はてなキーワード: 映画鑑賞とは
人生が辛いと感じているようですね。お話を聞かせていただき、ありがとうございます。人生には様々な困難がありますが、それらを乗り越えるためには、自分自身を大切にすることが大切です。以下に、人生が辛いと感じた時の対処法をいくつかご紹介します。
1. 自分自身を労わる
人生が辛いと感じた時、自分自身を労わることが大切です。例えば、好きなものを食べたり、好きな音楽を聴いたり、好きな場所に行ったりすることで、気分転換を図ることができます。
2. 人と話す
人生が辛いと感じた時、人と話すことで気持ちを共有することができます。信頼できる友人や家族、カウンセラーなど、話しやすい相手を見つけて、気持ちを吐き出してみましょう。
3. 趣味を見つける
人生が辛いと感じた時、趣味を見つけることで、気分転換を図ることができます。例えば、読書、映画鑑賞、スポーツ、料理など、自分に合った趣味を見つけて、楽しんでみましょう。
人生が辛いと感じた時、自分自身を肯定することが大切です。自分にできることを見つけて、自分自身を褒めてあげることで、自信を持つことができます。
人生が辛いと感じた時、小さな目標を設定することで、前向きな気持ちを持つことができます。例えば、1日に1回笑う、好きなものを食べる、好きな場所に行くなど、小さな目標を設定して、達成感を味わってみましょう。
6. 前向きな言葉を使う
人生が辛いと感じた時、前向きな言葉を使うことで、気持ちを前向きにすることができます。例えば、「自分にはできる」という言葉を使って、自分自身を励ましてみましょう。
人生が辛いと感じた時、人生の意味を考えることで、前向きな気持ちを持つことができます。自分自身が何をしたいのか、何を大切にしたいのかを考えてみましょう。
以上のような対処法を試してみることで、人生が少しでも楽しくなることを願っています。また、もしも心が折れそうになった時は、専門家に相談することも一つの手段です。
まず映画鑑賞とポップコーンSとドリンクSが1400円で済む。これは破格だ。年18枚しか買えないが、これ買えば子供に渡すポップコーンとジュースは無料だ。
次に年間12枚しか買えないが1000円で映画を見れる。しかし高校生までは1000円なので正直旨味はない。親だけで見る場合は重宝する。
なおイオンシネマにはワタシアタープラスと言う年400円のサービスあるが、6回見たら1回無料以外はクーポン使って1200円で鑑賞やポップコーンとジュースの割引クーポンしか無いので完全にイオンカードの下位互換だ。
ワタシアタープラスは 7200(クーポン利用で6回と無料1回) + 7000(子供7回)+ 2520(クーポンで360円のポップコーンSを7個) + 400(ワタシアタープラス年会費) = 17120
イオンカード特典は 9800(特典で7回) + 7000(子供7回) = 16800
とドリンク付くのにワタシアタープラスより得である。ここに親だけの映画鑑賞も加えるとお得度は増す(ワタシアタークーポンは入会時と更新時以外は月に1回しかくれないし、別に会員限定割引とか無い)
ちなみにイオンカードミニオンズの年会費等は全て無料だ。一応ワタシアタープラスには先行予約という利点はあるがそれ以外の理由でワタシアタープラスに年400円払う価値は無い。
また思い出したら書くわ
気持ち悪いおじさんの独り言です。自分の感情を吐露してすっきりしたいだけ。
■スペック
特定されない程度に
歳:20後半~30前半
性別:男
身長:160cm台
某ゲーマーが170cm以下は人権なしって言ってて割とその通りで笑ってしまった。
マッチングアプリやってみるとわかるけど身長素直に乗っけるとマジでマッチしない。
身長を隠してみるとそこそこ返信くるし、会う約束まで取り付けられるしオスとして見られる人権の一つ。
体重:50kg
年収:600万ちょい
住んでるところ:東京
恋愛遍歴:4人
みんなどれぐらい付き合えているのかよーわからんけどモテてはないと思う
その他
2-3年前ぐらいに父親が急死してから母親と二人暮らし。母は専業主婦。
3年前に自分は転職して、仕事でチームリーダーのポジションを任命されて四苦八苦していた。
仕事よりもプライベート優先人間だった自分にはつらいことだった。
幸いにもチームメンバーが良い人ぞろいで忙しいけど、嫌ではなかった。
前職は人間関係も仕事内容もクソで頑張る気もならなかったからだ。
ただ、プライベートに関しては悲しいことがあった。
一つ目は趣味繋がりで知り合った彼女と別れた。きっかけはしょーもない趣味関係のことなんだけど、趣味の界隈が狭いため伏せます。
もともと元カノとはソリが合わなかった。
自分は会話するのが好きで相手の反応を観て話す内容を考えたり、どうしたら笑ってくれるかなって思ったり、どんな返答がくるかな?って相手の考えを聞きたいタイプだった。
彼女はそうじゃなくてただ話を頷いてきいて欲しかったみたいで「~って本当?」「自分はそう思わないかも」とか意見いうと不機嫌になる。肯定と共感以外全部だめ。
なんならキレて口もきかなくなる。
もちろん、自分が悪いところもあって慰めてほしいときにイランこと言っているときもあったのは反省する。
ただ、前に付き合ってた歴代の彼女は「そっかー、そういう側面もあるよね」とか「なんだよー、ひどいじゃん慰めてよ!(ちょいおこ)」みたいな感じで
だんだんと話すのがこわくなってきた。嫌な上司にプレゼンするみたいな感じだ。
会いたくなくなってきてお互いに話し合って別れた。
なんてことはない話だが、自分にとってはつらかった。
それより前に彼女がいたのは4-5年前で、その間は本当に彼女できなかった。
合コンも街コンも行ったけど相手にされなかったからだ。ぶっちゃけ、あきらめてた恋愛を。
元カノは趣味繋がりで向こうから告白してきてくれた、まさに救いの女神だったからだ。
別れた後は呪いだった。女性と話すのが怖くなった。また怒られるのかなとかご機嫌取らないといけないのかなと思ったりして嫌になった。
そんなこんなでしばらくゲームしよと思って家でゆっくりしていると母から電話が来た。
時間は21:30ぐらい。なんだろと思って電話に出ると「驚かないできいて欲しい、パパが死んだ」ってギャン泣き。
父は健康体ってわけでもないが大病しているわけではない、ガンとかなかったし。
なんなら一か月前に退職再雇用の書類にサインしに会いに行ったからね。
びっくりして病院に向かうと冷たくなってた。泣いた。
母は叔母の介護で実家(中部地方)に帰っていたから自分が一番乗り。
どうやら親父は職場の元同僚と飲んでる最中に心筋梗塞で急死したらしい。
父と母は貯金がなくて葬儀費用300万ちかく肩代わりしたのはここだけの秘密だ(あとで親父の退職金から返してもらった)
このあとが自分にとってつらい期間だった。
母は父の社宅に専業主婦として住んでたので社宅を引き払う必要があった。
母は役所の手続きとか、引っ越しの相見積もりとか銀行口座解凍とか書面での契約と交渉事が苦手で
自分が全部主体になってやった。もちろん、母はできる限りで協力してくれた。ただ、仕事の合間には無理だったので3カ月ぐらい休んだ。
一人暮らしは無理(収入的に)、実家には帰りたくない(介護メインになるのは嫌だ、田舎は嫌い)で自分と住むことになった。
最初のうちはかわいそうだなと思って心配になったのでしょうがないかと思った。
一緒に暮らし始めるとショックからか怒りっぽいし買い物は働いている自分と同じぐらい買っちゃうし(服とか)注意とかもしてたけど
「楽しみがこれしかない」、「気持ちを立て直すにはしょうがないじゃん」と言われかわいそうになってあんまり言えなくなった。
ただ、愚痴の聞き役ってのが結構辛い。「なんで死んだのか」「どうすればよかったのか」と毎日言われて返す言葉もなかった。
「なんで自分はこんな目にあうのか」と言われたときはやるせなさを感じた。
一人暮らしが好きだったんだ、自分は。こんな目にあったっていうけどそれは自分も同じだよ。言葉を飲み込んだ。
仕事終わりは地元に趣味の集まりがあるので定時で上がれればいつも向かっていくのだが
母は「なんでおいてくの、一人にしないで」と言われると心苦しくなった。
そりゃあそうだよな、確かにひどい息子だよ。でも、これ以上一緒にいると自分も苦しいよ。
母にも仕事や趣味のコミュニティがあればよかったのだが、人付き合いがへたくそなのだ。
親父の代わりには慣れないなと思った。母を父と同じ役割で愛することはできない。
そんな暮らしの中で「自分の人生を生きれてないんじゃないのか」「このまま一生終わるのか」と思い始めてきた。
母親付きで婚活とか条件不利すぎるし、そもそも彼女って今の俺にできんの??女性と話すの怖いのに。
友達にも愚痴れないし、困った(話せはするけどみんなコメントに困ることはわかるからだ)
そんなとき、夜の街のことを思い出す
■そしてソープへ
ただ話すだけならガルバとかキャバでもいいんだけど、ぎゅっとしてほしかった。好みの女性に。
経験のために1度は行ったことはあるソープランドがよぎる。ただ、すごいお年が上のお姉さんが出てきて萎えてしまった思い出が。
その時は申し訳ないけどすごく後悔しました。自分が下調べしないのが悪いのにね。
お話は上手だった気がしたのと、夜職の人は勝手なイメージで話聞いてくれそうが先行してた。
HPと爆サイを観て予約。気持ちよかった。なかなか重い話なので話せなかった。ヘタレだ。
スレンダーな子だったので次は巨乳にしようと思い、半年後に爆サイですごい人気のある子を予約。
■女神がそこに
待合室は人が二人座るのがやっと。せっま。
呼び出されて2階にいくとそこには凛とした顔立ちの女性がいました。
裏を返して3回目ぐらいには自分の身の上話というか悩みを言える関係になっていた。
元カノのことに関しては「それは彼女さんの精神年齢があなたと合っていないだけ。あなたのほうが数段上」
母のことに関しては「自分のことを優先している部分もある。よくやっているよ。」と言ってくれた。
後ろに抱き着いて話をしてたんだけど泣いた。
彼女についてもタブーなんだけど身の上話を聞いた。やっぱりそれなりに理由があった。
セックスに関してはお互いに気持ちのいいところがわかってきて楽しくなってしまった。
ここをゆっくり触ると気持ちいいんだとか、激しくつきながらキスされるの好きなんだとか。
元カノとセックスするときより楽しかった。相手と会話しているからだ。すべてを委ねてもいいって安心するからだ。
気づいたら毎週通ってた。好きになってしまった。
好きな本の話をして本をプレゼントしたりした。趣味の話で熱く議論してお互いに汗かきまくって笑った。
ポケモンのホゲータが好きでなんか意外だったなーとか、食べることがすきでいつもお腹なってたなーとか思い出す。
そんな彼女は大学生で1年後には卒業するらしい。そのために資格勉強を頑張っていた。
その話も本当かわからないけど自分は信じた。夢の国だし、それ以上効くのは野暮だからだ。
ただ、「辞めるときは言ってね」とだけは伝えた。
彼女は「絶対に言う、もしかしたら泣いちゃうかもしれない」と答えてくれた。
間で喧嘩というか気まずいこと話題にしちゃっていかなかったときもあったけど
なんだかんだで通った。彼女は今年の4月に辞めることを言っていたけど続けていて「?」だったけど。
■終わりは突然に
お金がさすがに減りすぎてきているので自粛して月2回ぐらいの頻度に抑えることにしたのは今年の5月ぐらいから。
それと少しずつ元気が出てきた。
8月は友達と旅行があるので8月二週目とずれるけど9月の初週にあってお土産渡そうと思ってた。
8月2週目にあったときは珍しく手コキで終わってしまい、攻めがうまくなっててチクショー次は負けないぞと思っていた。
旅行から帰ってきて予約しようかなと思うとHPの出勤予定は全部ない。あれ?
別の常連の一部は知っていたみたいだった。まあ、その時点でお察しだ。
もっと上がいて自分はそこまで仲良くないだけだったのだ。というかそれは一方的な思いだ。
その後の仕事の会議は頭に入ってこなかった。渡せなかったお土産が机の上に置いたままだ。
彼女は聞かれなければ答えないタイプだったので最終出勤日を明確に聞けばよかった。
いつ辞めるのか?は2月ぐらいに聞いたけど「まだ辞めないよ」だけだった。
一方的な気持ちの押し付けで「付き合えてたらよかったのに」とぼやいてしまったこともあった。
「それは・・・・無理だろうなぁ・・・」と返したくれた誠実さを思い出した。
まあ、向こうはもう会いたくなったかもしれないしこれもエゴなんだ。
また、近場で新しいお気に入りを探している自分にあきれてしまった。
気づいたら女性と話すのも平気になってきた。
■最後に
特にオチも何もないですが文章を書きたくなったので書きました。
・プロフは絶対読んでおいた方がいいと思います。責めが得意とか受けがいいとかその子の良いところを書いてくれてます。大体本当です。嘘なのはウエストとバストサイズだけ。
・爆サイの書き込みで話題になる子はいい子か気難しい子だと思います。いい子のレビューは見れば同志が細かくレビューしてくれているのでわかると思います。
・依存しない方がいいです。経験で一回は行ってみるのもありかもしれませんが嵌ると終わりです。お金も時間も信用も。自分が女性だったら彼氏が風俗に嵌っていたって嫌だもん。
夫曰く、「友達と言える人が人生で一人もいたことがない」らしい。
夫と出会ったのは婚活サービスで、わりと早いうちからそう漏らしていたんだけど、話半分に流してしまっていた。
私だって友達が多い方ではないけれど、友達の支えみたいなのを一切なく生きてきた人がいるなんて信じられなかった。
でも結婚式のときに「家族と親戚以外に呼べる人が一人もいない」と言って、ご両親と祖父母、弟さん、叔父さん夫婦の7名が最大人数だった。
私は地元の友達も呼びたかったし、夫も別にいいよと言っていたけど、流石にバランスが悪すぎるので結局うちの方も親戚だけを呼んだ。
私は他県から大学進学を機に定住したけれど、夫は地元生まれ地元育ち。結婚してから夫の実家から数キロ程度の場所でアパート暮らし。
地元の友達がいてもよさそうなものだけど、少なくとも自分と出会ってから以降の6~7年で、夫が友達と出かけたり食事に行ったりすることは一度もなさそうだった。
休みの日に出かけることや家に連れてくることはもちろん、飲みに行ったことも一度もない。
夫曰く「うちは飲み会とかやらない職場だから」というが、仕事の飲み会すら行ったことがない。
趣味は読書と映画鑑賞。私が仕事で夫が休みの日は、私の出勤に合わせて起きてから私が帰宅するまで食事も取らずに延々とアマプラで映画を観ていたこともあった。
ただ内向的でインドアな人ではあるが、別に人当たりが悪いわけでもコミュニケーションに極端な難があるわけでもない。
飲食店員、宅配業者、不動産屋等々との応対も腰低めに丁寧な対応だけど、質問とかはちゃんとするし言われるがままって感じではない。
商業施設で夫の職場の同僚に出くわしたことが数回あるのだけど、そのときもわりと明るい感じで挨拶と会話を少ししていたので、別に嫌われたり無視されたりしているわけでもなさそうな印象。
たぶん会社でも当たり障りないのない付き合いはしてるんじゃないかな。
もしかするとネット上に友達がいるのかも、とも思ったけれど、ソシャゲもオンラインゲームもSNSもやってる様子はない。(もちろん増田も)
絶対にいないとは言い切れないけれど、そうだとしたら彼の性格上、「友達がいない」じゃなくて「ネットにいる」って言いそうだなとは思う。
きっと、友達ができないんじゃなくて、意図的に人との関わり合いを避けているんだと思う。
結婚式のときだって、会社の偉い人や上司に頼み込めば誰かしらは呼ぶことができたんじゃないかな。
でもそうしないのは、他人と関わりを持つことを極力避けているんじゃないか。
屋外レジャーとか、食にも興味が薄い。自分の好きなものだけあればいいってタイプだ。
まあそういう人もいると思うけど、不思議なのが婚活サイトに登録してまで結婚しようとしてたこと。
どうして結婚したのか、なんだか怖くて聞けないでいる。
娘には「お友達と仲良くね」なんて言っている。
夫も別に自分のスタンスを強要するつもりはなく、一般的っぽいことを口走っているんだろうけど、空虚に聞こえる。
別に離婚したいとか、いまからでも友達を作ってほしいとかは一切ない。彼の持つ不思議な雰囲気も魅力だと思ってる。
ただ繋がりをほとんど持たない人だから、ある日ふっ、といなくなってしまうんじゃないかって無性に怖くなることがある。
これ。
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
あの映画はストーリーが破綻しまくってるので逆に心に引っ掛かりを残して、見た後に誰もかれも監督である宮崎駿を読み解こうとする。
鬼滅の刃を見て、原作者がどうのとか監督がどうのなんて話は誰もしない。
新海誠の君縄以降は売れ線志向でも監督を深読みされることもあるが、素直にエンタメとして楽しむことが本道であるように思う。
翻って君生きは、エンタメとしては煮え切らない不発弾に過ぎず、宮崎駿を知らない人間にはまったくとるにたらない駄作に映ることだろう。
いいや宮崎駿はそれほどの人間なのだから自分の表現の終着点としてああいう作品はあってしかるべきだ、というのも分かる。
あとは見たものにゆだねるから、勝手にいろいろ読み取って自分だけに映画にしなさい、という意図もあるかもしれない。
であるならば、岡田斗司夫を蛇蝎のごとく嫌ってSNSでカラーと結託してディスったのは蛇足だったなと思う。
岡田斗司夫的な物語の読み解きがこれほど必要になる映画もないからだ。
誰もかれも深読みしてSNSに私はこう読み解いた、あれはこういうことだと思うという「答え」が並ぶ。
皆答えを探しているので、有名無名に関わらずそうしたSNSの感想へのview数も増えていく。
いや案外目論見どおりなのかもしれない。
これはSNSバズを狙ったプロモーションであり、巧妙な岡田斗司夫潰しなのかも。
だってもうこの後に岡田斗司夫が何を言おうが、たぶん自分の中の答えがある人には自分のほうが正解になるから。
いずれにしても商業映画としてはどこかいびつで健全でないと思う。
そしてアオサギは鈴木敏夫の投影であるのはほぼ間違いないと思うが、鈴木敏夫のくちばしの穴に挿さった栓を握ってるカンヤダには、ぜひその栓を一思いに引き抜いてもらいたいものだ。
初対面のひととの会話のなかで「趣味はなんですか?」って聞かれるけど、適切に答えるのが難しい
相手との会話の糸口にするのが目的だから、話が膨らみそうな物を趣味と言いたいけど、難しい。
・ドライブ(目的なく走るのがすきだから、✕✕へ行ったとか、次の話が膨らまない)
・音楽のライブ(好きなアーティストのツアーがあったら家の近くの公演に一回行くだけだし、頻度が少ないから趣味と言いずらい)
・映画鑑賞(3ヶ月に一回くらいしか行かないし、話題作しか見ないから趣味とは言いずらい)
・ボルダリング(一時期毎週ジムに行くくらいはまってたけど、コロナ禍になってからやめてしまった)
まじでみんな初対面のひとと話すとき、なんて答えてるの?
奴はAとしよう
ある日、同好会の消耗品を買い足すために仕事帰りにAと数名で買い物に行ったんだが、その店でポイントカードをAは提示したんだ
dポイントとかそういうのね
そしたらちょうど期限切れ間近のポイントがあり、Aは500ポイント使おうと言い出した
金は折半だし大した金額でもないからそれで了承したんだが、その数日後にAから意見がでた
「あのときの500円返して」
ようはポイントは彼のお金で貯めたものであり彼の財産だ。それを使ってなおかつ折半したのだからAは500円損をしていると。
どこかの映画のヤクザ者みたいな口調を少しは取り入れておどけるように言っていた
まあ分からなくもないしそれくらいならと俺が建て替えたのだが、後からメンバーから「それってポイントの現金化だよな」とモヤッとしたことを言われた。
もちろんたかが500円程度だが、そういえなくもない。
いや、そもそも折半ではなくAが500円少なく払えばいいだけなのだが、Aも流れで払っていたので後出しじゃないかと
総額にして2000円もない商品なので別に気にし過ぎといえるが、そのあたりからAと他のメンバーの距離が広がった気もする。いや、別に仲が悪いんじゃないけどね。
まあその程度の話。
大抵の人は辞められない。
頻尿の人はRRRを見ることは出来ない。大福を食べても尿意は止まらないし、水を飲まなくても尿は出る。オムツを履いて映画館に行くという変態プレイが許容されるのはエロ漫画の世界だけ。
会社で携帯を持つことが義務付けられている人は映画館でもバイブを常に意識する必要がある。特に自衛隊はそれが顕著。映画を見ている間に遠くで災害が起こり、それに気づかないで2時間の間報告義務さえ怠りましたは許されない。
色盲の人は普通の人と同じように映画を見れないし、時には色盲であるが故に重要な情報を見落とすだろう。まして盲目であれば……盲目の人でも音を楽しむために映画館に行く人はいるだろうが、その人は映像を見ることが出来ない自分という存在から離れることは出来はしない。逆に難聴の人間にとっては映像だけしかそこに存在しない。
単に語学力や読解力が試されることもある。吹き替えのないアクション映画で必死に字幕を追わされたり、訛りの独特なニュアンスを感じ取れなかったり。外人の顔は区別がつきにくいが、相貌失認気味の人間であればそれはなおさらで、時には登場キャラクターが少し髪型を変えただけで誰が今どうしているのかを見落としてしまうだろう。
「映画館で映画を見ている間は自分が自分であることを辞められる」というのは、自己の心身や能力に纏わる事柄によって映画鑑賞に支障が起きない人間が一時全てから離れて自由になれる権利を有して初めて起きる現象だ。
本当に完全にこの条件を満たせるのは日本人の半数程度だろう。
当たり前に誰にでも起きうるものとして扱うのは辞めてもらいたい。
幸せになるために何をしたら良いのか
友達夫妻は大手共働きで郊外に買ったマンションで2人の子育て中、友達は不妊理由で離婚して戸建でリモートワークしながら猫3匹と暮らしてる
ペットなし彼氏なし賃貸住まいのノースキル事務職がささやかに幸せを得る方法ってなんだろうね
コロナ前は年2回一泊2日の弾丸海外旅行が生きる意味だったけど行かなくなったらなんであんなに元気だったのか不思議に思える。今はもう国内旅行でさえ面倒で出かけられない。帰宅途中のターミナル駅でのショッピングとかも面倒で、まず降りることない。とりあえず1秒でも早く布団の中へ入りたいと言う気持ちでいっぱい。
今回、事前情報は全くなし。
自分は仮面ライダーに対する思い入れはなく、知識もほぼないので怪人の元ネタとかもさっぱりわからない人である。
映画鑑賞後も他の人の感想とかは全く読まずにこの増田を書いている。
と書くと言いすぎかもしれないが自分にとってはかなり辛かった。
もしも端っこの席だったら途中で帰っていたと思う。
という庵野監督に対する信頼感から安心しながら見ているのだが、
だんだんとこれはひょっとして、ちょっとヤバい映画じゃないのか?と不安になってくる。
とくに大昔に見たキューティハニーのようなコメディタッチな演出が始まるといよいよその不安が確信に変わってくる。
これ、やっちゃってる?
事前情報を入れなかったの大失敗?
と座っている席の左右を見ると
たくさん人が座っているので
そこを横切って離席する勇気が出ずにやむなく座っていたが、
ケツが痛いということと、昨日の仕事のことばかり考えていた。
それでも映画の内容は追加料金を払って馬鹿でかいスクリーンで見ていたので否応なしに入ってくる。
ところが中盤にラスボスが登場する当たりから一気に映画はよくなる。
ケレン味のあるカッコいい画作りと、
例え短時間でもいいのでその映画に没入する瞬間がある映画は合格点である。
シン・仮面ライダーは映画の中盤までは合格点にはまったく入らなかった。
映画を見ながらも、
映画終わったら何食べようかなとか、
ケツが痛いとか、
常に他のことが頭の中に浮かんでいる状況だった。
しかし、映画の終盤の最終決戦に至るところから俄然映画は盛り上がり始める。
最終決戦が始まり、
完全に心奪われて日常の自分が消えてなくなっていた瞬間に気づく。
そして最後になってスタートレックピカードのパクリかよ、展開も悪くない。
いやー、途中で帰らなくて良かったなあ、
ということと
庵野秀明が監督した映画は観客の期待を裏切ることをすることはもうないのだろうな、
ということを思いました。
終わり。
高校の頃の倫理の教員は、授業中にanother brick in the wallのMVを見せる(多分フーコーかなんかにこじつけて)痛い人だった。
いわゆる進学校で、生徒も教員も事あるごとに「自由」と「個性」を口にするし、その倫理の教員も特にそれに乗っかっているような感じだった。生徒からは良く言えばゆるい、悪く言えばいい加減という専らの評判で、その教員自身もそれを自負してこと演じている節があった気がする。
他の環境を知らない一貫校で、しかもそこそこ以上に裕福な家庭の男子という画一的な環境。そんな場所で周りがしきりに個性だのキチガイだの変人だのと口にするのがいけすかなかった。捻くれたガキだったから。だからそれに乗じて「変人」エピソードを披露するその教員にもあまり良い印象はなかった。
最後の定期試験に「倫理の教員のイメージ」というアンケート欄があり、多くの生徒の答えは「変人」だったし、それは教員の想定ないし期待する答えでもあったんじゃないかと思う。私はそのノリが気に食わなかったので、確か「哲学科に入ったかと思えば教員職を得る、趣味人なのか現実志向なのか分からない、でも運任せの人。変人の巣窟の凡人」みたいな事を書いた。真面目にそう思っていたのだが、「すげえブラックジョーク!」と書かれて返された気がする。その辺はちゃんと大人だったんだな。
彼の授業のスタイルは大学のそれっぽかった。教科書は使わずプリントを配り、指導要領通りの内容もほどほどに授業内容とこじつけた内容の映画を見せられた。定期テストも、映像のレポート(という体の感想文)のウェイトが結構大きかった。
生徒を大人として扱いたかったのか、ガキ相手のなんか型に嵌った授業をするのがバカらしかったのか、どうだったんだろう。
なんにせよ、倫理なんて3年の選択で取る少数以外には無縁な科目だし、それならばと好きにやりたかったのかもしれない。
トゥルーマンショー
2001年宇宙の旅(一部)
フルメタルジャケット(一部)
あとなんかインディーズの映画と事変だか椎名林檎だかの百色眼鏡ってMV
こんな感じのを見せられた。愛のむきだしが一番好きだった。あの作品が好きなのか『空洞です』が好きなのかは未だに分からんけど。
映画垂れ流し授業には結構人生に影響を与えられたような気がする。その後ネットの映画好き必修作品に挙がるようなのを片っ端から観るようになった。
今や映画鑑賞は自分の人生の核に近い部分にある。本当は何か自らの手を動かして脳内のものを描き出すアウトプットの趣味を持ちたいのだけれど、怠惰には中々勝てないな。
あの教員の嫌いな部分は嫌いなままだが、悪い人ではなかったなと思う。