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2023-03-11

クリパ解説するやで

クリパインド叙事詩マハーバーラタ登場人物やで。

シャラドヴァット仙っていう全武器極めようと修行するヤヴァいマッチョがいてな。

インドラ神がそれ見て「マジ怖いわ邪魔したろ」つって、修行してるとこに嫌がらせに女を送ったんよ。

まあ女っちゅーか水の精のジャーラパディーちゃん、天女やな。薄衣一枚のえっちっちよ。

まんまとシャラ(中略)仙人は見惚れてまって知らんうちに射精しとったわけ。きみシャラやなくて精子ドヴァット仙人ちゃうんか。

そのヤヴァいザーメンがそのへんの草に掛かって誕生したんが、妹ちゃんであるクリピーと、その双子の兄のクリパきゅんやな。

そんな子供だましみたいな書き方されとるがやることやったに違いないで。

ただな、垂れ流しザーメン子供できとった事に精ドヴァ仙人は気づいとらんかった。

修行の地を通りがかった兵士が草地に転がっとる双子を見つけてな、上司シャーンタヌ王に報告したんよ。

タヌ王はいいやつでな、クリピークリパって名前つけて養ってあげたわけ。

後になってドヴァ仙人事実に気づいて、息子のクリパきゅんに全武術を伝授したった。

そしたらもう最強になるのは当の然。バトルも余裕のよっちゃんイカよ。

兵法家として大勢戦士を、それこそ後の戦争の両陣営にまたがるほど育成したみたいやな。

このマハーバーラタって叙事詩には重要戦争「クルクシェートラの戦い」ってのがあるんよ。

そこでも軍司令官として活躍しつつ、敗北側ではあったけども最後まで生き延びたツワモノなんやで。

2022-06-07

日本では、戦国時代において、徳川家康が窮地を逃れた際の事例がある。元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原の戦い徳川軍は武田信玄率いる武田軍に敗れて浜松城に逃げ帰った。武田軍はこれを追撃するが、家康は「あえて大手門を開き、内と外に大かがり火を焚かせた」[1]。敗走する徳川軍を追撃して、浜松城門近くまで押し寄せてきた山県昌景馬場信春の両隊は、大手門が大きく開かれ、かがり火が焚かれているのを見て、それに警戒して攻撃をためらっているところへ、三方ヶ原から引き揚げてきた徳川方の大久保康高らと遭遇し、慌てて引き返そうとしたしたところを城内から討って出た鳥居元忠渡辺守綱らの軍勢挟み撃ちになり、苦戦の末、ようやく名栗方面脱出することができた[2]。家康としては、なんの策もなかった。策のないまま、信玄が空城計と見破り、しかも、見破ったが故に、兵法家信玄が、却ってそこに策略の不審を抱いて手を出すのをためらうことに、一縷の望みを抱いたのである[3]。 つまり信玄思考の上を行ったわけで、信玄が並みの軍略家なら、むしろ空城計と見破って、直ちに城門へ突入させたはずである信玄非凡に過ぎて、却って手を出せなかったもので、結果的には、家康心理作戦勝ちであった[3]。

2022-03-04

もしもウクライナ孫子兵法を取ったなら

# 用兵は戦わずして勝つのベストで、それができない場合は、敵味方の実情を把握した上で優位な状態を作り出し、敵を倒す。

優位な状態とは・・・

東を諦めて、首都機能と全戦力と国民を西のリヴィウ(ポーランド寄りの都市)に移動させるとか・・・

それって東京から広島に全員移動して、東京を諦める的なイメージなのかな?

橋下が言っていることはこれに近い?

# 相手の裏をかき、敵の手薄な部分を攻撃する。戦いとは相手の態勢に応じて臨機応変にしなければならない。

欧米を味方につけたり、巧みな情報戦で裏をかいいるかもしれないが・・・

# 優れた兵法家は、兵士個々人の力を求めず、軍全体の勢いを求める。戦いの中では軍の勢いがポイントになる。

士気は高くて勢いもあるかもしれないが、戦力差がありすぎるような・・・

ウクライナはどうすればいいのか?良かったのか?

孫子兵法実践しておられる優れたビジネスマンの皆さんに、ぜひご教示いただきたい。

今後の日本のためにも。

2019-07-27

anond:20190727103628

しろそれが正常じゃね?

勝ち確になるまで慎重に徹するプロ兵法家やん

2017-10-03

真の兵法家そもそも銃弾が撃たれるような状況にしない

2015-05-18

中国名

中国の名将について検索をかけたときによく挙げられている人物を紹介する。

春秋
孫武世界史上に名高い兵法書孫子」の著者。伍子胥と共に呉王が覇者となるのに貢献した。
戦国
呉起孫子と並び称される兵法家。いわゆる「呉子」。魯・魏・楚などに仕えたが、強引な改革で周囲の恨みを買って殺された。
孫臏「孫臏兵法」の著者。友人に裏切られて罪人となり脚を切断されたが、逃げ出した先の斉で将軍となり、「馬陵の戦い」で復讐を成し遂げた。
白起秦の名将。包囲殲滅戦の名手にして虐殺者。「長平の戦い」では四十万もの捕虜を生き埋めにした。そのあまりの強さから王に恐れられて賜死された。
李牧趙の名将。匈奴に大勝を収め、秦の大軍を退けたが、離間の計によって王に疑われて殺された。趙が滅亡したのは李牧の死からわずか三ヶ月後のことだった。
王翦秦の名将。趙や楚を滅ぼし、始皇帝中華統一に多大なる貢献を行った。猜疑心の強い始皇帝に誅殺されることもなく天寿をまっとうした。
楚漢
項羽秦軍の中心となり西楚の覇王と号す。戦では無敗を誇ったが、それまでさんざんに勝ってきた劉邦最後になって敗れ、自害した。
韓信建国の功臣。漢の三傑。「背水の陣」で有名。魏・趙・斉を降して劉邦天下統一を大いに助けたが、皇帝即位後は冷遇され、謀反を企んで処刑された。
西漢
李広匈奴戦の名将。弓の名手として知られる。若い衛青が台頭したのち、その下で不甲斐ない戦いをし、それを恥じて自刎した。
衛青匈奴戦の名将。苦労人で人格者。低い身分から取り立てられ、匈奴と戦って連戦連勝し、その功績により大将軍にまで出世した。
霍去病匈奴戦の名将。衛青の甥。天才肌で直情径行。若くして匈奴との戦いで活躍し、衛青を凌ぐ名声を得るが、24歳で夭折した。
東漢
劉秀東漢の初代皇帝。「昆陽の戦い」では100万と号する軍勢わずか1万の兵で撃破した。皇帝としては一代にして創業と守成を成し遂げ、功臣を粛清することもほとんどなかった。
班超中央アジアを平定し、東漢の最大版図を現出した。西域に三十年間も留まったのち、洛陽に帰還して一ヶ月後に亡くなった。
三国
曹操東漢末における群雄のひとりから三国鼎立中の最大勢力にまでなり、後の魏・晋の礎を築いた。兵法家詩人としても名を残す。
周瑜呉の名将。美男子で有名。「赤壁の戦い」において魏の大軍を破った。
南北朝
韋叡梁の名将。身体が弱かったため、戦場では鎧を付けず輿に乗り、竹杖で指揮していた。南北朝最大の決戦「鍾離の戦い」にて百万の大軍を破る勝利立役者となった。
陳慶之梁の名将。わずか7000人の「白袍隊」を率いて北伐を敢行、連戦連勝で洛陽まで陥とした。「千軍万馬も白袍を避ける」と賞された。
李靖建国の功臣。内戦においては中華統一に貢献し、外征しては騎馬民族騎馬戦術によって滅ぼした。中国史上屈指の名将とされ、李靖に仮託して兵法書李衛公問対」が書かれた。
李世民唐の二代皇帝。李淵の次子として、隋末唐初の戦乱において多大なる軍功を挙げ、そのまま兄を追い落として皇帝となった。政戦両面における名君として知られる。
郭子儀安史の乱を平定し、吐蕃ウイグルの侵攻を撃退するなど、幾度にも渡って国を救った。子孫、財産長寿に恵まれ万民から敬愛された。
岳飛対金戦の名将。忠臣として名高い。私兵を率いてたびたび金軍を破るも、和平派によって冤罪を着せられ殺された。
常遇春建国の功臣。常に先陣を切って戦った猛将で、日頃から10万の兵士を率いて天下を横行したい」と語っていたため「常十万」と呼ばれた。
徐達建国の功臣。謹厳実直にして冷静沈着。総司令官として北伐を行い、元をモンゴル高原へと追いやった。朱元璋からは功績第一と称賛された。
朱棣明の三代皇帝。甥の二代皇帝に反発して挙兵、圧倒的不利を覆して正規軍勝利し、帝位を簒奪する。皇帝となった後も、自ら軍を率いて積極的な外征を行い、明の最大版図を築いた。
戚継光私兵を率いて倭寇討伐に功を挙げ、また北方に赴いてモンゴル侵入を防いだ。倭寇に対抗するため、中国全土の武術をまとめあげ、日本剣術研究したことでも知られる。
左宗棠自らを今孔明と称した。太平天国の乱の鎮圧に貢献し、洋務運動を推進した。さらには回民蜂起の鎮圧、捻軍の鎮圧新疆奪回など、清軍の大黒柱として活躍した。

2013-10-14

http://anond.hatelabo.jp/20131014103424

  • どんな卑怯な手段を使ってでも相手を殺す
  • 自分弟子に相手を袋だたきにさせる
  • 戦ってもいない試合に勝ったと紙に書いて街中に貼って話題を作る

こういったものをそもそも「兵法」というのであって、

武蔵は実に真っ当な兵法家であります

また、兵法家というものは、太平の世になってもやっぱり武芸指南とかをやっているのであって、

カリスマコンサルだったのは柳生宗矩だけです。

さらに言えば「軍師」というのはまた別物で、大名の側にいて卜占や祈祷をするのが軍師です。

ちなみに、武蔵は破格の待遇熊本藩に迎えられており、武芸者連中のなかでは超勝ち組です。

武蔵を招いた細川忠利は、兵法教養化を成し遂げた柳生宗矩に師事しております

まり、「教養化した兵法」の側からこそ、哲学芸術的才能を持ち合わせた武蔵が高く評価されたわけです。

 
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