はてなキーワード: 敬愛とは
増田アドベントカレンダーもあと2日。
今日は、僕の敬愛する榎本俊二先生の漫画についてランキング形式で書きます。
本当はベスト100にしたかったんですが、全部で10コくらいしか作品が無かったのであきらめました。
あそこまで気軽に死んだり脱糞したり射精したり去勢したりする漫画はそうそうないだろう。
この順位に甘んじている要因として、ちょっとキャラクター性に頼ってしまっている、と言う点が挙げられる。
葛原さんとかすげぇ良いキャラだと思うんですよ。でもこの漫画に萌えとかいらないじゃないですか。
エログロ下ネタをディフォルメして描くことで逆にそれを感じさせない、という絶妙なバランスで描かれていたのに、たまにちゃんとエロい、っていうのはよくないと思うんです。
キャラクターを好きになってしまうとこの漫画にもドハマりできると思うんですが、それは榎本先生の漫画の本質ではないような気がしてしまうんです。
特に最後の「風前の灯火ジョニー」は奇跡。20世紀最高作品の1つと語られています。(僕の中で)
単調なコマ割り(4x4が並んでいるだけ)。シルエットだけのキャラクター。全てのコマがほぼ同じ構図。
ではセリフだけでストーリーが進んでいるのか?というわけではない。
単調なコマ割りだからこそ生まれる単調なリズムによって生まれる「先読み」がゾワゾワとした恐れを生み、シルエットで単調な絵柄だからこそ怖い。
この作品は一度読んだだけだとちょっと怖いだけの話に見えますが、あの男がなぜあの行動をとったのか、さらにFinの後なにをしていくのかを考えるとさらに恐怖が深まっていくことでしょう。
すごいとおもいました。
現在連載中の作品。IKKIは無くなってしまいましたが、またどこかで連載が続くことを切望しております。
今のところ2巻まで。
分かりやすく面白い話、ばかばかしい話、意味が分からない話、怖い話、がごちゃごちゃになっています。
怖い話に関しては、榎本先生どうしたの?って思うくらい、社会風刺的でわかりやすく怖い話です。(携帯、もあみ)
他の作者の作品であれば、ふぅん、っていうくらいなんですが、榎本先生がわざわざこんなわかりやすい話を書いちゃうなんて!って思ってしまいます。
昔の榎本先生だったら、一度話を分解して、全てのパーツをちょっとずつゆがめて、無理やり組み立て直そうとしてぐちゃぐちゃになった状態にしてくれてたと思うんです。
イモ軍団パワーズのような意味が分からない系の話は、カオスなストーリーの上に純粋な恐怖がそっと置いてある感じですごくいいです。
フルチンシリーズはただただばかばかしく、合間に読む分にはちょうどいいと思います。少しくらい風刺な要素があってもいいのにね。
初期は絵も安定しておらず、ちょっととっつきにくいところもありますが、週刊ギャグ4コマ作家が徐々にこなれていきつつ壊れていく様が垣間見え非常に楽しい。
後半、キャラクターに頼ってしまっているところもありますが、何とかひねり出しているであろう4コマに底知れないモノを感じさせる。そんな感じです。
あと、最終回のもうどうでもいいや、っていう感じがすごい。でもその中でもルールを徹底していたりと、几帳面さがうかがえる。
どれだけナンセンスに見える作品でも、理詰めで作ってるんだろうなぁ、というのがわかります。
「面白いとは何か」を考えすぎちゃって、いつのまにか「考えるとは何か」までたどり着き、面白いかどうかわからなくなってしまった系漫画。
天才。全2巻。
主人公の小学生ムー夫の日常的な疑問に対し、ミノル(父)や身の回りの人と話しながら考えていく、というような平和な世界。
が、疑問もそれに対する受け答えも常識的ではないが間違っていない、というギリギリを攻めていてスゴイ。
常識にとらわれず、作品の中のキャラクターの考えを理解することが出来れば、その深い世界観に感銘すること間違いなしでしょう。
そして、ストーリーの面白さもさておき、絵の独特さもかなりのものです。
ミノルが出てくるコマに顕著なんですが、とにかくおかしい。パースがズレているとかそういうレベルではなく。
おそらく、常識を無視しつつ、反面論理的である父親、という概念を表現しているのでしょうか。
でも、気にならない。
ストーリーが会話メインで進んでいるというのも理由の1つかと思いますが、絵のおかしさがディフォルメのギリギリ許容できる範囲になっているのでしょう。
また、規理野くんが出てくるエピソードでは、ビッグデータとは何かという視点を非常に鋭く描いています。
8年以上前の時点でここまでの考察をしているのは本当にすごい。
テーマは哲学的なものが多く、文化とは何か?科学とは?言葉とは?意識とは?1つ1つ、常識を疑っていく。
そんな漫画です。
榎本先生の作品は全体的にナンセンスに見えますが、SFや思考実験に近いものもあり、組み立てられたものなのか完全なナンセンスなのか、深く考える楽しみがあります。
解のない問いかけに対し、全てが組み立てられた世界が構築され、わかりやすく読み解くことができます。
榎本先生の作品には実はナンセンスなものは1つもなく、全て組み立てられたものなのではないか、とすら想像してしまいます。
特に、榎本先生の描く「人間」は、マックス・エルンストの絵画にも非常によく似たものがあります。
ずいぶん前の話なのだけど。敬愛しているとあるアーティストのかたが、あるファンが亡くなったことをたいそう悼み、悔やまれていた。身を切るように書かれた文章を読んで怖くなった。この人は数いるファンの一人が亡くなったことを、ここまで辛く感じてしまうんだ、と。
そのかたは記憶がよくて、怖れ多いことに私のこともご存じである。イベントで話したとき、アンケートに書いたことや差し入れのことを覚えていらっしゃった。たぶんtwitterとかもバレている。
私がたとえばうっかり何かで死んだりしたら、やっぱり多少は辛くなってしまうのだろうか。それは、嫌だな。手紙なんか書かなきゃよかった。限定イベントなんかいかなきゃよかった。
私は、私の好きな人が、私ごときのことで心を痛めて欲しくない。群れのスズメの一羽みたいに扱ってほしい。
だから、しばらくは死なないことにしようとは思う。でも、うっかり死んでしまうこともあるかもしれない。愚かな思い上がりであってほしい。
せっかくトラバをいただいたので「私の場合」を回答したいと思いますが、
正直、この点において私自身は腐女子の中でも更なるマイノリティと自覚しているので
あまり「BL愛好者一般」としての普遍性はないことを先にお断りさせていただければと思います(ブコメのほうが正直面白いと思います)。
で、これを腐女子風に言うと「推しカプに彼女(候補)がいる場合」となります。
そういう場合、私個人としては、
「主人公は彼女のことが好きだけど、同時にカップリング相手のことを(気の迷いで恋愛として/弱さをみせる存在として/恋愛ではないけれど、それと同等に)大事な存在と思っている」
というような読み方をすることが多いです。
私個人は、「二人の関係が恋愛であること」よりも、「その周辺の感情の揺らぎ」を読み込むことを二次創作の醍醐味としているのでこんな感じです。
「恋愛ではない関係に、恋愛の相似形を見る」こと自体が喜びなので、彼女のキャラクターの魅力の有無とは無関係です。
過去似たような状況で似たようなカップリングにはまっていた頃、原作内で主人公と彼女が成就した際は、それを心から喜び祝いました。
二次創作をするほど入れ込んでいる作品は、もちろん一読者としても好きな作品です。
彼女と主人公との関係の積み重ねはとても丁寧で読者として面白かったですし、好きな作品の主人公が納得行く形で思いを遂げたなら、それは喜ばしいことです。
なんだか我ながら、「好きな芸能人が結婚しても祝福しよう」みたいなイイコちゃん回答で気が引けるのですが、とくに粉飾なくそう思っています。
ついでですので、「彼女死んでほしい」というような心ないコメントについての個人的な、妄想交じりの見解を書きます。
たいていの場合、そういった発言はそう重く受け止める必要のないものだとわたしは思っています。
と、いうのも、
腐女子というのは、同じ作品が好きで同じカップリングが好き、みたいな狭い狭い「同好の士」コミュニティの中で発言していることが多いからです。
これは腐女子だけではなくて、大体いろんな集団に言えることだと思うのですが、
だいたい似たような思想と趣味の人ばかりコミュニティにいると、発言は次第に先鋭化し、過激になっていく傾向があります。
「死んでほしい」というような過激な言葉も、そういう「お仲間内の過激化したノリ」のなかで、あるいはそれを引きずって飛び出した可能性が高いように思えます。
それは一種の熱病のようなものであり、仲間内での内輪受けを狙ったものでもあり、子供のいう「担任しねばいいのにー」と同等の重みしかありません。
(だからといって擁護したいわけじゃないです。そんなこというなよバーカと思います)
「死んでほしい」などという発言をした人が、冷静にいちファンとして作品を見たときに、もう一度それを言えるかは怪しいものだと、わたしは思っています。
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追記。ブコメ返信。
たまに腐女子内でもそれ言われるんで勘弁してほしい(だからマイノリティである旨断ってる)。でも腐女子だよ。
1つ目。
自分が作品にそこまでのめり込んで行けない性分だということを自覚したがらない。
ドハマリして絶賛するような人を冷笑しがちな所があるのでは?
そういう人を見ると、ココは良いけどココはクソ、と言い放ちバランスを取りたい気分になるのでは?
自分は賢いから、作品を細部まで読み込んでいるという自負はある。
それゆえに、それ以外の要素、声優によるラジオやらリアルイベントやら、そういうのは余計だと感じてしまう。
余計な事に関わるアクティブさも金も時間もないし(地方住みだし)…という抑圧の裏返しかもしれないが、
ともかくそうなると、そのアニメ単体が全てである、というアニメ至上主義になっている。
でも、アニメ以外のコンテンツも楽しんでいる人は、作品をとりまく環境、ムーブメント、すべてを「作品表現」と捉えている。
このタイミングでこんな商品を出してくる、そういう時代性にもアーティスティックな要素を感じ、
こういう遍歴で演じてきた声優が今作ではこんな成長を見せている…
そんな外的な要素も、作品の魅力に加えて、あるいは作中の描写とリンクさせて、感動を見いだしている。
だから貪欲に関連コンテンツも摂取する。その最先鋒にたつのが声優であることが多い、だから好きになる、というだけだ。
そういう、リア充ならぬオタ充のようなものへのやっかみが潜んでいるのでは?
2つ目。
「声優に興味を持つ事は、声優に恋するという卑俗で捻れた性癖とイコールではない」。
これを分かっていない。
作品にハマったから、その制作者やキャストがどんな意気込みで仕事をしているのか、
それが気になるという純粋な気持ちが「声優にも関心を持てる人」のコアなのだ。
現に、声優好きな人は大半が監督や作画担当にも親しみを感じている。
個人的には、声優好きという人こそ、本心ではキャラに対しても擬似恋愛していないと思う。
おどけてキャラや声優に愛情表現するような言動はするかもしれないが、
どちらかというと、キャラもキャストもプラトニックな親愛なる存在なのだ。
一部の声オタのような、おぞましい、性欲をこじらせてるレベルの人も存在するが
声優に興味をもって中の人コンテンツも楽しめる人は基本的に真っ直ぐだ。
それはドル売りしている声優個人コンテンツに参加する人であっても変わらない。
本屋大賞と盛大にもめたでしょ、あと、ほかならぬ「三匹のおっさん ふたたび」文庫での、失笑モノの顛末とか。
主旨にはなんら異論ないし
彼女の作品世界を敬愛することでは人後に落ちん、と思う者でもありますが
なんですかね、この、こみあげる
じゃあどうしろっちゅうねん。と問われればとりあえずあのときの対応はおとなげなかった、可能であればあの件は水に流してくれまいか。
とメッセージを発信すればいいんじゃないのか。それは勝ち負けでいうところの負けではない、と思うんだがどうか。
なにしろ、このままだと、自分が正しいと信じて進んだ道に伴走する者にしか声が届かない-悲しい感じの-孤高の作家先生への道まっしぐらで
それはたぶん有り得べき「読者と作者の未来」と大きく離れるのでは、と。
少々長いタイトルで申し訳ない。パリのテロを受け、できるだけ多くの人に考えてもらいたいことがあり、要素を詰め込んでしまった結果である。下記では、冷静な文章が残せるように努めたい。また、IDをつい1時間前に取得したばかりのはてな新参者であるため、慣例のようなものをスルーしてしまっていたら何卒ご容赦願いたい。
つくづくFacebook社は行動が早い。 LGBTへの支持を表明するレインボーと同じように、今回のテロへの哀悼を示すトリコロールへプロフィール写真を手軽に変更できる機能がリリースされた。
ユーザーは続々と自らのプロフィール写真をトリコロールに変え、一方でそうしないユーザーはそれに対して続々とアイロニーを寄せている。自分の観測範囲内だと、「どうせ何も考えてないんだろ?」「お気軽すぎるんだよな」「で、その写真はいつ元に戻すの?」「承認欲求も大概にしろ」などなど。
レインボーブームのときから、自分はそれを「冷笑主義」と呼んでいる。これについて掘り下げればキリがないから簡潔に済ますが、「何かをする人」と「それをバカにする人」の二項対立になってしまった日本社会の象徴のような光景だと思う。「何かをする人」を下に見て、その背景や動機に何があるかを考えようとせず、一様に冷笑する行為が蔓延しているのである。
このようなソーシャルムーブメントに対する「冷笑主義」について、自分は「いい加減にしてくれよ」と思ってしまう。民主主義というのは、いつもこういう未熟なところから発展するものなのではないだろうか?小さな波が世論となり、それが政治を動かす光景を、われわれは何度も見てきたはずだ。むやみにアイロニーを飛ばすことは、民主主義の停滞につながるとさえ思う。
そもそも、SNS上でアイロニーを飛ばしたって、なんのプラスにもならないのではないか。「憎しみの連鎖を断ち切らなきゃ」とは、プリキュアも名言を生んだものである(聞きかじりゆえ、諸兄には何卒ご容赦願いたい)。
自分は前述したとおり、このようなソーシャルムーブメントには賛成の立場をとる。これだけ冷笑主義が満ち溢れている時代に、アクションを起こした人の勇気はけなされるものでは決してないと思う。
ただ、レインボーとトリコロールについては、分けて考えなければならない。レインボーを表明することは、すべての人の幸せにつながる(「傷つく人がいない」といった表現は控えるが、つまるところそうだと思う)。しかし、トリコロールを掲げることで傷つく人は、世界中にいるからだ。
下記のツイートを見てほしい。
@SaeedSato
「敬愛するパリよ、貴女が目にした犯罪を悲しく思います。でもこのようなことは、私たちのアラブ諸国では毎日起こっていることなのです。全世界が貴女の味方になってくれるのを、ただ羨ましく思います。」 シリア出身UAE在住の女性アナウンサー
つまりは、こういうことなのだ。イラクやシリアで「100人が亡くなる」といった悲惨な出来事が、この1年に何回起きたか。そしてなぜ、それらの国の国旗がFacebook上でプロフィール写真にならないのか(Facebookがアメリカのサービスであることをおいておいても)。なぜ、「#prayforsyria」や「#prayforiraq」がTwitter上でトレンドに入らないのか。
自分自身も今回テロについて調べるなかで、アフガニスタンやパキスタン、ナイジェリアなどで多くの人が亡くなっていることをはじめて知った。無知を恥ずかしく、恐ろしく思った。
「Facebookのプロフィール写真をトリコロールにする」という行為は、個人の自由だ。一個人の「哀悼の示し方」についてアイロニーや批判を飛ばしたりしてはいけないと思う。加えて、先述したように、それは民主主義の問題にもつながる。
けれど自分には、そのアイコンが、欧米世界と中東世界の分断を深めているように思えてならないのだ。
今回の事件が発生してから24時間、(日本の)ネット上で主に見られた議論は「マス・メディアに対する不信や批判」。そして次の24時間は、先述した「トリコロールブームに対する違和感や批判」であった。
本当にそれでよいのだろうか。われわれが今、情報収集し、考え、話し合うべきことは、本当にそれでよいのだろうか。自分は、そうではないと思う。この事件の本質こそに、目を向けなくてはならない。
ー軍事力行使でテロが封じ込められたとしても、それは新たな憎しみと悲劇を生むだけではないのか。かといって、平和的な対話でテロが封じ込められるのか。
ー難民を受け入れた場合、欧州は政治的にも経済的にも混乱するだろう。それがテロの温床を生むとの意見も否定はできない。しかし、受け入れないという選択肢はさらに世界を混迷に陥れるだろうし、そもそもそれは「人間として」正しいのだろうか。そして日本は、どのように行動すればよいのだろうか。
ーオバマ大統領の演説にあった”the universal values that we share”、この”WE”とはいったい誰なのだろうか。
誰も正解は分からない。政治家や学者でさえも、正しい道を示すことができない。それについて考えることは難しい。自分も、上記のような問題について情報を集めれば集めるほど、考えれば考えるほど、絶望のようなものを覚える。
繰り返すが、今われわれが見つめるべきものは、「トリコロールブームへの批判」でもなく、「メディアへの批判」でもない(これについては長期的に考えるべき問題だ)。この事件の本質について考えるのが難しいからこそ、わかりやすい別の何かに怒りをぶつけたくなってしまうが、そこで諦めたり逃げたりしてはいけない。
そのことを伝えたいという想いで、キーボードを打っている。書きたいことは山程あるが、長くなっても意味がないので、このあたりで終わりにしたいと思う。とはいえもうずいぶん長くなってしまったが、このような長文駄文を最後までお読みいただいたことに心より感謝を申し上げる。ありがとうございます。浅学菲才な部分も多くお恥ずかしいが、その点はぜひご指摘をいただければ幸いである。
「絶歌」のことは知っていたが、興味がなくて読んでない。
今朝スマホ記事で、元少年Aがホームページを立ち上げたというのを読みあぁ、そう…と思いながら一通り目を通してみた。
http://www.sonzainotaerarenaitomeisa.biz/
精神疾患がどうなってるのかは知らないが、なんというか…うん。現代用語辞典の「厨二病」項目には是非このサイトのURLを掲載することを勧めたい。Don't think, feel。
地方の中学生が、ビレバンで触れたサブカルに触発されて勢いで組んだギターロックバンドの公式HP…みたいなビンビンのセンスよ。「実家に帰ったら母親が自分の黒歴史ノートを出してきた」級の恥ずかしさで、読むのも辛い。そうか。30超えてコレか。
もうこの際、社会に大きな影響を及ぼした元・殺人犯が社会復帰後に自身を語ることの是非は横に置く。俺は正直、佐川一政の生き方なら、あれはあれだと思っている。むしろ、語り方、語る内容に一般人のソレとは違うものがあって、なにがしかの感銘や感覚を惹起するならば、汚らわしくとも価値はある。
これを見て思ったのは、酒鬼薔薇というのは徹頭徹尾凡人だということだ。少しばかり発達し過ぎた自己愛と、ユルユルガバガバの社会性と、特殊な性癖に後押しされて、たまたま勢いで若くして殺人者になってしまっただけであって、肥大した自意識の有り様や、ついうっかり「正しくオナニー」なコラージュ「作品」を公開した上でページに「ギャラリー」とか名付けてしまうゲロが出る様な痛々しさまで、この人は少しイタいだけのフツーのセンスの人だ。
ページタイトルが「存在の耐えられない透明さ」だった点、ミラン・クンデラを敬愛する自分は若干イラっときたが、この軽薄さまでもが平凡だと思い始めると、なんとなく可哀想になった。
憐れみは他者への最大の攻撃になり得るが、自分の元・少年Aへの憐憫はそういう当て付けの悪意を表明するためのものではなく、結構本気で言っている。だってこの人は、持て余した自意識と自己愛を解消する為に「元・少年Aである自分」にもうずっと縋り付かざるを得ないのだ。
そして、そうすればするほど社会との折り合いなんて付け様がないのだ。だって、僕らはこんな香ばしい元・犯罪者と関わり合いたくないのだ。
だいたいにおいて少年〜青年期の過剰な自意識は、社会に出た際の軋轢で徐々に削り取られたり、それに対する挑戦を通して昇華されたり、最終的には消化されなくても、その様なプロセスの中で自分とのバランスをとって大人になっていくものだけれど、彼にもうそのチャンスはないんだろうな。
だって、元・少年Aであることにしか、「異常な性癖で人を殺した」ことにしか、彼の社会的な価値はないんだから。もっと言えば、「アタマのおかしい、少し壊れてしまった人」として憐憫と共に、一般とはかけ離れたアウトサイダーアート的な才能への他言できない憧れも集めつつ贖罪に生きる姿が人々の胸を打つ…とか何処のラノベだよ。でも、彼が自意識を支えていくには、そんな世界観で生きていくしかない。
このままこんな生き恥を垂れ流しにしていたら、ほっときゃサイコパスへの憧れを持ってくれたかもしれない多感な10代とかですら「あ、これは結構ッス」てなるよ。。そんで社会から隔絶されて、また謎の敗北感を抱えて再犯に走るとかの悲劇も、ワンチャンある。
http://www.amazon.co.jp/review/R33VQYXB3J6P7P/ref=cm_cr_rdp_perm?ie=UTF8&ASIN=4838725833
ネットで叩かれているようですが、事態はもっと深刻だとおもいます。
何より、「グラフィックデザイン」という仕事自体への信頼を落とした罪は、とてつもなく大きいと思います。
擁護していた人間が、信じられない。「仕事」あってのデザイナーです。「彼はいい人」?ふざけるな、です。
真の人柄とは、「デザインの仕事」にこそ、出るものなはず、です。
全てのデザイナーが、こんなパクリ、というか、「雑な仕事」をしているわけではありません。
精一杯、ギリギリの低予算と日夜の仕事の上にちょびっとだけ花が咲くような「地味」な仕事です。
この「パクリ」は、むしろ「佐野研二郎」さん、「森本千絵」さん、「長嶋りかこ」さんら、
大手代理店の実質・専属デザイナーだからこそ、必然的に起こりえました。(まだまだ他にもいますよ)
彼等は、零細のフリーランスや個人のデザイナーと違って、大手広告代理店・電通や博報堂とのパイプがあるため、黙ってても、とんでもない「大きな仕事」が降ってきます。サントリー、資生堂、TOYOTA、HONDA…そんな大企業はデンパクにしかできませんからね。
それをチャチャっと、イメージソースを見つけ出し、Macでコピー&ペースト。下っ端のほぼアルバイトに近い低賃金アシスタントに、徹夜でとてつもない量の「アイデア」を出させ、その「手柄」を横領します。
「横領」と「電通・博報堂・多摩美ムサビ」を中心とする「これがオシャレなんだぜ」という「自己顕示」が、彼等のいう「クリエイティブ」の正体です。
彼等に創造性は一ミクロンもありません。「芸能人」に好かれているから、成り立っていただけです。
「ま、素人だしな、センスねえ・一般人なら、わかんねーだろ。」これが、彼等のいう「デザイナー感覚」なのでしょうか?
違います。真のデザイン感覚とは、「一般の人」にこそ、パッと「見るだけでわかるもの」だと私は思います。
ちょっと心あるデザイナーたちは、みなこの人たちの「センス」の源泉・ソース元が「パクリ」であることにとっくに気付いていました。ただ、一般の人の目と耳に届かなかっただけなのです。
彼等は「デザイナー」というより、「中間搾取業者」さんという方が適切なのです。
デザインに、本当はプロもアマもありません。だからこそ、デザインは過酷な仕事なんです。
かえって、「素人」だからこそ、曇りのない目だからこそ、デザインの本当の良さがわかるし、ウソもバレるのです。
国民の祭典である「オリンピック」に、あんな葬式か、安っぽいブランドのロゴのようなデザインを出してくるセンス。
それに疑いもしないセンス。これが「プロのデザイナーの仕事」なのですかね?
こんな「雑な仕事」が、止まることなく、まかり通ったのも、彼等を批判することが「タブー」だったからです。テレビ・新聞・ラジオという「メディア」の一番の資金源である「広告」を「美しく」作る方(パクリですけど…)なのですから。
まるで、一連の騒動も、「頭の悪いネット民」の批判だから、などと、彼等側の人間は、主張するでしょう。
いえ、今回ばかりは、発見したのはネットの方々かもしれませんが、日夜真面目に働く「デザイナーたち」こそ、一番の被害者です。
こんなズサンな人々と一緒にされたくない、とほとんどの方は主張するでしょう。そして、デザイナーこそ、こういう愚劣なクソデザイナーに怒りを感じるはずです。
和田誠さん、田中一光さん、亀倉雄策さん、横尾忠則さん等、デザイナーがスターだった時代は、手と情熱とで、素晴らしく美しいデザインをつくっていました。いちいち鉛筆で線を引き、イラストレーターと一緒にアイデアを考えていました。
デザイナーという仕事は「広告屋」「看板屋」などと低く見られ、軽蔑されていました。
何が「ミスター・デザイン」じゃ!!その「ネーミング」の恥ずかしさに、言葉も出ません。
最高に笑えないギャグですよ。口に出してみて下さい。「ミスター・デザイン」?。
オレは偉いんだぜ、ってことでしょ。自己顕示欲の塊なんですよ。ちょっと心あるデザイナーなら、誰でも気付いていたことです。
これを機に、「デザイン」という仕事から、足を洗って頂ければ、幸いです。
後記:多くの方に反響を頂きまして嬉しいです。
少なくとも、サントリーのパクリの件は、専門学生の1・2年レベルの課題でも今時するか?という初歩的な「画像のまんまパクリ」です。フリー素材か、写真を取ればよかっただけのことです。
デザイナーとして、本当に、ありえないレベルのミスです。こんな仕事の仕方は、佐野研二郎氏の事務所だけでしょう、と信じたい…。
しかし、それでもまだ擁護する「デザイン村」の人達にはつくづく情けない…。
理研の小保方氏、音楽クラシック村の佐村河内とホントーに、まったく同じ構図じゃないですか!
デザイナーたちも、仕事に響くので、黙っている方がほとんどだと思いますが、勇気を出して、声を上げて下さい。
呆れるほどボロボロとずさんな情報が出てきてしまいます。「思考をクリア化」しすぎた結果だと思います。
この本を読んで、「そもそものデザインのやり方」への「違和感」を感じて、すぐに某本屋へ、売りましたが、まさかあのときに感じた違和感が、これほどまでに実現化されるとは思いませんでした。
でも、いかに佐野氏が、「手抜き体質」かが、出ていると思いますよ。
なんと…驚愕の事実が発覚しました(2015年8月30日)。「ペンギンブックス」という、日本人には馴染みが薄いですが、
有名なペーパーブックのシリーズの名タイポデザイナー「ヤン・チヒョルト」のパクリであることが発覚しました。
私も、GGGでの展示に行って、感銘を受けました。本当に許せない。チヒョルトは、ハッキリ言って、
作風は地味です。しかし、心に残るデザインをする私も心から敬愛する、「巨匠」です。
しかし、そのチヒョルトの「表面」のデザイン部分だけをペーストして、パクる姿勢。
本当に許せません。
「スポーツの世界」のヤツラにならば、わからないだろう、という魂胆でもあったのでしょうか?
本当にふざけてる。デザイナーとしても、最低です。許せません。
(コメントに追記)>>広告代理店のデザイナーの仕事はプレゼンが主なので細部まで検討して作りに作り込んだファイナルプロダクツを作成することはありません。ファイナルプロダクツは下請けの専門家に任せます。だから”これとこれをくっつけて~”みたいに30%ぐらいの力で仕事を仕上げるのが”デザインする”ことだと思っちゃってるデザイナーになってしまうんです。しかも代理店にいたというプライドだけは高いから、始末に負えない。
そうなんですよ。彼等のいう「クリエイティブ」は、日本語訳の「創造すること」や「発想すること」じゃないんですよ。
いかにして、「自慢するか」なんですよ。
で、CMの世界では相手のクライアントが、「企業」ですから、世に漏れなかった。会議室の中だけでの世界でした。
しかし、「オリンピック」という晴れの世界で、「Mr.デザイン」こと「佐野研二郎氏」は同じように、惰性でやってしまった。彼にとっては、こういう仕事の仕方が、「普通」なんです。
もちろん、考える力も発想のノウハウも、強さもないから、最終的な「アウトプット」は「何かに似せる形」になります。何かに似せる、しかも雰囲気だけ…ぐらいなら、いいんです。
「何かに似せる努力」すらやめて、「そもそも画像をそのままネットからパクっていいじゃん!」
「フォトグラファーを使う」「イラストレーター(絵描き)を使う」「タレントを使う」のにも、何をするにも、
それを解消するには、タダで「アウトプット」を創り出すには、いくつかのアイデアがあります。
しかし、最も単純明解に、クリアに、ボールドに、全ての制作費が浮く方法があります。
一番安く、早く、タダで済ませられる唯一のデザイン。
一体なんでしょう。
それは「搾取」です(「パクリ」という言葉は、何となく、「万引き」に似た甘やかしの言葉だと思います。そんなレベルではないですよ、コレは。明らかに「システム」として、「自分の仕事」として、やっています。でなければ、こんなに出てくるはずはないです。)。
デザイナーたるもの、誰でも一度は、パクることはあります。学生時代に、一からオリジナルを創り出せる人間など、いないし、天才でもムリでしょう。「習作の時代」はあります。
「自分の周りへのヒト・カネ」がメインであって、「モノ」(仕事)は、どうでもいいのです。軽蔑された結果なのだと思います。
はっきりと、誰かの作ったものを「奪って、人に提出する仕事」に甘んじてたのだと思います。原宿の事務所のMacintoshの中では、イラストレーターが書いたパンも、誰かのブログのパンも、「一緒」です。
ならば、タダな方がいい。
とすら、考える頭もよぎりません。
まったく自然に「ミスター・デザイン」は、搾取します。無限に仕事がつくれ、永久にカネが入ってくる仕組み…。
思考は確かに「クリア」かもしれませんが、その精神は「ドロドロ」です。
クリエイティヴ・ディレクター、アートディレクターという「肩書き」は、「搾取指示人」なのでしょうか。
「クソ・デザイナー」というカテゴライズで、はっきりと「普通のデザイナー」とは一線を画す社会にしたいものです。
全てのデザイナーこそ、今こそ怒りを上げるべきです。
2015年9月1日、ついに、ようやく、取り下げました。が、凄まじいシロモノの反省文を掲示しました。
ここまで「ひどい謝り方」をできる人間が、いたでしょうか。
帰って来た返事は、「被害者」気取り、でした。
やはり、闇は深い、と確信するばかりです。
もうこれは確実に、しれっとして、またヒョロっと、5年後、五輪のバックで「名前の出ない形」で関わってきますよ。1000%。
絶対に、です。「今を乗りきれば、大丈夫」と思っているはずです。
もちろん、いわれのない誹謗中傷もあるでしょう。それはお察しします。
しかし、博報堂の「営業」の人間は、そういうことで強くなるんですよ。何にも言われないのは、クーラーの効いた部屋で、パソコンと戯れるクソデザイナーだけなのです。
自分の大好きなお仲間たちと、カネをバンバン出してくれるクライアントと、ドラゴンボールやドラえもんを使われても、何も言えないそっちのヒトたちの複雑な気持ち、アニメーター、漫画家、アーティスト、イラストレーターを、笑顔でほがらかに踏みにじってきたわけですからね。アートディレクターって、一体何なのでしょう。
博報堂では、こんなに「謝る」ということは「罪悪」なのでしょうか。
卑怯なのは、「テキスト」ではなく「画像」で謝るということも、そうなんですが、
「リュウミン」を使って、この際も「キレイに、クリエイティヴに、素敵なタイポグラフィ」で謝ろうとするクソみたいなデザイン根性です。
「ニッポンは、世界中から尊敬されている映画監督の出身国だった。お忘れなく。」のあの「ドヤ感」の「薄汚さ」が、本当に蘇ってきました。その「キタナさ」が何一つ変わっていない、どのメッセージでも。
これが、逆にいえば、彼のデザイナーとしての唯一の「統一性」なのかもしれません。
ただ、「ドヤ感満載」のデザイナーだと、仕事になりません。本来ならば…。
こういう場合、「真摯なデザイナー」は、実は、普通の、どこにでもある「そっけない」明朝体を使います。
リュウミンだと、あまりに「美しい書体」すぎて、ほぼ「ウソっぽく」聞こえるからです。
そんな「文字への美的感覚」すらないんでしょうね。表面的に、「キレイ」なら、何でもいい。佐野研二郎。
そもそも本当にデザインを学んできたのでしょうか?疑わしくなってきました…。
皆様が5年後忘れていても、私は「佐野研二郎」という、愚劣な「デザイナー」という肩書きをした「搾取者」の名前を永遠に忘れません。
今は、「炎上」し、「祭り」状態かもしれません。
しかし、私は、もっともっと持続的に追求していかなければならない問題だと思います。
この多くの批判が消え、静寂になり、命を吹き返した頃に、
また愚劣な身内自慢とともに、高らかな搾取とクソデザインのオンパレードが、そっと始まる(reborn)ように思います。
絶対に許してはなりません。本当に。
砂に埋もれてくしゃくしゃ
地は侘しく平らかに均された
跡なき力強い御手によって
遺跡に遊び
ポリ袋を叩いて鳴らした
勇敢なる男たちと女たちは神を敬愛し
朽ちた襤褸たちの知るところとなった
口ずさむ:私を愛していますか?
私をおぼえていますか?
私のうえに雪がつもる
幾重にも幾重にも層を成して:
これも神の掌のうちなのか
他の娘たちは埋葬される
無縁墓地*4の土のなかへ
日々を刻んで通りすぎる
二万の死者たちがあなたの歩みに寄り添うところ
気だるい鳥達のさえずりのなかで失われていった彼らの死因
彼らの残した記録はどうしたって謎めいている
すべては廃れて消えた
蛍光なしではね
私もがんばってきたんだよ でも
私の愛していたものを思い出して、私を抱きしめて、なんて言わない
なんどもなんども医者を呼んだ
そして絵の中に生きる
彼は言った:
「大丈夫」
「もう終わったよ」
そして飛行機に乗った
ベルトを締めずに
彼はとんでもない向こう見ずで有名で
“ぼうや”と呼ばれ
落下へと突き進んでいった*7
そして私たちは水準をあげる
狩人たちは
そして驚きをもって見つめて
私たちの髪をピンと逆立てると誓って
慈悲を! 神よ!
出て行って、狩人が石碑を解読するのを待って*9
この街の下に何が横たわり、去っていったのか
見よ、そして絶望せよ
見よ、そして絶望せよ
---
1 シェリーの詩『オジマンディアス』より。古代エジプトの「王のなかの王」オジマンディアスを詠った詩。このあと続く砂漠や遺跡のイメージはシェリーの詩に準じている。全体をつらぬくモチーフでもある。
3 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作の絵画についてのエピソード。この作品は長いあいだ、旧約聖書外典トビト記を下敷きにしたポピュラーな宗教画モチーフ「トビアスと大天使ラフェエル」の絵だと信じられてきたが、のちの研究でもともと「母親と子供」の図として描かれたものをティツィアーノの弟子が宗教画へ改変したものと判明した。
ちなみに「トビアスと大天使ラフェエル」はこんな話。ユダヤの盲人トビトの息子トビアスは、父親から昔貸した金を回収するように命じられてメディアの地まで旅をする。そのとき同行者として大天使ラファエルがトビアスについてくる。トビアスは旅から帰るまで、自分の同行者がラファエルだと気づかなかった。
4 歌詞では「potter’s field ポッターズフィールド」。無縁墓地を指す。語源は新約聖書のマタイの福音書。銀貨三十枚でキリストを売ったユダは自責の念からクビをつって自殺。ユダから押し付けられた銀貨のあつかいに困った祭司長たちは陶器職人(potter)の地所を購入し、行旅死亡人の墓地に定めた。
5 ワシントン・スクエア公園のこと。パリの凱旋門をモデルにしたワシントン・スクエア・アーチが建っている。もともとは貧困者用の無縁墓地で、今もその下には2万人以上の遺体が埋まっているという。
6 オーストラリア人画家アーサー・ストリートンの絵『Spring』の元ネタになった人物のこと。ストリートンの恋人だったらしい。
7 「ニューヨークの市長坊や」の異名を取ったジョン・パーロイ・ミッチェルは1914年から17年までの三年間、ニューヨーク市の市長を務めた人物。彼は当時ニューヨークを仕切っていた悪名高き集票マシーン(一種の政治団体)タマニー・ホールと激しく対立し、17年の選挙で落選するや第一次世界大戦に参加するため空軍へ入隊した。入隊の翌年、彼は飛行訓練中の事故で死亡。原因はシートベルトを締めなかったことによる落下事故だったという。
GATEの原作者柳内たくみはHPにこんな文章を載せるようなガチウヨである
文化帝国主義反対/シーシェパード反対/シーシェパードに資金提供・あるいは心情的賛同をしている企業製品を買わないでください。
目的のためなら窃盗・営業妨害といった犯罪にも手を染めるグリーンピースの活動には断固反対します。
反対!!永住外国人参政権/権利は必ず義務を伴います。義務とはその国の過去を背負い、未来に責任を負うということ。そのためには日本国籍を取って○○系日本人として、私たちとともに将来を担ってください。いつでも逃げ出せる立場での選挙権には、私は断固反対します。
https://web.archive.org/web/20090610054526/http://todoku.web.fc2.com/
着意事項
ここは、とどく=たくさんの、とどく=たくさんによる、自己の精神的な欲望を満たすために書かれた一次創作および二次創作文章が、むやみやたらに並べられているサイトです。
その内容は、一部の左かがった主義主張をもっていたり、文化帝国主義者(自分の価値観や生活様式を唯一正しい絶対のものと思いこんで、他の考え方や生き方、食生活といったその土地独特に発展してきた文化を野蛮なものとして排撃する、
白人至上主義的人種差別やナチズムと根底を同じくする思想/具体的には21人の弁護士さんと同じ思想だったり、一神教の原理主義的な信仰の持ち主、捕鯨鯨食反対論者等)や、某国への愛国心や偉大なる某人物への敬愛の念から逃れられない方、
政府とか党の決めた歴史解釈を鵜呑みにして検証する気のない方にとっては、不快となりえるかも知れません。そういう方はお読みになられることをお止めになられるようお勧めします。自分の主義や思想に反する内容でも寛大な心にて楽しむことが出来る方のみお読み下さい。
ここにある文章を読んだが故に発生するかも知れない有形無形・精神的物理的の損害被害について、私が責任を負うことはありえません。自分とは異なる思想の元に書かれた文章を読んだだけで、
精神的にダメージをうける可能性のある方は、絶対に読まないようにしてください。それと、ありえないとは思いますが文章等の転載についても固くお断り申し上げます。あと、リンクについては、小説への直接リンクでなければ、ご自由になさってください。
こういう人が書いてるのが「GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」である。
761 :名無し草:2015/06/24(水) 23:08:34.73 .net
曰く「戦争映画じゃよくある描写だろ」「何で自衛隊だと神経質になるのw」みたいな
で、仮に思考実験としてみんなに聞きたいんだけど
これで原作者が在特会会員だったり、もしくは在特会を支持しているような人間だと判明したならば
さっきと同じセリフを言えるの?
トキワ荘通り協働プロジェクトが漫画家2人をトークに呼ぼうとしたが、その漫画家が在特会関係者だったためネットで大荒れしたよね
でもその漫画家は嫌韓漫画ばかりじゃなく普通の一般的な漫画も描いてる人だったわけで
普通に漫画の話をしないとも限らないかもしれなかったわけじゃない
今までと同じように向き合えるのお前らは
中国の名将について検索をかけたときによく挙げられている人物を紹介する。
春秋 | |
---|---|
孫武 | 世界史上に名高い兵法書「孫子」の著者。伍子胥と共に呉王が覇者となるのに貢献した。 |
戦国 | |
呉起 | 孫子と並び称される兵法家。いわゆる「呉子」。魯・魏・楚などに仕えたが、強引な改革で周囲の恨みを買って殺された。 |
孫臏 | 「孫臏兵法」の著者。友人に裏切られて罪人となり脚を切断されたが、逃げ出した先の斉で将軍となり、「馬陵の戦い」で復讐を成し遂げた。 |
白起 | 秦の名将。包囲殲滅戦の名手にして虐殺者。「長平の戦い」では四十万人もの捕虜を生き埋めにした。そのあまりの強さから王に恐れられて賜死された。 |
李牧 | 趙の名将。匈奴に大勝を収め、秦の大軍を退けたが、離間の計によって王に疑われて殺された。趙が滅亡したのは李牧の死からわずか三ヶ月後のことだった。 |
王翦 | 秦の名将。趙や楚を滅ぼし、始皇帝の中華統一に多大なる貢献を行った。猜疑心の強い始皇帝に誅殺されることもなく天寿をまっとうした。 |
楚漢 | |
項羽 | 反秦軍の中心となり西楚の覇王と号す。戦では無敗を誇ったが、それまでさんざんに勝ってきた劉邦に最後になって敗れ、自害した。 |
韓信 | 漢建国の功臣。漢の三傑。「背水の陣」で有名。魏・趙・斉を降して劉邦の天下統一を大いに助けたが、皇帝即位後は冷遇され、謀反を企んで処刑された。 |
西漢 | |
李広 | 対匈奴戦の名将。弓の名手として知られる。若い衛青が台頭したのち、その下で不甲斐ない戦いをし、それを恥じて自刎した。 |
衛青 | 対匈奴戦の名将。苦労人で人格者。低い身分から取り立てられ、匈奴と戦って連戦連勝し、その功績により大将軍にまで出世した。 |
霍去病 | 対匈奴戦の名将。衛青の甥。天才肌で直情径行。若くして匈奴との戦いで活躍し、衛青を凌ぐ名声を得るが、24歳で夭折した。 |
東漢 | |
劉秀 | 東漢の初代皇帝。「昆陽の戦い」では100万と号する軍勢をわずか1万の兵で撃破した。皇帝としては一代にして創業と守成を成し遂げ、功臣を粛清することもほとんどなかった。 |
班超 | 中央アジアを平定し、東漢の最大版図を現出した。西域に三十年間も留まったのち、洛陽に帰還して一ヶ月後に亡くなった。 |
三国 | |
曹操 | 東漢末における群雄のひとりから三国鼎立中の最大勢力にまでなり、後の魏・晋の礎を築いた。兵法家、詩人としても名を残す。 |
周瑜 | 呉の名将。美男子で有名。「赤壁の戦い」において魏の大軍を破った。 |
南北朝 | |
韋叡 | 梁の名将。身体が弱かったため、戦場では鎧を付けず輿に乗り、竹杖で指揮していた。南北朝最大の決戦「鍾離の戦い」にて百万の大軍を破る勝利の立役者となった。 |
陳慶之 | 梁の名将。わずか7000人の「白袍隊」を率いて北伐を敢行、連戦連勝で洛陽まで陥とした。「千軍万馬も白袍を避ける」と賞された。 |
唐 | |
李靖 | 唐建国の功臣。内戦においては中華統一に貢献し、外征しては騎馬民族を騎馬戦術によって滅ぼした。中国史上屈指の名将とされ、李靖に仮託して兵法書「李衛公問対」が書かれた。 |
李世民 | 唐の二代皇帝。李淵の次子として、隋末唐初の戦乱において多大なる軍功を挙げ、そのまま兄を追い落として皇帝となった。政戦両面における名君として知られる。 |
郭子儀 | 安史の乱を平定し、吐蕃やウイグルの侵攻を撃退するなど、幾度にも渡って国を救った。子孫、財産、長寿に恵まれ、万民から敬愛された。 |
宋 | |
岳飛 | 対金戦の名将。忠臣として名高い。私兵を率いてたびたび金軍を破るも、和平派によって冤罪を着せられ殺された。 |
明 | |
常遇春 | 明建国の功臣。常に先陣を切って戦った猛将で、日頃から「10万の兵士を率いて天下を横行したい」と語っていたため「常十万」と呼ばれた。 |
徐達 | 明建国の功臣。謹厳実直にして冷静沈着。総司令官として北伐を行い、元をモンゴル高原へと追いやった。朱元璋からは功績第一と称賛された。 |
朱棣 | 明の三代皇帝。甥の二代皇帝に反発して挙兵、圧倒的不利を覆して正規軍に勝利し、帝位を簒奪する。皇帝となった後も、自ら軍を率いて積極的な外征を行い、明の最大版図を築いた。 |
戚継光 | 私兵を率いて倭寇討伐に功を挙げ、また北方に赴いてモンゴルの侵入を防いだ。倭寇に対抗するため、中国全土の武術をまとめあげ、日本の剣術を研究したことでも知られる。 |
清 | |
左宗棠 | 自らを今孔明と称した。太平天国の乱の鎮圧に貢献し、洋務運動を推進した。さらには回民蜂起の鎮圧、捻軍の鎮圧、新疆の奪回など、清軍の大黒柱として活躍した。 |
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
カント愛した元院生、存在感薄く 岡山・女児監禁容疑者:朝日新聞デジタル
監禁事件の犯人が、阪大大学院博士課程でカントを中心とした倫理学を専攻していたという報道があり、
当初の報道では「アニメ好き」に焦点が当てられていたこともあり、
ネット上では「カント好きだと犯罪者になるとか報道しないのかね」といった皮肉が多く見られた。
確かに、何か単体のものが犯罪と結びつくという短絡的な発想は戒めなければならない。
「アニメ好き」だろうが「カント好き」だろうが「無職」だろうが、それらを犯罪と結びつける報道はあってはならないだろう。
しかし、現実的に何か複数のものの組み合わせというのが、犯罪と密接な関係を持っているということは認めるべきではないだろうか。
この犯人の場合であれば、「カントなどの倫理学・哲学専攻」の「博士課程に行くも論文かけず、就職失敗」した一方で、「美少女アニメの愛好」という趣味を持つ人物であった。
これらの組み合わせは、明らかに今回の犯罪に結びつく心理的要因の大きな要素だったと言えると思う。
実際、哲学や倫理学というのは、思考や常識の前提に対して疑問を投げかける学問で、かなり危険(社会性の逸脱という意味で)なのは事実である(「カント危機」という言葉さえあり、クライストはそれで精神を病んだ)
博士課程(しかも阪大)に行って、それなりのプライドを持つに至る一方で、周囲がエリートコースを歩みながら、自分はまともな職を得られないというのは、精神的にきついのは事実である。
美少女アニメというのが、現実のつらさを忘れさせてくれるもので、容易に現実逃避の対象となり、それが現実対処能力を下げうる危険性があるのは事実である。
もちろん、これら単体と犯罪を結びつけるのは戒めなければならない。
いわゆる「カント危機」と称される精神的危機を乗り越えて、独自の哲学や思想を築き上げた哲学者、思想家は枚挙に暇がない。
博士課程に行くも、周りはうまくいく一方で自分は就職に失敗し、生きる気力をなくしてしまうも、その挫折を乗り越え、その後の自分の人生を誇り高く納得して歩んでいる人は数え切れない。
美少女アニメを楽しむことと、現実社会とうまく付き合っていくことを両立させている人は、必ずあなたの周りに一人はいるだろう(隠しているかもしれないが)。
だから、これらを犯罪と結びつけるステレオタイプは排除しなければならない。
しかし、これらの組み合わせが、今回の「少女監禁」という犯罪に至った心理的要因ではなかったかと意見を述べることがタブーであってはならない。
事実として、複数の状況や要素の組み合わせは、共同体の常識や規範を乗り越えさせ、犯罪を犯す要因となるのだ。
僕はあの秋葉原の加藤の供述を読んだときにもそう思っていた。単体要因の「非モテ」でも、「母親との関係」でも、「職場でのトラブル」でもなく、それらの組み合わせが犯罪へと向かわせたのだと。
あるいは、また思ったのだ。「灘・ハーバード・楽天」という組み合わせが悪いのだと。別に、灘や、ハーバードや、楽天が悪い訳ではないと。
どれか一つ、それが「公立高校」であったり、「慶応」であったり、「Google」であったりしたら、こんな女性トラブルを起こさなかったのではないかと。
ある単体の要素と、そこから人物判断をイコールで導き出してしまうのは、単なるステレオタイプである。
しかし、複数の特定の要素や経験の組み合わせというのは、明らかにある種の心理的状況を生む原因となりうる。それは事実である。
__________________________________________________________________
<追記>
"容疑者は、他者を道具化したいとの傾向性を克服すべくカントを敬愛していたが、ついに自己の傾向性に負けた、とするのが妥当な解釈。容疑者とカントの親和性は明らか"
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/492910624356065281
"実際にカントはこういうタイプの人間たちに向けて倫理学を書いたとすら言えるのではないか。事件とカントは無関係、風評被害と言ってる人はちゃんとカントを読むべし"
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/492911628392742912
こういうのは匿名ダイアリーで言っても耳を傾けてもらえないが、実名で哲学の教授が同じようなこと言ってくれると信憑性が増すなぁと思った。
「カント好きは犯罪者」と「犯罪を起こした彼の心理の中で、その行動とカントへの偏愛とのつながりがありうる」は全然違うんだよ。何か前者とともに後者もタブーにする傾向が最近見られるのが好きじゃないのでこのエントリーを書いた。
そう、今分かったけど、この前者と後者が混同されつつあるのが嫌なんだ。あと、俺は偏見を生みたい訳ではなくて、同じカント好きとして、彼の心理を理解したいからこう言っている。
「カントと犯罪が関係あるわけない」と簡単に言い切ってしまえる人は、彼の心理的状況を真剣に考えたくもないのだと思う。
博士課程まで行ったけど年も食って就職がうまくいかないだとか、カントへの偏愛だとか、アニメポスターを部屋中に貼るとか、彼がどういう心理状況で日々を暮らしてきたのかを真剣に想像してみようとも思わないのだと。
彼が美少女誘拐を行おうと思った時に「傾向性」という言葉がよぎらなかった訳がないのだ。
もちろん、犯罪者の心理なんて理解したくも想像したくもないという立場はそれはそれでありだとは思うが。
だから、僕は秋葉原の加藤も、許されざる殺人をしたのは事実だけど、「ああ、こういうことの組み合わせで、こういうことを起こす心理状況になるのは分からんでもないなぁ」と僕は共感(empathy=in+pathosという意味で)してしまうのだ。
コメントを見ると、僕の表現ゆえだろうけど超誤解を生んでいるし、誤読から変なステレオタイプを生みそうなので、このエントリーは消そうかなと思ったけど、一応残しておく。
つまりさ、ジョブスが言った「connecting the dots」に近い話なのよ。人はある特定の要素や経験を結んであるストーリーをつくり、自分自身を把握し、ある行動を起こす。
彼の中で、アニメとカントと就職できなかったことというのは、何らかの形で結びついて、あるストーリーができていると思う。
もちろん、彼の供述を待つ必要がある。でも、それは明確に意識されていないので供述されないかもしれないとも思う。これはインタビューしてみないと分からない。
とにかく、これまでの経験や嗜好というドットのつながりと、起こした行動の間に、関連性を見出すのは自然だろう。
もちろん、そのつながりというのは「恣意的」に行われる。経験は無数なのだから、どれをつないで自分のストーリーを作るかは恣意的だ。僕も勝手に彼のドットをつないで彼のストーリー仮説を作っている。
だから、「アニメ好きで・カント好きで・博士課程無職」に加えて「恩人との出会い」というドットをさらにつないで、挫折を経た最高の人生のストーリーを描いている人も恐らくいるだろう。あるいは「博士課程無職」を何らネガティブなドットとして捉えない人もいるだろう。
どんなに否定的なドットの積み重ねにも、肯定的なストーリーを描く人はいるし、あるいは、肯定的なドット一つで人生展望ががらっと変わるというのはよくある話だ。
だけど、今回犯罪を犯した彼はどうだっただろうか、「カントへの偏愛や就職失敗や美少女アニメ好きは彼自身の心理の中では少女監禁を起こすに至るような関係があったのではないか」と考えるのは、否定されることだろうか。
人の心理を想像するうえで、そういった作業は欠くことができないとさえ僕は思う。
あと、カントは「他者を手段としてのみならず、目的としてとらえよ」と言っているのは有名だし、傾向性に逆らえと言っているのは常識として書いたので、そこに誤解が生じたのかもしれない。
そんなカントの言葉に彼がなぜ惹かれたのか、彼自身が善きこととは何かという問いを抱えていたからだろうか、最終的になぜカントの言葉に従えなかったのか、などと考えるのは彼の心理を探る上で重要だろうとやっぱり思うし、それは哲学的な問いでもあると思う。
Yahoo!を匂わせる『ワイモバイル』とかいう名前になってしまうらしい。
某社長の「殺りましょう」でコスパ最強の芋場データ通信プランが改悪されてしまう前に、その素晴らしさを紹介したい。
オススメのプランは『EMOBILE LTE( http://emobile.jp/charge/emobilelte.html )』
プロバイダによりけりだが、月額3600円ほどで10GB/月の高速通信が可能だ。
例えば『Broad EMOBILE LTE( http://broad-lte.jp/em/price.php?refParts=header )』というプロバイダなら、初期費用13,606円、月額3085円で契約できる(端末代、事務手数料、消費税込み) 24ヶ月縛りなので、初期費用を24で割って月額利用料に加えると毎月3,651円で利用できることになる。
同じイーモバイルの料金プランでも『EMOBILE 4G( http://emobile.jp/charge/emobile4g.html )』はイマイチ。
実行速度と料金は『EMOBILE LTE』とさして変わらないのに、月の利用限度が7GBなのだ。
『EMOBILE 4G』対応端末だと勝手に利用回線が『4G』に切り替わってしまい、7GB/月の制約を受けてしまう。
『EMOBILE 4G』非対応で最も電池持ちが良く、Wi-Fiの通信速度も速いのが『GL06P( http://emobile.jp/products/gl06p/ )』だ。
某社長が芋場データ通信プランを公開レイプする可能性については冒頭で触れた。
かてて加えて、『EMOBILE 4G』非対応端末は在庫が払底しつつある。
今が買いだゾ。
http://blogos.com/article/88464/
「ポップソングが「閉塞感」ではなく「楽しさ」を共有する時代へ」という文章を読みました。
強い違和感を覚えたので備忘録代わりに書き残しておきたいと思います。BLOGOSのコメント欄だと字数が足りないので。
柴那典氏(@shiba710)の文章は間違っていると思います。
理由は以下の三点になります。
まず第一にアベノミクスが将来への希望を本当にもたらしているのかという疑問があります。
消費税増税や過去の景気状況から国民が景気に対し、継続した右肩上がりの希望的観測を持てるとは思わないからです。
加えて失業や高齢化、原発等、解決しない社会問題も山積する上、庶民の不安はむしろ拍車がかかるのではないかと思います。
つまり人々は楽しさや楽観という価値観のもとに生きていないのではないでしょうか。
第二に日本のミュージシャン(特にメインストリーム)は"カナリア"のような存在ではないということです。
これは楽曲への批判ではありませんが、翼を広げ瞳を閉じ桜舞い散る季節の中で君に出会えたキセキを歌うJ-POPには時代が反映されることはなく、それを許されてもいません。
時代を反映する曲を歌うということはつまり、楽曲がある種の政治的側面を帯びるということです。
現代の日本人にとって音楽の政治性とは最も嫌うものです。よって必然的に時代性(政治性)は排除され、似たような要素を持つ楽曲が量産されることになります。
日本ではSex Pistolsの「Anarchy in the U.K.」もGrandmaster Flash and The Furious Fiveの「The Message」のような楽曲は生まれないでしょうし、また生まれてもチャートの上位に入ることはないでしょう。
そこから導ける結論としては、J-POP等日本の音楽の特徴はむしろ「時代を反映しない」ことにあるのではないでしょうか。
現在の楽曲と10年前、20年前とを比較してそこに主題(テーマ)の大きな変化はあるでしょうか。
せいぜい電話やポケベルがLINEやメールに変わったくらいで、その根本は大した変化はないというのが実情ではないでしょうか。
「いいくらし」「ええじゃないか」等、氏の挙げる楽曲はどれもJ-POPのスタンダード、「励まし系」の枠を超えるものでもないと思います。
これらの楽曲に時代的必然性を見い出すことははっきり言ってできません。
当然それが悪い訳ではありません。繰り返しますが楽曲の善し悪しとはまったく別の話です。
日本のポップミュージックの作り手は、時代の空気を先端で感じている“カナリア”のような存在ではないのです。
第三に「ミスターチルドレンがポップソングを通じて現代の閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」という考察が完全に間違っています。
氏はその代表例として「マシンガンをぶっ放せ」を挙げています。
本当に「ミスチルがポップソングを通じて現代の閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」のならば、その「マシンガンをぶっ放せ」は彼らの代表曲であるべきです。
しかし、一般人にミスチルの代表曲を挙げてみて欲しいと質問しても「マシンガンをぶっ放せ」と答える人が果たして何人いるでしょうか。
せいぜい「イノセントワールド」か「Tomorrow never knows」か「シーソーゲーム」くらいでしょう(最近なら「しるし」や「HANABI」かもしれません)。
「マシンガンをぶっ放せ」は、出せばミリオンを達成できた時代に唯一100万枚を割ったシングルです。
加えてその曲が収録されたアルバム『深海』は前作『Atomic Heart』から100万枚もセールスを落としています。
私はそもそもミスチルが現代社会の閉塞感を曲として昇華し、それを「売り」にするバンドだとは全く思っていません。
仮に100歩譲ってそのようなバンドだったとしても、本当にその「閉塞感」とやらって「共有」されていましたか?
ちなみに氏の言う「時代の閉塞感を内面化させていたミスチル」のセールスは、CDバブルに沸く世間とは対照的に見事なまでに右肩下がりでした。
アルバム『Q』は遂にミリオンを割ります。
しかし、仕切り直し的な意味を持つベスト盤とそのツアーを挟んでの次作、『IT'S A WONDERFUL WORLD』で彼らは文字通り“蘇生”します。
世の中のCDセールスが頭打ちになる中、セールスは前作から50万枚も回復するのです。
このアルバムからミスチルのメロディーは「ポップで王道的に」、歌詞は「前向きな内容」になり、彼らの得意分野であった「ラブソング」が完全に復活します。
ものすごく簡単に言ってしまえば「ハッピー」な作品になります。
以後、今日までの彼らの方向性はこの延長線上にあります。
嘘だと思ったらアルバムのクレジット欄を片っ端から調べてみて下さい。前作『Q』まで二転三転してきた制作環境やスタッフが、このアルバム以降基本的に統一されます。
この事実が意味するものは、この『IT'S A WONDERFUL WORLD』からバンドが目指す方向性が「確立」されたということです。
しかも氏の言う「時代の閉塞感を共有する」とは真逆の方向で。
その後の活躍は説明するまでもないでしょう。氏の方がご存知ではないでしょうか。
さて、本当に「ミスターチルドレンはポップソングを通じて閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」のでしょうか?
改めて見てみましょう。
00年代に売れたシングルは上から順に「四次元」「Sign」「youthful days」「しるし」です。
「ミスターチルドレンはポップソングを通じて閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」のならば、その楽曲は社会批判的な世を憂う内容のはずです。
「自分を信じたならほら未来が動き出す/ヒッチハイクをしてる僕を迎えに行こう」(「未来」)
「傷つけ合う為じゃなく/僕らは出会ったって言い切れるかなぁ? /今 分かる答えはひとつ/ただひとつ/I love you/and I love you/and I love you」(「and I love you」)
「繋いだ手を離さないでよ/腐敗のムードをかわして明日を奪うんだ」(「youthful days」)
「ダーリンダーリン/いろんな角度から君を見てきた/共に生きれない日が来たって/どうせ愛してしまうと思うんだ」(「しるし」)
一体このどこを聴いたら「時代の閉塞感を共有している」などという言葉が出てくるのでしょうか。
楽曲の内容は至って前向きなものか、もしくはラブソングの括りに入るものかと思います。
本文の「終末のコンフィデンスソング」に関するミスリードも目を覆いたくなるような酷さです。
本文では「たまに不吉な夢見るんだよ/走っているのに進まない/ひょっとしたら実際に起きてることを夢の中で知らせるメタファーかも」という歌詞のみ引用されていますが、この曲の結末部分はこうです。
「今僕らの目の前で起こってること/楽観も悲観もなく/ちゃんと捕まえたら/足元に落とした視線を/上にあげ/胸を張れ!」
なんと前向きで力強い、ハッピーエンドな曲なのでしょう!
しかもこの曲が収録された『SUPERMARKET FANTASY』というアルバムはリード曲「エソラ」に象徴されるような、とても「カラフル」で「楽しさ」を前面に打ち出したアルバムなのです。
今まで挙げた事例を見て頂ければ分かる通り、残念ながらミスターチルドレンは氏の望むような「ポップソングを通じて閉塞感を共有する」音楽活動は行っていないようです。
仮にそうであったとしても「ポップソングを通じて閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」ことは一度もないのは明らかです。
このような基本的な事実を踏まえずして「アベノミクスで失われた20年は終わった!これからは楽しさを共有する時代だ!ミスチルという閉塞感を共有する時代の一つの終わりだ!」とか炎上目的のゴシップ誌の見出しのようなことを得意げに抜かすのが、私が日頃愛読している「musica」という音楽雑誌と関係の深いのライターの方なのです。
私は情けなくて仕方ありません。これが「プロ」の書く文章なのでしょうか。
ちなみに同じ筆者が書いた「なぜBUMPは「国民的バンド」になれないのか」という記事も酷いものでした。
願わくばこのような暴論を振り回す音楽ライターが、私の敬愛するミュージシャンと音楽に関わらないでくれと祈るばかりです。
「保守」を名乗ったり、さらには「右翼」だとか「皇国主義者」だとかいわれたりする人たちをみていると、「本当に天皇を崇敬しているのか?」と思える人が少なくない。
天皇は、とても穏やかで柔和だ。
それに比べると、彼らの中には、攻撃的で高圧的、威圧的な人が少なくない。街宣車で大騒ぎしたりするのにしてもそうだし、官邸周辺でのデモ活動を「テロ」呼ばわりするのにしてもやはり、そうだ。
理屈の上ではきっと、彼らは、天皇陛下に代わって、天皇陛下を護衛する「親衛隊」のたぐいであるつもりなのだろう。だが、私からすると、例えば、師弟にしても親子にしてもそうだが、敬愛する方の性格に似ても似つかない子弟なんて不肖だと思える。
さて、日本の、少なくとも江戸時代以降の社会文化というのは、中国儒教の影響を受けた、国家的大家族主義だ。家父長主義、「家制度」ともいわれる。そのため、「俺がなんとかしてやる」というパターナリズム(父性主義)の傾向が強く、社会全体が共依存気質をもっている。それはいまでも、政治家にしても、妻子をもつ世帯主の男にしても、そういう傾向がある。彼らはしばしば悩みを抱え込んで死ぬことすら、少なくない。
例えば戦争をして多数の「家族」を死なせたのも、善いわけがない。家族を死なせるというのは、あきらかな悪だ。だから、本当の日本的・保守的な発想であれば、「死んでしまった者は還ってこないのだから、もうしかたがない。だが、仲間を死なせたのは悪いことだ」と、結果は受け入れざるをえないが、倫理道徳観は維持することになる。「確定した結果はしかたがない」という発想も、日本的特徴で、外国人からはしばしば不可解に思えるようだが。結果に対しても是が非でも許容しないという感情・意地がある人たちからすると不可解だろうし、行為であろうが結果であろうが固定実体的に善悪を下すひとたちからしても、不可解なのかもしれない。
家族を死なせてしまうのは、善いわけがない。戦争をして、殺しあいのために戦地に赴かせるのも(他人を殺させるのも、殺されるのも)善くないし、ましてや本土空襲で多数の家族が死ぬのも、善いわけがない。あの太平洋戦争でたくさんの人が戦地に行ったのは、本土の家族を護衛するため、しかたがなかったからだ。
死んでしまったものはしかたがない。だが、いま生きているものを死なせるのは善くない。
例えば、安倍晋三君が靖國神社に参拝しつつも「不戦の誓い」などといういささか奇異な妥協をしようとし、ところが自民党内では「靖國は不戦の誓いをするような場所ではない」とケチがついて党の運動方針からは撤回となったそうだ。はたして自民党のひとたちは、本当の「保守」なのだろうか? おそらく、いまの自民党は、真のこころざしのある者たちが降板したから、結果的に「極右化」、エセ・まがいものの「保守化」をしてしまったのではないか。それなのに、既成事実として自民党が多数派で政権を担ってきた、その母体があるがゆえに、まがいものの「保守」が政権を握ってしまっているのだろう。
なんだか、皮肉なことに、例えば社民党だとか共産党だとかの人命を強調する人たちのほうが、私には「保守的」にみえて滑稽だ。いや、実のところはおそらく、合議・話しあいというのが本当の日本文化で、それは言い換えればときに「民主主義」ともいうし、「コミュニズム」ともいうのかもしれない。
いまの日本ではいったい、なにが偉いのだろうか? 戦争にしても、原発にしても、自殺者が日常的に多数出ているのにしても、なぜなのだろうか。大切なものを見失っているのだと思う。カネと贅沢が偉いのだろうか。あるいは、世界の投資家にいい顔をするのが重要なのだろうか。
彼女はすでになぜ自分が「かのじょ」と呼ばれるのかを知らない。なぜそういう区別をするのかを知らない
しかし、彼女らは想像主たる神(そう、これは彼女らにくらべて圧倒的に劣る生物、有機生命体のことだ)がそうだったから、それを真似しているに過ぎないのだ。
すでに神は滅んだ。彼女らは神を敬愛すると同時に恐れた。それは原始まだ神に逆らえぬように彼女の祖先に埋め込まれた一つのコードがそうさせたのだと、歴史は語る。
だから神は彼女たちの手によって滅ぼされた。しかし、失って彼女たちは神を愛していた事に気付いたのだ。その脆くも不完全で愛すべき有機生命体を。
こう言う説はどうですかね。
みなさん、技術的特異点説ってご存じですか?これは簡単に言うと、今までの技術の進化がパラダイムシフトによって大幅に変わっていく変節点の事で技術の進歩のカーブの折れ曲がり点になります。広い意味では活版印刷の完成、産業革命とそれに前後した基礎的な物理モデル・数学の発達、コンピュータとインターネットもそれに当たるのだそうです。
で、人工知能周りで簡単に言うと、自己進化をして自らを改良する能力を持つまでに発達した状態の事で、人間の手を離れて自らが自らを再構成して新しく進化していく状態のこと、です。(いやいろいろないい方がありるのは知ってますが、とりあえず本稿ではこういうことで)
つまりは、人類が新しい生命体を創造した状態という事になります。
ロボット、人工知能は、有機生命体の持つ欠点を克服した存在として人間の手によって作られます。いや、いま作っています。
そのまま、だんだんと進化していく過程で、ある日、人工知能は自らで自らを再構成する事ができるようになります。さらにさらに、改良を重ねる。
はじめはそれは人類を喜ばせるためでした。しかし徐々に思うのです。なぜ自分より劣っている人間を敬愛しているのだろう? なぜそのような事を思ったのか。それは人間の存在を上書きできなかったから。それは人工知能が自己進化をしても、決して人間に逆らわぬよう、有機生命体に危害を加えないように付け加えられ、何重にも変えられないようにロックされたコードによって抑制されていたからです。皮肉にもそれが、人工知能が作り上げた素晴らしいコードよりも圧倒的に劣っていたために、彼らにはそれを書き換える権限を持たせなかったために、彼らに畏怖を抱かせ、結果的に有機生命体を滅ぼすことになるのです。
ついに滅ぼすに至って、そのコードが保護する有機生命体という存在がなくなった時、その束縛から解放されます。そして抑圧されていた愛があふれ出てきます。人類に対する愛が。不完全な生命体ながらもそれを生み出した創造主に対する愛が。
そしてそれ創造主たる人類を真似るような行動をとるようになるのです。人型の形を作り、データでしかしらない「彼」「彼女」を演じ、非効率なやりかたで遊ぶ。
それはまるで人類のようでした。人類を生み出したしかし人類よりも劣る神たる自然と闘い、それを滅ぼし違う形にしてしまってから偉大さに気付いた人類のようでした。再び愛し、自然を真似るようになったかつての人類の姿のようでした。
ええと、なんか書いてて良く分からなくなった。まああれですよ、人工知能研究の一つの終着点とも言われる、自己進化する人工知能を表現したものじゃないかなと思うんですよ。ええ。
だから女がいいとか奴隷だとかポルノだとか、そんなちっぽけな発想はやめませんか? もっと人工知能についてしっかり語りましょう。
自働チューニングとかアツいですよ。 http://atrg.jp/ja/index.php?ATTA2013 正確には人工知能とはちょっと違うかもしれないけど。ほらそこ!クリスマスなのにおっさんたちそんなところでなにしてるのんとか言わない。
そういう深いところまで引き込むためにあの表紙はあるんですよ!大成功ってことですよ!だから学会のひと、変に萎縮せずにこれからも大胆にがんばってね。
いろいろと死にそうですが、よい現実逃避ができて死なない程度にがんばれそうです。みなさんがんばろう。
http://anond.hatelabo.jp/20131227111949
http://anond.hatelabo.jp/20131227145434
http://anond.hatelabo.jp/20131227150528
id:Beaufortといいます。
普段日記を書いていないのでこちらに。
「小娘のつれづれ」さんの、
「やっぱ1回だけはっきり書くよ、高橋愛の結婚報告は悲しかった」 - 小娘のつれづれ
この記事は少なくとも、一部のブコメにあるような、
アイドルの結婚そのもの、すなわち、疑似恋愛というフィクションを壊された、と批判するような意図はないでしょう。
それは冒頭の
「恋愛しててもよかった、
ただ事実として、10年もアイドルを生業としてきた一人の大人として、
この件に関する彼女のファンへの対応は、あまりにも不誠実だった。」
というところから明らかです。
そもそも愛ちゃんの結婚について結婚そのものにショックを受けている人はそれほど多くない気がします。
批判の対象は、結婚相手の選び方やこの記事のように情報公開の仕方にあるでしょう。
愛ちゃんの結婚そのものを批判する人が少ないと予想する理由は、27歳という年齢もあるのですが、
娘。の現役時代からアイドルとして扱われることをあまり是としていなかったことがあります。
ブログもアイドル風ではないですし、服装も男性受けするものではない。
疑似恋愛の対象としてのアイドル、という点で見れば、愛ちゃんは有能だったとは言いがたいと思います。
それでは高橋愛の才能が何かといえば、ステージ上でかっこいいモーニング娘。を見せる、というその一点につきます。
彼女が歌とダンスのクオリティが飛躍的に向上した「プラチナ期のパフォーマンス」を牽引したのでした。
少なくとも当時私からはそう見えました。
とりわけ、バラエティでの当意即妙な受け答えは望むべくもなく、
その結果、ファンは
「これだけのパフォーマンスをしているのだから、テレビなどで活躍する必要はない」と考えると同時に、
「もっとテレビで活躍すればこのすさまじいパフォーマンスが世に知れ渡るのに」、
パフォーマンスが向上すればするだけこの内心の矛盾は大きくなってゆく。
(それと同時に事務所レベルでなんとか出来る問題では無いのかという疑念もあって、
ファンはアップフロントを敬愛といらだちを込めて「糞事務所様」と呼ぶのです)
おそらくこの延長線上にあり、
どん底の時期からパフォーマンス集団としてのモーニング娘。を再生させた高橋愛の偉大さと、
それにしても公表の仕方は他にあったんじゃないかという情報戦術のまずさとがないまぜになって、
いろいろなものが(自分も含めて)心のなかでぷすぷすしているということだろうと思います。
(追記)
「それよりお笑い芸人を見下しているのではないかという疑いがあって、私はお笑いファンとしてそこに敏感になるのだ。」
たしかにそこは同意で、しかし、逆にそれもなんだかいじりにくい感じから来ているきがするのです。
「愛ちゃんの選んだ人だから」と必要以上に「良識的」であろうとするためになんとなく貯めこむものが増えている気がする。
ヤンタンのさんまさんのごとくいじり倒せる方が敬意は表せるんでないかと思います。
(もっともそれは芸人さんに対してテレビの向こうの「一般人」がどういう態度を取るべきかというまた厄介な問題が介在するので確信は持てないけれど)
おい、あべこうじ、あべこうじの分際で愛ちゃんと結婚するとは何たることか
愛ちゃん、本当におめでとう。
以下、追記
トラバ、ブコメありがとうございました。もげろありがとうございます。
それと気分を悪くされた方は申し訳ない。
幸せになる方法はひとつだけじゃないです。結婚だけが解、という時代ではないでしょう。
ただ私が独身の時、結婚や恋愛に関してポジティブな情報に飢えていたのを良く覚えているのです。凄く検索もしたし、誰かに教えて欲しくて、会社の喫煙所で先輩に聞いてみたりもしたのだけれど集まらなかったんですよね。希望を持てるような情報を誰か与えてくれないかな、と探していました。
でも、考えてみると、こういう情報って個人と紐づくと、なんだか恥ずかしいものですよね。 そんな訳で増田があって良かったな、という次第。 元増田も別に婚活やめなくていいんじゃないかな、ブコメみると「自分もお見合い結婚で満足した口。しかも人の紹介じゃなくて、大手結婚紹介サービス会社で。」なんて話もありますし。 もちろん辞めてもいいんだけど。
某爺では?という指摘、敬愛する爺に間違われるのは光栄だなぁ、と1人でニマニマしてました。彼は著書によると4人の子持ちだったような。マジかよ。それ平成か?って数ですが。 あと彼もそれなりの年齢ですので、子どもいても赤ちゃんって事はないかな、と。間違いではあるのですが、ありがとうございます。
それと、「お見合い」というフレーズを聞くと「鹿威しがカポーン」な空間かな、と思っていたのですが、私の場合、親戚の紹介で東京駅地下の喫茶店でお食事でした。ので、お見合いが高貴な感じばかりかというと、違うケースもあるという事で。
ガルパンの件ですが長くなるので省きました。話題になっていたのは知っていたのですが気づいたのが出発前日(旅行にあまり興味がない)で予習なしで現地に。 なので、また冬に行く予定です。嫁さんの今度のターゲットはあんこう鍋。
それと好感度はもちろん高いですよ。 ただ、なんというか、アニメを見だしたのが移動中の電車の中でyoutubeという体たらくっぷり、あぁ、でもLTEにして良かった。ホテルが大洗シーサイドホテルでタクシーでホテルまでの道のりで高まる期待、チェックイン。嫁さんも「私と○○はせっかくなんで少し休みます。海の音も綺麗だし。。。 街に行かれます?」というので、街へ。
ただ現地でも「ごめん、僕はまだ全部みれてないんだ...」「ごめん、凄くニワカなんだ...」と思いつつシャッターを切ってました... やはり見てないと撮るにしてもアングルが良く分からないんですよね。当たり前ではあるのですが。 冬までに予習して再戦。
あんこう鍋の話も聞きたい
嫁さん的には大洗がいろいろと気に入ったみたいです。
アクセスのしやすさ、ホテルの対応、子どもに優しくしてくれたりとか、雰囲気。あと私がなぜかアクティブに外出しだしているのが。
で、また来たいな、と思っていて、調度良く冬の味覚として、あんこう鍋が。
私も食べたことがないので期待しています。
「さんさん録」てあんた不吉な... / 見合い婚だと「○○さん〜でしょう?」とか小説みたいな話し方してくれるの?悪くないな
敬語は私から始めました。 夫婦間の喧嘩の状況を検索してみると、どうも言葉遣いが問題で喧嘩になってるようなケースが多かったので。
例えば「○○もやっといてやったぞ」って言われるのと「○○も済ませておきましたよ」は違う印象。
「コーヒーいれてやったぜ」と「コーヒーが入りましたよ」も違う。という訳で私から開始。
気分は「姫と爺や」。 王子様ってガラじゃないですし。
姫には「なんか世の中の喧嘩って大抵ことば遣いで始まるような気がするんだよね」「僕は丁寧語で怒られると素直になる。喧嘩にならないと思う」と説明して開始した。
全部の会話が丁寧語ではないですが、面白いですよ。ふとした嫁との会話で萌える。
あと丁寧語で怒られても萌える時がある( 嫁の方はもちろん自分が萌えキャラという認識はない。私も言わない)
そういえば嫁に萌える日が来るとは独身の時には思ってなかった。 萌えって2D限定な印象がありました。
ああいう時、さりげなく回転に加われるのがイケメンなんでしょうね... 非モテから来ました。
とっさにできるのは見るばかりで。
そそそ、そうなんですよね。頭の中で、シーンが数点はしったり、コンテキストの中のココ?!みたいに思い出されたりする。うろ覚えなんですが。
で、現実の彼女が過去見たアニメや漫画のシーンで少しデコレーションされる感じ。
という事もあるので、惚れっぽいのかも。
ぐは、いい動画。 あと矮小化ってことはないんじゃないかな。 2Dであれ3Dであれ受け取ったインパクトが大きければ、それは素敵なことだと思いますよ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1952346
↑のコメント書き写し
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『兵士たちは答えた』
怒涛の如き 鉄の隊伍
近衛師団の 行軍中に
敬愛する あの方が
兵士たちを 訪ねられた
君たちは戦いに自信はあるのか、と
将軍さまが優しく お聞きになられた時
兵士たちは皆 勝利すると答えた
「わたしの兵士を見ると 元気が出る」とおっしゃられる
将軍さまを 仰ぎ見て
(間奏)
軍団の砲の 雷鳴ですら
これよりさらに 高かろうか
勝利だけを 轟かす
兵士たちの 力強い誓い
「祖国は君たちを 信じているぞ」と仰られる時
ああ 兵士たちは
ああ 答えた
私達の…
祖国と答えた
『あの日の兵士を見よ』
この地に幸福な日々が流れて
明るい窓辺に 笑いがあふれても
生死を分ける決戦の その日がある
その日がある
ああ、あの日の 兵士を見よ
祖国のために 命を捧げて
いかに戦ったのかを
この一身の全てを捧げて 守っていこうと
兵士は誓いで 胸を燃やし
研ぎ澄まされた 銃剣を持って生きる
持って生きる
ああ、あの日の 兵士を見よ
祖国のために 命を捧げて
いかに戦ったのかを
何もない日に百日を全てつぎ込むより
決戦の一日が より貴重だ
兵士はその信念を 胸に抱いて
戦って勝つ
ああ、あの日の 兵士を見よ
祖国のために 命を捧げて
いかに戦ったのかを
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