「貴族院議員」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 貴族院議員とは

2021-07-24

anond:20210724144425

参議院の議場に四民平等レリーフがあるから

士農工商は、明治昭和前期の身分制度だったと思う

  

なぜなら貴族院議員候補は、所得税地租事業税などを多く払う男子もなれた

給与の良い士(官僚) 1番

小作人を使う土地持ちの農 2番

住宅道路武器や薬剤なり、寺・神社なり宗教系にも関わる工 3番

で、商は最下位に見えるが、当時の外国商や金融関連企業への優遇政策は凄まじかった

 

16世紀欧州証券取引所ができたら江戸幕府鎖国したほどだ

外国商社勢力は脅威だったし、技術を輸入したくても特許権が超高価

黒船攻撃でやむなく開国して明治になり、商社政治金持ちによる産業独占が推進

地方大手産業事業接収されて没落)

 

現代地方中央に押され気味だが、産業輸出入に熱心になれば

商社勢力政治もっと地方優遇するようになる可能性はあるかも

2020-10-22

無敵の人たちとリヒャルト・ゾルゲ

ロシア軍事歴史コラムフォーラム翻訳して見ていて面白いものを見つけた

GRUとかKGBにいたアナリストたちが「なんでリヒャルトゾルゲ日本で捕まったんだろう」というものへの知見や見解を書いてた奴

結論から言えばゾルゲは何一つミスをしてなくて考え得る限り完璧と言えるほど布石を打ってたのに

日本憲兵警察側が頭おかしすぎて死刑にまで行っちゃったらしい

なぜなら普通に考えたら同盟国側のドイツの、それもナチスのそれなりの高官からの抗議声明嘆願書抗議書逆切れして破り捨てて、ゾルゲと付き合いのあった公爵令嬢(※貴族院議員親族)を拷問にかけようとしたかゾルゲ自白せざるを得なくて

しか自白しても証拠もないのに有罪死刑にしたという

普通ならまずあり得ないレベル基地外ムーブ日本政府側や警察側がやったからだという

今いろいろ研究が進んでるけど、確かに当時の日本は狂っていたんだけれども、ゾルゲほどのプロフェッショナルが十重二十重の安全策を講じていても

絶対戦争負けて下手すりゃ民族浄化くらうのほぼ確定ってわかりきってたのに狂って内ゲバを繰り返していた無敵の人達の蛮行には、勝てないということなんだろうな

無敵の人って怖いよな、現代でも包丁一本レンタルトラック一台でキレた自爆する奴ら一年に数回はいて怖いのに

こんなレベル国民全員が上から下まで狂ってたとか、なんと恐ろしい国だろうか

2017-10-24

https://anond.hatelabo.jp/20170822170547

逆に言えば、1930年代日本映画に登場する一般男女の登場人物

誰も貴族院議員選挙権を持ってなかったのに、それを描かなかった小津安二郎はクソ

2017-05-19

朴 泳孝(ぼく えいこう、박영효(パク ヨンヒョ)、1861年7月19日 - 1939年9月20日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家で、日本統治時代朝鮮における貴族実業家日本名山崎 永春。

目次 [非表示]

1 生涯

2 家族

3 その他

4 登場するテレビドラマ

5 脚注

6 出典

7 関連文献

生涯[編集]

判書大監朴元陽の子として京畿道水原生まれる。金玉均らと共に開化党(独立党)を結党した。光緒5年(1879年)、金玉均らと共に李東仁を日本に密出国させ、日本の情勢を探らせた。福澤諭吉支援を受け、光緒8年(1882年)、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のために派遣された謝罪使(副使は金晩植と金玉均であった[1])として日本に向かう船上で、現在大韓民国国旗である太極旗デザインを考案したとされる。朴泳孝が日本派遣された4ヶ月間のことを記した日記『使和記略』によると、8月9日仁川から日本船籍明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、船内でイギリス領事アストンイギリス人船長ジェームスにそれまで国旗として提案されていた八卦太極文様を描いた古太極図を見せて国旗について相談したところ、船長八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便であると述べたため、四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案が提案され、大・中・小3本の太極旗が作られたという。8月14日神戸に到着した一行は宿泊した西村屋にはじめて太極旗を掲げ、8月22日太極旗小本とともに国旗制定を本国に報告したという。

帰国後は漢城判尹となり、開化政策を進めるが守旧派事大党)の反対に遭って挫折さらに光緒10年(1884年)12月にはクーデター閔妃から政権奪還を図ったが失敗(甲申政変)、日本郵船の「千歳丸」で日本亡命慶應義塾に隣接していた福沢邸に寄食し、転じて神戸に居を構えた。

光緒20年(1894年)に甲午改革が始まると、帰国して内務大臣となり、改革の中心的な役割を果たすが、開国504年(1895年)に謀反の疑いをかけられ、再び日本亡命した。その後光武11年(1907年)に再度韓国に戻り、李完用内閣宮内大臣となったが、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島流刑処分とされた。

隆熙4年(1910年)の韓国併合後には侯爵朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会長1911年)、朝鮮銀行理事1918年)、朝鮮経済会長1919年)、朝鮮維民会会長1919年)、東亜日報社初代社長1920年)、朝鮮人産業大会会長1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長朝鮮殖産銀行理事朝鮮総督府中枢院顧問1921年)[2]、東光会朝鮮支部初代会長1922年)、貴族院議員1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職歴任した。昭和10年(1935年)、 朝鮮総督府編纂した"朝鮮功労者名鑑"に朝鮮人功労者353人のうちの一人に収録されている。

2016-12-24

高額所得者税金払いたがる社会

うちの死んだ婆さんは、明治まれ日本女子大学校(いまの日本女子大)でてたくらいなので、相当なお嬢様だったのだけれど、とにかく「税金を払いたくてしかたない」人で、うちの母ちゃん(嫁)が難儀したらしい。

しろ、「所得税が納められる」ということ自体ステータスで、そのいきついた先には「高額納税者貴族院議員になれる」「うまくすると爵位がもらえるかもしれない」という特典があったりした時代で、リアルに「女学校時代のお友達には、お父様が高額納税者貴族院議員」なんて人がいたりしたので、死ぬまでその辺の意識が抜けなかったらしい。

戦前日本なんて、とてつもない格差社会で、社会福祉へったくれもなかろうし、当時のばあちゃんにとって下層の人はマジで「別の世界の人」で、その人たちに自分税金無駄遣いされているなんて意識もなく、普通に税金たくさん納めるのは名誉なこと」という価値観でいきてたんかな、と思う。


なお、婆さんの実家は、いわゆる「農地改革」のとき不在地主であらかた土地を取られてしまい、絵に描いたように没落していったらしいので、自分が生まれときは平凡な地方公務員の家庭でした。

オヤジ小学校低学年まで「お手伝いさんに手を引かれて学校に通ってた」らしいけど。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん