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はてなキーワード: 万民とは

2021-09-05

anond:20210905103214

前半部主語述語が不明瞭で何が言いたいのか分からない

後半部の増田から距離を置いた方が良いというのは万民に対して言えることで今さら敢えて言われることではない

2021-07-23

まだ社会実験の段階ではあるけれど、ベーシックインカムというアイデア自体には可能性があると思う。

しかし、例えばアンゼンアンシンと唱えるだけでまったく杜撰コロナ対策を続け、オトモダチへの利益誘導体質は改めない今の政府政権が、本当に万民のために有効かつ持続可能な「ベーシックインカム制度を創ると思う?

追記

ごめん

立法行政区別も付かない人とは話出来ない

同じレベルの人とTwitterで騒いでたらいいんじゃない

嫌なら勉強しなおした方がいいと思う

放送大学とかあるから

https://anond.hatelabo.jp/20210723235829

とのことだけど、なんか言葉の使い方間違ったかな?と思って調べてしまったよ。

増田政府政権を使い分けさせたかったのかな?同義で使うことあるよね??

それともそれ以外の何かに反応してるの?

石破は幹事長地方創生担当大臣政権要職を務めた。4年前の2016年に閣外に出てからは、安倍とは距離を置いてきた。「納得と共感。」を強く打ち出している。森友学園加計学園を巡る問題などでは、政府説明責任を果たすよう求めてきた。「納得と共感」が得られなければ、1強状態自民党も、国民からの支持を失いかねないと警鐘を鳴らす。

https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/44167.html



追記:おお元増田よ、自分から煽っておいてろくに応えもせず、消し逃げ再投稿?とは情けない…

ベーシックインカムってデメリット無さそうだけど何で反対意見があるんだ?

生活保護とか申請式だから存在すら知らない底辺層申請せずに死んだり

勘違い自分対象外だと思ったり、申請しても役人ガチャ申請出来なかったりする訳じゃん

けど、一旦全員に生活必要お金を配った上で確定申告等を利用して、必要なかった層からは回収する

これで一切のリスク無しに、国民全員の生活保証が出来るわけでしょ

誰も損せずに公平に国民を救える

こんな制度に何故否定的意見が集まるのか理解に苦しむ

どんな理屈で反対してるの?

共産党あたりが無条件で救われる制度があったら支持者離れて困るとかそういう利権的な話か?

元:anond:20210723233317

再:https://anond.hatelabo.jp/20210724131350

2021-05-04

クロワッサンクロワッサンクロワッサン

食べるほうのクロワッサンかと思ったら雑誌の方か

クロワッサンベーカリーのが美味しいのは当然なんだが、

大きめの業務食材スーパーに行くと冷凍クロワッサンが売られているのだ。

袋入り、一個110円換算ぐらいでそんなに安くない。

ベーカリーで200円クロワッサンを買うよりは安いが、安さと引き換えにバター分が少なかったり解凍焼成が自宅では面倒というリスクがある。

しかも腹に溜まらない。クロワッサンコスパが悪い食べ物だ。味と触感重視で食べ応えがない。

腹いっぱいクロワッサンを食べたい、というのは万民の願いではないだろうか。

そこで、おすすめココスの朝バイキングですよ。

ちょうどGW期間は毎日祝日扱い、朝7時から10時までの三時間ココスバイキングゴールデンタイム

980円ぐらいでミニクロワッサンチョコパン食べ放題

ミニクロワッサンは甘くてお菓子みたい。

さくさくさくさくさく、パイの実みたいに食べ続けても次々に補充される。

天国だ。

大食いの俺は15個は食べられる。

ミニクロワッサンを売ってる駅構内量り売りのが、そりゃあ旨いものだが、残数を気にせずに食べられるのが良いのだ。

緊急事態宣言下で食べに行けないが、落ち着いたら食べに行く。必ずだ。

2021-04-30

「解けない方程式

よくアニソンとかの歌詞で「解けない方程式」みたいなフレーズが出てくるが、代数方程式だって5次方程式(たった5次!)以上になったら一般には解けないし、微分方程式に至っては「ミレニアム懸賞問題」として100万ドル懸賞金が懸かってたりする難しさなわけで、たいていの方程式は解けなくて当たり前なんだよ!って、聞くたびにツッコミたくなる。

まり、「解ける方程式」なんてほとんど無いのだから、「解けない方程式」に悩むなんて、空が飛べる翼がないことに悩むくらい実現不可能空想であり、そもそも悩み方として間違っている。

というかまずは、お前の歌詞で求める「解」は近似解ではダメなのか、どうしてダメなのか、歌詞はせいぜい10分も無いけど、小一時間膝を付き合わせて問い詰めたい。ゼミを開いてお前の意図を詳らかにしたい。

ガロア群が可解にならないからって諦める前に、最適化のための近似アルゴリズムを試せよ。ニュートン法でも最急降下法でもいいから、なんか試せよ。微分不可能か知らないが、それでもなんかアルゴリズム考えろよ。

色々試した結果がそれでもダメだったら、初めてそのことを歌詞に表せよ。方程式が「解けない」んじゃなく、近似さえもできなくなったら、その内容を個別具体的に歌詞に表せ。そうしたら、俺もそのためのアルゴリズムを一緒に悩んでやろうじゃねぇか。

というか、方程式として問題を数式に表すことはできたんだよな。しか歌詞という万民に伝わる形で。そこは偉いな。尊敬する。問題は多くの人間に共有すべきだ。

問題数学手法で解く場合、一番重要なのは方程式を解くなどの計算手法じゃない。問題を数式に落とし込む「問題の定式化」の部分が一番重要なんだ。だってそもそも数式にできなかったら、どんな立派な手法があろうと問題なんて解けやしないだろう?

からこそ、お前の歌詞は本当に惜しいんだよ!「解けない」ながらも、方程式として問題を定式化できたんだろう?定式化できたら問題は8割解けたも同然なんだ。

から、お前の悩むべきは方程式を「解けない」と思い込んでいるその姿勢だ。

解けないことが問題なのではなく、妥協できないお前のプライドこそ問題なんだ。もう少し妥協して、近似解としてのアプローチに悩んでみてもいいんじゃないか?「一番じゃなきゃダメなんですか」なんて、お前以外の誰も求めてないかもしれないじゃないか

なに?一番であることはアニソンとしての、つまり物語としての要求だって

それなら、常に一番として勝ち続けないと存在しえない主人公、そしてそれを称える曲なんてアルゴリズム的にもう古いと、作者か作詞家かに最新の論文ごと叩きつけてやれ!

十全な状態で戦えずに、ひねった手法でなんとかやり込める、そういう近似解法としての物語が今や手法トレンドじゃないのか?真っ正面から物語を「解く」んじゃなく、端からだんだんアルゴリズムで解を詰めていく、それ以上は妥協する、そういう姿勢がこれから物語像だと思うんだよ。

とにかく、こんなに絡み合った現代は「解けない方程式」だらけなんだ。正面から方程式を解くなんて今日流行らねぇよ。だから、「解けない」という悩みを脱し、近似アルゴリズム必死に解を詰めようとするお前の歌詞こそ、論文として採択されうる価値を持つものだし、これから物語としてのロールモデルだってなるはずだ。

から、もう方程式が「解けない」なんて悩まなくていいんだ。次の作品も期待してるぞ。

2021-02-26

anond:20210226233605

ーーーーーー

日付

1936年昭和11年2月26日2月29日

概要

陸軍皇道派青年将校が1,483名の下士官・兵を率い明治維新に継ぐ、天皇を中心とする「一君万民(擬似的民主制)」復元の為「昭和維新」と称し、「君側の奸」である政府要人を襲ったクーデター未遂事件[1]

ーーーーーーー

2021-01-22

anond:20210122103749

そういう意図であればインスタント(即時・即席)あたりが適当じゃないの。

オンデマンドって単語を使うなら、それまで需要に応じず一方的に与えられるとか垂れ流されるような、自由に利用できない状況があった上で、その一方向性に対する問題意識が共有されてないとそういう表現は出てこないと思うが。

もしくはオンプレミス疲労スキャンをするような技術を内製し所持する組織存在していることを前提として、その反対としてその同等技術クラウド化され万民が使えるようになった状態という意味でならオンデマンドという言葉が出てくることも想像できるが、脳の疲労度なんて漠然としたもの一方的にあるいは閉じた組織内であっても計測・数値化する技術確立済みの社会状況は存在してないんだから、突如オンデマンドという表現が湧いてくるのは違和感がある。

2020-12-17

万民堂イーツ難しかったね

左下から行くルートで落下攻撃を駆使して山を降りよう

そしたらガイアさんで水辺を凍らせて小島を渡るのだよ

2020-11-28

あーだめだめ

ところどころ正しいのに所謂「種の保存」的な理解をしているせいで変な解釈になってる。

Re: 滅び/女王殺し

一部は正しい(「複数女王血統からなるコロニーでは女王殺しが行われないのに対し、単一女王血統のみからなるコロニーにおいては女王殺しが起こりやすい」とか)。

女王殺しはなぜ起こるか、未だすべてが明らかではないが、わかっている部分を説明しましょう。

まず学校で習った血縁選択を思い出してください。

ハチのような半倍数性の性決定様式では、(同母同父の)姉妹との血縁度は0.75で、自身の息子・娘との血縁度0.5を上回りますね?

まり自分子供を産むより自分姉妹を増やしてもらった方が進化的にお得なワケです。

ゆえに一見適応度が低そうなワーカー(働き蜂)形質も、包括適応度でみれば適応的な形質と言えるでしょう。

しかし、オス(ドローン)はちょいと違います女王とその息子の血縁度は0.5ですが、ワーカーと同母の兄弟(=女王の息子)の血縁度は0.25。

ワーカーとその息子の血縁度は0.5、ワーカーとその甥(同母同父の姉妹の息子)の血縁度は0.375で兄弟のそれを上回ります

まり、同母兄弟次世代の父とするよりも自分あるいは姉妹の息子をそうした方がお得なのですよ。

ではワーカーが自分たちの息子を次代へ送り出す障害は?――女王だ。

女王の出すフェロモンでワーカーの卵巣発達は阻害され、それを掻い潜って産卵しても女王制裁に来る(ポリシング)。

じゃあ、殺すしかないよね?

と、そういうワケで、女王殺しが起こるんですね。

え?遺伝多様性?そうそうそれもありました。

↑の話は同母同父の姉妹適用される理論。さんざん同父や同母という注釈をつけたのもそれが理由

そして異父姉妹が多い(=遺伝多様性の高い)コロニーでは話が別なのです。

そのようなコロニーでは甥の血縁度は兄弟とのそれを下回る可能性が高いので、女王殺して甥を増やすより生かして兄弟増やした方がお得になるんです。

これが遺伝多様性の低いコロニー女王殺しが起こりやす理由です。

実際のところ条件を満たしているようでも女王殺しが起こったり起こらなかったりするもんで、まだまだ未解明の部分が多いんだけど、わかってる範囲ではこんなモンでしょう。

したがって、

どうやら、単一女王のみが働き蜂を産み育てることで、遺伝子的多様性崩壊するのを恐れる傾向が、働き蜂にはあるのですね。

そんな

傾向は

ない。

徹頭徹尾利己的な遺伝子の話。多様性は結果であって目的ではないのです。

Re: 死というシステム

 スズメバチ社会昆虫なので、一度コロニー形成してしまえば基本的に大型の猛禽クマなどの肉食動物を除いて天敵が存在しなくなります。例えばオニヤンマやシオヤアブ、雀などの鳥類一時的スズメバチを打倒できるとしても、数百匹の群れを成すスズメバチに対抗できる動物はさほど多くありません。つまり、繰り返すように基本的スズメバチにとって天敵は存在しないのです。

 となれば、何故スズメバチ個体数はそれほど増加せずに、ある一定の値を保ち続けているのだろう――そういった疑問を持つ方もいるかもしれません。(以下略

「一度コロニー形成してしま」う前に死んでるんですよわんさか。

「数百匹の群れ」になる前に死んでるんですよ一匹で。

最大の難関をくぐりぬけて盤石の態勢を築いた後で「天敵は存在しない」って。その前に間引かれてるんですよ。

自分でも「きちんと巣を作ってコロニー形成できる女王複数いる女王の内の数%程度に過ぎないという説もあるくらい」と書いてるじゃないっすか。

それが答えです。

 そう、スズメバチの巣には内乱が起こります。巣の内部にいる働き蜂は、万民万民に対する闘争状態さながらに攻撃を開始します。その攻撃対象は、女王、幼虫、蛹、全てに及び、そこに見境などありません。彼女らは暴走し、一切を食い尽くし、全てを破壊していきます。新女王蜂だけが先見性を持ち、その内乱から脱出し次の巣を作るという使命を持って行動することができるのです。つまりスズメバチの巣においては、仮に気候条件が彼らの味方をしようとも、女王フェロモン効果が薄れるにつれて必ずや内乱が起こるようになっているのです。そのため、彼らは気候条件の云々によらず、必ず滅びる運命にあるということなのです。

そんな

ことは

ない。

研究によっては実験で巣から女王バチ除去することもありますけど、ワーカーが産卵するほかは変わらずあくせく働くんですよ。暴れたりもしません。

「あくせく働く」のはそもそもそれがハチ自身習性なんです。フェロモンで1から10まで操られてやってるわけじゃあありません。

女王バチだって営巣初期は自分で餌集めしてワーカー育てますからね?

女王フェロモンだってそんなに万能じゃないです。種にもよりますけど生殖能力制限女王のお世話(グルーミングとか給餌とか)の誘発、労働の促進(ミツバチ)くらいです。

なくなっても暴れませんし、むしろ怠惰になるかも。

それに「内乱」じたい必要ないんですよ。普通に飢えて凍えて老い死ぬんですから

(余ったワーカー候補の幼虫をモグモグしたり先述した女王殺しをやったりはしますけど。)



Re: まとめ

 スズメバチ基本的世界最強のハチであり、さしたる天敵さえも持っていません。それにも関わらず彼らがその個体数を爆発的に増加させないのには、そのような理由があったのです。言わば、彼らの生命サイクルには、内乱と死が含まれているのです。その死が彼らのシステムに含まれていることによって、その個体数は増加せずに済んでいると言えるかもしれません。

さっきも言ったけどスズメバチが爆発的に増えないのは元増田も言っているように「きちんと巣を作ってコロニー形成できる女王複数いる女王の内の数%程度に過ぎない」から

それにワーカーは次代を(オス以外)残せないのだから、こいつらが仮に生き延びても「爆発的に増え」たりしないんですね。


 以下の文章私見となるのですが、あるいはこれは自然生態系というシステム破綻を来さないために設けた、一つの安全装置のような気がします。ある種の強大過ぎる種類が個体数を増やしすぎないという、生態系必要機能のコア部分が、スズメバチの生態というシステムには凝縮されているように思えるのです。

そんな

もの

ない

ガイア理論とかナイーブな群淘汰論とか種の保存とか、その手の話にかぶれてるのでしょうか。

生態系意思はなく、自然安全装置はありません。生物利己的な遺伝子の命ずるまま生み育て地に満ちるのです。できる範囲で。

付録スズメバチライフサイクル

  1. 春:冬眠から目覚めた新女王バチが行動を開始。営巣。女王が二番目に死にやすシーズン単独行動中に喰われたり。
  2. 夏:巣が拡大。ワーカーも大量。この時期の女王はそうそう死なない。
  3. 秋①:次代への備え。ワーカーの生産停止。新女王とオスの生育。たまにワーカーの反逆。
  4. 秋②:新女王とオスが巣立ち。外部で交尾してオス(と運悪く交尾できなかった新女王候補)は死ぬ。巣に残ったハチは寒さか飢えか寿命死ぬコロニーの終わり。
  5. 冬:無事交尾できた新女王冬眠する。女王が最も死にやすシーズン。寝てる間に捕食されたり暖冬で早起きして飢え死に。
  6. 春:最初に戻る。

anond:20201128014600

スズメバチコロニーシステムとしての死

 スズメバチ一年間のサイクルを繰り返す。つまり女王が生まれ女王が巣を作り、滅びる。これを繰り返すのである

 いやしかし滅びるってなんなんすかという話であって、勿論字義通りスズメバチの巣は最終的に滅びるんですけど、その時に一体何が起こってるのかについてはあんまりよく知らない人もたくさんいると思うわけです。実際のところ、スズメバチの巣が滅ぶ際には色々常識を超えた現象が起こっています


巣が設置されて発展するまで

 女王蜂が巣を作り始めるのは四月とか春の時期で、まあ色々とその時にも障害がありますそもそもきちんと巣を作ってコロニー形成できる女王複数いる女王の内の数%程度に過ぎないという説もあるくらいで、巣作りが失敗する理由としては、例えば純粋病気とか栄養不足のほか、天敵に狙われてしま場合など色々あります原理的にコロニー形成したスズメバチには殆ど天敵はいないのですが、つまりは翻って言うならば、彼(女)らの天敵になり得る存在スズメバチ自身です。

 面白い生き物がいまして、これをチャイスズメバチと言います

 チャイスズメバチ女王基本的自分で巣を作らずに、他の巣を作ろうとしているスズメバチ女王を襲い、巣を乗っ取ることによって勢力を持つのです。チャイスズメバチキチン質の硬い表皮(カブトムシなどと同質)を持っており、よほどのことが無ければ他種のスズメバチの毒針はチャイスズメバチの表皮を貫通しません。勿論その他の噛みつき攻撃などにも耐性があるので、少数の例外はあれどチャイスズメバチ女王はなんなく他の女王から作りかけの巣を乗っ取り、あげく成長した働き蜂をフェロモン支配してその後の巣の運営の為に馬車馬のごとくコキ使ったりするのです。怖いですね。

 いずれにせよ色々な障害のために巣作りが失敗することもあるのですが、上手く発展の軌道に乗る巣も当然存在しています。で、そういう巣は爆発的に発展して人間の目の敵になったりするんですけれど、上手くいけばその巣は十月頃まで発展します。逆に言えば、十月が彼らの滅びの始まりとなるのです。


滅び/女王殺し

 秋から冬にかけて純粋スズメバチの食物がなくなるので巣は滅びへと向かいます。その過程では女王殺しが行われる場合もあります

 女王は年老いてくると新しい女王に据え替えられる場合もあり、その際に働き蜂から追放され、悪ければアレされます。この女王殺しが起こる条件には色々あるようなのですが、一説には遺伝子多様性の確保のために女王殺しが行われるそうです。つまり複数女王血統からなるコロニーでは女王殺しが行われないのに対し、単一女王血統のみからなるコロニーにおいては女王殺しが起こりやすいのだそうなのです。どうやら、単一女王のみが働き蜂を産み育てることで、遺伝子多様性崩壊するのを恐れる傾向が、働き蜂にはあるのですね。子の心親知らずというか。逆に言えば、遺伝子多様性担保されている場合にはある程度円満コロニー運営されます

 いずれにせよ冬に掛けていかなるスズメバチの巣も滅びへと向かいます基本的には、その際に生き残るのは新しい女王蜂のみです。この新女王蜂は木の虚とか比較的越冬しやす場所で来春までの時を過ごします。翻って言うならば、そのような女王としての素質を持っていない働き蜂は皆滅ぶことになるということです。

 ここで疑問を持つ方もいるかもしれません。つまり女王蜂と同じように働き蜂も越冬すればええやんけという話です。何なら女王が木の虚とか堆肥とかそのテの越冬しやす場所で年を越せるのであれば、コロニー内の風通しの少ない場所で働き蜂らもある程度なら越冬できるはずなのです。しかし、そこがこのシステムのミソで、要するに新女王を除いて全ては滅びるようになっています


死というシステム

 スズメバチ社会昆虫なので、一度コロニー形成してしまえば基本的に大型の猛禽クマなどの肉食動物を除いて天敵が存在しなくなります。例えばオニヤンマやシオヤアブ、雀などの鳥類一時的スズメバチを打倒できるとしても、数百匹の群れを成すスズメバチに対抗できる動物はさほど多くありません。つまり、繰り返すように基本的スズメバチにとって天敵は存在しないのです。

 となれば、何故スズメバチ個体数はそれほど増加せずに、ある一定の値を保ち続けているのだろう――そういった疑問を持つ方もいるかもしれません。勿論、季節のサイクルにおいてスズメバチ生存が難しくなることは先述の通りなのですが、女王蜂が越冬できる事実から言って、他の働き蜂が皆滅びる運命しかないと断じてしまうことには些か違和感を持つ方もいるかもしれません。女王が生き残れるのであれば、全体とは言わずとも一部であれば来春まで越冬する働き蜂もいるんじゃねえのという話です。

 とは言え、それは現実には殆ど起こりません。全く起こらないというわけではないのですが、まずもって起こらないのです。

 それは、スズメバチの一生のサイクルには死というシステムが組み込まれてあるからです。

 次に話すのは周知の事実ですが、基本的に子孫を成すのは女王だけで、一般の働き蜂は子孫を成すことができません。当然交尾のための行動も行わないのです。何故ならば、彼女たちは女王の分泌するフェロモンによって生殖能力制限されているからなのです。女王の持つ権能はそれほどまでに及びます

 しかし、女王もまた定命のものです。時を経れば経るほどに、その肉体的な能力は弱体化します。つまり、その際には女王の出すフェロモンの分泌能力にも翳りが生まれるのです。

 女王の出すフェロモンには色々な種類があって、まずは先述の生殖能力制限する目的のものそれから、働き蜂らを統制するためのフェロモンです。彼女らが何故馬車馬のようにあくせく文句も言わず働いているかと言えば、女王の出すフェロモン彼女らを統制しているからに他ならないのです。では、そのフェロモンを出す能力に翳りが生まれるとどうなるのでしょう?

 そう、スズメバチの巣には内乱が起こります。巣の内部にいる働き蜂は、万民万民に対する闘争状態さながらに攻撃を開始します。その攻撃対象は、女王、幼虫、蛹、全てに及び、そこに見境などありません。彼女らは暴走し、一切を食い尽くし、全てを破壊していきます。新女王蜂だけが先見性を持ち、その内乱から脱出し次の巣を作るという使命を持って行動することができるのです。つまりスズメバチの巣においては、仮に気候条件が彼らの味方をしようとも、女王フェロモン効果が薄れるにつれて必ずや内乱が起こるようになっているのです。そのため、彼らは気候条件の云々によらず、必ず滅びる運命にあるということなのです。


まとめ

 そんなこんなで、彼らは新女王を除いて滅びます。その血統レースは一時中断し、新女王が次のコロニー制作に低確率成功するまでは、その成否は保留されることになるのです。

 スズメバチ基本的世界最強のハチであり、さしたる天敵さえも持っていません。それにも関わらず彼らがその個体数を爆発的に増加させないのには、そのような理由があったのです。言わば、彼らの生命サイクルには、内乱と死が含まれているのです。その死が彼らのシステムに含まれていることによって、その個体数は増加せずに済んでいると言えるかもしれません。


 以下の文章私見となるのですが、あるいはこれは自然生態系というシステム破綻を来さないために設けた、一つの安全装置のような気がします。ある種の強大過ぎる種類が個体数を増やしすぎないという、生態系必要機能のコア部分が、スズメバチの生態というシステムには凝縮されているように思えるのです。

2020-11-02

努力矛盾である

 努力をする、という行為そもそも矛盾であって、人間努力をしないようにできている。更に言えば、人間努力をしてはいけないという命令を脳から受けつつ生きる。

 というのは、努力をする、という行為必要な時点で、それは努力するべき価値のない物事からである。夢中は努力に勝る、という言葉があるように、本来成功する努力とは無意識的なものである。つまり、「努力しなきゃ」という客観的観点と、有意義効果的な努力は不協和なのであって、「努力しなきゃ」とか意識してる時点で、貴方はその物事に向いていないし、もっと言うと、その物事に関して努力をしたところで極めて期待値が低く、恐らくコスト努力)に比してあまりにも小さなリターンしか手に入らないか、あるいは全くリターンが手に入らないか、最悪、リターンどころか自身マイナスしかならないということなである

 脳はそのことを知っているので、そもそも客観的に見て「努力必要」と感じた時点で自分の体にブレーキを掛ける。「努力必要期待値が低くあんまりやらない方がいいこと」なのである(それが我々人類におけるこれまでの生存戦略だったのだ)。本当に向いていることは「努力しなきゃ」とか考えるまでもなく体が動くし、特に意識なく精進していけるものであって、要は才能がない人間努力無駄どころかその人間の心身を蝕むことになるという厳然たる事実を脳は知っているのである。だからこそ脳は人の体にブレーキを掛ける。「やめとけ」と。だから、人は努力ができないのが普通なのだ。

 例えば、もし原始時代において、あんまり期待値が高いわけでもない試行を繰り返す個体努力をする個体)がいたら、周りの人は彼にこう告げるであろう。「お前そんなことしてないでもっと向いてることやれよ、コミュニティを存続させるために重要なこともっとあるだろ、あるいはそういうのはもっと向いてる奴に任せとけよ。コミュニティが存続しねえとお前も生きていけないんだから、お前がやるべきことは他にもあるってことくらい分かるじゃねえか」と。はい。明らかにこのような忠告は正しいし、正鵠を射ている。そういうわけで、「努力をしない」あるいは「努力と感じられるような努力はしない」が人間生存戦略となっているのである。これは極めて合理的なことで、人間は要するに努力できないように作られているのであるし、努力という行為人間生存戦略上の矛盾なのである


 とは言え、原始時代はともかくとしても現代においては、一人の人間期待値の低い努力をしていたところでコミュニティの存続には特に関係がないので、そういう「努力」が許容されるようになっている。しかしながら、「努力」と認識し「努力しなきゃ」と思っている時点で人間生存戦略矛盾していることには代わりない。脳は、そのような努力をしている人間に対して、絶えず命令を送り続ける。「やめとけ」「向いてねえぞそれ」「多分ほかのことやった方がいいと思うぞ」などなど。

 繰り返すが、そのため人間は脳の影響によって「努力」というものができない(やりにくい)のである

 才能のあるやつにはそういうことがない。あるいは、あったとしてもごく少ない。脳は才能あるやつにこう告げる。「その調子だぞ」「向いてるぞ、それ」「その研鑽期待値高えからそのまま続けろ」などなど。というわけでこの文章は才能のあるやつには向けられていない。才能のあるやつにおいて努力努力じゃねえので生存戦略において矛盾はない。彼はそれを殆ど無意識に行い続ける。多分ドーパミンとかそういうのも結構出るので、むしろ努力をやめることができなくなる。

 とにかく「努力しなきゃ」と考える時点で貴方は凡人である。脳としては「やめとけって……」の無限打診を続けるしかない。とは言え、そういう負のスパイラルに没入しても、原始時代においてはそういう期待値の低い試行をし続ける人間は下手するとぶっ殺されちゃうんだけれど、現代においてはぶっ殺されずにそのまま負のスパイラルを続けることができる。この文章は、そんな負のスパイラルを続ける人間に向けて書かれている。


 俺は凡人である。つまり努力をしている人間である期待値の低い試行を繰り返している人間である

 というわけで基本的には努力とかせずほかの事柄リソースを割いた方が明らかにマシなんだけれど、そういう合理的判断能力はとっくの昔に欠落している。

 さて、そのような凡人にとって、基本的努力というもの期待値が低く、努力なんてことはせず別の行動をした方が絶対いいんだけれど――アンチテーゼを敢えて唱えるならば、「凡人にも最高効率努力がある」というテーゼがそれに当たる。

 凡人――最も努力費用対効果コストパフォーマンス)が低い人間にも、その人間にとって費用対効果の高い努力というもの存在する。それは事実である。「努力矛盾である」という原初的命題テーゼ)を止揚アウフヘーベン)するために、このアンチテーゼを用いる。これによってジンテーゼを生じさせる。

制限された状態から効率の最大化を求める行為矛盾ではない」。

 これがジンテーゼだ。

 努力をしなければいけない人間は、能力制限限界リミット)のある人間である。よって、そのような人間の行う努力基本的効率が良くなく、あまり価値がない。これまでその事実を俺は言い続けてきた。とは言え、全く制限のない人間というもの存在しているかと言えば、それは誤りである。例えばチェス世界における現人類最強の人間ノルウェー出身のマグヌス・カールセンであるが、彼に比べれば、全ての人間相対的チェス能力制限を受けていると言ってもいい。もっと言えば、チェスコンピューターには流石に敗北を喫するであろうカールセンにしたところで、能力には制限が設けられている。つまり人間には万民において制限が、限界が、リミット存在している。

 となれば、基本的に我々の取るべき生存戦略は次のことになる。「制限のある上でいか効率よく振る舞うかを追求する」ということである。ここにおいては、次のテーゼも成り立つ。「制限の多い状況においてある行為可能ならば、制限の少ない状況においては尚更その行為可能であるし、制限の多い状態に比べればよりコストパフォーマンスも高くなる」というテーゼである。これは、ドラゴンボールにおける悟空重力トレーニング想像してもらいたい。重力が高い状態である程度のパフォーマンスが発揮できるならば、適正な重力下においては更に多くのパフォーマンスが発揮できるであろうということだ。

 そう、この場合の「重力」という比喩は、我々における一種制限、つまり「才能の無さ」と対応している。我々は、悟空重力において制限を受けるように、常に「才能の無さ」という重力に晒されている。そこにおいて我々は、常に脳から「やめた方が良いぜ」という圧力、その行動に対する一種重力を受け続けているのである。これは、寧ろ努力する人間に限らず、ほぼ全ての人間が常に晒されている恒常圧でさえあると言えるかもしれない。

 そう、人間は、基本的に、何らかの重力に晒されている。だからこそ、その強い圧力下において、強い重力下において行動することに慣れなければならないのである。そう、つまり、我々は努力をするべきなのだ。そうすることによって、重力の低い事柄、例えば自身における「向いている」事柄において、更にパフォーマンスを発揮できる可能性が高まるである

 ここから得られる結論としては、必ずしもある努力は、その努力している対象(例えばスポーツとかチェスとかその他の競技とか)そのものに対する努力ではないということだ。それは、重力それ自体に対して慣れるという努力なのである重力をある程度克服するという努力なのである。そう、努力対象を、自身の受けている恒常圧であるところの重力へと転換させること、そのことによって我々は初めて努力意味を見出すことができるのである。あるいは、重力のものを、つまりは才能のなさそのものを克服することによって、本来才能のない向いていない出来事に対しても、これまで以上のパフォーマンス発揮することも、決して夢ではないのである


 テキストとしては以上なのだが、些か抽象的な記述になってしまったので、具体的なアドバイスを一つだけ書いて終わりにしたい。

 人は脳によって恒常圧、重力を受けている。なので上手く受け流して重力を克服するしか、我々才なき者には道はない。


簡単にできることをする

 誰もが言っていることだが、難しいトレーニングをすることは脳の負担を増大させる。脳から重力を増大させる。なので、簡単なことからしなければならない。

 例えば、「あいうえお」と記述することは誰にだってできる。文章練習をしたいのであれば、毎日必ず「あいうえお」と書くことだ。そういうことから始めよう。

 毎日あいうえお、と書いていると、殆ど人間は次のように思う。「『あいうえお簡単すぎるわ」と。「何かもっと難しそうなことできるわ」と。ここにおいて、脳の恒常圧はやや薄れることになる。

 そうなったならば、相対的に難しいけれど比較簡単なことをすればよい。例えば、「あいうえお」だけでなく、「かきくけこ」から後を書くとか。あるいは、俺が実際に行ったトレーニングは、まずここに書いてある通り五十音を書き写すといったものであった。その後、脳の恒常圧がやや薄れたのを確認して、次のステップに移ったのだけれど、それは、昔暗記したとある小説のページをひたすら書き写すというものであった。自分の好きな小説のページを、同じページを書き写すのである。とにかく、物事簡単なことから始めるのが大切だ。誰にでもできることから始めるのが、一番脳の恒常圧、重力を騙すにはうってつけなのである

 簡単なことから始めよう。しかもそれを毎日続けよう。

 そうすることでしか我々は重力を騙せない。後は、毎日最低限栄養のある飯を食べて、ちゃんと寝て、人と会話をしよう。そんくらいである。

 才なき人々は、脳を騙して、重力を克服しよう。

 すると矛盾は消える。

2020-10-29

フェミニストの話が食い違う理由

フェミニスト表現規制話題で新作が出ました。

https://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/2004043.html

今度はこの江口寿史っぽい女性イラスト問題だと。

 

1.「とぼけている」という頻出問答

イラストを見た感じ、露出度は高いですが、まあイケイケ感ある夏の水着と言う感じで、

卑猥描写18禁的な描写がないことはどの立場の人も同意できると思います

実在女性がこの格好で夏の海岸などを歩いても逮捕されることは無いでしょう。 

 

では何を問題とするのか。

どのような論陣を立てて当該イラストを取り締まるのか。

これは規制の側に立つ人へ説明を求めて良いことですし、規制側に説明責任があります

はてなでの陣営トップコメントは以下のような物でした。

 

tobaritooth

別に私は元の看板問題だとは思わないけど、美人かどうかじゃなく生々しさの問題だってことぐらいは理解できるよ。

つかみんな理解してるのにすっとぼけてるだけだよね。

2020/10/29

この「とぼけている!」という怒りの声は

この種の規制問答で規制フェミニスト陣営から繰り返し出てくる特徴的な物です。

 

声高く何かを糾弾し、

その問題点や規制根拠を尋ねられたフェミニストサイドはしばしば

理解できるはずだ!なのにとぼけている!」と激昂の声を上げてきました。

ポイントは、主張の根拠論陣について質問された時に返答がこうなるということです。

 

Q.「あなたの主張の根拠わからん説明を求める」

A.「理解できるはずだ!なのにとぼけている!」

 

このやりとりはあまりにもしょっちゅうます

これはなんなのでしょうか?

 

 

2.フェミニスト側が考える「説明

結論から言うと、

双方の考える「他者への説明で満たすべきライン」が大幅に異なるためにこれが起きています

 

規制側・フェミニスト側の人達

「これを見て私の感情マイナス方向に動いた」ということで社会的アクション理由説明に十分だと考えています

「生々しい」とか、「なんかエロい気がする」とか、「キモい」とか、「オタクがこれ見てシコってそう」とか、

そういう瞬間的にハッとする心の動き。

 

ですからそのアクションに対して、同意されなかったり、反論されたり、根拠説明を求められたりすると、激昂します。

「え?なんでか説明して?」

とぼけている!」

明らかに相手とぼけている、私の心を無視して踏みにじっている、というわけです。

 

私の気持ちが現にある。

なのに賛同しないどころか説明を求めてくる。

この相手は私の心を否定している、許しがたいほど不誠実である

から怒る。

  

 

3.質問側が求めている「説明」 

ですが、説明を求めている側はそういうことを聞いてはいないわけです。

感情の動きは誰にでもあります

イラストを見れば何らかの心の動きは万人にあるでしょう。

そこがあるとかないとかを争われているのではないわけです。

 

かくいう私だってたとえば宇崎ちゃんの絵は下手糞な気持ち悪い絵だと思います。忌憚のない意見って奴っす。

しかしこの個人的な「気持ち悪い」のような嫌悪感と言うのは

そのままで他者通用するような何かではありません。

「私は宇崎ちゃんが嫌い、あの絵がキモい。」「ふーん、あなたはそう感じるのね」そこまでの話です。

 

社会的運動をして、宇崎ちゃんの絵を取り締まろうとか、降ろさせようとするならば、

そういう個人的情動を取れたてそのまま未加工で大声で叫んだって駄目で、

「なぜそれが社会的に許されないのか」という論理的説明理論武装必要になります

規制を唱える人達説明を求められているのはこの論理です。

 

まずオフェンス面としては「言葉による定義」や「その定義に当てはまるもの社会的有害性のエビデンス付き証明」ぐらいは必要ですし、

ディフェンス面としては「同じ定義に当てはまるもの社会に大量にあったりはしないかのチェック」ですとか、「エビデンス恣意性がないかのチェック」ぐらいはしておかないと討ち死にリスク高まるでしょう。

 

そうやって規制の為の論理を立てて、

それを規制に反対する側の人達論理チェックされて、

反論されて、再反論して、ディベートになっていくわけです。

  

 

4.話の噛み合わなさが常態化している

しかし昨今のネットで活発なフェミニスト陣営と言うのは

「私の心にネガティブな動きがあった」で説明が終わりです。

論陣構築の能力意志ゼロ

 

宇崎ちゃんの件では厳しく説明を求められたせいで渋々ながら論理構築を試みて、

陣営トップの知恵者達によって「環境セクハラである」だとか「献血自主性の問題である」だとか後付け論拠が次々示されましたが

建付けが甘いのですぐ破れ、また別の誰かが頑張って新しい論拠を立てたので大挙して引っ越したけどまたすぐ破れ、

陣営全体で酔っぱらったヤドカリのような右往左往を呈することになり、

論理より先に「気持ち」があったのは明らかでした。

 

今回の香港の絵にしても、

「生々しいだろうが!」と頑張ったって、

そう感じる人もいるし、感じない人もいるし、そんなの人それぞれなんです。

 

更に、1000歩譲って社会万民満場一致で「この絵は生々しい」と同意されたと仮定して、

生々しいから何なのですか。

「生々しい」と「道に貼ってはいけない」を繋ぐ論理が全く提示されていません。

 

tobaritoothさんがこの絵を生々しいと感じた。

それは誰も否定しません。争う必要意味もない領域です。

tobaritoothさんが嘘をついているとか、tobaritoothさんの感性おかしいとか、そんなことも言われてないわけです。

 

ただ、

Q.「あなた感性気持ちは分かったけど、それで何が問題なの?規制の為の論陣はどうなってるの?

A.「あきらかに生々しいだろう!とぼけている!

 

これは絶望的に話が噛み合っていません。

  

 

5.まとめ 

tobaritooth

別に私は元の看板問題だとは思わないけど、美人かどうかじゃなく生々しさの問題だってことぐらいは理解できるよ。

つかみんな理解してるのにすっとぼけてるだけだよね。

2020/10/29

この発言問題点をまとめると以下の通り。

 

1.「生々しい」という感想自明ではなく定量的でもなく、そもそも立場の異なる相手との議論に適さない。

2.そのような言葉を選んでしまう・同意されないと怒りだしてしまう点で自己他者境界あいまい

3.仮に「生々しい」ことに同意を得たとしても、肝心の「生々しいもの規制するべき」の論理ゼロ

 

要するに

他者通用する論理を扱う気が最初からなく、

自分感情内面体験を何よりも尊重し、

他者もそれに従うべきだと純真確信している。

 

自分不快の意は疑いようがなく正しく、

その表出はただ「不快である!」で説明終わりで、あとは周りがいいように計らってくれるべきで、

不同意されたり質問をされたりしたら「まだわからないのか!」「とぼけている!」。

 

このライフスタイルで通るのは幼稚園児と独裁者だけです。

 

 

6.この人達の苦しみの原因

tobaritooth さんにしてもよく読めばかなりおかしな言い方をしていて

別に私は元の看板問題だとは思わないけど、美人かどうかじゃなく生々しさの問題だってことぐらいは理解できるよ。

実は看板の絵が問題なのか問題じゃないのかはっきり言おうとしていません。

 

規制論議をぶち上げるたびにさんざん根拠説明を求められては言葉に窮してきたため、

「これこれこうで問題である。したがってこの絵は社会から排除すべきである!」という大上段で対決する知性や気迫をもった規制論者やフェミニストは半ば絶滅して

規制をするとかじゃないし~」「問題だとは思わないけど問題だし~」

のようなクネクネした振る舞いが増えてきているように思います

 

個人的にはこの人達意識的であるとか悪意があるという印象は持っていなくて(太田弁護士を除く)、

自他の境界あいまいであるとか、

自分感情客観的に捉える能力がないとか、

そのために感情が動くたびに大問題が起きたと感じてしまうとか、

そのために”大問題”を他者に通じるコード言語化することが出来ないとか、

そのような煩悶真剣に苦しんでおられると思います。 

 

しかしこの種の人達社会思想が包摂してしまうことはむしろ

この人達の苦しみの原因を助長する動きしかしないのではないでしょうか。

そしてこの種の人達を取り込むことは、フェミニズム自体パブリックイメージ議論能力を下げるという形で

最終的にフェミニズムにも祟るであろうことはほとんど予知できることです。

適していない人には「あなたは別の科へ」と敢えて参加を断る勇気こそ学問としてのフェミニズムを守る道ではないでしょうか。

 

2020-10-09

暴力に囚われていないという幻想

 それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。

 我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。

 何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである

 暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分暴力主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。

 「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?


 ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科世界史の授業で、「人間万民万民に対する闘争状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。

 でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである

 誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明ことなのだ。

 勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。

 でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである

 俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである

 そう、つまり、俺もあの上司根本的には一緒じゃないか、と。

 自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。

 まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである

 まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。

 そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――


 そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ

 ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。

 中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。


 話が脱線している、閑話休題

 とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。

 我々が今日まで辿ってきた歴史を振り返ればいい。

 我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。

 我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かからまれ続けてきたと思う。


 だってそうじゃないか

2020-10-08

暴力に囚われていないという幻想(改稿)

 それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。

 我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。

 何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである

 暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分暴力主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。

 「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?


 ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科世界史の授業で、「人間万民万民に対する闘争状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。

 でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである

 誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明ことなのだ。

 勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。

 でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである

 俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである

 そう、つまり、俺もあの上司根本的には一緒じゃないか、と。

 自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。

 まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである

 まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。

 そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――


 そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ

 ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。

 中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。


 話が脱線している、閑話休題

 とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。

 我々が今日まで辿ってきた歴史を振り返ればいい。

 我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。

 我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かからまれ続けてきたと思う。


 だってそうじゃないか

2020-05-22

結局 万民幸福などないからな。

だれもいない

ただ生きていただけの40年

孤独 明日孤独だけど つらかった。

握手されたぐらいで 勘違いする程度には 童貞だろう

2020-05-03

「夜の街」は死ぬ

after緊急事態宣言を考えてみたが、所謂「夜の街」クラスターの原因となったと推測される接待飲食営業性風俗関連特殊営業一時的にほぼ壊滅するんじゃないかと思う。

まずワクチン治療薬が万民にいきわたらない限り、コロナ以前の経済活動不可能だ。

仮に緊急事態宣言明けにコロナ以前の経済活動に戻すとなると、無対策場合実効再生産率が2を超える以上、再流行医療の逼迫→再度の緊急事態宣言へと至るのは明白だと思う。

コロナ治療医療崩壊が起きない程度に諦める(スウェーデン方式選択であればコロナ以前の経済活動に戻すことも考えられるが、これには死生観の変革も求められ、政治国民理解ハードルが高い。

諦めずに医療崩壊を防ぐためには2つの選択肢が考えられる。(あるいは併用)

一つ目が所謂外国new normal専門家会議が語るところの新しい生活様式市民が行うことだ。

これは実効再生産率0.5-0.7となる現在経済活動の水準から若干元に戻し、医療を維持できる実効再生産率0.8-0.9となる程度の経済活動を行う選択理解している。

この場合、濃厚接触を行う可能性が高い産業には自粛継続なり接触頻度を低める工夫をしての営業社会的に求められる可能性が高い。

二つ目感染者のトレーサビリティを強化したうえで、徹底したクラスター対策を行うことだ。これは韓国台湾選択している方式理解している。

この場合国民は何らかの形で行動履歴政府に常時提供し、感染者が判明し次第、過去の行動から接触者を割り出し通知する仕組みを構築する必要がある。

言うまでもなく、このどちらも前述の産業との相性は極めて悪い。

前者の濃厚接触そもそもこの手の産業提供している本質的価値のものであるし、後者トレーサビリティはこの手の産業顧客匿名性を一般的に求める以上、利用を嫌厭する大きな理由になる。

テレビ番組ネットでも「夜の街」産業従事者が緊急事態宣言が明け、元通りになることを心待ちにしている声が流れることがあるが、心の中で「まあ助からんやろうなぁ」と思う。

同じことはインバウンド関連事業者にも思う(海外旅行の復活には日本旅行者母国双方の感染収束している必要があるが、それは年内どころか来年、再来年までかかるケースも多いだろう)。

政府がどんな手を打とうと(経済的に)死ぬであろう人が、希望を捨てない発言をしているのはぶっちゃけメンタルに来る。

まり他のSNSリアルでは悲観的は発言もできないので、整理がてら増田に書き捨てる。

2020-04-08

anond:20200408100342

この世には「政府に無制限権力を与えろ!」と「政府から全ての権力を奪え!」しかないわけではない。

リベラルは「政府は強権を振るうべきだからこそその権力制限必要」という立場なので別に矛盾はしてない。

権力万民平等に振るわれるならそれを擁護すべきだし、

権力個人のために歪められるようであればそれは批判すべきことだ。

2019-12-22

anond:20191222165419

万民聞き取りやすいはむずかしいやろ

きいてわからないと、おっしゃるように表示見て

となるが年末だしいまはちがうやろ30分はやめにでるしかない

2019-08-10

少年スポーツ選手故障を絶賛してるのは民衆の側じゃね?

苦しみながらも投げぬいたぞ感動!とテレビは囃し立てる

俺は今なんだよ!とジャンプは語り

コロコロコミックですらボロボロになりながら練習することを尊い子供洗脳する

スポーツの持つ最も素晴らしい側面が苦痛に耐えながら勝利を目指す自己犠牲精神であるかのように喧伝することを許してきた者は誰だろうか?

国民国民ニッポン国民

スポーツ選手の持つ最高の精神性は自分の将来よりも目先の勝利を優先することであるという物語を好んできたのは誰だろうか?

万民万民!我らが万民

そうだ!これは我々の罪だ!

我々がスポーツに対して冷酷ショーであることを求めた結果だ!

それを今更になって自分たち以外の誰かが悪いなどと言うのは卑怯者のすることだ

私は逃げない

ハッキリ言ってやろう

脳味噌筋肉スポーツ中毒者どもよ!貴様らがこの世界提供できるのは感動ポルノだけだ!

感動ポルノ提供できるのならば死ぬまで球蹴りやカケッコをして生きる道も許してやろう!

貴様らが我々に提供すべきはメダルポルノゴシップだ!それを否定するのならバイトでもしろ

水遊び障害物競走で金がもらえる生活を続けたければ諦めて感動ポルノの生け贄になる道を選べ!

それが嫌ならスポーツで食っていくなどという与太をほざかずに近所の町工場にでも頭を下げて雇ってもらえ

これは我々普通の国民の総意だ。

肝に銘じよ。

2019-04-16

研究者の食い扶持に関して

幾つか報道になってた「研究をしてきたんだけどつける職がない」問題

ブコメを見てると「とんでもない」「これじゃ国が滅びる」「救済すべき」って意見が多い。

自分は、この件に対してまだ確固たる意見を言えるほどの知見を保ってないと感じるので意見の決定を保留している段階なんだけど、みんなはなんで上記のような結論に至ったんだろう? もうちょっと説明すると、「研究をしてきたんだけどつける職がない」問題を「nに打ち込んできたんだがnでは食い扶持を稼ぐことができない」と問題拡張した場合、みんなの意見は変わるのか変わらないのかに興味がある。

変わらないのだとすれば、「研究者には食い扶持を与えるべき」ではなくて、ただ単純に「万民にBI」みたいな話でいいんじゃなかろうか? 人間なんかしらには打ち込んできたんだろうし。

変わるのだとすれば、nの貴賎(この場合数あるnの中でも研究尊いので食い扶持を与えるべきだという話なのだうから)は誰がどのように判断管理すべきだとみんなは思っているんだろうか?

すごくざっくりした話だけど、「15年間研究してきたけど職にありつけなかったひと」と「15年間真面目に自動車工してきたけど無職になって職が見つからない人」は、どちらをどういう割合でどれくらい手厚く救済すべきなんだろう? あるいは「15年間ラノベデビューを目指して投稿してきた無職」は?

研究者の食い扶持問題」を問題提起した記者は、あるいはコメントしてるみんなは、この視点になんらかの回答を持ち合わせてるんだろうか?

2018-12-04

anond:20181203202524

 手抜きか手抜きじゃないかは家庭の習慣に寄るとしか言えないってことをこの増田も一部のブコメも分かっていない。

中華料理バリバリ作っていて中華調味料がすでに揃っている家庭でなら、クックドゥを使うことは「いつもの味」と違うという点においても、金銭コストの面においても、「手抜き」だと家族認識されたり、自分でも罪悪感を持ったりするだろう。

 しかし「日本の家庭」において中華料理を家で作ることは一般的ではない場合も多い。1品料理を作るにあたって中華調味料を揃えるよりもクックドゥ1箱を用いたほうが材料費は安く上がるので、コストからして「手抜き」ではない(1)。そして、クックドゥ万民受けの最適解の味付けなので、クックドゥのほうが美味しいという人も多く、そのような家庭では中華料理を作るに当たってクックドゥを購入していなかったことが「手抜き」となる。よって味の面からして「手抜き」ではない(3)。また、いつもは作らない中華料理献立バリエーションとして出そうという時点で、主婦主夫/炊事担当者)の仕事として「手抜き」ではない(2)。

 最後に、家庭によっては定番の購入中華惣菜というものがあるだろう。餃子ならあの店、酢豚ならあの店で購入し、夕飯に出す。そういう家庭の場合、家で餃子酢豚を作って出すこと自体クックドゥを使おうが使うまいが、家族にとっては「手抜き」となる。

 このように「手抜き料理」の統一した基準なぞ「母親の味」の統一見解と同じくらい存在しない。

2018-10-22

anond:20181022124213

ロールズよりも更に前の状態、つまりは誰もが自分一人のお気持ちを守るために自分以外の全員と生存闘争を行う、万民闘争状態でしょ。

幸いロールズ的な、最小限の人権(例えば生存権なんか)は認められてるんで、あとはその範囲外のいわばオプション領域で、互いを傷つけ合う醜いマウンティング合戦をしてるんだ。そこで繰り広げられる無間地獄inインターネッツwithアリーナ。どうなるんだ? じゃなくもはやはっきりとそ方向にいきつつあるんじゃね?

2018-09-20

[]プーと大人になった僕

プーと大人になった僕』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。

総評

これは100点っすな。点数の基準は「上映時間映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、この100点は大傑作という意味ではない(300点とかありえる)んだけど、ごちそうさまでした、わしゃぁあ満足です。という意味で良作だというのはたしか。損しません。

まあ、家族向けとかカップル向けかと言えば、実はそんなことはなくて、一人で見に行けよおい、しか社会人がいけよ、っていうのはあるので万民向けとはいい難いんすけどね。この映画は、だって学生にはわからなさすぎでしょ。

ざっくりいうと「おとなになって社会人となり企業戦士として毎日ブラック労働をしているクリストファー・ロビン仕事家族の間で板挟み。人生迷子なっちゃったプーさんといっしょに正しい人生を探そう」みたいなあらすじ&テーマであって、それは予想通りだったし、そして予想を満たして十分以上な脚本完成度です。テーマ物語性(増田はここを中心として映画を見ちゃうタイプです。趣味合わない人は申し訳ない)でいえば、非常に満足でした。

がー。そのてんに関してはー。満足だったのでー、逆に満足であったがゆえにー。脇へうっちゃっておいてー。この映画のー。感想についてはー。別の部分をー。述べたいとー。おもいまーす。

ショタクリストファー・ロビンクリストファー・ロビンすぎてやばい

映画冒頭部分では、まだ「100エーカーの森」でくまのぷーさんと遊んでいた頃のクリストファー・ロビンショタ)が登場するんですが、もうね、これがね、非常にこうファビュラスっていうか尊いわけですよ。華奢な白人少年が四分丈の(日本で言う半ズボンよりは少し長いけど膝上の)ズボンから、少し筋張ったくらいの細っい脚をね。伸ばしてね。みどり豊かな森の中をバスケットを持って歩く姿がね。素晴らしいわけです。

わかりますか。美少年なんでございます

シーンはクリストファー・ロビンが寄宿学校へ向かうその直前。楽しく美しく永遠だと思われていた「森でのプーさんとの日々」が終わるちょうどその時。作中では「お別れをいう日(Day to say goodbye)」と描かれるその日なわけですよ。

クリストファー・ロビン楽しい田舎暮らしから、厳しく抑圧的な寄宿学校へ入らなきゃいけない。それは大人への第一歩で、もう今までのように日々をただ日々として楽しく過ごせる時間は終わってしまった。それをクリストファー・ロビン本人もわかってるんですよ。もう自分はゆったり時間を過ごせない、これから時間に追われて毎日何かをしなきゃいけない、大人になるからもう仕方ないんだって諦観してるんですよ。

その「子供としての最後の日」。100エーカーの森で、プーさんピグレットティーガーたち森の仲間でパーティーをして楽しく過ごしたその後、森を見下ろす高台丸太ベンチに座ったクリストファー・ロビンプーさんの二人は、こてんと肩を寄せ合い夕日に向かってずっと座ってるんですよ。

そこで「ぼくのことをわすれちゃうの?」と鼻にかかった声で尋ねるプーにたいして、ショタ大事なのでもう一度いう)美少年クリストファー・ロビンが、優しくて、それでいて困ったような表情で「プーのおばかさん」って言うんですよ。

ほんと。

尊い

わかるか人民どもこの尊さが? 「おばかさん」ですよ。もうね、水銀灯の牙城にいちどの跳躍で飛び込む偉大なシーンですよ。もちろん画面は映画でありフルカラーなわけですけれど、この夕暮れは追憶郷愁の甘さを伴ってセピアにさえ見えるわけですよ。つまり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビン尊い

イケオジクリストファー・ロビンクリストファー・ロビンすぎてやばい

あっという間に幼少期、少年期、青年期を過ごしたクリストファー・ロビン。寄宿学校で父の訃報に接して、社会に出て、将来妻になるべき女性イヴリン出会い求愛して結婚し、子供を作り、出兵(たぶん第二次世界大戦)して、なんとかロンドンに帰ってきて、就職して仕事に打ち込む中年になってるんですよ。

大企業カバン製造部門責任者となったクリストファー・ロビンは、会社上層部からこの部門効率化(予算削減)を求められていて、その要求は−20%。リストラ待ったなしの状況で、大事な部下を切り捨てるかどうかの瀬戸際の日々を送り、その結果として休日家族との時間も奪われているわけですよ。妻からは「もう何年も笑顔を見ていない」と言われ大事な娘のマデリから失望されて、でも、家族を守るために部門を守るために、家族旅行への参加をキャンセルしてまで働かなきゃならんわけです。

予定されてた旅行イヴリンとマデリンの妻子を送り出して、週末も缶詰仕事しなきゃと追い詰められたロンドンのアパルトメントのクリストファー・ロビンのもとになぜかプーさんが現れて助けを求める、というのがこの映画の第二の開幕です。

懐かしい友プー出会ったクリストファー・ロビンは彼の頼み(行方不明になってしまった仲間たちを探してほしい)を叶えるために(どっちかっていうと大都会ロンドンにおいては厄介なお荷物プーさんを森に帰すために)、郊外の美しい故郷に戻ろうとします。そこでプーさんクリストファー・ロビンは一緒に旅をするわけですけれど、相変わらずふわふわ夢みたいなことを言う(まあぬいぐるみなので当たり前だけど)プーさん脳天気っぷりに、時間黄金よりも貴重になってしまったブラックカンパニーソルジャーマシーンクリストファー・ロビンはいらつくわけですよ。プーさんベタベタはちみつで汚してしまった廊下掃除している間にも、刻一刻とリストラタイム期限が迫ってるわけで。「なにもしないをすればいい」とか「ゆっくりすればいい」とかいプーさん言動癪に障るのは、まあ、仕方ないです。

送り届けた「100エーカーの森」で、とうとうクリストファー・ロビンは切れちゃうわけっすね。

「ぼくはもう昔のぼくとは違う」とプーに突きつけてしまう。その時の表情がね、もうね、良い。

良いよね。

良い。

失意のぷーさんは「従業員を捨てなきゃならない(リストラ)」というクリストファー・ロビンに「もしかしてぼくも捨てたの?」と聞いちゃうわけです。

それに対してクリストファー・ロビンは「捨てたんだよ」と答える。

この時の表情も、良いのです。

「ソレ」をいっちゃったら相手が傷つく以上に自分も傷ついちゃうのを自覚していて、それでも言ってしまったクリストファー・ロビンの、ナイーヴな表情が尊いわけです。おっさんのくせに。イケオジつぇえな。

この時クリストファー・ロビンは「いいやプー特別友達から捨てるわけないじゃないか」と適当に言うこともできたわけです。でも、それは事実じゃないわけですよ。現実として30年以上プーさんを忘れていたわけだし、放置していたし、それは客観的にって捨てたと言われても当然なわけですよ。そういう現実を糊塗して「捨てるわけない」とクリストファー・ロビンは言えなかった。特別友達からこそ、そこで嘘はつけず、自分相手も傷つけるのなんてわかっていたけれど、「捨てたんだよ」と答えるしかなかったわけですよ。

40代になったクリストファー・ロビンはもうおっさんなわけですけれど、ロンドン紳士然としたイケオジなんですね。その彼がいろんな現実言葉を飲み込んで、意地っ張りにも露悪的な「捨てたんだ」って告げるそれが、もうね。

ほんと。

尊い

わかるか人民どもこの尊さが? 「捨てたんだ」ですよ。そんでもってさらに終盤になってね、途方に暮れて懺悔をするようにつぶやく「ぼく迷子なっちゃった」ですよ。いつも迷子になったプーさんを探しては連れ帰る、森の英雄だったショタロビンが、社会人になって人生迷子なっちゃったわけです。大事大事で何よりも大事な娘を守るために頑張ってるはずなのに当の娘にがっかりさせて心配させて、もう何が正しいんだかよくわからなくなっちゃったわけですよ。大人になったクリストファー・ロビンにこそぬいぐるみプー必要なわけです。

まり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビン尊い

結論

クリストファー・ロビン尊い

2018-08-01

anond:20180801012639

我が一君万民世界に類を見ない単一民族共同体の絆をDisるガイジンどもと裏切り者出羽守どもと日々戦ってるに決まってるでしょおおおおおお!!!!!

ダイバーシティに悩まされない日本の良さを褒めてくれるガイジンは今のところalt-rightアメリカネトウヨ)みたいな低偏差値連中ぐらいだけどさ、

ダイバーシティのせいで母国無茶苦茶になっているこの時代に多感な青年期を過ごした世代西欧世界の主役になるころには、

「やっぱ多文化主義は糞だわ、日本を見習おうぜ」という意見ナチ扱いされずにヨーロッパ政界・学界でメインストリーム一角を占めるぐらいの地位を得ると信じているよ。

2018-07-18

anond:20180718174543

倫理に引っかかる」とか糞フェミ汚染か?

お前の倫理万民倫理じゃないぞ?

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