はてなキーワード: 太平天国とは
1 『北京大学版 中国の文明』掲載の「大事年表」をベースに、wikipedia「中国の歴史年表」「夏商周年表」その他の記事で補った。
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前1600頃 殷(商)の創建(殷(商)・太乙(成湯)) <殷(商)>
前453 三晋(趙、魏、韓)成立(諸侯に列されたのは前403) <戦国(時代)>
前350 秦が咸陽に遷都する。秦において商鞅の第二次変法が実施される
前256 秦が東周を滅ぼす
前221 秦が燕・斉を滅ぼし、秦による中国統一が成る。秦が貨幣・度量衡・文字を統一する <秦>
前206 秦滅亡。鴻門の会。漢の高祖元年
前154 呉楚七国の乱
前136 儒教官学化 ※異説多し
前115 均輸法(漢・武帝、桑弘羊)
前110 平準法
18 赤眉の乱
25 劉秀が皇帝を称する(後漢・世祖、光武帝)。後漢が洛陽に遷都する <漢(後漢・東漢)>
200 官渡の戦い
208 赤壁の戦い
220 後漢・献帝が曹丕(魏・文帝)に禅譲(後漢滅亡、魏成立)。九品官人法制定 <魏>
263 蜀漢滅亡
265 魏・元帝が司馬炎(晋・世祖、武帝)に禅譲(魏滅亡、晋(西晋)成立) <晋(西晋)>
291 八王の乱
304 劉淵が大単于・漢王を称する(前趙成立) <五胡十六国(時代)>
316 西晋滅亡
485 均田法発布
613 楊玄感による反乱、隋の統治が崩れる
619 租庸調制の実施
668 唐が高句麗を滅ぼす
845 唐・武宗による宗教弾圧(仏教、景教、祆教、マニ教)、会昌の廃仏(~846)
875 黄巣の乱(~884)
904 朱全忠、唐の実権を握る
907 朱全忠への禅譲(梁・太祖)。唐滅亡。梁の建国 <梁・五代十国>
1004 澶淵の盟
1069 宋において王安石の新法が行われる
1125 金が遼を滅ぼす
1126 靖康の変、金が北宋を滅ぼす
1206 モンゴル部のテムジン(ボルジギン氏)、ハンを称する(チンギス・ハン、元の太祖) <モンゴル帝国>
1229 オゴデイがモンゴルの大汗として即位する(オゴデイ・カアン)
1234 モンゴルが金を滅ぼす
1236 モンゴルのバトゥ(チンギス・カンの孫)らによる西征
1260 クビライがモンゴルの大汗として即位する(クビライ・カアン。セチェン・カアン。元・世祖)
1264 アリクブケ、クビライに降伏する
1271 クビライ・カアン、モンゴルの国号を元に改める <元>
1279 元が南宋を滅ぼす
1281 弘安の役
1351 紅巾の乱
1371 明で海禁令が出される
1388 北元の滅亡
1399 靖難の変
1435 この頃より宦官の専政がひどくなる
1449 土木の変
1616 女真族のヌルハチ、満州(中国東北部)に後金を建国する <後金(清)>
1638 ホンタイジが後金のハーンとして即位し、国号を清に改める。
1644 清が明を滅ぼす(北京陥落)
1673 三藩の乱
1689 ネルチンスク条約
1696 ジュンガル部討伐
1716 地丁銀制
1728 キャフタ条約
1798 白蓮教徒の乱
1850 太平天国の乱(~1864)
1861 西太后の垂簾聴政(~1908)
1884 清仏戦争
1899 義和団の乱
1904 日露戦争(~1905)
1911 辛亥革命
1931 満州事変
1934 中国共産党による長征
1936 西安事件
1939 第二次世界大戦(~1945)
1946 国共内戦(~1949)
1951 三反五反運動
1957 反右派闘争
1958 大躍進政策の開始(~1958)
1978 鄧小平が中国の最高指導者になる。改革開放政策の開始
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https://travel.spot-app.jp/toyama_i-lohas_yoppy/
(現在は削除されている。魚拓は http://archive.is/5CDLd )
読んでいなくても炎上した理由はだいたい分かってもらえると思うが、簡潔に言うと「PR記事なのに生命の危険がある事をしている」為、ボーボーと燃え広がった。
「はてブ大嫌い」と公言するヨッピー氏を知らない人間が増田にいるとも思えないが、去年のPCデポの記事や、welqをはじめとするキュレーションメディアに一石を投じる一連の記事が記憶に残っている方も多いのではないだろうか。それらの記事を書いていたのがヨッピーである。
この他にもバズっている記事は数え切れず、「今もっとも勢いのあるWebライター」と言って差し支えないだろう。
だが、「あの」ヨッピーがここまでショボかったのか?と思うと、俺は悲しい。
webライターの行く末を憂慮し、記事にPRをつけるのかどうかでさんざん揉め、最近ではドヤ顔で「Webメディア発信のリスクを問う」 https://togetter.com/li/1126576 とか言ってたヨッピーが、ここまで考え無しの記事をアップするとは思っていなかった。
ヨッピーはtwitterで「今まで炎上したことない」などと言っているが、最近でも物議をかもすエントリはあった。
ひとつは↑のtwitterにリプされている「ボードゲームってすごくおもしろいのに、そのおもしろさを伝えるのってめちゃめちゃ難しくない?」である。
この時は「ゲーム内チップを本物の現金でやりとりする」という部分が批評のやり玉に挙がった。「街コロのソシャゲPR記事なのに人狼をやる」「運要素強めの街コロの話なのに、『運ゲーの人生ゲームと違って』と謎dis」等の雑な展開も併せて、アナログゲーム界隈では怒っている人がかなり多かった。(同時に、「これに怒る意味が分からない」「そうやっていちいち突っかかるから、面倒くさい界隈と思われるのに・・・」というヨッピー擁護意見も多数)
この件に関しての公開質問状まで出る騒ぎになったが、当の本人は「謝罪するがこれ以上は言及しない」としている。
http://b.hatena.ne.jp/entry/299892480/comment/yoppymodel
あとは、「タイムズの「カーシェア」が都会っ子には死ぬほど便利なのでわかりやすく解説する」という記事でも色々と騒ぎになった。
記事中で色々と(タイムズとは関係のない)おすすめ商品が紹介されているが、「アフィリンクはありません!」と再三再四連呼されていて、それに違和感を覚えた人が結構いた。※現在は「アフィリンクはありません」という表記は削除されている。
これに対しては、「ヨッピー銭ゲバ裁判をやりたいので是非!」という声掛けをしているが、普通は絶対行かないと思う。現時点で銭ゲバ裁判が記事化されていないので、おそらく応答はなかったのだろう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/329863886/comment/yoppymodel
で、今回も炎上してしまった当のヨッピーは何をしていたのかと言うと、信者と酒盛りである。ヨッピーは基本的に太っ腹なので、ここの会計は全額ヨッピー持ちだったであろうことは想像に難くないが、それを差し引いたとしてもいかがなものだろうか。
「SPOTは赤字!」「今後は上昇させていく!」っつって、ひとつ前のベビーカー米袋の話までは「イイハナシダナー」ってなっていたのに、当の本人が水をぶっかけて、挙句の果てにヤケ酒あおるとか、本当に「Webメディア発信のリスクを~」みたいな事を考えているのか、少々疑問に思った。
ヨッピーはもともとこの程度の人間だったのか、それとも、太平天国のように信者に囲まれて腐っていったのか、ちょっと判断できない。
個人的には色々楽しく(しかも無料で)記事を読ませてもらっていた立場なので、できれば今後も楽しい記事をたくさん書いてほしいなあ。
(という雑なフォロー)
信者ビジネスやってる人は1つは対外的な関係における問題を減らしつつ、2つめに身内を大事にすることが必要になる。はあちゅう氏をはじめとして今炎上を起こしている運営者は1のスキルが致命的に欠けていることが問題ではあるが信者ビジネスなのだから2は本来批判されるべき話ではない。2まで批判しているhagexはちょっとやりすぎだろう。
ところでこの1ができれば苦労しない。それができる力があるなら宗教じゃなく企業を作ってるはずだから。よほどのカリスマの持ち主でない限りは企業の運営すら出来ない人間に長期間継続する宗教組織を運営することは無理だ。
うまくいく宗教は余裕がある。教祖のコミュ力が高く、薄く広く人をつかむことができる。こういう組織は人数が多いから囲い込みをしなくても成り立つ。勝間塾のように批判をしない、ライフスタイルを楽しもうであったり、個人ファンクラブという性質のものであれば長く存続することは可能だ。外は敵ですよと言わないから。外部との関係を遮断しないから。外部と交流しながらサードプレイスとして機能するような宗教組織は、外からいくらでもネタを輸入できるし人の出入りも自由だから常に活性化できる。
逆に教祖のコミュ力のない場合。まず余裕が無い。常に自分の正しさを証明しようとして他人を批判し、煽り、そういうことをしないと成り立たない。教祖の器が小さいから受け入れられる人たちがとても狭くなる。こういったものはたいていカルト化してきた。対外的な折衝がめんどうくさくなって閉鎖化してきた。そしてオウム真理教のように閉鎖して外界とのやりとりの大部分を遮断し、基本自給自足を目指すように成る。この閉鎖的な空間で自給自足を志す宗教は、よほど強く統制しないかぎり「選民意識」「外部への敵対意識」が強くなる。「そして最終的に内ゲバ」で滅びることになる。
さてイケハヤ塾であるが、これから勝間塾のような運営に変えられるかどうかが正念場だ。炎上に頼るのをやめなければ確実に滅びの道をたどることに成る。炎上に頼るような運営をやってると、そこに集まる人達も選民意識を持ち、外部にたいして攻撃的な人間ばかりになる。最初はそうでなくても教祖がそうなのだからそういう性質を帯びるように成る。そして、そういう組織は批判にさらされることが多くなるから内側にこもっていくように成る。最初はそうやって狭い身内だけで選民ごっこを楽しむこともできるだろう。だがこれは長続きはしない。ずっと同じ組織内に同じ人間しかいなくて入れ替わりがないと、変化がなくなってマンネリ化する。それでいて彼らにはもう出口がない。調子に乗ってそういうものを否定しまる態度を散々取ってしまったからだ。もうこの宗教組織の中で生きるしか無い。それでいて宗教組織の内側では強烈な仲間意識を強制されるから、ストレス解消の方法もいろいろ制約されるケースが多い。 これは中学校や高校で我々が味わったのとおなじ感覚だ。この状態に陥ると不満解消のために敵を作らなければならない。 それを外側に求めるか、内側に求めるかしか選べなくなる。学校のいじめは世界の外側と戦っても勝てないガキが内側に生け贄を創りだしたものであり、宗教組織の場合は多くは外側に敵を作る。
イケハヤ宗教は最初は外側に敵を作ろうとするだろう。しかし攻撃的な性格を持つ宗教組織は、当然外部からの反発を招く。教祖が批判と戦うこともなくスルーとか言ってる宗教では構成員はとても外側と戦って勝てる気はいない。なにか外側に対して意見を言おうにも、教祖はかばってくれないからだ。だから組織全体としては内側に閉じこもるしかない。しかしそうすると、組織の中の人間がどんどん先鋭化して、ついていけない奴はやめていく。 一見さんお断りの雰囲気になるから流入も減っていく。そうすると流入が減るからせめてなんとしても今いる人間は逃すまいとメンバーを囲い込もうとする。お外は敵だ、怖いよと教祖が煽りだす。そうやって固定メンバーが狭い空間の中にとどまるようになると、今度は空気が停滞する。外部と交流しながら組織内に新しい物を取り入れて循環させるという動きがなくなる。淀んだ空気はだんだん腐っていく。そういう過程を村上春樹はオウム真理教内部での人へのインタビューを通じて浮き彫りにしている。
私がとても楽しみにしているのは、もしイケハヤ宗教が勝間塾の方向に進めなかった時外側からのプレッシャーに耐えかねて、だんだん内側にこもりって守ろうとし、それゆえに内側から崩壊していく姿だ。オウム真理教もそうだが、太平天国という組織の崩壊、あるいは陳勝・呉広の乱の崩壊していく様、ああいうものが報告されることに成るのではないだろうか。 梅木サロンはそのあたり結構うまくやってる。宗教ではなくビジネスという形で回しているから、教祖本人のカリスマが低くてもなんとかなるだろう。はあちゅうはもしうまくいかなかったとしても船が沈みかけてると思うと素早く逃げ出すだせるだろう。信者は気の毒だがはあちゅう氏はいざとなったら信者のことなど切り捨てて軽やかに動ける人間だ。だがイケハヤサロンだけは多分ムリだろう。逃げきれずに崩壊するのではないか。なぜならオンラインだけではなく、オフラインにまで手を伸ばしてしまったからだ。これは都合が悪くなったからといってなしにはできないだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20160113194003
王朝 | 期間 | 対策 | 結果 |
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周 | 257 | 王が諸侯に領地を与え、諸侯は世襲でその領地を治める | 諸侯の力が強くなって群雄割拠となる |
秦 | 19 | 領地は皇帝の直轄とし、皇帝が任命した官吏がその領地を治める | 中央集権に対して地方から反発が起こる(陳勝・呉広の乱) |
前漢 | 225 | 中央は直轄とし、地方は皇族の世襲としつつ、徐々に皇族の力を削る | 皇族の力が弱くなったことで外戚が専横(新朝建国) |
後漢 | 161 | 外戚の専横を抑えるため、宦官を重用する(皇太后竇氏の垂簾政治) | 外戚に代わって宦官が専横 |
後漢 | 36 | 宦官の悪政に対する反乱(黄巾の乱)を鎮圧するため、地方豪族たちを登用する | 地方豪族が強大化して群雄割拠となる(三国時代) |
魏 | 19 | 地方豪族の力を弱めるため、官吏が地方の人材を推挙するよう改める | 官吏が人事権を握るようになり、上級官職を独占して貴族化する |
魏 | 26 | 後継者争いを防ぐため、皇族の力を制限する | 皇族の力が弱まったことで、国を有力貴族に乗っ取られる(高平陵の変) |
晋 | 39 | 皇族の力を強めるため、皇族を優遇する | 皇族同士の内乱が起こる(八王の乱) |
晋 | 12 | 皇族同士の内乱に勝つため、異民族の助けを借りる | 異民族に滅ぼされて群雄割拠となる(永嘉の乱) |
南北朝 | 84 | 異民族が国を建て、統治のために漢民族と同化する | 異民族の気風を残す辺境の軍閥が反乱を起こして国が分裂する(六鎮の乱) |
南北朝 | 66 | 軍閥の代わりに徴兵制に改めて、辺境防衛を任せる | 領土が拡大すると遠く離れた辺境に兵士を送るのが難しくなる |
隋 | 29 | 貴族を解体するため、試験によって官吏を登用するように改める(科挙) | 教養のみを重視して実務を軽視するような文弱化を招く |
唐 | 289 | 徴兵制では辺境防衛が難しいため、募兵制に改めて辺境に軍隊を置く | 軍閥化して反乱が起き、群雄割拠となる(五代十国時代) |
宋 | 167 | 軍閥が力を持たないよう、中央の官吏の力を強める | 文弱化して異民族に敗れる |
元 | 89 | 漢化して弱体化しないよう、異民族の気風を保つ | 差別された漢民族の不満が溜まって反乱が起き、群雄割拠となる(紅巾の乱) |
明 | 276 | 外戚を排除して皇帝の独裁体制を構築する | 暗君が続いて弱体化し、異民族に敗れる |
清 | 268 | 漢民族を統治するために漢化する | 漢化して弱体化した国軍では反乱(太平天国の乱)を鎮圧できず、代わって活躍した義勇軍が軍閥化して専横 |
秦 | 春秋戦国時代の戦乱を治めて統一王朝を作る | 農民反乱(陳勝・呉広の乱)を切っ掛けに滅亡 |
前漢 | 秦滅亡後の戦乱を治めて統一王朝を作る | 王莽の簒奪(禅譲)により滅亡 |
新 | 古(千年前)の周の政治を理想として無理矢理適用する | 農民反乱(赤眉の乱)を切っ掛けに滅亡 |
後漢 | 新滅亡後の戦乱を治めて統一王朝を作る | 農民反乱(黄巾の乱)を切っ掛けに滅亡 |
魏 | 三国時代の戦乱をほぼ治めてほぼ統一王朝を作る | 司馬炎の簒奪(禅譲)により滅亡 |
晋 | 三国時代の戦乱を治めて統一王朝を作る | 劉裕の簒奪(禅譲)により滅亡 |
隋 | 南北朝時代の戦乱を治めて統一王朝を作る | 大規模公共事業と大規模軍事遠征の負担が原因で各地で反乱が起き滅亡 |
唐 | 隋滅亡後の戦乱を治めて統一王朝を作る | 農民反乱(黄巣の乱)を切っ掛けに滅亡 |
元 | モンケ死後の戦乱を治めて統一王朝を作る | 農民反乱(紅巾の乱)を切っ掛けに滅亡 |
明 | 元滅亡後の戦乱を治めて統一王朝を作る | 農民反乱(李自成の乱)を切っ掛けに滅亡 |
清 | 明滅亡後の戦乱を治めて統一王朝を作る | 農民反乱(太平天国の乱)を切っ掛けに衰退・滅亡 |
中国の名将について検索をかけたときによく挙げられている人物を紹介する。
春秋 | |
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孫武 | 世界史上に名高い兵法書「孫子」の著者。伍子胥と共に呉王が覇者となるのに貢献した。 |
戦国 | |
呉起 | 孫子と並び称される兵法家。いわゆる「呉子」。魯・魏・楚などに仕えたが、強引な改革で周囲の恨みを買って殺された。 |
孫臏 | 「孫臏兵法」の著者。友人に裏切られて罪人となり脚を切断されたが、逃げ出した先の斉で将軍となり、「馬陵の戦い」で復讐を成し遂げた。 |
白起 | 秦の名将。包囲殲滅戦の名手にして虐殺者。「長平の戦い」では四十万人もの捕虜を生き埋めにした。そのあまりの強さから王に恐れられて賜死された。 |
李牧 | 趙の名将。匈奴に大勝を収め、秦の大軍を退けたが、離間の計によって王に疑われて殺された。趙が滅亡したのは李牧の死からわずか三ヶ月後のことだった。 |
王翦 | 秦の名将。趙や楚を滅ぼし、始皇帝の中華統一に多大なる貢献を行った。猜疑心の強い始皇帝に誅殺されることもなく天寿をまっとうした。 |
楚漢 | |
項羽 | 反秦軍の中心となり西楚の覇王と号す。戦では無敗を誇ったが、それまでさんざんに勝ってきた劉邦に最後になって敗れ、自害した。 |
韓信 | 漢建国の功臣。漢の三傑。「背水の陣」で有名。魏・趙・斉を降して劉邦の天下統一を大いに助けたが、皇帝即位後は冷遇され、謀反を企んで処刑された。 |
西漢 | |
李広 | 対匈奴戦の名将。弓の名手として知られる。若い衛青が台頭したのち、その下で不甲斐ない戦いをし、それを恥じて自刎した。 |
衛青 | 対匈奴戦の名将。苦労人で人格者。低い身分から取り立てられ、匈奴と戦って連戦連勝し、その功績により大将軍にまで出世した。 |
霍去病 | 対匈奴戦の名将。衛青の甥。天才肌で直情径行。若くして匈奴との戦いで活躍し、衛青を凌ぐ名声を得るが、24歳で夭折した。 |
東漢 | |
劉秀 | 東漢の初代皇帝。「昆陽の戦い」では100万と号する軍勢をわずか1万の兵で撃破した。皇帝としては一代にして創業と守成を成し遂げ、功臣を粛清することもほとんどなかった。 |
班超 | 中央アジアを平定し、東漢の最大版図を現出した。西域に三十年間も留まったのち、洛陽に帰還して一ヶ月後に亡くなった。 |
三国 | |
曹操 | 東漢末における群雄のひとりから三国鼎立中の最大勢力にまでなり、後の魏・晋の礎を築いた。兵法家、詩人としても名を残す。 |
周瑜 | 呉の名将。美男子で有名。「赤壁の戦い」において魏の大軍を破った。 |
南北朝 | |
韋叡 | 梁の名将。身体が弱かったため、戦場では鎧を付けず輿に乗り、竹杖で指揮していた。南北朝最大の決戦「鍾離の戦い」にて百万の大軍を破る勝利の立役者となった。 |
陳慶之 | 梁の名将。わずか7000人の「白袍隊」を率いて北伐を敢行、連戦連勝で洛陽まで陥とした。「千軍万馬も白袍を避ける」と賞された。 |
唐 | |
李靖 | 唐建国の功臣。内戦においては中華統一に貢献し、外征しては騎馬民族を騎馬戦術によって滅ぼした。中国史上屈指の名将とされ、李靖に仮託して兵法書「李衛公問対」が書かれた。 |
李世民 | 唐の二代皇帝。李淵の次子として、隋末唐初の戦乱において多大なる軍功を挙げ、そのまま兄を追い落として皇帝となった。政戦両面における名君として知られる。 |
郭子儀 | 安史の乱を平定し、吐蕃やウイグルの侵攻を撃退するなど、幾度にも渡って国を救った。子孫、財産、長寿に恵まれ、万民から敬愛された。 |
宋 | |
岳飛 | 対金戦の名将。忠臣として名高い。私兵を率いてたびたび金軍を破るも、和平派によって冤罪を着せられ殺された。 |
明 | |
常遇春 | 明建国の功臣。常に先陣を切って戦った猛将で、日頃から「10万の兵士を率いて天下を横行したい」と語っていたため「常十万」と呼ばれた。 |
徐達 | 明建国の功臣。謹厳実直にして冷静沈着。総司令官として北伐を行い、元をモンゴル高原へと追いやった。朱元璋からは功績第一と称賛された。 |
朱棣 | 明の三代皇帝。甥の二代皇帝に反発して挙兵、圧倒的不利を覆して正規軍に勝利し、帝位を簒奪する。皇帝となった後も、自ら軍を率いて積極的な外征を行い、明の最大版図を築いた。 |
戚継光 | 私兵を率いて倭寇討伐に功を挙げ、また北方に赴いてモンゴルの侵入を防いだ。倭寇に対抗するため、中国全土の武術をまとめあげ、日本の剣術を研究したことでも知られる。 |
清 | |
左宗棠 | 自らを今孔明と称した。太平天国の乱の鎮圧に貢献し、洋務運動を推進した。さらには回民蜂起の鎮圧、捻軍の鎮圧、新疆の奪回など、清軍の大黒柱として活躍した。 |