はてなキーワード: 障壁とは
こんばんは。増田です。最近、元三洋の人が書いたスマホの記事が面白かったので、私も書いてみることにしました。
ちなみに私は電装系サプライヤー勤務。年齢は元三洋の人とおそらく同じくらいです。かつてはホンダ系列だったのですが、今はそこを離れてとある企業の傘下になってます。あのときは結構衝撃を受けましたけど、確実に働きやすくなりましたね。
さて、日本企業はEVに消極的で世界の時流に乗り遅れ、未だに内燃機関に固執している、みたいな話。半分本当で、半分ウソです。世界に先駆けてEVを積極的に取り組もうとしたのは日本でした。(ここで言うEVは純粋にバッテリーで動く電気自動車のことで、本当はBEVと書いたほうが正確なんでしょうが、ここではEVとしておきます。)
それにはいわゆる京都議定書(1997)の存在があります。これは温暖化防止の為の初めての国際的な取り決めでしたが、この会議で日本は2008~2012年に6%の温室効果ガス削減を約束しました。当時はかなり日本に不利と言われたものですが、開催国のメンツもあって政府は本気でこれを達成しようとします。その対策の一つとして推進されたのが原子力発電でした。当時日本は原発を国家をあげて推進しようとします。東芝がウェスチングハウスを買収して(2006)、原発で世界に打って出ようとしたのもこの頃です。
ただ、原発は基本的に24時間一定の効率で発電させるものです。出力調整はできないことはありませんが、かなり非効率です。昼間の電力需要を満たそうとして稼働させると夜間に電力が余るので、揚水発電などで調整するのですが、その切り札として見られたのがEVでした。つまりEVは夜は基本的に充電器につなげておくものであり、大量のEVを普及させて夜間に充電させれば、原発の電力を効率よく使って、車自体から出る温室効果ガスも減らせるわけです。
で、三菱自動車からi-MiEV(2009)、日産自動車からリーフ(2010)がほぼ同時期に発売されます。これはリチウムイオン電池を使った初の量産EVで、三菱はGSユアサと、日産もNECトーキンと巨大な工場を建てて電池の量産体制を整えます。特に日産は実際のところかなり本気の参入で、同時期に全国で充電設備の導入も急ピッチで進められました。
そして、どうだったか。まあ、売れなかったわけです。いや、世界初の量産EVとしてはこの2つは望外にできの良いものだったと思います。売れない理由はいくつか挙げられます。リーフについてはデザインがナマズみたいで全く先進的でなかったこと。エアコンやヒータを使うと走行距離が実質100km程度しかなかった。電池の劣化が想定以上に早く進んで中古市場でも値崩れしていた、トヨタのハイブリッドの出来が良すぎて先進イメージを求める層はそちらに流れた、など。一言で言えば実用的ではなかったのですが、まあそれでも初めて出てきたEVとしては大したものだったのです。でもこの評価は全くエンジニア目線でしょうねぇ。すみません。
ただ、最も大きな要因は東日本大震災(2011)でしょう。これで原発を主軸に温室効果ガスを減らすという国家戦略は完全に頓挫しましたし、それをあてにしたEVの普及など望むべくもなかったのです。実際EVはガソリン供給が途絶えた被災地でかなり役立ったのですが、その後数年間原発を失った日本は電力供給が逼迫することとなり、主戦場である日本でEVは売れなくなりました。日産はその後も地道にリーフの改良を続けますが、もはや主戦場で売れなくなったEVに積極投資はできなくなり、2代目リーフ(2017)は初代から大幅な進化はなし。i-MiEVは一代限りで姿を消します。日産はNECトーキンの電池事業を受け継いだAESCを中国のエンビジョングループに売却します。
ちなみにウェスチングハウスを買収した東芝はその後地獄を見る事となり、今日の凋落につながるのはご承知の通り。日立も海外の原発建設から撤退します。そんな事をしている間に、中国が国家を上げて次世代の原発開発に取り組んで、技術的には完全に抜かされてしまいました。なんだか泣けてきますね。21世紀の日本は完全にツキに見放されたって感じがします。はい。
さて、じゃあ巨人トヨタはどうだったか。トヨタは保守的でEVから距離をおいていると思ったあなた、そうでもないんです。実はトヨタはあのテスラに出資(2010)し、トヨタとGMが共同で運営していた工場(NUMMI)をテスラに売却。テスラを支援していました。実際に共同でSUVのEVを出したりしています。実はテスラのスタートを支えたのはトヨタであり、テスラの主力工場は元トヨタの工場でした。ところが2014年くらいから提携を解消。トヨタのクルマづくりとテスラのクルマづくりが決定的に合わないことが原因だったと言われています。
実際、テスラの車は粗雑極まりないものでした。彼らの作り方は信頼性の高い車載用の電池ではなく、ノートパソコンなどに使われる安価な電池を大量に積んで、それを高度なマネジメントで制御するというものでしたが、クルマづくりは全くの素人。ADAS(運転支援システム)も信頼性に欠けていて、ただの支援システムなのに自動運転と銘打ったので事故が続出。生産技術もかなり問題があり、量産モデルであるモデル3が出るときは大量の予約が入っていたにもかかわらず、ちっともラインから完成車が出てこない有様。イーロン・マスク自身が工場に泊まり込みで生産を指揮したと言われています。このとき生産技術者をあちこちから引き抜いてかき集めますが、その多くが彼のやり方に従えず去っていったとのこと。
まあそんなことで、ぶっちゃけこの頃、テスラが世界をEVで席巻するなんて、私ら業界人で予想できてた人なんていなかったと思います。やっぱり車なんてそう簡単に作れねぇんだなぁザマアミロ、くらいの感じでした。まあでもその予想が全く裏切られてしまったのはご承知の通り。ただ、テスラがいかにすごいと言っても生産台数ではまだトヨタやVWの足元にも及びません。年間数百万台の車を生産するにはまだ乗り越えなければならないハードルは数多くあります。テスラの株があれほど上がっているのは、彼らはそれが出来ると思われているのでしょう。いやホントかな。どうなんだろ。
まあとにかく現状はこんな感じですが、これからEVが本当に普及するかどうか。トヨタも含めて、「世界の自動車の大半がEVになることなんてないよ!」と思っているメーカーは無いと断言してもいいと思います。どこもEVの時代はかならず来ると思っている。問題はその時期です。トヨタはもっとかかると思っていて、それは段階的に移行すると思っていました。テスラは一気に最終ゴールに攻め込んできたわけです。それについて考察してみましょう。
EVの問題点としては航続距離と充電速度。そして電池の資源の問題があります。特にコバルトなどの資源は簡単に供給を増やすわけには行かず、今のような垂直立ち上げみたいなやり方で一気に電池生産を増やすことはできないと思われていました。なのでトヨタはHVやFCVで段階的にそれを進めるつもりだったわけです。特に水素は自然エネルギーとの親和性が高く、風力発電や太陽光発電のように出力が安定しない電源でも、それによって水素を造って貯蔵すれば実質的に電池と同じ役割を果たすことができます。充電速度も航続距離も水素を使ったほうが優位です。ちなみにいまトヨタは水素エンジンをやけに宣伝していますがあれは効率が悪くて話にならない、ただの宣伝用であり、彼らが水素でやろうとしていることはあくまで燃料電池をつかったFCVです。
しかしイーロンはそんなまどろっこしいことしなくても、電線で電気を運んでバッテリに入れた方がいい、そのための障壁となる電池の欠点の改良にリソースを全振りしたほうがいいに決まっていると言うわけです。電池の開発というのは時間がかかり変化も漸進的であり、そんなことは無理だろうというのがわずか5年前までのほとんどの業界人の見解でした。しかしいま世界はイーロンの言うとおりに進んでいます。資源の問題は中国メーカーを中心にリン酸鉄系電池で解決されつつあり、急速充電の問題、それを可能にする電力インフラの問題、自然エネルギーの出力が不安定な問題、これらの問題がすべて電池技術で解決されようとしています。まったく、なんちゅうことでしょう。
今日本はオーストラリアの褐炭を使って水素を取り出して運ぶとかいろいろ考えてやっていますが、おそらくすべて失敗して産業の墓場になる未来が見えます。まあでも、長距離トラックくらいはひょっとしたらFCVの入る余地があるかも知れません。しかしそれも充電技術の進歩によって電池で解決される可能性が高いです。
・トヨタ
電動車についての卓越した技術蓄積を持ち、電池技術も電池への投資余力も持つ稀有な会社。ここが死んだらもうおしまい。パナと一緒に電池の開発と生産に勤しんでいるが、実はパナはライバルテスラに電池を供給する関係でもある。ちなみに傘下の豊田通商は電池に不可欠なリチウム資源をガッチリ握っている。実はEVの技術開発や投資も怠ることなくやってきたが、誤算はその流れがあまりに早すぎたことだろう。今年スバルと共同でEVを投入予定。
・ホンダ
米GMと組んでEVに取り組む。2040年までに内燃機関を全廃すると宣言したが、彼らが満を持して出した量産EV「Honda e」はあまりな出来で全然売れてない。電池は韓国LGケムあたりから買う予定らしい。HVには早くから取り組んできたが、トヨタがTHSを地道に改良していくのに大して、ホンダのHV技術はコロコロ変わり、イマイチものにならないイメージ。企業イメージは先進的だが、実は社風はかなり保守的である。evについての意気込みはすごいが、個人的にはいま最も心配なメーカー。
言わずと知れたEVにおいて世界で最も先行していたメーカー。しかしそのアドバンテージをほとんど活かせず、極めて信頼性の高い電池も持っていたが、コスト的に折り合わず中国エンビジョンに売却。リーフは長年世界トップの売り上げを誇るEV車種だったが、今はトップテンからも外れた。まだアライアンスを組むルノーのほうが健闘している。日産アリアで挽回できるか。無理だろうな。
・マツダ
未だに直6エンジンを開発するなど、一見時代遅れに見えるが、実は割とクレバーじゃないかと思われるメーカー。というのは、EVが普及期に入れば、eアクスルといった駆動システムをメガサプライヤーから買ったほうがいいし、電池にしてもCATLやLGあたりの最も安くて性能の良いメーカーから調達したほうが有利である。ADASもコンチネンタルやモービルアイから買ったほうがいい。要はみんな似たりよったりの車になる。となると、自動車メーカーに求められるのは制御技術とデザイン、そしてブランドである。今マツダはそれを必死に磨いている。マツダくらいの規模のメーカーだと案外この戦略が一番いいのかも知れない。
・スバル
卓越した四輪駆動の技術を持つ。売り上げの大半が北米。多分、トヨタにひっついてその一ブランドとして生き残るつもりでしょう。
コンパクトカーを安く作る卓越した技術を持っていて、100万円以内でアルトやミライースを作れる生産技術はたいしたもの。この点において強力な強みを持ち、ダイハツは東南アジア、スズキはインドで高いシェアを持つ。しかしこの強力な強みを速攻で無効にするのがEVであったりする。ダイハツもスズキも海外市場は中国EVメーカーに席巻されてシェアを失う未来が見える。国内で軽EVを地道に作るかも知れないが、それすらも中国メーカーの台頭で怪しい。将来は暗いだろう。
車載電池のトップを突っ走っていたが、CATLとLGケムに抜かれて現在3位。テスラの株を売却して多額の利益を得たが、なぜかをそれをブルーヨンダー買収に使い、電池の新技術や設備への投資は先をゆく二社に比べると消極的。トヨタはパナソニックを見限り始めていると聞く。
・日本電産
EVモーターやeアクスルで覇権企業を狙う。しかし永守が死んだらどうなるんだろう。
他にもいろいろ書きたいことがあるけど、疲れたのでやめる。ところで、元三洋の人の書き込みをみて、ずっと今までiPhoneを使っていたのを、GooglePixelに買い替えました。なんでかって言うとね、それについたユーザー体験がうんちゃらという大量のブコメを見て、iPhoneを使い続けることが、結局新しいものに積極的にスイッチできない日本人の保守性から来てるんじゃないかと思ったから。それで思い切ってAndroidにしようと思った。中華スマホはちょっと怖いのでPixelです。そんだけ。以上。
やや自分語りだけど、俺は自分のことを会社員として無能だと思っている。ずっと前に広汎性発達障害と診断を受けたこともあり、おそらくそれが原因だとおもうが真相はなぞ。
勉強は、得意ではないけど一定水準は超えていると思われる。しかし仕事に関しては絶望的に無能だ。例えば予算に関する各種書類づくりもまるでだめだ。手順自体を理解していないし他人との打ち合わせ等もロクにできない。書類作成も鈍くて取っ掛かりも遅くて外部に問い合わせるものも後手後手になっている。会議の進行もグズグズ。自分の仕事なのに前任者に補助してもらわなければ何もうまく進められないし、なんならチェックして貰ってる担当外の人のほうがよくわかっている。自分の領域なのにわかっていないことが多すぎる。
いままでいくつもの会社を渡ってきたし部署も移動もしてきた。その全てで同じようなミスをして同じような叱られを受け同じ無能の烙印を押されている。
ただ、わかったことが一つだけある。
何らかの手順書として明文化され自分にもわかるようになっているものか、あるいは自身が興味を持って取り掛かったことに関してはスムーズに働くということ。決まりごととして明確に意図があり他人の考えが介在しないものやルール自体に直接アクセスできるものは難易度にもよるけど意外とできたりする。もちろん自分が理解していればの話。
無理なものは、個人の見解や意図を読む必要があったり、ネットで調べてもでてこないようなもの。あるいは明文化されず口頭で教えられたものや社会人として当然に備わっているとされるようなもの。報連相とかね。コミュニケーションが介在すると途端にグズグズになる。
「なんでそんなこともできないの」というかもだけど、普通じゃない人にとってはこんなことが障壁になる
じゃー具体的に何ができるのって言われたら、例えば料理がある。材料を用意してその中でレシピを探し、手順通りに作る。これは小学校の家庭科において基礎を学び、実際に味の違いや食材がもたらす化学反応や手順の意味を日々の生活の中で理解しているからだと思う。元々料理自体が好きだったこともあるかもしれない。特別なことはできないし大きなアレンジも無理だけど基本的なものはわかる。もちろん効率的に素早く作るのは苦手だけど、トライ・アンド・エラーの積み上げで結果もすぐに分かるから得意になった。なによりネットを調べるとあらゆる情報が載っているのが大きい。
DIYに関しても、手順やなぜそれがだめなのかが事細かくネットや書籍に載っている。そういう物を調べて時間を書けて自分の中で形にしていくことで人並みにはできるようになる。
だけど仕事場で他人と仕事の配分等を決めたり、事前に根回しをして書類を通したり、手順書なしに仕事をしたりってのは壊滅的にできない。もともと理解が遅くて興味あることにしか取りかかれないし優先順位が常に曖昧なんだよね。脳の働きが普通の人より制限されているんだと思う。これが広汎性発達障害によるものなのかは、正直わからない。
仕事なんだから興味あるとか関係なくやれ、ってのはそのとおりだ。でも俺は自分の中に根付いたことの周りにしか幹や枝を伸ばせない。その根が人より細かったり歪だったりする。
俺は一般企業の社会人としては全く使い物にならない。物事をきちんと理解して自分のものとするまで時間がかかり、適切な反復学習と意欲がなければ全く身につかない。こうやってどんどん人との能力に差が出てきており、いまはもう取り返しがつかない。逆に家庭の仕事は昔から反復をしておりある程度は身についている。なにより調べればきちんと知識としてでてくるし自分でアップデートしている。仕事なんだから我慢すればいいとはおもうけど、自分の性質が社会からは完全に出遅れたものである以上は周りの補助なしにこれ以上するのは危険だと思う。
それなら今できる主夫業のほうが全然向いている。料理だって凝ったものから時短までそこそこいける。アイロンや洗濯も訓練されてきたし自分で調べたりしてできるようになった。子育てが心配だけど自分で調べられる以上はおそらく大丈夫だ。
社会に出てないと世間知らずになったり技能が身につかない、という懸念はある。だけどいまやってる仕事は一般的な社会の中では随分と小さなことしかしていないし技術的なことに関しては初歩の初歩どまりなことがおおい。もちろん知識を蓄えればそれなりに仕事は回せるんだけど、そこに自分が至れるのは50年以上先だろう。だったら専業主夫となにが違うんだろう。
普通の人より知識も技能も知恵も劣る。だけどネットや家族を駆使してインプットとアウトプットをできる環境でなら活動ができる。おそらく俺は家やコミュニケーションが取りやすい特定の仲間内およびネットの中でしか生きられない。知識をアップデートして技術を磨く機会が家庭やゲームやネットの中にしかなかったからだ。それも普通の人には劣るんだろうけど、社会人として仕事をするよりずっとよくできる。
なんで産休や育休取得したら評価や評判落ちるんだよ。どんな古の会社なんだよw
「男の所得を上げるのではなく、結婚した女性の所得を上げるじゃ何でダメなんですか?」というのも馬鹿な質問だな。
一部属性を無闇に優遇しすぎると、社会が分断されておかしくなっていくんだよ。気づけよ。
婦人科系の手術をしたこともあるし、年齢的に子供を産む旬はとうに過ぎている。
就職氷河期世代でもあり、企業から振り落とされないように必死で仕事をしていたため、機会は2回ほどあったが結婚には至らなかった。今となっては結婚しなくてよかったかもって思ってる。
子供も嫌いとまでは行かないが、育児の想像もできなかったし、心底欲しいと思ったこともなかったので、他人の結婚・妊娠・出産・育児には興味がない。
会社は200人未満、設立から40年近く経過した中小企業である。男性が8割を占めるので、女性はかなり少ない。
望んでなかったのだが、昨今の流行りのせいか、社内で初めての女性管理職になって数年経つ(今は数人の女性管理職がいる)。
現在、部下5人中2人は時短、1人は近いうちに産休・育休に入る。
正直ベースで書くけど、めちゃくちゃ辛い。
保育園の問題が無事クリアになって1人が復帰(時短)できたと思ったら、入れ替わりでもう1人が産休・育休に入るので、自分の負担は軽減するどころか増大する予定。
「この負担をまた、1年以上やる羽目になるのか…むしろ時短が1人増えてるからもっと負担増えるなあ」って既に青色吐息である。
ご存知の通り「働き方改革」が流行っているので、非管理職の労働時間に対する締め付けが厳しい。そのため、管理職が多くの仕事を肩代わりする羽目になる。
自分も、ここ1年くらいは非管理職の2倍の労働時間と業務内容で死にそうになっている。
それ自体は喜ばしいが、「組織の体制」を考えた時に、ずーんと負担が出てくるわけです。
産休・育休を理由に異動させることは認められないので、当然、席を空けておかなければならない。
自分がいる会社は、社長の意向で非正規雇用は原則NGのため、産休・育休期間だけの補充ができない。
そうなると、稼働している社員たちで分担をして、産休・育休中の社員の仕事をこなすことになる。
「誰かが仕事を肩代わりする」というのは、全くうまくない制度だけど現状はどうしようもない。
感情的なものは別として、産休・育休明けや時短の社員の査定を不当に扱ったことはない。
うちの会社は男性の育休実績もあるし、家庭の事情で残業できない期間があった男性社員もいるが、評価や評判が落ちたことはない。
「今日は子供のお迎え当番なので、早めに帰りまーす!」と宣言しておけば、打ち合わせ時間の設定を配慮するなど、周囲は様々動く。
そもそも、「私用で早く帰りまーす!」でも同じ動きになるので、心理的障壁は低い会社なのだと思う。
そのためか、給与に直接関わる査定は、働きによって評価されるものであって、その人の持つ属性(年齢・性別・未既婚・子供有無)は関係ないという考え方が主流になりつつある。
会社の規定では、性別関係なく、昇給・昇格の査定期間に休職(産休・育休含む)している場合、復帰1年目は昇給・昇格はない。
また、賞与は直前6ヶ月間の査定をもとに行われるので、査定期間に復帰していなければ賞与も支給されない。
時短を望む場合は1日6時間からの就業が可能だが、短縮された時間分が給与から引かれる。
だから、複数回休職を繰り返すと、一時的に昇給がストップするので給与が低くなる。
この対応を不当と考えるならば、自分が休業している間、他の社員が業務を遂行して会社組織を維持しているという点を考えていない。
就業中と休業中では、どちらが維持に寄与しているのか?ということを考えると、査定期間に不在になっている社員に対して、昇給や昇格を行うわけにはいかない。それは公正な対応とは言えないからだ。
一部属性に対して過度な優遇ををしてしまっては会社組織として失格だし、組織の維持は非常に難しいだろう。
自分の部下にも給与が低めの人がいるのだが、仕事を進める点では、休職がなかった部下たちよりも優秀。
ただ、以前の部署の性質上、複数回の産休と育休、時短がマイナスに働いて、昇給額が非常に低く抑えられていた(この部署が不当に低く抑えていたわけではなく、給与の原資には限りがあることや、他社員との業務バランス等を加味すると仕方ないところではある)。
私の部下になってからは、復帰2年目に返上していた役職に復帰させ、毎年会社の規定ギリギリまで昇給させて、働きと給与のバランスを取り戻そうとしている。
女性が上昇婚を望むことに関して批判が多いけど、出産育児を考えた時に「自分より稼いでいる人」を選ぶのは至極当然だと思う。
健康的に妊娠期間を経て、健康的に出産・復帰ができ、子供も五体満足で産まれ育つのは当たり前だと思っている人がいるが、そんな平和な事例だけじゃない。
最悪、出産を機に健康を損なったり、子供になんらかの医療的ケアが必要になった場合、職場に復帰できずに退職という可能性も出てくる。
家庭内年収が800万だとしても、夫婦が同等の年収だった場合は一気に400万円まで落ちる。
住環境にもよるが、育児スタートと同時に年収半減もスタートでは、「それでも大丈夫!」と言える人はほとんどいないのではないだろうか。
リスクヘッジを考えるのであれば、自分が職を失っても、当分は正常な家庭生活を営める年収を持つ相手を選ぼうと考えるのではないか。
また、男性が女性にそれなりの年収を求める場合も、「自分が病気などで働けなくなった時」「リストラされた時」を仮定しているのではないかと思われる。
そういう気持ちの動きを責めるなら、自分は下方結婚してます!という人だけ石を投げなさいw
「男性」「女性」「既婚者」「子供あり」という属性で語るから色々おかしくなる。
シンプルに全体の給与水準を上げることが、問題改善の第一歩だと思う。
属性関係なく、同じ仕事・同じ能力であれば同等の年収にすれば良い話なのだ。
もちろん、働きに対して給与が支払われるので、労働時間など規定に満たない場合は、適切にその分を引く必要がある。
全体を上げると言うと「もらっている人は、それ以上にもらえるのか!」と批判する人も出てくるけど、低いところばかりにフォーカスしてもダメで、「生活が苦しい層は安心して生活できる金額に引き上げる」「余裕のある人にはさらに余裕を持ってもらい、経済を回すべくお金をたくさん使ってもらう」という両輪が必要。
要はグラフ上の低収入の金額を「貧困」から「安心して生活できる」金額に変化させればよい。
自分は幸運なことに、性差で給与を低く抑えられた経験がない(おそらく業種的に性差が薄い)。
数回転職したが、卒業以降に空白期間もなければ、休職した経験もないので、同世代の男性平均年収以上はもらっている。
ただ、ここ20年以上、給与水準も変わっていないため、自分が新卒の時の初任給と変わらなかったりすると、なにやら絶望的な気分になることもある。
低い方に合わせていては、いつまでたっても貧困から抜け出せない。ただ、貧困を生産し続けるだけだ。
それに、現在は少子化社会なんですよ。労働者を確保するのも大変。
この文章を書いていた時に「非正規雇用」という部分で思い出したことがある。
うちの会社は原則正社員雇用。理由は社長が「正社員がいいの!解雇も絶対したくない!」という持論の持ち主だからw
ただ、仕事が落ちそうな危機的状況が起こった場合は、最後の手段として「派遣」を視野に入れる場合がある。
自分の部署でも過去にあって、派遣会社に「このスキルを持つ経験者を派遣してほしい」と依頼したところ、まったく棒にも箸にもかからない人材の紹介があった。
ちょうど新入社員が配属された時期で、正直「時間がかかっても、新人をがんばって教育したほうがマシ」な人材だった。
結局、平均かそれよりもちょっと上の金額を提示しても経験者の紹介がなかったため、社内のリソースに無理やり調整をかけて、いろいろな犠牲のもとで仕事を納めた。
その時思ったのが「自分が若い頃の派遣と違うなあ」という感想。
今から25年近く前の話になるけど、いわゆる「派遣社員」っていうのは、その道のプロフェッショナルで、能力の高い人が高給与で雇用されるものというイメージだった。
それが派遣法が改正されるに従って、「新卒」「未経験」みたいな人たちが参入してきて、本来の「派遣社員」とは異質なものになってしまった気がしている。
企業の立場では「採用の時間も教育する時間もないが、スキルを持つ人材が今必要だ」と思って依頼するので、「未経験なので、就業したら教育してほしい」という人材を派遣されても困る。
教育が必要なポテンシャル人材は自社採用するし、「今すぐ使える人材」が必要だから派遣会社に依頼しているのに。
そういう人材しか派遣しないから、単価が下がっていくし、派遣社員自体も低給与で貧困に転落してくのも必然だよなあと思った。
ただ、他方で、会社の仕事というのは昔と違って、いわゆる雑用的な仕事がほぼなくなっている。
昔は資料のコピーとか細々な仕事を渡すことができた。今はペーパーレスなので、相手にデータを送れば仕事は完了だ。
業務に対する適切な報酬を…とはいえ、昨今の業務に追いつけない人材はどうするのか?
自分も経験があるが、上司が努力して指導・指示をしても、仕事が身につかない層は一定数いる。
だからと言って、そういう人たちを貧困層に落とすのは社会として問題だと感じてもいる。
ただ、民間企業がそれらすべてを拾い上げるのは無理な話だよね。
Windows と Mac では、どうにか Windows が地位を保ててるじゃない?
企業向けの業務機器の側面はあるものの、個人のあいだでも、Windows でもいいとなるのは、ハードウェアの美しさ、利便性を主張できる余地があるからだと思う。
CPUやGPUの価格とパフォーマンスのバラエティさからくる多様性、色や質感、キーボードの配置、タッチ、USBポートの位置、その他のポートの使い勝手等々。
自動車が、欧州車だらけにならず日本車が受け入れられているのも同じ理由だと考えてる。
スマホの世界では、ハードウェアの使い方が何かを読む、見ることに主要な用途が限定されて、写真を撮り、文字を入力し、ゲームのボタンをタッチすることは、アプリの魅力によって不便さを乗り越える心理的障壁を超えさせられている。
スマホには、ハードウェアが主張できる場所は、画面とカメラと大きさ程度の部分しかなく、あとはソフトウェアそのものに利用上の主要な部分がある。
iPhone はソフトウェアとハードウェアの一貫性が貫かれていて、ソフトウェアの美しさ、利便性の主張が最初からうまくまとまっている。
最近のAndroidはずいぶんマシだと思うが、Android 4 だとか 5だとかそれ以前最初は酷かったうえにハードウェアの主張は本質的に弱い機器なので、最初に iPhone に慣らされてしまうとそこから変更することが難しい。
操作を通じて直接得られる感覚的なものとソフトウェア(アプリ)に自分がアクションをしてそこから返ってくる応答を受け止める心理的精神的な部分とがPCなどよりもずっと凝縮されていて心や脳に近いように感じる。
これは、ソフトウェアが心や脳、精神に着る衣服のような性質があるからではないかと考えてる。
衣服は実用性を考えれば、手足の穴が開いていて大事なところが隠れて寒くなければ(暑くなければ)どんなものでもいいが、実際には、個人の好みのデザインがその選択の主要な部分を占める。
衣服を、個人は一度好みが固まると自分に似合う、社会に出るときの自分の一部と思い込むため、同じブランドや似たデザインの衣服を選択し続ける性質がある。
ソフトウェアは、心や脳を外部化し延長のような性質があるように思えるので、よりパーソナルなスマホにおいて、一度それに慣らされたソフトウェアを変更することは好みの衣服を脱ぎ捨てて自分に似合いそうもない衣服を着るような感覚があるように思う。
使っている人は使いやすいと言うだけで自分に似合うとは言わないかもしれないが、そこには自分に合う使い方ができる(=自分に似合う)感覚を持っている。
それがダサさの根源のようにも思う。
パソコンはハードウェアの主張がスマホよりできてるので、心や脳の延長なんかではなく自分ではない何かという意識をしっかりと持てるが、スマホになるとハードウェアはほとんど違いがなく、ソフトウェアによる自分の心や脳に直接影響を与える部分が大きくなっている。
すべての人にそう影響しているとは考えていないが、どのメーカーのテレビも自動車も違いを意識しないハードウェアや技術の差を理解しにくい人にとって、違いはソフトウェアが主要なものでしかも心や脳の衣服のような役割があるように感じる。
日本の Android シェアが低いのは、良くも悪くも日本がハードウェア立国であることだからだろう。
Windows の開発元のマイクロソフトはハードウェアをサポートすることに必死だったので、ほとんどすべてのハードウェアをサポートしたしそのためのチームもあったので日本のメーカーはマイクロソフトに文句だけ言えばソフトウェアが動いた。
だが、Android の開発元のグーグルは違った。グーグルはメーカーにソフトウェアの開発力、少なくともソフトウェアがどうやって動くのかを理解することを求めた。
それができた日本のメーカーはいない。Android を Windows のように簡単に高品質で動かせるメーカーはいなかった。
メーカーの経営者の技術理解不足であり、転換期の認識不足であり、投資判断の大きなミスだろう。
その認識不足はいまも続いていて、経営者や管理職は、ハードウェアにこだわり続けて、ソフトウェア開発のベンダーやチームに文句を言えばソフトウェアが動くと勘違いが続いている。
同時期にサムスンは、トップの号令のもとスマホの開発体制を構築してソフトウェアの開発強化をしたので、まともなソフトウェアの技術者がいるし、中国のスマホメーカーも同様だろう。
もともとハードウェアメーカーが乏しい欧州では、Android がうまく普及しているが、日本ほどではないにしてもアメリカでは iPhoneのシェアが大きい。
その視点では、日本の iPhone のシェアは、ハードウェアメーカーの挫折と敗北で、日本のハードウェアメーカーが現在のように各社さまざまに方針転換している主要な原因になっている。
東芝、日立、パナソニック、シャープ、NECなどそれぞれに家電を縮小し別の道に進もうとしている。
ソニーは辛うじて残っているようにみえるが売上のほとんどは家電ではない事業から得ていてそれを持っていたから残っただけでソフトウェアができないハードウェアメーカーだろう。程度の差はあるとしても。
給料が上がらないのは、ソフトウェアとハードウェアの組み合わせがモノの価値を下げていく性質があり、
今年に買えるスマホは昨年より安い(より高い性能が同じ価格になっている)ために、より高性能、高付加価値な開発をしなければならないがこの20年はその役割が次第にソフトウェア開発によるところになっている。
当然ながら、日本のメーカーは価値の高いソフトウェア開発ができないので、給料を上げるための売上を増やし利益を増やすことができなくなっているためだろう。この産業の給料が増えなければ、そのほかの産業の給料がつられて上がることはない。
これから、日本のハードウェアメーカーは壊滅していくか新しい道を見つけられるかになるだろう。
トヨタはそれを横目で見ていて、タイヤのついたスマホといわれる電気自動車のために、いまソフトウェアに必死に投資しているがうまくいくのかはわからない。
今後スマホが外部の利便性を求められることが増えていくと変化することもあるかもしれない。
店舗でのスマホ決済のようなペイメントは、ソフトウェアを使うというよりハードウェアを使う場面なので、その瞬間に心や脳の衣服から離れてハードウェアの美しさや利便性が目立つようになる。
スマホを主にカメラとして使う人にも異なる基準がある。今現在、iPhone はカメラのスタンダードになろうとしているが、今のところソフトウェアが切り離されているように見えるのでそれができるかはわからない。
一部の趣味のためのように思えるので、カメラにこだわるほど Android に有利になるようにさえ感じる。
今のところはほとんどの人にとっては、スマホはネットワークにつながってさえいればいい機器なので、ソフトウェアがすべてで、衣類のように心を満たすハードウェアとの統一性と自分に似合う気持ちだろう。
自治体の議会議員の選挙だった。真面目に投票には行ったけど、結果を見ないまま、何週間も経っていた。
立候補者の少ない選挙だったので、落ちたのは一人しかいなかった。圧倒的少得票数で現職議員の一人が落選しており、まあ妥当な感じ。
普段は当落の結果がわかればまあいいやってなるのだけど、今回は初出場の人に投票したので、得票数も気になった。
立候補者の多くは無所属ということになっている。実際はどこかの党がバックに付いているんだけれども。党の代表として出ている人は、やっぱり得票数も多かった。彼らが最も票を得た三人のうちの二人だ。
最も票を得た三人のうちの無所属の候補者に私は投票した。彼女は趣味ともガチともつかないボランティア活動を多くしている人で、彼女の子供とうちの子供が顔見知りなせいで私も彼女と会ったことがある。彼女は私みたいな、ママ友集団からは「付き合う価値なし」と切って捨てられるタイプの人間にも気さくに話しかけては会話をしようとするので、変わった人だなと私は思っていたが、政治的野心を持っている故に誰にでも分け隔てない対応をするのだと知って、なるほどなと思った。
多くの人に好かれたいという欲望を持っている人は多くいるけど、そういう人でも大概は利害関係で他人を選り好みするものなので、票が欲しいという一心にしても誰彼構わず話しかけるのはすげーなと思う。
社交性とボランティア活動のために顔が広く、しかも実はバックに某野党がついている。こんな人が議員になったらなんかすごいことが起きたりするのだろうか、と思って投票してみたら、ものすごい得票数で当選していた。三位をかなり引き離しての二位だった。女性であるという最大障壁は軽く吹っ飛ばしていた。
地方議会議員の選挙では、普段の行いが見えるぶん現役世代が強いという話も聞いたことがあるけど、まさかあの人があんなにも支持されるとは思わなかったので、驚いたのと同時に、この町には政治に変わって欲しいと思う人が多いのだなあと感心した。
それが今日の朝9時のはなし。その感動の勢いに任せてキーボード叩いてる。
優勝した人の名前は高橋優太さんといい、大会の正式名称は世界選手権という。
この大会は現時点での世界最高峰プレイヤーを16人だけ選抜して競う、競技マジックの頂点。
いわゆる「MTG地球代表」を決めるトーナメントと考えてもよい。
高橋氏はそこで開幕3連敗して、あと1敗でもしたらその場でトーナメント敗退が決まる崖っぷちにいきなり追い込まれる。
そんな土俵際に片足ついた状態から、なんと以降負けなしの11連勝でまさかの逆転優勝。
こんな大記録、27年続く世界大会の歴史の中で一度もない。ほんとにすごいことなんよ。
マジック興味ない人には長文であーだこーだ伝えるよりも実際の動画を見てもらったほうがいいよな。
https://youtu.be/NWd2FgWGHrw?t=22353
優勝の瞬間
https://youtu.be/3Ve9Hk3k5X8?t=28417
いい年したおっさんが画面の前でひとり声を抑えることも忘れて泣いている。
それぐらいすごい偉業だったんだよ。世界一のタイトルは彼にとって悲願だったしね。
その姿みていい年こいたおっさんの俺もすこし泣いちゃったわ。
コロナの影響で去年の世界選手権は開催中止、そして今年は初のオンライン開催。
また2019年から公式の運営下で始動したプロリーグ(麻雀でいうMリーグみたいなの)が来年には廃止されることが通告済み。
MTGに生涯を捧げてきたプロプレイヤーたちにとって2021年はまさに激動と困惑の年だった。
日本人による世界一のタイトル獲得は2012年以来じつに9年ぶり。
そもそもこの大会、アジア人には時差のハンデがめちゃくちゃあった。
現地アメリカの時刻に合わせてるから日本だと深夜24時からスタートして朝9時に終わる超過酷なスケジュール。それをぶっとおしで三日間。
例年のオフライン開催だと数日前から現地に飛んで(開催地はパリとか千葉とかラスベガスとか毎年ちがう)時差順応するわけだけど、オンラインではそうはいかない。
カードゲームはマインドスポーツとよばれたりするけど、今回アジア人プレイヤーにとってはそもそも身体的にハードなトーナメントだったことをまず伝えておきたい。
はてな民はネットコミュニティのなかでもマジック履修率が謎に高いイメージ(偏見)があるが、
それでも昨今のマジックの競技シーンについて熱心に追いかけてる人はすくないだろう。
日本はもともと競技マジック強豪国で、市場規模も本国アメリカに次いで二番手の大きさ(たしか)。
前述のプロリーグにも、2020年度の上位リーグ全24名のうち日本人は3名参加しているし、
2005-2006年および2011-2012年には日本人が世界選手権のタイトルを連年で獲得している。
過去にいちどだけ開催されたチームシリーズも、優勝したのは日本人率いるチーム「武蔵」だった。
競技プレイヤーの平均値が高い=プレイヤーコミュニティ一つ一つの練度が高く、チームプレイが得意。
また0から1を生む発明家より70点のアイディアを洗練させて100点にするような職人的なプレイヤーが多いのが日本の特徴といえる。
だけど日本勢はいつも勝者のスポットライトのあたる位置にいたわけじゃなく、
30年近いMTGの競技シーンの中で、日本勢だけがまったく勝てなくなってしまった暗黒期があった。
「日本勢は上位にいて当たりまえ」なんて過去の栄光を知っている者たちからすれば、
そのときの日本の一人負けっぷりは衝撃的で、公式からこんな考察記事を書かれるほどだった。
日本勢は、なぜ勝てなかったのか。 (Internet Archive)
https://web.archive.org/web/20121107070840/http://archive.mtg-jp.com/eventc/ptams10/article/008381/
いくつか抽出するならそれはリーダーや発明家の不在だったり、語学のハンディキャップによる情報戦の遅れだったり、コミュニティの高齢化や硬直化だったり……
日本社会全体の問題として挙げられるような要因が、実はカードゲームの勝敗の世界にもそのまま通じる課題だったりする。
それから10年の月日が流れ、日本のマジック競技シーンがどうなったかといえば……
高橋氏の優勝からわかるように、いまふたたび最盛の季節を迎えている。
実は全世界で16人しか加わることのできない世界選手権の参加枠に、今年はなんと日本勢が5名も入っていたんだよ。
ちなみに2018年の日本人参加者は1人、2019年にいたっては0人。
すごくないかこれ。
日本勢はもう終わった、なんて言われてた時代を通ってきた人間からすれば、今ほんとうにちょっとした奇跡を目にしてる気分なんだよ。
先述の日本コミュニティの問題をどのようにして解決していったかはわからない。
危機感を原動力に率先して改善していった部分もあるだろうし、技術やインターネットインフラの発展によって自然と乗り越えられていった障壁もあるだろう。
今や日本勢が世界に一歩先んじた発明家的なアイディアを生みだすことも珍しくなくなった(ホロウワンや原根グルール、ジェスカイ変容)。
ひょっとしたら発明家が乏しいとされた日本人は環境の激変期には出遅れるものの、
けっきょく最終的にはその職人肌によって最適解へとみずからを研磨して適合させていくのかもしれない。
彼は競技マジックにコミットして20年近いストイックな古豪プレイヤーで、
国内外で実力は認められていたものの、肩書になるようなタイトルだけは手に入らないような状態がずっとつづいていた。
彼はまさにひとつの道を究める職人タイプで、今回使っていたデッキも最先端から半歩引いたようなイゼット・ドラゴンだ。
このデッキを使っていたのは16人の参加者の中でただひとり彼だけ。
海外勢が持ち込んだ最先端のデッキ(リーア入りのグリクシス天啓)が発明家による最先端の発想だとすると、イゼット・ドラゴンはむしろその対極。
一世代前から職人たちの手によって100点に磨き上げられた、既知のアイディアの結晶のようなデッキだった。
対戦相手とテクニカルで繊細な応酬を好む高橋氏らしい選択だと思ったけれど、正直言って下馬評ではほとんど話題にあがることのないようなデッキだったと思う。
それがまさか構築ラウンド無敗での優勝。
職人型の日本人プレイヤーが、既知の技術の到達点で、20年かけて、世界の頂点を獲った。
プロシーンに終止符が打たれた最後の年に、崖っぷちの3連敗から歴史に名を残す11連勝で。
こんなんさ……もうさ……ドラマやん!
そして悲願だった世界一の称号を手に入れて、次の目標はありますか、と優勝者インタビューで訊かれたときの
彼の回答もまたすごく印象に残ってる。
世界一のタイトル獲った直後なのに、ほんとうに穏やかな口調でこう言ったのよ。
前に増田で見かけたLoR大会の解説記事(https://anond.hatelabo.jp/20210919095507)がすげー面白かったから自分も書いてみた。
問題視される様になった初期からずっと思ってて、その初期から思ってる事に変化がないので、そのお気持ちを書いておく。
Chrome/Firefoxのはてブ機能拡張は配布されているが、Mac版Safariの機能拡張は数年前から配布されていない。
Safariに乗り換える際の個人的な障壁であったが、Chrome版機能拡張をSafari向けに変換して利用する事ができたので、メモ代わりに記しておく。
1. Chromeのアドレスバーに「chrome://extensions/」と打ち込み、機能拡張の画面を表示する。
3. 同画面内の「はてなブックマーク」の欄に表示されている「ID:xxxxxx」を次手順で使用する。
4. FinderでChromeのはてブ機能拡張がインストールされているフォルダが存在する事を確認する。
/Users/(ユーザー名)/Library/Application Support/Google/Chrome/Default/Extensions/(手順3のID名)/(バージョン番号)
5. ターミナルを起動して、以下コマンドを入力後にReturnキーを押す。この際に「Is this correct?」と表示されたら「yes」と入力後にReturnキーを押す。
6. XCodeが起動されるので[▶]ボタンを押して、Safari向け機能拡張をビルドする。(ビルド後に起動されたアプリは終了して良い)
7. Safariを起動して、「開発」>「未署名の機能拡張を許可」を押す。(「開発」メニューは、「Safari」>「環境設定」>「詳細」>「メニューバーに“開発”メニューを表示」で表示される)
8.「Safari」>「環境設定」 > 「機能拡張」にてはてブ機能拡張のチェックを入れ有効化する。
9. Safariのアドレスバーの横にはてブのアイコンが表示されていればインストール完了。
1. はてブのアイコンに [▲] のアラートが表示されている場合、アイコンを押して「すべてのWebサイトで常に許可」を選択する。
2. はてブのアイコンを押すと表示される利用規約画面で「同意する」を押す。(なお「同意する」を押しても何もリアクションがないので、手動でタブを閉じる必要がある)
3. はてブのアイコンを押して見慣れたはてブコメント一覧が表示されていれば設定完了。
上記手順では基本的にSafariを再起動する度に「未署名の機能拡張を許可」を行ってはてブ機能拡張を有効化する必要がある。
メニューから選択するだけの手間であるが、頻繁にSafari/Macを再起動するので面倒という場合には以下手順にて機能拡張に署名を行っておく。
1. 上述したインストール手順の「手順6」にてXCodeが開いている状態で画面内サイドメニューから「はてなブックマーク」を選び、画面中央上部の「Signing & Capabilities 」タブを押す。
2.「Signing」>「Team」で自身のApple IDを選択する。(選択リスト内に存在しなければ「Add an Account…」でアカウント追加後に選択する)
3.「Signing」>「Signing Certificate」で「Developement」を選択する。
4. 手順2-3を「Target」の「はてなブックマーク」と「はてなブックマーク Extension」の両方で実施後、[▶]ボタンを押して、Safari向け機能拡張をビルドする。
5. Safariにて「開発」>「未署名の機能拡張を許可」を外した状態でもはてブ機能拡張が表示されていれば完了。
ブルース・ウィンターハルダー(Bruce Winterhalder)は、動物間で食料が移動する方法と理由のモデルを調査している。盗みの許容、生産/嗅ぎ回る/機会主義、リスクを考慮した生存、副産物の相互主義、遅延した互恵主義、取引/現物でない交換、その他の選択モデル(血縁の利他主義を含む)。ここでは、リスクセンシティブな生存、遅延型互恵主義、貿易(現物ではない交換)に注目する。我々は、食料を収集品と交換することを遅延型互恵主義に置き換えることで、食料の共有を増やすことができると主張する。これは、変動する食料供給のリスクを軽減する一方で、バンド間の遅延型互恵関係が抱える克服できない問題を回避することで可能となる。以下では、親族間の利他主義と窃盗(許容されるか否か)をより広い文脈で扱う。
食べ物は、飢えている人にとっては、十分に食べられている人よりもはるかに価値がある。飢えている人が自分の最も貴重な価値物を交換することで命を救えるなら、その価値物を交換するために必要な数ヶ月、あるいは数年分の労働力に値するかもしれない。彼は通常、家宝の感傷的な価値よりも自分の命の価値を考えるであろう。脂肪と同じように、収集品も食糧不足に対する保険になる。地域的な食糧不足による飢餓は、少なくとも2種類の取引で食い止めることができた。
しかし、取引コストが高すぎて、バンドはお互いを信頼するどころか喧嘩をしてしまうことが多かった。自分で食べ物を見つけられない空腹のバンドは、たいてい飢えていた。しかし、取引コストを下げることができれば、バンド間の信頼の必要性を下げることができ、あるバンドにとっては1日の労働に値する食べ物でも、飢えているバンドにとっては数ヶ月の労働に値するかもしれない。
局所的ではあるが非常に価値のある取引は、上位旧石器時代に収集品が登場したことで、多くの文化で可能になったと、このエッセイは主張する。収集品は、必要ではあるが存在しない長期的な信頼関係の代わりとなった。もし、部族間、あるいは異なる部族の個人間で持続的な交流と信頼関係があり、互いに無担保の信用を得ていたならば、時間差のある物々交換が刺激されただろう。しかし、そのような高度な信頼関係があったとはとても思えない。上述した互恵的利他主義に関する理由に加え、ほとんどの狩猟採集民の部族関係がかなり敵対的であったことが観察されているという経験的な証拠からも確認できる。狩猟採集民の集団は、通常、1年のほとんどの期間は小さな集団に分かれて生活し、1年のうち数週間だけ中世ヨーロッパの市のような「集合体」に集まって生活する。バンド間の信頼関係がなかったにもかかわらず、添付の図に示されているような主食の重要な取引が、ほぼ確実にヨーロッパで、そしておそらくアメリカやアフリカの大物ハンターなど他の地域でも行われていた。
添付の図で示されているシナリオは仮定のものであるが、それが起こらなかったとしたら非常に驚くべきことである。旧石器時代のヨーロッパ人の多くは、貝のネックレスを楽しんでいたが、もっと内陸部に住んでいた人は、獲物の歯でネックレスを作っていた。また、火打ち石や斧、毛皮などの収集品も交換手段として使われていた可能性が高い。
トナカイやバイソンなどの人間の獲物は、一年のうちで移動する時期が異なる。ヨーロッパの旧石器時代の多くの遺跡から出土する遺物の90%以上、時には99%以上が単一の種によるものであるほど、部族ごとに異なる獲物に特化していた。これは、少なくとも季節的な専門性を示しており、おそらく1つの部族が1つの種に完全に特化していたことを示している。一つの部族のメンバーは、専門化した分だけ、特定の獲物種にまつわる行動や移動習慣などのパターンに精通し、それらを狩猟するための特殊な道具や技術を身につけていたことになる。最近観察された部族の中にも、特殊化した部族があることが知られている。北米インディアンの一部の部族は、バイソンやカモシカの狩猟、サケの漁にそれぞれ特化していた。ロシア北部やフィンランドの一部では、現在でもラップ族をはじめとする多くの部族が、単一種のトナカイの牧畜に特化していた。
旧石器時代にもっと大きな獲物(ウマ、オーロックス、ジャイアントエルク、バイソン、ジャイアントナマケモノ、マストドン、マンモス、シマウマ、ゾウ、カバ、キリン、ジャコウウシなど)が大きな群れをなして北米、ヨーロッパ、アフリカを歩き回っていた頃は、このような特殊化がはるかに進んでいたと思われる。人間を恐れない大型の野生動物はもはや存在しない。旧石器時代に絶滅させられたか、あるいは人間と人間の発射物を恐れるようになったのである。しかし、サピエンス・サピエンスが生きていた時代には、これらの動物の群れは豊富で、専門のハンターにとっては簡単に獲物を得ることができた。取引に基づく捕食の理論によれば、旧石器時代に大型の獲物が大規模な群れをなして北米、ヨーロッパ、アフリカを歩き回っていた頃は、専門性がはるかに高かった可能性が高い。部族間の狩猟における取引ベースの分業は、ヨーロッパの旧石器時代の考古学的証拠と一致する(確実に確認されたわけではないが)。
このように、群れを追って移動する部族は、頻繁に交流し、多くの交易の機会を得た。アメリカン・インディアンは、乾燥させたり、ペミカンを作ったりして食べ物を保存していたが、それは数ヶ月はもつものの、通常は1年はもたなかった。このような食料は、皮、武器、収集品などと一緒によく取引された。多くの場合、これらの取引は年に一度の交易遠征の際に行われた。
大規模な群れをなす動物は、1年に2回だけ領土を移動するが、その期間は1〜2ヶ月であることがほとんどである。自分たちの獲物となる動物以外のタンパク源がなければ、これらの専門部族は飢えてしまうであろう。考古学的な記録で示されている非常に高度な専門化は、交易があったからこそ実現したのである。
このように、時間的にずれた肉の交換が唯一の交易であったとしても、それだけで収集品の利用価値は十分にあると考えられる。ネックレスや火打ち石など、お金として使われるものは、取引される肉の価値がほぼ同じである限り、閉じたループの中で、ほぼ同じ量を行き来する。ここで注意してほしいのは、本稿で述べた収集品の理論が正しいとするには、単一の有益な取引が可能であるだけでは不十分だということだ。相互に有益な取引の閉ループを特定しなければならない。閉鎖的なループでは、収集品は循環し続け、そのコストを償却する。
前述したように、考古学的な遺跡から、多くの部族が1つの大きな獲物種に特化していたことがわかっている。この専門化は少なくとも季節的なものであり、広範な取引が行われていた場合はフルタイムで行われていた可能性がある。習性や移動パターン、最適な捕獲方法の専門家になることで、部族は莫大な生産的利益を得ることができた。しかし、このような利益は、単一の種に特化することは、1年の大半を食料なしで過ごすことになるため、通常は得られないものであった。部族間の分業が功を奏し、それを可能にしたのが交易だった。補完関係にある2つの部族間の交易だけで、食料の供給量はほぼ2倍になる。しかし、セレンゲティやヨーロッパの草原のような地域では、ほとんどの狩猟地域を移動する獲物は2種類ではなく、10種類にも及ぶことがあった。そのため、種に特化した部族が入手できる肉の量は、近隣の一握りの部族との間で交易を行うことで2倍以上になると考えられる。その上、余分な肉は最も必要とされる時に得られる。つまり、その部族の同種の獲物から得られる肉はすでに食べ尽くされており、食料がなければハンターは飢えてしまうのである。
このように、2つの獲物種と、同時ではないが相殺される2つの取引という単純な取引サイクルから、少なくとも4つの利益、つまり余剰の源が得られたのである。これらの利益は異なるものであるが、必ずしも独立したものではない:
1. 餓死しそうな時期に肉が手に入ること。
2. 肉の総供給量の増加:すぐに食べられる量や保存できる量を超えた余剰分を取引し、取引しなかった分は無駄になっていた。
3. さまざまな種類の肉を食べることで、肉から得られる栄養の種類が増えたこと。
食料と交換するために収集品を作ったり、保存したりすることは、悪い時期に備えての唯一の手段ではなかった。特に大きな獲物が得られない場合には、縄張り意識と採集権の取引が行われていたようである。これは、現在残っている狩猟採集文化の一部にも見られる。
アフリカ南部のクン・サン族は、他の現代の狩猟採集文化の残存者と同様に、限界のある土地に住んでいる。彼らには専門家になる機会はなく、わずかに残っているものを利用するしかない。ホモ・サピエンスは、最初にネアンデルタール人から最も豊かな土地と最高の狩猟ルートを奪い取り、ずっと後になってからネアンデルタール人を限界の土地から追い出した。しかし、生態学的に厳しいハンディキャップを負っているにもかかわらず、クン族は収集品を交易品として使用している。
他の狩猟採集民と同様に、クン族は1年の大半を分散した小さな集団で過ごし、1年のうち数週間は他の集団との集合体で過ごす。集会は、取引が行われ、同盟が結ばれ、パートナーシップが強化され、結婚が行われるという特徴を持ったフェアのようなものである。アグリゲーションの準備は、一部は実用的だが、ほとんどはコレクション的な性質を持つ取引可能なアイテムを製造することで満たされる。クン族が「hxaro」と呼ぶ交換システムでは、4万年前にアフリカで発見されたものとよく似たダチョウの殻のペンダントなど、ビーズのアクセサリーが多く取引されている。
クン族が収集品と一緒に売買する主なものは、他のバンドの領地に入り、そこで狩猟や採集を行う抽象的な権利である。これらの権利の売買は、隣人の領域で採集することで緩和できるような地域的な不足の際に、特に活発に行われる。先に述べたバンド間の食料取引と同様に、収集品を使って採集権を購入することは、スタンリー・アンブローズの言葉を借りれば、「飢餓に対する保険」となる。
解剖学上の現生人類は、意識的な思考や言語、そして計画を立てる能力を持っていたはずであるが、取引を行うためには、意識的な思考や言語、そして計画を立てることはほとんど必要なかったであろう。部族のメンバーが単一の取引以外の利益を推論する必要はなかった。このような制度を作るためには、人々が本能に従って以下のような特徴を持った収集品を作るだけで十分だっただろう。(このような制度を作るためには、人々が本能に従って、以下のような特徴を持つ収集品を手に入れることができれば十分であった。) これは、我々が研究する他の制度についても、様々な点で同様であり、意識的に設計されたというよりは、むしろ進化したものである。制度の儀式に参加している誰もが、その機能を究極の進化的機能の観点から説明することはなかっただろう。むしろ、究極の目的や起源を示す理論というよりも、行動の近親的動機付けとして機能する多種多様な神話の観点から説明していた。
食物の交易に関する直接的な証拠は失われて久しい。将来的には、ある部族の狩猟跡と別の部族の消費パターンを比較することで、今回の記事よりも直接的な証拠が見つかるかもしれないが、この作業で最も難しいのは、異なる部族や親族集団の境界を特定することである。我々の理論によれば、このような部族間の肉の移動は、大規模かつ特殊な大型狩猟が行われていた旧石器時代の世界各地で一般的に行われていたと考えられる。
今のところ、収集品自体の移動による間接的な取引の証拠が多く残っている。幸いなことに、収集品に求められる耐久性と、今日の考古学者が発見した遺物が生き残った条件との間には、良い相関関係がある。徒歩で移動していた旧石器時代の初期には、穴の開いた貝殻が500kmも離れた場所から発見された例がある。また、火打石も同様に長距離を移動していた。
残念なことに、ほとんどの時代と場所で、取引コストが高いために貿易は大きく制限されていた。一番の障壁は部族間の対立であった。部族間の主な関係は、良い日には不信感を抱き、悪い日には明らかな暴力を振るうというものであった。部族間の信頼関係を築くことができたのは、婚姻や親族の絆だけであったが、それは時折であり、範囲も限られていた。財産を保護する能力が低いため、たとえ身につけたり隠し場所に埋めたりした収集品であっても、収集品は数回の取引でコストを償却しなければならなかった。
このように、取引コストが高いために、現在我々が当たり前のように使っている市場、企業、その他の経済制度の発展が妨げられていた長い人類の先史時代において、富の移転は取引だけではなく、おそらく最も重要なものでもなかった。しかし、取引コストが高く、市場や企業などの経済制度が発達しなかった先史時代には、おそらく最も重要なものではなかったであろう。我々の偉大な経済制度の下には、富の移転を伴うはるかに古い制度がある。これらの制度はすべて、ホモ・サピエンス・サピエンスとそれ以前の動物とを区別するものである。ここでは、我々人間には当たり前で、他の動物にはない、最も基本的な富の移転の種類の一つである、次世代への富の移転について説明する。
鑑定や価値測定の問題は非常に幅広いものである。人間にとっては、好意の返礼、物々交換、貨幣、信用、雇用、市場での購入など、あらゆる交換システムに関わってくる。また、強要、課税、貢ぎ物、司法上の刑罰の設定などにおいても重要である。動物の互恵的利他主義においても重要である。例えば、サルが背中を掻くために果物を交換することを考えてみよう。相互に毛づくろいをすることで、個人では見えないし届かないダニやノミを取り除くことができる。しかし、どれだけの毛づくろいとどれだけの果物を交換すれば、お互いに「公平」だと思える、つまり離反しないお返しになるのであろうか?20分間のバックスクラッチングの価値は、果物1個分であろうか、それとも2個分であろうか?また、どのくらいの大きさの果物であろうか?
血と血を交換するという単純なケースでさえ、見かけよりも複雑なのだ。コウモリは、受け取った血の価値をどのように見積もっているのだろうか。重さ、大きさ、味、空腹を満たす能力、その他の変数で価値を見積もるのだろうか?それと同じように、「あなたが私の背中を掻いてくれたら、私があなたの背中を掻く」という単純な猿の交換でも、測定は複雑になる。
大多数の潜在的な交換において、動物にとって測定問題は難題である。顔を覚えてそれを好意に結びつけるという簡単な問題以上に、そもそも好意の価値の推定値について双方が十分な精度で合意できるかどうかが、動物の相互的利他主義の主な障壁となっているのではないだろうか。
現存する旧石器時代初期の人類の石器は、我々のような大きさの脳には複雑すぎる面がある。誰が誰のためにどのような品質の道具を作ったのか、したがって誰が誰に何を借りているのかなど、彼らに関わる好意を記録しておくことは、一族の境界線の外ではあまりにも困難であっただろう。それに加えて、おそらく残っていない多種多様な有機物や、身だしなみなどの刹那的なサービスなどがあるであろう。これらの物品のほんの一部でも譲渡され、サービスが行われた後には、我々の脳は膨れ上がっていて、誰が誰に何を借りているのかを把握することはできなかった。今日、我々はこれらのことをよく書き留めているが、旧石器人には文字がなかった。考古学的な記録が示すように、氏族や部族間での協力が実際に行われていたとすれば、問題はさらに悪化する。狩猟採集民の部族は通常、非常に敵対的で相互に不信感を抱いていたからである。
貝がお金になる、毛皮がお金になる、金がお金になるなど、お金が法定通貨法に基づいて政府が発行した硬貨や紙幣だけでなく、さまざまなものであるとすれば、そもそもお金とは何なのであろうか。また、飢餓の危機に瀕していた人類は、狩猟や採集にもっと時間を割くことができたはずなのに、なぜネックレスを作って楽しんでいたのであろうか。19世紀の経済学者、カール・メンガーは、十分な量の商品交換から自然に、そして必然的に貨幣が進化することを初めて説明した。現代の経済用語で言えば、メンガーの話と似ている。
物々交換には利害関係の一致が必要である。アリスはピーカンを栽培してリンゴを欲しがり、ボブはリンゴを栽培してピーカンを欲しがる。たまたま果樹園が近くにあり、たまたまアリスはボブを信頼していて、ピーカンの収穫時期とリンゴの収穫時期の間に待つことができたとする。これらの条件がすべて満たされていれば、物々交換はうまくいく。しかし、アリスがオレンジを栽培していた場合、ボブがピーカンだけでなくオレンジも欲しかったとしても、運が悪かったとしか言いようがない - オレンジとリンゴは同じ気候では両方ともうまく育たない。また、アリスとボブがお互いを信頼しておらず、仲介してくれる第三者を見つけられなかったり、契約を履行できなかったりした場合も、運が悪いと言わざるを得ない。
さらに複雑な事態も起こりえる。アリスとボブは、将来的にピーカンやリンゴを売るという約束を完全に明確にすることはできない。なぜなら、他の可能性として、アリスは最高のピーカンを独り占めし(ボブは最高のリンゴを独り占めし)、他の人には残りかすを与えることができるからである。2つの異なる種類の商品の質と量を比較することは、一方の商品の状態が記憶でしかない場合には、より困難になる。さらに、どちらも凶作などの出来事を予測することはできない。これらの複雑さは、アリスとボブが、分離した互恵的利他主義が本当に互恵的であったかどうかを判断する問題を大きくしている。このような複雑な問題は、最初の取引と互恵的な取引の間の時間的な間隔や不確実性が大きいほど大きくなる。
関連する問題として、エンジニアが言うように、物々交換は「スケールしない」ということがある。物々交換は、少量であればうまく機能するが、大量になるとコストがどんどん高くなり、労力に見合わないほどのコストになってしまう。取引される商品やサービスがn個ある場合、物々交換市場ではn^2個の価格が必要になる。5つの商品であれば25個の価格が必要となり、悪くはないが、500の商品であれば25万個の価格が必要となり、一人の人間が管理するには現実的ではない。貨幣を使えば、500の製品に500の価格というように、n個の価格しかない。この目的のためのお金は、交換媒体としても、単に価値の基準としても機能する。(後者の問題は、暗黙の保険「契約」とともに、競争市場が存在しなかったことから、価格が近しい交渉ではなく、長い間進化してきた慣習によって設定されることが多かった理由でもある)。)
物々交換に必要なのは、言い換えれば、供給やスキル、好み、時間、そして低い取引コストの偶然の一致である。そのコストは、取引される商品の数の増加よりもはるかに速く増加する。物々交換は、確かに全く取引をしないよりははるかに効果的であり、広く実践されてきた。しかし、お金を使った貿易に比べれば、その効果はかなり限定的である。
原始的な貨幣は、大規模な貿易ネットワークよりもずっと前から存在していた。貨幣には、もっと早くから重要な用途があった。貨幣は、信用の必要性を大幅に減少させることで、小規模な物々交換ネットワークの働きを大きく改善した。好みが同時に一致することは、長い時間の間に一致することよりもはるかに稀だった。お金があれば、アリスは今月のブルーベリーの熟度に合わせてボブのために採集し、ボブは半年後のマンモスの群れの移動に合わせてアリスのために狩りをすることができ、誰が誰に借金をしているかを把握したり、相手の記憶や誠実さを信用したりする必要はない。母親の子育てへのより大きな投資を、偽造できない貴重品の贈与で担保することができる。貨幣は、分業の問題を囚人のジレンマから単純な交換に変えてくれる。
多くの狩猟採集民が使用していた原始的な貨幣は、現代の貨幣とは全く異なる姿をしており、現代文化の中では異なる役割を果たしており、おそらく後述する小さな交易ネットワークやその他の地域的な制度に限定された機能を持っていた。私はこのような貨幣を、本来の貨幣ではなく、収集品と呼ぶことにする。人類学の文献では、このようなものを「お金」と呼んでいるが、これは政府が印刷した紙幣や硬貨よりも広い範囲で定義されているが、このエッセイで使う「collectible」よりも狭い範囲で定義されている。また、曖昧な「valuable」という言葉もあるが、これはこのエッセイの意味でのcollectiblesではないものを指すこともある。原始貨幣の名称として他の可能性がある中で、コレクティブルという言葉を選んだ理由は明らかであろう。コレクティブルは非常に特定の属性を持っていた。それらは単に象徴的なものではなかった。コレクティブルとして評価される具体的な物や属性は、文化によって異なる可能性があるが、恣意的なものではない。収集品の第一の、そして究極の進化的機能は、富を貯蔵し、移転するための媒体であった。ワンパムのようなある種の収集品は、経済的・社会的条件が貿易を促進するところでは、現代人が知っているような貨幣として非常に機能的である。私は、コイン時代以前の富の移動手段を議論する際に、「原始的な貨幣」や「原始的な貨幣」という言葉を、「収集品」と同じように使うことがある。
人々、一族、あるいは部族が自発的に貿易を行うのは、双方が何かを得ることができると信じているからである。価値についての彼らの信念は、例えばその商品やサービスについての経験を積むなどして、取引後に変わることがある。交易の時点での彼らの信念は、価値についてはある程度不正確であるものの、利益の存在については通常正しいものである。特に初期の部族間貿易では、高額商品に限られていたため、各当事者が自分の信念を正しく理解しようとする強い動機があった。そのため、貿易はほとんどの場合、双方に利益をもたらした。貿易は、何かを作るという物理的な行為と同様に、価値を生み出した。
個人、一族、部族はそれぞれ好みが異なり、これらの好みを満たす能力も異なり、これらの能力や好み、そしてそれらの結果として得られる物について持っている信念も異なるため、貿易から得られる利益は常にある。このような取引を行うためのコスト(取引コスト)が、取引を価値あるものにするのに十分低いかどうかは別問題である。我々の文明では、人類の歴史上の大半の時代よりもはるかに多くの取引が可能である。しかし、後述するように、いくつかの種類の取引は、おそらくホモ・サピエンス・サピエンスが誕生した頃まで、一部の文化にとっては取引コスト以上の価値があった。
取引コストが低いことで利益を得ることができるのは、任意のスポット取引だけではない。これが、貨幣の起源と進化を理解する鍵となる。また、家宝を担保にすることで、取引の遅延による信用リスクを回避することもできた。勝った部族が負けた部族から貢ぎ物を取ることは、勝った部族にとって大きな利益となった。勝利者の貢ぎ物を集める能力は、貿易と同じ種類の取引コスト技術の恩恵を受けていたのである。慣習や法律に反する行為に対する損害賠償を請求する原告や、結婚を斡旋する親族集団も同様である。また、親族は、タイムリーで平和的な相続による富の贈与の恩恵を受けていた。現代文化では貿易の世界から切り離されている人間の主要なライフイベントも、取引コストを下げる技術によって、貿易に劣らず、時にはそれ以上の恩恵を受けていた。これらの技術のうち、原始的な貨幣(収集品)よりも効果的で重要なものはなく、また初期のものでもなかった。
H.サピエンス・サピエンスがH.サピエンス・ネアンデルターレンシスを駆逐すると、人口爆発が起こった。紀元前4万年から3万5千年の間にヨーロッパを占領した証拠から、サピエンス・サピエンスはネアンデルターレンシスに比べて環境収容力を10倍にしたこと、つまり人口密度が10倍になったことがわかる。それだけではなく、彼らは世界初の芸術を創造する余裕があった。例えば、素晴らしい洞窟壁画、多種多様で精巧な置物、そしてもちろん貝殻、歯、卵殻を使った素晴らしいペンダントやネックレスなどである。
これらは単なる装飾品ではない。収集品や、その時代に進歩したと思われる言語によって可能になった、新しい効果的な富の移動は、新しい文化的制度を生み出し、環境収容力の増加に主導的な役割を果たしたと考えられる。
新参者であるH.サピエンス・サピエンスは、ネアンデルタール人と同じ大きさの脳、弱い骨、小さい筋肉を持っていた。狩りの道具はより洗練されていたが、紀元前35,000年の時点では基本的に同じ道具であり、2倍の効果も10倍の効果もなかったであろう。最大の違いは、収集品によってより効果的に、あるいは可能になった富の移動だったかもしれない。H.サピエンス・サピエンスは、貝殻を集めて宝石にしたり、見せびらかしたり、交換したりすることに喜びを感じていた。ネアンデルターレンシスはそうではなかった。これと同じことが、何万年も前にセレンゲティで起きていたのである。
ここでは、コレクションアイテムが、自発的な無償の相続、自発的な相互取引や結婚、法的判断や貢ぎ物などの非自発的な移転など、それぞれの種類の富の移転において、どのように取引コストを下げたかを説明する。
これらの種類の価値移転はすべて、人類の先史時代の多くの文化で行われており、おそらくホモ・サピエンス・サピエンスが誕生したときから行われていたと考えられる。このような人生の一大イベントである富の移転によって、一方または両方の当事者が得られる利益は非常に大きく、高い取引コストにもかかわらず発生した。現代の貨幣と比較して、原始的な貨幣の速度は非常に低く、平均的な個人の一生の間にほんの数回しか譲渡されないかもしれない。しかし、今日では家宝と呼ばれるような耐久性のある収集品は、何世代にもわたって持ち続けることができ、譲渡のたびに相当な価値を付加することができたし、しばしば譲渡が可能になることもあった。そのため、部族は、宝石や収集品の原料を製造したり、探索したりするという、一見すると軽薄な作業に多くの時間を費やしていた。
富の移転が重要な要素となっている制度では、次のような質問をする:
1. 事象、移転された財の供給、移転された財の需要の間には、時間的にどのような偶然の一致が必要だったか?偶然の一致があり得ないことは、富の移転にとってどれほどあり得ないことか、あるいはどれほど高い障壁になるか?
2. 富の移転は、その制度だけで収集品の閉ループを形成するのか、それとも循環サイクルを完成させるために他の富の移転制度が必要なのか。貨幣の流通の実際のフローグラフを真剣に考えることは、貨幣の出現を理解する上で非常に重要である。多種多様な取引の間で一般的に流通することは、人類の先史時代のほとんどの期間、存在しなかったし、これからも存在しないであろう。完結したループが繰り返されなければ、収集品は循環せず、価値がなくなってしまう。作る価値のある収集品は、そのコストを償却するのに十分な取引で価値を付加しなければならない。
理想的にはトリック、バリケード、ボディスラムだけで構成するのがいいのかもしれない。
0: ボディスラム+、1-3枚
2: 炎の障壁、1枚あってもいい
ループがちゃんと回ってれば後半戦は障壁邪魔かもしれない。でも雑魚の処理に便利
0: トリック、あるだけ
1: 受け流し+、3,4枚
トリックは0コストでドローするので入れ得。でもあんま手に入らないかもしれない。
0: 供物+、あるだけ(1枚しか落ちてない?)
0: 激昂+、1-2枚
0: 墓起こし+、1枚
0: 雄叫び+、あるだけ
序盤で意地でもバリケードを引いて相手の火力より早くブロックを積むために。
供物でバリケードと激昂引ければ2マナ余るので受け流しとかで20ブロックくらいは積める。
廃棄されるが、1回だけ墓起こしで再利用できる。
雄叫び+を入れまくって無理やりサーチするのもあり。
1: 頭突き
2: 強打
弱体化のためだけに入れるのは重い。
1: かぶりつき
最大HPはそんなに上げなくていい。廃棄されるので入れてもいいけど序盤戦を安定させるのには邪魔。
1: 炎の息
1: 防御
デッキが回らない。除去しきりたいところ。
世の中に若い自殺者が出るたびに、『会社辞めて実家に帰って過ごせばいいじゃん』って浅はかに考えてたけど、自分が適応障害になってから1年、今の今まで頑なに実家に帰らなかった事実を振り返って、あぁ、人は追い込まれるとそういう判断が的確にできなくなるんだなぁと理解というか体感した。
もちろんコロナウィルスを地元に持ち込まないようにっていう理由もあったけど、それで鬱屈した状態が続いて体調は悪化していったわけで、たとえばもっと早い段階で実家に帰る手段を取っていればもっとマシだったんじゃないかと思う。
幸いフルリモートで働いているので仕事には困らないし、それなら2週間家に籠もって自主隔離したあとに車でまっすぐ実家に行けば感染のリスクなんて少ないわけで。
今ある生活から実家に戻るっていうのは、なんか全てが終わってしまうような気もしていて、それが障壁になっていたのかもしれない。人生から敗走するような感覚がどこかにあって。
お酒飲んだるよーひとりだよー。こどもは寝たよー。結婚契約相手は出張ちゅうだよー。ひとりだよー。大丈夫。コロナ対策はばっちりだよ。ねてるよ。子供は可愛い。
ひとのやくにたちたいよー。
日本が好きだよ。海外も好きだよ、でも日本のホームがあるからすきだよ。アイデンティティはにほんにあるよ。きっとね。
おやともきまづいこともある。
でもなんとかかんとかやってる。
後輩に嫌われないか、上司から邪魔になってないか。家族の中で邪魔になっていないから。そわそわしてる。小心者だよ。
それでも定期的に国を変えたいと思うよ。
ボランティアからはじめないとあかんが、わりと障害者にトラウマがあるよ。
親戚に自閉症の子がいるよ。お姉ちゃん。いい人だと思うけど、これからどうなるんだろう。
地域に可愛い女の子だけどちょっと変わった子がいたよ。それに対してなんかたぶん失礼だけど、素直なことを言ったらその親にめっちゃ怒られたきがする。あれはたぶん、その事実(なにかしらできないことを指摘して笑ったんかやあ)ことにおこられたんだろうとおまう。小学校のことだからあんま覚えてないけど、怒られたことはすごい覚えてる。
すごい守られてるのに、と思ったことが彼らへの障壁になったままになってる、と今気づきた。酔っ払いすごい、おもいだしたよ。
でもそれをなくしたいと思うよ。誰かが我慢して成り立つ社会を無くしたいよ。
この時の「がまん」は我慢し続けて、誰かを搾取し続けない世界をいってる。だれもが生きてたらなんか我慢するよ。でも、我慢し続ける世界は嫌だよ。
お互い支え合わないと成り立たないよ。なりたたないよ。
いまはみんながまんしてる。
政治家?誤魔化してない?
小売業のみなさま、毎日もしかしたら感染するかもの恐怖にがまんしてくださってありがとうえらい。
学校関係者のみなさん、えらい。こどもたちはわらっていますか。
みんなにありがとうをいうよ。かかわったらいうの。ありがとうありがとう。
いまがんばってるひとえらいよ。
ああ、癌じゃないといいなあ。
えらい、っていいたいなあ。
就職できないもの仕事がうまくいかないのもぶっちゃけ発達障がい関係ねぇぞ
ワイトはテンションブチ上がると席に座っていられないレベルの重篤さで
セキュリティの責任者だったにも関わらず、施錠キー・入館証を無くす・PCや書類を置き忘れる
人ってどうあってもマイナス特性だけじゃなくてプラス特性もあるじゃないですか
過集中でババッと短期間で課題を解決することが出来る+長時間集中+長時間労働が苦にならないので
物量でマイナス面を押し切ることが出来る
じゃあなにが障壁になるかというと "人付き合い" ですよ
ほんでこの人付き合いもやっぱ発達障がい関係ない
無理をしてでも相手に好かれよう・取り入ろうって気があるかどうかだけなんですよ
一応、気を張り巡らせて会社のメンバーや顧客の誕生日は把握するしすべての雑談は記憶して
雇用主・顧客以外に特別なイベント打つ気は微塵も起きないンゴねぇ
役員にはまぁ気はつかうけどなにがなんでも取り入ろうみたいな気迫は微塵も湧かない
役員相手がそうなのだから一個上の上司やライバル視してくる同僚なんて言わずもがな
ただ部下や後輩には割と優しいと思います
いわゆるDXっていうやつで幹部の一人がソフトウェアファーストとかそういうのに感化されてこの取り組みが始まった
なので今の部署で内製している分には特に意思疎通とかで問題になることはなかったんだけど
ちなみに自分のことは「社内でプログラム内製してる人」というぐらいしか紹介してなかったらしい
で、打ち合わせに出てみるとどうやらスモールスタートで社内利用するシステムを作りたい、ということだそうな
ゆくゆくは外販も視野に入れてるけどそもそも社内で困ってるから早くやりたい、とのこと
「どれぐらいの期間があれば作れますか?」って聞かれて
その辺から向こうの担当者一人とちょっと盛り上がってだいたいのイメージ合わせは終了
本当に基本機能は簡単だったのでAWSあたりで1日で作って次の日にはメールしたんだけど、そこから反応が無い
その次の日に上司から聞いた感じだとどうやらそもそも外注する前提で話を進めてたらしい
打ち合わせのときには既に何社かベンダーに声をかけて数百万程度でスタートする予定だったとのこと
この内容で数百万ってのもボッタクリだなぁとは思ったけどその辺は大企業価格なんだろう
で、1日で作ってしまったのでその数百万の扱いに困ってしまって上役までエスカレしてるとのこと
アホらしいけれどこれも大企業の宿命かと思って1週間程度待つことに
その間に時間を見つけてそのアプリやUIを修正して、まあ普通に公開できるレベルまで持って行った
そしたら打ち合わせをしたいと言ってきたので出てみたんだけど上役コメントを共有してくれるとのこと
要約すると
という感じ
なるほど、自分はプロじゃ無かったんだな、と思うと同時にこういう感覚が大企業で内製できない理由なんだろうと感じてしまった
恐らく大企業の上層部は「内製プログラム」と聞くとエクセルマクロとか素人が本を片手に作ったプログラムを想像している
ちなみにその上役はこっちで作ったプログラムを実際に使ってみたようでサーバのログにしっかり残ってる
それも1日で作ったお試し版じゃなくてしっかり作り込んだ方をちゃんと触っている
それでも「プロを入れて本格的に」という感覚が残ってしまうらしい
ちなみにそれは上役だけでなく打ち合わせをした相手方の一部も持っているようで
巷のアプリ等と遜色ないけれども、やはりプロを入れて本格的にやりたい、とのこと
まぁ忖度してる可能性はあるが、具体的にどの辺が素人っぽいのか聞いてみると「そこも含めてプロに聞きたい」とのことでした
結局のところこの手の人たちは中身は全然分からず「プロは何か凄いことをしてちゃんとしたものが出来上がる」と思っている
一方で内製したものは「プロが作ったものじゃないから巷のアプリとはきっと何か致命的な部分が足りてない」と思っている
確かに日本車と中国車を比較したときに専門じゃ無いから「中国車はきっと何か致命的な部分が足りてない」と思うのはしょうがないような気がする
それと同じで中身の分からない人が内製プログラムに対する漠然とした不安というのはかなり大きな障壁になっていると感じた
また、何回CIを回せるかを気にする理由を聞いてみたが、計画しておきたいから、とのこと
つまり彼らはあくまで何かを作るという感覚では無く、プロジェクトオーナーとして管理をしたいだけなんだろう、ということ
なので自分はベンダーの1つでしかなく、資本金も社員数も無いベンダーなので「そんなベンダーはプロじゃ無いだろう」という結論になっている
出来上がってきたものの品質を評価することはできない、ということを吐露してるようにも思えるんだけど
マリトッツォみたいなパンにクリーム挟んだだけのしょうもない菓子パンが、新しいものとして流行ってるの見ると日本はよほど貧しくなったんだなという気持ちになって悲しくなる
だだでさえコストの低い粉物食品なのにクレープやたい焼きやワッフルみたいに新しい設備も技術も何も必要無く、本当にただパンにクリーム挟んだだけで作れる菓子パン。
現に「これから流行るらしい」という情報がネットに出て一週間もしないうちに、田舎スーパーの製パンコーナーに並んでおり、流行る前から流行っていたと言っていいレベルの速さだった。
あれは要するに通常食パンに使わない大量のバターやら生クリームやらはちみつを使った菓子パンに過ぎないのだが、食パンの形にすることで「食パンなのに甘く香ばしくて美味しい」という錯誤を与え、かつ一斤売りすることで高い利益を出すことが出来た。
オーブンや食パン型など既存のパン屋の設備を流用すれば良いだけだが。そこが障壁だったとも言える。
だがマリトッツォは、土台となるパンをどっかから買って、クリームも冷凍のやつを使えばいいだけで、はっきり言って馬鹿でも作れるスイーツだ。
冷凍タピオカ溶かして注ぐだけのタピオカミルクティー並の雑魚。
今の日本は売る側の都合でこんな物を流行にしなければならない程貧しくなってしまった。
その事実がただ悲しい。