通でも沖電気でもねえぞ なんで俺は年中ATMをメンテしてるんだ」ということに気付いた私は会社を辞めることにした
金融機関は何気に離職率が高いので2~3年目の職員が辞めることは別に珍しい話ではない
一応形式的に引き留められはしたが、私の退職の意思が固いことが分かるとその後は事務的な手続きが進められ、申出の翌月末には退職することが出来た
出社最終日、業務終了後に挨拶を終えると支店長と職員一同からそれぞれ餞別を頂いた
「1年ちょいで辞めた自分にもわざわざ餞別を渡すのか」と思いながら受け取ったが、帰宅後に封筒を開けると中には二千円札が数枚
その瞬間私の感傷的な思いは一気に吹っ飛び、「ふざけんなよ!このクソ紙幣のせいで会社辞めることになったんだろうが!」とブチ切れてしまった
自室の机の引き出しを開けると、引き出したあとで使い切れなかった二千円札が10枚程度あった
自分の身の回りからすぐにでも二千円札を消し去らなければと考えた私は手許の二千円札を全て財布に入れ、夜の街へと出かけた
数万円程度のまとまったお金を一晩で使い果たせる場所はどこだろう、色々と考えた私は繁華街にあるラブホテルへ入りそしてデリヘルへ電話をかけた
30分ほどして、ドアがノックされ若くて綺麗な女の子が入ってきた
シャワーを浴びベッドで色々と楽しんだのち、女の子の方からOKを出してきたので私たちは二身合体を果たすことが出来た
出すものを出し終わってずるりとちんちんを抜くと何もついていない 「えっ、はずれちゃったの」と慌てる女の子
結論から言うと、正規軍が勝った世界線に住んでる人かわいそう。
橋本真也は日頃の不摂生が祟って病死。長州力は小力とユニットを組むも爆死。両者の首は大阪城ホールの入り口に晒される。蝶野正洋は「笑ってはいけない」のビンタ芸人となり実質引退。
その後新日には何人かインディー出身のレスラーが移籍するが誰も定着せず不人気のまま。
新日なんて今もほとんど誰も見ていないマイナーなリングの話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す。
G1 CLIMAX終了後、越中詩朗が新団体の代表になるも5年で引退。その後は後藤達俊が代表代行になる。日本格闘技界は平成維震軍、NOAR、全日、大日本などが乱立していたが、
総合格闘技ブームが起こらず、外国人レスラーの招聘も進みエンタメ化が発展していったので時代遅れなアンコ体型のレスラーは次第に消えていった。
その代わりにYouTuberとして人気を博した一般人がエンタメレスラー化していく。というわけでこちらのプロレスの授業ではいちいち技の名前なんて覚えない。
そちらではやたらとストロングスタイルがもてはやされているらしいが、こちらではガチンコ(シュート)は前田アンドレ戦まではともかく、小川橋本戦以降はZERO-ONE旗揚げを引き起こした元凶で、野蛮で恥ずかしい存在でしかない。
事前にシナリオが完成しているので、佐々木健介みたいなしょっぱーいレスラーがベルトを長州するなんてことはなくなった。
90年代後半に入ると各インディー団体のレスラーやファンが蜂起して有刺鉄線電流爆破マッチなどが漸次的に認められるようになっていく。そちらとは違って新日の強権的な支配がないのでゆるやかにリベラル化していく素地があった。
UWF勢もUWFインター・RINGS両派が認められ、パンクラスとあわせて三大勢力になっている。その後、プロレス八百長説を信じる人も増えていく。
2000年になると前田日明がオランダ勢やロシア勢と手を組み法律で禁止されていた総合格闘技の普及を始める。全国各地のライブハウスや潰れたパチンコ屋などが地下格闘技場となり、連日そこでダークマッチが開催された。
00年代後半になるとアメリカで金網ゲージの中で「なんでも有りルール」で闘う形式が人気となる。エンタメプロレスが主流となっていた日本人レスラーも何人か参戦するが全く歯が立たない。
そんな状況を一気に変えたのが三沢光晴だった。こちらの世界の三沢は斎藤彰俊のバックドロップをくらって死んだりはしていない。全日離脱後にNOARを経て初代タイガーマスクである佐山とともにタイガープロレスを旗揚げしていた。
得意のエルボーを武器に海外の総合格闘家相手に次々と勝ち進む三沢。タイトルマッチでブラジル人柔術家相手にエメラルドフロウジョンを極め戴冠した試合は最高視聴率91%を記録し、大河ドラマの題材にもなった。
完全崩壊の真実でついに高田延彦が登場して最後になるかと思われていたが…なんと10月10日、つまり今日
「証言 UWF×プライド 総合格闘技に挑んだプロレスラーたちの死闘秘話」
が出るらしい。
ここまで出るって事は結構売れてるんだろうし。
プロレスの歴史を見てると必ずUWFやPRIDEの話は登場するし「キレてないっすよ(本当は「キレちゃいないよ」と発言している」という長州力の発言は新日本プロレスとUインターの対抗戦で生まれたものだし、今の若いプロレスファンもUWFからPRIDEまでに関わったレスラーの証言は面白いだろう。
個人的にはアントニオ猪木の 「髙田vsヒクソン戦は、観る前から勝負はわかっていた」という証言が気になる。
仮に本当だとしたら新日本プロレスのレスラーを総合格闘技に参戦させて瞬殺させたのは、総合格闘技によってプロレスを潰してファンを奪うつもりだったのかなと思う。