はてなキーワード: 寛解とは
寛解なんてするわけないやん
ボーダー女性って彼氏に試し行動しまくって少しでも気に障るとリスカで血の海作るし普通に殴る蹴るの暴行を加えてくるわけだけど、若い内はセックスという吸引力で理解のある彼くん達を吸い寄せて使い捨てながら寄生生活できるんだよ。
でも歳重ねてセックスの吸引力が減ると理解のある彼くんが捕まらなくなってきて自ずと生存戦略としての社会適応が求められてくる。
そこで男に頼らずに生きていく力を習得出来なかったボーダー女性は淘汰されて実家の置物になったりあの世の住人になったりするし、運よく結婚して出産に漕ぎ着けたボーダー女性は母性に目覚めて寛解するパターンを引けた場合に一転勝ち組になったりする。
また、単純に加齢とともに体力が低下して昔の様に暴れられなくなって寛解するパターンもあり、これが一番よく見られるパターンのようにも思う。
しかし、これらいずれの道でもなく中年を迎えてもなおバリバリのボーダー女性として生きていけてしまう女性が稀に存在する。
特別美人だったり、特別秀でたスキルやタレント性を有しているタイプのボーダー女性がこれにあたる。
このタイプは若い頃と殆ど変わりなく彼くんを使い捨てながら中年期を過ごすことができてしまう、が故に、このタイプはそのまま老年期に突入してしまうのだ。
流石に老年ともなると彼くん達も寄り付かなくなり、自立精神も能力も涵養できなかった彼女達は我々が観測できない世界へとひっそりと消えていくのである。
鬱病は中学2年生のころに発症し今も続いているが、明確な原因があって患ったというか、なるべくしてなった。鬱病になる素質が生まれつきあったと言うほうが納得いく。
鬱病は誰にでもなりうる病でるが、なりやすさは人の性質によって異なるだろう。どうやら自分はなりやすい人の中でもかなりピーキーな”生まれつきの鬱病予備軍“だったのであろう。
これに関しては、受け入れるしかない。困るのは自分の性質上、一回発症したら一生付きまとう可能性が高いことだ。実際2〜3年の周期でかなり鬱が悪化し自殺未遂で入院までした。幸い閉鎖病棟の生活は人間関係に恵まれかなり回復して退院できたのは良かった。
むしろかなりスマホもパソコンもなかったのに楽しくて今でも退院のときすごく寂しかったのを覚えている。調子のいい時期は、負の感情に晒されることが少ないとき。
ストレス耐える。これができない。普通以上につらくて感じてしまう。初就職の前職では1週間で鬱病が悪化し、辞職することになった。入社3日目あたりから職場や家、食事のときもまったくリラックスできず、動機と息切れや怒りが収まらず嫌なことがひたすら脳内に、意思に関係なく四六時中反芻される。
抗うつ病薬のおかげで朝だけは無の感情でなんとか出社はできたが、怖すぎて言葉や声を発することができなくなったこともある。
私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えない質素で見映えの悪い物ばかりだった。
友達に見られるのが恥ずかしくて、毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。
ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
すると確に海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし彩りも悪いし、とても食べられなかった。
家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。
私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので
「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく言ってしまった。
そういえば、母は食べ物関係のジョークを一切許さないのだった。
私は涙目になっておとなしく部屋へ戻った。
それ以来、母は相も変わらず質素で見映えの悪い弁当を作り続けたが、私はそれを捨てずに、食堂で食べるようになった。もしそれが見つかったら、殺されるかもしれないから。
母のゲンコツは体が弱い人から繰り出されたとは思えないほどのパワーだった。後から知ったが、母は私が知らない病気を患っていたらしい。
そして、私が知らなかった母の病気とやらは、私が高校に入った辺りで寛解してしまった。
母はまだ弁当を作ってくれたが、見栄えは相当によくなり、キャラ弁なんかも登場し始めた。友達には結構好評だった。
高校卒業間近のある朝、母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
その刹那、中学生の頃の周りを気にしてやらかした愚行と、反抗期特有の親への反抗、そして視界が揺らぐほどガツンと響いた母の鉄拳制裁と、いろんな記憶が脳みそを駆け巡ってきた。
私は、クッションに顔を埋めて、手足をバタバタさせてのた打ち回って、ようやく「あの時はごめん」と声を絞り出した。
母は涙を浮かべて「良いんだよ」と言ってくれた。
入っていた海老は、あの時と同じ殻剥きがめちゃくちゃで、彩りも最悪の腐りかけた海老だった。
これで何度目か。
二十歳の時に親がリストラされ、学費を払えないと言われ私立の大学を辞め、バイトで金を貯め+4で別の公立大学に再入学した。
教員免許を取って27歳から非正規で教員を始め、1年経つ頃に過重労働とパワハラでうつ病になり1年引きこもる。
その後寛解し非正規で様々な仕事するが結局教員に戻り10年くらい非正規で勤める。
採用試験は毎年受けて、模擬授業は得点開示でも高得点で休憩時間に他の受験者に質問攻めにされる事も有った。
実際に授業は生徒にも同僚にも評価されている実感が有る。
面接も論文も対策を重ねて目立った失点は無いハズだが、比重の大きい面接で毎度有り得ないくらいの低評価。
経験者は筆記試験が免除されるが、敢えて受けた年は8割以上の得点率だった(合格ラインは5割程度)
とにかく、受からない。
仲の良い管理職から「君の経歴だと余程じゃないと受からない」と聞いた事も有る。
酷い模擬授業をした新卒者が合格して、自治体の研究会で再会する事も多々。
自分と同じように前線で活躍する30代、40代で教員採用試験に落ち続ける人を数多く見てきた。
そうした人たちが教員を辞めたり気力を失って堕して行く姿も数多く見てきた。
自分はそうならないとどこかで思っていたが、もう自信が無い。
40代の非正規の教科主任が新卒者や再任用の爺さん婆さんのサポートをしている姿を見て、有り得ねーと思っていたが自分も近い内にそうなりそうだ。
https://anond.hatelabo.jp/20191003175753
お久しぶりです。
2019年に書き捨てたこれを久々に見たらブコメその他が暖かくてうれしかったです。ありがとう、今でも母とは仲いいです。
当時は返信の仕方?とかわからないので書きっぱなしで失礼しました。あの後も半年に一度の血液検査+尿検査を実施して悪化していないことが確認できています。
そんな増田が妊娠出産を経験したので同じ思いをしているかもしれない増田のために書いてみんとす。
当時の口調がちょっと幼くて恥ずかしいな、とは思いつつ。
寛解が2019年で、病気になったのは2016,7年でした。私の腎臓病の発症は高熱を出して血尿が出てから?なので、引き続きノロやインフルにかかって高熱を出さないように気を付ける生活を送っていました。(コロナももちろん怖かったです)
定期検査の時に「妊娠したらどうしたらいいんでしょう?」と大学病院で主治医に相談していて、「うちで出産でしょうから妊娠したらまた教えてください~」とは言われていたので、妊娠したらダメなほどの症状でもないようでした。
実はこの時は心拍が確認できなくて、8週まで粘ってみたけどダメで手術をしました。そしてさらに2022年妊娠。先にネタバレするとこの子が無事に生まれます。
この時は町の産婦人科にかかっていて、腎臓病の持病があって出産は指定する大学病院でしたいですと伝えたところ「そっか、じゃあ安定期に入るころにでも紹介状でも書こうか」と言われていて、のほほんと過ごしていました。
腎臓病の先生も産むときはうちでとしか言わないし、産婦人科の町の先生もまぁじゃあ後期まではうちで見るねと言っていたので、あんまり問題ないのかな?と思っていたところ、安定期に入る1か月前にちょうど腎臓の定期検査があったので主治医に報告して「いつごろから移ったらいいですかね~?」とのほほんと尋ねたところ、「え!?じゃあすぐにもう見ますよ!妊娠高血圧症候群の高リスク妊婦ですからね!」と慌てられて、思っていた温度感の違いに驚きました。すぐに産婦人科に連絡して翌日には紹介状をもらい、腎臓内科からも産婦人科へ紹介状を出してもらって2枚の紹介状を持ってその大学病院の産婦人科へ。
なので結果的には妊娠4か月から大学病院で妊婦の定期健診の度に産婦人科と腎臓内科をはしごするようになっています。1か月ごとだったかな?
やってる内容は妊婦検診と変わらないので町のお医者さんでもできることだと思いますが、それ+毎回血液検査もしていました。
腎臓病の妊婦はほかの妊婦より高血圧になりやすいとのことで、毎朝晩血圧を測って記録をつけていましたが、私は最後まで高血圧にはならず。
その代わり特に何をしているわけでもなかった(大学病院に早くから行かされるくらいには健康優良妊婦とは自分は違うのだろうという思いで食生活にも気を付けていました)のに、糖尿病検査で引っ掛かりました。
この辺は関連性がわからないです。
糖尿病の人は腎臓病になりやすい、というのは調べたら出てくるけど逆はあんまりない気がして…遺伝でもないはずなんだけれど…。でも結果的に再検査をしても血糖値が高く、妊娠糖尿病は確定、この検査後から大学病院で回る科に糖尿内科がプラスされるようになりました。3科回るとなると朝いちばんに診察に来ても終わるの1,2時になっててけっこうしんどかった。
結果的に軽い糖尿?だったのでインシュリンを打つまでには至らず、とにかく食事管理、また運動で様子見をすることになり、妊婦でおなかはすいているのにウサギの餌のような量や献立をずっと食べていました。このころの記憶はとにかくひもじかったかな。
例えばコンビニおにぎりの量でいうと血糖値的にたんぱく質の摂取量が多すぎるらしく、ご飯の量はそれの半分、片手のひらに載る程度のサラダ、そして焼き鮭の1/3切れ。
でもまぁ、子供のためを思えば…と我慢はできるものの、ずっと文句は言っていました。中で聞こえていたらごめんだけど、普通にストレスで…だっておなかすくんだもん…。
だからだろうけど、妊娠前150センチ52キロだったのに、出産のときは58キロで全然体重は変わらなかったなぁ。こんなに体重増えなくて大丈夫?と思うけど、おなかの中のエコーで大きさは問題なかったので、OKとのことで。また医学的には体重が増えすぎるよりはキープのままのほうが全然いいらしい。
妊娠糖尿病の子供は大きくなりやすいと言われていて、私も臨月のエコー検査と経腟検査では「3500以下ではあるけど3000はあるかな?大きくなる前に出てきてほしいけど初産だから予定日超えるだろうな~」と言われておびえていました。
私自身がチビなので骨盤粉砕される…!とおびえていたけれど結果的に生んだのは2780gのど平均の下のほうといった女の子でした。
出産後3日くらいまでは血糖値も測り続けていたけれど、産んでからは一気に平均値に戻り、食事制限はなくなりました。とはいえ大学病院のごはんは個人的にはおいしいとは思うけれど、やっぱり薄味かつ量が少なくて…よくある豪華なフレンチのお祝い膳を夢見ていたけれどそんなのはなく、結局産んでからもひもじい思いをしながら、お散歩で院内のタリーズでココアを飲んだりするくらいがごちそうでした。
子どもは何の問題もなく(実は回旋異常で分娩時間は35時間超えで苦しい思いはしたものの、それは腎臓病にも糖尿病にも関係はないはず?とのことなので割愛)、元気にすくすく育って今1歳半です。よく食べてよく寝、今はふらふら歩くのがマイブーム。
産んで半年後からは大学病院の検査も半年に一回に戻り、今も数値の悪化等はありません。よかった。
なので結果的には腎臓の数値は妊娠出産を経ても悪くならず、血圧も普通のまま、糖尿もインシュリンを打つほどではない数値で産後は完治。
ほんこれ。
働いてメンタル壊して仕事やめてようやく寛解した奴に仕事させようとしてる奴がブクマカにまで散見されて地獄みある。
俺が社不気味なだけだから元増田に理解ある(と思ってる)けど、なんとか働けてる奴ともう駄目になった奴って近いようで凄い深い溝があるよな。
「働きたくない」の色も形も違くて、歯を食いしばればなんとかなるけど働きたくない人じゃなくて、働いてたけど精神壊したから働きたくない人に働いたほうが楽だよとは俺は言えねえわ。
中学でメンタル壊して10年引きこもった俺が何とか必死に生きようと頑張って病院行ったり仕事してみたり頼れる制度ないか探してみた結果がこれ。
生きる気力が削がれてしまう。そもそも金無さ過ぎて生きていけないんだけど。
まあ制度の公平性や福祉としての在り方を考えれば理解はできなくないけど、それでもいくつか不条理を感じたのでいくつかまとめてみる。
障害年金は基礎と厚生に分かれるが、どちらに該当するかは初診時にどちらに加入していたかで決まる。
厚生年金に加入していなければ基礎になるわけだが、当然20歳未満や学生のうちに発症すれば問答無用で基礎となる。
で、ここからが問題だが厚生には1~3級があるが基礎には1級と2級しかない。
ざっくり1級はほぼ寝たきり、2級はサポートなしでは日常生活が送れない、3級はサポートなしでは労働ができない程度の障害者が認定されるらしいが
基礎には2級までしかないので、障害を押してでも頑張って働く人間は「労働ができる」ために年金が支給されないのだ。
当然、働いて十分な賃金をもらえていればそれで問題はないのだが、障害を抱える人間にとってそれは至難の業だ。
厚生であれば3級で月5万円ほど貰いながら時短で働くなど選択肢があるだろうが、もらえなければフルで働くしかない。
結果無理がたたって休職や退職になり生活が苦しくなり、療養期間中も金銭面の心配で心が休まらず、そして金のためにと無理して就職してまた潰れる。俺みたいに。
たまたま若いうちに障害となって長く苦しんできた人間が不利になる制度ではないかと思う。
上記と一部被るが、障害基礎年金は「労働ができない人間」が貰えるものだ。
一方、失業手当は「労働する意欲と能力がある人間」が求職中に貰えるものである。
疾病や障害が原因で退職した者は失業保険を申請する際、支給条件の緩和と引き換えに労働に問題がないことを証明する主治医の意見書の提出が求められる。
当然この2つの条件は矛盾するので、両方を受け取ることは不可能だ。
ここまでは実に合理的な話だと思う。
そして障害年金は申請まで1~2か月、審査が終わるまで3か月、支給決定から支給まで1か月半ほど、合わせて長いと半年以上かかり尚且つ支給されるかは不明瞭だ。
しかしながら支給も早く確実性の高い失業保険をもらってしまえば年金が貰えないのである。
無収入の時間を耐え、わずかな希望を年金にかけていた人間が不支給の通知書を見た時の落胆はそれはもう堪えるものである。
年金申請の手順はまず初診日を確定させ、これまでの年金の未納がないか調べ、診断書をもらい、添付書類を集め、申立書と申請書を書き提出し、
年金機構から問い合わせがあれば対応し、その末審査されるものだ。
正直煩雑で辛かった。
そもそも働けず日常生活もままならないから年金を申請しているのになぜ仕事よりも大変な作業をしなければならないのか。
俺はなんとかできたからまあいいものの、おそらくこの作業ができなくて申請にすら至ってない人が相当数いると思う。
まあ社労士に依頼すれば個々の労力はほとんどいらないわけだが、さんざん言っている通り金がない。
成功報酬は支給される年金から出せるとしても、そもそも着手金の数万すら捻出できないのである。
つらい。あまりにつらい。
ここまで書き連ねて思ったが、この制度は重度の障害があり自分の代わりに動いてもらる支援員やサポートできる人間、後見人などがいる人たちのためのものではないだろうか。
つまり俺のようになんとか短期間なら働くことができなくもなくて、煩雑な申請作業もできなくはない人間は端から対象外なのではないかという気がしてくる。
そう考えるとなるほどどうして、このプロセスは審査前に非該当の人間を振るい落とす「一次審査」として機能しているのではないか。
だったら俺みたいな疾患の人間は対象にしなければいいと思うが。
寛解したと思ったら10年以上前の古傷のせいで念願の仕事に就いたのに辞めざるを得ない状況に追い込まれ、何とか希望を見出して頑張った結果がこれ。
収入源はFXで窓埋めだけして年20万近く稼いでる以外は一切ない。貯金を食いつぶしてる。
家賃は6万。家賃含め、生活費は毎月13万ぐらい。打つ呑む買うは一切しない。
リュックを背負って歩いて業務スーパーまで行き食材を買い、面倒くさがり屋なので大きめな冷凍庫にミールプレップを作り置きしてる。まとめて3日分作ってる。働いてる時は精神的に余裕がなくて自炊なんて出来なかった。
今は早朝にランニングしたり、懸垂したり、部屋の掃除や包丁を研いだり(友人から貰ったダイヤモンドペーストで鏡面磨きするのがマイブーム)、図書館で借りた本を読んだり、N予備校でWEBプログラミング講座を受講したり、時間だけはあるし高卒なので放送大学で勉強したりしている。
「働くよりニートしてる方が辛い」
みたいな事言ってる奴いるけど、今年でニート三年目になるがマジで何も辛くないし、のんびり過ごせて心の底から生きてて良かったと思える。自分の生活を自分でコントロール出来ている感覚は人間に幸福をもたらす事をじっ感した。本当に、働いてたほうが圧倒的に辛かった。
働いてた時は定時で帰れたが、仕事のためにだるい身体起こして、疲れ切って帰ってきて明日の仕事のために準備して早く寝る、精神的な体力のない俺にとっては、8時間勤務といえども家に帰っても休んだ気がせず平日24時間勤務と遜色なかった。
アフターファイブを楽しめる能力のない俺にとってのアフターファイブは24時間勤務の中の仮眠時間のようなものだった。
働いてる間、ずっと生きた心地がしなくて、とうとう不安障害を発症した。
予約三ヶ月待ちの末、精神科の扉を叩き、ワイパックスを処方されて抗不安薬に依存するようになった。抗不安薬の量だけ増えていき何も改善しなかった。ある日、発狂して有給をまとめて取りそのまま仕事を飛んだ。一般的に拘束時間も少なく、人間関係も穏やかだったので、たぶん職場の人達も困惑したと思う。俺はもう限界だったのだ。横一列でスタートして、すぐに躓いてる、どこにいっても上手くいかない人間は皆誰しも1人ぐらい思い浮かべられるだろう。仕事を全く覚えられないし全くできないからポンコツで、大人しくて、つまらない奴、それが俺だ。仕事が、社会生活が、気が狂う程辛かった。苦しかった。
ニートしてから不安障害も寛解して、精神科のお世話になってない。なんなら病院の世話にもなっていない。年に一度、市の歯科検診で歯医者に行くぐらいだ。
ただ、貯金残高の残りから計算して、ニートをあと2年も出来なそうで、また働かなくちゃ行けないことを考えるだけで具合が悪くなる。社会が怖い。働くの想像するだけで何も手がつかなくなるような不安を感じる。
もう30前半で空白期間三年以上あるため、再就職も絶望的だろう。素直に働きたくないのだ。また働いてた時のあの感覚がトラウマで、一種の学習性無力感を感じる。
たぶん俺は生活保護を受けても貯金出来るので、生活保護を受けながら生活したい。余ったお金は償還しますので。
ま、こんな感じで、働いてない方が幸せを享受できる人間も一定多数いるっていうのが言いたいのと、働かなくても最低限度の生活を享受できるライフハックをお持ちの方がいたら是非とも共有して頂きたい。
この世の中を色々な重荷を背負いながら過ごしてきた毎日は、きっと簡単には想像も付かぬくらい厳しい毎日だったのでしょう。
さて、自分の置かれた環境を自覚すると、その環境に反発したり、逆にありがたく感じたりと、
そうした感情については無理にまとめたりせず、そういうものだと思ってお過ごしください。
歳を重ねる度にそうした事柄をどこに納めればいいかなんとなく分かってきます。
苦しい時は目の前の1日を乗り切ることだけを目標になさってください。
今回のように人の意見を募りながら、社会に上手く寄りかかりながら、
その分をお仕事で社会に還元しながら過ごしていければ満点、何もいうことはないと思います。
例えば娘が
「パパ、お話があります、妊娠しました、学校辞めて彼と同棲して育てます、いずれ結婚します」
「バカかおめぇ、堕ろして学校続けなさいボケ、厚労省の調査で17歳妊娠の女子が相手と30歳まで関係が続く確率は4%しかない(嘘)、無理だカス、アホな夢見るなトンマ、今度からちゃんと避妊しろエロ、無責任なチンピラと付き合うなバーカ」
「じゃぁ出ていく、ター君と二人で頑張るもん、自分で責任取るもん」
「いいけど一切の援助はしないよ、生活も子育ても自力でやるんだよ、ママも同じだよ」
「ぷいっ」
で、さ、案の定、出産する頃にはター君バックレ、シンママ、どうしようもなくて戻って来る
「パパごめんなさい、私が甘かったです、パパの言う通りでした」
ここまでは納得してもらえるかしら?おおむね同意を得られると思う
俺酷くないじゃん?自己責任じゃん?娘アホじゃん?
大人が自分で人生の決断をするのだから親とて干渉するような話ではない、好きにすりゃいい。
とはいえ、「自分で責任を取って」もらわんと困るわな、大人なんだから余計
で、話は変わる
それはいいんだが
親父よ、たー君、どーすんの
ヤカンに水入れてお湯も沸かせない親父を誰が面倒みるんですか?
若い頃脱サラして事業起こして、そこそこ成功して好き勝手生きて、事業売却してリタイヤ
傲慢で鬱陶しさ指数240%、口から皮肉と愚痴と説教しか出てこない団塊世代、
喋る内容だけではなく態度も鬱陶しいから100%超えちゃってるの。マジクソ。
これどーすんの、
あなたが生涯の伴侶と決めて責任取るつーて結婚したわけじゃん?
なら責任取れよ、まぢで
親父が死ぬまでお湯沸かしてあげなよ
かーちゃん先に死んでどーすんの、ばっくれか?
家事一通り自力で出来る程度の教育しなさいよ、半世紀も時間あったんだから
周囲の人間に好かれる人間性、立ち居振る舞い、処世術、ちゃんと仕込みなさいよ
なーんもしてないじゃん
散々甘やかしてこーゆー人格に育ったわけじゃん
無責任にも程がある
ちなみに親父は若い頃の不摂生を60過ぎて猛省し今は超健康優良児
誰が面倒みるの?
妹は1000km離れた島に嫁いでる、ばっくれやがった
ガイジンの嫁に、信号機のない横断歩道で蹴っ飛ばしてみてはどうかと相談したらブチギレられた。
で、嫁は、「私が面倒みる!」とかいいだすし、家族愛、結構なこった
キミは親父のクソ面倒臭さを知らない
つても嫁は8年間親父の会社でバイトしてたから嫌というほど知ってるんだが
無慈悲な妹と違い俺は実家からチャリで5分のところに住んでいる
これが裏目に出た
ストラテラを服用するようになって4年半、気がついたら短期記憶の弱さは大きく改善されていたし、
おまけに弱腰のビビリな所もなくなり、ちょっとやそっとの注意や叱責も必要以上に凹まず…ということで、
あとはこのまま残りの人生もやっていくつもりだったが、今春諸事情により転院(もちろん円満に)した結果、
新しい主治医が3ヶ月目の問診で、インチュニブという薬を追加で服用してみないかと勧めてきた。
この3ヶ月診てきて、生活に支障が出るレベルの衝動性があると見なされたようだ。
一番の問題点は「待つ」という選択肢が取れず、それが色々と人生に悪影響してそうであると。
それでお盆休みになったタイミングで飲み始めたのだが…これがかつてのストラテラを上回る効果を発揮してしまった。
列挙するとこんな感じ。
そして何より決定打だったのが、趣味で幼少から続けている楽器で、今取り組んでいる曲(一応、音大受験レベル)を
さらい始めた初期からずーっと注意され、それでも身につかなかったスキルが、突然体得できてしまったこと。
これはもう、落ち着いたまま静かに集中しないとできないことが、薬の効果でできるようになったとしか思えない。
最低処方の2mgでこれだけ物凄い変化なのだから、これから量を増やしたらどうなることやら。
本当に、冗談抜きで薬ってすげーというか、努力でどうにもならないことも可能になる現実に言葉がない。
まあ、自分が努力でカバーできるほどは頭が良くないといえばそれまでなのかもしれない。
実際大昔測ったIQは112、一応お利口さんの仲間には入れてもらえるが、間違っても天才や秀才ではないレベル。
その意味で、こうした薬の副作用が強く出なかったのは運が良かったと思う。
もちろん、20年30年経って何かとんでもない問題が起きる可能性は否定できないが、そんなのどの薬も一緒だろう。
これは暴論かもしれないが、その分良い思いできたんだからそれでいいんじゃね?っていう。