はてなキーワード: チヒョルトとは
よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
なんというか、この記事を読んで「この人って常識も教養もないのか?」って思った。
もしこの見解が「デザイナー界隈の最大公約数」というのなら、デザイナーってのはどれだけ教養も常識もないのだろう。
この説明をみて「その通り!」って思う人って、どれだけ教養も知識もないのだろう。
深津貴之という人は、ベルギー国やそのデザイナーを侮辱しているのだろうか。
今回の類似性を理解するには、前提としてステンシル書体を知っていなければなりません。これは製図やレタリングで使われるステンシルテンプレートをモチーフとした書体の通称です。リエージュや、チヒョルト展の文字デザインは、このステンシル系の書体をベースにしています。
などとあるように、深津氏の論理の大前提に「リエージュロゴ」や「チヒョルト展ロゴ」は、ステンシル書体を基本にして作られている、という主張をおいている。
そんなわけあるか。
ステンシル体というのは、ペンキやスプレーなどで簡単に、木箱や木樽などにアルファベットをペイントする「型紙文字」を模したものだ。
ところどころ文字の線が切れているのは、「型紙を作るときに閉曲線を作らない」為とか、さらに型紙の強度(壊れにくさ)なども加味した、
実用大前提の理由があるんであって、オシャレのためでも独自性のためでもない。
更に、ステンシル書体の由来が「実用」、それも非常に泥臭い場所や用途での実用やその使われる対象や実際の転写品質の関係もあることから、
ステンシル書体は「野性味」、良い意味での「不精さ」「無骨さ」「無頼」「不器用」「泥臭さ」「俗っぽさ」「荒っぽさ」、そういうイメージを連想させるものだ。
ベルギー国王の名前を冠したベルギー王立の劇場のエンブレムを作るときに、そんなものから出発するわけがないだろう。
深津氏の主張は「ベルギー王や王立劇場のイメージは、野生、不精、無骨、不器用、泥臭い、俗っぽい、荒っぽい、である」といっているに等しく、
ステンシル書体から出発してスタイリングを経て現在のロゴになった、と主張するということは
「リエージュ劇場は、ちょっときれいにスタイリングされただけ、そもそもの根本的にはステンシル書体が似合う場所なんだよ」と言っているにすら等しい。
あまりにも無教養すぎるし、ベルギー国や王立劇場、そのデザイナーに対してあまりに侮辱的過ぎる。
「でもステンシル書体と共通する特徴があるんだし、ステンシル書体と同じ」というところから恐らく深津氏の論理は出発しているんだけど、
それこそ深津氏が言うところの「井と♯と#が同じ文字と言っている、無学な藁人形」と深津氏の知能が同じであるということに等しい。
なんというんだろう、これが本当に「デザイナー」の共通認識なのか?
デザイナーというのはここまで無教養で、無礼で、不躾で、まがりなりにも一国の王を侮辱して恥じない人間なのか?
深津氏の説明を聞いて「なるほど」と思った人は、このぐらいのことも頭が回らないのか?
http://anond.hatelabo.jp/20150907223211
個人的に釈然としない部分がいくつかあるので整理・言及したい。
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1. 「劇場ロゴのパクリ」は争点になっていない。五輪エンブレムとして採用するか否かが争点
2. 類似性(似ている/似ていない)が認められるかどうかということが話題となった
3. パクったかどうかに関係なく、単に似ているということで著作権上の問題が生じる
5. 「劇場ロゴのパクリ」はなくても、チヒョルト展のパクリはあったと認定できる。その根拠は次の二つである。
5-1. 文字とは無関係の装飾要素かつまったく不要な赤丸が原案の右下にあったから
5-2. 「(佐野氏がチヒョルト展を訪れた事実を認めた上で佐野氏がチヒョルト展のロゴを)覚えてない」と弁解したことについて、彼は嘘をついている、プロならばこれほどのデザインをあっさり忘れるはずがないから
6. 深津氏は争点になってないものについて解説しており、深津氏の見解そのものは意味を持たない。
7. 「劇場ロゴとのパクリではない」なんていうどうでもいいことを持ち出して、「専門家の言うことを聞け」と述べるような深津氏の主張は妥当ではない
8. 深津氏の見解の主要な点は「専門家に任せるべきだ」とした部分にあるが、最終案を決めたのは素人である武藤事務総長であるため、深津氏の主張は成立しない
9. ベルギーの劇場ロゴとの類似性が認められるかどうかという法的争点を抱えている状況の中、佐野氏の他の案件におけるパクリが判明。加えて、原案と最終案はまったく違うものであるほか、最終案を決定したのは事務総長ということが判明した。これをふまえて、「五輪エンブレムとして採用するには適切ではない」という民意が生じた。
10. 9 を無視して「専門家の判断に任せよ」という深津氏の主張は問題をデザインの面だけに限定しており、きわめて視野が狭い。まったく問題の所在を理解していない。
11. 今回のエンブレムは、エンブレムのデザインとしての良し悪しで決まったのではなく、展開力で決まった
12. (原案の)丸と三角と四角というデザインはあまりにも単純で凡庸であり、これを「美しい」「見事だ」と思うようなデザイナーはいないだろう。専門家は民衆の声と自分の心の声を聞くべき
13. 心の底では「くだらん」と思いながらはっきりと口に出せない。「展開力が優れている」と言われると「なるほど」と言って承諾するだけで「エンブレムとしてはあまりにも凡庸な図形だ」という本音を口にできない。
15. 「(劇場ロゴと)似ているか、依拠しているか」というような話題は争点ではない
16. この事件の問題点は、ベルギーの裁判で勝つかどうかじゃない
17. 著作権を問題にしていない。そもそもベルギーロゴとの関係も問題にしていない。ベルギーロゴとの関係などはどうでもいい
id:bros_tama のコメントに対し:
18. “五輪エンブレムのデザインで何が問題であったのか”ということは今回の騒動ではほとんど意味がないことだというふうに評価している
19. 「パクリデザイナーの作品を五輪に正式採用することの倫理的な是非」が問題
20. 美術的な問題はない。美術的なことをいくら論じても、今回の騒動には何の関係もないというのが本項の趣旨
21. 劇場ロゴとの類似性とかパクリとかはほとんど話題になっていない
22. 深津氏の見解を否定しているわけではなく、本質とは関係ないとして軽視しているだけ
id:Eizo0000 氏のコメントに対し:
23. この問題を専門家(つまりデザイナー)に委ねるべきで、大衆がこの問題に口出しするべきではない、という発想を問題視している
id:honma200 氏のコメントに対し:
24. 問題の本質は、法律違反をした(あちこちで画像の盗用をした)作者のデザインを五輪に採用するかどうかという倫理的な部分にある
25. 23 の主張も、深津氏の記事が訂正されたことによりかなり色褪せてきたとも言える。
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全体を通して、おそらく増田氏は「犯罪者である佐野氏がデザインしたエンブレムを採用することは倫理的に問題がある」ということを言いたかったのだろう。
しかしながら、その結論に向けて展開した論理が歪んでいること、根拠が不十分であったりすること、本筋とは関係ない論理が混じっていること、
「話題」「争点」「問題」といった言葉の使い分けが曖昧であることが、エントリのわかりにくさや理不尽さを生じているのではないかと考える。
冒頭で個人的に釈然としない部分があると述べた。論理が歪んでいるのが気持ち悪いと思う私的な感情から、その部分について指摘していきたいと思う。
■増田氏が取り扱う問題と深津氏が記事が取り扱うことが違うということを増田氏自身が認識していない
増田氏は、深津氏の記事を「劇場のロゴのパクリではないと言っているだけ」としたが、この時点から既にズレが生じている。
記事は、「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーがどうしてそのように考えるかといった点にフォーカスしたものに過ぎず、増田氏が取り扱いたい問題については言及していない。
増田氏自身も、ロゴのデザインがどうとか劇場ロゴと似ているかとか著作権がどうとかは争点ではない(主張1、15、16、17、18、20)、
自身の取り扱いたい問題の本質とは関係ないとしている(主張22。これらの主張だけを見れば主張6 も「(増田氏にとって)意味を持たない」として解釈することができる)。
それなのにも関わらず、自身が問題とすることを深津氏の記事と結びつけたために、6、7、8、10 といった見当違いな主張が生まれ、(はてブのコメント欄で観測する限り)読む側に混乱が生じたのではないだろうか。釈然としない。
■各人のコメントに対する返答の的はずれさ
3、4 に対し、id:sisya 氏は「単に似ているだけでは盗用にならず、依拠しているかどうかが重要」とコメントされたのではないだろうか。
そのことについては深津氏の記事の「前提知識1」の項に書かれており、それを踏まえてid:sisya 氏は「参照元のエントリを全然読解できていないように見える。」「もう少し元記事を読み返すことをお勧めする。」と述べたと思われる。
そう考えると、id:sisya 氏に対する返答は的外れである。
id:bros_tama 氏の「あの記事は“五輪エンブレムのデザインで何が問題であったのか”について書かれているんです」というコメントに対し、
「それはわかっている」「本質とは関係のないことをいくら解説しても、そんなことはどうでもいいことだ」と返答しながらも、なぜ自身が問題とすることを深津氏の記事と結びつけたのか。
その矛盾がid:bros_tama 氏がコメントをする動機となったと思われるが、いかんせん増田氏の返答は的外れである。釈然としない。
■根拠不十分
4 については、実際にトートバッグの件について佐野氏側が「第三者のデザインをトレースしていたことが判明」と発表していることから、間違いのない認識だろう。
しかしながら、5 については何の根拠もない。その根拠とする5-1 についても5-2 についても不確かではないか。釈然としない。
ちょっと主語が大きすぎるのではないかと思う(主張9、12、13)。自身の思いを投影しただけに過ぎないと感じる。釈然としない。
「犯罪者である佐野氏がデザインしたエンブレムを採用することは倫理的に問題がある」という結論に向かう上で、6、7、8、10、11、12、13、14 は必要のない論理ではないか。
深津氏がいわれもなく謗られたと受け取る可能性がある内容を記述することに何の意味があるのか。釈然としない。
■犯罪者呼ばわり
トートバッグの件について、佐野氏側はトレースした事実を認めたが、それ以外の案件についてはまだはっきりとした裏付けはとれていない。
何らかの罪に問われたわけではない現在の状況下において、一個人を「大犯罪者」と呼ぶのは果たしていかがなものか。一個人が一個人を断罪することは危険ではないかと私個人は思う。釈然としない。
■ずれる結論
「犯罪者である佐野氏がデザインしたエンブレムを採用することは倫理的に問題がある」(以下、結論Aとする。)という結論に向けて論理を展開したかと思いきや、
id:Eizo0000 氏のコメントを受けて「この問題を専門家(つまりデザイナー)に委ねるべきで、大衆がこの問題に口出しするべきではない、という発想を問題視している」(以下、結論Bとする。)と結論を変更した。
その後、深津氏が記事の結論部分の表現を変更したことを受け、増田氏は「問題視したことは、かなり色褪せてきたとも言えます。」「「大衆はデザインには無知なんだから口出しするな」というような方針が、少しは改まったのだとすれば、本項は一定の役割があったと言えるでしょう。」と追記。
なんだ、結論Bを言いたかったのかと思いきや、さらにその後のid:honma200 氏のコメントを受けて、再び結論Aを書き連ねる。これでは、結局言いたいことが錯綜しても仕方ない状況だ。釈然としない。
■まとめ
横暴な論理を振り回すことは非常に危険な行為ではないかと思います。しかしながら、増田氏が問題視する倫理面に切り込んでいくことは重要と思うので、これについて僕も書けたらよかったのですが、見識がなく断念しました。どなたかお願いします。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
http://b.hatena.ne.jp/entry/bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
実はこれは、「劇場のロゴのパクリではない」と言っているだけだ。上手にていねいに解説しているが、話の趣旨そのものは組織委の見解と同じだ。その点は、増田が指摘したとおり。
しかしながら、組織委の見解はピントがずれているし、その意味では、深津貴之 氏の見解もピントがずれている。そのことを解説しよう。
劇場ロゴのパクリはもともと争点となっていない。これを話題にしたのは一部の人だけ(もしくは初期だけ)だ。
前者は、著作権の問題だ。これは、パクったかどうかに関係なく、単に似ているということで、著作権上の問題が生じる。このことは、劇場側の弁護士が主張したことだ。
後者は、サントリーのバッグや、五輪の展開例や、多摩美のポスターなどで、画像の盗用があったことだ。これを「パクリ」と指摘した。
要するに、「劇場ロゴとの類似性」もあったし、「パクリ」もあったのだが、「劇場ロゴのパクリ」は、もともと争点になっていないのだ。
その意味で、深津貴之 氏の見解そのものが意味を持たない。ありもしない仮想敵を攻撃しているだけだ。藁人形論法であるにすぎない。
「劇場ロゴのパクリ」というものを、彼がいくら否定しようが、それは、ありもしない怪物を攻撃するドン・キホーテと同様であり、もともと存在していない対象を否定しているだけにすぎない。
「劇場ロゴのパクリ」はなくとも、チヒョルト展のパクリはあったと認定できる。なぜなら原案では、右下に余計な赤丸があったからだ。
このような赤丸は、文字とは無関係の装飾要素であり、まったく不要なものだ。実際、他の文字では、このような余分な要素はない。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bunbuntokuhoh/20150828/20150828225213.jpg
なのに、T という文字でだけ、余分な赤丸の要素が追加されている。この文字だけにある特異な現象だ。
このことからしても、これがチヒョルト展のパクリであることは明白だろう。
(仮にパクリでなければ、赤丸は中央上または中央下にあるはずだ。それが佐野デザインの9分割のポリシーだからだ。)
さらに、状況証拠もある。「そんなことは覚えていない」と弁解したことだ。素人じゃあるまいし、プロならば、これほどのデザインをあっさり忘れるはずがない。
とすれば、「覚えていない」と言った時点で、嘘をついている。あるいは、ジョブズ並みの「現実歪曲空間」に入っていることになる。そのいずれだとしても、パクリはあったことになる。(ただし本人が正直に申告していないだけだ。)
3.専門家に任せるか?
深津貴之 氏の見解の主要な点は、「専門家に任せるべきだ」ということだ。
しかしながら、今回の最終案を決めたのは、専門家である審査員ではなく、素人である武藤事務総長だった。
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150904-OYT1T50016.html
ゆえに、「(決定を)専門家に任せるべきだ」という主張は成立しない。現実には専門家には任せられず、素人が勝手に決めてしまったからだ。(そして佐野最終案に決まった。)
また、今回の主要な争点は、デザインの良し悪し(デザインのジャッジ)ではなくて、五輪エンブレムとして採用するか否かだった。
デザイン的に良し悪しを判断する(ジャッジする)のならば、専門家が決めてもいいだろう。しかし人々が批判したのは、デザインの良し悪しではなくて、五輪エンブレムとして採用するか否かだった。そこでは、次の諸点が問題となった。
・ その法的争点は、類似性の有無であって、パクリの有無ではない。
・ トートバッグではパクリが判明した。(彼は犯罪者だと判明した。)
・ さらに、続々とパクリが判明した。(彼は大犯罪者だと判明した。)
・ 原案と最終案がまったく違うと判明した。(組織委は嘘をついた。)
・ 原案では、最終案にある大きな円がなかったと判明した。
(大きな円を選考理由とした初期の説明は嘘だったと判明した。)
・ 最終案を決定したのは審査員たちでなく事務総長だと判明した。
これらの問題が続々と判明した。このことから「五輪エンブレムとして採用するには適切ではない」という民意が生じたのだ。こういう民意を無視して、「専門家の判断に任せよ」というのは、問題をデザインの面だけに限定しており、きわめて視野が狭い。まったく、問題の所在を理解していないと言える。
自分の専門領域のことしか理解できない人を「専門馬鹿」と呼ぶ。
今回の問題は、「劇場ロゴをパクったかどうか」というデザイン界だけの問題ではないのだ、と理解するべきだ。そもそも、「劇場ロゴをパクったかどうか」というのは、もともと争点になっていなかったと言える。(劇場側だって、そのことを争点としない旨を主張している。商標法違反ではなくて、著作権法による類似を争点とすると主張している。)
今回の問題は、上で列挙したようなさまざまな問題が絡み合っている。ここで「劇場ロゴとのパクリではない」なんていうどうでもいいことを持ち出して、「専門家の言うことを聞け」と述べるような主張は妥当ではない。むしろ専門家こそ、民衆の声を聞くべきだ。
最後に一つ。
深津貴之 氏はデザインのことは専門家に任せるべきだと主張する。しかし今回のエンブレムは、エンブレムのデザインとしての良し悪しで決まったのではない。展開力で決まったのだ。つまり、布地の柄物のパターンの出来映えのような見方によって決まったのだ。
そもそも、(原案の)丸と三角と四角というデザインは、あまりにも単純で凡庸であり、これを「美しい」「見事だ」と思うようなデザイナーはいないだろう。なのに、心の底では「くだらん」と思いながら、はっきりと口に出せない。「展開力が優れている」と言われると、「なるほど」と言って承諾するだけで、「エンブレムとしてはあまりにも凡庸な図形だ」という本音を口にできない。
自分の(デザイナーとしての)内心の声を聞くことができず、説明された「展開力」なんていう言葉を信じてしまうようでは、デザイナーたちの良心というものを信用できないのである。
専門家は、民衆の声を聞くべきだ。そしてまた、自分の心の声を聞くべきだ。「あの原案はあまりにも凡庸だ」と、自分の心の声が訴えているはずだ。
追記。
id:sisya 参照元のエントリを全然読解できていないように見える。単に似ているだけでは盗用にならず、依拠しているかどうかが重要。もう少し元記事を読み返すことをお勧めする。
本項の話を全然読解できていないように思える。「(劇場ロゴと)似ているか、依拠しているか」というような話題は、争点にはなっていないというのが、本項の趣旨だ。そんなことはどうでもいいから関係ない、という趣旨。
だいたい、そんなことは、たいていの人は話題にしていない。著作権を争点にしているのは、ベルギーの弁護士だけだ。日本人のほとんどは、そんなことに関心を持っていない。関心を持っているのは、id:sisya さんや id:allezvous さんぐらいだ。
この事件の問題点は、ベルギーの裁判で勝つかどうかじゃない。そんなことを話題にしている人は、ほとんどいない。(そもそも裁判が成立するかどうかもはっきりとしない。訴えの利益がないので、却下されるかもしれない。そうなったら、著作権を争点にするのは、すべて空論になる。)
もちろん、本項でも、著作権を問題にしていない。そもそもベルギーロゴとの関係も問題にしていない。(ベルギーロゴとの関係などはどうでもいい、という趣旨。)
依拠性によらず類似性だけで著作権法違反を問える、と主張しているのは、私ではなくて、ベルギーの弁護士 http://bit.ly/1VMxON2 です。詳細は、このリンク先にある週刊新潮の記事に書いてあるので、そちらを読んでください。
一般に、ロゴのような単純な図形では、依拠性というものは(証明のしようがないので)問われず、類似性だけが問題となります。たとえば、ミッキーマウスの著作権では、単に似ているだけで問題視されます。いくら「真似したわけじゃない」と主張しても、「似ている」だけで問題視されます。
なお、本項では、著作権についての「分析」なんかしていません。著作権は本項では話題になっていません。ついでの形で、1行か2行、ちょっと引用ふうに言及しただけです。
id:bros_tama あの記事は“五輪エンブレムのデザインで何が問題であったのか”について書かれているんです.本来どうすべきであったか,解決のためにはどうする,とかはこれを踏まえて考えなくちゃいけないんだよね,という話です
それを前提とした上で、“五輪エンブレムのデザインで何が問題であったのか”ということは、今回の騒動ではほとんど意味がないことだ、というふうに評価しています。五輪エンブレムのデザインなんか、あまり重要ではないんですよ。デザインじゃなくて、これを採用するかどうかが問題なんです。
端的に言えば、「パクリデザイナーの作品を五輪に正式採用することの倫理的な是非」です。ここでは倫理的な問題があるだけで、美術的な問題はありません。美術的なことをいくら論じても、今回の騒動には何の関係もない、というのが、本項の趣旨です。
本質とは関係のないことをいくら解説しても、そんなことはどうでもいいことだ、という趣旨です。
誤解があるかもしれないので解説しておくと、私は別に、深津貴之 氏の見解を否定しているわけではない。素人向けに専門家が詳しくデザインのことを解説しよう、という努力は立派なものだと思うし、有益でもある。
ただしそれは、あくまで今回の騒動のオマケふうのエピソードとか裏話であるにすぎない。楽屋裏の話。こっそり井戸端や酒場でおしゃべりするための話題。
今回の騒動は、佐野デザインを五輪エンブレムに正式採用するかどうか、ということだ。それは、「採用しない」という形で、一挙に解決した。これだけが問題であったからだ。
一方、劇場ロゴとの類似性とかパクリとかは、ほとんど話題になっていない。だから、こんなことはどうでもいいことだ、というふうに評価している。
深津貴之 氏の見解を(間違っているとして)否定しているのではなく、(本質とは関係ないものとして)軽視しているだけだ。勘違いしないでほしい。
その後、状況が少し変化したようです。次の質問に答えようとして、気づきました。
id:Eizo0000 何と戦ってるんだ。
この問題を専門家(つまりデザイナー)に委ねるべきで、大衆がこの問題に口出しするべきではない、という発想を問題視しています。そのことは、本文中で引用した箇所で、下記のことです。
しかしながら、この箇所は、今では次のように書き直されました。
深津貴之 氏が、元の文章を書き改めたので、本項において問題視したことは、かなり色褪せてきたとも言えます。
「大衆はデザインには無知なんだから口出しするな」というような方針が、少しは改まったのだとすれば、本項は一定の役割があったと言えるでしょう。
※ 「集約されていまう」というタイポは、原文のままです。
id:honma200 結論とかまとめを書かないから散らかりすぎてて良く分からん。
まとめ:
この問題の本質は、最終案が劇場ロゴのパクリであるかどうかではなくて、考案者があちこちで画像の盗用をしたという問題である。つまり、デザインの問題ではなく、法律違反をした作者のデザインを五輪に採用するかどうかというという倫理面の問題である。したがって、この問題をデザインの専門家に任せておけば済むというわけには行かない。「デザインの専門家に任せよ」という主張は、今回の問題の本質からは外れている。
深津さんのエントリ(http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/)は、基本的には佐野氏と委員会の説明をなぞったもので、デザイナーでなくても彼らの説明で「なるほど劇場ロゴのパクりではないのか」と納得した人は少なくないと思っていたので、この内容に対して「なるほどわかりやすい!」と関心している人が多いことに逆に驚いている。
これを読んでも納得いかない人がいるのは、おそらくデザイナーが「似ていない」という言葉を使って反論しているところに理由があるのではないか。万人に納得してもらう説明としては、「似ているが、パクリではない」が正しい。
あのエントリでも書かれているとおり、デザインは装飾ではなく最適解を求める設計なので、限られたパターンであれば結果が似てくることは珍しくない。
ゆえに、色々やった結果が「似てしまう」ことも「悪」とはされないが、同じ見た目のものが氾濫すると混乱を招く(それこそ社会におけるデザインの目的と反する)ので、商標などのルールによってお互いの利益を損なわない形で解決しましょう、というのが現代社会におけるお約束になっている。
だからこそ、海賊版など意図的にこのルールを侵し、混乱させ、利益を得ようとする「パクリ」行為は「悪」なのだ。
委員会が「法的には問題がない」と判断したのも、上記のルールにのっとってリェージュ劇場のロゴが商標登録されていなかったことから、「似ている」が「違法ではない」という当然の結論である。事実、佐野氏の初期案は「似ている」商標があったので修正を行ったと説明されているので、もしリエージュ劇場のロゴが商標登録されていたら、(撤回はされたが)現在のエンブレムも「似ている」ことを理由に委員会からNGとされていただろう。
当初、デザイナーがこぞって「パクリではない」と佐野氏を擁護した理由は、そういうことだ。エンブレム最終案があのデザインになった課程について、十分納得のいく説明はなされているし、最初から擁護していた人達はそのデザインの良し悪しは別として、コンセプトも含めてなんとなくでも理解していたはずだ。
その上で、なお疑義が残るとすれば、意匠=見た目の問題において「初期案を作るときに“T”の右下に●を置くアイデアはチヒョルト展からいただいちゃったんじゃないの?」という点だろうか。「9分割のモジュールでアルファベットを表現する」というアイデアは、言ってしまえばそれほどオリジナリティが高いものではないが、「鼓動のパワー」を表現するという「●」が「T」の右下にあるのはこのエンブレムのオリジナリティの一つだといえよう。それが佐野氏が過去に見た展覧会のメインビジュアルに由来するのでは? という疑問が生じたわけだ。だからデザイナーの矜持として、原案とチヒョルト展のポスターの類似の話が出たタイミングで、当初は佐野氏擁護だったデザイナーの中から批判に転じる人が出たというのも、おかしな話ではない。「(身内として)擁護しきれなくなった」のではなく「初期案のコンセプトの正統性に疑問を感じた」のだ。だが、これも「疑惑」にすぎず剽窃の「事実」は認められていないので、真実は闇の中である。
個人的には、佐野氏のエンブレム以外の仕事を見ても、面白いものはあるが独創性に欠けるという感想を抱かざるを得ない。日本の広告やエンターテイメントの世界においてよく見かける、海外で売れているが日本にはまだ入ってきていないものを「いただいちゃう」ようなやり方にどっぷり浸かりすぎてるんじゃないの? と思わないでもない。
もちろん、サンプリングや本歌取りという手法がクリエイティブを発展させることは確かだし、オマージュやパロディによって発揮される作家性は存在するので、そういった行為を否定するものではない。だが、それらの手法は「コンテクスト(文脈)」に乗った上で初めて効果があるものである。サントリーのトートバックのイラストの件などはコンテクストも何もなく「いただいちゃった」案件そのもので、悪質である。(パンの写真やメガネの写真を無断で素材使用したのはまた別の問題だ。)佐野氏の事務所のクリエイティブに、こういった姿勢が垣間見えることで、オリンピックという大舞台のデザインワークを担うのにふさわしいデザイナーであるかどうかを問われてしまうのは仕方がないことだろう。
とはいえ、現在の「パクリ批判」のあり方は、その内容や手法において明らかに間違っている。
ここで長々と述べてきたことようなことを理解しているのかいないのか、本質とずれた批判をセンセーショナルに書きたて、多摩美など佐野氏が関わっている所なら話題性があるとばかりに火をつけて回るnetgeekやまとめサイトの在り様と、それに扇動されるネット民のリテラシーのほうが、パクリ疑惑以上に深刻な問題なのではないだろうか。
ブコメだと書ききれないけど,日記/ブログ始めるほどでもないのでこちらへ。
原案審査過程に関しては http://bunbuntokuhoh.hateblo.jp/entry/2015/08/28/234056 に詳細な説明があるので,特に聞きたいことはない。
とりあえずこんなところか(長くなりすぎて途中から手抜きになった感は否めない)。
http://www.amazon.co.jp/review/R33VQYXB3J6P7P/ref=cm_cr_rdp_perm?ie=UTF8&ASIN=4838725833
ネットで叩かれているようですが、事態はもっと深刻だとおもいます。
何より、「グラフィックデザイン」という仕事自体への信頼を落とした罪は、とてつもなく大きいと思います。
擁護していた人間が、信じられない。「仕事」あってのデザイナーです。「彼はいい人」?ふざけるな、です。
真の人柄とは、「デザインの仕事」にこそ、出るものなはず、です。
全てのデザイナーが、こんなパクリ、というか、「雑な仕事」をしているわけではありません。
精一杯、ギリギリの低予算と日夜の仕事の上にちょびっとだけ花が咲くような「地味」な仕事です。
この「パクリ」は、むしろ「佐野研二郎」さん、「森本千絵」さん、「長嶋りかこ」さんら、
大手代理店の実質・専属デザイナーだからこそ、必然的に起こりえました。(まだまだ他にもいますよ)
彼等は、零細のフリーランスや個人のデザイナーと違って、大手広告代理店・電通や博報堂とのパイプがあるため、黙ってても、とんでもない「大きな仕事」が降ってきます。サントリー、資生堂、TOYOTA、HONDA…そんな大企業はデンパクにしかできませんからね。
それをチャチャっと、イメージソースを見つけ出し、Macでコピー&ペースト。下っ端のほぼアルバイトに近い低賃金アシスタントに、徹夜でとてつもない量の「アイデア」を出させ、その「手柄」を横領します。
「横領」と「電通・博報堂・多摩美ムサビ」を中心とする「これがオシャレなんだぜ」という「自己顕示」が、彼等のいう「クリエイティブ」の正体です。
彼等に創造性は一ミクロンもありません。「芸能人」に好かれているから、成り立っていただけです。
「ま、素人だしな、センスねえ・一般人なら、わかんねーだろ。」これが、彼等のいう「デザイナー感覚」なのでしょうか?
違います。真のデザイン感覚とは、「一般の人」にこそ、パッと「見るだけでわかるもの」だと私は思います。
ちょっと心あるデザイナーたちは、みなこの人たちの「センス」の源泉・ソース元が「パクリ」であることにとっくに気付いていました。ただ、一般の人の目と耳に届かなかっただけなのです。
彼等は「デザイナー」というより、「中間搾取業者」さんという方が適切なのです。
デザインに、本当はプロもアマもありません。だからこそ、デザインは過酷な仕事なんです。
かえって、「素人」だからこそ、曇りのない目だからこそ、デザインの本当の良さがわかるし、ウソもバレるのです。
国民の祭典である「オリンピック」に、あんな葬式か、安っぽいブランドのロゴのようなデザインを出してくるセンス。
それに疑いもしないセンス。これが「プロのデザイナーの仕事」なのですかね?
こんな「雑な仕事」が、止まることなく、まかり通ったのも、彼等を批判することが「タブー」だったからです。テレビ・新聞・ラジオという「メディア」の一番の資金源である「広告」を「美しく」作る方(パクリですけど…)なのですから。
まるで、一連の騒動も、「頭の悪いネット民」の批判だから、などと、彼等側の人間は、主張するでしょう。
いえ、今回ばかりは、発見したのはネットの方々かもしれませんが、日夜真面目に働く「デザイナーたち」こそ、一番の被害者です。
こんなズサンな人々と一緒にされたくない、とほとんどの方は主張するでしょう。そして、デザイナーこそ、こういう愚劣なクソデザイナーに怒りを感じるはずです。
和田誠さん、田中一光さん、亀倉雄策さん、横尾忠則さん等、デザイナーがスターだった時代は、手と情熱とで、素晴らしく美しいデザインをつくっていました。いちいち鉛筆で線を引き、イラストレーターと一緒にアイデアを考えていました。
デザイナーという仕事は「広告屋」「看板屋」などと低く見られ、軽蔑されていました。
何が「ミスター・デザイン」じゃ!!その「ネーミング」の恥ずかしさに、言葉も出ません。
最高に笑えないギャグですよ。口に出してみて下さい。「ミスター・デザイン」?。
オレは偉いんだぜ、ってことでしょ。自己顕示欲の塊なんですよ。ちょっと心あるデザイナーなら、誰でも気付いていたことです。
これを機に、「デザイン」という仕事から、足を洗って頂ければ、幸いです。
後記:多くの方に反響を頂きまして嬉しいです。
少なくとも、サントリーのパクリの件は、専門学生の1・2年レベルの課題でも今時するか?という初歩的な「画像のまんまパクリ」です。フリー素材か、写真を取ればよかっただけのことです。
デザイナーとして、本当に、ありえないレベルのミスです。こんな仕事の仕方は、佐野研二郎氏の事務所だけでしょう、と信じたい…。
しかし、それでもまだ擁護する「デザイン村」の人達にはつくづく情けない…。
理研の小保方氏、音楽クラシック村の佐村河内とホントーに、まったく同じ構図じゃないですか!
デザイナーたちも、仕事に響くので、黙っている方がほとんどだと思いますが、勇気を出して、声を上げて下さい。
呆れるほどボロボロとずさんな情報が出てきてしまいます。「思考をクリア化」しすぎた結果だと思います。
この本を読んで、「そもそものデザインのやり方」への「違和感」を感じて、すぐに某本屋へ、売りましたが、まさかあのときに感じた違和感が、これほどまでに実現化されるとは思いませんでした。
でも、いかに佐野氏が、「手抜き体質」かが、出ていると思いますよ。
なんと…驚愕の事実が発覚しました(2015年8月30日)。「ペンギンブックス」という、日本人には馴染みが薄いですが、
有名なペーパーブックのシリーズの名タイポデザイナー「ヤン・チヒョルト」のパクリであることが発覚しました。
私も、GGGでの展示に行って、感銘を受けました。本当に許せない。チヒョルトは、ハッキリ言って、
作風は地味です。しかし、心に残るデザインをする私も心から敬愛する、「巨匠」です。
しかし、そのチヒョルトの「表面」のデザイン部分だけをペーストして、パクる姿勢。
本当に許せません。
「スポーツの世界」のヤツラにならば、わからないだろう、という魂胆でもあったのでしょうか?
本当にふざけてる。デザイナーとしても、最低です。許せません。
(コメントに追記)>>広告代理店のデザイナーの仕事はプレゼンが主なので細部まで検討して作りに作り込んだファイナルプロダクツを作成することはありません。ファイナルプロダクツは下請けの専門家に任せます。だから”これとこれをくっつけて~”みたいに30%ぐらいの力で仕事を仕上げるのが”デザインする”ことだと思っちゃってるデザイナーになってしまうんです。しかも代理店にいたというプライドだけは高いから、始末に負えない。
そうなんですよ。彼等のいう「クリエイティブ」は、日本語訳の「創造すること」や「発想すること」じゃないんですよ。
いかにして、「自慢するか」なんですよ。
で、CMの世界では相手のクライアントが、「企業」ですから、世に漏れなかった。会議室の中だけでの世界でした。
しかし、「オリンピック」という晴れの世界で、「Mr.デザイン」こと「佐野研二郎氏」は同じように、惰性でやってしまった。彼にとっては、こういう仕事の仕方が、「普通」なんです。
もちろん、考える力も発想のノウハウも、強さもないから、最終的な「アウトプット」は「何かに似せる形」になります。何かに似せる、しかも雰囲気だけ…ぐらいなら、いいんです。
「何かに似せる努力」すらやめて、「そもそも画像をそのままネットからパクっていいじゃん!」
「フォトグラファーを使う」「イラストレーター(絵描き)を使う」「タレントを使う」のにも、何をするにも、
それを解消するには、タダで「アウトプット」を創り出すには、いくつかのアイデアがあります。
しかし、最も単純明解に、クリアに、ボールドに、全ての制作費が浮く方法があります。
一番安く、早く、タダで済ませられる唯一のデザイン。
一体なんでしょう。
それは「搾取」です(「パクリ」という言葉は、何となく、「万引き」に似た甘やかしの言葉だと思います。そんなレベルではないですよ、コレは。明らかに「システム」として、「自分の仕事」として、やっています。でなければ、こんなに出てくるはずはないです。)。
デザイナーたるもの、誰でも一度は、パクることはあります。学生時代に、一からオリジナルを創り出せる人間など、いないし、天才でもムリでしょう。「習作の時代」はあります。
「自分の周りへのヒト・カネ」がメインであって、「モノ」(仕事)は、どうでもいいのです。軽蔑された結果なのだと思います。
はっきりと、誰かの作ったものを「奪って、人に提出する仕事」に甘んじてたのだと思います。原宿の事務所のMacintoshの中では、イラストレーターが書いたパンも、誰かのブログのパンも、「一緒」です。
ならば、タダな方がいい。
とすら、考える頭もよぎりません。
まったく自然に「ミスター・デザイン」は、搾取します。無限に仕事がつくれ、永久にカネが入ってくる仕組み…。
思考は確かに「クリア」かもしれませんが、その精神は「ドロドロ」です。
クリエイティヴ・ディレクター、アートディレクターという「肩書き」は、「搾取指示人」なのでしょうか。
「クソ・デザイナー」というカテゴライズで、はっきりと「普通のデザイナー」とは一線を画す社会にしたいものです。
全てのデザイナーこそ、今こそ怒りを上げるべきです。
2015年9月1日、ついに、ようやく、取り下げました。が、凄まじいシロモノの反省文を掲示しました。
ここまで「ひどい謝り方」をできる人間が、いたでしょうか。
帰って来た返事は、「被害者」気取り、でした。
やはり、闇は深い、と確信するばかりです。
もうこれは確実に、しれっとして、またヒョロっと、5年後、五輪のバックで「名前の出ない形」で関わってきますよ。1000%。
絶対に、です。「今を乗りきれば、大丈夫」と思っているはずです。
もちろん、いわれのない誹謗中傷もあるでしょう。それはお察しします。
しかし、博報堂の「営業」の人間は、そういうことで強くなるんですよ。何にも言われないのは、クーラーの効いた部屋で、パソコンと戯れるクソデザイナーだけなのです。
自分の大好きなお仲間たちと、カネをバンバン出してくれるクライアントと、ドラゴンボールやドラえもんを使われても、何も言えないそっちのヒトたちの複雑な気持ち、アニメーター、漫画家、アーティスト、イラストレーターを、笑顔でほがらかに踏みにじってきたわけですからね。アートディレクターって、一体何なのでしょう。
博報堂では、こんなに「謝る」ということは「罪悪」なのでしょうか。
卑怯なのは、「テキスト」ではなく「画像」で謝るということも、そうなんですが、
「リュウミン」を使って、この際も「キレイに、クリエイティヴに、素敵なタイポグラフィ」で謝ろうとするクソみたいなデザイン根性です。
「ニッポンは、世界中から尊敬されている映画監督の出身国だった。お忘れなく。」のあの「ドヤ感」の「薄汚さ」が、本当に蘇ってきました。その「キタナさ」が何一つ変わっていない、どのメッセージでも。
これが、逆にいえば、彼のデザイナーとしての唯一の「統一性」なのかもしれません。
ただ、「ドヤ感満載」のデザイナーだと、仕事になりません。本来ならば…。
こういう場合、「真摯なデザイナー」は、実は、普通の、どこにでもある「そっけない」明朝体を使います。
リュウミンだと、あまりに「美しい書体」すぎて、ほぼ「ウソっぽく」聞こえるからです。
そんな「文字への美的感覚」すらないんでしょうね。表面的に、「キレイ」なら、何でもいい。佐野研二郎。
そもそも本当にデザインを学んできたのでしょうか?疑わしくなってきました…。
皆様が5年後忘れていても、私は「佐野研二郎」という、愚劣な「デザイナー」という肩書きをした「搾取者」の名前を永遠に忘れません。
今は、「炎上」し、「祭り」状態かもしれません。
しかし、私は、もっともっと持続的に追求していかなければならない問題だと思います。
この多くの批判が消え、静寂になり、命を吹き返した頃に、
また愚劣な身内自慢とともに、高らかな搾取とクソデザインのオンパレードが、そっと始まる(reborn)ように思います。
絶対に許してはなりません。本当に。
すっかりパクリデザイナーとして批判されている佐野氏。確かに今回のエンブレムの件は、原案のベースにチヒョルトのポスターデザインがあるのは本当だと思う。
そしてここからは自分の想像の話。もし佐野氏がそんなに悪い人じゃなかったら、という話だ。
トートバッグの件は最初から謝罪していたけど(あれは完全にアートディレクターとしての監督不行き届き)、エンブレムの件で決して謝罪をしなかったり強気に出ていたりしたのは「エンブレムは何かをパクったわけではなく、自分の頭の中から出てきたものだ」という自信があったからだろう。実際佐野氏本人は、デザインをする際にチヒョルトのポスターを直接参考にしたわけではないと思う。大体2013年の展覧会のポスターをパクったら遅かれ早かれバレるに決まっているわけで、そんなリスクをあの大舞台で冒すメリットが全く無い。
エンブレムが選ばれた時のコメントを読む限り、彼は人生をかけてこのエンブレムを考えたと思うし、誇りをもって仕事をしていたと思っている。(そこを否定したい人は多いだろうけど。)トートバッグ以外は、参考ネタがあったとしてもそれをアレンジして別のものにしている印象だし、沢山の作品の中にはオリジナリティがあるものも多くあるように見受けられる。だから彼は自分のデザインに誇りを持って仕事していたんだろう。
多分今回の件は、佐野氏の中の「あのデザイン素敵だな」という記憶が、エンブレムを考えるに当たって無意識で出てきてしまったのだと思う。だから本人の中では「何かを参考にしたわけではなく自分の頭の中から出てきた」になっていて、自信を持って反論していたんだろう。
それが今回、ポスターと類似していることが判明して本人も「あ!」と思っているような気がする。外部から指摘されて初めて気付いた感じ。だから今回類似が見つかったことで、むしろ素直に過ちを認めたいという気持ちになっているのではないかと思う。「私のミスです。無意識に同じデザインをしてしまいました。撤回させてください。」と。
でもJOCのメンツやらもあるだろうし、撤回するのは難しいだろう。自分はデザイナーとして撤回したい、でも組織がそれを許さない。そして世間からは「厚顔無恥」と叩かれ続ける。これまでは「あのエンブレムは自分の頭の中から出てきたオリジナルだ」という自信が彼を支えていたんだろうけど、それを失った今、彼は板挟みの中で相当苦しむのではないかと思う。
もし彼が「パクって丸儲け」と考えるような悪いデザイナーではなく、自分の仕事に誇りを持っているデザイナーだとしたら。もし彼が今回のエンブレムを撤回したいと考えていたら。