はてなキーワード: 事情聴取とは
https://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_E1631175162323/
と言う状況で、似たような事があった。
奥様の方が明らかに稼ぎがよいと思う。
一方で旦那の方はまぁその、のんびりした人。まだご両親もしっかり元気だし、何ならおじいちゃんも元気だし、親父さんの手伝いという感じ。
子どもの世話や家のことを一手に担い、家事全般をこなしている。実は地域の事でも活躍している。
そんな旦那だが、ある日、奥さんにもっとがんばってよ!と怒られた、と言うことで、しょげかえってうちに来た。
愚痴と言うより、やっぱり俺は駄目な奴だみたいな独白を慰めながら聞いてやり、それを境に、やたらと家に入り浸っていた。なんか上手くいってないんだなーと言う雰囲気があった。
本気で心配した。
ところがあるときを境に、来なくなった。
そして、ある日、旅行に行ったからとお土産を持ってきたので、事情聴取すると
と言う供述だった。
腹が立った。
まぁ、俺が勝手に心配しただけだし?特に何にもしてないので腹を立てるのは筋違いだと思うのだが、腹が立った。何だお前は。出禁にするぞコラァ。言えないけど。
一方的な批判だけでなく対話のできる誰かに返事頂けるまで投稿します
不登校児の人生と身体障害者の教諭の体裁、優先されるべきはどちらなんですか
もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました
見学の面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療と連携してサポートしますと言われたので
それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました
その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました
その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした
担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました
3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内の問題や自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした
メモや日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました
私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、
しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした
書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました
高校の担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした
ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメだからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした
高校も卒業になり家庭内の問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました
別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で
時間だけが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした
ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?
返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃんと自分で問題なくよくできたいい子だったのに、など
質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした
メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました
許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました
それでその元担当に一通送りました
そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と
今思えば当たり前ですが元担当が警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科の閉鎖病棟へ入れられました
その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生の何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか」
担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と
スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました
それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました
人生の殆どがかかってる問題なので誰かまともに返事頂けるまで投稿します
不登校児の人生と身体障害者の教諭の体裁、優先されるべきはどちらなんですか
もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました
見学の面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療と連携してサポートしますと言われたので
それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました
その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました
その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした
担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました
3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内の問題や自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした
メモや日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました
私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、
しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした
書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました
高校の担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした
ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメだからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした
高校も卒業になり家庭内の問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました
別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で
時間だけが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした
ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?
返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃんと自分で問題なくよくできたいい子だったのに、など
質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした
メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました
許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました
それでその元担当に一通送りました
そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と
今思えば当たり前ですが元担当が警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科の閉鎖病棟へ入れられました
その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生の何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか」
担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と
スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました
それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました
読み取れない点は質問して下さい、どこか書いてないからウソと決め付けないで下さい
こういう状況に陥った人がいることに意見下さい
もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました
見学の面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療と連携してサポートしますと言われたので
それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました
その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました
その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした
担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました
3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内の問題や自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした
メモや日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました
私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、
しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした
書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました
高校の担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした
ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメだからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした
高校も卒業になり家庭内の問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました
別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で
時間だけが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした
ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?
返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃんと自分で問題なくよくできたいい子だったのに、など
質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした
メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました
許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました
それでその元担当に一通送りました
そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と
今思えば当たり前ですが元担当が警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科の閉鎖病棟へ入れられました
その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生の何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか」
担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と
スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました
それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました
読み取れない点は質問して下さい、どこか書いてないからウソと決め付けないで下さい
こういう状況に陥った人がいることに意見下さい
もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました
見学の面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療と連携してサポートしますと言われたので
それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました
その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました
その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした
担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました
3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内の問題や自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした
メモや日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました
私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、
しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした
書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました
高校の担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした
ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメだからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした
高校も卒業になり家庭内の問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました
別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で
時間だけが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした
ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?
返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃんと自分で問題なくよくできたいい子だったのに、など
質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした
メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました
許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました
それでその元担当に一通送りました
そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と
今思えば当たり前ですが元担当が警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科の閉鎖病棟へ入れられました
その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生の何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか」
担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と
スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました
それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました
もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました
見学の面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療と連携してサポートしますと言われたので
それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました
その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました
その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした
担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました
3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内の問題や自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした
メモや日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました
私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、
しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした
書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました
高校の担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした
ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメだからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした
高校も卒業になり家庭内の問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました
別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で
時間だけが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした
ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?
返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃんと自分で問題なくよくできたいい子だったのに、など
質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした
メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました
許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました
それでその元担当に一通送りました
そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と
今思えば当たり前ですが元担当が警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科の閉鎖病棟へ入れられました
その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生の何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか」
担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と
スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました
それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました
もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました
見学の面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療と連携してサポートしますと言われたので
それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました
その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました
その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした
担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました
3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内の問題や自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした
メモや日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました
私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、
しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした
書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました
高校の担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした
ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメだからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした
高校も卒業になり家庭内の問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました
別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で
時間だけが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした
ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?
返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃんと自分で問題なくよくできたいい子だったのに、など
質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした
メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました
許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました
それでその元担当に一通送りました
そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と
今思えば当たり前ですが元担当が警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科の閉鎖病棟へ入れられました
その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生の何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか」
担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と
スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました
それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました
退院したあとも色々ありましたが、私は世の中の無差別殺人のように短絡的に実行しませんでした
それでも今なお元担当教諭や病院は非難されず、私はただの凶悪犯予備軍として何も問題を聞き入れてもらえないんでしょうか?
ネタだと言われましたが嘘じゃないです
『鬼滅の刃』は戦闘の描写が残酷で過激なので、教育に悪いと判断し、我が家ではあえて子供には観せていなかった。
ところがどっこい先日、子供がなんと幼稚園で鬼滅の刃を観せられたという。
観させられた箇所が、どの回なのかはわからないが、
そうでなければ前述の通り、右も左もわからない3歳・4歳児に観せるものではないと考えていたため、
この話を聞かされた時、面食らうと同時に激しい怒りがこみ上げてきた。
「観たことはないけど、何となくキャラクターを知っている」といった子どもたちが、チャンバラごっこで広まっていったのが、子供の間の鬼滅の刃ブームの実情なのだ。
人が切り刻まれ、
肢体が飛び散ったあげく、死体が飛び散るアニメ観せ、何がシタイのさ?
幼稚園の教師が内容をどこまで把握しているかは不明だが、断固抗議したいと考えている。
仮に、仮にの話だが。
これで子どもがトラウマ(PTSD)になり、やたらと怯え易い性格に変化し、引きこもりとなり、何とか義務教育を終えたものの高校には馴染めず退学し、大検にも失敗し、その後、まっとうな職にありつけず、地を這いつくばりながら命からがら逃げるように、社会の片隅で愛を叫び、今日一日だけ生き延びることしか考えられない大人になったことで、生を渇望する潜在能力が覚醒してしまい、Youtuberに「要らない」等と貶されるようなホームレスとなりながらも、意外とサバイブの適性があることが判明した挙げ句、新宿界隈において知る人ぞ知る「ホームレスの夜王」へと成り上がり、裏社会の頂きに長年君臨し続けようものなら、どのように落とし前をつけてくれようか?
こんな俺は、神経質なモンスターペアレント(モンペ?)なのだろうか?
俺もまだ正常な判断ができていないので、はてな界隈の客観的な意見を求む!
「汽車🚉のお話だったよ」「みんな、おねんねしてたんだよ♡」との天使の声。(なお、この天使は誰が何と言おうとも、世界で圧倒的に一番可愛い。)
映画!?の話のわけがないと思い、子供が何か勘違いしてるのか(そうあってほしい)と思いつつ調べたところ、既にDVDレンタル開始されてんのな。
そう、観させられたのは、劇場で公開され大ヒットした「無限列車編」だそうな。
俺も映画館で観たけどさ、アレ結構グロイ内容なんだよなー、先生に相談しようか迷っている
>Ad2Jo氏
>世間のブームに影響されないように子供を育てたいならはっきり言って自分の手元に置くしかないと思う、それが子どもにとって良い子とかは不明だけど、あともっと上の年齢になったらもっと友達から影響を受けると思う
目的は「害のあるコンテツに曝されないよう、回避させる」ということであり、ブームに触れさせないってことじゃないっすよね~。
なんで落ち度のないこっちが隔離しないといけないのかなぁ~
是正すべきは幼稚園側じゃないのかなぁ~その根拠はPG12(保護者の助言・指導が必要)なモノなんだもの。
先生は保護者じゃないっしょ?見せる店内の判断含めて保護者が行うものじゃないのかな?
>MiG氏
>3〜4歳に保護者不在で夢幻列車はダメだと思う。夢だけど家族が死んで自分を罵ってくる場面とかはショック受ける子もいるんじゃないかな。
私は神奈川県内で自営業を営む、しがないIT屋である。過去にはオウム真理教(現アレフ)の事件を追う無名のフリーライターとして糊口をしのいでいた時期もある。
以下は、今年7月に私の身に起こった出来事の記録と、国家権力の象徴である警視庁と公安調査庁の手により、かつて未曽有の化学テロを起こしたカルト宗教団体オウム真理教の後継団体として公安調査庁の監視対象となっている宗教団体「ひかりの輪」に罪なき一般市民である私の個人情報がリークされた問題に関する告発である。
オウム真理教は麻原彰晃(松本智津夫)によって設立された新興宗教団体である。設立当初はヨガを中心とした修行による神秘体験の会得を目標とする比較的穏当な宗教団体であったが、1989年に教団施設内で発生した信者殺害事件とその隠ぺい工作をきっかけに急速に犯罪傾向を強め、以後、坂本堤弁護士一家殺害事件をはじめとする凶悪事件に手を染めていく。
1990年には真理党を結党して衆議院議員総選挙に出馬するが全員落選、教団はこれを国家による陰謀と考え、無差別テロに傾倒していく。上九一色村の教団施設であるサティアン群は毒ガス工場に改造され、サリン・VXガスなどの化学兵器の製造のための研究が進められた。ちなみにサリン製造プラントの初代責任者は上祐史浩である。
教団は95年の地下鉄サリン事件後、教団の拠点である上九一色村のサティアン群に警視庁による強制捜査が行われ、教祖である麻原彰晃(松本智津夫)を始めとする教団幹部の逮捕によって壊滅した。その後2000年には後継団体アレフ(現Aleph)が発足するも、麻原への帰依を続ける主流派と旧オウム真理教からの脱却を図る代表派の対立が勃発し、上祐史浩率いる後者(代表派)はアレフを脱退し、新団体「ひかりの輪」を結成した。
今なお信徒数約1,650人、拠点施設32か所、資産約12億9,100万円(2019年(令和元年)10月末時点)*1の勢力を誇るアレフに対し、上祐史浩代表率いるひかりの輪は信徒数約150人、拠点9か所、資産約700万円*2と非常に貧弱であり、表面上は国家や市民への脅威は全くないように思える。しかし「旧オウム真理教のシヴァ信仰から完全に脱却する」という上祐史浩代表の宣言とは裏腹に、今なお「オウム真理教の修行体系の最も本質的な部分を継承」*3している団体として、団体規制法に基づく公安調査庁の観察処分対象となっている。
今年7月某日、私はひかりの輪が拠点を構える世田谷区南烏山のマンションのエントランス前に立っていた。アレフ信者13人がこのマンションの2階に続々と入居し、事実上の拠点としたのは2000年12月のことである。以降、2007年の教団の分裂騒動以後は上祐史浩代表率いる「ひかりの輪」の拠点としてオウム真理教の残党はマンションの2階に居座り続け、3階より上の住人や烏山地区の近隣住民から強い警戒心をもって監視されている。
彼らの突然の入居から20年余り、近隣住民によって結成された対策協議会*4による戦いもむなしく追放に至っていないオウム真理教後継団体「ひかりの輪」の現状はどうなっているのか、かつて匿名でネット上に記事を書き散らしていた私の血は密かにたぎり、その足は知らず知らず私の体をこの地にいざなったのだ。
建物の前は、いくつかの鋼鉄製の小さなバリケードと警察の詰所があること以外はただの砂利敷きの駐車場と変わらない。どんよりと曇った平日の昼下がり、監視小屋に人の気配はなく、しかし敷地に足を踏み入れると砂利がかすかに音を立てて緊張感が走る。
エントランスのガラス窓には「関係者以外立入禁止」という、どのマンションにもある注意書きが貼ってある。これを無視してエントランス内に一歩でも立ち入れば、住居侵入罪として罪に問うことができるというものである。実際オウム真理教の信者や左翼団体のメンバーなどがこの微罪で逮捕された例は枚挙にいとまがない。じゃあ不動産屋やらピザ屋の広告のポスティングはどうなのかという疑問は持ってはいけないらしい。
私は開け放たれているドアを通ってエントランス内に足を踏み入れた。マンション内では多くの猫が放し飼いにされているようで、集合ポストの下にはエサ皿が置かれ、猫の尿のにおいが鼻を突く。集合ポストの最上段には、「201 上祐・水野 ひかりの輪」と書かれたボックスがあり、確かにここが「ひかりの輪」の本拠地であることがわかる。2階の他の部屋のボックスは「空室」と書かれたガムテープでふさがれていた。
集合ポストの写真を撮り、長居は無用ときびすを返しかけたその時、黒いシャツを着た短髪の男がエントランスにやってくるのがちらりと見えた。男は無線機のようなものを所持しており、一目で私服の警察官であることが分かった。このマンションの住人でもひかりの輪のメンバーでもない私を訝しんで職務質問をしようと接近してきたのは明白であった。
このとき私はたまたまダイソー千歳烏山クレア店にて500円で購入した水鉄砲「アクアレーザー」(未開封)を所持しており*5、そのことが警察官との喜劇的ひと悶着に発展していく。
商品番号:4549131780017
https://jp.daisonet.com/collections/party0105/products/4549131780017
「何の用ですか?ここの住人じゃないですよね?」
どうしたものかと考えるより早く私服の警察官は話しかけてきた。とりあえずお約束の「任意ですか?」という挨拶をしてみたものの相手が引き下がる気配はみじんもない。「いやその」「とりあえず身分証見せて」「はい」変に事を荒立てても仕方がないと思い、素直に財布から運転免許証を取り出して男に手渡す。男は無線に向かって免許証に書かれた名前を読み上げ、やがて近くの交番からやってきたと思しき警察官たちが集まってくる。これは困ったことになった、今日はこれから仕事の打ち合わせがあるのに、と困惑しつつもなぜか冷静になりあたりを見回してみる。既にパトカーまでやってきており、さながら何か大きな事件の現場の様相を呈しているが、GSハイムの一般住戸はおろか向かいの戸建てからも野次馬の気配は全くない。つまりここではこの程度のことは日常茶飯事なのだと合点しながら警察官からの質問に答える。そのうち彼は私のぶら下げているダイソーのレジ袋に気付いた。
「その袋の中身を見せてください」
しぶしぶ袋の中に入っていた未開封の水鉄砲(500円)を取り出して警察官に見せると、彼の目つきが一変した。「これを何に使うつもりだったの?」「いえ何にも」「そんなわけがないでしょう」「いや本当に何でもないんです」といった不毛な押し問答が始まった。折しも水戸で聖火ランナーに水鉄砲を発射した女性が逮捕された事件があったばかりだ、警察官のテンションが上がるのも無理はないだろう。そのうち「こんなところで水鉄砲持ってて何にも使わないわけがないでしょう!」と、いくらか統を失したような状態になっている警察官を私が必死でなだめるような展開になっていった。
そのうち雨が降り始め、一人の警察官が詰所からビニール傘を持ってきて、職務質問に当たっている警察官に手渡した。私を都会の酸性雨から守ってくれるというのである。素直にしている限り警察官というのは案外親切なものだと思った。やがて聴取の算段が付いたらしく、私は促されてパトカーの後部座席に乗り込んだ。
警察署に着くまでの間が、この事件における私にとって最も苦痛に満ちた時間となった。同乗した警察官にとっては私が他人の住居に侵入を図ったことよりもダイソーの水鉄砲(500円)を所持していたことの方が重大だったらしく、いつまでも「その水鉄砲でひかりの輪を襲撃するつもりだったんだろう」と因縁をつけられ続けた。当然私にそんな意図は露ほどもなく、ただダイソーで見かけた500円のポンプアクション水鉄砲に感心し(トイザらスなら同等品が3000円は下らないはずだ)、自宅に帰ってからその威力を試してみたかっただけだったのだ。頼むから信じてくれ。しかし、降り際に言われた「刑事には嘘をつくんじゃないぞ。嘘はあとで全部わかるからね」という一言は、この難局を切り抜けるための示唆を多く含んでいた。
成城警察署4階の取調室に着いた私は、徹底的に所持品の検査を受けることになった。カバンの中身は言うまでもなくポケットの中身(尻ポケットを裏返せとまで言われた。構造的に無理である)やズボンの裾の裏までひっくり返させつつ、「こちらもケガはしたくないからね」などと物騒なことを言う。靴を脱ぎながら「中敷きがあるので調べてください」と言ってみたが、そこは調べられなかった。くそっ、俺の足の臭いを警察官に嗅がせるチャンスだったのに、と思いながらも無言で靴を履き直して促されるまま椅子に腰掛けた。
やってきた刑事は眼光鋭く「どうしてこんなことをしたんだ」と切り出してきた。そんなことを言われても単に興味本位だったとしか答えようがないのでその通りに答えるが全く納得してくれる気配はない。次第に調子に乗って「我々は地域住民に委任されて地域の平和を守る義務があるんだ、外部の者が不穏を与えることは許さない、わかるか」などということを演説し始める。(テロ組織の残党と20年以上も慣れ合ってきてその体たらくは何だ)と喉元まで出そうになるがぐっとこらえつつ、話せることだけ話してあとは黙り込む。後になって気付いたが、彼らは私のことを極左テロ集団と関係のある何者かと思っていたらしい。こちらには検挙歴も何もないものだから彼らが私について知っていることは当然何もなく、必死になって思想的背景を聞き出そうとしていたのだ。
やがて私が極左でもオウム真理教関係者でも何でもなく、ただ興味本位でGSハイムを覗きに来たことが明らかになってくると、急に刑事たちのテンションが下がってくるのを感じた。取り調べの前に預けた所持品の返却願いを次々と書かされ、左の人差し指で拇印を押し、返却された品々をカバンやポケットに詰め込むと、まるで放り出されるように成城警察署を後にした。
事件後しばらくして、オウム真理教ウォッチャーの友人のもとにひかりの輪広報のツイッターアカウントからダイレクトメッセージが届いた。そのメッセージには、上述の侵入事件に対する不満とともに、警察署での事情聴取の際に明かした私の本名が、名字だけではあったが記されていた。
これは一体どういうことだ。
当然、私はGSハイムに立ち入ることを誰にも予告していないし、事件後にも一切そのことは話さなかった。それにこの事件に関して私は厳重注意を受けただけで、逮捕もされていないし、この事件があったこと自体マスコミに公表されてもいない。にもかかわらずひかりの輪の広報が私の名前を知っているというのだ。
私がGSハイムのエントランスに立ち入ったことを知っているのは、成城警察署の警察官や刑事、それにそこから連絡が行っているであろう公安調査庁だけだ。
つまり、「犯罪を犯したわけでもない一般人である私の氏名(もしかしたら住所も)を、警察がひかりの輪にリークした」以外の可能性が考えられないのである。
上述の通り、宗教団体「ひかりの輪」は、かつて一般人に対する殺人やテロ行為を繰り返してきたオウム真理教の元幹部である上祐史浩を代表とする、「テロ組織オウム真理教の後継団体」である。その規模はかつての全盛期に比べれば見る影もないとはいえ、その強い反社会性を懸念して公安調査庁の監視対象ともなっているわけである。
かつてオウム真理教は、TBSテレビ「3時にあいましょう」のスタッフから「オウム真理教被害者の会」の代表を務めていた坂本堤弁護士に関する情報を提供され、同弁護士を家族もろとも殺害し山中に埋めた*6前科を持つ。今回のリーク事件に関して、そのような組織の後継団体に教団に批判的な行動を行った一個人の個人情報を与えることがどのような危険をもたらすかを、警察は全く理解していないと言わざるを得ない。
もし、現在でもひかりの輪に殺人などの実行部隊が存在し、彼らが私を拉致し、あるいは殺害して山中に埋めるようなことがあったとして、日本国警察は一体どうやってその責任が取れるというのだろうか。そういったことが皆無であると、彼らを長年監視してきた警察は断言することができるのだろうか。
警察と公安のひかりの輪への監視活動も近年はマンネリ化し、ひかりの輪スタッフと警察官の間での立ち話も見られるという。そういったたるんだ状況の中、「警察によるテロ組織の後継団体への個人情報のリーク」という一大不祥事が発生した。警察には事態の重大さを認識するとともに猛省を促したい。
*1 国際テロリズム要覧2020 http://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/ES_E-asia_oce/aum.html
*2 日本経済新聞2019年2月28日付 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41879540Y9A220C1CR8000/
*3 産経新聞2021年5月19日付 https://www.sankei.com/affairs/news/210519/afr2105190020-n1.html
*4 烏山地域オウム真理教対策住民協議会 http://www.kyogikai.jp/
*5 この事件の少し前に聖火ランナー水鉄砲襲撃事件が発生していることとは全く無関係である。
*6 TBSビデオ問題 https://ja.wikipedia.org/wiki/TBS%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA%E5%95%8F%E9%A1%8C
掃除中に拾ったお局の髪を人形につかったり、定番の藁人形を夜勤の時に交代で打ち付けに行ったり。
少なくとも一ヶ月は帰ってこない。更年期や持病悪化もあったそうなのでもしかしたら退職するかもしれない。
でも私達は複雑だ。
人を呪わば穴二つってこれなのかなー。
今お局がこっそり溜めていた仕事で私達が過労で死にそう。
しかも医療事故の隠蔽にも関わっていたとの噂が出ていて、連日事情聴取ばかりで仕事が終わらん。
患者さんのケアにも回らないといけない。元々お局のせいで鬱っぽかったAさんは今躁鬱っぽい感じで逆に明るくて怖い。
呪いってほんとにあるのかなー。
でもやっぱりお局にはそのまま死んで欲しいな。
パワハラにならない絶妙な言い方をする上に何故か一番絡まれたBさんは切迫流産した。
産業医に鬱って言われたAさんを「こんなこと医療現場では当たり前」と罵って休職を取り下げさせたこともあった。
掃除中に拾ったお局の髪を人形につかったり、定番の藁人形を夜勤の時に交代で打ち付けに行ったり。
少なくとも一ヶ月は帰ってこない。更年期や持病悪化もあったそうなのでもしかしたら退職するかもしれない。
でも私達は複雑だ。
人を呪わば穴二つってこれなのかなー。
今お局がこっそり溜めていた仕事で私達が過労で死にそう。
しかも医療事故の隠蔽にも関わっていたとの噂が出ていて、連日事情聴取ばかりで仕事が終わらん。
患者さんのケアにも回らないといけない。元々お局のせいで鬱っぽかったAさんは今躁鬱っぽい感じで逆に明るくて怖い。
呪いってほんとにあるのかなー。
でもやっぱりお局にはそのまま死んで欲しいな。
パワハラにならない絶妙な言い方をする上に何故か一番絡まれたBさんは切迫流産した。
産業医に鬱って言われたAさんを「こんなこと医療現場では当たり前」と罵って休職を取り下げさせたこともあった。
元増田やけど、きみの「せい」が何の原因を指して言ってるのか分からへん。今回の事件?
今回の事件やとしたらおいおい、警察が事情聴取して発表されてくと思うで。だから、藤本タツキが関係してるかなんて現状では分からへん。まあ、きみが今回の犯人と直接知り合いなんやったとしたら、もしかしたら直接聞きでもしたんかな。
けど、例え原因が藤本タツキへの怒りやったとしても、それは藤本タツキに直接抗議する形で表現するもんやねん。
それはなんも関係のない人たちを切りつける理由にはどう頑張ってもできひん。
むしろ、藤本タツキが嘲笑ったって言ってるその表現を実際になぞってどないするつもりやねん。
罪の無い人を刃物で襲ったのは犯人やし、藤本タツキがそこに関係してるのかはまだわからへん。そもそも、糖質なんかも分からへん。かつ、例え藤本タツキが関係してたとしても、その不満は藤本タツキに対して適切な形で表現されるべきで、なんの関係もない人を切りつけることで皆を困らせて自分がいかに苦しかったのか分かってもらいたいみたいな幼児的な手段を選び傷つけた責任は犯人自身にあるねん。そこから逃れることはできひん。
この体験を経て、私はある理解を得た。「正しい戦略は、その時々の環境、文脈、空気によって異なる」ということだ。世の中にはいろんなルールや常識、慣習があるけれども、それらをストレートに適用すべき場合もあるし、必要ならばかなぐり捨てないといけないこともある。
アブラハム・マズロー(欲求の五段階ピラミッドの人)の『完全なる経営』にこんなことが書いてある。
‟彼らの心理学によると、最善の思考や最善の問題解決ができるかどうかは、問題を含んだ状況を、期待や予想、憶測などを交えることなく、この上なく客観的な態度――先入観や恐怖、願望、個人的な利害などを交えない、神のような態度――で見ることができるかどうかにかかっている。…(中略)…解決すべき問題とは目の前に存在する問題であって、経験によって頭の中に蓄えられた問題ではない。頭の中に蓄えられた問題は、昨日の問題であって今日の問題ではなく、また、両者は必ずしも一致するものではない‟ p.129-130
‟さらに範囲を広げれば、家庭生活、すなわち妻や夫や友人たちとの関係についても、この方法を当てはめることができる。各状況における最善の管理方法とは、各状況において最もよく機能する管理方法のことだ。どの方法が最善であるかを見きわめるためには、予断や宗教的な期待を排した、完全な客観性が求められる。現実的な知覚は現実的に行動するための必要条件であり、現実的な行動は望ましい結果を生むための必要条件なのだ。‟ p.132
マズローは、物事をありのままに見つめて、現実的に考え、行動することが成功への鍵だと言っている――と私は解釈した。
イケメン先輩は結局、条件付きの免職処分になった。黒服が嬢と付き合った場合の店への罰金50万円と、Tちゃんの彼氏への慰謝料として50万円、計100万円を返済したら辞めるという処分だ。店長は、翌日のミーティングの席において、みんなの前でイケメンに公言した。「約束を破ったら組に売る」と。店に対する裏切り行為は許さないという態度を明白にしたのだった。
これと、上の引用文がどう関係あるのかというと……この後すぐ、私と同学年のアルバイトの子が、S店の備品を盗んでいたのが判明した(立命館大学に通っていたので、以下リッツとする)。定期的に、ヘネシーなどの高級酒(そのうち廃棄される飲みかけ。キッチンに置いてある)や、午後の紅茶や炭酸水やチーズその他をくすねていたらしい。その犯行を見つけたのは、皮肉にもイケメン先輩だった。
そのリッツは、イケメン先輩の時と同じく、閉店後に一番奥の席につかされた。最初の数分は、あの時と一緒だった。坦々とした、もの静かな事情聴取だ。その近くにM主任が座っていたのも同じだ。
違ったのは、私も主任と一緒に丸椅子に腰かけていたことだ。リッツの普段の行動に関する参考意見を述べることになっていた。
別にリッツは、良くも悪くもない、普通の奴だった。口数は少なかったけど、まあ真面目かなという印象だった。サボっている様子はないし、店の女の子に声をかけるなどの御法度もないし、当日遅刻や欠勤もなかった。
でも、人間とはそういうものなのだ。裏で何をしているかわからない。人間は言葉ではなく行動で判断すべきという金言があるが、それでも不十分だ。どんな人間にも裏がある。
10分ちょっとが経過した。私の供述も上の通り述べていた。その間、盗んだ物の確認と弁償代の話をしていたように思う。お店で無くなったとわかっているものが時価8万円相当(私の個人的計算では3万円~4万円相当)とされて、ほかにも盗まれた物があると仮定して、倍額の16万円を1か月以内に弁償すれば警察に被害届は出さないという内容で決着した。
最後に店長は言った。「リッツ君。今日が最後の勤務日だ。もう来なくていい。けど、ほかのお店に情報共有とかしないから、働きたかったら別のキャバで働いてもいいよ。今回は残念だったけど、また成長したあなたの姿を見たい。それで、いつかまたお客さんとしてうちに来てくれたら嬉しい」という言葉でお開きになった。
当時の私は、「おかしいのではないか!?」と思った。当時のS店の黒服に課せられる罰金額は、記憶の限りでは以下のとおりだ。
・当日遅刻 5,000円
・当日欠勤 10,000円
・店の売上に影響するトラブルを起こした場合 時価(これが上記の慰謝料)
リッツは規定どおりの罰金を科されなかった。被害額のみだ。しかし、イケメン先輩は規定どおりの罰金のうえボコボコにされている。
当時の私は腑に落ちなかった。後に推測したことだが、店長には以下のような思考順序があったのではないか。
①リッツを殴って、25万円+16万円を請求したうえで脅す(イケメンと同じ対応)
②リッツが立命館大学の学生課もしくは先輩もしくは親に相談する
④罰金は減殺される可能性が高い。警察に通報されたら逮捕リスクあり。
上記①~④が成り立つならば、リッツに対して甘い対応をするのが正しい。そう読んだのではないか。
店長は、自他の権益に対してストレートな人だった。取れるモノはきっちり取っていく。悪く言えばがめつくて、善く言えば組織のことを考えている。
今回の件だと、警察に被害届を出してもS店には一銭も入らないし、リッツが問題行動を起こしたことをほかの店に情報共有するメリットはないし、彼がほかの店で問題を起こしても当店には関係がないし、リッツが負い目を感じていれば社会人になってからS店でお金を使うかもしれない。
※社会人になった今では、このような考え方は極めて短期的かつ自己本位的なものだと感じる。木屋町で風俗営業を行うすべての店の利益を考えれば、リッツは警察に突き出すべきだったし、他店にも情報を共有すべきだった。こうした当たり前のことができないほどに、風俗業界というのは生存が厳しい世界なのだ。
憶測だが、店長には過去に痛い経験があったのかもしれない。16万円でも十分に得をしているからそれで済ませる。そういうことだ。
一方で、イケメン先輩は、いわゆる「身分がない」タイプの社会人だった。だから、ルールに則った対応を採る(暴力のうえ正規の罰金を課す)のが正しかった。
私は今、地元の広島で地方公務員をしている。この仕事は、公平とか中立とか平等が叫ばれる業界ではあるが、確かに、市民や企業を公平に扱わないことが正しいケースがあるのだ。例えば、地元を盛り上げる活動をする部署が大きいイベントを開催する折には、成功のキーパーソン及びその所属団体に対して相応の便宜を図る。近年の例だと、「全国菓子大博覧会」や「広島てっぱんグランプリ」といったものだ。
上記の「成功のキーパーソン及びその所属団体」について、関係者を良好な立地に出店させたり、相応の額の契約を用意したり、行政内組織で要職に就けたりする(教育委員など)。
一般市民や企業を不公平に扱いたいからやっているのではない。公平に扱うのが長期的には一番正しい戦略なのはわかっている。これは、組織目的を達成するために必要不可欠な過程であると上の人間も下の人間も判断したからそうなっている。
反対に、戸籍課や税務課や医療課などの住民対応を行う部署においては、「融通が利かない」などのクレームをどれだけ食らっても、ひらすらに法律や要領に従って仕事をやり続けるのが正しい戦略ということになる。特定の人をひいきしても自治体にとってのメリットは薄いし、逆に訴訟リスクがあるからだ。
キャバクラでの仕事は正直キツかった。嫌なお客さんには絡まれるし、たまに一気飲みを要求されるし、人が殴られるのを見ることがあるし、ホールに立ちっぱなしで足の裏が痛いし、キッチンはものすごく忙しいうえに鼠とゴキブリだらけだ。
でも、勉強になった。夜の歓楽街での仕事が、今の地方公務員としての自分の糧になっている。あの時、求人情報誌を開いてよかったと今では思える。
この春から時給は1,800円になった。昇給の際、店長からは、「お前以上の時間給をもらっている大学生は木屋町にも祇園にもいない。お前を評価している。就職活動中もシフトに入ってくれ」と言われた。※多分これが目的で時給を上げたのだと思う。これまでと違い、昨年比で増えた仕事もないからだ。
この辺りから、シフトに入ることが少なくなった。これまでは、週に4日、たまに5日という具合だった。でも、公務員試験の勉強もしないといけないので週に3日の勤務になっていた。
時間はあっという間に過ぎていって、夏が終わる頃に内定を得た私は、「自由だあああぁぁ!」とばかり、夜の街で遊びまわるようになった。
私には小さい名誉があった。木屋町や先斗町のいろんなバーに行ったが、S店で黒服をしています、付け回しの仕事を任されていますと言うと、大抵の店員さんや夜の街の常連の顔つきが変わるのだ。「こいつはやばい奴だ」という顔をする人もいれば、軽蔑した視線を向ける人もいれば、逆にすり寄ってくる人もいた。
バーにはよく行ったが、キャバクラにはほとんど行かなかった。S店で働いているとわかったら追い出されるリスクがあったからだ。それに、私はKFJ(京都風俗情報掲示板)のお水板において、当時木屋町で№1とされていたS店で何年も働いている。お客さんに「おごってやるから来いよ」と誘われて他店に行ったことはあるが、なかなか満足がいかなかった。S店の子に接客されたことはないが、それでもわかる。歴然とした『差』があった。
今思えば、承認欲求というやつが足りていなかったのだろう。シロクマさんの本で言うと、「認められたい」というやつだ。当時は、自分をスゴい奴なんだと思いたかった。実際はぜんぜんそうではなかったし、逆に、本当にスゴい奴ほど自分を大きく見せたがらない。
そういう人は飽きているのだ。ちやほやされることに。褒められることに。子どもの頃から、自分のパフォーマンスの高さを周りに認められるのが当たり前だった。だから、調子に乗ったり、偉ぶったりしない。それだけのことだ。
11月になった頃だった。M主任が退職することになった。時期は来年の3月。田舎に帰るらしい。
トラブルを起こしたわけではない。円満退職だ。夜の業界で7年も働けば、体はボロボロになる。普通は3年もてばいい方だが、M主任はそこまで働いて、十分すぎるほどの結果を出していた。私は「今までありがとうございました」と、お店の終わりに2人だけになったところで伝えた。
この時のM主任の言葉は脳裏に刻んであるし、忘れた時のために日記にも取っている。重ねて言うが、この記事でところどころの描写がやたらと詳細なのは、大学生当時の日記をベースにしていることによる。
「おう。〇〇ちゃん、お前もな、元気でな。ええけ?(※方言が入っている。いいか?の意味)〇〇ちゃん、仕事ができる奴になれよ。仕事ができんかったらな、人間は終わりやぞ。どこに行っても生きてかれんようになる。仕事だけはな、ちゃんとやって一流になれよ。お前もこの店で何人も見てきたんやないけ、どうしようもない根性なしの連中を。ええけ? お前は悪い奴じゃない。でもな、どっか気が抜けて、間抜けなところがある。そこが好きなんやけどな。とにかく、仕事ができるって言われるようになれ。俺からお前に言えるんはそれだけや」
呑みに行きましょう、と誘うつもりだった。でも、誘えなかった。私の中で、M主任はそれだけ偉大な存在だった。神だった。神を呑みに誘うことはできないのだ。
その翌日。営業時間中の夜10時くらいだったか。店長ともう1人、灰色のスーツを来た人が紙袋を携えてS店にやってきた。「ちょっと今時間あるか」と、上の階にある事務所に連れて行かれ、その人から名刺を渡された。
このS店の母体である芸能事務所の人だった。取締役ナントカ部長だった。ソファに座らされてからの話の内容は端的で、「私を社員として採用したい」という話だった。
部長の話には説得力があった。説得力の要諦とは、ロジックにあるのではない。本人が持つ、その考えや判断への自信や信仰、そして意見を伝える際の胆力や粘りの強さが、本人の口を通して迫力となり、相手に伝わることで説得力が生まれる。
・公務員はこれから厳しい時代になる。お金の問題ではない。本質的な意味で割に合わなくなる。
・あなたが就職する自治体の初任給は16万円だ。うちは基本給だけで26万円出す。
・S店での働き次第では本社に来てもらう
・日本の芸能界を盛り上げる一員になってほしい。それだけの才がある。
・お客さんも仲間もあなたを支持している
今思えば典型的なリップトークだ。なぜかといえば、上の内容の半分以上は私をほかの人に置き換えても、ちょっと修正するだけで通用するからだ。
でも、当時の私は大学生だった。この時すっかり、S店で働こうか、それとも地元で公務員になろうか迷い始めていた。もし、これが公務員試験を志す前であれば、この会社で働いていたかもしれない。
特に最後にやつ。あれにはやられた。部長はソファの脇に置いていた紙袋から手紙を取り出した。十枚ほどの。小封筒に入った、そのひとつひとつを私の前にゆっくり差し出すと、それが――すべて嬢からの手紙であることがわかった。
「〇〇君。試しにひとつ開けてみて」
ある嬢からの簡潔なメッセージが入っていた。「これからも〇〇さんと働きたい」「〇〇さんに店長になってほしい」「卒業してもいなくならないで」。こんな言葉が認められていた。
「もうわかるね。〇〇君はみんなに慕われている。社会があなたを認めている。こんな大学生、ほかにいないよ」
『雇用契約書』とあった。裏面には雇用条件的なものが書いてある。これを片手に取って私は、ボールペンを握りしめた。
右上に日付を書いて、ずっと下の方にある住所欄に個人情報を書き始めようとする。ボールペンをあてどなく前後に振って、書くのを静止しようとする脳と、書くのをやめたがらない右手が小さいラリーを繰り返していた。
私は思い切って、ボールペンを紙面に押し付けた。そして、インクが紙に付いた途端――心臓から流れ出た血が、冷たい何かとともに押し戻されて、再び心臓へと逆流するのを感じた。私の指先は動くのをやめた。
その場で立ち上がって私は、「残りを読んでから決めます」と告げて、手紙を抱きかかえてS店に帰ろうとしていた。事務所の扉を開けて出る時、舌打ちのような音が響いた。
手紙のほとんどはテンプレートだった。ひな形がきっとあって、嬢はそれらを真似ている。そういう罠だった。手紙はぜんぶで11枚あって、その中でテンプレでないのは3通だった。そのうちひとつを挙げると、ヘタクソな文章で、私のこれまで4年間の行動や仕草がつらつらと書いてあった。
私に対するポジティブな言葉も、ネガティブな言葉もあったけど、この3通の手紙には共通していることがあった。「地元に帰っても頑張って」。そんな内容だったかな……? 初めに読んだ1通はTちゃんからだった。
彼女はハーフで、日本語がそこまで上手くはないのだが、それでも一生懸命な筆跡だった。何度かミスって修正液で消した跡があった。Tちゃんらしくて、不器用だけど愛が籠った手紙だった。
一昨日それを読み返した時、ふいに涙が零れた。
あの部長の姑息な手を見抜いてから一週間後、私は2月末でS店を辞める旨を店長に告げた。残念そうにしていたけど、これは当然の結果なのだ。
私は地元で公務員として働く道を選んだし、芸能事務所だって私が本当に欲しかったわけではなく、おそらくはM主任の代わりとしてだった。もし本気ならば、大学4年生の春までには声をかけている。
最後の勤務日は静かだった。普通の職場だと、辞める人には花束贈呈とかがあるんだろうけど、S店にそういった慣習はない。ただ普通に、最後の客が帰って、照明の光度を上げて、ホールとキッチンを片付け始めて、嬢がみんな帰って……。
最後に、このS店に初めて来た時に見た、この分厚い扉を閉める際に、「お疲れ様です」と小さく呟いた。私は、夜が明けてほんのりと水色の空が見える河原町通りへと歩みを進めていった。
(次が最後です)
そこから先は思い出したくない。身分証を出して、「あなたがしたのはキャッチという犯罪行為で~」と路上で警察官2名から懇々と説諭を受け続け、彼らが帰った後に、暗い顔をした店長とM主任が地下のお店から出てきて、「ちょっと来い」と事務所に呼ばれ……面接の時のソファに座った私と、左隣に主任がいて、店長は斜めの位置にあるパイプ椅子に腰かけていた。
「すいませんでした」
店長はパイプ椅子をちょっとずらすようにして身を乗り出した。ガラス張りのテーブルの上にあった煙草とライターをガチャガチャと手に取る音がする、と思った時だった。
「誠に申し訳ありませんでした!!」
M主任が謝ったのだ。直後、「私の責任です」という小さな声が聴こえた。
・あなたが警察に払う罰金は50万円。S店とM主任で25万円ずつ肩代わりする
・もう二度としないように。次はクビにする
といったものだった。
優しい人達だった。私のような盆暗に対して、ここまで優しい嘘をついてくれたのだから。今ではわかる。あの時、警察は私とS店を指導するだけで済ませてくれたのだ。
状況が違ったら、普通に逮捕されていたかもしれない。あの場で解放されて、しかも私が罰金の納付書をもらっていないということは、そういうことなのだ。
M主任には頭が上がらない。もし、もう一度会うことがあったら何万円でもおごるし、「百万円貸してくれ」と言われたら迷ってしまうに違いない(貸さない)。
なお、当時のキャッチ行為の規制基準においては、路上の客に声をかけた後に何メートルも付いていったり、身体に接触しない限りはセーフだったようだ。一部の悪質な店は、警官の目が届かないビル内で付きまといや身体接触などをしていた。
大学の講義に出ながら、S店でのアルバイト(キッチン、ホール、店の前に立つ案内係)に週4でシフトに入る生活を続けている間に2年が過ぎた。単位はけっこう落としていた。履修しても半分ちかくは落とすので、できるだけ多く登録するようにしていた。教職課程も取っていたため、割とぎりぎりで卒業した感がある。
この年が転機だった。キャバクラの黒服の仕事にのめり込んでいた私の時給は、この年の秋に一気に1,600円に上がった。理由はシンプルで、『付け回し』というポジションを任されるようになったからだ。
すでに私の先輩は、店長とM主任とイケメンだけになっていた。後は、2人の社員と2人のアルバイトが私の後に続く。ここまでの間で、お店で働き始めたのは10人以上はいただろうか。みんな、あっという間に辞めていった。
この業界は、はっきりいって申し訳ないのだが、中途半端な人生を送り続けた挙句に流れ着いた人間が多い。負け癖がついている。だからすぐに諦めるし、ふてくされるし、誘惑に負けて嬢を口説いたり、物を盗んだりして――制裁を受ける(後述)。
『付け回し』の仕事をざっと説明する。要すると、女の子をどの席につけるか決める人だ。スナックだとチーママがやっている。併せて、各席の料金状況をチェックする。フロアの中央から客席を常に見渡して、嬢の配置をどうするか考え続ける。
このポジションは、自分の成果を数字で把握するのが難しい。というのも、いわゆるABテストというやつができない一発勝負系の仕事なので、自分が決めた配置が果たして正しかったのかすぐにはわからない。
でも、時間が経つとわかる。ちゃんとした人が付け回しをやると、ゆっくりと、じんわりではあるが、お客さんが増えていく。一見さんがまたお店に来てくれ、月に何度か来てくれるようになり、やがては常連になる。店長やM主任のレベルだとそうなる。
そのお客さんに嬢を付けた時の反応を1回1回ちゃんと見ていて、それに応じて次はどの嬢を付けようかを思案し、試行錯誤を繰り返し、やがてそのお客さんの嬢の好みを理解するようになるからだ。それだけではなく、お客さん同士の空気を察して、喧嘩が起きないようにする心遣いも忘れない。
お酒が入っているうえにそういう気質の人が多いので、しょっちゅうとは言わないが喧嘩が起きる。例えば、当時のM主任は、カラオケでほかのお客が歌えないほどに曲を入れまくる人がいると――それとなくデンモクを操作して曲が流れる順番を変えたり、嬢を利用して歌わせないように場をコントロールしていた。
女の子の側でもそうだ。
彼女らもプロだが、やはり年若いので、「嫌な客」「苦手な客」「うざい客」みたいなものがある。反対に好みの客もあるわけで、一流の付け回しをする人は、そのあたりの機微を理解しながら客と嬢との最適な組み合わせをシナジーとして導き、実行に移せる。
私はその域に達することはできなかった。私が付け回しを任される時というのは、店長か主任がそのポジションを離れざるを得ない時だけだった。
実際、私はあまりセンスがなかったと思う。お客さんに怒られてばかりだった。私が付け回しをしていた時の一見さんのリピート率は2人の先輩に比べて低かったし、お客さん同士が喧嘩に発展する前に止められないこともあった。
ある時などは、あるお客のグループ(今でいう半グレ風の人達)が、堅気な感じのお客を店内で突然ボコりはじめた。カラオケのトラブルだった気がする。
その半グレは堅気の若者のところへ行き、いきなり胸倉を掴んで殴りつけ、引き起こし、ガラス卓の上に叩きつけた。そして、足で何度も胸や腹を踏みつけた――近くにいた嬢が絶句して吐き気を催していた。別の気丈な子が肩をさすって慰めている。
また別の大柄の男が、殴られた男を引きずり起こし、その頬に一撃を加えて地面に引き倒したところで私が止めに入った(判断が遅い!)のだが、ヒートアップしていた彼らを抑えるのがやっとだった。店長やM主任だったら、リアルファイトになっても目線と対話だけで事を収めるし、そもそも喧嘩になることがまずない。
結局、私が物理的な意味で間に入って無理やり止めた。もみ合って、もみ合って、「もうやめてください!」と半分キレながら叫んで、それでようやくなんとかなった。殴られた人は、もちろん料金なしで帰ってもらった……後で警察官が店に事情聴取に来ることもなかった。
私には付け回しの才能がなかった。『一応できる』というだけの交代要員であり、それ以上でも以下でもなかった。嬢達は、私を憐れんでか、明らかにおかしい付け回しに対しても苦情を言ってこなかった。一部の子は、「あのお客さん私に飽きてたよ」とか、「なんで今代わらせたの。指名の話してたのに」とか、「あの子が芸能人の卵だから楽なお客さんにばっかり付けてるの?」とか、ちゃんと本音を伝えてくれた。
でも、ほとんどの女の子(特に20才以下の若い子や、逆に30代半ば以降の子)は、私を憐れんでか、苦情すら言ってくることがなかった。信頼されていなかったのだ。
さて。そろそろ(後述)の話をやりたい。
この年の秋だった。イケメン先輩が罪を冒したのは。私の価値観のターニングポイントになった体験でもある。
お店の女の子、しかも上位数人に入るほどの人気で、そのうえS店のお客さんと付き合っていた嬢(以下Tちゃんとする)と交際していたことが判明したのだ。
なぜわかったかというと、怪しいと感じたそのお客さんがTちゃんの携帯を盗み見たところ、イケメンとの睦言のやり取りが画面に映っていたということだ。噂だから、真実かどうかはわからない。でも、浮気はバレてしまった。
嬢との恋愛は大きな罪だ。キャバクラなどにとっての女の子というのは、大事な商品なのだ。マクドナルドでいえばハンバーガーだ。店員がハンバーガーを盗んで食べたら処分されるだろう。そういうことだ。
しかも、前回の記事で、S店というキャバクラの母体が芸能事務所であることを述べた。Tちゃんはそこに所属している子だった。今でもたまに、テレビのバラエティで見ることがある。その度に、「あんた成長しすぎやろ!」と唇を尖らせて食い入るように番組を見ている私がいる。
この時の私や、私の後輩達は、このことが問題になったのをイマイチ信じることができなかった。というのも、イケメンとTちゃんとの間柄は、スタッフ内では公然の秘密だったからだ。お店が終わった後のミーティングでは、イケメンに対するTちゃんの態度が違った。なんというか、口喧嘩がこなれているというか、恋人同士が醸し出す雰囲気だった。
勤務中もそういうことがあった。Tちゃんはお酒に弱かった。カクテルならば、どんな嬢であってもリキュールを一滴か二滴しか入れない。でも、ボトルやシャンパンとなるとそうはいかない。ごまかしが効かないのだ。特に、シャンパンを卓の上で薄めるわけにはいかない。
そんなこんなで、稀に、酔いつぶれたTちゃんが私のいるキッチンに入ってきて、ビア樽(ビールの詰め替え用のタンク)に腰かけることがあった。うわごとを呟いたり、ボウっとしたり、どこか一点を見つめるようにしたり、急にキレだして携帯電話をごみ箱にシュートしてトイレに駆け込んだりしていた。
ある時、Tちゃんが携帯をごみ箱に叩き込んだ後、イラついた声を上げ、キッチンを飛び出そうとした時だった。ガンッ!という音とともに、キッチンの出口にある真四角の排水溝にはまり込んでしまった。ガンッ、というのは排水溝の鉄板が跳ねた音だ。
イケメン先輩の動きは速かった。いつもであれば、廊下に立っている嬢が貧血で倒れたりしても、涼しい顔をして対処に入るのだが、Tちゃんが排水溝にハマった時は違った。「すぐにキッチンのドア閉めて!お客さんに見える」と血相を変えて対応に入ったのだ。
イケメンの声と同じタイミングで私は、キッチンのドアを閉めにかかっていた。酩酊状態で泣き出したTちゃんを救う(掬う)役目はイケメンに任せて、懐中電灯を点け、排水溝に落ちたTちゃんの私物を拾い上げる。
その際、イケメン先輩が、Tちゃんに「馬鹿。気いつけや」と優しく呟いたのを覚えている。京都弁だったのでうまく思い出せない。
だからこそ、イケメン先輩が犯した罪をすぐには意識できなかった。
ある日の営業終了後だった。暗かったホールの照明の光度が上がって、店の片付けが始まって、嬢がみんな帰って、皿洗いや店内清掃もみんな終わった頃に、「そこに座れ!」という声が響いた。店長がお店の入口からやってきて、片付けをしていたイケメン先輩を一番奥の席に座らせたのだ。傍らには主任もいた。
私や、ほかの役職のない社員やアルバイトは店を出ていこうとしたが、店長が「いいからそこにいろ」と言った。私は、扉を1枚隔てたキッチンにいた。声はよく聞こえなかった。扉の隙間から、奥の席で事情聴取を受けるイケメンの後ろ姿が見える。
細々とした声で、Tちゃんと付き合っていた事実を説明していたと思う。事情聴取は5分も経たないうちに終わった。というのも、「オメー何してんだよ!しかも客の女と付き合って。おい!ふざけんな」と、急に店長がヒートアップしたかと思うと、ガラスの卓にあった灰皿を、イケメンの顔めがけて投げつけた。
おそらく口周りに当たったのだろう、イケメンが顎のあたりに手をやった途端に店長は立ち上がり、イケメンの顔を殴打した。M主任が丸椅子から立ち上がって止めに入るも、店長に突き飛ばされて断念した。
床のカーペットに仰向けに倒れたイケメンの上に跨り、店長が何度も何度も、その端正な顔に鉄拳をぶつけていた。イケメンは、「すいません、すいません!」と謝り続けていた。
耳に入っていないかのごとく、何十発もイケメンを殴り続けた店長だった。ある瞬間に、ふと立ち上がって、イケメンの体をサッカーボールみたいに思いっきり蹴飛ばすと、「ボケが」と呟いて、私達のいるキッチンの横を通って近くの席に座り、どこかに電話をかけ始めた……。
その後、イケメンが泣きはらしながら、血だらけの顔でホールをうろついていたのを覚えている。
(続きます)
スイミングは土曜日で学校が終わった後に両親がスイミングスクールまで車で送り迎えにきてくれていた
自分ん家とおじいちゃんおばあちゃんの家は車で10分位の距離で
スイミングスクールはおじいちゃんおばあちゃんの家の近くにあったので
昼のレッスンが終わると家族全員で寄っていって
そのまま夕飯を食べるだの外食に出かけるだのしているのが土曜日の過ごし方だった
だので、夕食までは大体1、2時間があって
祖父母と両親が大人の話をしていて退屈な時は近所を散策したりしていた
家から車で10分の距離の場所といっても学区も違えば未踏の土地であり
背後に祖父母の家があるとはいえ普通の住宅街でもかなりの冒険だった
その中でもとりわけ自分を夢中にさせたのは少し歩くと電車の踏み切りがあった事だった
けたたましくも心地良い音が規則的に鳴るのは何度見ても飽きなかった
しかも、そのあと電車が轟音で走り去っていくのは大迫力だったし
中に乗ってるたくさんの知らない人を見れるのも好きだった
そんな踏み切り観察も何週もすると飽きてきて、同時に恐怖も薄らいできて
踏み切りの次は線路に興味は移っていった
サビだらけなのに電車が乗って走ってる場所だけ鏡のようにツルツルで
同じ大きさの白い石が散りばめられてるのも子供の想像力を刺激した
そんなある日、いつものように電車が通過しているのを眺めていて
「線路の上に物を置いたらどうなるんだろう」
まずは手近にある白い石でも置くかと思ったが
その頃丁度ワイドショーで線路に置き石をするカラスが話題になっていて
それを思い出し石はまずいという判断になった
なのでもうちょい小さめの、目立たない石を探して置いた
電車が通過するのを待った
通過した後にどうなっているのかという好奇心と
電車の大轟音がスパイラルし、否が応でもテンションをかき立てられた
しかし、電車が通過した後に近くに行ってもなんの形跡もなかった
おそらく弾き飛ばされてしまったのだろう
落胆した
そして何を置けば驚くべき結果が得られるかに考えを巡らせた
次はポケット入れていたSDガンダムの赤いゴム人形を置いてみた
弾力もあるので期待する結果が求められるだろうと思ったのだ
そして再び電車が来るのを待ち、通過するのを見届け、遮断機が開いてダッシュで現場に向かった
大成功だった
ガンダムは電車に跳ね飛ばされる事なくその場に鎮座ましましていて
想像を超えるひしゃげ方をしていた
線路の上にパン生地を伸ばしたようにガンダムだったものが伸びていて
想像した結果が得られたのだからもう潮時だと自分でもわかっているが
その次を見たいという欲求が膨らんでいくのだ
これを重ねて置いたらどうなるだろう
テレビで1円を素手で曲げているプロレスラーがいたのを思い出した
離れる
待つ
それが大轟音になり目の前を巨大な質量の鉄の塊が通り過ぎていく
高鳴る鼓動
怒号
後ろを振り返ると母が立っていた
怒られる
いや待ってください大切な研究がああお母さん遊びじゃないんだよ
一生懸命事の次第を説明する線路の上に石を置いたりしててそれを見てて…
「あんた!何やってんの!」本気の怒声
呆れたような悲しそうな顔で服を引っ張られる
これは完全に怒ってる人の引っ張り方だ
死ぬ前に見たかったなぁ重なった10円玉と5円玉がどうなったかぁ
実際に行われたのは事情聴取という名のもとに行われる糾弾であった
テスト時に使った石の形状やカラスの置き石の報道を受けて安全性に配慮したという風に説明しようとすれば
という有様で既にこの時点で私はしゃくり上げながら泣いていたのもあるが
そして時は流れ私は自転車を買ってもらう年齢になり
自分だけでその踏み切りに行けるようになっていた
あれ以来その踏み切りを車で通過する度に心の傷が痛み
ようやく衆人環視のない状況であの日の実験の結果を見届ける事ができる
私は踏み切り近くに自転車を留め、握った10円玉と5円玉の感触を確かめていた
あの日あの場所と同じ線路にきちんとコインの中心を合わせて2枚を置いた
離れる
待つ
それが大轟音になり目の前を巨大な質量の鉄の塊が通り過ぎていく
高鳴る鼓動
何もない
おそらくどこかに飛ばされたに違いない
周辺を隈なく探すが見つからない
電車が過ぎ去ってまた戻って探すその繰り返し
日も落ちかけていてその日の捜索は中断したのだが
何度目だったろうか私は別のある物を見つけたのだ
信じられないものを見つけた
50円玉が1枚そこにあったのだ
信じられないが世の中にはそういうことが時として起きる
起きるのだ
・一人目
一人目は学生時代、通販の受信専門コルセンで働いていたとき。住所の確認を繰り返している途中にボン、ゴトンっと鈍い音とともに会話が途切れてしまった。通話自体は続いていたのだで「歩きながら電話でもしていて落としちゃったのかな?」としばらくそのままに。しかし雑音は聞こえるものの一向に話し声が再開しないので、どうして良いかわからずリーダーへ報告した。リーダーが代わるも相変わらず電話が遠くて雑音と、なぜか水の滴るような音しか聞こえない。仕方なく「申し訳ございませんが、お電話が遠いようですので少し後にかけなおさせていただきます」と切断。その後何度かかけたが、着信はなるものの誰も電話に出ることはなかった。
その一週間後だったろうか。その電話番号の家族だという方から問い合わせがあった。ながら運転だったそうだ。私が電話をかけていた相手は運転しながら携帯電話を使用していたのだ。電話に気を取られ反対車線に飛び出てしまい、対向車と正面衝突したそうだ。私はなんと言ってよいかわからず、ひたすら「そうですか」としか言えなかった。その後一応警察からも連絡があり、軽い事情聴取を受けた。即死だったそうだ。
・二人目
二人目はフリーター時代、リコール専門のコルセンで夜勤をしていたとき。分類的にしょうがないとはいえその人は開口一番からものすごく怒っていた。製品や派遣依頼元の会社へのクレームはお受けするのだが、人格否定などは基本的に毅然とした態度で返して良いことになっている。その人も最初こそ製品についてのクレームだったが、次第に「殴りこんでやろうか」「今すぐ謝りにこないとお前を殴るぞ」など明らかに常識の範囲を超えていた。なので「こちら窓口ですので個人への暴言は受け付けられません。これ以上続くようでしたら警察に連絡いたします」と返した。たいていはこれで切れるか謝罪になるかなのだが、その人は何故か俄然ヒートアップした。というよりどうやら酔っ払っていたらしい。だんだん呂律が回らないような叫び声になっていった。ここでこちらから切っても良かったのだが、録音もしていたことだしどうせなら警察にきちんと対応してもらおうとそのまま話を続けていた。最初からちょうど40分が経過したときだったろうか。「あぁ!?」という奇妙な叫び声とともにいきなり不通になってしまった。同僚や先輩曰く「どうせ酒でも回って寝落ちたんだろう」とのことで、かけなおすこともせず、後日録音データを警察に持ち込んだ。脅迫にあたるとのことだったが、いきなり被害届を出すよりもまず注意勧告をしてもらおうと言う話になり、その場で警察に電話をかけてもらった。出たのは娘さんだった。「実はそちらの〇〇さんについてなのですが、」と言ったところで警察官がこちらに向き直った。しばらくした後、娘さんが直接謝罪したいとのことで代表で取り次いだ私が電話にかわった。どうやらあの日、酔っ払った勢いで電話をかけたクレーマーはそのままの勢いで死んだらしい。くも膜下出血だったそうだ。娘さんはとても控えめな人でひたすら謝罪をされておおり、そこまでされては私も同行してくれた先輩も警察の人も何も言えることがなかった。詳しい原因がわからないが、不摂生に高血圧とアルコールと興奮が重なった結果なのではと今は思う。私が当時担当していたのは某家庭用ビールサーバーのリコール窓口だったからだ。
・三人目
三人目は社会人になりたてのとき。ちょうど事務の子が不在で、偶然事務室に用事があって寄った私がとった電話だった。他部署の人間が出たところでどうしようもないのだが、お待たせするのもどうかと思い出たのが運の尽きだった。その人は迷惑電話の常習だった。といってもどうやら小学生低学年くらいの子供がイタズラでかけていたようで、いつも適当に聞こえる奇声に相槌をうって切っていたそうだ。たとえ迷惑電話といえど相手が子供なのでむしろ微笑ましいくらいの対応だったそうなのだが、私はそれを知らなかった。無知故に「イタズラなら切りますよ。あまりに酷いなら営業妨害で警察に連絡します」と言ってしまった。すると少し間があった後ガチャンと無音で切れた。その数日後だったろうか。その人が交通事故で亡くなったそうだ。その人は軽度知的障害を持つ成人男性だった。どうやらうちの会社に電話をかけることを一種のルーティーンのようにしていたらしい。けれど私が出て断ってしまったせいでそのバランスが崩れたそうな。気持ちが不安定なまま「外の電話からならかけてもいいのでは?」と思ったその人は、親の静止も振り切っていきなり外に飛び出したところをバイクにぶつかって亡くなったらしい。その人の親はずっと私が殺したとロビーで泣きわめいていた。周囲は事情を汲んで優しくしてくれたが、結局その会社はコロナの影響で潰れてしまった。
<プロローグ>
その男は一度死んだはずだった。
満月は徐々に厚い雲に覆われ、辺りを漆黒の闇に塗りかえていった。
男の傍らには、無残にひしゃげたラップトップの残骸があった。
一瞬の激しい通り雨が降ると、ラップトップは怪しげな閃光を放ち、男はその刹那小刻みに身体を揺らした。
一度は止まってしまった男の鼓動が再び刻み始める。
男は自分の置かれている状況を最初は理解出来なかったが、身体中の痛みがそれを思い出させてくれた。
男の視界の先には数刻前に彷徨っていた山道があったが、それは既に崩壊して形を留めていなかった。
ーーーぼくは、復讐してやる……
ーーーぼくを馬鹿にした全てに……
男はゆっくりと動きだすと、拾ったハンチング帽を大事そうに抱え、闇の中に消えていった。
厚い雲が晴れた満月は、紅く鈍い光を放っていた。
つづく
まだ飲み続けているのは、NPO・TWOれいほくのスタッフ里木だった。
NPOは先日代表理事が殺害されたばかりだったが、何事もなかったかのように平常運転だった。
ーーーくそ、なんでこんなとこに俺は居るんだ?
ーーーちょっと夜風にでもあたるか。
そう考えてシェアハウスの外に出た。
周囲には他に何もない。
このど田舎の暮らしは最初こそ楽しかったが、段々と生産性のない連中との生活が嫌になりつつあった。
玄関の外階段に腰を掛けると、ポケットから煙草を取り出してジッポーで火を着けた。
暗闇に一筋の白い狼煙が上がると、背後に人の気配を感じた。
里木は振り返らず、声を掛けようとしたその刹那、背中に鋭い痛みを感じた。
熱く焼けるような痛みが次第に広がり、続け様に肩、腕、首筋と刺すような激痛が走る。
ーーーな、なんだ、何が起こってる?!
彼は碌に抵抗する暇も与えられないまま、階段から無様に転げ落ちた。
転げ落ちながら仰向けになった彼は、初めて背後の主の姿を捉えた。
部屋からの逆光で影となった背後の主の顔は、深く被られた帽子でよく見えなかった。
そして、今まさに影は鎌のようなものを振り降ろそうとしていた。
つづく
彼女は目覚めると里木が居ない事には気づいたが、普通に家に戻って寝たのだろうと思い、不思議に思わなかった。
リビングには、NPO職員の森と石渡、そしてムツミの3人だけだった。
森と石渡の2人は床に転がって寝息を立てていた。
シェアハウスにはムツミ以外に3人の住人がかつてはいたのだが、NPOの代表理事の谷野が惨殺された事件後しばらくして、事件のショックからかムツミ以外全員、シェアハウスを出て行った。
ムツミも一度は去ろうとしたが、NPOの皆が余りにも不憫だったので、一人残ったのだった。
彼女が偶然にも遺体を発見したのは、起きて自室に戻ろうとした時に、ふと玄関の扉を見ると鍵が掛かっていたからだった。
扉は両開きの二枚扉で、鍵は二枚扉の合わせ目に取り付ける閂状の鉄の棒が装置から飛び出るタイプである。
その鍵は遠くからでも開閉がわかるように開いていると青に、閉まっていると赤に光るようになっていた。
その鍵が赤く光っていた。
彼女は、里木はここの鍵は持っていないから外に出たなら鍵が掛かっているのはおかしいと思った。
彼女が玄関の鍵を開けて外に出た瞬間、真っ赤な階段と恨めしそうに天を仰いで絶命している里木の姿を捉えて、あの黒い虫を見つけた時のように悲鳴をあげた。
つづく
遺体の検死や現場の捜査が行われ、事件当時にシェアハウスに居たムツミ達三人は、リビングに集められ事情聴取が行われた。
当夜は三人共に泥酔してつぶれてしまったため、当然ながらアリバイもなかった。
「そう言えば、玄関前に防犯カメラがあります。もしかしたら何か映っているかも。」
森がそういうと、玄関内にあるボックスに入った装置からデータを取り出し自分のラップトップで映像を再生した。
カメラは玄関前のアプローチを映したものだったので犯行の瞬間は捉えていなかったが、真夜中に後ろ姿の人物が一瞬映っていた。
ハンチング帽の男、概念隼人は数日前から行方が分からなくなっていた。
クラインガルテンとその周辺を探したところ、山道が崩落した下に彼のものらしき壊れたラップトップが残されていた。
しかし、そこには彼の姿はなかった。
現場周辺の数日の捜索も虚しく、一向に足取りは掴めなかった。
つづく
<モノローグ>
片一方は鎌を振り上げ、もう一方に襲いかかっていた。
しばらく攻防が続いていたが、数分の後には抵抗も虚しく、襲われた側の影が無残に崩れ去った。
戦いに勝利した影は、相手が絶命したのを確認した後、物言わぬモノとなったそれを引きずり、近くの崖から落とした。
崖下には川が流れ、その濁流にかつて人だったモノは呑まれ消えていった。
争いの中で落ちたハンチング帽を拾い上げた鎌を携えた影は、それを大事そうに抱えて急いで山の中を駆け出した。
辺りは再び静寂に包まれた。
つづく
シェアハウスの面々が解放され、捜査員が引き上げた時にはもう午後8時を回っていた。
彼らは遅い夕食として作り置きのカレーライスを食べ、落ち着いた後も、なんとなくリビングに残っていた。
暫くは三人とも黙ったままだったが、森が口火を切って話し始めた。
「あの概念さんが里木さんを殺すなんて信じられない。確かに変わった人だったけど、人を殺すような度胸とかなさそうな人だったし。
ムツミが少し考えて切り出した。
「あの、気になってることがあるんです。朝、私が気付いた時に玄関は施錠されてたのですよね。おかしいと思いませんか?」
石渡が訝しげに聞く。
「なぜ?」
「里木さんは鍵を持ってないのにどうやって外に出たの?」
あっと言って、森と石渡は顔を見合わせた。
「何のために?また、ここに来るため?
あと、概念さんはどうやって鍵を手に入れたの?私たちがいる隙にってこと?」
「里木さんが持って出たのかな。物騒だし施錠しておこうとして。」
「それでも、概念さんが持ち去る理由がないと思う。私たちも殺すつもりなら分かるけど。」
ムツミはそう言って背筋が凍るのを感じた。
つづく
シェアハウスのリビングでの話し合いは、結論が出ないまま御開きとなった。
遅い時間だったので、森と石渡もシェアハウスの部屋に泊まることになった。
ムツミは、凶器を持ち去られていることを考えると、やはり里木が防犯のために外から鍵を掛けた後、概念に殺されて鍵を奪われたと考えるのが妥当だとは思った。
だが、少し引っかかることはあった。
そこに辿り着きそうな矢先、焦げる匂いが漂ってきた。
おかしいーーー
彼女は鍵を開けて外に出ようとしたが、扉はビクとも動かなかった。
慌てて扉を激しく叩く。
大声で叫んだが、誰からの応答もなかった。
そうこうしているうちに、熱い空気と火花が部屋に舞い込んできた。
やはり燃えている!
つづく
<作者からの挑戦状>
ここまでの話で犯人を推理する全ての手がかりは与えられている。
また、そう考える根拠はどこか。
また、シェアハウスの失火は犯人の放火によるものであり、里木の殺人の犯人と同一人物である。
健闘を祈る。
<翌日の高○新聞 朝刊>
X日未明、本山町のシェアハウス「つんく」木造二階建てyyyy平方メートルが全焼し、焼け跡から2人の遺体が見つかったほか、男性1人が軽傷を負った。
軽傷を負った森さんの話によると、遺体は
石渡文太さんと永島ムツミさんと見られ、県警では現在身元の確認を急いでいる。
<森の回想>
厚い雲が晴れた満月は、紅く鈍い光を放っていた。
森は、ハンチング帽の男に悪態をつきながら、後をゆっくりと追った。
ーーーぼくは、復讐してやる……
ーーーぼくを馬鹿にした全てに……
ーーー先ずは、あんただよ!
御在所岳という山はとても素晴らしい山なんですが、道迷い、遭難、滑落事故が多数起きている山でもあります。かくゆう私も、先日の登山の際にまさかの道迷いで、なんと山岳警察に救助をお願いする事態になってしまったのです。
山登りで道に迷って遭難するなんて、こんなみっともなくて恥ずかしい話を増田に書くなんて、やめようかどうしようか迷ったのですが、どうしても書かずにいられない思いがいろいろあったので、批判されるのを覚悟で書こうかと思います。
御在所岳の中道というルートを下山していたときです。7合目を過ぎて少し行ったあたりに、ロープが張られている個所があります。
この先に大きな岩があって、キレットになっているのですが、私はそれに気づかずこの岩の先には道は無いと思ったんです。どちらに進んでいいかわからなくなり、岩を登ってみたりもしたんですが、登山道らしきものを見つけることができず、なんとなく下れそうな坂道へ入って行ってしまいました。
登山ルートは、その岩を登って超えていかなければいけなかったのですが、事前の知識もなく地図も持っていなかったために、誤った道へ行ってしまったのです。
そのまま、道なき道を下って行き、途中で「絶対におかしい」と思いながらも、すでに引き返すことができないくらい進んでしまっていました。
山って、怖いですね。改めて思いました。
ちょっと登山道から外れると、なかなか元の場所に戻れないんです。特に坂を下ってしまうともう登れない。
ずるずると、滑るように斜面を下っていくと、なんとなく道っぽくなっている場所があったので、これは!と思いその道っぽいところを進んでいくと、頭上の高いところにロープウェイが行きかうのが見えました。
なんとなくほっとしてそのまま道っぽいところを進んでいきましたが、その先にあったのは断崖絶壁でした。
これはもうだめだな、これ以上進んだら死ぬ。
と思いました。まだ時間帯はお昼の15時くらいで、ロープウェイからは時々人の声が聞こえてきて、天気も良くおだやかな山の中でしたが、私は死ぬか生きるかの瀬戸際にいる気持ちでした・・・。
意を決して、とりあえず御在所ロープウェイの代表電話に電話してみたところ、遭難したのなら警察に救助依頼をしてくださいとのこと。
携帯電話があって良かった。
それはともかく、そのあと救助されたのですが、山岳警察の救助後の対応がとにかくひどかった。
一人の方は「けがはないですか?」と聞いてくれましたが、もう一人の方は、現れるなり横柄な態度で「だから単独で登山するとこうゆうことになるんだと」と説教されました。
そして、「歩きながらの事情聴取なんて疲れるから、もう署に連れてくわ」と。
え?連れてくって? 連行ですか?
で、下る道中も、なんだかひたすら文句ばかり言っている警察の方。なんなんでしょう。なんかほんとすいません。めんどくさいことさせちゃってほんとすいません、って思わせるような態度なんです、ずっと。
しかも、その二人がやたら内輪でいろいろ揉めていて、なんか団結してないってゆうか、っ警察官同士が嚙み合ってない・・・。無線でもやりとりも、無線の相手の人に向かって悪口ばっかり言ってるし、なんだかすごく感じ悪かった。
で、登山道の入り口で待機してくれていたパトカーに乗ることに。そのパトカーの運転してる人もすごく嫌な感じでした。そもそも、何も聞かされずにただパトカーに乗せられて、とにかく何も説明が無い。で、また何か内輪でいろいろ揉めたりしてる。
なんだか本当に雰囲気悪い。車中でも仕事の愚痴ばっかり言ってるし。
でも、文句は言えませんよね。忙しい中、わざわざ私のために3人も動員して、重装備で山を下りてきて、命懸けで救助に向かってくれたわけですから。
登山で道に迷って遭難して救助を要請するなんて、本当に申し訳ないと思っているし、多大なご迷惑をおかけしたと思っているし、来ていただいて感謝してます。
でも、でも、それでもやっぱり物申したい気持ちになるような、酷い対応だったわけですよ。そこの警官の方は。
救助に来たお二人は途中で降りられ、運転してきた警察官と二人になり、「これからどこへ行くんですか?」と聞くと、ここから車で20分以上かかる警察署に行って取り調べをする。との事。しかもその取り調べは1時間くらいかかるそうで。
なぜ、わざわざ警察署まで連行されなければいけないのか、全くもって意味が分かりません。
その時の時間はすでに18時半すぎ。私は駅の近くの宿を予約しており、宿の人から電話がかかってきて「19時までに入ってもらえないと夕食が手配できない」旨を伝えられたので早く宿に行きたかったのと、もう疲労のレベルが半端なくて、とにかく早く身体を休めたかったという状況もあって、その警察官の人にお願いしたんです。
「なんとか取り調べはこの場でしていただくか、明日にしてもらえませんか」と。
そもそも、最初から遭難者の救助というものに不満があったんでしょうね。ずっとブツブツ文句を言っていたし(虫に刺されたとかなんとか)。うざっ。
その警察官は、
「警察はただでさえ人手が足りていないのに、山に登って遭難した人間から110番通報があると夜勤明けでもなんでも行かなけれないけない。こっちは命懸けなんだ。警察をタクシー代わりに使うな。有難いと思え、感謝の気持ちが無い。警察はサービス業じゃないんだ。」
というような話を延々としてました。
でもね、私もさすがに腹が立って色々言い返しましたよ。私だって悪気があって遭難したわけじゃないし、気軽な気持ちで救助を要請したわけではないんです。
対して能力もなさそうな若造の警察官を相手に感情的に言い返してしまった私も良くないとは思いましたが。
確かに、多大なるご迷惑をかけていることは事実です。本当に申し訳ないと思っているんです。来ていただいて本当に感謝しています。
そもそも、遭難した人を救助をするのは警察の仕事ですよね?ね?
なんで仕事中に、ぐちぐち仕事に対する文句ばっかり言ってるの?
やりたくないなら、やらなければいいじゃない?
警察の方のその言いぐさは、「遭難者の救助なんで仕事めんどくせーし、ダルイからやりたくないんだけど、公務員だからしたかなく来てやってんだよ。おめーら有難く思えよ。」と言っているようにしか聞こえません。
いや、サービス業でしょ、公務員は。だって、困っている人を助けるのが警察官の仕事じゃないの?困っている人を助けるのって、サービス業みたいなもんじゃん。
大体、「警察はサービス業じゃない」なんていうセリフを吐く人に、助けてもらいたいって思わないよね、普通。
なんでそんなに「助けてやっている」という上から目線なんでしょうね。
てか、何様なの?
市民の安全を守るために、日夜働いているんでしょうけど、それを仕事だと思っていないようです、この警官は。
やりたくないけど仕方なくやっているボランティアみたいなものだと思っているんでしょうか。
そもそも、人としてどうなの?ってことですよ。
山で遭難した人に対する対応って、もっと優しくなりませんか?普通。
私、なにか犯罪を犯してパトカーに乗っているわけじゃないんですよ。遭難をしたのは自業自得だってことはまあ分かっています。私が悪いのは分かっています。多少迷惑をかけてしまったのは分かっています。
でもね、山で一人で道に迷って、遭難して、歩き回って、不安で、心身ともに疲れ切っているんですよ。そんな人間を相手にあんな態度がとれるのって、人としておかしいと思うんです。
なぜあんな風になってしまうのか、育った環境が悪かったのか。謎ですが、警官にはそうゆう類の人間が多いというのは、よく聞く話ですよね。
もちろん、一概に警察官はどうのこうのとは言えませんが、とにかく、その若造の警察官は最悪でしたね。
警察署についてからも、横柄で高圧的な態度は変わらず。「俺よりももっと厳しい上の人に自重聴取されるから覚悟しろ」的なことを言ってきました。
それと、「ハッキリ言って、いま俺の腹わたは煮えくり返ってるから」
とか言われた。
警察署ではお決まりのマニュアルに沿った簡単な事情聴取と、始末書を書かされました。
その始末書も、マニュアル通り。始末書の見本を見せられ、それを丸写しすればいいとの事。
なんだそれ?
しかも、車で20分以上かかる場所にある警察署に勝手に連行しておいて、その若造のいう事と言ったら「ホテルに電話して迎えに来させます」だって!
あんた、まじで何様なの?
結局ホテルに電話してくれないし、結果タクシーでホテルまで戻ることになって・・・。なんであんな遠いとこまで連行されたのか、未だに意味が分からない。
同時通訳じゃあないし、狭い業界だから書くと差し障りがあるから、業種関連は全くの嘘だけどね。
うちの嫁さんがまあ、セレブバイト系の人なんですよ。これは嘘の職業だけど、流しの傘張り職人ですわ。ちな、セレブなのはアタシが大金持ちなんじゃなくて、ご実家がごんぶとなお陰なんですけどね。
嫁さん、地方名家のお嬢様で、東京提灯大学の提灯専攻で修士取ってから、実家仕送りで数年フリー傘張り師。ほら、提灯張りと傘張りって、業態的には似てるでしょう(本当はどうだか知らないので、本物の傘張り師・提灯師の人は目くじらを立てないでください。和紙を骨に糊で張る、という点に共通項を見出しています)。ああいう人はボーっとしてると、教授がどっからともなく似たような業態業種で学歴活かせるポストだけど専業だとちょっとめんどいな、みたいな商売を斡旋してくれるんですよ。沢木耕太郎がルポ屋さんになった時みたいな感じ?あれですわ。
すったもんだでアタシと引っ付いてあとは”主婦”。アタシ?申し遅れました、東京提灯大学で骨組学士取った後、1000万には到底届かぬしがないリーマン図面引きをやっております増田、毛は減ってるけど増毛の増えるに田んぼの田でまーすーだ、と申しますいつもお世話になっておりますハイ。
話を戻すと、嫁さんは元の傘屋さんとはお付き合いがあるから、繁忙期とかは未だに傘張り引き受けるし、これは結構な仕事です。手狭なうちもシーズン中はホネで足の踏み場もない。でも本人主観は「主婦」なんだよねぇ小梨だけど(そこにアタシも異存はないので為念)。んで、「スキルスキルキャリアキャリアキィィィィィ」みたいなことは当然ない。だって、出来て当然のことなんですわ、傘張りぐらい彼女にしてみれば。いちいち呼吸するときに「スキルスキルキャリアキャリアキィィィィィ」みたいなこと考えないでしょ、出来て当然のことだから。
とはいえ、世間に流しで傘張り師できる人材ってのは需要の割にはそう居ない。なので根強く出番があるわけです。出来て当然で、小遣い稼ぎになってお付き合いも果たせるし世間とのつながりにもなる。ご親戚づきあいでも「傘張り師でして」というと通りがいい。実際傘張りも面白いから捨てるに忍びない、じゃあやっとくか、みたいな感じ。まあ正確に事情聴取したわけじゃないんだけど、傍から観察するにそんな感じです。
飯のタネじゃあないけどボランティアとも言い難い。仕事の認識はあるんだけどね。世間には、そういう豁然とわかれていないモヤっとしたスキマみたいなものがたまにあるんですよ。人口が多くなると、その分そのモヤモヤも多くなる。そのモヤとアタシは折り合いつけて暮らしてる、そんな感じです。向こうが本当にどう思ってるかは、分からないんですけどね。
青色申告もしてるけど(マウス舐め舐め弥生会計するのはアタシ)、年によって年収はこっちと刺しつ刺されつですは。まあ、それ以上にご実家からの配当があるんですけどね・・・。ただ、生活費一式はこっちが出していて、莫大に稼いだ金がどこにどうなってるのかは全く不明です。総資産額については恐ろしくて聞き出せません。
https://www.bbc.com/japanese/57311675
ベルギーの駐韓国大使の妻が先月、ソウル市内の衣料品店で店員を平手打ちした問題で、ベルギー政府は5月28日、ピーター・レスクイエ大使を今年夏に解任すると決定した。
在ソウルのベルギー大使館はフェイスブックで、レスクイエ大使はこれまで3年間、大使として立派に職務を果たしてきたものの、「現状」では「穏やかに職務を継続することが難しい」と説明。ソフィー・ウィルメス外相はベルギーと韓国の関係のため、今年夏に大使の任期を終了させることが最善だと判断したと明らかにした。
大使のシャン・シュエチウ夫人(63)は今年4月、衣料品店で店員を平手打ちした。その様子が監視カメラに撮影されていた。大使夫人は当時、万引きが疑われ、店員が妻の着ていた服について私物かどうか尋ねていた。レスクイエ大使はその後、妻が「受け入れられない」行動をとったとして謝罪した。
ベルギー大使館によると、シャンさんはこの後、脳卒中の症状が出て病院に入院。退院後に自ら店員2人に謝罪したほか、警察の事情聴取にも応じたという。ベルギー外務省はシャンさんが外交特権を行使するのを認めず、警察捜査に協力する姿勢を示した。
ベルギーはEU本部もあるし、もう少し人権を大切にする国だと思っていたんだけどな。
アジア人で、女性で、脳の病気になった人の行動について、これほどまでに責任を追及する必要があるんだろうか。
スイミングは土曜日で学校が終わった後に両親がスイミングスクールまで車で送り迎えにきてくれていた
自分ん家とおじいちゃんおばあちゃんの家は車で10分位の距離で
スイミングスクールはおじいちゃんおばあちゃんの家の近くにあったので
昼のレッスンが終わると家族全員で寄っていって
そのまま夕飯を食べるだの外食に出かけるだのしているのが土曜日の過ごし方だった
だので、夕食までは大体1、2時間があって
祖父母と両親が大人の話をしていて退屈な時は近所を散策したりしていた
家から車で10分の距離の場所といっても学区も違えば未踏の土地であり
背後に祖父母の家があるとはいえ普通の住宅街でもかなりの冒険だった
その中でもとりわけ自分を夢中にさせたのは少し歩くと電車の踏み切りがあった事だった
けたたましくも心地良い音が規則的に鳴るのは何度見ても飽きなかった
しかも、そのあと電車が轟音で走り去っていくのは大迫力だったし
中に乗ってるたくさんの知らない人を見れるのも好きだった
そんな踏み切り観察も何週もすると飽きてきて、同時に恐怖も薄らいできて
踏み切りの次は線路に興味は移っていった
サビだらけなのに電車が乗って走ってる場所だけ鏡のようにツルツルで
同じ大きさの白い石が散りばめられてるのも子供の想像力を刺激した
そんなある日、いつものように電車が通過しているのを眺めていて
「線路の上に物を置いたらどうなるんだろう」
まずは手近にある白い石でも置くかと思ったが
その頃丁度ワイドショーで線路に置き石をするカラスが話題になっていて
それを思い出し石はまずいという判断になった
なのでもうちょい小さめの、目立たない石を探して置いた
電車が通過するのを待った
通過した後にどうなっているのかという好奇心と
電車の大轟音がスパイラルし、否が応でもテンションをかき立てられた
しかし、電車が通過した後に近くに行ってもなんの形跡もなかった
おそらく弾き飛ばされてしまったのだろう
落胆した
そして何を置けば驚くべき結果が得られるかに考えを巡らせた
次はポケット入れていたSDガンダムの赤いゴム人形を置いてみた
弾力もあるので期待する結果が求められるだろうと思ったのだ
そして再び電車が来るのを待ち、通過するのを見届け、遮断機が開いてダッシュで現場に向かった
大成功だった
ガンダムは電車に跳ね飛ばされる事なくその場に鎮座ましましていて
想像を超えるひしゃげ方をしていた
線路の上にパン生地を伸ばしたようにガンダムだったものが伸びていて
想像した結果が得られたのだからもう潮時だと自分でもわかっているが
その次を見たいという欲求が膨らんでいくのだ
これを重ねて置いたらどうなるだろう
テレビで1円を素手で曲げているプロレスラーがいたのを思い出した
離れる
待つ
それが大轟音になり目の前を巨大な質量の鉄の塊が通り過ぎていく
高鳴る鼓動
怒号
後ろを振り返ると母が立っていた
怒られる
いや待ってください大切な研究がああお母さん遊びじゃないんだよ
一生懸命事の次第を説明する線路の上に石を置いたりしててそれを見てて…
「あんた!何やってんの!」本気の怒声
呆れたような悲しそうな顔で服を引っ張られる
これは完全に怒ってる人の引っ張り方だ
死ぬ前に見たかったなぁ重なった10円玉と5円玉がどうなったかぁ
実際に行われたのは事情聴取という名のもとに行われる糾弾であった
テスト時に使った石の形状やカラスの置き石の報道を受けて安全性に配慮したという風に説明しようとすれば
という有様で既にこの時点で私はしゃくり上げながら泣いていたのもあるが
そして時は流れ私は自転車を買ってもらう年齢になり
自分だけでその踏み切りに行けるようになっていた
あれ以来その踏み切りを車で通過する度に心の傷が痛み
ようやく衆人環視のない状況であの日の実験の結果を見届ける事ができる
私は踏み切り近くに自転車を留め、握った10円玉と5円玉の感触を確かめていた
あの日あの場所と同じ線路にきちんとコインの中心を合わせて2枚を置いた
離れる
待つ
それが大轟音になり目の前を巨大な質量の鉄の塊が通り過ぎていく
高鳴る鼓動
何もない
おそらくどこかに飛ばされたに違いない
周辺を隈なく探すが見つからない
電車が過ぎ去ってまた戻って探すその繰り返し
日も落ちかけていてその日の捜索は中断したのだが
何度目だったろうか私は別のある物を見つけたのだ
そして、信じられないが、
それが10円玉と5円玉を電車に轢かせて発生したものではないかと自分の中では結論づけている
今日もそれは変わらない