はてなキーワード: 夢想とは
僕のバスケ歴は割愛するが、一応、最低限はバスケを語れる資格を持つ経験者だ。
スラムダンクは漫画は全巻持ってたし、連載当時に週刊少年ジャンプでも読んでいた。
でも、他にも色んな漫画をたくさん読んでいたから、特に好きな作品な訳では無いが、スラムダンクを語れる資格も持っている筈だ。
プロ選手になるという夢が存在しない分、現実的な折り合いを付け易くなる。
社会人になった元経験者達が資本主義の世界の中で大人になって、自分の取り組んでいたアマチュアスポーツを盛り上げようと画策する。
例えば、バレーボール。
そこまで人気でもないのにも関わらず、毎年、日本では世界大会を開催。
試合中に今のスパイクは何mの高さだったと計測された数字がリプレイと共に表示される。
人気に見合わない大袈裟な演出は、野球やサッカーと比べても遜色ない練習の過酷さが当たり前のバレーボール経験者達がサラリーマンとして社会で活躍しながら競技を後押しし続けた結果だと思う。
一方、バスケットボールはバレーボールと異なり、野球と同じで日本に強い影響力を持つアメリカ合衆国の4大スポーツの一つだ。
サッカー、野球、バスケットボールは、日本が戦後から続く海外への憧れを象徴するスポーツだと思う。
しかし、野球やサッカーと比べて、バスケットボールはようやくプロ化に辿り着いたが、まだまだ日が浅い。
野球ほど社会的影響力は無いし、サッカーと比べて世界的人気は少ない。
だから、プロバスケ人気を盛り上げるための苦心の策として、 数年前にLEDパネルのコートで行われたBリーグ開幕戦の試合中継なのではないかと思う。
しかし今のところ、バスケは観るよりもプレイした方が楽しいスポーツだと思う。
現状の日本バスケ界に不足している重要なピースの一つが、世界観作りだ。
サッカーにおけるキャプテン翼のように、日本バスケ界でその一役を担うのが、この映画『THE FIRST SLAM DUNK』なんだと思う。
今のスポーツ中継のカメラワークは、どの競技も完成形だとは思うべきでは無い。
ドローンなんて現時点のテクノロジーによる妥協の産物に過ぎない。
モーションキャプチャーのCG合成をリアルタイムで処理しながら無制限のカメラワークをコントロール出来る時代を待つしか無い。
それが実現するのは少なくとも100年先の未来になるだろう。
でも、CG作品ならば、フィクションの試合を無制限のカメラワークで演出することが可能だ。
『THE FIRST SLAM DUNK』は100年後の試合中継のカメラワークだった。
かつて映画製作を学んでいた僕は、映画を観るためではなく、バスケの試合を観に行くつもりで数年ぶりに映画館へ足を運んだのだ。
そんな僕の判断は間違ってないと思った。
当初、ジャイアンの声優の人が桜木花道であることを知って、困惑した。
ジャイアンを襲名したからには、ジャイアンの色が付いて回る宿命をスラムダンクに持ち込んで欲しく無いと思った。
監督がリアリティを追求した結果、出刃庖丁を持った2mの巨漢が全国大会のコートに乱入する大事件はオミットされた。
桜木花道は終始、バスケ歴4ヶ月のフィジカルモンスターだった。
デニス・ロッドマンそのものだった。真っ赤な坊主頭が試合を引っ掻き回してた。
かつて緑川光が演じた流川楓も、味方にパスをしない異常プレイヤーだったし、寡黙なキャラに合った雰囲気さえあれば声優なんて関係なかった。
急展開過ぎる。
もう少しモーションキャプチャーの演技でスタミナ消耗の下降線を丁寧に描けよって笑ってしまった。
バスケットボールを描くに当たって、ボールのドリブル音、バッシュの音にしっかり拘りを持った演出をするのは明らかだった。
けど、屋外を歩くだけのシーンでも露骨に足音を鳴らすのはやり過ぎ。この一点だけは偏執過ぎる。まさに勇み足だ。
僕の記憶が正しければ、バスケのルールとして、敵陣のゴール下の台形ライン内に3秒間ずっと入りっぱなしだと、3秒ルールが適用されて相手ボールからのスローインになってしまう。
湘北高校のオフェンス時の桜木花道の立っている位置は台形内っぽいことが多い気がした。
桜木花道は何度も3秒ルールを食らってないとおかしいと思った。
渡米していた宮城リョータの出現にえっ!?と一瞬、頭が混乱した。
というか、この映画自体がスラムダンク奨学金のための伏線だったのか…と思った。
その中での90点だ。
100点じゃない理由は原作漫画を読まないと理解出来ないからだ。
当時、原作漫画を読んだバスケ経験者の親達は、この映画を観た感動を情熱に換えて子供と日が暮れるまで沢北の父親さながらの1ON1を続けるだろう。
原作者であり映画を監督した井上雄彦は、バカボンドのヒット後にどこかの寺の襖だったか屏風に直筆を描いて日本画の領域に進出した。
結果は散々。漫画は所詮は漫画であり、漫画絵が日本画と肩を並べることは叶わなかった。
かつて、日本映画界はアニメーション映画を日本映画として認めていなかった。
日本映画界が斜陽が限界点を突破した結果、映画産業を水増しするためにある時期を境にアニメーション映画を渋々受け入れた印象がある。
日本のアニメ界はファンタジー性や虚構に拘り過ぎている節がある。
だから身勝手に3.11を風化している扱いにして傲慢なアニメ作品で大プロモーションをしちゃったりする訳よ。
『THE FIRST SLAM DUNK』のようにモーションキャプチャーと2Dライクな3DCGを使ったリアルアニメーションこそ、次世代の日本映画だと思う。
ちなみに、小学2年生になる息子がいる。
高校時代は山王戦でメガホンを持っていた奴らのような惨めな3年間を送った過去のある僕は、子供に運動部の残酷さを味わせたく無いと思っている。
でも、たまに、自宅の庭でバスケットボールを使ってドリブルやパスの練習をして遊んでやってた。
昨年、小学校の七夕に「バスケがしたいです」と書いていたことを耳にした時は狼狽した。
で、今回の映画鑑賞は息子を初めての映画館に連れて行った訳だけど、感想を伺ったらバスケに目覚めなかったらしく、内心ホッとしている。
【ネタバレあり】
「君の名は。」はタイムリープすることで、過去を「変える」物語である。主人公の瀧は、過去の少しずつ忘れられはじめた悲劇を追体験し、不思議な力によって惨劇を回避する。その点において「すずめの戸締まり」では、誰も過去を変えることはできないということが明示される。常世は過去も現在も混在する世界であるし、主人公のすずめは物語の終盤で過去の自分と出会う。しかしそれは過去を改変することにつながるわけではないし、亡くなった母親に常世で再会できるようなことがあるわけでもない。死者は死者である。
「天気の子」における帆高の選択は、「すずめの戸締まり」のすずめとは真逆である。世界なんかより君が大事だと叫び銃をぶっ放して走る帆高に対し、「すずめの戸締まり」ですずめは大震災と愛する人を天秤にかけるという選択を迫られ、愛する人を選べなかった。それにはすずめの過去の震災被害の経験が重くのしかかっている。「天気の子」では帆高の過去は意図的に透明化されているし、帆高と東京とのつながりはどうにも希薄である。
翻って考えてみて、「君の名は。」の過去改変も、「天気の子」で世界よりも君を選ぶのも、エゴイスティックに世界を改変する行為である。「すずめの戸締まり」では人知れず災害を防ぎ、薄氷の上にある世界を昨日と変わらず続ける選択を行う。「大事な仕事は、人からは見えないほうがいいんだ」と草太は言う。世界は微妙な均衡の上に成り立っており、それはいつすべてが灰燼に帰してもおかしくない。
過去の2作品と今作の対比で際立つのは、過去の果てしない重みである。過去は変えられない。過去ははてしなく重くのしかかってくる。人にとっても社会にとっても。忘却するわけではない。でもどこかで区切りをつけて前に進まなければいけない。そのための儀式が戸締まり。鎮める。そうしてまた行ってきます。
「大人の論理、子どもの純粋さ」という対立軸は日本のアニメ漫画文化で普遍的なテーマである。「君の名は。」では三葉の父親を説得するという小さな対決イベントはあるが、メインテーマに絡んでくるわけではない。祖母は組紐の伝統を三葉に受け継ぎ、導く役割を担うが、どちらかと言うと舞台装置として機能している。
「天気の子」では鮮明に「大人の論理、子どもの純粋さ」が対立軸として描かれるが、対立に解決や落とし前をつけるというより、主人公たちがぶっちぎったような形で終わる。また登場する大人は、誰も主人公たちに対して大人としての役割を果たさない。須賀は大人のズルさを持ちつつも精神的には未熟でもある。子どもにたかり、ほぼ無給でこき使い、保身のために投げだす。リーゼントの刑事も少し思うところはありそうだったが、帆高の未熟さに毒づき、押しのけられるだけである。象徴的なのは須賀の義母である。相手と会話しているようで、自分の中ですべて完結している。自分の価値観から一歩も外にでることはない。大人たちが大人として子どもに向き合わず、与えられた仕事や役割をこなすだけ(と描写される)のがある意味現代的ではある。
一方「すずめの戸締まり」では、環との葛藤と和解が大きなストーリーラインを構成する。物語のオモテ面が災害を防ぐため各地をめぐる旅だとすれば、ウラ面は過干渉な叔母から実家への逃避行である。環も、神戸で出会うシングルマザーのルミも、完璧とは程遠い人物である。環はすずめを引き取ったことで失ったものを未だに悩み、無理をして母親像を演じ裏切られると怒りを爆発させる。ルミはヒッチハイクしてきた高校生にベビーシッターをさせて、更に深夜までスナックで手伝わせる。そんな大人だが、二人とも真摯にすずめに向き合う。草太の祖父は、自分の孫が要石にされた状況で、その事態を引き起こした当人に対して「これで良かった。すべてを忘れて帰りなさい」と声をかける。
もともと新海誠はキャラクターの背景や生活史をほとんど深く描かない表現者だった。ほしのこえ、雲の向こう、秒速。ほとんど若者しか登場せず、「どの作品も主人公とヒロインは一緒」と言われることすらあった。心理描写を最低限に、抒情的に美しい風景に仮託して表現し、視聴者が勝手に自分と重ねられるようにする。それを極限まで純化ささせた作家性だった。それがこのような作品を作るまでになるとは夢想もしていなかった。過去の作品を糧にしつつ、全く新しい作家性を手に入れ、見事に作品に落とし込んだ。「新海誠の最高傑作」との宣伝文句は伊達ではないと思う。集大成であるし、ここまで来た新海誠が次に何を作るのかが今から楽しみである。
・すずめとは「鎮め(地鎮)」であり、「ミミズを食べるもの」でもある
・すずめの瞳にミミズが反射して赤いハイライトが差すのが「すずめにしか見えていない」ことと、揺れがおきるたびにミミズを探してしまうすずめの恐怖をうまく描写していた
・冒頭の朝ごはんがやけに気合入っててこんな朝ごはん普通つくれねーよと思ったら伏線だった
大前提として、非実在青少年のころに規制反対の立場でロビー活動をしていた腐女子の人も大勢いた。腐女子が表現規制に無関心だった、とはとても言えない。彼女たちの尽力を踏みにじることになる。
ただ、同時に、「男性向け」表現に対する攻撃の先鋒に立ってきた腐女子の人が大勢いるのも事実だ。
たとえば、これまでBLの路地裏レイプ妄想を楽しんできて、『グラップラー刃牙』のBL妄想が書籍やドラマになったりしてるのに、当の『グラップラー刃牙』作中での性暴力描写に異議申し立てをした人とか、『BLの教科書』という書籍の中で男性向けエロは「モノ化」だが女性向けBLは「モノ化」ではないという超理論を展開した研究者とか、そういう「BL無罪」を掲げる人が目立ってきた。
もちろんフェミニストと腐女子を兼任している人はあくまで少数派なのだろうけど、男性向け表現を攻撃するツイッターフェミニストのbioを見ると高確率でBL愛好家だったりする現象があるわけだ(まあこれに関しては、ミソジニーを撒き散らす自称弱者男性アカウントもかなり高確率で男性向け表現を愛好するオタクなので、お互い様かもしれないが)。
そして、「男性向け基準なら一発で18禁とされているようなエロさの本が、BLではゾーニングせずに本屋に並べられてきた」という現実があり、現在はBLにも「男性向け」並の基準が適用されるようになってきている。
「公共広告」にしても、たとえば「レイプしてきた相手を好きになる」という展開(当然セックスシーンもある)を描いたBL漫画はアニメ化されただけでなくアドトラックまで走っているのだが、まったく問題にされることはなかった。他方で、男性向けは、セックスなど一度も描かれていないような作品を使った広告が、スカートの皺だの巨乳を強調する構図だの夜這い設定だのを理由に(BL愛好家も含むフェミニストたちから)叩かれてきた。これはあまりにも不平等だ。
もちろん、理想は、男性向けも女性向け並みの「緩い」規制に戻ることだ。これなら、男女平等と表現の自由を両立できる。
しかし、男性向けが「乳揺れ」や「巨乳JKとのラブコメ」程度のものに対して国連やら議連やらを動員した攻撃を受けている状況では、その理想はしょせん理想に過ぎない。過激なフェミニストにも表現の自由があり、彼女たちの攻撃を抑圧することはできないし、大学教授レベルでの攻撃が行われている(=次代のフェミニストたちにもその理屈が継承されている)ことを考えると、そのような攻撃が数年できれいさっぱりなくなるとも思えない。
そうすると、現実的な男女平等を求める人たちは、「女性向けにも男性向け並の規制を」と主張するしかない。しかし、それは表現の自由の理念に背いている。
図示するとこうなる。
- | 男女平等 | 男女不平等 |
表現の自由 | 男性向けも女性向けもおおらかに(理想論だが実現は困難) | (この立場は想像できない) |
表現規制 | 女性向けにも男性向け並の規制を(女性向けへの規制強化、現実に起こりそう) | BLはよいが男性向けはダメ/男性向けはよいがBLはダメ(ダブスタクソ親父!) |
左上の立場は理想だ。理想だが、近い将来にこれが叶うとはとても思えない。だったら、近い将来に実現できそうな男女平等を目指そう、と考えて規制派に転向する人が出てきても不思議ではない。
増田は表現の自由という理想を信じているし、理想を高く掲げることを重視する理想主義者だ。だから左下のような立場は支持できない。しかし左下に転んでしまった人たちの気持ちもわかる。だって、現実的に左上なんて無理だもの。男女平等を支持する現実主義者は左下に行くほかない。
私たちは表現の自由という遠い理想を掲げてBLなど女性向けの性表現を擁護するか、男女平等という実現可能な目標のために女性向けの性表現への規制を唱えるか、どちらかを選ばざるを得なくなってしまったのだ。
なんか図が変だなと思ったので書き直した。
- | 男女平等 | 男女不平等 |
夢想的 | 男性向けも女性向けもおおらかに(表現規制反対) | 男性向けの消滅/女性向けの消滅 |
現実的 | 女性向けにも男性向け並の規制を(表現規制支持) | BLはよいが萌えはバッシングする/萌えはよいがBLはバッシングする |
こっちの方がマシな図になっていると思うが、改善案があれば聞きたい。
自由の限界は他者の自由の侵害、他者への迷惑をかける地点なので、「(男女)平等でないこと(性別なりなんなりで差別があること」はそれを発生させる「自由」を制限して当然。選ぶも何も、自由の定義でそうなるのよ。
タイトルだけ見て本文読んでないでしょ。
そのどちらかを選ばないといけないと増田が思うなら、『「表現の自由」を「男女平等」では守れない』し、『「男女平等」を「表現する自由」も守れない』となる。表現と男女性別は必ずしも競合するわけじゃない。
タイトルだけ見て本文読んでないでしょ。
表現の自由より、男女平等より、比べ物にならないくらい大事なのは「おもしろい」ことです。すべては「おもしろい」に使役すべきと思ってます。「おもしろい以外勝てん」です。
タイトルだけ見て本文読んでないでしょ。
エンタメ業界の労働者・経営層の半数以上が女性+マイノリティーになれば、自然と落ち着くべきところに落ち着くんじゃね?歴史的に制作現場もビジネス層も男社会だったのは事実なんだから、そりゃ男目線になるだろ
これを二者択一にしてしまうと、「女性の自由を奪ってでも男性の自由を守れ」という暴論になってしまうんだが、それでも、問わないと答えが分からないのか?
タイ本読
表自的な意味での表現の自由と、誰も可能な限り傷つけず、そのなかで広く意見を認める表現の自由はまず違う。男女平等があるならおのずから後者は達成されている。
タ本
”これまでBLの路地裏レイプ妄想を楽しんできて(略)当の『グラップラー刃牙』作中での性暴力描写に異議申し立てをした人と” ←フェミ系社会学者金田淳子のこと。少年ジャンプの萌え漫画を18禁にしろと主張した。
左下の実例さんオッスオッス。左下に宗旨替えするのは理解しますけど、だったら規制派って名乗って表現規制陣営に鞍替えしませんか? あなたのような、左下に宗旨替えしたのに自分を表現規制反対派だとアイデンティファイし続けてる人が、フェミ腐女子と同じくらいには現状の分断を加速させてるでしょ。
『乳揺れ・巨乳バッシングは過剰だがどこかに18禁のような線引きは止むなし』みたいな立場の存在が議論の中に見えてこない。勿論増田に言わせれば表現規制派になるのは分かるが一まとめにするのは雑ではないか?
そういう人たちが声を上げた結果、「あれだけ表現規制反対って叫んでた男オタクがBLの話になるといきなり規制って言い出した……表現の自由戦士の男オタクは信用できない!」となって分断が加速されています。
細かいところに突っ込んで申し訳ないが、アドトラックと駅、公共施設での広告とはだいぶ毛色違いませんか?。バニラとか、あれ他県からトラック回して審査回避してるよね。アドトラックはかなりダーティなものでは。
えっ? 公道を走っているという点では誰もの目に触れる可能性があるわけでしょう? たとえば購読者じゃないと読めない日経新聞の広告より全然「公共」の広告ですよね?
先日の『月曜日のたわわ』バッシングでは、広告それ自体だけじゃなく、巨乳JKとのラブコメという程度の内容の原作も、東工大准教授の人が国連女性機関の権威を持ち出してバッシングしてたじゃないですか? 『ラブライブ!サンシャイン』のみかんポスターは、原作にはまったく性行為の描写は登場しないのに、スカートの皺が卑猥、という理由でフェミニズム研究の大家からバッシングされて、一部のフェミニストからはエロアニメ呼ばわりされてたじゃないですか? その基準からいくと、男性に対するレイプ描写が普通にあり、性暴力の被害者が加害者を好きになるという展開のBL漫画の広告が公道走ってる時点で、どんな抑制的なデザインだろうがあり得ないっしょ? 『宇崎ちゃんは遊びたい!』のポスターのときは、ポスターのデザインだけじゃなく原作にまでケチつけてるフェミニストの人が大勢いたんだから、仮にそのバッシングを正当だとするならば、当然、アドトラックだけじゃなくて原作の『抱かれたい男一位に脅されています。』も叩かれないとおかしいっしょ?
いや、もちろん『だかいち』が叩かれる必然性は何一つないし、仮にだかいちバッシングが起きたら反対しますよ。でも、あのトラックに公共性がないみたいな理屈はおかしいし、萌えアニメのポスター程度を問題視してきた連中が『だかいち』に何も言わないなら、「BLは特権階級なのか」という不満を持つ人も出てくるでしょう。簡単な話だと思うんですけど何でわかんないんですか?
このBLのアドトラが問題視されないのはトラックの絵には性的な描写がないからだと思う。作品の内容は公共の場には出てないので広告絵単体の比較。もしチンコを強調した絵なら問題になるはず。
「広告絵単体の比較」ならなんでスカートめくりとか夜這いとかの設定をパネルじゃなくてウェブに書いてた温泉むすめはあんなに叩かれたんですか???
たかだかスカートの皺が、ボタンを持って振り向く少女が、デカいリボンの後ろで微妙に揺れる乳が、大学教授やら国連女性機関やらフェミニスト議連やらが出てくるほどの騒ぎになったのに、なんでこのトラックの絵には何も問題がないことになるんですか???
ゾーニングが適切に行われればほとんどの問題は解決するので、ゾーニングを「規制」って考えるんじゃなくて「自由を守る盾」って考えるように発想を転換することから始めてみればいいんじゃないかなあ。
そもそも宇崎ちゃんポスターも高海千歌のみかんポスターも交通安全啓発のご当地VTuberもたわわ広告もゾーニングの必要なんて存在しない程度の表現だったのにあんなにバッシングされてたし、温泉むすめはパネルに書かずにウェブに書いてた設定をわざわざ検索して文句つけたフェミニストの人もいましたよね。服を着た胸のでかい女子大生が煽ってくる広告やスカートに皺の寄ったJKがみかん持って微笑んでる広告や制服JKがボタン持ってこっちを振り向くだけの表現にまでゾーニングが必要、というのなら、それはもう普通に表現規制でしょ。ゾーニングゾーニングって言う人は結局規制論者じゃん。
増田は一発18禁レベルのBL本をゾーニングせずに本屋に並べて、小学生も自由に読めるようにすべきだという考えなの? 表現規制に反対している人でも、ある程度のゾーニングは必要だという意見が大半では?
本屋が自発的にそうするなら止めませんが、法や条例で陳列方法を強制されるのはどうかと思いますよ。そういう書店があってもいいでしょう。親御さんは書店を選ぶ自由を行使してもらえれば……
性犯罪セクハラ被害への理解が進んで減るなら男性向け規制も本来不要でそっち行くべきなのに行かないなら「男性向けだけ規制」だよ。女性向け放置でも現状の女性が受けてる性的消費ダメージを男性は受けないし
マジでBL無罪って考えてるんだ……じゃあBLは性的少数者をモノ化し彼らへのステレオタイプを助長している性的少数者差別コンテンツだって話する? 性的少数者の人たちを「受け」「攻め」というセックス時のポジションで分類するのは彼らの存在をセクシャライズし彼らの人間性を貶める表現なので、性的少数者への偏見がひどいうちは規制されても仕方ない、って話もしよっか? 少なくとも同性婚すら実現してない国でやっていい表現じゃないよね? 私はもちろんこんな主張には賛成しないけど、あんたらの理屈を敷衍するならそうなるよな?
ところで、容姿端麗な女性しか採用しないと明言している劇団が仮にあったとしたら、女性に対する容姿差別を助長するわけだから、女性差別劇団として攻撃されても仕方ないんじゃないの? 仮にその劇団がBL的な演目をやってたら、それは性的少数者への文化の盗用だから、欧米の基準ではありえないよね? 仮にその劇団が濃い目の肌色になるようなメイクをして『アイーダ』を上演してたら、それはブラックフェイスだからアメリカでは一発でキャンセルされるやつじゃん?
え? その劇団に女性ファンが沢山いればセーフ? ラブライブにも大勢の女性ファンがいたけど焼かれましたよね? 女性ファンの存在はそのコンテンツが女性差別的であることを何ら免罪しないってことでしょ? まして性的少数者からの文化盗用やブラックフェイスは、女性ファンの存在では免罪されないどころか、むしろ他者への客体化だから余計に罪が重くなるんじゃないの?
もちろん私は仮にそんな劇団があったとしてもそれを攻撃するつもりも規制を主張する気もないけど、男性向け文化は有罪だけど女性向け文化は無罪、っていう態度をいつまでも採るなら左下に闇堕ちするぞ。性的少数者のモノ化やブラックフェイスという誹りから女性文化が逃げられるだなんて思うなよ。死なばもろともだ。
巨乳女子大生がウェイトレス姿で注射が怖いのかと煽ってくる献血ポスターが女性のモノ化で女性蔑視、胸元のリボンの後ろでよく見ると胸が揺れてるヘソ出しルックのVTuberは性犯罪の誘発なんでしょ? 仮にそれらの理屈を是とするなら、MSMの人たちをステレオタイプに描いたジャンルであるBLは差別扇動だし、美女ばっかり集めた劇団が濃い目のドーランで『アイーダ』やるのはルッキズムとブラックフェイスの合わせ技でキャンセル一択でしょ?
https://anond.hatelabo.jp/20221016140905
2040 年前後、高度成長が一段落して成熟化した経済と喧伝される時節であっても
「バイデン老師は中国に於ける半導体産業興隆の父である」と大陸の業界関係者に
所謂、産業政策の観点からは 4 nm 以降の製造プロセス、製造や検査等の装置、
シリコンを代替可能な新素材の基礎研究に至るまで、純国産化を躊躇する理由が
arm や RISC-V の後継規格による SoC が HPC 、データセンタ、消費者向け端末等を
某社が PS3 Cell ブロードバンドエンジンで実現しようとしたことを具現化されますなぁ。
産業界と政治、官僚機構の回転ドア故の属人的な要素が悪い方向へ働き
ネガティブフィードバックを止められないといったところが、内実なのかもしれませんが
根拠のない皮算用 w で単年度 ¥ 8,000 億、20 年、短期的な成果を訴求せずに
ふむふむ
こんだけ頑張れば異例の正社員登用されるはず!とか
モラトリアム延長してやり過ごすとか、思い切って海外行くとか。
いっそのこと起業でもしちまえば良かったじゃんか。
切り替えて地道に実務経験積んで手に職をつけるとかしなきゃ。
まあ鶏が先か卵が先かみたいな話になっちゃうけど、
救いようのない奴だからそういう状況に陥るんだろうな。
そんな奴、何歳だろうと何処からもお呼びがかかるわけない。
てか中高生の時点で分かってたっしょ。
なんて奴は産業廃棄物以下の扱いされるって。
起業狙ってそのまま最底辺を歩むことになったやつもそれなりにいるだろうね。
だって絶望的に弱い立場だから。売れない苦しみと足元を見てくる重みで奈落に沈むのが起業だ。
にも関わらず起業が増えれば日本が復活だというバカと、弱くて食える餌がほしいという獣の狂想曲が起業煽りだ。
労働者は景気が良くて労働需要が強いときに嫌なら転職すると強い立場になれるんだ。ついでにいうとひよっこ起業家が悪いやつの食い物にされずに軌道に乗るにも景気が良い必要がある。
まあマクロ経済はどうにもならんし、ベストな立ち位置は狙うべきだし方向転換は必要だろう。
しかし、デフレでも緊縮財政を狙ったり、資金循環を悪くする新自由主義を熱狂的に指示したのも氷河期世代だから、小泉とか竹中を信奉してアイツラの代弁者となってたアホは反省する必要があるな。
タイトルの通り。最近話題のTwitter文学である麻布競馬場作品
東京でもがいている若者からもうそれではない何者たちの解像度が異常に高い。自分はその中の人々とは違うと感じつつも何故か重なる気がするから不思議である
「何者にもなれなかった」という感覚だけ共有している気がする
ここで自分語り、これが目的と言われればそれまでだけど、何が重なるのか客観視したい
九州の田舎の進学校から旧帝の大学へ。なんなく就活もこなし、銀行に就職。飽きて転職。20代で年収1000万円に手が届いた。早くに結婚して子供もいる。都内にこじんまりとしたマンションも買った。
中華ポータブルオーディオがすごい。
有識者に言わせれば、それこそ「何を今さら」な話題だと思うが、2000年代日本国内で興きたポータブルオーディオブームから数えて二十数年離れていた筆者からすると今の中華ポータブルオーディオは本当にすごい。
ここでさっそく筆者の年代を挙げれば現在30代であり、青春の10代を振り返れば「iPod」が登場し、日本国内で大きなシェアを持っていた「MiniDisk(MD)」が徐々に斜陽化していっていた。
筆者も例に漏れずMDプレイヤー、そしていわゆるiPodに代表されるMP3などを中心に扱った「シリコンオーディオプレイヤー」という遍歴を辿る。
ただ、筆者と同年代であり同時期に青春時代を過ごした者であるならば、Webメディアで語られるポータブルオーディオの歴史とは些か違った遍歴を歩んだという者も少なくないのではないか?(※HDD搭載iPodは厳密にはシリコンオーディオプレイヤーではない)
世の成人したアーリーアダプターたち(主にApple系コミュニティの人たち)がiPodへ熱狂するそのとき、日本で青春時代を過ごした我々が熱狂したのは「Playstation Portable(PSP)」だったのだ。
もしかしたら年代が10歳前後離れているだけで当時のPSPの勢いを肌で感じることは難しかったかも知れない。
一部の成人ゲーマーなどは「モンスターハンターポータブル」あたりでPSPを頻繁に持ち出していた可能性はあるが、実はそのときの学生世代の間ではPSPはiPodと肩を並べ、用途によってはiPodを凌駕するポータブルデジタルメディアプレイヤーとして運用がなされていたと聞くと驚く人も居るかも知れない。
何せ「当時のPSPはゲームソフトを持っていないのにPSP本体は所持していたという女子学生が存在した」くらいなのだ。
これは当時のiPodでは起き得ないことであり、陰鬱としたオタクというイメージが現在のオタクのイメージへ転換していく過渡期の中でPSPは少なからず影響を与えたハードウェアとして記録していく必要があるように思う。
筆者と同世代のオタクであれば「2ちゃんねるニュー速VIP」ブームを経て、YoutubeからのBANや動画の違法アップロード祭りなど古今東西どう考えてもアウトな「ニコニコ動画」のローンチなどを経験したと思うが、怒られ叱られ叩かれ裁かれ逮捕者を出しながらも独自と言って良い文化を形成できた。
当時の動画の違法アップロードで一番の被害者であった角川書店とドワンゴが今では同じ会社になるとは時代の変化とは恐ろしいものだ。
そういった独自の文化の中心にあったのは「東方」「アイマス」「ボカロ」のいわゆる「ニコニコ三大ジャンル」ではあるが、それらとほぼ同時期に萌芽するのが「歌ってみた」「踊ってみた」である。
そして歌ってみた、踊ってみたの興隆を後押しするのが「涼宮ハルヒの憂鬱」であり「ハレ晴レユカイ」なのだ。
先に挙げたPSPが当時の若い世代に支持された理由がMP3のほか、大画面でMP4動画を再生できたからで、しかもPSPの動画プレイヤー機能はコマ戻しコマ送りが物理ボタンで可能だったこともあり、特に踊ってみたジャンルで練習するためのハードウェアとして選択された。
更にPSPには別売のRCA(赤白黄)変換ケーブルによってPSPの画面をTVなどのディスプレイモニターへ出力することも可能で、アニソンや電波ソング、ボカロソング、ゲームソング、同人ソングなどの配信が乏しかったカラオケ店へPSPを持ち込んでカラオケ機材へPSPを接続しカラオケ配信楽曲以外を歌うという手法が現れた。
これへ呼応するように登場したのが勝手に字幕を付けてカラオケ用動画とする「ニコカラ」だ。
特にアニソンやゲームソングでは無許可で版権素材を活用した高クオリティで手のこんだニコカラ動画も存在しており、JOYSOUNDがその需要に気付くまで人気を博していた。
稀に「なぜあんなにPSPが売れているのかわからない。モンハンだけじゃ説明付かない」というガジェット好きが居るが、ニコニコ動画を中心としたサブカルという背景があり前述したように「当時のPSPはゲームソフトを持っていないのにPSP本体は所持していたという女子学生が存在した」ほど売れていたのだ。
PSPは当時のSONYが夢想したマルチメディア戦略の中でほんの一部界隈(ほぼサブカル界隈)でだけ成功を収めていた事実は周知されておくべきだろう(UMDやPSP Goとかで失敗してるけど)。
そしてその需要をiPod Touch、iPhoneが奪っていくというのは知られたとおりだ。
多くの人々が音を聴くようになれば良い音質で聴きたいという需要が生まれるのは必然。
iPod登場当初その付属イヤホンの品質の低さが取り沙汰され、MD Walkman派やアジア系ポータブルオーディオプレイヤー派から揶揄されるたびApple信者が「あのイヤホンは音が鳴るか確認するためのオマケ。欧米ではそれが普通。付属品にまでケチ付けるのは日本人だけ」などと言い訳し擁護していたらAppleが競合他社と同等品質まで付属イヤホンの品質を引き上げるというお家芸の梯子外しがあったこともあり、その煽り合いが起きた前後で音の良いイヤホンへ注目が集まり始めた。
最初期に評価されたのはバランスドアーマチュア(BA)型ドライバー本家本元であるEtymotic Researchからリリースされていた「ER-4」だった。
BA型ドライバーは従来のダイナミック型ドライバー(DD)と比較して小型軽量に製造することが可能で、音を発生させる振動板の質量も小さかったため慣性の法則的に非常に反応が良く、iPod付属イヤホンの低品質さも相まって高い評価を受けることになる。
続いて注目されたのがマイクで有名なShureの「E5c」だ。
こちらもBA型ドライバーを何と2基も搭載したリッチなモデルで、BA型ドライバーはその構造上音域が狭くなりがちなのを高音域〜中音域用と中音域〜低音域用に2基とすることで欠点をカバーした製品だった。
更にER-4は現在主流の耳栓型イヤーチップとは形状が違う長めのイヤーチップを採用していたこともあり装着者を選ぶ傾向にあったが、E5cはSONYが売り出して大流行を果たす現在主流の形のイヤーチップを採用しており広い範囲の装着者をカバーできた。
しかしこれら評価の高いイヤホンは学生の懐には大変厳しいという問題があった。
ER-4は約4万円、E5cに至っては約6万円でとてもとても学生には手が出ない高級品であり、着メロの打ち込みから端を発したDTM小僧だった筆者はなけなしのお年玉をはたいて有名ミュージシャンがレコーディングでよく装着しているヘッドホンSONYの「MDR-CD900ST」を約2万円で購入し愛用していた(ちなみにこのMDR-CD900STは修理しながら今でも現役)。
しかし流石にいつでもどこでもMDR-CD900STを常用というのは辛くあり、当時評価の高かったSONYのイヤホン「MDR-EX90SL」を常用するようになる。価格は約1万円。
しかしMDR-EX90SLはBA型ではなく従来どおりのDD型、無論MDR-EX90SLには評価されるだけの音質があり十分に満足していたのだが、BA型イヤホンへの想いは募るばかりであった。
それから二十数年、社会人としてもそこそこ経験を積み、ちょっと頑張ればBA型イヤホンも買えるようになりBA型イヤホンをいくつか購入した後にポータブルオーディオからは距離を置いていたが、何故かふと近年話題の中華ポータブルオーディオへ興味を持った。
調べてみると本当にすごい。技術の進歩と大量生産により当時憧れだったBA型イヤホンが当時のMDR-EX90SLと同等価格どころか下回る価格で販売されているではないか。
これはもう実際に入手して試してみる他ないとさっそく動いた。
最初に入手したのがKZの「AS16 Pro」で、これは以前に「AS16」というイヤホンがありブラッシュアップして登場した製品。価格は約1万円。
AS16 Proはこの記事を懐かしく読んでいて今まで中華ポータブルオーディオへ触れてこなかった読者は驚くはずだ。
なにせAS16 ProはBA型ドライバーを搭載しているが、その搭載数は片側8基、LR両側で合計16基というとんでもない搭載数を誇っている。
これが約1万円で買えるのが中華ポータブルオーディオの世界。
その音の傾向はBA型ドライバーのみを多連装しているだけあり全音域がハイレスポンス、機敏に発声し無駄な余韻なく消音する。音と音がよく分離しており違いをはっきりと聴き分けることができる。
低音域と高音域が少々強調された弱ドンシャリ型のチューニングがなされていて現代のイヤホンでは派手な鳴りが好まれる傾向にありAS16 Proも例に漏れず弱ドンシャリの派手な鳴りだ。
ハイレスポンスで音の分離感が良いと言っても音楽制作用のMDR-CD900STのような分析的な鳴りではない元気でエネルギッシュ、タイトなサウンドの多い電子音楽を聴きたくなる鳴りだ。
ただ逆に言えばレスポンスの良さは空間表現の苦手さにも繋がっており、MDR-CD900STでは継続する余韻がブツ切りするかのように消えてしまうことがあるのは気になった。
ホールの残響感も音楽の一部と捉えるようなオーケストラなどは少々苦手な音楽ジャンルと言って良いだろう。
本当に鳴りがハイレスポンス&タイトなので筆者はボカロソングが多数収録されるリズムゲーム「プロジェクトセカイ」や、電子音楽も多数収録される定番の「アイドルマスター シンデレラガールズ スターライトステージ(デレステ)」、なぜサ終してしまうのか「東方ダンマクカグラ」をプレイし、思った通りリズム隊がよく聴こえる事を確認。
現代のポピュラー音楽リスニングに、リズムゲーム用のイヤホンとしてAS16 Proは非常にオススメだ。
ハイレスポンスなBA型ドライバーだが欠点がないわけではない。
その構造上の制約でBAドライバー単体ごとの音域が狭くなりがちで結果としてBA型ドライバー複数基を多連装することで欠点をカバーしているのだが、音というものは低音域ほど大きく空気を動かす必要がある。
小型軽量のBA型ドライバーは小型軽量であるが故に低音域になればなるほど鳴らすのが苦手という制約を持っており、非常にタイトな低音域を持つが深く沈むような表現が不得意なのだ。
それをAS16 ProとMDR-CD900STの比較でしっかりと認識した筆者が次に手に入れたのがTRNの「VX Pro」だ。
AS16 Proと同様に片側8基、LR両側計16基のBA型を多連装しつつ、従来のDD型を片側1基、両側2基を搭載する、全ドライバー18基ハイブリッド多連装という化物スペックなイヤホンである。
このスペックでVX Proも価格は約1万円。とんでもない価格破壊。
VX Proは高音域から中音域にかけてまで非常にハイレスポンスでありながら、低音域を担当するDD型のお陰で低音が発音する際に大きく空気を動かせてAS16 Proと比較して低音域がよく沈む。
耳が従来のDD型に慣れているというのもあるだろうが、この低音域の感覚は非常に好ましく、万人へAS16 Proとどちらをオススメするか?と言われると筆者はVX Proを推す。
AS16 Proのハキハキとしたタイトな低音域を好む人も少なくはないだろうが、迫力ある豊かな低音域のほうが万人に好まれる傾向があるのは確かだ。
VX Proも現代イヤホンらしく鳴りは派手、高音域と低音域が少々強調された音楽的な弱ドンシャリ型のチューニング。
キラキラと分離感のある高音域と、しっかりと空間を感じられる低音域はあらゆる現代ポピュラー音楽を聴きたい衝動に駆られる。
昔話も絡めて話しているのだからココは様々な楽器音が飛び交って音域も広い「ALI PROJECT」はどうだろうか?もちろん最初に再生するのは「禁じられた遊び」「聖少女領域」だ。
音楽制作でミキシング経験がある者ならばわかるだろうが、別々の楽器であっても担当音域が被ると両方とも目立ちにくくなってしまうことがある。
例えばそれが現代ポピュラー音楽では重要なボーカルと、そのボーカルを支えるバックで流れる楽器の音域が被るとボーカルも聴こえにくくなってしまう。ミュージシャンはそれを経験則的に知っているのでミキシングの時点でイコライジングして聴感上のバランスを取る。
それと同様にミュージシャンが例えイコライジングしていても音域の分離感が悪いイヤホンだと各々の大事な要素が被ってしまい聴こえにくくなるのだが、VX Proはそれがほとんど無い。
ボーカルはボーカル、ブラスはブラス、ストリングスはストリングスとしっかりと"書き分け"ており、オーケストラサウンドをフューチャーしたプログレッシブロックALI PROJECTが誇るバックバンドを聴かせつつ、宝野アリカの表現力のあるボーカルを損なうことがない。
特にDD型によるベースラインの深さは特筆に値する。底がしっかりしているおかげでALI PROJECT全体の音楽が世界観が明確になる。単に目立つ派手な高音域ばかり推せば良いわけではないのだ。低音域の支えによる相対的なコントラストが輝くような高音域を演出するのだとVX Proは教えてくれる。
欠点がないわけでない。
やはりDD型の宿命か、タイトさが求められたときフルBA型構成であるAS16 Proの歯切れの良さが勝る。まさに得手不得手の問題だ。
同時に2つ紹介しているのはKZの「ZAS」とCCAの「CA16 Pro」はハウジング筐体デザインが違うだけの姉妹製品だから。CCAはKZのサブブランドのような立ち位置であるらしい。
実際に購入する場合はハウジング筐体デザインの違いや販売価格を吟味して購入すると良いだろう。
ちなみに1万円以下8千円前後くらいの価格の安さも魅力だ。
筆者が購入したのはKZのZAS。
箱出しで早速聴いてみたが何と音がスッカスカ。事前のレビュー調査では低音域が非常に豊かであると触れ込みだったのだが・・・。
実はZASには罠がありZASの性能を十分に発揮するには付属のイヤーチップが低品質過ぎる。これも多くのレビューで触れられているので筆者も先人の導きによって神奈川県所在の株式会社Finalが販売しているイヤーチップ「TYPE E オールサイズ」を別途購入した。
ZASの優れたコストパフォーマンスがサードパーティイヤーチップを別途購入することで少々損なわれるのは口惜しいが、自身に合ったイヤーチップのサイズ感を調べるきっかけにはなったので良しとする。
Final TYPE Eイヤーチップへ交換し再度ZASで聴いてみると派手を通り越した大げさと言って良いチューニングだ!事前のレビューで読んだ通り低音域は前へ出ており深く深く沈んでいく。
ZASのドライバー構成はBA型が片側7基でLR両側計14基、DD型が片側1基でLR両側計2基、合わせて16基ハイブリッド多連装構成で当然ながら低音域はDD型が担当し、BA型が高音域〜中音域を担当するという仕様だ。
前述した通り、もう本当に低音域がすごい。
試しにTVアニメ「アイドルマスター XENOGLOSSIA」のオープニング曲「微熱S.O.S!!」を聴いてみる。
冒頭一発目から入る超重低音が特徴で、曲中もキックやベースが非常に目立つのだがZASで聴くともうブルンブルンだ。
BA型よりも大きく重いDD型の振動板がこれでもかと震えているのが感じられ、そのせいで耳たぶも一緒に振動してるんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。これは笑うしか無い!
続いてはアニメ「魔法先生ネギま!」からオープニング曲「ハッピー☆マテリアル」だ。
冒頭のバスキック三連打が気持ちよく、そして低音域だけど思われがちなZASだが14基のBA型がタイトにハキハキと高音域〜中音域を発音し、豊かな低音域を更に深めてくれるように感じた。ZASは低音マニアへ是非とも奨めたくなる非常に面白いチューニングになっている。
学歴がよくなくて、就職が困難だったので中小 SIer で働いていた。 (プライム案件を取ってこれる分マシらしい)
レキサルティ、レクサプロ、デパスのお世話になって続けてたけど、結局は薬でどうにかできず、辞めてしまった。
参考程度だけど、未経験の人が 300万 をもらうために、どのようなスキルが必要かを、まとめておく。
ちなみにどれくらいプログラムが書けなかったかというと、競技プログラミングで努力しても AtCoder の黄色になれず青色のままってくらい。
AtCoder でいう、初心者から抜け出せないという、要するにセンスがないということなのだけど、そういう人も居そうなので、参考までに。
未経験のプログラマに対して、これだけ要求されるのだから、未経験の人は覚悟するようにという指針を提供したいので書いた。
基本的に、損害を与えた場合には、それを作業者が補填するという誓約書を結ぶ。
要するに、捨て駒として扱って、失敗したら賠償しろ、という事になる。
このことを認識して、失敗しないように振舞ないと、連帯保証人含めて迷惑をかける事になる。
要するに、低賃金で未経験プログラマを案件にノーリスクで送りこんで、稼ぐための手段です。
基本的に PL (夢想家) → PM (御用聞き) → プログラマ という環境なので、プログラマが自分でディレクションして意思決定する必要がある。
例えば、下請けの場合は、PM の御用聞きの結果の WBS に合わせないと、顧客から DM で 瑕疵担保責任がどうとか言われる。
社内開発の場合は、PL の方から直接、長時間の叱責を受けなくてはならない。
そういう不幸を防ぐためにも、自分でディレクションして、PM の決めた実態を反映していない WBS に合わせて作業するスキルが要求される。
基本的に手戻りは個人の過失になってしまうため、手戻りしないように考え抜いて意思決定をする、というのが重要になる。
これこそ、ガクチカと呼ばれる、頑張れますというスキルなので、学生時代に頑張っておけばよかったなぁ。
こう見せたい、こう表現したい、という事を伝えるには、必然的にデザインの知識が必要になる。
創造的思考とデザインは切っても切り離せない概念で、デザインとは創造なのだから、当たり前である。
ソフトウェアアーキテクチャも、ソフトウェア設計も、コーディングもデザインと言えるかもしれない。
顧客と 1:1 で話す事が DM でもボイチャでも突発的に発生するので、いつ、いかなる時でも論理武装していなければならない。
まぁ、顧客であったり PL であったりはキレるのが仕事なので、それに対して理路整然と説明する必要がある。
なんとなく、では納得しないし、すぐ損害賠償請求とかそういう話にいくので、答えられないと持ち帰りますとお茶を濁して、エマージェンシーになる。
後述する設計能力においても、課題を把握するための言語技術(言語化能力)は重要なファクターだと思う。
C/C++ のシステムプログラムはフレームワークが基本的に無いので、自分で概念を整理して、どのような変更、拡張があるかを考えて設計する必要がある。
この能力が弱いと、手戻りが発生しやすくなり、瑕疵担保責任を問われることになる。
読んだ本の中だと、ボブおじさんの本が、やっぱりしっくりくるなという個人的な感想がある。
UDP で送ってくるデータを受けて 24/365 で停止しない WebAPI への繋ぎ込みという簡単な作業があって、振られた。
リークしてはいけないという事で malloc は禁止で、グローバル変数を利用するという変なルールがあった。
Rust で書けばいいんじゃないかなと思ったけど、Rust 書くのもシンドイし、C/C++ で、しんどくて読みづらいコードを書いた。
あとで保守する人が大変そうだけど、そういうルールを決めたのは PL だしね。
なんか、特殊な PCI Express のカードからベンダーが用意している SDK でデータ引っこ抜いて Web API へつなぎ込む部分をやった。
一応、SDK の使い方をパラ見して 1 日で作ったので、別に負担じゃなかったけど、素人にやらせるんなとは思った。
当たり前だが、DB 作って RestAPI を生やすのは現代のプログラマにとって自然にできなければならない。
なので、新規開発のサブモジュールのバックエンドを任せられた。
だが、ORM の癖を把握したり、発行されるクエリを確認したりするのは、疲れる。 SQL を直書きするのはシンドイ。
結局 SQL を直書きすることにしたけど、あまりいい決断ではなかったと思っている。
それ以外は フレームワーク に乗ってしまっていいので、書き捨てる分には楽だった。
最近だと、TypeScript で Prisma 使うのが、型安全でよさそうだなと思っている。
デプロイを EC2 直でやったり ECS にしたりとしていたので、ベアメタルの知識が必要になった。
要するに systemd のいじり方とか、死活監視の仕方とか。
個人的には、クラウド嫌いなので、ベアメタルの方が安心できる。
Bind で権威DNS を管理して、postfix で絶対止めてはいけないメールサーバを管理するとかもあったけど、出来て当然ではある事だし。
未経験プログラマでも、月単価 100 万以上で顧客に請求してるんだから、会社はそりゃ儲けるだろうと思った。
会社が一人前の経験N年のプログラマといったら、その通りに振舞う必要がある。顧客に責任はないのだから。
当たり前だが、Webディレクション、Webデザイン、Webプログラミング, Webマークアップ は、全て作業者であるプログラマの仕事になる。
個人的には、これが分かれている理由が良く分からないけど、分けたい人がいるんだろう。
デザインで、CSSフレームワークを使うと、その色が出るという事で、全部 CSS は手書きしていた。
tailwind が出た現在では使っていればよかったなと思う。
結局、全く分からない中、手探りでデザインし、コードを書いて、顧客に 1 日 5 ~ 10 回リリースするという行為をした。
顧客は大手企業だったので、自社のエンジニアならもっと出来る、と叱責されまくったけど、だったら自社でやればいいじゃんと思った。
一応、今でもサービスは生きていて、ユニークユーザ数は上がっているらしい。
そして、焼き付け刃だったので、 WAI-ARIA を知らず、アクセシビリティへの配慮が足りない事が問題になってしまった。
これはなんとか保守対応にねじ込めたのでトラブルにならなかったけど、瑕疵担保責任と綱渡りだなと思った。
当たり前だが、リリースサイクルを短くしないと顧客はキレてしまうので、CI/CD を整えないといけない。
今は Github Actions とかあるけど、昔は無くて Bitrise が高いからみたいな理由で Azure Pipelines で CI/CD フローを構築した。
もう Multi Stage Pipeline になってるだろうけど、Release Pipeline が GUI からしか設定できないのが辛みだった。
当然だが、デプロイするためには IaC を整える必要がある。
これを知らずに、コンソールでポチポチしていたので、 IaC 出来てない事がバレた時に色々怒られてしまった。
本来はテストも自動テストを整えて、質保証をしてバグを減らさなければならない。
だが、テストを書くという手間を払えなかったので、人力テストしかできなかった。
一応、リグレッションテストを人力でやりまくったので、バグ発見曲線が結合テストでの IF 不一致しかない、という結果にはなったけど
自動化できれば費用が必要じゃなかったから、怠慢だと、責められてしまった。
未経験でも誓約書を盾に、振られた事全部を出来なくてはならない慣習があるので、プログラマはそんなに良い職業じゃないよ。
甘い考えで、プログラマになろうと思っているのなら、考え直した方がいいです。
この増田と同じ事を男が言ったら女性差別とかミソジニー拗らせてるとか面白いに性別は関係ないって言われるの地獄すぎんか?
というより
「女性への無意識の差別や夢想という臭くて食えないメシを避け、リラックスできるよい作品を定期的に買っていたら自然と買い支えになっていた」だと思う
というより
「女性への無意識の差別や夢想という臭くて食えないメシを避け、リラックスできるよい作品を定期的に買っていたら自然と買い支えになっていた」だと思う
まあゴルゴとかルパン三世みたいなどうみても嘘なのはいいし逆に萌えられるんだけど
あんなものを呼んでも既得権にあぐらかいて会社の利益おとしてドヤ顔😊してる古臭い邪魔なだけの実質窓際族おっさん上司の湯飲みに雑巾汁しぼりいれたくなるだけ
絶対こいつ生理痛ないし生理こないし強姦されそうな隙だらけでいて妊娠もしないから男と旅行して風呂入るときも安心して脱ぐし
夢盛りお人形感満載!っておもっちゃう。超能力与えられたセックス人形だろそれ。
しかもそれを「人間のなかでも低年齢な女児なら生理妊娠警戒感全部なくても自然ですよね?」ってやりだしたら🤮🤮🤮
作者が資料と称して女児に手を出して逮捕された(複数人いるhttps://rank1-media.com/I0004483 )やつも🤮🤮🤮
私は生理が重い日は痛みと貧血が酷い。生理中朦朧としながら電車をホームで待っている間、生理のことを怨みながらバカなことを夢想する。
「もしこのまま意識を失ってホームに転落したらただの事故と思われるんで体中に“生理中です!”って書いておこうかな。そうしたらニュースになって生理に優しい社会が来るかもしれない(来ません」
「生理って月に1週間ぐらいあるから、ホームに立っている女性5人に人は生理かぁ。10人に1人ぐらいは辛いでしょ?もう生理が嫌になった皆で鞄を線路に投げ捨てませんか?そしたらニュースになって(略」
ただ女に産まれたことから来る怨みや妄想も生理が終わるとスっと消えて日常に戻る。
女性全員が一斉に生理なら暴動が起こってたかもしれないが、5人〜10人中に1人生理中で辛くても社会はどうってことない。
でも辛い間ぐらい愚痴ったっていいでしょ。
俺は疲れました。
中産階級の家庭に生まれて、食べ物や着る服に困ったことはありません。受験のための塾代や、その結果通うことになった私学の高い学費も親が全部出してくれました。
両親も祖父母もまともで、どちらかと言えば教養に富んだ人達です。暴力を振るわれたりなんて、1度もありません。ああ、それはちょっと嘘でした。一度だけ、ピアノの練習に飽きてしまいピアノの前で寝そべりながらただをこねる俺の頬を父が引っぱたいたことがあります。でもそれだけです。暴力を肯定するわけではありませんが、家庭内の躾の範疇に収まる話だと思っています。
友人も、友人と言っていいのか分からないけど、俺が一方的に友人と思っている人物も好人物ばかりで、俺みたいなのに声をかけてオンラインゲームやカラオケに誘ってくれます。
多分、俺みたいな生活すら出来なくて苦しんでる人達は沢山いるのでしょう。アフリカの恵まれない子供たちでなくとも、この日本にはきっと俺より苦しんでる人がいます。
ニュースでも見ました。親が宗教にハマっていたり、DVに晒されていたり、奨学金の返済に苦しんでいたり、日々暮らすだけの食い扶持にすら苦労している人がいるそうですね。
すごく可哀想だと思います。なにかしてあげたいけれど、何ができるかよく分かりません。
俺は大学生で、そこまで金を持っていません。ボランティア活動もどうやったらいいか分かりません。コミュニケーション能力が低いので、あまり人と関わるのを避けて生きてました。人を喜ばせたいと思っても、慰めたいと思っても、なんて言えばいいのか分かりません。人と話せはするのですが、自分でもよく分からないタイミングで言葉に詰まってしまうことが多々あります。言葉を紡ぐのは嫌いじゃないんです。日記を書くのは楽しいです。でも瞬発力がないので、テニスのラリーと同じくらい会話が下手くそで、いつしか苦痛になっていました。そんな人間なので、ボランティア活動みたいな崇高なものには手を出さず、バイトで稼いだ金を思い出したように募金するのが精一杯です。
よく分からないけれど、俺がコンビニで募金箱に入れる釣り銭がなにかの役に立っていたらいいなと思います。
俺は疲れました。
将来は何がしたいの?
そう聞かれる度に俺は真綿で首を絞められるような気持ちになります。
俺は何がしたいんですかね。よく分かりません。
趣味は読書と映画鑑賞です。別に読書家でも映画マニアでもありませんが、平均と比べればそれらに多く触れている方だと思います。週に1冊は小説を読みますし、月に数冊漫画を買います。2ヶ月に1度くらいは映画を見るので、元が取れるからとTOHOシネマズの会員です。よく笑い、よく泣く方です。最近ではスパイダーマンNWHで号泣しました。
でも別にそれらを職業にしたいと思いません。物語なんて書けないし、接客も上手く出来ません。
俺が進んだ大学が少し知名度のある大学だからでしょう。運良く俺は中学受験に成功し、そこからエスカレーター式に大学へ進学しました。大学の入学を祝って身内からかかってきた電話の喜色に満ちた声を覚えています。彼らはなんの悪意もなく、ただ俺の未来に期待しています。
幼い頃は弁護士になりたいと言っていました。本当は名探偵や怪盗になりたかったのです。夢水清志郎と怪盗クイーンとシャーロック・ホームズに憧れていましたが、小生意気なガキだった俺は、それらが存在しないことを知っていたので、周囲に喜ばれる職業を触れてまわったのです。
弁護士になるんだろ、と言われていたのは中学生の時までです。それ以降はやりたいことをやりなさいと言われるようになりました。少しずつ将来に疑問を持ち始めた俺を気遣うように、それでも親族は肯定して応援してくれました。
今俺は大学生です。本当に申し訳ないのですが、かなりのクズ野郎です。
虚言癖があります。嘘をつくのは嫌いな方だと、そう思っていました。しかし自分でも無意識のうちに見栄を張るための嘘をついては、その日の夜に自室のベッドの中で後悔します。
先延ばし癖があります。提出の課題は完成度60%で締切二分前提出か、もしくは1週間近く遅れて提出します。テスト前の詰め込み作業すら先に延ばすので、とうとうまともな成績は取れなくなりました。昔は、小学生の頃は、平均点より上どころか満点に近い答案を持ち帰っては「別にこれくらい普通だけど」みたいな顔をする小生意気なガキでした。親も喜んでくれていました。今では成績表が送られてくるたびにずらりと並ぶCやFの文字を見て、遠慮したように「卒業を目標にしようか」と言ってくれる母に本当に申し訳ないです。
約束を守れません。先延ばし癖の亜種だと思います。友達と交わした集合時刻を守れた試しがありません。酷いときには存在を忘れます。申し訳ないのでそういうときは後日飯を奢ったり何かの形で詫びをしますが、そんな人間と縁を切らずにいてくれる友人たちには頭が上がりません。
でも俺はなにかに熱中したり、さんざん苦労して何かを掴み取るということが出来ません。ダイエットや勉強のような、目に見える成果がすぐに現れない事柄に対して、まるで集中力を示せません。唯一小説や映画のような物語の中に入り込んでいるときだけは無類の集中力を発揮できますが、他人が作り上げたコンテンツを消費するときの集中力なんてなんの取り柄にもならないと知っています。
将来の自分が想像できません。資格や専門性のある知識もなく、愛嬌も人徳もありません。
看護師である母のような、人の役に立つ仕事を尊敬していますが、自分にはそんなことは出来ません。
変に理屈っぽく、でもどこか夢想家で、コミュニケーションが不得意な社会不適合のクズが、どうやって生きていけばいいのでしょう。
俺を産んで愛して育ててくれた母に、土下座して詫びたいと思います。俺がこんなにカスなのは俺の責任であって、あなたは何も悪くないんだと言ってやりたいです。
なんのために生きているのかよく分かりません。ひとつなぎの大秘宝の謎や工藤新一と毛利蘭が再び高校生になって幸せに暮らせるのかどうかは気になりますが、別にそのために明日を生きようとは思いません。
友人とやるマインクラフトやAPEXは楽しいですが、別にそのために明日を生きようとは思いません。
小説や映画は好きですが、別にそのために勉強や、ゆくゆくは就くであろう仕事に精を出そうとは思えません。
俺が死ねば誰かの命が助かるのなら、今すぐにでも死にたいです。俺の臓器は多分健康なので、太り気味で多少脂肪がつきすぎているかもしれませんが、俺よりも生きたい人の役に立てるのならあげたいです。他人の役に立ちたいという気持ちもあります。でもそのために自分が骨を折ったり努力するのは嫌です。最低ですね。知ってます。
俺がまだ死んでいないのはひとえに母親のためです。世界で最も俺を愛してくれた母親に、お前の子供は自分の人生を無意味と断じたのだ、などと突きつけたくないのです。愛してくれました。大切にしてくれました。俺がクズすぎて、彼女の愛を生きる理由に変換できなかっただけです。もしも母がいなければ、俺は既に何らかの手段で能動的に自死を試みていたかもしれません。
母親には幸せになってほしいです。でも彼女のたった一人の子供がこんなクズで可哀想です。だから早く死んで楽にしてあげたいけど、自殺するような子供を持たせるわけにもいかないのでまだ死ねません。長生きしてほしいけど、早く死んでほしいと思います。最低ですね。知ってます。
精神衛生に良くないと知っていて、ヤフコメやTwitter、匿名掲示板などを眺めてしまうことがあります。
政治やジェンダーの話は特によく眺めます。建設的な討論をしている人たちに混じって、明らかに知性の劣る人間が(もしくはそれに擬態した悪意ある知性の持ち主が)議論を掻き乱しているのを見て苛立ちます。そんなことしか考えられない脳で、恥ずかしげもなく生きていられるなといっそ感心すら覚えます。そしてそんな考えを持った自分を恥じます。蔑まれるべきは俺の方なのですから。
善く生きようとしました。俺の家は父の影響でややキリスト教が主流なのですが、それとは無関係だと思います。せいぜいが食前のお祈りをするくらいです。献金とかも無いですし、俺はもう日曜に教会にも行っていません。父が目を閉じて食前の祈りを捧げている間に、俺は目を開け足を組んで食後にやるゲームのことを考えます。俺に信仰はありません。俺には神様は必要ないと思ったので、父の信仰を尊重はしますが、天国に行くために善く生きようとは思いません。それでもできる限り理性的に、誠実に生きようとしました。物語の登場人物に憧れたからです。でも俺には出来ませんでした。こんなクズになってしまいました。
疲れました。俺より疲れている人がいるのに、俺がこんなことを言うのは間違っている気がしますが、それでも俺は疲れました。
明日も、また明日も俺は生きるのでしょう。この果てしなく続く鬱屈を抱えて、死ぬに死ねずに息をするだけの日々を送るのでしょう。
もしもこんなポエムじみたクソ文章をここまで読んだ人がいたら、あなたがなんのために生きているのか教えてほしいです。
マズローの話をそのまま受けることがいいのかどうかわからないが、このアイデア自体を居丈高に持ってくる事自体がどうなんだろうと、日々デスクで、他人が作ったマーケの資料を見つめながら考えている。
隣の島に座っている、中肉中背の話したことはないが、地味だが、気立ての良さそうな同僚の女性の豊満な尻を見て、セックスしたらさぞ楽しかろうと、夢想を馳せる。
40を超えて、セックスも簡単なものではなくなり、若いニョショウに、興味もわかず、豊満な尻に対しての、鮮烈な欲情はとどまることを知らない。
さぞ。あの尻を揉みしだく事ができたらなんとよかろうか。
噂によると、そこそこ社歴は長いが、この会社は横のつながりがなくドライな職場とのことで、誰も他人に興味がないのだ。
いい尻をしてる。しっかり種付けをしたい。
それが現時点で断片的に切り取った、私の願望だ。
安倍さんの訃報のニュースが飛び交っている。あまりみたくないニュースだ。酒でも飲んで忘れたいとも思う。でも生活をしていたら見ずにはいられないから、ある程度自分の中で安倍さんに対しての考えていることを文章にしておきたいと思う。これはメンタルを安定させたいがための行為である。
「グローバリズム」の最大の擁護者であったのが安倍晋三であったことは皆さんもご存じのことかと思う。グローバリズムは国内および国際的に格差を助長し、むしろ資本主義の健全な発展に資するものではないと批判されるものであった。国際的な自由ではなく、国内の国民を第一に守ろうというのが世界の潮流であった。とにもかくにも批判され、時代遅れの、周回遅れである「グローバリズム」を馬鹿の一つ覚えのように推し進めていたのが安倍さんであった。野党の時代にはTPPを反対していたのに与党になったらTPPを推進しまくってアメリカが離脱しても条約を成立させたのが安倍政権であった。FTAを各国と結ぶことは単純な善であるとして成果と喜んでいたのが安倍政権、乃至その路線を継承する自民党政権であった。この鄙びた、古く、異臭さえただようグローバリズムを無邪気にも支持していた。だがそんな打ち捨てられた、惨めな、正しくないグローバリズムにも、利点があった。脆弱な、強力でない、不安定な、ただ一つの利点があった。それは。
経済的結びつきが戦争を抑止するという話は第二次世界大戦後から注目された。古い話であった。WW2の反省をもとに生まれたのが現在のEUの前身であるECだった。この取り組みはある程度機能した。なにせ、ドイツとフランスとイギリスとスペインが何十年も戦争をしていない。こんなことはヨーロッパではありえなかった。民主主義国家であって、経済的結びつきがあり、適切な安全保障がなされていえば世界平和は実現できるのだと皆が夢想した。それは夢だった。どれだけ経済的結びつきがあろうと、独裁国家であれば個人の考えで戦争を起こせてしまうというのは当たり前のことだった。それでもWW2の敗戦国であるドイツと日本はグローバリズムを推し進めた。
戦争で負けたものにしか分からない教訓というものがあった。それは孤立してはならない、ということだった。自国の利益を差し出してもつながりは維持すべきものだと学んでいた。安倍さんは色々な人と「友達」になるのが得意だった。「友達」に利益誘導するのが得意だった。それは癒着、腐敗、法の軽視、人治主義であった。
その方向は世界平和をいつでも向いていた。
そうしたかったらそうしたのかは知らないが、安倍さんは世界平和に貢献していた。
日本の偉大なリーダーだったかは分からないが、世界の偉大なリーダーだった。
安らかに眠ってほしい。