はてなキーワード: 性質とは
貧困故に盗むしかなかったみたいなケースは人権派と養子縁組して名前変えてやり直すとかでどうにかなってるんじゃない
著名人が犯罪発覚後も以前から使っている名前を使い続け昔からの知名度を活かしたいって場合には、犯罪歴も一緒についてくるのは受け入れるしかないわ
先日こんなものを見た。
『https://twitter.com/kanare_t/status/1775778556557316153』
瞬間的に腹と頭の中に濁ったものが湧いた。
見なければ良かったと思ったが見てしまったものはもう仕方ない。
出来るだけ早く忘れるか、と思ったが、しかしこれを見たことで“私はなにがどうして嫌いか”が明確なものとなったので、これもひとつの経験か……と思い、書き記すことにした。
私は自虐が嫌いだ。
今までも漠然と思ってきたことだが、それに明確な理由が見えた。
自虐とは他虐だということ。
「私はこういうところが変なんですおかしいんです」と自分を貶めているようでいて、発言者と同じ性質を持つ他者までも貶めることになっている。だから嫌いだ。
この発言者は「みんな」と呼び掛けている。「私と同じような性質を持つ者はおかしい」と不特定多数に周知している。これは他虐だと思った。
勿論これを見て気にならない人もいるだろう。この発言についた返信もいくつか見たが、概ね発言者に同意するものや、同じように自虐的なものが見られた。私にはそれもまた他虐の上塗りに見えた。返信していないだけで、静かに傷ついている人はいるかもしれない。
そしてもうひとつ。自虐は自分で自分に(そして自分と同様の性質を持つ人に)差別偏見の目を向けることでもある。だから嫌いだ。
この発言者は、自分の趣味嗜好を掲げてそれを異端視する言葉で表し、自らその趣味嗜好への異端視を促すような文を発信した。そのことに大きな不快感を感じた。
鍵アカでの内輪ノリなら良いかもしれないが、開かれたアカウントでこれを発信し、広く拡散されて様々な人の目に届き、「気づいた」人が、読書を楽しく思えなくなる可能性がゼロだとは言えない。
しかもこの発言者は小説家だ。読者がいるのだ。これはその読者たちも異端視し、「自分はおかしいのだ」という差別偏見を持たせてしまう可能性のある文だとも思え、不快感の一端になっている。
私自身は世間の読書率がどうであろうと構わないが、自分の職業にも関わる物事を取り上げて「こういうことが好きな人はおかしい」とわざわざ呼び掛けることがが何かにプラスに働くとは思えない。私がこの発言者の作品の読者だったらこの文に失望しただろう。
そもそも、対象が自分であろうと他人であろうと、何かしらの嗜好や特徴を取り上げて異常だ変人だなどと(褒め言葉として使っていたとしても)表すこと自体が嫌いだ。
それが犯罪や命に関わることでないなら、どんな性質だろうとなにを好んでいようと等しく普通の人間だ。私はそう思いたい。
これらのことを改めて考え、言語化するきっかけになったということでは、あの発信に出くわしたのもそれなりの価値があったのかもしれない。
人間女性は男性よりも小柄で腕力が劣り他人に圧迫感を与えず、子宮と乳房があるので子育てや教育に有利な形で進化したことが分かる
しかし近代社会では賃金提供と引き換えに女性を工場や事務で働かせようという動きが強く、ニホンでは3分の1は結婚せず子供も持たない
子育て・教育・医療と、工場や企業労働は性質が異なる職種であるが、女性が前者に従事して賃金が得られる仕組みは確立されているとは言えない
特に医療は経済的利益が大きいことから、男性が相当に入り込んでいる
ビジネス文書でUDデジタル教科書体が使われているのを目にする機会が増えたのだが、気持ち悪くてしょうがない。
最近やたらとUDデジタル教科書体が読みやすいだの何だので持ち上げられてるせいなんだろうけど、あれはデザインフォントの類だと思っているのでビジネスには適していない。
教科書体フォントは正しい文字の書き方に基づく書体であり、手書き風フォントに近い性質を持つ。つまりプレーンな明朝体やゴシック体とは違い、手書き風というキャラクターを持ったフォントなのだ。
ビジネスではプレーンなフォントを使うべきであって、手書き風フォントとかマジで気持ち悪いんよ。
どうしてもUDフォントがいいならBIZ UDでいいし、プレゼンなら他にも適したフォントあるだろ。
ディスクレシアにも読みやすいとか言うけど、会社は学校ではないんですわ。そもそもディスクレシアじゃなくても書いてあること読めてない奴なんてたくさんいるし。
近々、結婚をすることになると思う。
彼に「結婚したら指輪するの!?」って聞いたら、「結婚したらするよ」と言う。
今までだって、スマホ、財布、カギなど、なくしちゃいけないものを何度もなくしてきた。
一回とかじゃなくて、毎年複数回はかならずなくしている。私はあらゆる路線のお忘れ物センターに詳しい。
彼からもらったプレゼントの手袋もこの間落として半べそかいてたけれど、拾った人が駅に届けてくれてたみたいで事なきを得た。
アクセサリーなんてなくすのが私のセオリーだ。安い数百円のアクセサリーしかつけないのは、なくすのが目に見えているからだ。
いや、多分同じ人間として理解はできない感じだけど、「この人はそういうものなのだ」と認識はしてくれている。
過去、彼が私に指輪をくれようとしたこともあるらしいけど、「なくしそうで買えない」と言っていた。
「絶対なくすからそんなに高くないやつにしようよ」「10年に1回買い替えるぐらいの価格のやつにしようよ」とか冗談めかして言っているが、もうわかっている。どんなに気をつけていても私は絶対になくすと。手を洗うときにとったり、酔っ払ったときにとったりする。そして忘れる。容易に想像できる。回避するには「持ち歩かない」しかない。
私の両親は、昔は母だけが結婚指輪をつけて、父は一切つけていなかった。父のだけ箱の中でピカピカだった。私もあれになるしかない。でもなんかウキウキの彼を見ていると。うーん、どうしたもんかのう。エアタグつけるわけにもいかんしのう。
共産党はいいぞ…次から次に敵を設定してくれるからそれを党員と協力して袋叩きにしているだけで仲間から認めて貰える。
思考を停止して全ての意思決定を他人に委ねて、自分達と少しでも異なるものを集団で攻撃することで1人あたりが負う責任も軽くしてくれる。
プリンセスコネクト6周年のアプデから2ヵ月が過ぎたが、あまりにも稚拙なアップデートでやめてしまった。
大きなアップデート内容としては
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➀はユーザーにとってデメリットなしのアップデート、なお通常装備だけなので特殊な装備は自力で集めないといけないし
ちなみに1から始めるとエンドコンテンツに追いつくまで1年以上はかかりそうなので覚悟の上に覚悟を持って遊んだ方が良い
ⅰ能力アップのため半強制的に\250/日の追加ジュエル徴収、能力アップをサボるとPvEコンテンツでキャラが使い物にならなくなる可能性がある
ⅱ新規追加キャラを引いた際にゲームの全キャラに適用されるボーナスがある
250円の課金wwwwwwwwwwキャラ未所持でゴチャゴチャ言いやがってwwwwwwwと思った読み手の皆さんも沢山いる事でしょう。
6年経った課金圧が低いゲームに蔓延るちいかわ達に急に強制徴収令を言い渡した気分はどうだい?
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プリコネの能力アップに関しては他ゲームと比べてもかなりデリケートな性質を持つものであり
〇〇の能力がX%足りないせいで敵の攻撃を受けた際にHPが足りなくパーティーが崩壊する、みたいな事象が頻発するので
今回のアップデートに関しては顔がプリコネと言われ数年間楽しく遊んでいた私としても超絶大改悪だと思っている。
➁の内容ⅰ,ⅱについては所謂他所でもある「お布施」のようなものでしょう
但しⅱの新規追加キャラに至っては例え能力がクソ雑魚ナメクジと分かり切っていてもキャラを引かないと現環境に対応出来ずコースアウトする可能性があります。
このゲーム、新キャラが露骨に弱い性能デザインしている事が多々あったのでそこで課金を控えられないのも改悪ポイント。
能力アップの差も所持キャラの差もプレイヤー間で顕著に出始めているため
これからは攻略動画やサイトに書いてある内容を完コピ出来るかお祈りゲーミングが始まっている。
今までのプリコネであれば装備・キャラ限凸システムの概念がほぼ皆無に近く、
月次のエンドコンテンツで1~10位辺りのクランにいる人間ですら微課金・無課金のユーザーも相当数存在していた。
1位にいるユーザーも100位にいるユーザーもキャラの能力値についてはまともにゲームをプレーしていれば変わらなかったので
前述にも書いたようにステータス面についてはかなりデリケートなゲームなので
上位の動きを後々再現して楽しめる人間も減っていく事でしょう。
能力アップについては1年先くらいまでをデザインした内容になっていそうなので
1年後まともなユーザーがどれだけ生き残っているか今からとても楽しみです。
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もう辞めたゲームの事だしとやかく言いたくは無いんだけど
課金の収益予想表だけ見てKMRか偉い奴が「とりあえず利益出そうだしこれでヨシ!」って適当にGoサイン出してしまったと切に願っている。
その「慣れ」をオーディオ界隈では耳エージングとか言うが、そうではなく機械工学的な意味でエージングによる変化もある。
周波数特性の測定値では帯域ごとの大小しか測れないし、あとは帯域ごとの歪み率などもデータ化できたりするが、オーディオユニットには応答速度や収斂速度、残響などから構成される微妙な聴覚上の変化、ステージ空間の広さ感、左右や上下や前後の距離、音像の精細感のように、数値化できない、測定が難しい要因があり、しかも音域ごとに性質が違ったりする。
ボーカルが近い、シンバルが遠い、音場が広い、高域の抜け感がある、寒色(残響少なめで精細)、低域がにじみ出て中域をマスクする、みたいに、さまざまな言葉で表現するが、そういう特性が正反対にまで変わることはないものの、微細な変化を人間の聴覚は大げさに捉えることが得意だ(意識して聴く場合)。
もちろん思い込みによって変化したと感じる部分もないとはいえないが、集合知として稼働時間による変化はあるというのがこの界隈では消費者のみならず生産者の間でも常識になっている。
オーディオ愛好家向けのメーカーではエージングに言及して推奨するメーカーもあるが、基本的にはエージング行為を意図的にする必要はなく、通常使用するうちにこなれていくのを待てばいい。レビュワーなどは条件を揃えるために一律のエージング作業をすることはあるが。
なので、特定の測定値を出して、エージングだとかリケーブルだとかに有意な変化がないから無意味、と声高に主張するようなものはどちらかというと理系気取りを履き違えたトンデモの域。聴覚は電気や工学の側面だけじゃ説明できない。
もちろん、オーディオ界隈にはシールを貼ると音質がアップする、みたいなオカルトじみたグッズも存在するので、そういうものまで肯定していく必要はないが、外部の人はすべてを一緒くたに小馬鹿にしがちなので難儀なところだ。
話を戻すと、エージングという表現だと使い古して悪い意味でもユニットが劣化していく変化までを含むので、慣らし運転としてはバーンインという呼び方をする事が多い。
それによって低域がスムーズに出るようになったり、高域のトゲトゲしさが落ち着いたりといった変化はある。もちろん、ある場合もある、というだけで、知覚できないことも多いだろう。大抵の製品は箱出しから音がいいので、「あれっ」という音の時にエージングに期待する感じになる。
またユニットの種類によってエージングにかかる時間が異なることも集合知的にわかっていて、例えば平面駆動ドライバの場合は一般的なダイナミックドライバよりも長く、数百時間のバーンインが必要なことが多い、などと言われる。
工業的にも物理的にも、同一製品だからといってどの時点でも同一の出音を維持するなんてことは不可能で、普通は左右のユニットですら微妙な音量差や周波数特性にブレがあったりする。それはデータにも現れるが。
本なんてその程度の扱いでいいものだし、本に限らずあらゆる産業の商品・サービスはそのように扱われて然るべき。
それが商業というもので、そうした方がビジネスのパイが広がり、商材も洗練されていくから。
抜きん出たものをさらに目立たせることで、より多くの人に認知され、共有され、その分野の裾野が広がる。言い換えればバズらせることができる。
それくらいのことをしないと、世の中にはあらゆる商業分野や消費的娯楽があふれているわけだから、認知してさえもらえない。
例えば今ゲーム業界では、市場規模を成すセールスの8割はサービス運営型のものから来るようになった。
それはなぜかというと、運営型ゲームの多くは基本無料の形態をとっており、「手に取る」ハードルが限りなく低くなったからだ。
それくらい、みんなが知っている、みんながやっている状況を作ることは大事だ。
ハードルが下がることで、消費者にとっても、常に手軽に「相見積もり」ができるような状況になっており、都合がよい。
だから無料で触れてもらって、良し悪しはその後で判断してもらうという態度こそ、消費者のセンスや知性を信用する誠実な売り方だ。
音楽や映像などの分野もサブスクの隆盛によって、「見てもらう」のにかかる費用がにわかに低廉化している。
そうした音楽・映像コンテンツを導入口にして、イベント等のファン商売へと誘導することで利益をあげている。
翻って、書籍分野の売り方を見てみると、電書という選択肢が増えたくらいで、ビジネスモデルは変化していない。
売れている本をより売るために目立たせるくらいでは、正直言って生ぬるすぎる。
手に取るハードルを低くできない以上、「絶対に外さない」ように一極集中させるのは理にかなっているだろう。
本当に書籍文化の未来を願うなら、考えることは真逆であるべきだ。
「隠れた良書」とされがちな性質を帯びた作品というのは、もともとその分野にどっぷり浸かっている人が、商業的なアシストがなくとも自分で探し出していける。
逆にそういう発掘の楽しみが残っていた方が、商業に食い荒らされない方が、良いとさえ言えるだろう。
ゲーム業界で言い換えるなら、SteamのインディーやPC・PS5などの買い切りの大作タイトルにはもっと優れた作品がある、それは事実だが、それを声高に叫んだとしても、そういう古い「あり方」が主流に返り咲くことはないのだ。
むしろ現実には、基本無料ゲーム開発のために資金と人材が集まり、ビジネス面では主戦場と化しているのがここ十数年の流れだ。
コアで偏狭なゲームファンはそれを直視できずにいて、運営型ゲームのガチャシステムなどを古い認識のまま嫌い続ける。
もちろん中身を重視するなんたらアワードのような世界では、AAAタイトルがマニアに評価され続けるだろう。
だがAAAタイトルを触れるのはゲーム消費者全体を俯瞰してみると、本当にマニアだけになっている。それは悪いことではない。
ゲームという「あり方」が柔軟に広がって裾野を広げた結果、おじいちゃんでもポケGOを楽しんでいたりする世界を一概にダメとは言えないだろう。
それと同じように考えれば、商業主義を嫌い、「隠れた良書」のようなものをアピールすることがいかにズレているか分かるだろう。
伸びているものをさらに伸ばして多くの人を巻き込み、素晴らしい方向へ成長させる圧力を生産者側へかけていくことが、誰も想像できないような膨らみ方をした未来の文化を作るわけだ。
モバイルゲームでは、開発費が高騰して、競争が激しいのに失敗リスクが大きくなっていることから、技術力や繊細な運営センスがない会社は早々に撤退を余儀なくされ、淘汰が激しくなっている。
この中を生き残って成功していく会社は、従来のゲーマーが評価するAAAタイトルを部分的に超えた品質のものを作れる能力を持ちつつある。こうやって想像を超えた進歩をしていく世界、面白いだろう。
本で例えるなら、なろう系ラノベをくだらないと言って一掃しようとするのではなく、なろう系をさらに洗練・発展させて世代を超えたジャンルへと育てていこう、あるいはそういうものが見たい、という考え方をすべきだ。
2024/4/12 追記 みなさん反応や情報ありがとうございました。一覧に不足していた作品を追加しました(除外条件を満たすものは除く)。追加した作品には 🚗 がついています。また、皆さんの反応からも、ドラゴンカーセックスという概念はすでに多くの人が知っていることが伺えます。
考えをまとめるために書いているので長くなってしまった。
投資マネーが再エネに集まり、既存電源に行かない状況が続いている模様。
再生可能エネルギーは、施設の製造・建設・設置、さらに運営のノウハウが溜まってきて再エネが安定した投資先と見做されてきており、潤沢な資金供給が続いている。
例えば、利回りなども、再エネ設備の耐用年数を従来は20年などで計算していた。これは公的補助が20年だったと言う前提だが、次々と公的補助が終了した結果、耐用年数を30年以上で計算するところが増えていて、それらをミックスした投資商品が登場、安定した資金調達に繋がっているようだ。
一方で、相対的に既存電源に対する投資が減っている。欧州でもエネルギー安全保障の観点から、イギリス、フランスなどで原発の新規計画が出てる。
今時、国の金だけでやると言う計画をイギリスが建てるはずも無く、資金を募集しているのだが、全然投資が集まらなくてかなり苦戦している。
これとは別の話として、エネルギー安全保障の観点だと言っているのに、当初目論みの建設費で手を上げたのが中国企業(中国"系"ですらない、中国の国営企業)しかないと言う状況で、これだとまずいと言う事で、新規設置の原発が生み出す電力の買取保証価格をつり上げたところ、なんと再生可能エネルギーの2倍から3倍の価格になってしまって問題化している。
エネルギーの安定供給・安全保障の観点という点では色々な電源をミックスするのは当然で、そういう点では単価の高い電力が混ざっても仕方が無い。
が、その国のエネルギー価格は、その国の国際競争力に直結する。製造業はもちろんのこと、ITのデータセンターの立地、研究施設の立地など情報系にも影響してくる。
国策である程度電力価格をコントロールできるからと言って、上げれば今度は国際投資が逃げていくということで、苦しい状況が続いている。
欧州と言うより主にフランスでの問題なのだが、フランスは原子力発電所で発電した電力を他の国に売ると言うビジネスを行っていた。
ところが、再生可能エネルギーが市場を荒らすようになってしまったため、もくろみが崩れてしまって採算性が悪化している。
既存電源と再生可能エネルギーの違いは何かと言うと、限界費用が全く違う。再生可能エネルギーは、燃料費がないと言うところが大きくて、0円以上で売却できれば利益になる。というか、勝手に発電されるので止める意味が無い。
そのため、他の電源では燃料費が上回って赤字になるケースでも電力を市場に流す事ができる。そんなものと価格競争しても意味が無いので、例えば火力発電所は再エネの供給が大きくなったら発電を止めて、採算より高くなったら稼働すると言う事を行っている。
特にLNGのガスタービンは即応性が高いため、再生可能エネルギーに追従して運転をするのに適している様だ。
一方、そんな器用なことができない電源がある。
それが原発。
原発は燃料を燃やしているにもかかわらず、再生可能エネルギーと似たような性質を持っている。発電を始めたら勝手に発電されるので止められない、出力調整が難しい、燃料費に比べて設備費・初期投資の割合が大きいといったことだ。
そのため思いっきり市場を食い合っている。再エネがピークで安い時は下手するとマイナスの金額(つまり、売買に関わる諸経費を発電側が持つというようなもの)で売却される電力に対して経済面で追従を迫られる。
それでも、再エネが担う割合が低いころは、それ以外の時間帯で収益を出すことが可能だった。しかし、段々と再エネだけで賄える時間帯が増えてしまい採算性が悪化しているのである。
また、原子力発電所など大規模電源は30年以上の耐用年数を見込んで採算が取れるように投資商品にするのが一般的で、原発の場合は40年以上も当たり前だ。その間当然リスクを見込んでるんだけど、変化が急激すぎてそのリスク範囲を超えてしまっていている模様。
これは時限爆弾みたいなもので、実はちょっとヤバいと思われる。
電源関係の投資ってかなり安定的な投資と見做されてる影響で、年金など公共性の高い投資商品に基礎的なものとして組み込まれていることが多く、吹っ飛んだら電力関係だけじゃ済まないと思われる。
そしてここが不安定なので、従来型の大規模電源開発に投資が集まらない状況が続いている。
環境 テロリスト 団体はESG投資の結果だとか宣伝するし、それに呼応するように原発 村の盲信者 関係者が陰謀論じみたことを言ってるけど、実際には経済的なリスクが大きい一方で、利益が少ないことが要因だと思われる。
もはや後戻りができないぐらい進んでしまっている。この流れは止まらないだろう。
ただ、各種のデータを見ると本当にこれで電力の安定性大丈夫なの?と心配になるんだが、進んでいる源が経済という祟り神なので止めらんない。すると安定化する方法はそれに対応する電源開発なり大規模蓄電なり水素・アンモニア製造するなりしかないと思われる。
実は、原子力発電所も、負荷変動に柔軟に対応するようなものは設計可能らしく、そういったものが出てくる可能性はある。が、投資基準は再生可能エネルギーに対してになるので、それより優位なものが作れるかはわからない。
日本は電力の自由市場の中にはいないので、急激な変革に巻き込まれてはいない。
また電力価格の決定が統括原価方式なので、例えば発電所を30年使うと設定して投資した場合、原則的に建設費などの初動費は30年間固定されて電力価格に転嫁することが認められている。
ある意味、再生可能エネルギーの固定価格買取制度によく似ているが、そちらとの違いは、稼働していない発電所の維持費も電力価格に転嫁できる仕組みであるということ。
例えば原子力発電所で再稼働出来てない発電所は多くあるが、発電して無くてもそれらの費用は電力価格に乗ってきているし、原発が稼働してない分だけ維持している旧式の火力の維持費なども当然ここに乗っかってくる。
これによって電力価格の上昇を抑え、安定化すると言う効果があるのだが、ここ15年ぐらいの急激な環境変化に対応できなくなってきているのも否めない。
ただ、制度を続けていけば、急激な市場の変化は発生しないと思われる
と、国内だけを見てればいいのだが。
既に書いたが、その国のエネルギーコストは、その国の競争力に直結する。国際競争に晒されている今、エネルギーコストが高いと企業立地などを逃すことになるので投資が集まらなくなる。
直近の動きでは原発を再稼働させようという取り組みが継続して行われている。
原発は燃料費よりも建設費・維持費がかかる。それらは再稼働しなくても電力料金に乗っかってる一方で、それに加えて燃料費の割合の大きい旧式火力を回さなければならない。これが電力料金を上げる要因になっているのは確かだ。
だから短期的には原発を再稼働させるということはあっているのだけれど、長期的に見ると、ライバルになり得る欧州が再生可能エネルギーという安いエネルギー源を苦しみながらも獲得しつつあると言う事には追従出来ていない。
さらに、欧州は環境対応を大義名分に、自分たちの有利な点を伸ばすような、再エネを使った製品では無いと追加の関税を課して保護政策を実行してくるのも間違い無い。自由貿易どこいったって思うが仕方が無い。
環境問題への対応はもちろんしていく必要があるが、今一度、エネルギーコストをどうやって下げていくのかと言う基本に立ち戻って電源の選択を考える時に来ていると思う。
その点では、洋上風力発電を巡る汚職が痛かった。かなり安い入札が行われていたのに、なんだかんだと理由を付けて不可とした。
その結果、国内の商社と組んでいた海外の電源開発会社が投資を引き上げちゃったんだよな。
せめてそういうことは二度と無いようにしたい。
n=2までは無数にあるのに、 n≧3を境にして全然ありませんということが驚愕なのか、それとも、 u^p+v^p=1 という楕円関数は有理格子点を通過しないことが驚愕
なのか分からなくなった問題である。数学の定理では、 「確実な真理同士の一見無関係性」が美しさの重要要素と説明されているが、フェルマーではその性質が分からない。二次元平面上
には有理数格子点が存在し、楕円関数として扱うことで、しかし、 n≧3では存在しないということは、「確実な真理同士の一見無関係性」が言えていないのでその方向からは証明できない
のではないか。志村五郎や谷山豊、ニックカッツ教授などが、無限降下法という2000年前からある手法を断念してこちらの方向から検討した結果、実り豊かな理論が得られることになったのも
時代の風潮だったのだろうか。
まずは『みんな自分にマウントしようとしている(思い込み)』問題から解決やな
増田はよっぽど、好きなこと禁止 or 否定されてされて生きてきたんやろな
あと、これすごく思うことなんだけど、自分以外の何かになろうとは思わない方がいいよ
いろいろ否定されて・いろいろな事情に拘束されて、自信をなくして、
外でウェイウェイやらないキャラになったとしても(過去もウェイウェイしたことなくても)
陽キャDQNは陽キャDQNで生まれついての性質、オタク気質も生まれついての性質
性質が外向いている人は、いわゆるオタク趣味って言われるコミュニティに居場所はないし、
無理矢理そういうコミュニティにいてもまったく楽しめないから、
数えることを学ぶときに無限に遭遇し、永遠に数え続けることができることに気づきます。
それほど独創的な観察ではないですが、いつでも1を足してさらに大きな数を得ることができるため、数えることに終わりがないことが、無限の重要な性質です。
無限にはさまざまな種類があるため、それほど単純ではありません。 1、2、3 などの自然数の量は「可算無限」と呼ばれる最も単純な種類の無限にすぎません。
正式には、自然数から他の集合への1対1の写像(注: 勝間さんではありません)がある場合、この集合は自然数と同様に無限であることを意味し、同じ種類の無限です。
実数の場合、その写像が存在しないので、より大きな無限となります。
さて、無限に演算を定義するとどうなるでしょうか。無限大に1を加えても無限大になります。自然数のある数を無限大で割るとゼロになります。
つまり無限大に1を加算すると、結果は同じ種類の無限大になることを意味します。
これらの関係を方程式として記述する場合には問題が起こってしまうことがよく知られます。
無限大を無限大で割ったり、無限大にゼロを乗算したりする場合はさらに意味不明になります。
実際には数学者は無限に対処する方法をよく知っています。ただ注意しなければならないのは、その無限がどこから来たのかを追跡することです。
たとえばxが無限大になると無限大になるx squareのような関数があるとします。
無限大がどこから来るのかがわかっていれば、もう一方から1を引くこともできます。
たとえば、1/イプシロン、1/イプシロン二乗、イプシロンの対数などの用語がある場合があります。
しかし2つの項が同じ無限大であり、イプシロンの同じ関数であることがわかっている場合は、数値と同様に加算または減算できます。
物理学では通常、これを行う目的は計算の最後にそれらがすべて互いに打ち消し合い、すべてが理にかなっていることを示すことです。
したがって数学的には無限は興味深いですが問題はありません。数学に関して言えば、無限をうまく処理する方法を知っています。
数学的な意味で存在します。つまりその特性を分析してそれについて話すことができるという意味です。
科学的には、観察を説明する必要がある場合にのみ、自然理論の要素が「存在する」と言えるからです。
そして無限を測定することができないので、観察するものを記述するために実際には無限を必要としません。
無限大は測定できないという問題は、ゼロの問題と密接に関係しています。
たとえば、点の数学的抽象化を考えてみましょう。物理学者は点粒子を扱うときに常にこれを使用します。点のサイズはゼロです。
しかし、実際にサイズがゼロであることを示すには、無限に正確に測定する必要があります。
したがって、測定精度が許容するものよりも小さいことしか示せません。
宇宙や時空のような一見無害なものであっても。空間の数学を書き留めた瞬間、そこにはギャップがないと想定します。
無限に多くの無限の小さな点で構成された完全に滑らかな連続体であると仮定します。
数学的にはこれは扱いやすいため便利な仮定です。そしてそれはうまく機能しているようです。
それがほとんどの物理学者があまり心配していない理由です。彼らは無限を有用な数学的ツールとして使用しているだけです。
おそらく物理学で無限とゼロを使用すると間違いが生じるのは、これらの仮定が科学的に正当化されていないためです。
そしてこれは、宇宙や量子力学の理解に役割を果たす可能性があります。
ジョージ エリス、ティム パーマー、ニコラス ギシンなどの一部の物理学者が、無限を使用せずに物理学を定式化する必要があると主張したのはこのためです。