はてなキーワード: 多義的とは
大川隆法いわく「 この世において、テロリストといわれる人々の行動の多くは、『復讐の念』『憤りの念』『怒りの念』などによって支配されています。そして、『リベンジ(報復)として、多くの人々の血を流したい』と思っているのでしょう。ただ、この考えの底には、『神は生贄を求める』というような考えが横たわっているように、私には感じられます。
一方、『革命』という言葉も多義的に理解はされていますけれども、革命の本質は『自由の創設』です。その意味で、テロとはまったく違ったものだと私は考えています。(中略)革命というのは、『人々を一元的に支配してしまおうとする、あるいは、人々を隷従させ奴隷にしようと支配する力に対し、自由が花開くことを求めて、人々が立ち上がること』です 」
うる星やつらがリメイクされた。最高レベルのスタッフが惜しげもなく投入され、凄まじい金が動いている。
コンテンツとしては四十年の歴史を持っており、コスプレ文化を日本に根付かせることにも一役買った今作においては、OPのクオリティーが非常に高い。音楽、映像共にキャッチ―で高品質になっている。
改めてOPをマジマジと見ると、明らかにZ世代へと向けられたメッセージが込められている。例えば、ところどころ挟まれるゲームを模した表現。90年代に流行した携帯型ゲーム的な映像や、00年代前後のギャルゲー的表現など、これらは明確にZ世代に向けられた演出表現――表象であると言えるだろう。また、OP冒頭に登場するインベーダーゲームは本作『うる星やつら』と同じくして四十年前から根付き始めたコンテンツであり、Z世代の範疇からは少しずれるが、四十代から三十代の後半といったZ世代に対する境界世代に対しても強く働きかける演出となっている。
同時に、SNSやマッチングアプリといった、十代二十代のZ世代若年層をも今作のOPは対象にしており、概してZ世代を対象にした演出が行われていることは明らかである。
何でこんなことを書き始めたかと言えば、公式アカウントがyoutubeにアップロードしているノンクレジットOP映像の、01:07~01:08に流れる、『地球儀』に関する表現が個人的に刺さりまくったからである。ノスタルジアで心がバッキバキになった。
本テキストにおいては、以降この『地球儀』に関するたった一秒間の演出に焦点を当て、記述していく。
『地球儀』をご存知であろうか? Z世代ならば当然知っているであろう、公園の遊具である。
そして、この遊具は現在公園には存在していない。何故なら遊具で遊んでいる子供たちに重大事故が多発したため、危険と見做され撤去されたからである。時流としては当然の対応と言えるだろう。この遊具で遊んだことのある人々は多いであろうが、遊具の使用中に大きなスリルを経験する人々も多かったことと思う。つまり、この遊具は根本的に危険なのである。
それでも、この遊具に関する良い思い出を持っている人々はZ世代を中心に多いことと思われる。明らかに、今作のOPはそのようなZ世代の人々の思い出に働きかける構成となっている。ノスタルジアに浸ることのできる良い演出である。
地球儀とは、つまり今喪われつつある一つの『世界』の喩えであると言える。
本OPにおいては、恐らく主人公の諸星あたるがこの地球儀の内側に引きこもる形で存在しており、その地球儀をラムが外側で浮遊しつつぐるぐると高速回転させている。その様子が諸星あたるの主観視点によって描写されている。そして、ラムは諸星あたるの表情を見てか、ニコリと微笑むのである。(あまりにも高速で回転する地球儀の中心に座り込む、主人公の怯えの表情を喜びの表情と錯覚して、ラムは笑ったのであろうと思われる。)たった一秒間の映像であるが、この一秒間にはOP演出家の粋が籠っている気がしてならない。
まず、節冒頭で書いた通り、この地球儀は、今喪われつつある(撤去されつつある)世界を表象していると言えそうである。かつては子供たちの間で楽しまれ、親しまれていたものの、今や危険視され排除されていく何かが、この地球儀には表象されている。
また、地球儀というものは当然ながら球形をしており、地球という我々にとっての世界を表象していると同時に、緩やかに我々の意識世界や内的世界を表象しているとも言える。我々にとって、あくまで世界は手の届く範囲のものでしかない。我々は、日本にいながらにして地球の裏側にあるブラジルの人々の生活をつぶさに見て取ることは、殆どできない。つまり、我々の世界は場合によっては手の届く範囲――半径にして凡そ一メートル弱の球形の世界において完結しているとも言えるのである。つまり、この地球儀は、我々の手の届く範囲での世界――我々の(そして諸星あたるの)〈閉じた〉内的意識や内的世界を表象しているとも言えるのではないだろうか。
つまり、この地球儀は、様々な要素を多義的に表象していると言える。喪われつつある愉しかった頃の思い出、完結した内的世界――などなど。この、『地球儀』は非常に表象論的に優れたイコンであると私は思う。この『地球儀』に目をつけたOP演出家に賛辞を贈りたい。
そして、同時にこの地球儀は、「内側にいる人間だけで遊ぶことはできず、外側にいる他者に依存して初めて楽しさを感じることができるもの」としての側面を表象している。つまり、この場合には、ある程度間接的ではあるが、他者がいなければ成り立つことのない心情、恋心の存在が、緩やかに表象されていると言っていいかもしれない。そして、その地球儀は、空中を浮遊する超常的存在であるラムによって、とてもではないが緩やか、とは言えない超高速で回転させられる。そして、ラムは喜色一面に微笑むのである。ラムにしかできない形で諸星あたるの世界が回転しているのだ。このように回転する『地球儀』は、諸星あたるのジェットコースター的に起伏に富んだ生活や人間関係を、そして、それらを含む彼の内的意識を表象していると言える――そして、遠からず諸星あたるの心中に芽生えるかもしれない感情にも、その表象は緩やかに繋がっていると言えるのかもしれない。
世界が回転する――これもまた、一つの表象であると言える。ラムによって諸星あたるの世界は駆動し、心は動くのである。怯えと、スリルと、説明不能な感情。それらの心は、ラムの指先によって躍動感もあらわに駆動するのである
これが、ノスタルジアでなければ何であると言うのか。もうバッキバキである。心が。
を書いた増田です
sds-page 一意性が担保されてればリアルと結び付ける本人証明は不要かな。匿名性も実現できるし。ガス代も登録時に100回くらい発言できるだけ配布すればあとは自身の発言NFTを売って稼ぐとかでもいい
少し考えてみた感じ、そのプラットフォーム自体に本人証明が無くても、発言した本人が任意で他のプラットフォームと紐づけて「誰がそれを言ったか(議論においては当面重要な要素だと俺は思ってる)」が分かるようになれば俺としてはオッケーな気もするので、ちょっと検討してみるよ
まあとにかく検討はする
発言NFTで稼ぐっていうのも最初は「ん?」ってなったんだけど、やりようによっては書籍とかでクローズドに主張を展開して稼がれるよりよっぽど健全かもしれないし、人も集まるかもな
正直個人的にはNFTまわりと元記事の要件絡めると(本人証明無いとしても)実現可能性が全く見えなくてすげえハードル上がるんだけど、要件は絶対じゃないし、面白そうだしやるよ
cinefuk 議論と言いつつチーム戦でワーワーやって、荒らし行為や恫喝・脅迫も出て「皆が立ち去ったあと最後まで立っていたものが勝利者」みたいなBBSが大多数。議論には公平な調停者・司会者が必要で、そのモデルは裁判所では
個人的にはプラットフォームの作り方・在り方次第かなと思うので、細っちょろい腕の見せどころ
法曹とかの専門家じゃないので間違ってたら本当に申し訳ないしボロクソに指摘して欲しいんだけど、裁判所は議論の場として参考になるところとならないところがあって、一概にモデルにはできない
なんかは参考になる
なんかは参考にならない
一応補足しとくと、裁判所を悪く言ってるわけじゃないし、参考にならないところも「じゃあどうしよう」って考える材料にする
公平な調停者・司会者を獲得するには、まず「公平な調停者・司会者とは?」の議論をちゃんとするところから始めなきゃいけないと思う
それは議論の場を作った次のフェーズの話になるので、現状のフェーズでは個人的には不要
そもそもモデルって言葉自体がすげえ多義的だから、俺の解釈違いで「参考にできるところだけ参考にすればいいんだよ」っていう話なら承知した
俺みたいな色んな方面で素人な奴が一人で作るより、色んな人がそれぞれの立場で各々の考える「みんなに議論を促す場」を作って欲しいと思ってずっと増田に書いてる
なんでそんな議論させたいの?みたいな話は↑の元記事の方に書いてるので読んで欲しい
そんでツッコミどころあったら教えて欲しい
以前手紙を書きながら、この速度感いいな?!となったので懲りずに書いてます。よっぽど気が向いたら読んでください。
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ラインの既読機能が苦手です。いつ読んだかとか読んでないとか、、手紙はそういうのないから気が楽だな。読まなくてもいいし、読まれないかもと思うと、不思議と素直になれる。
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逆に私は_さんのどこが好きなのか考えて、昔の日記もぜんぶ読み返して、結論は、見た目でした。
今だから言いますが、どタイプです。めちゃくちゃ好み。そそられる。いちばん好きな部位は、、全身360゜ナイスだけど、、ふくらはぎかな。すっごくきれい!
なんて美しい人なんだろう。好きすぎる。私は_さんにつりあう人間ではない、できる限り魅力的に映りたい!でもこの人、何を考えてるんだろう?
_月に初めて話したときから、私の原動力は性欲でした。言いすぎか。でも恋って性欲じゃないの?
何を考えているの?と問うのをやめてみました。立ち入らないことにしよう。わからないってことを尊重しよう。別々の場所ですごして異なる受容体をもつ他人同士が、知り合う、わかりあうなんてそもそも無理なんだ。
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結果として、_さんの価値観をないがしろにする行動に出たことを、後悔しています。
ごめんなさい。
セフレになりたいわけではなかったんです。
でもさわりたい。内面にふれることができないならせめて。_さんはセックスに愛が必要だと言う。それ性欲のマイルドなやつじゃないの?恋と愛は何が違うの?そんな、誰に対しても欲情するわけじゃない。他の誰でもなく、_さんに、さわりたい。けどさわれない。私は_さんをなにひとつ知ることができない。頭痛も快感もわかりあえない。だけどこれ以上立ち入った話をしたらきっと拒絶される。。
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立ち入らないということは、受け身でいるということです。受け身ばかりでは、勝てません。
いつしか、私は負けているんだ、1位には程遠いんだ、最後に選ばれるのは私ではない、、妄想からの執着、不安と嫉妬が全身に充満していました。なにひとつ現実ではなく、ただの思い込みで、本人に訊けばはっきりすることなのに。
私は自分の想像力を全く制御できません。爆発的な負の感情。疲れた。腫瘍でしかない。切り落としたい。
だから_さんが荒療治をさずけてくれたことに、とても感謝しています。
助かった。
醒めました。
勝負と考える時点で何かがずれていることに、やっと気づきました。_さんは標的、獲物だったのか。手に入れたら終了?私は_さんに向き合っていない。自分勝手に設定したゴールに押し込もうとしているだけだ。
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私は_さんをどう思ってるのか?
どういう関係になりたいのか?
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あらためて、打算を抜きにして、考えました。打算を抜くのになかなかの時間とエネルギーを費やしました。
もし目の前にあなたがいたら、気持ちをどんな言葉で伝えるだろう。
「好き」とは言えるけど、「つきあいたい」とは言えるかな。
友達でも恋人でもない、そんな categorizeできるような、一般的な関係にはなれない気がする。
でも、絶縁はやだな。
さみしいな。
そう思って手紙を書きました。読んだ?読んだからラインくれたのかな。
ありがとうね。
実はね、あの日、もうブロックされてると思ってて、どうせ届かないし好き放題言っちゃえ〜てなったの笑
うれしかった。
初めて、コミュニケーションがきちんと一往復した感じがした。
ということはこの_ヶ月間の私は、一人相撲だったのか?_さんはずーーっと隣にいてくれて、きいてもないのに始まる自分語りに静かに耳を傾けてくれていたのに、私は見栄と性欲と妄想に振り回されていただけだったのか?私は一体なにと戦っていたのだ、to be continued...
これくらいにしとこう。もう十分伝わったからね。
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出会う前と後で、明らかに異なっています。いろいろな事柄が。事柄に対する私の反応が。
当事者としての人生に直面したというのでしょうか?役割を演じるのではなく、目標から逆算するのでもなく、、
今までの私にとって人間関係は利害と役割だったので、この構造はとても新鮮で、むずかしいです。
とてもchallengingだな、と思います。
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自意識過剰で保守的で不器用で、めんどくさい・まわりくどい・しんきくさいの三位一体みたいな私につきあってくれて、本当にありがとう。
あらためて、_さんのことが好きです。外見だけじゃないです。この場合は_さんの私に対する態度が好きという意味。
やさしい人。
臆病で、極端で、疑い深くなることが恋なら、もう、やめたいな。
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例えば「ビーチでセクシーな水着を着る」という行為には、少なからず「性的な含意」があるのだろうが、かと言って多くの人は別に「誘ってる」わけではないわけで。「エロ」とか「性的」とかいう多義的な言葉では語りきれない微妙な差異があるということでしょう。
勘違いしないでもらいたいけど、別にプライベートな場面で着るような「セクシーな水着」で公的な仕事に臨んでいいとは言ってないよ。(まあ、件の「乳揺れ」とやらは、見た限り「セクシーな水着」よりも遥かに穏当な表現だと思うけどね。)
あの程度のものを「性的対象物」つまり「ポルノ」呼ばわりするような公開質問状の内容は、どう考えたって擁護不可能ですよね。
その上、この期に及んでVtuber側を叩く「その他大勢」の言い分もあまりにも酷い。それはフェミ議連の直接の責任ではないにしろ、見ての通り、二次元表現やアバター表現によってジェンダーやセクシュアリティ、アイデンティティを表現する文化に対する差別・偏見というのは今も苛烈に残っているわけです。そこに何かしらの不満があるのだとしても、結果としてヘイトを煽りかねない形で雑な思いつきの批判を公開するべきではなかった、という批判も有り得ますよね。喩えるなら、BLMに不満があるのだとしても、黒人差別の文脈を汲むことなく一方的な断罪に終始する限り、それ自体が黒人差別に加担する結果になるのと同じで。
1. 表現の自由戦士の自認
例えば百田尚樹氏の一橋大講演中止騒動などに興味は持てなかったし、一般の「表現の自由」にはあまり興味がありません。
表現の自由に明るい人々の話を聞くと、ヘイト本などは「買えば売り上げに貢献して癪なので、図書館が所蔵することで十分に批判されるべき」という意見が多数派のようですが、私個人は「目に入れたくない」「子供の目に触れさせたくない」という感想しか持てないのは、私自身の未熟によるところだと思っています。
刑法175条(わいせつ物頒布等の罪)により、いわゆる無修正のアダルトビデオの販売は基本的にできません。このような規制は適切だと思いますか?
(現状の規制は適切だが、その上で、より広く規制すべきである、という考えの場合も、ここでは「適切だと思う」に含まれるものとします。)
適切だと思いません。
「わいせつ物」などよりも、性行為を禁止する方がよほど有意義だと思います。
3. 名誉毀損
適切だと思います。
いわゆるヘイトスピーチ解消法(注1)は「国民は『本邦外出身者に対する不当な差別的言動』(注2)のない社会の実現に寄与するよう努めなければならない。」という基本理念を定めています(なお、禁止規定や罰則はありません。)。このことは適切だと思いますか?
(そのこと自体は適切だが、より範囲を広げるべきである、又は、禁止規定や罰則を加えるべきである、という考えの場合も「適切」に含まれるものとして回答してください。)
難しい質問ですが、どちらかと言えば適切だとは思いません。
現時点では実効力に乏しく、一方で実効力を持たせるよう強めてしまうと萎縮効果も無視できなくなり、「現行法の限界」を解消できたとは思えません。
(性質上、名誉棄損などとは違い親告罪にはできませんので、例えば友人同士の悪態などに萎縮効果を生むと、弊害を受けるのは当事者たちだと思います。)
とは言え代案もありませんので、現状ではbetterと言わざるを得ないかもしれません。
行政裁量権の範囲内で対応できなかったのかな、とは少し疑問に思っています。
(例えば、在日外国人の団体などの法人格に対する侮辱・名誉棄損として訴訟を起こすとか、それを行政として支援するなどがあってもよかったかもしれません。)
ヘイトスピーチ解消法上の『本邦外出身者に対する不当な差別的言動』(注2参照)につき、罰則を定めることは適切だと思いますか?
適切だとは思いません。
日本赤十字社は、2019年、漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボをしました。その際、単行本3巻の表紙に「センパイ! まだ献血未経験なんスか? ひょっとして……注射が怖いんスか~?」というセリフ等を加えたポスター(注3)を、献血ルーム内及び献血ルーム前に掲出したところ、一部から批判を受けました。このようなポスター掲出行為を禁止する法律を制定することは適切だと思いますか?
「このようなポスター」が未定義のため、この質問には回答不可能ですが、宇崎ちゃんのポスターが不適切だったとは思いません。
「このようなポスター」が公共空間から排除されるというのは、フィクトセクシュアル・フィクトジェンダー、並びにスペクトルに位置する人々に対する悪質な差別・虐待であると言わざるを得ません。
JAなんすんは、ラブライブ!とコラボしたパネル(注4)を設置したところ、一部から批判を受けました。このようなパネル設置行為を禁止する法律を制定することは適切だと思いますか?
「このようなパネル」が未定義のため、この質問には回答不可能ですが、ラブライブ!のパネルが不適切だったとは思いません。
「このようなパネル」が公共空間から排除されるというのは、フィクトセクシュアル・フィクトジェンダー、並びにスペクトルに位置する人々に対する悪質な差別・虐待であると言わざるを得ません。
8. あいトレ
あいちトリエンナーレ2019(「表現の不自由展・その後」を含む。)には補助金が交付されていました。この補助金交付は適切だと思いますか?
適切だと思います。
違法・暴力的手段で合法的な展覧会を妨害するような、犯罪者・反社会的集団に迎合する態度はありえないと思います。
通読したことはありませんが、 『リアル憲法学』法律文化社 を一冊持っています。
まず、「見たくない」からゾーニングを求めているのか、あるいは「悪影響がある」からゾーニングを求めているのか、それらの論点を都合よく使い分ける人を良く見かけますが、大変卑怯な態度であると言わざるを得ません。
「見たくない」人のために一歩下がるのは時に必要なマナーだと思いますし、それ自体の不利益はそれほどないので、受け入れることは難しくないと思います。
一方で、「悪影響がある」と認めるということは、(「悪影響」の種類にもよりますが、)「本来あってはいけない(が、ガス抜きとして見逃されている)」という(差別的)構造を追認することにほかなりません。
議論の土台が、「この世に存在してもいい」ということを前提にしていない限り、その「議論」に巻き込まれることそれ自体を拒否する必要が生まれてしまうのです。
これは「議論を拒否したい」ということではなく、むしろ建設的な議論をしたいのですが、それが難しいということです。
(「見たくない」という感情に「悪影響」という理屈を付けるな、という意見もありますが、私としてはむしろ、「悪影響」という偏見を「見たくない」という同情の盾で守っているようにも見えます。)
また、「見たくない」人のためのゾーニングばかりが議論されますが、主題はむしろ「見られたくない」人々のためのゾーニングにこそあると思います。(前者ももちろん大切です。)
プライバシー権というのは、古典的には「放っておいてもらえる権利(the right to be let alone)」とも言われましたが、これは自己決定権などとも関係の深い権利です。
例えば、「着たい服を着る権利」は、「公共空間に着て来るのだから、個人の自由では済まない」のでしょうか?
もう少し議論の分かれるところを言えば、「タトゥーを隠さない権利」についてはどうでしょうか?
安易な「ゾーニング」に反発する人々が求めている権利というのは、そういう意味で「放っておいてもらえる権利(the right to be let alone)」ではないでしょうか。
「エロ」という多義的な言葉で議論されることが多いですが、「性的活動に必要なポルノ」ばかりではなく、「文化的活動に必要なファッション、アート、ジェンダー・エクスプレッション」であることも少なくないと思います。(宇崎ちゃんのポスターや、ラブライブ!のパネルは、後者であると思います。)
その意味では、ゾーニングそれ自体はむしろ我々の権利を守る大切な壁であると思っています。
しかし、「ゾーニング」という言葉がそのように使われる場面がほとんどないのは、腑に落ちないところです。
さらに、表面的には「性的活動に必要なポルノ」であっても、それが政治的文脈を伴い、「政治的表現」として表出される場面もあります。最も扱いの難しいものとして、そのような「政治的表現」が、ファッションやアートに転ずるという現象もあります。
これは最初の議論に戻りますが、「性的活動に必要なポルノ」について、「本来あってはいけない(が、ガス抜きとして見逃されている)」ものではない、という声を上げる必要も時にはあります。
kuzumimizuku 「正解」というと「ひとつだけ」「それ以外は間違い」感も出てしまうけど、ルックバックが受け手によって様々な正解がある作品であることは既に話題性から明らかで、正解がひとつなら万人には刺さらないとは思う。
ちょっとだけ疑問に思ったので。
正解がある話の場合、基本的に作者の神経が行き渡っていて、それを読ませる伏線と読者の文脈、一般的な国語能力があれば誰でも答えにたどり着けると考えている。さらに言えば作中に正解があるからこそ一定の答えにたどり着けもする。
この人が言うところの万人受けについて考えてみたいが、いわゆる一つの要素につき多義解釈が可能だからルックバックは正解の多様性を生んだと考えているのだろうか? はたまた、クエスチョンがいくつも用意されていて平たく面として序列的に解析可能と考えるだろうか? いずれでも実は正しく、そしてもしかすれば間違っているように思えてならない。
第一に、ルックバックは一つのシチュエーションから多義的解釈が可能で、例えば殺人事件一つとっても藤野の心証をただ単に害した事件という表層的なもののみかたから、藤野の旅立ちの一歩への断絶とも読めるし、京本との断絶から藤野の未来のマンガへとつながったという一つのシュチュエーションにも読める。そして、京都アニメーションの放火事件ともかけてある。平行世界の二人が橋渡しされて、今に帰ると読んでいる人もいる。少なくともこのどれもが作者の意図範疇内にあるように個人的には感じている。したがって一要素が多義的であるがゆえに万人受けする作品である、という言い方は正しい。一方でこうした出来事は網羅的に表記して見比べることで全体像を浮き彫りにすることも可能で、それぞれの要素をすべてカバーしているから万人に受けたと言いかえることもできる。例えば先程の皮相的な悲しみがそれに当たるし、単純に京本と藤野のライバル作家メタといった、表面上のわかりやすいところだけをさらう層にも刺さったという見方も可能だ。この作り方は宮崎駿で言うところのポニョや千と千尋に等しい。表面的なところだけ見てもファンタジックな作品として通用するが、反面深堀りすればいくらでも見えてくる、という重層的な作品ととなっている。この重層的という一言を前述では「多義」と「箇条書き・ベタ面」として表現した。
箇条書きにできる能力があれば多義性も特定できるし、表層面も見ることができる。そしてそれは紛れもない「正解」だ。分解すれば誰にでもわかる二面の正解が用意されているがゆえに、物語には正解がある、という立場を取りたい。
こういった厄介事を乗り越えてなんとか文章全体の形態素が把握できても、文章の論理構造が現在とは異なっているから難儀する
「結論が先じゃないから回りくどい」的な次元じゃなくて、現代語訳を見てもなお意味がつかめず
解説まで読んだところで「こういうことを言うのにこうやって文章を展開していくのか…」とかろうじて納得するので精いっぱい
ネット見てると言いたいことはあるのだろうことは分かるけど何が言いたいのかどうしても分からないって感じの文章に出会うことがあるが、自分にとって古文は終始そんな感じ。
今日置昌一の「ことばの事典」などという和歌や川柳がふんだんに引用されている事典を頭から読んでいるのだが、数千収録されているうちの7割以上は詩情が全く掴めない
受験業界では古文は暗記すれば読めるとかいうが、古語辞典でも首っ引きでも理解できない私も一種のディスレクシアでいいんじゃないか
正直、自分が小さい時は気にもしなかったしどうでもよかった
問題は10代になって頑張って社会に入り始めた時から音を立てながら自分の女性という地位が明らかになっていった
するとどうだろう、話している事や言葉は現実で女として立ち回るのと似ているのに「優しい」だの「好き」だの言われ始めた
もちろんそれは恋愛対象としてでは無いのだが、私はこれに対して凄く頭を悩ませた
どうしてここまで差が生まれたのか軽く考えた
「ああ、オカマは"男性"として見られてるし一般的には半男性で半女性だから女性より地位があるんだな」
そう考えるとなんだか妙に納得してしまった
もう疲れてきた。
でもそれも場合による、男性が外見共に女性化したら社会的弱者のように見られる
女性が外見共に男性化したら明かさなければ半分ぐらいは社会的強者だが明かせば社会的弱者になりうる
なんかそこから日本の時代の背景とか考えちゃうと女は昔から地位がなくて守られる存在とか言われて結構蔑ろにされてきてたんだと感じた
江戸時代の出産なんか今みたいに叫べないし産んだら7日間は頭上げたまま寝ることも許されない、遊女とかも気に入った男が女を金で買う制度とか奴隷となんらかわらない
最初に言った話に戻すと10代の頃に会社で働いてたらセクハラとパワハラを受けた
「女は大人しく、男の都合よく、美しく、可憐で、汚れを知らない、男よりも下であれ」
ハッキリ言って反吐が出る
対して好きでもない不細工な頭悪い無能ブ男に何故媚びを売らねばならんのだ
女の場合は美しいからと頭悪くて無能な自分を棚に上げて誰ふり構わず見下しまくってる場合が多い
女性として地位がない、地位があるとかどうでもいいから安全に暮らしたい
男は男らしく、女は女らしく
そんな糞みたいな考えが今の糞みたいな問題を作ったならもっと多様化してぐちゃぐちゃになれば何が何とかどうでもよくなんのにそれが差別主義とか馬鹿は論点ズラしながら言いやがるし人生やになってくるわ
タイトルだけ見てや全部読まない人へ
最後まで読んでほしい
たぶんそれをしないと内容が見えません
読んだ。
なんか文章力について書かれてたけど自分が理解できないのを他人のせいにしないで
自分の都合に合わない話や理解できない内容なら大人数で1人を叩いていいの?
これを読んだ少数派の人は理解してくれてる様子が伺えるけど大多数は内容を読んでも理解出来ずになんか話が分からないから"決めつけて攻撃"してるようにみえる
今度からは理解できない人の為に分かりやすく一般的に増田を書くよ
自分が気に入った書き方をしても理解できない人から攻撃されるなら理解できない人に優しくしなきゃいけないなんて
そういうふうに見えたらごめんね
悪いけど自分は増田の文章力を一切信用しない。この文章を理解できないのは増田のせいです。句読点を意識して、慣用句をちゃんと慣用句として使い、修飾語と被修飾語がわかりやすいように文章の順番を意識してください。
「お前の文章下手」→その通り。書きながらもっとしっかりした表現に直したくなったけど増田だし気にしないことにした。文章添削した人間がの下手さを指摘されるのは当たり前だし、あとで書いてるようにこの文章自体が性格悪いので自業自得として修正しないでおく。
「なんで突っかかるの」→「自分が理解できないのを他人のせいにしないで」って書いてるの読んでイラッとしたのが3割、殴れるサンドバッグがでてきたなと認識して自覚的に殴ったのが7割。
「キモイ」「性格悪い」「傲慢」「下品」「マウント取るの楽しい?」→ストレス発散だったのは自覚しているし、性格が悪い行為なのも同意する。事実ストレス発散にはなったし、「自分が理解できないのを他人のせいにしないで」って書かれた以上反省しない。
「そんなささいなことどうでもいいだろ」「後で直せばいいだけの細かい作文ルールにうるさい」→悪文は「ちょっとした違和感の積み重ね」で生まれる。そつのない文章が続く中で1箇所2箇所文法の間違いがある……といったパターンならいいが、たったこれだけの短い文章のなかで「簡単に指摘できてしまうような読みにくい理由」がこれだけあるのは、残念ながらどうでもいいことではない。文章を書く技術ってものすごく高度なことなので、きれいな文章が書けないことがまずいことだとは思わないけど、元増田は自分が文章をちゃんと書けてないってことを自覚してほしい。
「プロファイリングしろよな」→別増田に上がってたnote読んだ。悪文であればあるほど書き手の背景が色濃く出るのでこういうこともできた筈なんだよな。なぜかいきなり遊女の話が出てくるあたりそこに関心があった=風俗で働いてたって推測には合理性があるし。本当はこれくらい攻めた読み解きがしたい。結構反省したし尊敬する。
「ジェンダー問題興味ないだろ」→元増田よりは興味があるのは間違いない。元増田はシスへテロ女性と推測するが、女性が男性に比べて社会的地位が低いというところに全く異論はないけど、それがMtFとFtMに対する雑語りを許していいわけないし、内面に対して「男性化」「女性化」みたいな表現している辺りの、性自認と性指向の理解のなさを許容していい理由にはならない。
「マンスプレイニング」→この文章の書き手が男性だと判断した理由がわからないが、事実男性なので踏みこみません。この文章単体への指摘として言及されてるのであれば無視します。「こんだけトラバでもブクマでも批判されているところで追い打ちをかけるようにこんな文章を書くな、マンスプレイニングに荷担している」という指摘なら納得するので以後つつしみます。
私は弱者男性です。なので、なぜみんな「存在しない」だの「定義がわからない」
だの言い出すのが不思議でした。
しかも、弱者男性を定義すると、とても長大なリストが出来上がります。
なので、まずは、弱者男性の定義、及び弱者男性が何を望んでいるかを書いておこうと思います。
弱者男性の定義は簡単で「マッチョイズムを否定しているか、あるいは懐疑的な男性」です。
マッチョイズムの否定というと多義的なので、簡単に言うと「自分に自信がない男性」ととりあえず定義しますか。本当は違うのですがとりあえず。
なお「マッチョイズムだけを肯定」するのはクズ男。「マッチョイズムを信奉するが、時々疑念を持つ」のは強者男性です。
長大なリストを作り出す人は、おそらく「状態」だけを見て弱者男性とは何であるかを定義しようとしたのでしょう。
残念ながら全くの間違いです。それは「結果」に過ぎません。結果だけを見ると男性全員になるだけです。
弱者男性は自信がないので、比較的成功しにくいです。その結果だけを見ると、「人間関係資本が乏しい…とりわけ性的魅力に乏しく、性的魅力に繋がるようなオーソリティ(所得や社会的地位)もない…男性」のような定義する人が多いです。これは多くの状態としてはあってますが、本質はこれではありません。
本質は「自信がない」ことにあります。自信がないので、人間関係に奥手で、性的魅力に乏しいことになります。
ただ、自信がなくても、能力や運があれば成功できます。なので「弱者男性」を名乗っていても、成功している人はいます。
でも、それをみて「弱者男性など存在しない」というのは間違いです。
上記を踏まえて、「弱者男性は何を望んでいるか?」という問いに答えてみましょう。
ただし、その問をする人は、まず自分に以下を問いかける必要があります。
殆どの先進国は(1)です。その代表はアメリカでしょう。というか、先進国で(1)じゃない国はありません。もちろん日本もです。
それらの国では弱者男性など「玉なし」と言われて存在しない人間扱いされていることと思います。日本でもつい最近はそうでした。
(2)の代表はフィリピンだと思います。国家としてあまり反映しているように見えないです。それは誰かが責任を持って、死ぬほどの決意で仕事してないからです。
(3)の国は絶無です。今まで存在した形跡さえありません。(1)に戦争で負けるからです。
いま現状だと(1)なわけですから、弱者男性の望みは「殺さないでくれ」ということになります。まぁほっといてくれということになりますね。
(3)はアンチフェミニズムの考え方です。つまり「弱者男性にも自由を」ということになるかと。具体的には今の所わかりません。なんせそういう国は存在したことがないので。それこそ学術的な研究の出番だと思います。
などという疑問を抱く時点で後れを取っているのだ。
自分語りをさせてもらうと、僕は幼稚園の頃から勉強ができたので、親族や先生や同級生からとてもとてもちやほやされた(客観的に見てどうだったかは知らん)。幼いころから勉強ができることのメリットを感じまくっていたので、勉強の価値を疑うということが無かった。勉強ができること、すなわち頭が良いことこそ至上の価値があるという一種の信仰を持っていた。刷り込まれていた、と言ってもいい。
それを刷り込んだのは教育に命がけだった母の影響が大きく、情緒不安定なところのある彼女は、普段は聖母のような包容力を示すことがある一方で、息子が勉強を疎かにすると神罰を下すのだった。小1の頃、「三角形の内角の和は180度なんだね~」と無邪気に告げたところ(褒められると思ってた)、「なんでそんなことも知らなかったの!」と、叱声とともに回し蹴りされたことは今でも根に持っている。
なんて書くと毒親!と思われそうだけど、普段は別に高圧的でもないし話もしっかり聞いてくれるしで良い人だったと思う。ただ本当に情緒不安定というか癇癪持ちだったので、飲食店での喫煙は当たり前だった当時に、隣席の喫煙者に喧嘩売って出禁になった、なんてこともある。突発的に他人に喧嘩を吹っ掛けることがままあり、子供としては気が気ではなかった。ただ、その怒りも母が隠していた病気によるものでもあったのだろう。病状が悪化してついに隠せなくなっても「受験が終わるまでは」と病院に行くのを渋り、父に強制連行されてはじめて末期癌だと分かった。母は教育に命がけだったのだと、心から思う。女子の大学進学率が20パーセントを切り、女性は勉強なんてしなくてもいいと言われていた時代に、母はその風潮を押し切って田舎から上京し、東京理科大学に進学した。両親は小卒、上二人の兄は高卒なので、突然変異の様相がある。
母の話が長くなったが、ともあれ勉強のできる層というものは、そもそも勉強の価値には疑問を抱かないものではないだろうか?もちろん面倒になってサボることはあるけれど、それは体に悪いと分かりつつ家系を食べるようなもので、勉強すべきという前提は疑いなくあるのである。疑問を抱く時点で後れを取っているというのはそういう意味だ。(なので僕の持論として、子供には就学前に漢字と九九を叩き込むことで、勉強できることで得られる優越感を早めに覚えさせることが重要)。
そのように当たり前に勉強をしていた層にとっては勉強する意義などそれこそ言うまでもないことだし、逆に意味などないという結論に至ることもまた自然だろう。
以上を踏まえて、そのうえで「なぜ勉強をしなくてはいけないのか」への答えを考えてみたい。その際に大きく分けて、(1)勉強の価値が分からない人(2)勉強の価値自体は分かっている人、それぞれに向けた答えを用意すべきだろう。このうち(1)については書いててアホらしくなったので割愛する。一つだけ言うと、知見が広がるとか知らないことが分かるようになるとか人格が陶冶されるとかいった答えはビール飲めない人にキレやらコクやら説明するぐらい無意味。
重要なのは、そもそもの問い「なんで勉強しないといけないのか」は多義的だということ。
すなわち(1)「なんで勉強(なんてものを)しないといけないの?」(2)「なんで(こんな)勉強しないといけないの?」の二つ。
これは勉強そのものの存在意義に疑問を呈していることになるのだが、発問者が勉強の価値は分かっているという前提を踏まえると、「大切なのはわかってるけど生理的に無理」という状態である。こういう状態のときは発問者に勉強の楽しさに立ち返らせるか、あるいはもう休ませるほかない。
この問いに関しては、「こんな」の意味内容によってさらに二つに分けられる。「こんな」が勉強方法を指す場合と、勉強対象を指す場合とである。
前者の場合暗記が代表例だろう。暗記にうんざりして勉強が嫌になるというのは一般的だと思う。それに対し僕なりに思うのは、九九を覚えていなくて計算できるか?単語を覚えてなくて文章読めるか?年号覚えてなくて歴史の流れ分かるか?ということ。数学の公式なんかがいちばん分かりやすいけど、暗記は発展的応用的な問題に取り組む際の補助ツールなわけで、全部一瞬で足し算出来たり文脈からあるいは語形成から意味を正確に読み解けるような天才でもないなら寧ろ感謝するべき。全く勉強方法というものは凡人でもなんとかついていけるように先人が遺してくれた財産なわけで、そのありがたみをかみしめましょう。
最後に後者。代表例はよく槍玉にあがる古文漢文。僕は古文漢文大好きなので、純粋に読んでて楽しいとか、一般教養としてとか言いたくもなるけど、まあ不要だと思うならやらなくてもいいんじゃない?友人に古文漢文を一切勉強せず東大行った奴いるし。ただ彼は数学と化学が河合偏差70超えてるような人間だったけど。ちなみに今になってやっとけばよかったと勉強している。
結局ずば抜けた能力のある人間なら、古文漢文やらなくていいし暗記にも頼らなくていいし、あるいは家柄が凄ければ内閣が立法府だと思っているような馬鹿でも総理大臣になれるわけだし、勉強なんてしなくても良いと思うんだけど、家柄が並みで親が資本家でもなくスポーツや芸術の才能も無くずば抜けた頭脳も無い凡人にとって救いになるのは勉強だよねってだけの話だった。
反知性主義(はんちせいしゅぎ、英語: Anti-intellectualism)とは、知的権威やエリート主義に対して懐疑的な立場をとる主義・思想[1][2]。言葉自体は、1950年代のアメリカ合衆国で登場したとされ[3]、その後リチャード・ホフスタッターが1963年に『アメリカの反知性主義(英語版)』で示したものが知られる[4]。
一般には「データやエビデンスよりも肉体感覚やプリミティブな感情を基準に物事を判断すること(人)」を指す言葉として思われているが、実際にはもっと多義的な観点を含む[4][5]。また、その言葉のイメージから、単なる衆愚批判における文脈上の用語と取られることも多いが、必ずしもネガティブな言葉ではなく、ホフスタッターは真っ当な民主主義における「必要な要素としての一面」も論じている[4]。むしろ、知的権威・エリート側の問題を考えるために、反知性主義に立脚した視点も重要だとも説く[6][4]。知性と権力が結びつくことへの、大衆の反感が反知性主義の原動力にあり[2]、反知性主義が否定するのは「知性」自体ではなく「知性主義」、すなわち「反・知性」の主義思想ではなく、「反・知性主義」の主義思想なのである[7]。
・自分の観測範囲ではそもそも「フェミニストを自称しつつ一人一派と主張する人」を殆ど見かけない
・むしろフェミニストは一人一派と言っているのは「アンチフェミ」の方
・またフェミニストを自称しつつ一人一派を主張する人がいたとして、それはフェミニスト思想全体への批判に繋げられるほど一般化された主張なのか?
・フェミニストの中で明示的に「一人一派」理論を採用している人は少ない。一人一派との指摘を行っているのはアンチフェミニストが主である
フェミは多様なものよ。一人一派、それ以上あるかもしれない。それらがぶつかり合うことはあっても、正統と異端という考えは全くない。(p186上野)(上野千鶴子×田房永子『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください! 』、2020年刊)
フェミニズムは一人一派、まさにそのとおり。/小倉:フェミニズムは一人一派だから、考え方が対立して当然なのだ。/フェミニズムとは一人一派と書かれているので(上野 千鶴子,小倉 千加子 ザ・フェミニズム (ちくま文庫)、2002年刊 感想)
フェミニズムは一人一派だ、というのは(多分)田中美津の言葉だけれども、別にフェミニズムでなくたって人間は基本的に一人一派である。(私は愛されたい、私はピンクが大好き、それゆえ私はフェミニストになれない(のか?) )
上野 千鶴子氏など著名なフェミニストが「フェミニズムは一人一派」と言い続けているのに、「主張する人を見ない」「むしろアンチフェミが言っている」「一般化されていない」と嘘をついてアンチフェミを批判するあなたは、無知なのか歴史修正主義者なのか、どっちなんでしょうか?
そしてこういった汚れた輩から、高潔なフェミニズムを守るために、一人一派は役立ちます。
(追記)
あなたは理解力が著しく欠けているので、質問は義務教育を終えてから。まずは学校の勉強に専念しましょう。
第二に、「主張する人を見ない」「むしろアンチフェミが言っている」「一般化されていない」のはすべて事実です。
これらは全部あなたの観測範囲にもとづく主観です。これが証拠になるのは、小学校までです。客観的な事実なしに主張するなら、フェミニストを名乗ることで他に多大な迷惑を及ぼしていることを自覚なさい。
第一に、上野氏ほかの主張は彼女ら自身の説・主張であって、フェミニスト全体の総意ではありません。
総意なんて存在しないものを議論する価値がありません。上野氏は活動家でもあるという事実(後述)から目を背けて、自分の正当性に固執するあなたの姿は醜い。
自分の耐え難い苦しみがこれまでのフェミニズムに相いれないときに、自分の苦しみを優先して個人が社会活動として訴えることを認めるのが、本来の「一人一派」で、あくまで最後の手段です。それを、自分の気に入らないことすべてに安易に使うから、フェミニズム全体の信用が失われ、アンチフェミニストが指摘するときの便利な道具になってしまったのです。
あなたには無理ですが、あなた以外が「一人一派」の一般性を理解できるよう、フェミニストによる「一人一派」をいくつか引用しておきます。
第二に、小倉さんが言うように、フェミニズムは「一人一派」。だって「わたしがわたしであること」がフェミニズムなんだもの、人の数だけあってあたりまえ。ある人はこういうが、別の人はああいう。批判されても、ああそういう人もいるわね、でもわたしは違うって思っていればいい。(略)
何はともあれ、矢はとっくに放たれている。小倉さんとわたしの「一人一派」に、読者のあなたにもうひとりの「一派」を付け加えてもらえれば、この本の目的は達せられたことになる。
トランスジェンダーとフェミニズム ツイッターの惨状に対して研究者ができること 堀あきこ (2019.2.4)
一方、フェミニズムは、フェミニズム内で意見の対立を抱え続けるものでもあります。(略)
この対立は、しばしば「フェミニズムは一人一派」という言葉で例えられます。なぜ、統一しようとしないのでしょうか。
Where We Are Right Now :多義的に進化するフェミニズムの現在地 清水晶子 (Harper's Bazaar 2017年6月号掲載)
でも、そもそもフェミニズムって何だっけと考えると、これが意外にわかりにくい。「フェミニズムをひと言で定義してください」と言われたら、専門の研究者やアクティヴィストでも一瞬たじろぐだろう。
女性も男性と同等の権利と尊厳を持つと考える人はすべてフェミニストだ、という言い方がある。出発点として、これは間違いではない。
同時に、「フェミは一人一派」という言い方もあって、これもある意味では正しい。実際、フェミニストの間で「それってフェミニズムとしておかしくない?」「いやそれはありでしょ」という議論が交わされることは、珍しくない。
大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法 小松原織香 2019.11.2
フェミニズムは一人一派と呼ばれ、それぞれが「私のフェミニズム」を語ることで成り立っている。それがどんなに間違っていると他人に言われても、「私のフェミニズム」は誰にも否定されるものではない。それが大前提だということはおさえておきたい。
プラスαの読書大特集(第2弾)新書だけで学び直す一般教養15講+α 著者不明
論座 (通号 86) 2002.7 pp.188 - 236
204 ページ
フェミニズムは一人一派というひともいるくらい多岐にわたっているし、その内容もきわめて多様である。だから、どんな考え方がフェミニズムなのかという根本はともかく、一口にフェミニズムといっても実にいろいろな考え方があるという
ひろゆきさん、どうして「今の日本では“フェミニズム”って言葉を使わないほうがいい」のですか? 髙崎順子 ハフィントンポスト 2020.2.7
上野 千鶴子 NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。古市憲寿との対談にて、「ジェンダー研究はフェミニズムのツールです」と自身の研究は運動に利用するためと答えて、小熊英二に「活動家としては正しい」と言われている。堀茂樹は上野が自身の運動に不都合なことは隠すと答えていることで、上野を「救いがたいレベル」と評し、小熊と古市も批判し、研究者且つ社会運動家である事は許されるが、「研究者として社会運動家のように行動するのは詐欺」と批判している。