はてなキーワード: 職能とは
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
若さがなくなり、就職できないようになってしまったとはこれいかに。
っていう話ではなく、自分のやる気の無さや勇気のなさに自分でいうのもあれだけれどことごとく呆れ返っている。
なんでやる気がでなかったのかというと、就職をするための知識とか履歴書にかけるようなことが要は何もない。
普通、自分ぐらいの年齢になればある程度の社会経験があり、ある程度の職能を得、履歴書に書ける程度の経験があると思う。
しかし一方自分はというと、なんの取り柄もなくただ社会が怖い者として生き、たまに資格を取ってみようかなと思っては勉強に挫折してふて寝をし、
唯一続いていることといえば匿名インターネットだけで、なんの技術も持たないでいる生きているゴミだ。今だって誰だってできるアルバイトでなんとか暮らしているだけだ。
コロナの前に「こんなことではいけない」とハローワークに行ったことがあるが、自分の年齢で身についている常識が全く持ってなかったの職員の人に詰問されて
トラウマになっているというのもあるだろう。
だけれどそんなことは、自分が不幸だということを誰かのせいにしたいだけの言い訳で、本当は(正社員として)就職するのが怖かったのだろう。
ただ、今はどんな会社でも雇ってくれないんだろうなっていうことを急に自覚したら本当にしょうもない人生だなとふと涙が溢れてきてしまったので、こんな増田を書いてしまっているのだ。
https://anond.hatelabo.jp/20211118140409
元アニメーターを騙ってることについては主題でなかったので軽く突っ込んだだけで見逃してやったのにわざわざ反論してきたので相手してあげます。
あれが本物の元アニメーターに見えた人達も作り話の見破り方を学んでください。
何回も言うけどお前がどんだけ無根拠なレッテル貼りをしようと普通に元アニメーターだし
何を元にアニメーターじゃないとしてるの?
別にアニメーターが特殊だとも希少だとも一文字も書いてませんよね。
「この人の絵の話は業界の匂いがせずむしろ素人丸出しなので元アニメーターではないと思う」と。
みんなここで10秒考えて考えてほしい。
本当に元アニメーターだったらこれに対してどんな反論をするだろうか?
「この俺が絵の素人だと?カッチーン!」ってなって猛然と絵についての反論をするんだわ。
「こいつの絵に関する話は素人のシッタカまるわかりw」って言われてそこに真っ先に反論しないってあり得るか?
「アニメーターは別に珍しくない。だから自分は騙りではない」 これが反論の第一声。
そもそも「アニメーターは希少だからこんな場末の便所にいるわけない」なんてことは半文字すら書いてねえ。
そんなことは言われてもいないのに「アニメーターがここにいるのは別に変じゃない!」って言いだしてるの。
「ここに元アニメーターが居てもおかしくないの!信じて!」っていう気持ち。懇願になってるの。
いやいやいや。
本物ならこんな変な懇願をしないし、それより今重要なことがあるだろ。
「こいつの絵に関する見識はシロウトだ、だから偽者だ」って言われてんだよ?
そこで応戦してボロが増えるの恐れたって可能性もあるけど
見たところかなり直情的な感じに来てるのでそういう打算でなくそこで戦う気力がない。
反論の仕方でその人の意識の置きどころや強みと思ってるところはわかるわけ。
これを知ってる人間には人狼ゲームなんかは子供のお遊戯なんだけど。
こいつは実は絵についてろくに自負も自尊心もないということはわかったよね。
あと「何回も言う」ってことはほかの人にもダウトくらってんのね。
私はそっちは知らないし関知しない。そっちは勝手にやって。
挙げられてるのはこいつと同じぐらい具体性がない伝聞調の変な文章に見えるのですが
これを「業界人が擁護してくれている!」って持ち出しちゃうぐらいに
こいつはまともに身の証を立てられない&業界人を見分ける目もないって証明してるだけだよね。
しつこく繰り返すけど、
元プロなら簡単に言い返せるし感情的にも言い返さざるを得ない職能分野でシロウト認定受けてるのにそこに一切反論せず、最後まで迂回して、
かわりに反論材料として出してきてるのがこんな書き手不明の内容ふわふわエントリですからね。
これが本物に見える?
もう釣りかと思うぐらい出してくる作品名も人名も素人臭いよね。
なによりこいつの話、「自分と接点があった人や作品」が全く出てこないじゃん。
あれあれ~?
ヘタクソに少し作り話のやり方を教えてやるとさ、
作り話はそれを模倣しなきゃいけない。
ヘタクソの作り話ってカメラがどこにあるかわかんないの。アニメも同じだけどね。
たとえばアニメーターなら、語ることは自分が朝も晩も机にかじりついたスタジオからの目線になるわけ。
こいつの出してくる話ってそういう独自のパースや好みが全くない。
出てくる固有名詞全て、
アニメに全然興味も知識もない人が知名度順に調べて並べました感の方が強い。
実際にお業界で働いてた人の語り口は絶対にこいつみたいにならない。
こいつは元アニメーターではない。
ただこれ1,2年頑張った奴の匂いすらしない。
仮に志望者だったとしてもチャレンジすらしなかった奴。
一番あり得るのはアニメーターにあこがれてるだけでスタジオに電話もせずに終わった奴でしょ。
見込み無くて机に余裕なければ1週間2週間で「辞めてくれ」ってこともあるけど。
(やる気があるならほかのスタジオ回ればいいので言い訳にはならない)
おまえが萌え豚だからアニメ内部の人間から嫌われてるのを認めたくないだけだろ
「アニメーター様は僕たち萌え豚の味方なんだああああああああ!!!嫌うやつはアニメーターじゃないブヒイイイイイイイイイイイwwww」って現実逃避したいだけな
これもさ、そんな話は一切してないんだよね。
萌え豚を嫌ってるアニメーターがいるかいないかなんて話にこっちは一切突っ込んでない。
「こいつの絵の話は素人だねえ元プロじゃないねえ」って言っただけ。
絵についての反論を早々に放棄・逃走してそこにはムキにすらならない。
ムキになって頑張る主張は「萌えオタは嫌われている!」だけ。
ね?どういうやつなのかわかってくるでしょ?
こいつが「お前元アニメーターなんかじゃないだろ」と言われて激しく反発するのは
「萌えオタは嫌われている!」という主張のパワーが減じちゃうと思ってるからなんだわ。
曲がりなりにも自分がプロとしてその仕事をやってたっていうプライドの反応が全くない。
これ説明のためにクドクド言語化してるけど、話聞いてりゃほとんど非言語的にパッとわかること。ああこいつなんか変だぞって。
「萌えアニメと作画アニメ」と言うカテゴリ分けがもう絶対素人じゃん。
そもそも「作画がすごいアニメ」として出てくるのがAKIRA(1988年 7月16日公開)て。いま2021年ぞ。
現代に生きてる人なのこれ?
1990年くらいに辞めたおじいちゃんでない限りおかしいんだよなあ。
こいつの話は自分が業界内で衝撃受けた作品じゃなくてオールタイムベストみたいなのばかりが出てくる。
近年の作品でもガンダム・鬼滅みたいなアニメ見ない人でも知ってるようなタイトルばっか出てくる。
数十年も怨念を引きずってアニメシーンのニュースを表面的にさらってる爺」
2.「萌えオタへの憎しみが嵩じてなんとか一矢報いたくなって
『せや!アニメーターから嫌いって言われたら凹むやろ!』と無謀な騙りにトライしたフェミニスト」
どっちなのかまで断定しねえけど結構後者が濃くなってきてるかなあ。
作り話の専門家としては
こいつの話はヘタクソすぎるし偽者認定に対する反論でもう間違いなく元アニメーターなどではないと確信しているけども、この判定に納得いかないオーディエンスもいるかもしれないし自称元アニメーター当人も「一方的な認定だ!」となお納得いかないかもしれない。
そもそもこんなダウトの余地があること自体こいつの不備のせいでしかない。
そこまで必死に元アニメーターだと主張したいなら言うべきことは、
「俺のいたスタジオはこことこことここだ」だとか
「〇〇年から〇〇年まで業界にいてこんな事件をじかに見た」だとか
そういうのじゃないっすかねー???
あ、ちょっとお前の現役時代の原画の数枚もアップしてくれてもいいよ?数枚ぐらい今描いたっていいよなー。
当時の給与明細でもいいや。
簡単だなあー。なあ?
ここからどうなるかっつうと
オギャギャギャー!という断末魔の罵詈雑言か無言を残して逃走するでしょう。
今回のこれについてはそもそも無謀すぎ。
何の仕事でもいいけど全く未経験で仕事語るって言うのは難しいんよ。
作り話が得意ならネタがゼロでも粗が少ない話を書けなくはないんだけど
こいつはそういう能力もないわけじゃん。
作り話を舐めてるよね。そこがむかつくんだよ。
知らないことを最低限のリサーチして守備的にシッタカぶる能力すらねえの。
これ釣りだったのかなと思っちゃうぐらいの文章なんだけどわかんないだろ?
そのままtwitterにでも貼ってどこがおかしいかその辺の豚に教えてもらってきたらいいですよ。
あと、
嫌いな集団を否定してくれるからってこんなスットコな騙りの偽者に乗っかっちゃうヘイターの皆さんもいい加減にすべきじゃね?
そもそもキモオタがキモい以外にどんな大それたことをしてるっつーのよ。
キモオタに執着して何とかいじめてやろう差別してやろうわきまえさせてやろうって頑張るお前らの方が気持ち悪いっての。
残念ながらアニメ絵のコンテンツなんて今じゃどこでもそれなり受け入れられてて大した害も証明されたことない。
強い拒否感や侮蔑感持って「あんなやつらは差別を受け入れるべきだ!日陰を歩け!昔はこうじゃなかったのに!」って頑張ってるのは日本の中高年のそのまた一部の陰キャ系同族嫌悪さんかヘイト活動家さんだけなんだよ。
その証拠にそういう議論自体がはてなやtwitterみたいな高齢異常者偏重のSNSでしか盛り上がってないじゃん。
先輩方の青春時代には「オタクなんてのはいくらいじめられても黙って耐えるべきやつら」「キモいやつは攻撃していい」が相場だったらしいことは歴史としてはわかる。けども古き良き時代は去ったわけじゃん。
先輩たちって要するに「差別反対」みたいな概念だけインストールしたけど差別欲が捨てられないんでしょ?
誰か差別して楽しみたくても現代にエ〇ヒ〇ンや障碍者をいじめて遊んだら怒られるから断念して、
「キモオタは差別してもいいはずだろ!これは権利だろ!」ってアニメ好きの豚どもがあんたらのラストリゾートになってるだけ。
「…そんなことよりあの差別していい部落をみんなで殴ろうぜ!」って露骨にやりだす自称反差別の運動家までいる。
あまりにも見え透いてるんじゃないですかね?
昨今の流れに逆らって
という話。
最低賃金が上がれば自分の給与があがる。と勘違いしてるかたがたくさんいるようですから。
※あと私、40人くらいの会社を経営していますが、ポジショントークをするつもりはありません。
単純に、最低時給上がるとこうなるよ。という話です。
とはいえ実際に雇用者側ですから、そのあたりを考慮して読んでいただくのがよさそうです。
➤既に雇っている1500円以下の人の給与上げなきゃいけませんから、当然ですね。
➤失業者や生活保護受給者が増えますから、もちろん政府の社会保障費は増えるでしょう
➤あくまでも生産性が低い方に限られる。というのがミソですね。。
さて、誰が得して誰が損するのでしょうか。
この提案を推し進めているのは、このルールができたら得する人なのでしょうね。
[補足]
私は生産性が高くちゃんと働いてるのに収入が最低時給以下なのである!
という方もいらっしゃるでしょう。
そういった方は、ご転職なさるとよいと思います。仮に転職しても給与が上がらなかった、あるいは転職活動をしても内定がでない。
という方はつまり「生産性が低く自身の生産性よりも収入の方が高い」という状態にありますからそのままでいるほうがおトクかと思われます。
➤生産性の低い(または単価が安い)仕事を他の人に任せられるし、生産性が低い人の給与にも余剰ができますからね。
➤働いた分だけ給与がもらえる状態ですが、生産性が低いのでまぁ減りますよね。
➤特に最低賃金に満たない生産性しか持たない人にとって就業機会が間違いなく増えるでしょう。
高齢者や学歴のない方、障碍者等の社会的弱者といわれる方々にも直接的な就業機会がやってくるでしょう。
収入は少ないでしょうが、まったくないよりいくらかマシそうですね。
➤生産性の低い人の収入が減少すると同時に、生産性の高いひとの収入は増えるでしょう
➤働くひとが増えて、安い労働力も増えて、出来る人の収入があがりますから、当然ですね
➤仕事の生産性が収入に直結するルールなので、これも当然ですね。
さて、改めて見直してみると。最低賃金が上がった場合はデメリットだらけで得する人は一握りである一方で、
最低賃金を撤廃した場合はメリット沢山でデメリットは少な目に見えますね。
もし、最も重大なデメリットである”低パフォーマーの生活困窮”に対して社会保障でお手当できれば、最低賃金を撤廃したほうが社会全体にとっておトクに見えそうですね。
例えば、
実際の時給と基準時給1500円の差分を社会保障として給付する。というのはどうでしょうか。
結構お金がかかりそうなものですが、時給1500円以下の人たちが全額生活保護&雇用保険よりも、いくらかは足しになりそうですし、さらに企業内で就業機会や教育機会を得られて一石四鳥くらいじゃあないでしょうか。
また、GDPや税収に対しても好影響があるでしょうから、減税とセットでできれば完璧ですね。
ということで、「最低賃金を上げよ」という議論は、大企業の労働者が加入する労働組合が推し進めることになったわけですね。
だって生産性低いままで給与増えるし、労働組合が強いから最低時給以下の働きだったとしても辞めさせられることはない、そんな安全圏にいるんだもん。そりゃ最低賃金あげろー!ってやりますよ。
ただ問題は、この報道に対してなぜだか「自分の給与が上がる」勘違いしている方々、あるいは社会全体の富が増えると勘違いしている方々など、最低時給が上がったら損してしまう側の立場の人たちが最低時給アップに賛成してしまっているってことなんですよね。
賛否あれど、はてな民にも同様の問題意識があってすごくうれしいです。
➤社会に富を還元できない企業は滅びるべきであるという意見でしたら心の底から同意します。
しかし問題は、潰れたことで失業者が発生し、そのうちのほんの一部に時給1500円以上の生産性を持たない方がいることなのです。
最低時給を設けることで、残念ながらその方々の転職は叶わないでしょう。
最低時給さえなければ低い賃金からかもしれませんが職にありつき自身の労働資本を増やしていくことができたはずなのに。
最低時給は企業をターゲットにしているように見えて、実は弱者がターゲットになってますよ。ということです。
➤正直私もそう思うのですが、悲しいことに時給1500円以下の仕事にもつけない方々が日本にはたくさんいるのです。
そういった方々も、しっかり働けて自身のスキルアップに取組めるような社会になったらいいよねと思います。
そのためには、時給1500円以下の労働力しか持たない人もちゃんと就職できるようなルールにしたらよいのでないでしょうか。
そう、最低時給を撤廃するのです!
同時に雇用がより流動的であれば、企業間での競争によって生産性が高い方の収入は増えるでしょうから、賃金と雇用はより流動的である方が望ましいと思います。
最低賃金があると、賃金格差を付けにくくなるわけですから、賃金の自由度が下がり生産性が高い方の給与をあげにくくなるでしょう。
➤資本集約型であっても、収益性が高くても、賃金以下の働きしかできない方が雇用されることはないでしょう。
営利企業が、資本集約型ビジネスであることを理由にあえて収益マイナス人材を採用することは考えられません。
一方で、最低時給がなければ、すくなくともそれらの方々を雇用し教育するインセンティブははたらくのではないでしょうか。
※今回の投稿は私の会社について語っているのではなく、一般的な話をしているのです。ということだけお断りをしておきますね。
➤これはその通りですね。企業の収益性を高め、働く人の生活/収入、あるいは能力を上げていくことは経営者の一番重要な仕事だと思います。
ところで、今回の投稿ですが「会社の生産性の良しあし」ではなく「最低賃金アップによる経営判断の変化およびその影響」
といったところなのです。
さて、一般の労働市場において、最低時給以下の労働力しか持たない方々はどのように自身の労働力を売ったらよいとおもいますか?
時給1500円以上の価格で売らなくてはいけないという価格制限が付いてしまいますから、弱者に対して極めて非道なルールだと思いませんか?
➤上記の議論には全面的に賛成です!一方それを最低賃金で実現しようとするのは乱暴すぎやしませんか?
でしょう。3点目の社会に対して貢献できていない企業が潰れる分には問題なさそうですし、生産性の高いプレーヤーは転職してくれ。という話になりますね。
一方で1番の「時給分の働きができない人は失業してくれ」というのはあまりにもヒドイ話です。
賃金アップによる消費の増加と"最低"賃金アップによる消費増加は分けて議論する必要がありそうです。
失業者をへらさずに労働者全体の賃金があがる政策には賛成です。
ところで、最低時給を撤廃したら今まで働けなかった人たちが職にありつけますから失業率が低下し賃金の総額は増えそうですね。
➤他の方が指摘するように企業は高額な人件費を削ろうとして自動/IT/効率化を進めるでしょう。
一方、IT化によって職を追われた方々は、最低時給があるばっかりに新しい仕事に就けなくなってしまいますね。
最低時給がなければ企業に就職し職能開発の機会を得ることができたはずなのに。
2:時給1000円(+給付金500円)で企業内で職業訓練が受けられる
ほんとうに1番の方が良いとお考えなのですね。悲しいなぁ。
➤これはその通りですね。なので雇用をもっと流動化し、簡単に転職されてしまうようなルールと一緒に進めたい所ですね。
求職者が自身を適正に評価してもらえる企業へ入社するインセンティブが働けば、企業もまた適正な評価をせざるを得ないでしょう。
なので雇用の流動化をセットで進めたい所です。
いま住んでいる部屋は、トイレが極端に狭い。便器と壁の間が30cmしか離れておらず、座っただけで頭が壁につく。普通に立ち上がろうとすると顔をこすりつけてしまうので、体をひねりながら立たねばならない。こんな環境で落ち着いて用を足せるはずもなく、おかげで毎日便秘気味である。
私は無職なので、不動産屋がまともな物件を紹介してくれない。ままよと契約を申し込んでも、保証会社の審査で落とされる。諸事情のため引っ越さざるをえなくなったとき、かろうじて見つけたのがこの物件だった。ワンルームにしては居室が広く、10畳もあったが、6畳間の物件と同程度の家賃だった。暮らし始めてからその理由が分かった。
職がないことがそんなに悪いのか。金がないことがそんなに悪いのか。金がないだけで、なぜこんな思いをしなければならないのか。
そもそも、人間が生きるのに金は必要ない。衣食住があれば十分で、金はそれを得るための手段にすぎない。それなのに、誰もが金を有難がる。金なしでは生きて行けないと思い込んでいる。なぜそんな思い込みが生まれるのか。
私は理由を知っている。それは、政府が税金を取るからである。金を持っている人は政府に税を納めることができる。ゆえに、金は正義である。
たとえば、江戸時代の農民が貨幣にとらわれない生活をしていたように見えるのは、政府が米を税として徴収していたからである。この場合、金を持っていなくても税を治めることができる。ゆえに、金は正義ではない。
では米が正義かというと、政府は他の形でも税を徴収していた。むかし王朝時代には租庸調という三種の税があった。租は穀物、庸は労役、調は特産品である。百姓は米を納め、漁師は海老やアワビを納め、武芸に秀でた者はその技を納める。それぞれの職能に応じて、その生産物を納めさせた。このような制度によって、仕事の多様性が尊重されていたと言える。すべての労働の成果を貨幣という単一の基準で量るのではなく、それぞれの仕事に応じて、その成果物を評価した。これによって、仕事の多様性のみならず、人間の生の多様性が肯定されていたのである。
貨幣は、あらゆる人間の生活を塗りつぶして単一の色に染め上げてしまう。どんな仕事の成果も貨幣によって量られ、その固有の意味は失われる。
その弊害はすでに社会の至る所に現れている。貨幣に基づく税制は、古今未曽有の悪政である。我々は税制の根本的な転換を求めねばならない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210423151119
こういう記事をみて、「n=1だけで何を言う」みたいなコメントを時折見かけるが、
俺たちはn=1の世界で生きている。
"自分自身"がアファーマティブアクションとやら言う大義のために、
自分より職能の劣る女性にポストや昇進の機会を奪われて、不平・不満を抱くなと言われて納得できるだろうか?
「女性管理職の数を〇人まで増やす必要があるから、君はしばらく昇進できないよ」と言われて?
社会の全体最適のために、犠牲になってくれと言われているようにしか感じない。
そういった全体のために生贄に捧げられる個人の、不満や悲しみに対する"共感"を源流にしているのではなかったのか?
「それってn=1ですよね」と冷淡な反応したのだろうか?