はてなキーワード: 忸怩とは
水ダウがあるのにそれに甘んじるの忸怩たる思いないのかなあ
草津町長の公式声明が出された後にTwitter上で北村紗衣さんが表明した、一連のツイートについて、読解とそれに基づく批評を試みたいと思う。
まず一連のツイートから、北村さんの言いたいことの骨子をまとめると、概ね次のようになる。
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(1) 私(北村紗衣さん)は、わずか1回しか、草津町長及び町民への誹謗中傷は行なっていない。
(2) わずか1回なので、草津町長や町民から告訴される可能性は、極めて低い。
(3) 私(北村紗衣さん)が告訴される可能性や処罰される可能性は、極めて低い。それにも関わらず、私(北村紗衣さん)は自発的に謝罪した。これは、私(北村紗衣さん)の良心の顕れである。
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一読して最初に感じるのは、北村紗衣さんは、読者に向けて「誹謗中傷の回数の少なさ」と「告訴される可能性の低さ」を強調したいのだろうという印象である。
まず(1)についてである。法廷において弁護士側・被告人側が行なう法廷戦術として展開する弁論だったならば、然程おかしくはない。しかし、法廷外で被害者に向けて謝罪する場面での言葉として見たら、どうだろうか。加害者にほかならない北村紗衣さん自身が「犯罪と見做されかねない行為の回数の少なさ」を強調する姿を見て、被害者である草津町長や町民は「北村さんは真摯な人だなあ」と思ってくれるのだろうか。むしろ、逆に「一見すると、この人は謝罪しているように見せているが、実際は自分がしたことを矮小化しようとするのに懸命だなあ」と解釈しないのだろうか。
時々、他人に損害を与えた側の人間が、損害を被った側の人間に対して「たかが✕✕ぐらいで」などと言って、不必要な怒りを買うという場面に出くわすことがある。それと同じ誤ちを、現在の北村紗衣さんも犯してはいないだろうか。
次に(2)であるが、これも(1)と同様である。草津町長や町民は、むしろ「なるほど、告訴されないラインを見極めてから、誹謗中傷を行なっていたんだな。狡猾だな」と解釈しないのだろうか。
ハッキリ言えば、今回の北村紗衣さんが草津町長及び町民に対して行なったことは、関東大震災の時に「在日朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」という流言蜚語に乗って、在日朝鮮人を私刑に掛けようとした暴徒と同レベルである。私刑が初期段階でストップしたから、草津町長が無実の罪で刑務所に送られずに済んだという、本当に不幸中の幸いだったというだけのことである。被害者たちからすれば堪った話ではない。
では、その暴徒が「リンチに掛けようとしたのは、たったの一回だけ」「未遂で済んで実害は無かったのだから、重い罪にはならない」「自分は暴徒の群れの中にいた一人に過ぎない」と言ったとしたら、あなたはそれを見て「この人は誠実な人、良心的な人だなあ」と思うだろうか。そういうことである。
続いて(3)である。北村紗衣さんは「私は既に謝罪した」と主張するのであるが、北村さんの一連のツイートを追ってみたのだが、草津町長及び町民に宛てた『謝罪文』らしきものは見当たらない。小説や映画のDVDで前の頁やチャプターに遡って、伏線を見落としてはいないかと確認するように、北村紗衣さんの一連のツイートを確認したのだが見当たらない。これはイーロン・マスクに掻き回されたことによる、Twitterの不具合なのだろうか。
或いは、北村紗衣さんは「謝罪したいと思います」という言葉が、謝罪に該当するのだと主張するかもしれない。しかし「ご飯を食べたいと思います」と言うことと、実際にご飯を食べることは、やはり別の話であると私は思うのである。私がどう思おうが関係は無いと、北村紗衣さんは言うかもしれない。
では例えば、北村紗衣さんを呉座勇一と比較したら、どうだろうか。
呉座勇一が北村紗衣さんに宛てて記し、pdf文書として公に発表した謝罪文のような、誰に対して、何について謝罪するのか、再発防止のためにどのような取り組みをするのか等を明記したものは、現在のところ見当たらない。これは私が見落としただけなのであろうか。本当に北村紗衣さんは、草津町長及び町民に向けた明確な謝罪文を発表したのだろうか。これは、事実についての確認である。
呉座勇一という謝罪と処罰の実例が存在する以上、北村紗衣さんの謝罪が比較対象として俎上に載せられるのは、至極当然であると言える。
もしも、既に北村紗衣さんが、呉座勇一と同レベルの、草津町長及び町民に対する謝罪声明文を出しているのであれば、それを固定ツイートとして最上段に持ってきて、必ず閲覧者の目に留まるようにした方が無難であろう。謝罪する羽目になったことを、北村紗衣さんが大衆の記憶に残したくない、連続ツイートの波によって押し流してしまいたいというのであれば話は別であるが、真逆そんなことは無いだろう。
さらに言えば、北村紗衣さんは「告訴を受ける可能性、処罰を受ける可能性が低いのにも関わらず、自発的に謝罪したのだから、私が良心的な人間であることを他者に示すことが出来た」と考えているようであるが、果たして草津町長及び町民が、北村さんの望み通りの解釈や反応を示してくれるだろうか。
北村紗衣さんは「私が告訴や処罰の対象となる可能性は、極めて低い」とアピールすることで、草津町長及び町民に「なるほど。処罰される心配や責任を取る心配が無いと見越したからこそ、安心して謝罪のポーズを取ったのか」と解釈されるという可能性には、思い至らなかったのだろうか。
最後に(4)である。北村紗衣さんが「私は良心的な人間です」と草津町長及び町民に対してアピールすることは、これは北村さんの自由である。しかし、そのアピールの内容に説得力があるか否か、それを草津町長及び町民に信じさせることが出来るか否かは、また別の問題である。他者が北村紗衣さんの言葉をどのように解釈するか、彼らの内心を強制することは出来ない。
既に述べたとおり(1)〜(3)の主張は、北村紗衣さんが草津町長及び町民に大きな誤解をされかねない要素を多分に含んでいる。北村紗衣さんのことを誤解したままで「私(北村紗衣さん)は良心的な人間です」と言われても、草津町長及び町民の目から見れば、余り説得力を持たないのではないだろうか。
文学研究の専門家に対して、このようなことを言うのは釈迦に説法であり、忸怩たる思いがあるのだが、(1)〜(3)のように読者が芳しくない印象を抱くであろう文章を公表するというのは、それが本来の意図した効果ではない限りは、北村紗衣さんの学術的能力にも疑問符が付けられることになりかねないのではないだろうか。北村紗衣さんのように、誠実で、良心的で、学術的能力に恵まれた人間が、不必要に誤解されること、不当な低評価を受けることは、学術界のみならず社会にとっても大きな損失である。
北村紗衣さんは、ご自身の意図や目的に沿うように文章を十分に推敲して、練り直してから発表した方が良いのではないだろうか。
文学作品や映画作品に明るく、それらについての読解及び批評の専門家であるのだから、北村紗衣さんは「もしも、彼女(北村紗衣さん自身)がフィクション作品の登場人物だったとしたら」と、少しだけ考えてみてもらいたい。北村紗衣さんが批評家や文芸編集者の立場だったとして、作家が「真摯に反省して謝罪している、良心的な人間の姿を描いた」として、上の(1)〜(4)のような描写の為された原稿を提出してきたら「作家が意図した効果は出ていない」と評するのではないだろうか。
もしもこれがフィクション作品であり、北村紗衣さんが登場人物であるのならば、一人の読者としての私は(1)〜(4)の描写に基づいて「表面的には反省や謝罪の言葉を述べているものの、罪に対する罰や責任からは逃れようとしている人物を描いている。それによって作者は、人間のエゴイズムや弱さや愚かさを描こうとしているのであろう」という感想を抱くと思う。それは果たして、作者である北村紗衣さんが意図した効果を生んでいると言えるのだろうか。
このような感想を抱くのは「告訴やそれに伴う法的な処罰の対象となる可能性が低い」ことを、結局のところ、北村紗衣さんは喜んでいるのか、それとも申し訳なく思っているのか、あるいは他の思いを抱いているのか、その点についての描写が不明確だからである。
例えば「司法機関に『私を処罰して下さい』と申請したのだが『法的な要件を満たさないので、処罰はできない』と回答を受けた。罪が重いのに罰を受けないままでは、あまりにも心苦しい。だから、せめて草津町長及び町民の前で謝罪させてもらう機会を与えて欲しい」とか「私が懇意にしているマスメディア関係者に働きかけて、草津町に関する訂正報道や謝罪文が掲載されるように協力してもらう」とか「呉座勇一と同様に職を去る」とか、そういった具体的な描写が無さすぎる。これでは「この登場人物は、本当は良心的な人間であり、真摯に反省しているのだ」と、読者は思わないのではないか。
北村紗衣さんのしたことに見合う罰がどのようなものかは、私には分からないし、私には北村さんを罰する権限も資格も無い。だから私は、北村紗衣さんを罰するつもりは毛頭無い。しかし人間は、己の行動を罪深いと本心から思っている時には、他人からの処罰を受けるか否かには関わりなく、自らで自らを罰したり、償いのための行動を自らに課したりすることが出来る生き物である。だからこそ、優れた文学その他の芸術は、自らの罪と真摯に向き合う人間たちを描いてきたし、北村紗衣さんもそのような作品を愛してきたのではないか。
そのような文学その他の芸術に登場する真摯な人たちと比べて、北村紗衣さんは自分自身のことを、どう思うのか。
或いは、私の解読や批評など取り合う必要も価値も無いと、北村紗衣さんは判断するかもしれない。実際、Twitter上で北村紗衣さんは、草津町長及び町民に対する誹謗中傷について北村さんのことを批判する人間に対して「あなたに自分のことをどう思われようが構わない」という主旨の発言を、今日現在でも繰り返している。しかし、無関係な人間は口出しをするなと言うのであれば、そもそも草津町に縁もゆかりも無い北村紗衣さんが介入したことを、どのように説明し、正当化するつもりなのか。英米文学に明るい北村紗衣さんならば、ジョン・ダンの「なんびとも一島嶼にてはあらず」という言葉を知っているはずである。あなたや我々は、一島嶼なのか、大陸の一部なのか。
そもそも、北村紗衣さんが「あなたは草津町に関係ない」と言った相手は、本当に無関係なのか。Twitterで「あなたにどう思われようが関係ない」と北村紗衣さんが言った相手が、もしかしたら、実は草津町民であった。そのような可能性を、北村紗衣さんは全く考えなかったのだろうか。この文章を書いているのも、草津町民なのではないか。そんな可能性は無いのか。
北村紗衣さんが本当に反省しているのか否か、嘘偽りのない北村紗衣さんの実際の姿を、自分の目で見極めるために、敢えて彼らは、草津町民であることを明かさなかっただけかもしれない。そのような想像力を働かせることこそが、文学によって培われる能力なのではないだろうか。北村紗衣さんは、文学研究を通じて、そのような能力を培おうとはしなかったのだろうか。
もしも、北村紗衣さんが愛した文学作品や芸術作品が、北村さんの中にそのような想像力を少しも育まなかったのだとしたら、これほど悲しいことはあるまい。そのような悲しいことが無いことを、私は願っている。
先に言っておく、これから書くグダグダと長い話はコミュ力のない女がコンテンツの名を借りてくだを巻いているだけのしょーもない話である。(三行でまとめた結論)
もっと言えばアテクシ男性向けジャンルにずーっといるのに男性の友人が一人もできなかったチクショー!(落ち着けお前に魅力がないからだよ)って話です。だめだどう言ってもだいたい三行で終わる話やんけ!!!!
私もアホすぎて友人にも言えない話をどっかに吐き出したかっただけです。
私自身ねらーだし炎上案件を暇つぶしに見ちゃうやつだからあわよくばコンテンツ関係のブログにまとめられて好き勝手言われたり面白おかしく叩かれたいな~と思わなくもないが、そんなん誰も得しないし、そんな妄想しちゃうちっぽけな自己顕示欲自分でもキモ…と思うのでまあつまり以下はそんなどうでもいいお気持ちです。
前置きはさておき。
私はアイドルマスターが好きだ。特に765とシンデレラとミリオンに担当がいる。
タイトルにあるプロデューサーとはつまりアイマスにおける我々ユーザー諸兄のことである。
しかし最近その中のひとつのマスで、目標にしてた区切りが出来たので(実際は違うんだけど声がついたとかレベルが目標までいったとかそういう感じ)徐々にハマっていた熱が落ち着いている。
そしてそろそろもう引退の文字が頭をよぎった頃、モバマスのサ終のお知らせ。
それでサ終における心残りを自分で思い返してみたらまあ色々あるんだけど、そのうちの一つが「プロデューサー(アイマスとか同じ趣味の)の彼氏が欲しかったなぁ」だったのだ。
我ながらマジで何言ってんだよ担当に恥ずかしくないのか??って思うけど恥ずかしいので増田に書いている。
モバマスをたまにやる程度だった私がデレステを機にまた興味が出てライブに行って気がつけばめちゃくちゃハマってた。
ゲームをやり、円盤やグッズを買い、コスプレをしたり、即売会に行ったりライブに行った。
デュンヌ(この言い方あんま好きじゃないけどわかりやすいので使う)はライト勢に思われがち(いやそもそもそれこそが私の偏見だわ)だけど、ゲームの頻度とかお金のかけ方とか選挙のダイマとかも張り切ってやっちゃうレベルにこのコンテンツにハマっていたと自分では思う。
ならそれでいいじゃないか、アイマスを楽しんでるじゃんって話なんだけど、強欲なのか性欲なのか自分でもよくわからんが彼氏が欲しかった…いや出会いが欲しかったという後悔が生まれてしまったのだ。
その後悔を消化するために何故そんな気持ちが生まれたのか、そして何故彼氏が出来なかったのかをここから更にダラダラ書いていきたい。
まず大前提として私は彼氏いない歴=年齢で、大学生の時にモバマスが始まったりアニマスがやってたので今まわりが結婚ラッシュな年齢なのである。
更に長くアイマス界隈にいると、プロデューサー同士で結婚しましたとか、付き合いましたとか、結婚式のセトリにアイマス曲流しました(素敵で羨ましい)というのが結構流れてきて「いいなぁ」と思ったからである。
(あと実はアイマス以外にも好きな男性向けジャンルが色々あり長年推してる女性声優さんがいるんだけどこっちの界隈でもファン同士での結婚話を本当によく聞く)
だから適齢期だからとかじゃなくて同じライブに行ったり同じ趣味の恋人…というものに漠然とした憧れがあったのだ。
そもそも物心ついた時から私はアニメやゲームが好きなおたくである。
大好きな女性向けジャンルがあるんだけど、それとは別に男性向けジャンルも昔から大好きだった。
(ジャンルに男性向けも女性向けもないんだけど便宜上使います)
わかりやすく言うとコミケで1日目2日目で女性向けを買い漁った後、3日目で男性向けも買い漁っていた。
男性向けジャンルっていうかギャルゲやエロゲの美少女ゲーが好きでときメモ、キミキス、アマガミはもちろんエロゲをプレイして感想ブログや聖地巡礼ブログを読み漁るのが好きで、いつかこの「好き」を誰かと語り合えないかなぁとつくづく思っていた。
もちろん男性向けジャンルが好きな女性はいっぱいいるから女性の友人を探せばよかったのだがそちらも中々見つからなかった。
アイマスにハマるよりも遥か昔、入り浸ってた某萌系携帯掲示板で男女比の統計を取ってた時に「いうて6:4くらいっしょ」とか思ってたら1割もいなくて本気でビビった思い出がある。携帯サイト時代より今はおたくがオープンになったからもっと男女比普通だろうけど。
大学に入ったらげんしけんみたいなサークルに入って青春するんだ!とも思ってたけど結局おたく系のサークルには入らなかった。
だからとにかく男性ファンが多いコンテンツについて、誰かと好きを共有したいという気持ちがどんどん私の中で強くなっていた。
たぶんこれを書いたら「そういうことを自分で言っちゃう性格で、選りすぐりしてるだけだから恋人できねーんだよ」という結論になるんだけど、とりあえず聞いてくれ。
率直に言うと、私はわりと彼氏がいないといっても信じてもらえないタイプの人間である。
別に飛び抜けて良いわけじゃないけど容姿は稀に美人と言ってもらえる程度の普通さで(だと思いたい)、メイクもおしゃれも好きで服装もいわゆるモテファッション(ごめんモテファッションって言葉キモイよね、全人類好きな服着りゃいいだろと思ってる)みたいなのが好きでいつも茶髪で女子アナっぽい格好をしている。
告白もこの数年間に何人かにされた事がある(分かち合えるおたくの人がいいので全員お断りした)
彼氏がいないってのを信じてもらえなくて泣いたこともあった20代だったけど、アラサーになった結果無事「その年齢までいないなら性格とかに致命的な欠陥があるのだろう」と生温かい目で見られるようになってしまった。
つまり何が言いたいかっていうと、好みは置いとくにしても一般的容姿の問題はクリアしてるかもしれないのになんで彼氏できないんだ!?という激しく上から目線の気持ちが私の中にはあるのである。
要約すると、
容姿的には平均基準は満たしてるからワンチャンあったのでは!?
はい、この項目で一気に読んでくれてる人から味方を失った気がするけど続けます…。
(だってこれ言い換えると「理解のある彼くん欲しいナ、そろそろいないとヤバイ年齢だし、容姿的にもアテクシにいないのおかしくない?」って言ってるもんでしょ…まじでそういう傲慢な気持ちは一切ないんだ信じてくれ)
そして彼氏が欲しいだけじゃなく、何故「プロデューサーの彼氏」が欲しいのか。
まあこれは単純に私がアイマスを好きだから一緒に語りたいってのが一番の理由。
あとはこれはシンデレラに限った話(いやシタのTSの時もか)だけど、総選挙中につらい気持ちになったりして本当に心の底から誰でもいいから同担と語りたい、担当を好きな人とこの気持ちを分かち合いたい!と強く思ったことが過去にあったから。
同担と語りたいなら同担のデュンヌと仲良くなるばよかったのでは…?
とお気づきの方もいるだろうがそれについてはこれから言及したい。
◆何故彼氏ができなかったのか?①
身も蓋もないけど!!
だって彼氏欲しくてアイマスやってたんじゃないもん!アイドルとプロデューサーの関係の世界観とか、ゲーム性とか、あとはまあ惰性でやってたりもするけど、なにより担当が可愛くて好きだからアイマスやってるわけで、出会い目的のつもりが一ミリがなかったから。
◆何故彼氏ができなかったのか?②
めちゃくちゃコミュ障だし、性格もこんな自己顕示欲と自己肯定感のなさが混同する読みにくい長文増田を書いてしまってる時点で色々お察しですがな。
自分から人に話しかけたりするのが苦手で、ていうか男性に免疫が全くないので我ながらよく出来たなと思う位めちゃくちゃ凝った名刺を100枚刷った時もライブに行ったのに1枚も渡せなくて、泣く泣く会場近くの家電量販店とかの名刺置き場に自分で貼りに行くとかやっていた。(名刺交換したい…)
もちろんライブで隣り合った人に自分から話しかけるなんてのも無理だから、前の席の男性陣が初対面なのに「今日はよろしくお願いします!」とかUOや名刺渡しあったりしてるのを羨ましく指をくわえて見てることもしばしば。
一回だけライビュで帰り際に隣にいた一人客の男性が「お疲れ様でした!」って言ってくれた時は嬉しかったな…。
(これは異性に声をかけられた嬉しさとかじゃなくて女が一人でいて不審がられてないから心配だったけど上映中の振る舞いでちゃんとPってわかってもらえたかも!っていう同志として認められたような嬉しさ)
賛否あるけど私は名刺とか、隣のPに挨拶~みたいなアイマス特有の文化が好きだから、自分が男性だったらこの文化を全力で楽しめたのかもなって悔しく思うこともあった。
企画に参加して担当の法被も持ってるけど、現地の法被撮影会とかも行きたくても勇気がなくて行けなかった。
(もちろん名刺交換してるデュンヌも挨拶してるデュンヌもめちゃくちゃいるので私個人の問題だよなぁぁ)
ライブも一人で行ったり別ジャンルの女の子の友人と行くとかばかり。
まあでもライブには担当や中の人見に行ってるから、やはり出会うつもりで行ってないってのは大きい。
一人で行ってもセトリ最高だったー!!ってウハウハで帰宅とかしてたし。
◆ 何故彼氏ができなかったのか?③
アイマスは一旦抜きにしても、アラサーになるまで何故彼氏がいないのか。
私自身の魅力のなさはもちろんだが、これについても自ら出会おうとしていなかったからに尽きる。
正直人間誰しも恋愛に積極的ならある程度の色事経験は出来るのではないかと思っている。
でも私は女子校だったし、ライブやイベントとかも好きだからオタク趣味にも忙しくて休日は埋まってたし、男性に免疫がないから自分から恋愛関係に積極的じゃなかった。
恋愛がなくてもオタク趣味のお陰で毎日充実してたから必死に欲しがっていなかった。
最近はマッチングアプリでおたくの彼氏できたよ!って友人もかなりいるが、マッチングアプリもやった事がない。
だってやってみて万が一にも誰かに気に入ってもらえたとして実際会ってガッカリされたら立ち直れない気がするのだ。
(とら婚とかおたく専用のマッチングもあるらしいが、結婚を視野にとかじゃなくてまじで付き合ったことのない女が同じ趣味の人と付き合ってみたいという初歩的な気持ちすぎてガチな所も申込みづらい)
先日自分もアイマス好きなんですよ~という知人にご飯に誘われついノッてしまったがにわかにも程があry…じゃなくて、あんま知らないくせに女とご飯をするという目的でアイマスをダシにされて最悪だった。
別に廃課金であれとは言わないけど、好きだというなら全キャラの名前は普通に知ってるレベルでいて欲しい。
こんなんだからエロの知識もエロゲと同人からがほとんどで片寄っている。アラサーにもなってこれだとやばいのは自分が一番わかってて辛い。
◆ 何故彼氏ができなかったのか?④
他にもこの疑問を考えるとわかりやすい大きな理由がSNSを活用出来てなかったという点もある。
私はそもそも他にハマっている女性向けジャンルがあるのでツイッターでもそちらのジャンルについてばかり話していて、プロデューサーとSNSでほとんど繋がっていなかった。
なのでデュンヌの知り合いもほぼゼロ。
別ジャンルメインのツイッターに天井芸スクショとか載せてもフォロワーさんにまたやってる~と言われる位の反応しかなった。
Mマス好きな知り合いは結構いるが、私が女の子のアイドル好きでMマスには詳しくなかったのでアイマスを語れる人が周りにいなかったのだ。
アイマス専用垢でも作ろうかと思ったけど、ごく一部のデュンヌってだけでフォローしてくる輩の存在を知って怖くなって結局アイマス垢は作っていない(彼氏が欲しいなら矛盾してるかもだけど)
一方的にフォローしてるアイマスジャンルの人はいるけど話しかけたことはない。
フラスタ企画とかで繋がることもあるけど、基本的に違うジャンルの話ばかりしてるからしばらくしたらフォロー外されちゃったりする。
そんなわけでツイッターでのプロデューサー繋がりはほぼないのだ。
コスプレもしているので、アイマスを知っているカメラマンさんと話したりはするけど深くハマってるガチ勢と会ったことはなかった。(これは単に縁がなかった)
が、古参の人が仲間と話すために回していたり、熱心に企画してくれる方を見るだけでこちらから話す事はなかった。
私もまあまあ古参だけど!って思う場面でも出来上がった交友関係にいきなり話しかけるほどイキることもなく…。
それでも人数が少ないディスコでオフ会に誘ってもらえたこともあったのだが、ディスコでは男性を装ってネナベのような感じで話してたのでオフ会にいきなり女が現れたら困らせたり不快にさせてしまうかもしれないと思い断ってしまったこともあった。(友人に男性が多いオフ会にお前みたいなメイクばっちり女が行ったら怖がられるよと言われたことも行く勇気が出なかった理由でもある)(でも普通におしゃれしてるデュンヌ多いからこれも私の気持ちの問題)
つまり私はデュンヌも相当数いるというのに、男女比を過剰に意識しすぎて「プロデューサーと語りたい」という気持ちと同時に「プロデューサーと会う為の行動が出来ない」というジレンマを抱いてしまったのだ。
その忸怩たる二律背反が、「プロデューサーの彼氏が欲しい!けど出来ない!!!!!!」という妄執を産んだのだと思う。
そして時は流れ、アイマスについて誰かと語り合える前に引退がよぎるようになってしまった…悲しみ。
私もさあ!ライブ大満喫したあとに男性でも女性でもいいからプロデューサーと打ち上げ飲み行って、ライブのよかった所とか担当の可愛い所語ったりして、そのうちにその中の誰かといい感じになってときめきどこまでもエスカレートしてみたかったし、恋のレッスン初級編したかったし、そんで恋心ハートマークチュッチュチュチュチュッしたかった!うおおおおおん。
だから同性でも異性でもP同士の仲間がいる人はみんなすごいよ。羨ましい。
P界隈も色々あるけどさ、楽しそうに語り合ってるのみると素直にいいなって思う。
◆つまり、なんなのか
アイマスに長年いると、中の人の既婚者も増え、ついには某Pの中の人もご結婚され年月の早さが身に沁みた…。
さらに欲を言えば誰かと恋愛がしてみたい、そしてどうせなら相手は自分と同じ趣味のプロデューサーだったらいいのにって思ってしまった悲しい喪女のぼやき。
なんか書きながら居た堪れなくなってツッコミまくるから()多用してクソ読みにくくなってるものをここまで読んでくれてありがとう。
オタクに恋は難しい…っていうよりコミュ障に恋は難しいだなとつくづく思うのであった。
安倍氏withお友達が腐敗していることはかなり明らかだった。
嘘吐きなのもはっきりしていた。
だけど全然何も解明されなかったし、だれも責任を取らなかった。
解明されそうになると、他の誰かが死んだり、書類が無くなってしまったり。
翻って今。
「不存在」といわれていたアベノマスクの契約関連メールが発見された。
安倍氏が殺されなかったら、いつ、これらのことが日の目を見たのですか?
だけど、このテロによって多くの一般国民がカルト宗教によって国政がゆがめられていた、
民主主義を踏みにじる行為が「票とカネ」のために、与党の中心人物によってなされていた。
そういうことを知れたのは良いことなのではないだろうかと思う。
そう言うけど、私はこの結果に満足している。
私はこの結果を望んでいたのだろうか?
プログラミング未経験から1ヶ月ほどで、将棋の評価値の新たな方法でのグラフ化を行うPythonツールを作った。
https://github.com/k-the-p/notherscore
この記事は2本立てです。プログラミングより結果のグラフや将棋に興味がある方はもう一方の将棋編から読むことをおすすめします。
未経験から1ヶ月!Pythonで観る将ライフを向上させた話(将棋編)
AIはわれわれアマチュアの将棋への親しみを大幅に向上させてくれた一方で、棋士が悩みに悩んだ結果として評価値が下がる手を指してしまったときに、「悪手きたwwww」と騒ぐ主にABEMAのコメント欄には忸怩たる思いがあった。
とはいえ、もう評価値を知らなかった時代に後戻りするなんてことは誰にもできないだろう。そして、電王戦から将棋にハマった自分自身としても、AIを否定はしたくない。
であるなら、AIを用いた新しくよりよい将棋の楽しみ方を探っていくしかないのではないか。
以前から私は、「AIの手を指せるなら人間も苦労しないんだよなあ」と思っていた。あるとき藤森哲也先生がYoutubeチャンネルで言っていたことを聞いて得心がいった。「AIの一手は最強の一手なんです。確かにプラス1000点になるけど一手間違えた瞬間にマイナス何百点になるような綱渡りの手。それよりもアマチュアの皆さんにはプラス数百点で得は少ないけど安全な道、最善の一手を学んで欲しい」(大意)と。
ここで言う「最強の一手」に人間にして最も近いのは紛れもなく藤井聡太四冠であろう。藤森先生はアマチュアに向けて喋っていたが、その葛藤は間違いなくプロの中でもあるはずである。渡辺明三冠が言うように「藤井くんと全く同じスタイルを今から目指しても絶対藤井くんより強くなれない」のは自明であるからして。
私はここにドラマがあると思う。また、最強の一手と最善の一手が等しく「いい手」に見えてしまうわれわれアマチュアとしては、そこを機械に教えてもらえるのであれば、棋力向上にも繋がりそうである。
第1候補手と第2候補手の評価値の差を取ってグラフ化すればよさそう?
(差が小さければ手が広い、差が大きければ絶対手に近い、綱渡り)
目指すのはあくまで便利な将棋ツール。将棋AIを作りたいわけではないので、将棋AI自体は局面を入れたら評価値を吐く謎の箱という扱いでよい。
グラフ化や数値の扱いだけでなく、将棋AIとのやりとりをやってくれるあれこれもあるようなので。
あと習得が楽だと聞いた。その話を教えてくれた人はもう10年間英語学習法をブクマし続けてるけど。
あと「読みやすいコードじゃないと動かない」って設計思想がかっこいい。ついでに言うといわゆる「おまじない」が少なそうなのも魅力。(CのHello worldで挫折した経験あり。studio.hって何……)
プログラム講師をやっている?方が音楽制作を初歩からやってみる、という(残念ながら)リアルタイム視聴者が俺だけしかいないような配信があったので、音楽の基礎(についての知識は持っていた)を教えてあげたお返しのような形で、「pythonでこういうことがしたくてこういうライブラリがあるのはわかった。経験はHTML+CSS(変数導入前、Bootstrapなんてなかった)のみ。どうしたらよいか」という質問をしたら、「progateは簡単すぎると思うのでPaizaが丁度いいのではないか」というアドバイスを頂き、比較もせずに即登録したのだが結果的にはこれがドンピシャだった。
最近流行りの、環境構築不要で講座の内容を書いて覚えるタイプのサイト。
無料で入門講座の序盤を受けていたらふと目に入ったのが、「対象者:これからプログラミングを学びたい方。HTMLがどのようなものかを知っている方。」でYoutuber先生のオススメ完璧か?と思った。そして実際に完璧だった。
基本的に1講座3分+演習1~2問+やりたければ問題集たくさんという形式なのだが、これが簡単すぎることなく難しすぎることもなく、俺の知識レベルにベストマッチだった。基本的に毎回何か書くことになるので、変数とは~みたいな解説だけで終わる回がほぼ無いのも飽きなくてよい。
Python入門(と言ってはいるがまだこれだけで発展編はない)の見出しは「プログラミングとは」「条件分岐・比較演算子」「ループ処理」「リスト」「辞書」「多次元リスト」「関数」「クラス」「クラス発展」「例外処理」に各5~8講座*3分+演習、という感じ。クラス発展の途中で行けそうだと思ったのでドロップアウトして実製作に移った。実際関数まで理解していれば、この程度の小さなツールには十分だった(もしかしたらクラスを使えば多少楽になった場面はあったかもしれないけど)。
また、これは書いてる今気づいたことだが、上のコースで学んだことで、実際に役立たなかったものはほとんどなかった(強いて挙げれば辞書くらい?使えてないだけかも)。このこともコース構成の優秀さを示している。
ここまででだいたい2週間くらい。
もともとこのサービスは知っていたのと、谷合先生が実際に使っていたように、便利そうなライブラリのcshogiが主にcolab(jupyter)上で動かすことを意図しているようだったので、まずここから入った。最初はcshogiが列挙してくれる特定局面での合法手をリストに入れて、そのリストの項目数=その局面での合法手の数を出力することから始めた。これは本当に簡単にできて興奮した。
学習と好きなことが直結してると、こんなサンプルコードみたいな簡単なことで喜べるのでコストパフォーマンスがよい。
cshogiのチュートリアルで紹介されているレサ改というAIがどうもmultipv(有望な候補手を2手以上挙げる)に対応してないらしく、強さ的な問題でいずれ手を出すつもりだった予定を繰り上げてやねうら王との連携を試みる。
makeって何?あー、もりかしてMakefileが無いと動かない?(これを書いている今もこんな理解である)みたいな人間でもなんとかやねうら王をビルド?することはできた。レサ改をcshogiに読ませる数行のサンプルコードがとても役に立った。今でもあの完成品らしき拡張子が無いファイルがなんなのか分かってない。(なお、評価関数nn.binが無いと怒られたのでどこのご家庭にもある水匠4のそれをぶち込んだら動いた。評価関数とやねうら王の分担は今もって理解があやふや)(また、途中でAyane[やねうらお氏謹製ライブラリ]も使おうとしたがcolab上では上手く動かす方法が分からなかった)
一応これでcshogiで局面の最善手と次善手およびそれらの評価値を呼び出せるようになったのだが、単にdebugでずらずらと余計なものまで出力するのではなく、重要な指し手周りのinfoだけ出力するようにしようとしたが、上手いやり方がわからず、結局こうなった。
sys.stdout = open('out.txt', 'a') engine.go(listener=print)
ここは絶対もっとマシなやり方があるはずなので、識者の教えを請いたい。
Colab上でまあまあ目処がついたので、この辺りでPythonの環境を作った。ここまでそれをやっていなかった理由は、「おま環」トラブルの可能性をなるだけ遠ざけておきたかったからである。環境が悪いのか俺が悪いのか分からない、というのは初心者にとって限りなきストレスである。あーネットが繋がらなくてルーターの設定や接続とか支払いとか文字通り部屋をひっくり返しながら調べてたら実はフレッツ自体が落ちてた件を思い出してイライラしてきた。cshogiはJupyter上で動かすことを意図しているようなので、それで動かなければ自分の書き方が間違っているのだとほぼ確実にわかる。
まあこの辺りはいろんなサイト見ながら仮想化などしつつ普通に。仮想化が何か分かってないんですけど。
これまでColab上で書いてきたものは多少の書き換えで動いたので、ローカルにJupyter notebookをインストールして、数字の計算とグラフ化を試みる。
ちなみにこの時点で得られているデータはこんな感じ。
go info depth 1 seldepth 1 score cp -47 multipv 1 nodes 483 nps 241500 time 2 pv 3c3d info depth 1 seldepth 1 score cp -86 multipv 2 nodes 483 nps 241500 time 2 pv 4a3b info depth 2 seldepth 2 score cp -53 multipv 1 nodes 847 nps 423500 time 2 pv 3c3d 9g9f info depth 2 seldepth 2 score cp -68 multipv 2 nodes 847 nps 423500 time 2 pv 8c8d 7g7f info depth 10 seldepth 17 score cp -78 multipv 1 nodes 100163 nps 1963980 time 51 pv 8c8d 2f2e 4a3b 7g7f 3c3d 2e2d 2c2d 2h2d 8d8e 6i7h 8e8f 8g8f info depth 10 seldepth 17 score cp -111 multipv 2 nodes 100163 nps 1963980 time 51 pv 3c3d 7g7f bestmove 8c8d ponder 2f2e go info depth 1 seldepth 1 score cp 117 multipv 1 nodes 206 nps 206000 time 1 pv 2f2e info depth 1 seldepth 1 score cp 78 multipv 2 nodes 206 nps 206000 time 1 pv 7g7f ...
今回の小目標は、goで区切られた中から下から2行目と3行目のcpほにゃららを取得していい感じのリストにする、というものだ。この辺りは正規表現でなんとかなるだろうと見通しを立てたが、実際そうなった。
ただ、後手が見たときの評価値が後手目線なので、それだけにマイナスをかけるのはどうするか(そうしなければ、先手+3000点の次が「後手から見て」-2900点だったりして綺麗にグラフにならないのだ)を調べるのに結構時間が掛かった。
また、詰み周りでまたプラスマイナスやカンストの絡む計算をしたくないのもあり、数値にNaNを入れてグラフ表記を省略することにしたのだが、そうするとnumpyの関係で整数(とNaN)しか扱わないのに浮動小数点で計算しなければいけなくなって若干気持ち悪かったり。まあ動くのでヨシ!
この時点で、ローカルにKIFファイルを保存し、pyファイルでcshogiと水匠を動かし、Jupiter notebookを開き評価値グラフと手の広さのグラフを重ねて表示する、というそれなりのものは出来上がった。
簡単に言えばpyファイルで1手10万局面(森内チャンネルに出てたHEROZの方が使ってた数字をそのまま使っているので特に意味は無い)探索させ、最善手と次善手についての生の評価データを吐き出させ、ipynbでそれを整形し、グラフ化している。
基本的に全部VSCode上でできるので、慣れれば計算時間も含めて10数秒で結果が出るのだが、このワークフローはいかにも美しくない。
なので、Flaskという簡単らしいフレームワークを使ってローカルでWebアプリとして使えるようにしようと思った。inputとoutputをどうにかするだけだから余裕やろ。
Google colabを触り始めてからここまで1日。圧倒的成長!
Paizaラーニング再び。後半ではデータベースとか本格的な話もあるようなのだが、txtに書き込む一行掲示板を作るまでの前半部を高速で履修(演習は全部飛ばした)。なるほどー、こうやってやりとりするのね、と最低限は完全に理解した。
Jupyter向けのコードを普通のPythonに直してあっちで数字を出してこっちでそれを受けて元に戻して……とかやってると循環参照か何かで怒られることに。その対策に細かく部分を分けて関数にしたのだが、その場合ってもしかしてdefの内部しか読まれない?(共通部分も読まれると思ってた)(いや、共通部分は読まれるけど他のdef内が見えないのか?何も分からん)なるほど。こうなると関数の内部から上に戻るためにクラスとか欲しくなるのかなーという感想。
最終的にWebに公開しようとこの時点では思ってたので、txtに一旦出力するのが安全性的にどうかとか考えてたのだが、テキストの読み取り周りでハマる。結局抜け出せず諦めた。
以降は、HTMLにダブルクオートが抜けてるのに一時間気づかないとか、FlaskのXSS対策の対策をするとか、ファイルの書き込み設定をミスって2万手くらい蓄積されて評価値グラフが大変なことになったが、原因に気づかずひたすらグラフ生成部を調べ続けるなど、非本質的な問題にかかずらっていたので書くことは特にない。
なので、最初にgitignoreしてなかったせいで1万ファイルくらい上げそうになったけど、それ以外は特に問題も無く。中間報告からここまで2日ほど。結局1ヶ月かけずにプログラミングをそれなりに身につけることが出来た。「プログラムを覚えたければ作りたいものを見つければいい」というのは本当だな、と改めて思った。
https://anond.hatelabo.jp/20220107060727
どれくらい書けるようになったのか、を見たい方は主にvalue_output.py(将棋AIに思考させてデータを取り出す)とgraph.py(データを整形してグラフを書き出す)を見ていただければいいかと思います。
最初にPaizaを教えてくださったYoutuberの方、cshogiを初心者でも使いやすいように作って展示してくださったTadaoYamaoka様、水匠開発者のたややん様、水匠含めこんにちの将棋AIの基盤を作ってくださったやねうらお様、cshogiを通して利用したpython-shogiのKIFパーサーを書いてくださったTasuku SUENAGA様に、厚く御礼申し上げます。
https://anond.hatelabo.jp/20211116103238
10年以上フリーランスやってきて、現在は消費税を納めている者です。
インボイス制度はあんまりよく分かってません。ただ、「売り上げ1,000万円未満は請求できるけど払わなくていい」という制度の隙間だったものを、「消費税込みの単価設定」という主張はおかしいのでは。なぜなら、1,000万円を超したら消費税を払わなければなりません。「売り上げが1,000万円超したので単価を上げておくれ」という交渉ができるわけもなく、初めから消費税を払っても回る単価設定(消費税はボーナス)という見積もりをすべきだからです。免税事業者の時はずっと国税のお目こぼしラッキー!と捉えていました。
なお、「免税事業者なのに税込み請求してるのはどうなんだ」とのご指摘がありますが、消費税は幅広く徴収する税なので、非課税取引以外のサービスを提供しているのであれば、免税事業者であっても消費税を乗せて請求するのが正しいです。
簡単だった白色申告が複雑になって役割を終え、マイナンバーの提出が義務付けられ、税を徴収するためにどんどん厳格化されています。制度の隙間なんかいつ塞がれてもおかしくありません。でもそれは正しいことですし、一方で手書き記帳がクラウドに移行し、申告がオンライン化で便利になったりと、負担ばかりが増えているわけでもありません。(よく分かってないけど)インボイス制度でフリーランスがいなくなるというのは大袈裟かな、と感じました。
拝見していて、「特に加工・建設職種では高齢化が進み、いつ引退するか迷っていた世代の方々が多くいます」という記述が気になりました。恐らく卓越した技術力を持ちながらも、売り上げが見合わずにインボイス制度をきっかけに引退される方への忸怩たる思いがあるのかなと推察します。フリーランスの値決めやインボイス制度への反応に違和感があるのは、職種によって事情が大きく異なるのかもしれません。
でもやはり自由と引き換えにリスクを抱えるのがフリーランス。みなさんの声のように、そんなに不満が強いなら会社員になるべきだと思います。
id:nassy310 課税売上が1000万円をわずかに超えるような人はかえって損するとかあるのだろうか。
あるんですこれが!士業事務所に勤める友人によると、ギリ1,000万円を下回ろうとするお客さんもいるとか。業種にもよりますが例えば売り上げ1,000万円で消費税50万円※くらい払うのであれば、住民税や健保考えるとむしろ950万の方が良いのかもしれません。普通はそんな緻密な売り上げコントロールできませんが…
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shohi/6505.htm
id:cha16 個人事業は給与の支給額の3倍は売上ないと社会保険もなくなりただ損するだけ。年収350万円の給与だったなら年1050万円は売上が必要。年間1000万円売上られない事業って生業じゃなくて趣味のレベル。
「フリーランスは会社員の3倍売り上げる必要がある」的な発言をよく見ますし、フリーになったばかりの頃はそれを信じていましたが、実際は会社員より控除などを柔軟に効かせることができるので、売り上げ500万円くらいあれば十分生きていけます(出産育休を希望してる方はデメリットが大きいです)。本当に好きなことだけしたい人や、何らかの事情で週2~3日働きたいなども多いので、別に年1,050万円は売上が必要ということはありません。会社員の方が色んな面で良いと思いますが、会社が社保を全額払ってくれるわけでもないので、「3倍ないと損」は言い過ぎです。
世界に冠たる百万都市「世界の半分」隴西のバカでか李徴は全知全能博学才穎、天宝のウルトラ末年(残り二秒)、若くしてガチで嫌がらせレベルで長過ぎる名を虎榜に書ききれんほど連ねまくり、ついで限界集落江南尉に九十九か年補せられたが、性、バチクソ狷介、自ら恃むところバカかってくらい頗る厚く長城の如し、薄汚いクソ薄給賤吏に甘んずるを毛ほども潔しとしなかった。いくばくもなくちょっぱやで官を退いた後は、故山、超巨大山脈虢略に帰臥し、全世界の人民と国交を恒久的に断絶しまくって、狂ってんのかってほどひたすら寝ずに詩作に耽った。掃いて捨てるような下の下の下吏となって未来永劫長くクソデカい膝を低劣極まる俗悪なゴミ大官の前に屈するよりは、メッチャ偉すぎる詩家としての名を死後百億年に遺そうとしたのである。しかし、文名はびっくりしちゃうくらい容易に揚らず、巨人生活は日を逐うて苦しいとかいうレベルじゃなくなる。ギガンティック李徴は永遠にも思える時を経て漸くヤバすぎる焦躁に駆られて来て号泣しちゃった。この頃からその容貌もエグいほど峭刻となり、全身の肉が削げ落ち垂木の如き骨が秀で、刺さるほど鋭い眼光のみ徒に炯々と発光して、曾てありえんムズい進士に息をするように登第し続けた頃の豊頬のゲロマブ美少年の俤は、何処に求めようもない。数千年の後、エクストリーム貧窮に堪えず、妻子百万の大規模衣食のために遂に節を屈しまくって、再び極東へ赴き、一地方官吏の最要職を奉ずることになった。一方、これは、矮小なる己のクッソしょっぱい詩業に半ばと言わず完全に絶望し尽くしたためでもある。曾ての巨大過ぎる同輩勢数千は既に遥か最高位に進み、彼が天地開闢の昔、マジでクソの役にも立たんウスノロの鈍物として歯牙にもかけなかったそのノータリン連中の知能の足りん下命を拝さねばならぬことが、往年のちょー頭いい儁才バカデカ李徴のクソデカ自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くなく猿でも分かるわい。彼は怏々として微塵も楽しまず、マジでデカ過ぎる狂悖の性は愈々軽く引くくらい抑え難くなった。一光年の旅の後、公用で永遠の旅に出、悠久の大河汝水のほとりに生涯宿った時、遂にアホほど発狂した。或る夜半、急に顔色を七色に変えてデカすぎて宿に収まらない寝床から亜音速で起上ると、何か訳の分らぬことを親の仇のようにけたたましく叫びつつ取りも直さずそのまま真下にとび下りて、頻闇の真っただ中へ十万馬力のマッハで駈出した。彼は二度と戻って来なかった。附近一ミリ四方の果てしない山野を飽きもせず捜索しても、笑っちゃうほどマジで何の手掛りもない。その後ジャイアント李徴がどうなったかを悉く知る者は、ガチで訳わからんくらい誰もなかった。
翌年、四海に驍名馳せたる監察御史、世界の首都陳郡のでかでか袁傪という覇者、メチャクソ大切な勅命を奉じてクソ田舎の僻地も僻地嶺南に使し、途に世界の果ての果て商於の地に終生宿った。次の朝未だクソ暗い一切の光を失った世界の中に太陽よりも速く出発しようとしたところ、クソ野郎の駅吏が言うことに、これから四万キロ先の道に獰猛極まる悪夢の如き人喰虎が出血大サービスかってほど出まくる故、ザコの旅人連中は白昼でなければ、通れたもんじゃない。今はまだ朝が早いってか明けてないから、今少し数世紀ほど待たれたが宜しいでしょうと。うかうか袁傪は、しかし、一騎当千の豪傑集いし供廻りの冗談めいて多勢なのを心の底から恃み、痴れ者の駅吏のクソの役にも立たない言葉を徹頭徹尾無下に斥けて、一目散に出発した。デカいにも程がある残月の太陽とか霞むレベルの特大光量をたよりに林中の土地が余ってんのかってくらいだだっ広い草地を超特急で通って行った時、果して一万匹の超弩級猛虎が森林のごとき叢の中から躍り出まくった。メガトン虎は、あわやギガトン袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち巨身を現実ではあり得ないほど飜しまくって、元のバカでかい叢へ完璧に隠れた。並の大きさでない叢の中から巨大人間の割れ鐘のような声で「ガチであぶないってか九分九厘死ぬところだった」と延々と繰返し爆音で呟くのが嫌というほど聞えまくった。その大声に超袁傪はメチャクチャ聞き憶えがあった。驚懼の中にも、彼は咄嗟にガチのノータイムで思いあたって、夜だってのに辺りを憚らずバカかってくらいの轟音で叫んだ。「そのマジでっけー声は、我が友、バカでか李徴子ではないか??????????」タイタニック袁傪はギガンティック李徴と同年に人智を超えた最難関進士の第にひっきりなしに登り倒し、友人の少ないとかいうレベルじゃなかった天涯孤独の李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な聖人袁傪の性格が、峻峭な性悪李徴の人間のクズみたいな性情と衝突しなかったために決まっているであろう。
世を蓋うクソデカ叢の中からは、暫く数千年やかましい返辞が無かった。しのび泣きかと思われる蚊が泣いてんのかってくらいマジで微かな小声が時々頻繁に洩れまくるばかりである。やや数世紀あって、あり得ないくらい重低音の喧しい声が超早口で答えた。「如何にも自分は栄えある国のまほろば麗しの帝都隴西の世界最強の神に選ばれし偉大なる魂(中略)アルティメット超☆巨大ギガンティックバカでか李徴DXである」と。
雲を衝く巨人袁傪は恐怖を一切合切忘れ去り、山をも跨ぐバカデカい沛艾の駿馬から下りるってか落っこちてバカ盛叢に死ぬほど近づき、クッソ懐かしげに永劫にも等しい久闊を叙しまくった。そして、何故ギガント叢から出て来ないのかと怒られるまで問うた。デカ過ぎて叢から殆どハミ出てる李徴のクソほどデカい大声が答えて言う。自分は今や全くもって汚らしい最凶の異類の身となっている。どうして、おめおめと故人の前にあさましいにも程がある醜姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を至る所に現せば、必ず君に想像を絶する畏怖嫌厭の情をハチャメチャに起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも故人に遇うことを得て、顔から火が出るくらい忸怩極まる愧赧の念をも彼方に忘れ去る程にマジでクッソ懐かしい。どうか、ほんの暫くと言わず須臾の間でいいから、我が醜悪な今のマジで見るに耐えない外形を厭わず、曾て君の友バカでか李徴であったこのハチャメチャにどでかい自分と止めどなく話を交してくれないだろうか。
後で考えればクソ不思議だったが、その時、バカにしてんのかってくらいデカい袁傪は、この超自然の怪異を、実にバカかってくらい素直に受容れて、少しもバカにしてんのかなどと怪もうとしなかった。彼は多過ぎる部下に命じて絶え間ない長蛇の大行列の進行を無期限に停め、自分は巨大叢の傍らに立って、見えざる巨声ととこしえに対談した。どでか都のとんでもねぇ噂、超巨大旧友の天下に轟く消息、ギガトン袁傪が現在の地位、それに対するテラトン李徴の祝辞。太古代の青年時代にバチクソ親しかった者同志の、あの隔てのない早口にも程がある語調で、それ等が縷々綿々と無限に語られた後、ジャンボ袁傪は、李徴デラックスがどうして今のクソしょうもない身となるに至ったかを限界まで訊ね続けた。べらぼうに喧しい草中の声は滔々たる懸河の弁で次のように語った(ごく一部を抜萃)。
今から一兆年程前、自分が旅に出て黄河と長江を束ねても足りんくらいデカい汝水のほとりに泊った長々し夜のこと、泥のように一睡してから、ふと巨眼を覚ますと、戸外でバカデカい誰かがクソ長い我が名を来る日も来る日も執念深く呼んで遂に言い切れないでいる。死ぬほどうるさい声に嫌嫌応じて2万キロ外へ出て見ると、鼓膜破れるくらいでけー声はびっくりするほどドス黒い常闇の中からメチャクチャ頻りに自分を招く。覚えず、自分はクッソうるせー声を追うて走り出した。無我夢中に韋駄天もかくやの猛ダッシュで駈けて行く中に、何時しか途は無辺際の山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は上下左右前後の手で広大過ぎる大地を鷲攫みに攫んで神速で走っていた。何か身体中によく分からんがスッゲー力が充ち満ちたような感じで、息をするように軽々と地球レベルにデカい岩石を一足跳びに越えて行った。気が付くと、ガチでけぇ手先やマジでけぇ肱のあたりに三千丈の毛を生じているらしい。少しびっくりしちゃうくらい明るくなってから、千仞の谷川に臨んでデカ過ぎる姿を映してガン見すると、既にクッソ大きい虎となっていた。自分は初めバカデカい眼を信じなかった。次に、これはクソ長い夢に違いないと考えた。クソ長い夢の中で、これはクソ長い夢だぞと知っているようなクソ長い夢を、自分はそれまでに幾度と無く見たことがあったから。どうしてもクソ長い夢でないと悟らねばならなかった時、自分は極限まで茫然とした。そうして尋常ならざる懼れによってマジで膝がガクついた。全く、どんな没義道極まりない兇悪な事でも必然的に起り得るのだと思うて、海より深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。マジ分らぬ。全く何事もアホかってくらい我々一万匹には判らぬ。理由も分らずに押付けられたクソデカいものをバカ正直に大人しく受取って、理由も分らず飽きもせでダラダラと永遠に生きて行くのが、我々どでか生きもののさだめだ。自分は直に万死を想うた。しかし、その時、睫毛にかかってるぞってくらい眼の前を一億匹の月かってくらいデカい兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中のデカすぎ人間は忽ち姿を抹消した。再び自分の中のクソデカ人間が目を覚ました時、自分のカバと渾名された口は巨兎のきったない血に塗ったくられ、あたりには億兎のぶっとい剛毛が嘘だろってくらい散らばっていた。これが世界最強虎軍団としての最初の経験であった。それ以来今までにどんなゴミカスみたいな限界極まってる所行をし続けて来たか、それはマジで到底語るに忍びない。ただ、一万日の中に必ず数億時間は、巨体人間の心が超音速で還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、巨人語も容易く操れれば、複雑な巨大思考にも軽く堪え得るし、経書のクソ長い章句をとんでもない早口で一生やってろってくらい誦んずることも朝飯前に出来る。その巨大人間の心で、ガチで巨大過ぎる虎としての己の世界一残虐な行いのあとを見、己の運命を二度見三度見と言わず幾度と無くふりかえる時が、宇宙で最も情なく、恐しく、憤ろしい。しかし、その、デカブツ人間にかえる数万分の一時間も、日を経るに従って次第にハイパー駆け足で短くなって行く。今までは、どうしてスーパーウル虎などになったかと怪しんでいたのに、この間マジで何の前触れもなく唐突にひょいと気が付いて見たら、己はどうして有史以前、巨人間だったのかと考えていた。これはおしっこチビるレベルで恐しいことだ。今少し数ミリ秒経てば、己の中の超巨大人間のバカデカ心は、巨獣としての残忍非道極まりない習慣の中にすっかり埋もれてガチで跡形もなく消えて了うだろう。ちょうど、クソほど古い天を摩する大厦高楼のクソデカ宮殿の今にもボロボロに朽ち果てそうな礎が次第に指数関数的に増大する濁流のごとき土砂にマジの一瞬であっけなく埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の引くくらいつまらん過去を鳥頭みたいに一瞬で忘れ果て、一千万匹のウル虎スーパーデラックスとしてイナゴかってレベルで気狂いみたいに飛び廻り、今日のようにクソ長い途でアホみたいにデカい君と出会っても頑なに故人と認めることなく、君を一センチ角程度にメッタメタのギッタギタに裂き喰くろうて嘘だよなってほど何の悔も感じないだろう。一体、バカデカ獣でもクソデカ人間でも、もとは何か他の似ても似つかないグッチャグチャのゲテものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、原始の初めから今の形のものだったとバカ正直に思い込んでいるのではないか??????????いや、そんな事はマジで心底どうでもいい。己の中のクソデカ人間の心がマジですっかり跡形も無く完全に消え去って了えば、きっと恐らく九割九分絶対に、その方が、己は天上天下に比類なきしあわせ者になれるだろう。だのに、己の中の超ビッグ人間は、その事を、マジでこの上なく恐しく感じて毎晩ガチ泣きしているのだ。ああ、全く、どんなに、小便垂らすほど恐しく、腸の千切れるほど哀しく、満都の同情を誘うほど切なく思っているだろう!己がチョモランマ人間だった有史以来の世界の記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。ガチで誰にも分らない。己と寸分の狂いも無く同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり百パーセント人間でなくなって人生終了しちゃう前に、一つと言わず頼んで置きたいことが山ほどあり過ぎる。
袁傪はじめ無量無辺の一行は、毎秒息をゴキュゴキュのんで、叢中のけたたましい声の語る不思議に一生聞入って生涯を閉じていた。耳がイカれるような大声は矢継ぎ早に続けて言う。
他でもない。自分は元来メッチャ詩が凄い超カッケー詩人として名を成す積りでいた。しかも、業未だ成らざるに、このクソおもんない運命に立至った。曾て作るところの詩数百万篇、固より宇宙の最初から、まだ世に行われておらぬ。山脈並みにうず高い遺稿の所在も最早世界中の誰にも判らなくなっていよう。ところで、その中、悠久の時を経て今も尚記誦せるものが数十億ある。これを我が為だけに末代まで伝録して戴きたいにも程があるのだ。何も、これに仍って一人前のクソデカ詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、全世界あらん限りの産を破り再起不能レベルまで徹底的に心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりと言わず何もかも後代に幾久しく洗いざらい伝えないでは、ガチで死んでも死に切れないのだ。
無数の袁傪は大多数の部下に口酸っぱく命じ、ギャグ漫画かってくらい巨大な筆を千人がかりで執って叢中の調子外れもいいところの放歌高吟のダミ声に奴隷のように随って書きとらせた。李徴の耳をつんざく声は叢の中から朗々と天の果てまで響いた。長短凡そ三十兆篇、格調メチャクチャ鼻につくレベルで高雅、意趣マジで天下無双かってほど卓逸、一万読して作者の才の非凡をまざまざと嫌になるほど思わせるものばかりである。しかし、でか袁傪はひっくり返るほど感嘆しながらもクッソ漠然とテキトーに次のように感じていた。成程、クソ虎作者の素質が第一万流に隷属するものであることは疑っても仕方無いじゃない。しかし、このままでは、第一億流の作品となるのには、何処か(非常に微妙にも程があるマジで心底どうでもよろしい些末な一点に於いて)欠けまくるところがあるのではないか、と。
旧詩をゲロのように吐き終ったデカブツ李徴のかしましい怒声は、突然調子を変幻自在に変え、自らを嘲るが如くにがなり立てて言った。
羞ずかしいとかいうレベルじゃないことだが、今でも、こんなあさましい忌むべき身と成り果てた今この瞬間でも、己は、己のクソデカ詩全集が長安風流人士の当然長安よりデカい大机の上に所狭しと棟に充ちるほど置かれている見事な様を、夢に見ることがしょっちゅうあるのだ。うすら寒い便所みたいな岩窟の中に物言わぬ死体のように横たわって見る夢にだよ。腹が捩じ切れるまで嗤ってくれ。巨大詩人に成りそこなって巨大虎になったマジで哀れ過ぎる愚鈍な大男を。(巨漢袁傪は太古の昔の甚大青年李徴のクッソ寒い自嘲癖を昨日のことのようにありありと思出しながら、心底哀しく聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の懐いを即席の詩にコンマ一秒で述べて見ようか。このアルティメット虎の中に、まだ、曾ての完全体李徴が飽きもせず生き永らえている動かぬしるしに。
態度もクソデカい袁傪は又下っ端もいいとこの下吏にこっぴどく命じてこれを百万遍書きとらせた。その長ったらしい詩に言う。
本当偶因超巨大狂疾成凶悪殊類
開闢当時糞喧声跡共摩天程相高
超越渾我為馬鹿異物糞汚蓬茅下
完全体君已乗糞大軺気勢糞程豪
此永遠夕大規模渓山対糞明怪月
生涯不成気遠程長嘯但成爆音嘷
(訓、本当に偶たま超巨大狂疾により凶悪殊類と成る、超特大災患は馬鹿に相仍りて絶対逃るべからず、今日現在の超長大爪牙一体誰か敢へて敵せん、開闢当時の糞喧しき声跡共に天を摩する程相高し、渾てに超越する我は馬鹿の異物と為る糞ほど汚らはしき蓬茅の下、完全体なる君は已に糞ほど大きなる軺に乗りて気勢は糞といふ程豪なり、此の永遠の夕べ大規模渓山にて糞ほど明らなる怪月に対して、生涯気も遠き程の長嘯を成さずして但爆音の嘷を成す)
時に、引くほどデカい残月、昼かってレベルの極光は死ぬほど冷やかに、白露は気色悪いほどウジャウジャと地に滋く、樹間を渡るシベリアかってくらいの冷風は既に暁の近きを重ね重ね告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、お通夜かってレベルで粛然として、このデカ過ぎる詩人のゴミ過ぎる薄倖を嘆じた。ウルトラ李徴の胴間声は再び喧しく続ける。
何故こんな罰ゲームみたいな運命になったか判らぬと、先刻は口うるさく言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。デカデカ人間であった時、己は努めて全人類との交を避けて避けて避けまくった。人々は己を三界に比類なきまでクソ倨傲だ、クソ尊大だといった。実は、それが殆どクソデカ羞恥心に近似できると言っても一切語弊のないものであることを、おつむの足りん人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才と耳にタコができるほど五月蝿くいわれた自分に、超クソデカ自尊心がこれっぽっちも無かったとは神に誓って云わない。しかし、それはウルトラ臆病なハイパー自尊心とでもいうべきものであった。己はハチャメチャに上手過ぎて全米を泣かす詩によって名を成そうと生まれた時から思いながら、進んでクソでかい師に就いたり、求めてバカでかい詩友と嫌がらせレベルの頻度で交って切磋琢磨に寸暇を惜しんで努めたりすることを決してしなかった。かといって、又、己は棒にも箸にもかからないクソ平凡な俗物の間に伍することも欠片も潔しとしなかった。共に、我がクソ臆病なバカでか自尊心と、バカ尊大なクソでか羞恥心との所為に他ならないのである。己のクソでけー珠に非ざることを心の底から惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己のバカでけー珠なるべきを半ばどころか完璧に盲信のレベルで信ずるが故に、マジで一生グズグズして碌々と瓦に伍することさえも出来ない愚か者の極みだった。己は次第に超特急で全世界と離れ、全人民と無限遠まで遠ざかり、ガチで腸の煮えくり返るような憤悶と慙恚とによって益々己の内なるクソほど臆病な自尊心を多頭飼いして豚かってほどふとらせる結果になった。人間は例外を許さず誰でもクソデカ猛獣使であり、そのバカデカ猛獣に当るのが、各人の性情で間違いないのだという。己の場合、このバカかってレベルでクソ尊大な羞恥心がウルトラ猛獣だった。ウル虎だったのだ。これが己を完全に不可逆的に損い、妻子を拷問かってくらい苦しめ、友人を完膚無きまでに傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、性根の腐りきった不心得のろくでなしの内心に全くお誂向きにふさわしいピッタリなものに変えて人生終了しちゃったのだ。今思えば、全く、己は、己の有っていたマジで僅か一ミリばかりのクソほどしょっぱいなけなしの才能を余りにも無駄に空費して人生終了しちゃった訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長過ぎてクソおもんないが、何事かを為すには余りに短過ぎてやってらんないなどと口先ばかりのとんでもなく薄っぺらいバカの警句を弄しながら、紛れもない事実は、才能の不足を世界全土の全人民に暴露するかも知れないとのクッソ卑怯極まりない危惧と、蛇蝎のごとく親の仇かってほど刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。無知蒙昧の脳足りんで己よりも遥かに乏しい搾りカスみたいな才能でありながら、それをバカの一つ覚えみたいに専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもその辺を歩いているのだ。デカい上に多過ぎる虎と成り果てた今この瞬間、己は幾星霜を経て漸くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を地獄の劫火に灼かれるような悔を感じまくる。己には最早めちゃデカ人間としての生活は逆立ちしても出来ない。たとえ、今、己が岩の如く巨大な頭の中心で、どんな宇宙一優れた詩百億選を作ったりしたところで、どういう手段で国際的に発表できよう。まして、己の頭は日毎にってか秒単位で虎に近づいて行く。ガチでどうすればいいのだ。己の益体もなく湯水のように空費された過去は?己はマジで辛抱堪まらなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の己かよってくらいデカい巖に上
例のあれの話題です。表題は嘘です。でもちょっとだけ聞いていってもらってもいいですか。
私は例の氏が言及された「専業主婦」の人たちよりもおそらく一世代ほど若く、主婦にすらなれなかった女です。配偶者の収入だけでは都内の職場から一時間ほどの場所に家族で暮らす部屋を借りることすらままなりません。同じ大学を出た男子諸君よりは見劣りする収入で、フルタイム勤務をしています。
この増田は、大学の文系研究室の中で人々がいかにして研究職を目指し、リタイアしていくかについて思い出話をしたくなって書き始めました。最初に言っておくと、基本的には男女関係なくつらい世界でした。
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私は地方から旧帝大の文学部に進学しました。3つ4つほど名前を思い浮かべてくれたら多分その中に入っている大学です。教育機会の地方格差は私も身に覚えがあります。最初のハードルとして、先生や親の期待値が非常に低く、地方から出てまで進学を目指すというのは相当に学力が高くないと選択肢に入らないのです。女子ならなおさらね。模試で毎回良い判定を出して、絶対に浪人はしない、行くなら国立と約束してようやく許しが出るか出ないかくらいのものです。私たちがそんなことで心を削っている間に東京のトップの中高一貫校の子たちは高二の時点で受験範囲の履修を終えているというのだから、当時の焦りとやっかみは結構なものでした。さらにいうと本当の良家の子息は推薦入試を受けるので、私たちが試験対策をしている間に別のことで人生経験を豊かにしていたと知るのはもっと後になってからのことでした。
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さて進学先の大学では、文学部でも女性の学生は3割ほどしかいませんでした。女性の教授に至っては3割どころではなく、殆どが男性です。私がついた教授も全共闘世代の男性でした。
研究室は教授の王国です。そのことでは男女変わらず苦しい思いをした人が多いでしょう。研究室の運営は非常勤講師をやりながら博論執筆中のかなり年上の先輩が取り仕切っていました。「学部4年の女は屍」なんて年増扱いされていたのがここで一転、また「若い女の子」に戻ります。それが嬉しいなどと、無邪気に言っている子もいたものでした。
この「若い女の子」が研究室で一人前に扱ってもらうために必要なことはなんでしょうか。答えは簡単で、男の同期よりも頭ひとつ分ほど優秀であれば何の問題ありません。しかし私はそうではありませんでした。結果として、先輩や教授からの信頼と支援はなかなか得られず、大切な時期を自己流の研究活動で浪費してしまいました。男性なら誰もがもっと上手くやっていたとは言いませんが、ボスや先輩が全員「異性」という状態での相談のしにくさをちょっと想像してみてもらえますか。人文系の院に進む人間の心臓の小ささも加味してください。私の研究職への志は、この修士の時点でへし折られていたのですが、完全に諦めがつくまでの間はしばらく大学に残る方法を考えていました。
研究室に同性の先輩は修士で1人、博士は0人でした。前の年に修士を出て就職した女性がいましたが、脱走者のような扱いで嘲笑のまとでした。その先輩について彼らの口から私が知り得たのは名前と就職先と「顔は悪くなかった」ということだけでした。修士で一緒だった女の先輩は気づけば私が2年になってもまだ修論を書いていて、その後、ひっそりと別の大学の研究室に転出して行きました。教授は事前の相談がなかったと怒っていましたが、私も卒業後は二度と研究室に足を運んでいません。
研究室の閉塞感は本当にひどいものでした。ひとえに貧しさのせいだったと思います。学振が取れて月に20万の給付金をもらえている人は、神に選ばれた人のごとく羨望の的でした。今思えばそれでも年に240万なので、学部卒で一流企業に就職した同年代とは雲泥の差です。しかしどれほど貧しくても社会に出るより夢を追いたい、「働いたら負け」という言葉にも本気で励まされながら、友人の結婚式に恥を忍んで一万円札を一枚だけ包んで出席する生活を送っていました(五千円札を二枚足して、二万円だけどお札は三枚という苦しいパターンもありました)。他の先進国と比べて、この辺りのカネは一桁足りていないと思いますが、この先人文系にこれ以上予算が回ってくることはこの国では二度とないのでしょう。
せめて博論まで書き上げれば将来を約束されている世界なら、もっとみんな明るく頑張れたと思います。ほんのひと握りのエースだけは、博論を書き終えるか否かの時期にほとんど収まる場所が決まります。海外大に行かせてやり、その間に教授が手を尽くして帰国後のポストを空けておいた、なんて話も聞きました。
ですがそれ以外の人々にとっては、アカポスは「空くのを待つ」ものでした。人文系のポストが新しくできるなんて滅多にないことなので仕方のないことです。自分の専門領域を売り込めるポストが全国のどこかで空くのを待つ。それがいつになるのかは分かりません。空いても既に内々に誰が座る椅子か決まっていることもある。哲学科は50まで待たされる、なんて話もありましたが、実際には三十代後半になっても専任ポストが見つからない場合、その後の見込みは相当厳しいと聞きました。そうなるとその後はずっと非常勤講師、塾講師、翻訳バイトなどを生業に細々と暮らしていくことになるのでしょう。
苦しさの中には、生活苦だけでなく何者にもなれない苦しみというのもあります。◯◯大常勤講師、助教、准教授……肩書きのあるなしで地獄の風景は一変します。その点でも、ポストが取れるか取れないかの不安が心を焼いて、生活の行き詰まりよりも先に精神が参ってしまう人もいました。
そうして35近くまで赤貧にあえぎながら蜘蛛の糸を掴んでみるか、早々に自分の能力に見切りをつけて社会に出るか。前者の道を選んで勝負をした人は、たとえそれが好きなことであっても相当に苦しい思いをしたと思います。勝負に負けてしまった人がどうなったのかは怖くて想像できません。でも人数としては勝った人より負けた人の方が圧倒的に多いはずです。
ましてや自分が女性だったらどうでしょうか。35まで夢を追っていたら、勝っても負けても子供を産むことはほぼ諦めるのが前提になります(晩婚化でこのラインも後退しつつありますが)。詳しく述べませんが保育園入所の条件と研究活動の継続はほぼ完全にデッドロックの関係にあり、研究を続けながら出産育児をするのは相当に実力と体力と環境に恵まれた人以外無理です。
40過ぎて教授になってから若い奥さんをもらうという可能性がないわけでもない男性とは、この辺りの厳しさの捉え方に違いがあるのではないかと思います。しかしそれは男性からしても一握りのケースだと思うので異論があるかもしれません。私の教授は還暦間際で3歳の子がいましたが。また一方で「女は最悪家庭に入ればなんとかなる」という考え方は暗黙のうちに誰の頭の中にも染み付いていて、同じ能力の男女がいたらそのポストは男性につかせてあげたいと思う考え方は間違いなくありました。これは残念ながら現時点ではある程度事実でもあると同時に、別に家庭になんて入るつもりのない、研究一筋で行きたいと考えている女性にとってはとんでもない逆風です。この条件でどれだけの女性が勝負に出ようと思えるでしょうか。
ともあれ凡人の私は自分の大して光るもののない能力と、文系修士二年の時点と三十を過ぎてからも残る選択肢を全て検討した結果、大学を去るという選択をしました。念のため教員免許も取得しましたが、ちょうど就職市場が売り手に傾いていた頃だったので文系修士でも正規の職を得ることができたのでラッキーだったと思います。修士までの六年間は、就活でのささやかな肩書きとして一応の役割を果たし、それきりです。
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例の氏はこうした厳しい生存競争に文字通り命をかけて勝ち抜いた人であって、おそらくその過程で敗北していった男性も途中で家庭に入ることで生き延びた女性も見てきたことでしょう。ご自身も配偶者を得ることは考えられなかったとおっしゃっていた気がするので、何かと引き換えに夢を叶えたと感じておられるかもしれません。
東京には、とんでもなくいい暮らしをしている人がたくさんいるのは事実です。その中に、高度な専門技能を持っておきながら主婦やバイト生活をしている人も実際いるでしょう(氏が例に挙げた同時通訳者は働いているのでなんであれ専業主婦には当たらないと思いますが)。ただそれは現代の東京に限ったことではなく、前世紀から存在する富裕層の典型的なあり方のひとつでしかありません。詳しく知りたい方はウェブレンの『有閑階級の理論』でもご参照ください。余った富の一部は昔から配偶者の閑暇という形で発揮されるものなのです。女だから、主婦になれるから楽でいいよなではないのです。そういう意味で、氏が「セレブバイト」の女性のありかたではなくそれを妻とする男性に対して勝ち負けの視線を投げかけるのは社会の捉え方としては極めて正しいのです。氏の発言が女性蔑視的であるとの指摘もありますが、蔑視どころか視界に、勝負の土俵上に入っていないというのが実際のところではないでしょうか。それは今の社会がそうだからであって、特段の悪意や蒙昧がそうさせるわけではないのだと理解しています。
一方で、だからこそ氏のような学術的な場で活躍される方にはどうか「ジェンダー論は置いておくとして」の置いておかれた方の中で苦しみ、うんざりして、何かあればすぐに怒り出したくなるほど忸怩たる思いを抱えている人が本当はたくさんいるんだということも知ってもらえたら良いのになと思うのです。これは私がそっち側に置いて行かれた立場にあるのでそう願い、発言するだけであって、ジェンダー論を置いておいて議論することを許さないという話ではありません。地方格差や階級格差の中に男女を問わない問題が多分に含まれているであろうことも分かっているつもりです。
これは思い出話なのでオチはありません。ただ時々、自分が地方の中産階級の家庭の娘に生まれたことで最初からあるようでなかった様々な選択肢を思い起こす時に感じる胸の苦しさが蘇ってきたので、こうしてお話しさせてもらいました。
岩瀬惠子のスマートNEWS2021年5月26日 ラジオニッポン 岩瀬惠子のスマートNEWS
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岩瀬 今朝は立憲民主党代表で衆議院議員の枝野幸男さんをお迎えしました。おはようございます宜しくお願い致します
岩瀬 前回2月3日御出演だったんですけども その時も緊急事態宣言中でしたね
枝野 そうでしたね
岩瀬 あれは2回目の緊急事態宣言中で現在は3回目の緊急事態中。何かいつまでたっても緊急事態宣言中ですね
岩瀬 そうなんですかね
枝野 早く解除すればすぐにリバウンドするって、専門家の話聴かなくったって素人にも分かる。
だって沢山感染者がいるってことは症状が出ていない人たちもそれだけ潜在的にたくさんいるんだから、
その人たちが活発に動き出した瞬間に広がるのはもう当たり前のことで、
もう今はとにかく東京で1日100人、悪くても100人できれば50人、ぐらいの水準まで下げないと
そこまで我慢すればそっから先ちゃんとやれば、リバウンドを押さえ込んで4度目なしで済むと思います
岩瀬 そうですか
岩瀬 やりそうですけど、二けたまで減らすには、今日の新聞ね、
あの緊急事態宣言来月の20日ぐらいまでで調整なんじゃないかって、
ここまでで東京もねきっとそうなるんでしょうけど、減りますかね
枝野 そこでどこまで減ってるかですけど、ま多分100切るとかとかそういう話は難しいだろうと思いますけどね、
そうするとまたすぐリバウンドですよ。一か月半ぐらいでまたその医療逼迫で大変だみたいな話、
残念ながらなってしまいますよ。むしろ変異株は感染力強いと言われてるからもっと早いかもしれない
岩瀬 そうですね
枝野 だからとにかく徹底して押さえ込んでからじゃなきゃダメだし、
そこを我慢してくださいっていうのには金配んなきゃ駄目なんですよ
岩瀬 まあ小池知事なんかは疲れないでくださいって言うんですけど、
でも人間ってやっぱりちょっとこう自粛疲れって出てきてしまうのはしょうがないですね
枝野 まあ、とにかく普通の人にとってもそうだし やっぱり商売の関係の人たちにとっては無理ですから、
それからやっぱりもうちょっとメリハリつけた方が良くて、例えば今美術館とかもダメとかになってるみたいですよね
よくわかんないですよね。やっぱりその確かに飲食とか特にお酒飲んでワイワイ騒いだらリスク高いだろうというのは間違 いないですけど、じゃあ表で飲むって話になっちゃったりとかしたし、時短の時は8時までだから7時台にお客さんが集まっ たりとか。
もうちょっと1年以上やってるんだから、やっぱり人の行動のパターンをちゃんと読んで
やっぱりいろんなもの我慢をしていただくにしても、「感染対策どうしても不可欠な部分どこか」「まあ一定のリスクは あってもでもここはリスクは低いからそこは許容しよう」とか、
もうちょっとメリハリつけないと、やっぱりこれもう下手すると ワクチンに、なぜか菅さんはワクチン頼みですけど
ワクチン打ったらかからないのか?とか感染の広がりが抑えられるのか?ってまだ分からないし
最近の変異株が色々と変異してるの見ると、強い良いワクチンがあればそれに打ち勝つ変異が起きるってまあ残念ながらワ クチンあのこういったものの体質だから本質だから、わかんないですから。
ちゃんとワクチン頼みじゃなくても抑えられるようなことに舵切らなきゃダメですね
岩瀬 考えてみたら確かに1年以上はコロナと向き合ってるわけですから、
1回目の緊急事態宣言の時はみんなこう得体の知れない感染症に立ち向かうということで、
本当にあの国民皆が家の中にこもった、だからあの、車なども道路も本当に空いていましたし東京都内もね。
でも今なんて緊急事態宣言なのかなって思うぐらい車も混んでましたし。ただ一年以上のね、
今まさに枝野さんがおっしゃったように私たち知見があるわけですからそれを使った方が良いでしょうね
枝野 例えばこれだけ満員電車で毎日通勤をしているんだけれども少なくともそこが感染を爆発的に広めたっていう、
じゅあ例えば客席の数を半分に減らした映画館とか出てないじゃないかとか
じゃあ飲食店だっていわゆるコンパみたいなワイワイ騒ぐ飲み会は危ないかもしれないけど普通に静かに料理を楽しむ店で 客席半分でアクリルボード立ててちゃんと換気したらどれくらいリスクあるのかとか。
ちゃんともうある程度データは色んな所でとってるんだから国で一括でちゃんと集めれば。
あのもうちょっとやれることはある。ゆるめられるところはある。
一方である程度まで減るまではそういう状況でないとすぐリバウンドですよ
例えば吉永小百合さんなんかもね演劇はいいのに映画はダメというのも物凄く悲しいって
岩瀬 そうですよね
岩瀬 ただ思ったのは、あの例えば小池都知事がね、不要不急の外出を止めてください、
言ったけどこの映画であるとか演劇であるとか美術館であるとか、
これを不要不急と言ってしまえば不要不急かもしれないから、そこのこう、
言ってることとやってることが矛盾しちゃうっていうか、ていうのはあるけれども、
あのまあ、物凄く良い展覧会だからたくさん人が集まるってみたいな時に、密になっちゃ困るから入場規制しますとか
枝野 予約制にするとかみんな工夫してるわけですよ
ディズニーランドなんかだって予約制で人数制限でしょ?映画館だってそうでしょ
じゃあ飲食店だって あの本当に変に時短とかするよりは客席の数を絞らせてもらう
そうすると売上はどれぐらい減るかとか読めるから逆に保障しやすいですよ
岩瀬 そうですね 客席が半分になってしまったら、じゃあ半分を補填すればいいとか、その何パーセントとか
枝野 そこに転換をしつつ ちゃんとお金は必要なもの払って、で、なおかつ「少しちょっと長期我慢してください」と
岩瀬 そういうことがないと長期我慢出来ないですよね 実際問題ね。そうですか。
菅総理が賭けているワクチン接種ですけど、あの大規模接種会場は混乱なくスムーズにいったようですね
枝野 ただ、これから各自治体が、「自治体がやってください」って自治体任せ
自治体はそれぞれに工夫をしてスムーズに進めようと思って、で、先行してたわけですよ
それに対して大規模を、別に国が乗り出してきたりとか
枝野 でも東京と大阪を合わせてもその2%にならないわけですよね、100万件の。
という話で、自治体の予約との混乱が出てくるんじゃないのかていう話と、
それからいずれにしてもこれあの接種する医療関係者の数が足りないという問題なので
自衛隊の医療関係者の皆様にご協力いたただく仕組みを作ったことに意味があるので、
問題は医療従事者が足りないという状況は根本的には変わってなくて、
そうするとまあ高齢者だけでもう7月末は多分もう無理だと思います。
その後現役世代に入ってて、とても年内に打ち切るような状況ではないですよね
岩瀬 そうかもしれませんね
枝野 で一方で、じゃあ打ったワクチンどれくらい効果あるの?って何ヶ月も効果あるの?てまだわかんないわけですよ
岩瀬 そうですよね
どうやら半年後にも抗体はあるらしいってところまではエビデンスがあるらしいんですが、
枝野 また一年後に同じオペレーションを繰り返すのかもしれません。これ分かんないわけです
それでだいぶリスクは下げられるけど、一本足打法じゃ危ないです
岩瀬 うーん、そうですか
そういえば昨日ですね 鈴木哲夫さんジャーナリストの、がいらしてたんですけども
「枝野さんは1年前から自衛隊を何らかの形で活用すべきじゃないって話をしていたからその話聞いた方がいいんじゃない の」って言われたんですけれども
枝野 そうですよ 僕ずっと一年前から、国会でもやりましたし、えっとね
災害対策基本法とか災害救助法という主に自然災害で使われてる法律の建て付けをちゃんと使って、
そうすると自動的なぐらいに自衛隊の方がガーッってやってくれるじゃないですか
あの仕組みを使って自衛隊含めてまさにあの総力あげてやらなきゃならないのに何で使わないんだって
国会で迫ったんですけど、どうも内閣法制局が嫌がってるのかどこが嫌がってるのか、
うーん今の法律ではできませんと言ってるんですが、
僕一応法律家ですが、条文まで全部行きましたけど別に自然災害に限るなんてどこにも書いてないです
岩瀬 書いてないですか
枝野 現状だって自然災害の時に自衛隊に協力をお願いするのと同じ構造だと思いますよね、仕組みは。法律的にはともかく
枝野 できましたよね
1年前からの知見をもっともっと有効活用すべきだって言うことの一つですよね
枝野 そうですね
岩瀬 じゃゃあ何につけても今の政府のやり方っていうのは枝野さんからすると忸怩たるものが
これは安倍政権の時からですけど、これこそ官邸主導じゃなきゃダメなんですよ
平常もバラバラなことやってて調整するんですけど時間掛かるわけですよ、役所同士て色々やってるのを調整するのを、
岩瀬 これ、でもお得意の分野じゃないんですかね?
今までの安倍さんや菅さんの官邸主導って、自分がやりたいことをやる官邸主導
岩瀬 はは
役所同士の調整を時間かけてできないから、エイや!で官邸からこっちでいけってやるしかないんですよ
それを1年間やってないですね
あの今西村大臣が出てきて色々説明するじゃないですか。あれを西村さんがやってちゃだめなんですよ。
横並びの大臣がやっちゃ駄目なんですよ。あれ官房長官がやんなきゃいけないんですよ
官邸がやるから各役所を言うこと聞かせることができるです。足並み乱れず出来るんです
岩瀬 やっぱりあの東日本大震災の時の枝野さんが官房長官だった時の官邸主導っていうのが
今まさに、今というよりは1年前から求められているのに全然それが機能していない
枝野 言ったんですよ、僕、党首会談で安倍さんに。「官邸がちゃんと司令塔作ってやんなきゃダメですよ」って
岩瀬 でも、その時安倍さんはやっぱりやっているておっしゃったんじゃないですか?
岩瀬 そうですか
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前半 了 後半は著作の話が中心
ご無沙汰しております、親愛なる皆さん。(皆さんの方ではわかりませんが、私の方では、皆さんに対し、親愛の情を抱いています。)
お分かりでしょうか。これで、星野源も、負け組となりました。私は、彼のことをテレビで見るたびに内心、羨ましく、忸怩たる思いをしていましたのですが、今、私は、とても晴れやかな気分です。
星野源は、40歳、ガッキーは、32歳なのですね。いえ、私は、8歳年下!ガッキー!などと、星野氏がひた隠しにしていた交際の果実を、称賛するつもりは、ありません。
結婚。
それが意味するところをご理解いただければ、私の言わんとするところも、自然と、ご理解いただけることでしょう。
結婚とは?男と女が夫婦の誓いを立て、互いに互いを一生幸福にするために共同の生活を営み、子をつくり、産み、育て、その間、てんてこ舞いの、忙しさ。次に一息つけるのは、よる年端に打ちしだかれた、老後。と、こういうことではありませんか。
結婚。
なによりも私が訴えたいのは、男女関係のことです。言うまでもありません。結婚をした男女に、男女関係など、ございません。夫は妻に飽き、妻は夫に飽くでしょう。一人の人間を愛し続けることなど、土台無理なことですからね。
なにより婚姻関係にある男女が、彼らの共同の営みの外にある人間と男女関係をもつことは、不貞行為と呼ばれ、許されておりません。倫理上、法律上、そうであることは間違いありません。もろちん、実際上は可能でしょう。しかし外部と男女関係をもつのであれば、そしてそれが露呈するようであれば、共同の営みは崩壊し、婚姻関係も破棄しなければなりません。もしそれが露呈しないとしても、それを露呈させないためには並々ならぬ努力が必要となるのではないでしょうか。いずれにせよ、男女関係は困難です。それが死ぬまで続くのです!
私は、女の心は、わかりません。しかし、男の心、これであれば知悉しております。理由は、ひとつは、私も男ですので、私の心を観察することで、手のひらのしわを数えるように、簡単に理解できるのです。しかし、私の心と、他の人間の心、それがそっくりそのまま同じであるはずはないと、私は、念には念を入れ、古今東西の物語、小説、学術論文、さらにはインターネット上の言論までも読み漁りました。そして確信を持ちました。私の心が、男の心なのです。私の40年に及ぶ人生をかけて断固として言いますが、男に幸福をもたらすのは、新しい女なのです。いえ、正確に言いますと、新しい女体なのです。
権力をもった男がまずやることを、ご存知でしょう。とっかえひっかえ、女を寝間につれこむことです。それも若い女が好まれるようです。女に飽きたら、捨てます。考えても見てください。生物学的に、オスのやることは自分のDNAをできる限り多く残すことです。女は一度に産める子の数が制限されますが、男はそうではありません。子種がある限り、いくらでも子孫を残すことができます。すべてのオスの本能が、新しい女体を求めている理由です。
強いオスが、新しい女体を求めるのは、自然の摂理です。結婚とは、それに反する行為です。人間が生み出したもっとも悪しき習慣だと、私は、思います。結婚は、男にとっての最大の屈辱です。
今回の星野氏の結婚は、彼が女の軍門に下った、男としての負け組に堕ちたことを意味するのです。ですので、星野氏に良い思いを抱いていない私は、彼の結婚に拍手喝采するのです。
私の、数年ぶりの投稿をここまでお読みいただき、ありがとうございます。よろしければこの投稿をシェアしてください。もちろんフェイスブック以外にもかまいません。
ネタバレあり。
つまり、散逸してバラバラになった過去の記憶の断片という意味合いで、それは死海文書なのである。
はっきり言えば今作で庵野のやりたかったことが十全に表現できているとは思えない。本来別の青写真があったにも関わらず、着地点が微妙にズレている気がする。
例えば、アスカとシンジの行方だとか、マリの作中での扱いとか、あるいは、ループする世界とか、月面の世界とか。
そういうものが完全に描き切られていたとは思えない。
庵野は忸怩たる思いなのではなかろうかと、外野ながらに推測する。
アスカはヒロインである。しかしシンジとは最終的に結ばれることは無かった。最終的に彼女の心を射止めたのは相田ケンスケである。
正直なところ、アスカの扱いがやや雑なのは否めない。当方アスカ派なので、「お、おう」といった気分である。
庵野秀明がアスカ役の宮村優子にフラれたのが原因であるとか、そういう説もある。
実際のところよく分からないけれど、要するに庵野自身にアスカを受け入れられない理由があったのは間違いあるまい。旧劇のラストシーンに見られる通りである。
旧劇のラストの解釈は様々に別れるのだけれど、アレは結局、他者を自己のエゴの延長としてしか捉えられないことへの絶望だったのではなかろうか。
他者を愛しているはずが、結局他者を介して自己を投影し、その自己を愛着しているに過ぎないことへの絶望があのシーンには表れていたように思う。
他者に決して行き着くことのない煩悶こそが、旧劇のラストシーンの意味ではないかと個人的には思っている。
とは言え、旧劇における破滅的なラストを、今作で繰り返すことは無かった。
否定的な評価を随分と集めている今作ではあれど、あのラストシーンの繰り返しにならなかったことは庵野における重要な進歩であることは間違いない。あれをもう一度繰り返さなかっただけでも、今作は評価に値する。
それは良いことなんだけれど、やはり視聴者としては少しばかり置いてけぼりなのだ。
そして、マリ=モヨコ女史説が頻りに訴えられている通り、マリは庵野にとってどこまでもエゴとはかけ離れた場所からやって来た存在であり、だからこそ、エゴの呪縛に苦しめられることなく、庵野はマリをヒロインとして愛することができたのではないかと、そう思う。
それにしてもシンジの心理描写も雑である。そっくりさんとの悲劇的な離別を経て、彼が何かを学んだことは間違いない。
つまり、そっくりさんはクローンであり、偽物であったとしても、その一回の生を全力で生きており、そこに生命の尊厳があったのだ……ということをシンジは学んだのであろう。
これは、後述のループ的世界観とも合致する成長プロセスである。
とは言え、やはりその描写は簡素というか説明不足な感が否めない。というかまだまだシンジは「神話になれ」と唄う例のテーマソングの示唆する精神状態には、行き着いていないのではなかろうか。まだ成長の途上段階なのではあるまいか。まだ、父親を救済できるほどの人格を備えてはいなかったのではあるまいか。
彼は本当に神話になれたのであろうか。
ラスト近くにてゲンドウを救済するシンジくんの姿に、些か置いてけぼりの感があった。
散々言われている通りである。
庵野氏が相互的な愛情をほぼ初めて維持できたのが、伴侶であるモヨコ女史との関係性だったのだと思う。
庵野のエゴの外側からやって来た彼女によって、彼はエゴの呪縛から解かれたのであろう。
でもそのエゴの呪縛が解かれるシーンを作中でちゃんと描いてないから、やっぱり展開が唐突に見えてしまうのだ。
あの世界はループしているというのはもはや自明だったと思う。真っ赤になった海は、旧劇のラストシーンの流れを受け継いでいる。
また、貞本義行によるコミック版のラストシーンもまた、ループを思わせる展開に収束する。
エヴァ世界はループしている。それが庵野秀明の世界観であることに間違いはあるまい。
我々の暮らす宇宙は遥か昔にこの座標に生まれ、未だにそのエントロピーは激しく運動し続けている。
しかし、いつかはそのエントロピーが相似形を描き、同じような結末と始まりを繰り返すのではないか、などと想像したことのある諸氏は多いことと思う。
エヴァ世界は、そのような意味合いでループしている。その周期は何年周期なのだろうか?
相対性理論的に、物体の運動に基づいてのみ時間を測定しうるのであれば、そこに時間的経過を求めることは難しそうだけれど。
And let me play among the stars.
何度闇を潜り抜けても息づいている記憶の姿を全力で描いてもらいたかった。
庵野が描いてくれたものには、ある程度は満足することができたのだけれど、完全な青写真ではなかった感がある。
それはあくまで、後世に受け継がれた、散逸した記憶の断片の内の一枚に過ぎなかったのではなかろうか。
村田パンマンについてはずっと前から気に食わなかったけど、今回最新話でのタツマキとブラストの邂逅のシーンで完全にキレたわ
まずこのブラストの登場シーンが背景ホワイトになってるのが気に食わねえ。ここは、村田が意図的に原作との方向性を変えた部分だと思う。
原作においてブラストは趣味でヒーローとしての役割を貫徹する一種の異常者として描かれており、一種のダークヒーローとしての役割を持っている。一方で村田パンマンにおいて、ブラストはヒーローの化身として全てを救済する完全な理想図、言わばヒーローの青写真として描かれているのだけれど、はっきり言えばこれは村田の解釈の逸脱である上に、「とりあえず原作とは方針逆にして攻めてみました」くらいの浅い作品理解が見え見えになってて辛い
まず原作ワンパンマン106話におけるブラストのセリフ「いざという時に誰かが助けに来てくれると思ってはならない」を、村田は、「強者の心得として」という(余計な)一言を付けてダウングレードした解釈を行っている。
ちがう。全然違う。
第一に、原作ワンパンマンにおいてブラストは純粋に異常者なのである。主人公サイタマがそうであるように、ブラストは一介の人間が趣味でヒーロー活動をしているに過ぎず、その精神の根本には「趣味で楽しいからやってる」という以上の信念が存在していないことは、原作最新話に至るまでのサイタマの発言を見れば一目瞭然である。そして、ポイントはサイタマにせよブラストにせよ、自身が一種の異常者であることを自覚しているところだ。そう、普通の人間はヒーローに憧れて自分を血反吐ぶちまけるまでに鍛え上げて怪人とタイマンで戦ったりしないのである。誰かを助けるためにスタコラ駆けつけたりしないのである。じゃあ何でそんなことをするのか、ヒーローとしての義務感があるのか? 誰かを助けなければならないという強迫的な使命感に促されているのか? 違う。「趣味」なのである。
そんなあやふやな精神条件において何年もの間ヒーロー活動を行い続けることができているブラストとサイタマは根本的に異常者なのであり、また、サイタマ自身が述べているように、そのような常軌を逸した行動の反動として、そもそもサイタマは自分自身の空虚さを日々感じているのだ。強くなりすぎてしまった、と。
その辺の解釈が全く村田パンマンに通っていないことに俺は以前からかなりの怒りを抱いていた。勿論、村田のイラストレーターとしての技術や画力が業界随一のものであることは確かなのだけれど、彼はそもそもジャンプ編集部から何故自身が原作と作画双方を担当する漫画を任せてもらえなかったのかを根本的に理解していない気がする。そう、作品理解や構成が根本的に浅いのだ!
多分村田雄介という漫画家は努力と才能の二本の柱によって自己をブラッシュアップしてきた人間だから、ある種の才能の無い人間の葛藤とかそういうものに無理解なんだろうなと思う。ある種の人間の心の動きとか細かい心の機微といったものに無知なんだろうなと思わざるを得ない。才能がある人間に特有の浅薄さが彼のアイディアからは漂ってしまう。彼にはそういう意味で編集から仕事を受け渡しづらかったんではないかと思う。ハァーーーーーーーーーー。
とりあえず一番最初に違和感を抱いたのは「海人族編」である。同編のクライマックス、自分の腕の中に倒れ込んだ無免ライダーに対して、サイタマがポツリと言うシーン。
村田版と原作ONE版においてそのシーンの描き方の差は顕著である。
村田版:サイタマは笑顔で無免ライダーを受け止める。まるで部活のコーチが選手を褒めるかのように。
ONE版:サイタマは無表情に無免ライダーを受け止める。感情の動きは伺えない。
この時点で二人の作品の理解の深度が全く異なっていることは明らかである(ONEは原作者なのだから当然なんだけど)、そう、先に述べた通りサイタマは日常に空虚を抱えているのでそもそも根本的には無免ライダーの奮闘に感動していないのである。それは、同編ラストシーンにおける「つまんねえな、今回は期待したんだけど」というセリフからも明らかである。
村田に対して言いたいのは、何でそんな感情豊かやねん、という話である。勿論、これと同趣旨のツッコミは散々浴びせられてるだろうから村田にとってはこういう意見は今更なんだろうけれど。でも、それにしても作品の解釈が雑すぎんかね? という話なんです。
他にも、同場面において、背後から一撃を加えたにも関わらず何らダメージを受けたようには見えないサイタマに対して、海人王が沈黙の後に名乗りを上げるシーン。ここも明らかに原作の意図を掴み切れていない浅薄な描写となっている。本編において海人王はサイタマの生物としてのポテンシャルの高さを如実に感じ取っており、やや苦戦したジェノスと比較してさえなお「今までのゴミとは明らかに違う」と述べている。このことからして、海人王はこの時点で自身の敗北を些か覚悟していた可能性が高い。その上で、これまでどのヒーローと相対した時にも発さなかった「名乗り」を上げるのである。
つまりこの名乗りは、自身の敗北の予感を覚えつつも、目の前の強者(推定)に対して敬意を表した「名乗り」だと言えるのだ。自分と同等かそれ以上の生命体を目の前にして、戦闘を開始する前に礼儀を尽くそうとしたのである。敵役ながら天晴な心理描写に俺は感動してしまっていた。でも、当然ながら村田パンマンにおいてはそのような感情の機微が捉えられている様子はない。ガッカリ。
そういった村田パンマンと原作との齟齬は全体的にはそれほど多くないものの、時折というペースで伺えてしまうのである。
例えば地獄のフブキとサイタマが最初に邂逅するシーン。フブキは戦闘においてナイフを取り出しサイタマに切り掛かる。その目尻には涙が浮かんでいる。
この涙は、フブキのナイーヴさの表現であることは明らかなのだけれど、その解釈がONEと村田では幾分異なっているように見える。
村田版:子供が自分の願いを聞き届けられなかったかのような悔しさを滲ませた涙
ONE版:目の前の相手に対する恐怖、そしてナイフという直接相手を傷つける武器によって相手を殺傷することへのストレスを含んだ涙
やはりこの描写からも二人の作品に対する深度の違いが現れているようでならない。村田は普段の仕事はきちんとしてるんだけれど、こういう見せ場みたいなシーンでしょうもない解釈をドヤ顔でブツけてくるからホント辛い。上記の通り、フブキはナイーヴであるため根本的に他者を傷つけることにストレスを感じていることが前後の流れから読み取れる。更には、相手を武器で傷つけてまで自分の地位を守ろうとすることへの葛藤さえもその表情から伺える。一方で村田……ヘイ村田
上記の通りフブキの涙についての解釈が、その表情に関する解釈が、村田パンマンには希薄であるように思われるのだ。
というわけで作品の解釈がところどころ浅いっつーか、キャラクターの人格の根本の部分について村田は読み違えているように思えてならないのだ。いやまあ大体は大丈夫なんだけど、原作ファンとしては「ここが見せ場!」ってなってる場面でやらかすのが村田って感じなんだよな。例えば無免ライダーをナイーヴなファンボーイ的なキャラクターとして描写してるきらいが村田にはあるけれど、無免ライダーはヒーローに対して明るい観念ばかりを持ってるファンボーイじゃなくて、ヒーローとしての自分への失望とか周囲の人間が自分に向ける視線への恐怖(タンクトップタイガーの発言「C級1位の座寄越せ!」などに代表される)と日頃戦っているキャラクターの筈なのだ。つまり、根本的に暗くて弱い人間の筈なのだ。それでも、信念に従って倒されても立ち上がって戦い続けているから彼は魅力的なのだ。
なのに村田ときたら無免ライダーのことを「スパイダーマンに憧れたのでとりあえずスパイダーマンのコスプレしてみた」的なファンボーイとして描いている。ハァー、バカチンが。
まあ勿論繰り返すように全体は丁寧で、仮に褒めるとすればボロス編とかは全面的に良かったと思うんだけど。でもところどころやらかしてんだよなあ村田は。
長くなったけど今回の最新話での蛇足描写もそうで、「強者の心得として」っていうセリフはいらなかったの。
これは俺の作品解釈なのでONEの想像と合ってるかどうか分からないけれど……、恐らく「いざという時に誰かが助けてくれると思ってはならない」というセリフは、根本的にブラストの優しさと厳しさの混じったセリフっていうところは当然村田が解釈しているのと同じなんだけど、根本的にそこには齟齬があるようでならない。
つまりあのセリフは「人を助けるってことは普通の人間にはできない」という意味が籠もってると思うんだよな。
だから、普通の人間にはできないことを期待しちゃいけない、って意味なんだと思う。そしてここで述べた解釈もまた表面的な解釈に過ぎず、裏を返してみればブラストが言いたかったのは次のことだろう。
「人を助ける人間は異常者だ」
ってこと。
繰り返すように、ブラストは趣味でヒーロー活動をしている自分の異常性について幾分自覚的である。「普段は働いていて、これは趣味なんだけどね」と原作において付け足している部分からも明らかであるように、「自分はこんな異常者じみた活動をしてるけど、普段は普通の社会人なんだ」という、既に解消され消化されたであろう葛藤の、単なる痕跡としての「後ろめたさ」を匂わせているのである。そう、ヒーロー活動なんて本来は異常者の行うことなのである。サイタマしかりガロウしかり、本当にヒーロー活動に真面目に取り組んでいる連中なんて皆まとめて異常者なのだ。
そしてブラストは自己意識においてもソフィスティケートされているので自身の異常性を認識している。彼はこう言う。「(自分はちょっとおかしいから趣味の一環で君を助けたりはするけれど、そうじゃない普通の人が君を助けることなんてまずないのだから、)いざという時に誰かが助けてくれると思ってはいけない」と。そしてここには更に裏の意図が込められていて、つまり「誰かを助けるなんてことを考えるのは、誰かに助けてもらいたいという弱者の望みを叶えようとするのは、根本的には異常者の仕事だ。君が、そういう弱者の望みを叶えたり、あるいは、『誰も助けになんて来てくれないのが普通の世の中』に対して忸怩たる感情を抱いているなら、君自身が異常者になって、つまりはただ助けを待ち望むだけで誰かを助けることのない普通の人間から抜け出して、誰かを助ける側に回るしかないんだよ」と。
ブラストはそういうヒーローなのだ。異常者としての、しかしサイタマやガロウと同じく善なる傾向を持つと同時に、冷徹な感情をも持ち合わせるダークヒーローであるのだ。その辺のしっかりとした解釈を、村田は自分の仕事に持ち込んでもらいたい。以上一読者からの意見でした。