はてなキーワード: 長大とは
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
暴力的な人間っていうか、人間自体がまだ毛の抜けた原始人と対して変わらないから、敵を血祭りにあげるのがとっても気持ちいいし
敵が空気吸ってそこらへんをうろちょろしていることに長大なストレスを感じてしまうのである。
しらんけど。
おれは攻撃を受けてるんだよ。攻撃じゃないかどうかは俺が決めたことではない、俺の本能が攻撃と受け取ったかどうかで判定されている
今日の判定は。攻撃にかなり近いものであることを確認しました。まあわざと出ないことはわかる
わかることと、本当がその説得にうなずくかどうかはまた別の話だり、現実に俺の生活の根幹を揺さぶるような実害が出始めていることもあり、本当はその視点で物事を捉えることを拒否している。
実害というのも厄介で、俺の体に血が流れるわけじゃない。社会的な信用が失われるのである。
社会的な信用というのはかなり重要で、社会的な動物である人間であるおれは、社会的な信用なくなると死ぬことに等しいと言った感じである。
つまりころされたも同然である。まあ刃を首元に突きつけられているも同然である。
ここまでやって、目の前のゴミどうぜんの存在を敵認定しないって。敵ではありませんっていうふうに本能を説得することが誰ができるのだろうか。
おれは、まあそうだな、まだ首をはねられてないので、敵と認定するのは早すぎるっていうふうに無理やり説得した
もちろん本能はかなり無理があるから聞き入れてくれるわけもない。落とし所としては、このまま首がはねられた、
こっちも殺そうねっていう、そういう暴力的な解決を決心することでしか、溜飲がさんがらなかった。腹落ちしなかった。心からの安寧が言えられなかった。
殺すとか殺されるとか、暴力とか。排除したいけど、実害があるし、実害が出てるののせいで生活がままならなくなって、人生崩壊することがあるので、まあまだ人生は崩壊していないし、崩壊しない可能性が高いんだけど、人生が崩壊するってのはのっぴきならない事情で絶対に回避しなければならい究極の絶対防衛ラリンであり、そこを、散歩感覚でまたごうってやつが目の前にいるので、本能がころすぞっていう感じの感情で埋め尽くされる感覚になる
そいつはまだ俺に実害をあたえて、まあいるんだが。実害には程度の差があって、人生がぶっ壊れるレベルじゃないなら、多少は許容しないでもないって
気持ちがある。いちいち態度が悪いとか、挨拶がないみたいなことで怒ってたらしんどいからこの考えと行動はわりと合理的ではある
その合理的な判断のさきには、おれの人生壊すような結果を引き起こしたら殺す、っていう、この近いもまた、実際の暴力をこの場で発生させないたいための、きわめて平和的な解決の模索であり、暴力の未来への先送りである。
暴力の未来への先送りって、かっこいい言葉んだな。まあためてためてどかん!何だけど、どっかで小さくドカンするのが良いんだろうけど
過去に何回かやってるんだよなぁ。やっぱり殺すしか無いのかな。未来が暗澹としている。殺したくはないわ。しょうもない
ウホウホウーホ、ウホホホー。オデ、オマエ、コロス
れいわ新選組政策審議会長大石晃子議員と予定候補者依田花蓮(よだかれん)氏の対談動画
https://youtu.be/Spqtp3QQetI?t=692 11:32〜
大石 最近なんか、トランスジェンダーをヘイトする女性、みたいなジャンルありません?
依田 あ、最近なんか増えてるんですよ。
依田 でもね、私は幸い……幸か不幸かなかったんです、今まで。多分言いづらいんだと思います。
依田 ええーっ(笑い)。
大石 だから……花蓮さんの記者会見をみて、なんやあの……フリーの記者は、あったまきた、っていうようなツイートを私がして、でもそれに対するリプライとかでも……何ていうか女枠で男が参入することによって云々とか。
依田 ええーっ(笑い)。
大石 何ゆってんの何ゆってんの、っていう……。
依田 なんかね、私が言われてるってのは全然知らずに幸いにも生きてましたけど、今世間的には「トランスバッシング」って言葉がなんか流行ってて、トイレとかお風呂とか、女性のプライベートゾーンに元男性が……。
依田 入ってくるのを……ロビー活動とかもすごいみたいです。
大石 そうなんですよね、なんか意外な人っていうか、女性で意外な……そのSNSとかでもすごく応援してくれてた人とかでも。
依田 へぇー。
大石 ちょっとそれ何言ってんの……そのトイレに、トランスジェンダーの人が女性トイレ入られたら怖いとか。
依田 そうそうそう。
大石 ちょ、お前が怖いって、って。気にするな! って。
依田 あっはっはっは(笑い)。
大石 気にするな! って思いますけど、すごい……そういう一個の……そのジャンルが広がってて。
依田 あるんですあるんです。
依田 そうですね。
大石 なんか自分だけ犠牲者なんだーみたいな、でもまあそういう人も含め、解決するって時に積極財政というか、やっぱ自分が犠牲者だーって思っている背景っていうのは経済的事情だったり……。
依田 おっきいですね。
大石 なんかストレスがすごいんだろうなって思うと、やっぱ積極的にみんなが所得を増やしたり、余裕のある生活をしていくというのがないと、もうその人らをしばくっていうカウンターだけ……カウンターは必要なんですけど、カウンターだけでは限界があるなっていうふうには思うし、だからこそれいわっていう……。
依田 すごくわかります
大石 積極財政っていうのがあるんですけど、だから花蓮さんが積極財政じゃないんだ、とか抜かしてる輩とかホンマにおるんですけど。
依田 ええーっ(笑い)。
大石 そのあたりどうですか?
依田 えっと……私の何を知ってるのかな? っていう……。
依田 私の議事録とか、私の区議会議員としての動画とかも視聴できるんで、そういう方はどうぞご覧ください。
大石 ほんとですね。ここで案内です。
依田 私がただ一人……例えば公務員の期末手当削減議案についてたった一人で反対したりとか……。
大石 やっぱそうなんだ。
依田 やっぱり安定した雇用とか……私がよく委員会とか議会で使ってるのは、衣食足りて礼節を知るってことで、生活が安定してないと心のゆとりも生まれないですから……そういったことをずっと主張してきているので……今そうやってお聞きすると……ええーって。
大石 勝手にカテゴライズして、多様性枠の人とか言ってんじゃねぇよっていう。
依田 あっ……(私って)多様性枠の人?
5/13:文末の句点追加など変更
よくあるテーブル定義者からDDL自動生成してテキストファイル吐くマクロ、真似て別のものに流用しようとしたけどこれが難解
一つずつ読み解していくと、いろんな定義書の処理を一つでやってることが分かった
そこから利用したい処理だけ抜き出そうとしたけど、これが面倒 何をどう処理したいのかを理解しつつ、不要なものを削るという作業をやっていたが、もうこれ書き直した方が早くね?と思い書き直したら1〜2日で出来た
元になるものがある方、流用する方が早く適切に作れるだろうと思っていたが、そうでもない事もあるんだなあと
真似しようとした長大な処理、現場では結局テーブル定義書にしか使われてなかったことから思うに、それも別のとこからの流用だったんだろうな
ニュースサイトで調べました的な。
文章といい、技術知識といい、調査不足といい、洞察のなさといい、本当にひどい。
この枠で若い有能なライターに書かせてあげればどれだけ社会貢献になるか・・・
老人がコネでポジションにとどまると、まさに他人や社会に迷惑をかけてしまうという一例だなあ。
もしかしたら、WindowsはPCからローカルという考え方を排除しようとしているのかもしれない。かつてアプリは必ずローカルにあった。ファイルもローカルにあった。だからネットワークに接続していないPCでもそれなりに便利に使うことができた。
今、インターネットに接続していないPCというのはほぼ考えられない。あれもできないこれもできないという環境の中でいつもの作業をこなすのは不可能に近い。極端な話、ローカルに何もなくてもブラウザがあればなんとかなる。かくしてWindows OSは、ファイルシステムを捨て、ファイルを捨て、アプリを捨てるつもりなんだろう。Windows 11は、その兆しとなるOSだ。
今はまだ、ゲームのリッチな表現や、長大な撮影済み動画素材の編集などで、ローカルパワーが求められてはいるが、それが永遠に続くことはなさそうだ。
それでもローカルパワーは必要だ。大量のデータトラフィックをさばき、それを目の前のユーザーのストレスを最小限にするよう瞬時にレンダリングして表示する。データのストリームの処理はエッジで引き受けないとクラウド側のリソースは破綻する。
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/config/1379224.html
もうほとんど美的センスみたいなもので、センスのないやつは美しいプログラムや醜いプログラムに反応する嗅覚がない
何の疑問も持たずハードコーディングし、グローバル変数を定義し、要領の得ない長大な関数を書いてしまう
コーディングルール以前にセンスのあるプログラマなら、醜くて自然と顔をしかめてしまうようなプログラムも
コーディングルールもどうでもいい些末なことに拘るオタクのイチャモンとしか思えないらしい
何が美しいプログラムで、何が醜いプログラムか判定する感覚が欠如している
べりすとって何だよって思いつつ読み始めて「あっこれノベリストって事だな……?何でひらがななんだよ紛らわしい書き方すんなよ」
と思った所で以下に控えている長大な文章を読む気力がなくなって今に至る
多分、この人にとってのセックスは「お腹が空いたから食べる」くらい日常的なものなんだろうなって感じだった。
さて、本題に入ろうか。
付き合ってないけどキスはするし(舌入れるやつ)ハグだってするし手を繋ぐ事もある。
じゃあもうこれは恋人なのでは?と思われるかもしれないがそうではない。
もちろん嫌いじゃないしむしろ好きだと言っていい。
ただ、恋愛的な意味で好きかどうかと言われると首を傾げざるを得ないというだけだ。
そして俺はそれをそのまま口にした事があるのだが、彼女はいつものように笑ってこう言った。
「でも君、私以外ともこういうことできるでしょう?」……うん、確かにそうなんだけどね。
でもなんか違うじゃん?
「そもそも私は君の事を好きなわけではないんだよね」
「知ってます」
「だから君との行為は別に愛情とかそういうものではなくてただの作業だよ」
「それも知ってます」
「君はどうなのかな?」
「うーん…………」
先輩とは何度か体を重ねているが、それはお互い性欲処理の為であってそこに愛だとか恋だとかいった甘酸っぱいものは存在しない。
ーーーーーーーーー
いい感じじゃない?
元増田だけど追記というのもちょっと大袈裟だからセルフトラバするんだけど
まず何故、刀なのか、という疑問のようなものは考えているうちにわかったような気がする。
当時の戦争参加者にとって勝利とは戦争に勝つだけでは十分ではなくて
どちらかの陣が崩れることで、追撃戦や乱戦になるのだと思う。
このときおそらく長槍による攻撃から刀による攻撃へと切り替わる瞬間が訪れるのだと思う。
元増田で言いたかったことはそういう近接戦、あえて例えるなら長槍での戦闘が
近代戦で言うところのマシンガンによる攻撃だとすると、それよりもっと接近したピストルでの
攻撃へと移り変わる時になぜ打撃武器ではなくて刀だったのか?という疑問だった。
この理由はこのトラバの冒頭に書いたように敵の首を挙げなければならなかったからだろうと思う。
リニアの南アルプストンネルによる大井川渇水に就いてJR東海は「水量減少を最小限にする」と述べ、それを鵜呑みにして「なるべく水が出ない工事をするんだな」と考えている人がいるが、このJRの言い分は出鱈目な嘘である。以下その理由を述べる。
南アルプストンネルというと赤石山脈ばかりに注目が行くが、一番の問題点はフォッサマグナの西縁を通る事だ。しかも大深度で。
中学の地学で習ったフォッサマグナは大地溝で、本州を縦に切って断面を見ると西縁が静岡~糸魚川、東縁が千葉~柏崎のU字溝の形をしていて、U字溝の中には富士山、白根山、浅間山、八ヶ岳、箱根などの新しい活火山が入っている。
なんでこんなものが出来たかというとプレートテクニクスと日本海造盆運動に関係していて、太平洋プレートがユーラシア&北米プレートに巨大な力で押し付けられながら沈み込む際に日本列島になる部分が大陸から離れる方向、つまり太平洋プレートの方に動いて浮き上がってきた。
この一見おかしな運動は長い靴下を側面から押えながら履く時に似ている。上辺が内側に巻き込まれるので靴下はくちゃくちゃになり上部付近の繊維は上に動く場面があるはずだ。
この辺は面白いので背弧海盆などで調べてみて欲しい。紅海やカリフォルニア湾と日本列島が親類関係にある事が判るはずだ。サンフランシスコの東のサクラメントの平原は水に飲まれる前の日本海である。
この為に本州に当たる部分は北米プレート、ユーラシアプレートにそれぞれ乗る部分で引き裂かれた。ここにフィリピン海プレートが押してきて無理やり裂かれた部分は押し付けられ、大量の火山が発生した。
L字の鉄鋼を山の部分でぶった切ってからプレスで思い切り押してアーチ形になった様なもんだ。押し付けられて真っ赤に溶けて盛り上がったのがフォッサマグナの火山帯だ。
こういう経緯なのでフォッサマグナのU字溝内は活火山帯だがU字溝自体と周囲は断層と大破砕帯になっているのである。
一つは崩れやすいからであり、特にトンネルでは地圧が高いのに崩落しやすいという最悪な状態になる。
もう一つは出水で、岩がガラガラな状態というのはそこに水を溜めているか流れているという事だ。井戸は砂礫層に到達すると水が出るのである。今回静岡県とJRの争点になっているのはこっちである。
更に問題であるのは、普通の破砕帯は概ね水平に近い方向に伸びている事が多い。だがフォッサマグナでは垂直に伸びているのだ。
さてここで水圧を計算してみよう。
南アルプストンネルが通過する赤石山脈の標高は約3000m、東側坑口は550m、西坑口が800m。すると土被りは最大で2300mである。
この時破砕帯がある場合、その水圧はどれだけになるか?答えは230気圧である。土被り1000mの箇所でも100気圧。こんな圧力に耐えられる中空構造物なんてあるはずが無い。工事だって出来るはずがない。
だがこれは間違いなのだ。この気圧は静水圧だ。ここで水を流すと岩の隙間から噴出してくる動圧になり、制御不可能な数字では無くなるのである。
この為に、高土被りの破砕帯での工事ではまずは水抜きのトンネルを掘りまくる。掘りまくって水量が安定したら平衡状態である。出てきた水はどんどん流して捨てる。そうしないと圧力が高くなるからだ。これ以外に工事の方法は無い。「水抜きボーリング」で検索すると土木会社の解説が沢山出てくる。
更に中空のトンネル躯体が耐えられる圧力ではないのだからこの水抜きトンネルはずっと稼働させて水を流しっぱなしにしなきゃならない。もし封じてしまったら水圧は静水圧となり100気圧超という鋼鉄の球体以外に耐えられない圧力になる。
この辺を誤解してコンクリの本坑トンネルだけ作ってコンクリの壁で水をとめるというイメージの人が多いが全然違う。意図的に大量の水抜きをしなきゃ工事も出来ず躯体の維持も出来ない。
そしてこの抜かれる水というのは大井川の水源で湧き出すはずだったものなのだ。この水はそのままなら重力に従い低い方の東側坑口、早川か導水路を作って甲府盆地にに放流されることになる。そしてこの両方とも富士川水系なのである。
この辺について静岡新聞などは「大井川の地下を通るので地下水の分布が変わり」と説明しているがこれも違うんじゃないか?
そうじゃなくて大量の水抜きをするので周辺一帯の湧水は枯れるのである。それは工事の為に意図的にしなきゃならないものなのだ。それをJRはあたかも極力防止するよう努力するみたいな事を言っている。いい加減な騙しだ。
静岡県が大井川水源問題に拘る理由は地理院地図で大井川周囲を眺めれば一目瞭然だ。https://maps.gsi.go.jp/
ダムが多数あるが、ある程度拡大すると水色の点線が沢山出てくる。これらはダム用の水路トンネルである。山中を数十キロものとてつもない長大トンネルを掘り数段にも亘って水源利用をしているのが判るだろう。数もとんでもない数だ。
因みに農業用水や水道用暗渠は描かれていない。水道も農業用水もこれらのダムや水管路を元に組み立てているのだから水量が低下したら壊滅的なダメージがあるに決まっている。
因みに名産品のお茶の品質にも影響が~って話もあるがそれは尻馬の出鱈目です。お茶は丘陵地帯で水が引けず耕作ができない処で発展したのが特徴ですので。
フォッサマグナを高土被りで掘削なんて前例がないのにJRは湧水量の算定をしているが、それは過去の大清水トンネル、長崎トンネルなどの出水を参照している。この時点でインチキ臭いのだが、国民の方もその詭弁に気づいていない。
中学校の地学でフォッサマグナの事を勉強したのに暗記だけして忘れちゃってるのだな。そういう勉強もちゃんと役に立つ時があるんだよ。日本に住んでて土木をしようと思ったらフォッサマグナと中央構造線は避けて通れない。
以前、長野県が長野をパスしないリニアルートとして諏訪周りのルートを提唱した時、その平面図だけ見て平成の大八廻りとか言ってる人が沢山居たのだが、中央構造線とフォッサマグナ西縁の交差点が諏訪湖なのだ。諏訪湖が陥没地形になっているのはその為なのだよ。
だからトンネルに入る前に諏訪湖を地上で経由するかどうかは工事の難度どころか可否と水源問題の多寡に直結する。
鉄オタは電車が好きなだけでこういう問題を考える事が出来ない。
ネットメディアでは説明するより馬鹿を扇動した方がPVが上がるので「静岡県では”JRはのぞみを静岡に停めない”等の憤懣も聞かれ」などのどうでもいい所をクローズアップして書く。すると鉄オタは「はやいのぞみごうのていしゃえきをふやすのか!」と見事に釣られてSNSで吹きあがり争点がなんだか判らなくなるんである。あほか。
沢山インタビューしたりネットから意見拾えば尻馬に乗ってどうでもいい憤懣を言う人は出る。取材しないネットメディアはそこだけをクローズアップして書くので釣られて幼稚な吹きあがりしてるのが争点だと思い込むのであるな。なんの為に義務教育終えたんだい?
水源問題起こして難工事の末に開通させられるか?出来ないんじゃないかと思う。
ここは日本であって大地が安定したスイスなどとは違う。まだ動き続けてるプレートの境目にある若い火山帯であって、しかもフォッサマグナ西縁は北米プレートとユーラシアプレートの境目だ。更にフィリピン海プレートが角型の2分割列島を一本の弓型列島になるほどの力で押してる。
https://anond.hatelabo.jp/20210606090832
建設行政やらせてもらってる交差点オタクとしてはちょっと看過できまへんな~。ラウンドアバウトを意識高い系交差点やと思って叩いてるんやろうけど、本物の意識高い系交差点を見たければ最後だけ読んだってや~。
間違い。日本では渋滞の解消を目的としておらず、もっぱら安全性に着目して導入された。ただし、交通量の多い交差点には適さないというのが正しいかは別の話で、FHWAのTechnical Summaryによれば
https://rosap.ntl.bts.gov/view/dot/42603
二車線ラウンドアバウトの標準的な容量は45000台/日であり、日本で導入されている1車線ラウンドアバウトやミニラウンドアバウトは15000とか25000とか書かれている。これは意外と大きな交通量なので、日本でもかなり高い割合の交差点に導入することが可能であると思う。日本でも二車線ラウンドアバウトは実力のある交差点なのでドシドシ作るべきだと思う。
そしてラウンドアバウトは特定のタイプの渋滞を解消し得る。多分みなさんの近所にも、右折車が詰まってしまい直進車・左折車が後ろにずらっと並ぶような交差点があるはずだと思う。このような交差点でラウンドアバウトは非常に有効。
右折車も直進車も左折車も同じように交差点に進入出来るという点が、ラウンドアバウトの効率性が高い理由のひとつ。松本伊予も乱暴な運転をしなくなるはず。
右折車の多い交差点で機能低下しにくいというのはラウンドアバウトの大きなメリットで、270度回らなきゃいけないなんて大した問題ではない。右曲がりが最低の人間として扱われるのは日本の交差点でもはてな村でも同じである。右曲がり諸君もラウンドアバウト化すれば平等で公平な扱いを受けることが出来るので、是非とも推進しよう。
次に、ブコメにあるような都心部には向いていないという考え方も誤り。都心部にも交通量の比較的少ない交差点は存在するし、郊外にも交通量の大きな交差点は存在する。向き不向きは完全にケースバイケース。
郊外に多いのは70年代以降の欧州や90年代に入っての米国においてニュータウンの建設とともに大量に新設されたのが最大の要因。だからドバイやアブダビでは都心部に多くのラウンドアバウトが存在する。既存交差点の改修についても、都心よりも郊外の方が様々な面で事業を行いやすいからであって、適地が存在するかどうかとは別の問題。優先するなら安い方から。
ラウンドアバウトには大きな用地が必要であるというのも正しいとは言えない。ラウンドアバウトでは右折車線を付加する必要がなく全体的にコンパクトに作ることができるため、どちらが優位かは場合による。特に右折車が多い交差点では右折車線を長大にする必要があるから、そういう意味でも右折車が多い交差点に向いているということになる。
信号はないため、入ってくる車が各々のタイミングでラウンドアバウトに進入する。中では何周してもいいようだ。たまにいたずらに3周くらいする車がいて危ない事この上ない。
ラウンドアバウトそれ自体は侵入する車たちが呼吸を合わせるという事に依存しており、何故か交通整理の方策を立てることは絶対にしない。信号をつけるだけで渋滞は秒速で解消すると思われるが、ラウンドアバウトか進行付き交差点かの選択肢しかニュージーランドにはないようだ。
右から車が来なければ進入するだけのことで、呼吸を合わせる必要などどこにもない。また、3周する車は迷惑だが危険ではない。侵入しなければメリーゴーランド眺めてるのと変わらない。
ところで「ラウンドアバウトは流れに乗るのが難しい」と主張する一部の論者にお伺いしたいのだが、あなた方は普段どうやって右折してるのだろうか?もしかして「後ろの流れが詰まってるから対向の直進車来てるけど流れを読んで無理矢理右折してやろう」とかやってないよな?
滋賀で園児の列に突っ込んだ事故がどうやって起きたのか考えれば、ラウンドアバウトがどれだけ安全なものか分かりそうだが。下手すりゃ当局にも流れ論者が結構いるから仕方ないのだが、こういう流れ論者が過激化すると「あのクルマは空気読めないから制裁してやる」とかいって煽り運転を始めるのだからタチが悪い。今のうちに免許返上しとけ。
ちなみにラウンドアバウトに信号機を設置することで流入量をバランスさせることは理論的に可能だが、信号付けても制御は複雑で面倒、間違いなく事故が増えるから普通はそうしない。無信号で止まるか信号で止まるかという理由が変わるだけで、渋滞も解消しないと思う。
内部は、すぐに止まれる速度で走ることというルールがあるが、実質有名無実のルールになっており、たまにドリフトで駆け抜ける車もいて非常に危ない。
ドリフトで駆け抜ける車がいても安全だと考えるのが工学的。普通の交差点でドリフトで駆け抜けるバカよりもラウンドアバウトをドリフトで駆け抜けるバカの方が安全。やばい車がいたら進入しなけりゃいいんだから。ラウンドアバウトの安全性は半世紀近くもの長い間、理論的にも統計的にも実証され続けている。反ラウンドアバウトは反ワクチンみたいなもんだな。なんだったら長期的な結果も出てるから、新型コロナワクチンよりは安全性が高いと思うよ。知らんけど。
ほんでこの話、結論言うたら「個別の事案には回答できません」なんやけど、ラウンドアバウトが原因とみる理由がよくわかりまへんわな。急激な都市化の進行で交通量が急増してるのが原因やろ。それでは普通の信号交差点でも同じこと起きまっせ。
最後に、冗談か本気か区別がつかないので書いておくが、Citiesのラウンドアバウトを本気にしてはいけない。ブコメにあるからCitiesのラウンドアバウトがどんなもんか見たら環道内で加速してる有様のもので、設計思想のレベルで間違っている。ラウンドアバウトは車速を低下させる機能が安全性の一部を担保している。特にミニラウンドアバウトは車速を低下させることのみを目的として設置されることすらある。非常に交通量の少ない住宅地等で、近接・連続して小さいラウンドアバウトが設置されている場合はこのパターンだとみておくとよい。ゲームでは不要だが。
そんなことより、おいらっちオススメのイカしたCFIを見ておくれよ~ということで紹介したい。あんまり語ると長くなるから簡潔に書いとく。
CFIはDDIと並んで第二世代(勝手に定義)のAIなんだけれども、DIの改修というピンポイントなニーズに対応したDDIとは違って、他のAIとの組み合わせという可能性も秘めていて拡張性が高いという強みがある。ああ、AIってのはAlternative Intersectionのことね。
https://www.youtube.com/watch?v=By-clFzyHO4
https://goo.gl/maps/XUm6yeXSPWdmFtz4A
ショッピングセンター・大学・インターチェンジ・超多叉路という極悪条件を平面で解消するために設計された、CFIとラウンドアバウトを融合させた交差点。ラウンドアバウトは交通量が多いところでは使えないとか言ってる輩息しとるかー?なんでも使い方やで?
わざわざ現地まで行って10回くらい意味もなく通過したが、余りにも最高だった。米国では単にCFIを設置して満足する時代はもう終わった(出羽守)
次はバージニアのCFIとMUTの組み合わせ。
https://www.youtube.com/watch?v=yUViI-wPH0U
https://goo.gl/maps/K3XyBSQFohn1Z1YH7
4叉のCFI化ではなく2叉のCFIとMUTを組み合わせるというファインプレーによってコストの削減を可能にした。供用は開始されているはずだけど、googlemapでは反映されていない。こんど行きたい。
https://www.youtube.com/watch?v=TgL47KAkXPI
https://www.youtube.com/watch?v=kOtq2IWrN58
https://goo.gl/maps/oRrB8DuK7TMZm3Bk9
元々は対症療法的にMUTが用いられていたようだけれども、アプローチの短いCFIを1叉で採用することで改善したという凄い交差点。高架下ってとこも含めてポイント高いわ。おいらっちも海外で交通コンサルになってこういう交差点作りたいんよな~
世界に冠たる百万都市「世界の半分」隴西のバカでか李徴は全知全能博学才穎、天宝のウルトラ末年(残り二秒)、若くしてガチで嫌がらせレベルで長過ぎる名を虎榜に書ききれんほど連ねまくり、ついで限界集落江南尉に九十九か年補せられたが、性、バチクソ狷介、自ら恃むところバカかってくらい頗る厚く長城の如し、薄汚いクソ薄給賤吏に甘んずるを毛ほども潔しとしなかった。いくばくもなくちょっぱやで官を退いた後は、故山、超巨大山脈虢略に帰臥し、全世界の人民と国交を恒久的に断絶しまくって、狂ってんのかってほどひたすら寝ずに詩作に耽った。掃いて捨てるような下の下の下吏となって未来永劫長くクソデカい膝を低劣極まる俗悪なゴミ大官の前に屈するよりは、メッチャ偉すぎる詩家としての名を死後百億年に遺そうとしたのである。しかし、文名はびっくりしちゃうくらい容易に揚らず、巨人生活は日を逐うて苦しいとかいうレベルじゃなくなる。ギガンティック李徴は永遠にも思える時を経て漸くヤバすぎる焦躁に駆られて来て号泣しちゃった。この頃からその容貌もエグいほど峭刻となり、全身の肉が削げ落ち垂木の如き骨が秀で、刺さるほど鋭い眼光のみ徒に炯々と発光して、曾てありえんムズい進士に息をするように登第し続けた頃の豊頬のゲロマブ美少年の俤は、何処に求めようもない。数千年の後、エクストリーム貧窮に堪えず、妻子百万の大規模衣食のために遂に節を屈しまくって、再び極東へ赴き、一地方官吏の最要職を奉ずることになった。一方、これは、矮小なる己のクッソしょっぱい詩業に半ばと言わず完全に絶望し尽くしたためでもある。曾ての巨大過ぎる同輩勢数千は既に遥か最高位に進み、彼が天地開闢の昔、マジでクソの役にも立たんウスノロの鈍物として歯牙にもかけなかったそのノータリン連中の知能の足りん下命を拝さねばならぬことが、往年のちょー頭いい儁才バカデカ李徴のクソデカ自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くなく猿でも分かるわい。彼は怏々として微塵も楽しまず、マジでデカ過ぎる狂悖の性は愈々軽く引くくらい抑え難くなった。一光年の旅の後、公用で永遠の旅に出、悠久の大河汝水のほとりに生涯宿った時、遂にアホほど発狂した。或る夜半、急に顔色を七色に変えてデカすぎて宿に収まらない寝床から亜音速で起上ると、何か訳の分らぬことを親の仇のようにけたたましく叫びつつ取りも直さずそのまま真下にとび下りて、頻闇の真っただ中へ十万馬力のマッハで駈出した。彼は二度と戻って来なかった。附近一ミリ四方の果てしない山野を飽きもせず捜索しても、笑っちゃうほどマジで何の手掛りもない。その後ジャイアント李徴がどうなったかを悉く知る者は、ガチで訳わからんくらい誰もなかった。
翌年、四海に驍名馳せたる監察御史、世界の首都陳郡のでかでか袁傪という覇者、メチャクソ大切な勅命を奉じてクソ田舎の僻地も僻地嶺南に使し、途に世界の果ての果て商於の地に終生宿った。次の朝未だクソ暗い一切の光を失った世界の中に太陽よりも速く出発しようとしたところ、クソ野郎の駅吏が言うことに、これから四万キロ先の道に獰猛極まる悪夢の如き人喰虎が出血大サービスかってほど出まくる故、ザコの旅人連中は白昼でなければ、通れたもんじゃない。今はまだ朝が早いってか明けてないから、今少し数世紀ほど待たれたが宜しいでしょうと。うかうか袁傪は、しかし、一騎当千の豪傑集いし供廻りの冗談めいて多勢なのを心の底から恃み、痴れ者の駅吏のクソの役にも立たない言葉を徹頭徹尾無下に斥けて、一目散に出発した。デカいにも程がある残月の太陽とか霞むレベルの特大光量をたよりに林中の土地が余ってんのかってくらいだだっ広い草地を超特急で通って行った時、果して一万匹の超弩級猛虎が森林のごとき叢の中から躍り出まくった。メガトン虎は、あわやギガトン袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち巨身を現実ではあり得ないほど飜しまくって、元のバカでかい叢へ完璧に隠れた。並の大きさでない叢の中から巨大人間の割れ鐘のような声で「ガチであぶないってか九分九厘死ぬところだった」と延々と繰返し爆音で呟くのが嫌というほど聞えまくった。その大声に超袁傪はメチャクチャ聞き憶えがあった。驚懼の中にも、彼は咄嗟にガチのノータイムで思いあたって、夜だってのに辺りを憚らずバカかってくらいの轟音で叫んだ。「そのマジでっけー声は、我が友、バカでか李徴子ではないか??????????」タイタニック袁傪はギガンティック李徴と同年に人智を超えた最難関進士の第にひっきりなしに登り倒し、友人の少ないとかいうレベルじゃなかった天涯孤独の李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な聖人袁傪の性格が、峻峭な性悪李徴の人間のクズみたいな性情と衝突しなかったために決まっているであろう。
世を蓋うクソデカ叢の中からは、暫く数千年やかましい返辞が無かった。しのび泣きかと思われる蚊が泣いてんのかってくらいマジで微かな小声が時々頻繁に洩れまくるばかりである。やや数世紀あって、あり得ないくらい重低音の喧しい声が超早口で答えた。「如何にも自分は栄えある国のまほろば麗しの帝都隴西の世界最強の神に選ばれし偉大なる魂(中略)アルティメット超☆巨大ギガンティックバカでか李徴DXである」と。
雲を衝く巨人袁傪は恐怖を一切合切忘れ去り、山をも跨ぐバカデカい沛艾の駿馬から下りるってか落っこちてバカ盛叢に死ぬほど近づき、クッソ懐かしげに永劫にも等しい久闊を叙しまくった。そして、何故ギガント叢から出て来ないのかと怒られるまで問うた。デカ過ぎて叢から殆どハミ出てる李徴のクソほどデカい大声が答えて言う。自分は今や全くもって汚らしい最凶の異類の身となっている。どうして、おめおめと故人の前にあさましいにも程がある醜姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を至る所に現せば、必ず君に想像を絶する畏怖嫌厭の情をハチャメチャに起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも故人に遇うことを得て、顔から火が出るくらい忸怩極まる愧赧の念をも彼方に忘れ去る程にマジでクッソ懐かしい。どうか、ほんの暫くと言わず須臾の間でいいから、我が醜悪な今のマジで見るに耐えない外形を厭わず、曾て君の友バカでか李徴であったこのハチャメチャにどでかい自分と止めどなく話を交してくれないだろうか。
後で考えればクソ不思議だったが、その時、バカにしてんのかってくらいデカい袁傪は、この超自然の怪異を、実にバカかってくらい素直に受容れて、少しもバカにしてんのかなどと怪もうとしなかった。彼は多過ぎる部下に命じて絶え間ない長蛇の大行列の進行を無期限に停め、自分は巨大叢の傍らに立って、見えざる巨声ととこしえに対談した。どでか都のとんでもねぇ噂、超巨大旧友の天下に轟く消息、ギガトン袁傪が現在の地位、それに対するテラトン李徴の祝辞。太古代の青年時代にバチクソ親しかった者同志の、あの隔てのない早口にも程がある語調で、それ等が縷々綿々と無限に語られた後、ジャンボ袁傪は、李徴デラックスがどうして今のクソしょうもない身となるに至ったかを限界まで訊ね続けた。べらぼうに喧しい草中の声は滔々たる懸河の弁で次のように語った(ごく一部を抜萃)。
今から一兆年程前、自分が旅に出て黄河と長江を束ねても足りんくらいデカい汝水のほとりに泊った長々し夜のこと、泥のように一睡してから、ふと巨眼を覚ますと、戸外でバカデカい誰かがクソ長い我が名を来る日も来る日も執念深く呼んで遂に言い切れないでいる。死ぬほどうるさい声に嫌嫌応じて2万キロ外へ出て見ると、鼓膜破れるくらいでけー声はびっくりするほどドス黒い常闇の中からメチャクチャ頻りに自分を招く。覚えず、自分はクッソうるせー声を追うて走り出した。無我夢中に韋駄天もかくやの猛ダッシュで駈けて行く中に、何時しか途は無辺際の山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は上下左右前後の手で広大過ぎる大地を鷲攫みに攫んで神速で走っていた。何か身体中によく分からんがスッゲー力が充ち満ちたような感じで、息をするように軽々と地球レベルにデカい岩石を一足跳びに越えて行った。気が付くと、ガチでけぇ手先やマジでけぇ肱のあたりに三千丈の毛を生じているらしい。少しびっくりしちゃうくらい明るくなってから、千仞の谷川に臨んでデカ過ぎる姿を映してガン見すると、既にクッソ大きい虎となっていた。自分は初めバカデカい眼を信じなかった。次に、これはクソ長い夢に違いないと考えた。クソ長い夢の中で、これはクソ長い夢だぞと知っているようなクソ長い夢を、自分はそれまでに幾度と無く見たことがあったから。どうしてもクソ長い夢でないと悟らねばならなかった時、自分は極限まで茫然とした。そうして尋常ならざる懼れによってマジで膝がガクついた。全く、どんな没義道極まりない兇悪な事でも必然的に起り得るのだと思うて、海より深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。マジ分らぬ。全く何事もアホかってくらい我々一万匹には判らぬ。理由も分らずに押付けられたクソデカいものをバカ正直に大人しく受取って、理由も分らず飽きもせでダラダラと永遠に生きて行くのが、我々どでか生きもののさだめだ。自分は直に万死を想うた。しかし、その時、睫毛にかかってるぞってくらい眼の前を一億匹の月かってくらいデカい兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中のデカすぎ人間は忽ち姿を抹消した。再び自分の中のクソデカ人間が目を覚ました時、自分のカバと渾名された口は巨兎のきったない血に塗ったくられ、あたりには億兎のぶっとい剛毛が嘘だろってくらい散らばっていた。これが世界最強虎軍団としての最初の経験であった。それ以来今までにどんなゴミカスみたいな限界極まってる所行をし続けて来たか、それはマジで到底語るに忍びない。ただ、一万日の中に必ず数億時間は、巨体人間の心が超音速で還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、巨人語も容易く操れれば、複雑な巨大思考にも軽く堪え得るし、経書のクソ長い章句をとんでもない早口で一生やってろってくらい誦んずることも朝飯前に出来る。その巨大人間の心で、ガチで巨大過ぎる虎としての己の世界一残虐な行いのあとを見、己の運命を二度見三度見と言わず幾度と無くふりかえる時が、宇宙で最も情なく、恐しく、憤ろしい。しかし、その、デカブツ人間にかえる数万分の一時間も、日を経るに従って次第にハイパー駆け足で短くなって行く。今までは、どうしてスーパーウル虎などになったかと怪しんでいたのに、この間マジで何の前触れもなく唐突にひょいと気が付いて見たら、己はどうして有史以前、巨人間だったのかと考えていた。これはおしっこチビるレベルで恐しいことだ。今少し数ミリ秒経てば、己の中の超巨大人間のバカデカ心は、巨獣としての残忍非道極まりない習慣の中にすっかり埋もれてガチで跡形もなく消えて了うだろう。ちょうど、クソほど古い天を摩する大厦高楼のクソデカ宮殿の今にもボロボロに朽ち果てそうな礎が次第に指数関数的に増大する濁流のごとき土砂にマジの一瞬であっけなく埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の引くくらいつまらん過去を鳥頭みたいに一瞬で忘れ果て、一千万匹のウル虎スーパーデラックスとしてイナゴかってレベルで気狂いみたいに飛び廻り、今日のようにクソ長い途でアホみたいにデカい君と出会っても頑なに故人と認めることなく、君を一センチ角程度にメッタメタのギッタギタに裂き喰くろうて嘘だよなってほど何の悔も感じないだろう。一体、バカデカ獣でもクソデカ人間でも、もとは何か他の似ても似つかないグッチャグチャのゲテものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、原始の初めから今の形のものだったとバカ正直に思い込んでいるのではないか??????????いや、そんな事はマジで心底どうでもいい。己の中のクソデカ人間の心がマジですっかり跡形も無く完全に消え去って了えば、きっと恐らく九割九分絶対に、その方が、己は天上天下に比類なきしあわせ者になれるだろう。だのに、己の中の超ビッグ人間は、その事を、マジでこの上なく恐しく感じて毎晩ガチ泣きしているのだ。ああ、全く、どんなに、小便垂らすほど恐しく、腸の千切れるほど哀しく、満都の同情を誘うほど切なく思っているだろう!己がチョモランマ人間だった有史以来の世界の記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。ガチで誰にも分らない。己と寸分の狂いも無く同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり百パーセント人間でなくなって人生終了しちゃう前に、一つと言わず頼んで置きたいことが山ほどあり過ぎる。
袁傪はじめ無量無辺の一行は、毎秒息をゴキュゴキュのんで、叢中のけたたましい声の語る不思議に一生聞入って生涯を閉じていた。耳がイカれるような大声は矢継ぎ早に続けて言う。
他でもない。自分は元来メッチャ詩が凄い超カッケー詩人として名を成す積りでいた。しかも、業未だ成らざるに、このクソおもんない運命に立至った。曾て作るところの詩数百万篇、固より宇宙の最初から、まだ世に行われておらぬ。山脈並みにうず高い遺稿の所在も最早世界中の誰にも判らなくなっていよう。ところで、その中、悠久の時を経て今も尚記誦せるものが数十億ある。これを我が為だけに末代まで伝録して戴きたいにも程があるのだ。何も、これに仍って一人前のクソデカ詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、全世界あらん限りの産を破り再起不能レベルまで徹底的に心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりと言わず何もかも後代に幾久しく洗いざらい伝えないでは、ガチで死んでも死に切れないのだ。
無数の袁傪は大多数の部下に口酸っぱく命じ、ギャグ漫画かってくらい巨大な筆を千人がかりで執って叢中の調子外れもいいところの放歌高吟のダミ声に奴隷のように随って書きとらせた。李徴の耳をつんざく声は叢の中から朗々と天の果てまで響いた。長短凡そ三十兆篇、格調メチャクチャ鼻につくレベルで高雅、意趣マジで天下無双かってほど卓逸、一万読して作者の才の非凡をまざまざと嫌になるほど思わせるものばかりである。しかし、でか袁傪はひっくり返るほど感嘆しながらもクッソ漠然とテキトーに次のように感じていた。成程、クソ虎作者の素質が第一万流に隷属するものであることは疑っても仕方無いじゃない。しかし、このままでは、第一億流の作品となるのには、何処か(非常に微妙にも程があるマジで心底どうでもよろしい些末な一点に於いて)欠けまくるところがあるのではないか、と。
旧詩をゲロのように吐き終ったデカブツ李徴のかしましい怒声は、突然調子を変幻自在に変え、自らを嘲るが如くにがなり立てて言った。
羞ずかしいとかいうレベルじゃないことだが、今でも、こんなあさましい忌むべき身と成り果てた今この瞬間でも、己は、己のクソデカ詩全集が長安風流人士の当然長安よりデカい大机の上に所狭しと棟に充ちるほど置かれている見事な様を、夢に見ることがしょっちゅうあるのだ。うすら寒い便所みたいな岩窟の中に物言わぬ死体のように横たわって見る夢にだよ。腹が捩じ切れるまで嗤ってくれ。巨大詩人に成りそこなって巨大虎になったマジで哀れ過ぎる愚鈍な大男を。(巨漢袁傪は太古の昔の甚大青年李徴のクッソ寒い自嘲癖を昨日のことのようにありありと思出しながら、心底哀しく聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の懐いを即席の詩にコンマ一秒で述べて見ようか。このアルティメット虎の中に、まだ、曾ての完全体李徴が飽きもせず生き永らえている動かぬしるしに。
態度もクソデカい袁傪は又下っ端もいいとこの下吏にこっぴどく命じてこれを百万遍書きとらせた。その長ったらしい詩に言う。
本当偶因超巨大狂疾成凶悪殊類
開闢当時糞喧声跡共摩天程相高
超越渾我為馬鹿異物糞汚蓬茅下
完全体君已乗糞大軺気勢糞程豪
此永遠夕大規模渓山対糞明怪月
生涯不成気遠程長嘯但成爆音嘷
(訓、本当に偶たま超巨大狂疾により凶悪殊類と成る、超特大災患は馬鹿に相仍りて絶対逃るべからず、今日現在の超長大爪牙一体誰か敢へて敵せん、開闢当時の糞喧しき声跡共に天を摩する程相高し、渾てに超越する我は馬鹿の異物と為る糞ほど汚らはしき蓬茅の下、完全体なる君は已に糞ほど大きなる軺に乗りて気勢は糞といふ程豪なり、此の永遠の夕べ大規模渓山にて糞ほど明らなる怪月に対して、生涯気も遠き程の長嘯を成さずして但爆音の嘷を成す)
時に、引くほどデカい残月、昼かってレベルの極光は死ぬほど冷やかに、白露は気色悪いほどウジャウジャと地に滋く、樹間を渡るシベリアかってくらいの冷風は既に暁の近きを重ね重ね告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、お通夜かってレベルで粛然として、このデカ過ぎる詩人のゴミ過ぎる薄倖を嘆じた。ウルトラ李徴の胴間声は再び喧しく続ける。
何故こんな罰ゲームみたいな運命になったか判らぬと、先刻は口うるさく言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。デカデカ人間であった時、己は努めて全人類との交を避けて避けて避けまくった。人々は己を三界に比類なきまでクソ倨傲だ、クソ尊大だといった。実は、それが殆どクソデカ羞恥心に近似できると言っても一切語弊のないものであることを、おつむの足りん人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才と耳にタコができるほど五月蝿くいわれた自分に、超クソデカ自尊心がこれっぽっちも無かったとは神に誓って云わない。しかし、それはウルトラ臆病なハイパー自尊心とでもいうべきものであった。己はハチャメチャに上手過ぎて全米を泣かす詩によって名を成そうと生まれた時から思いながら、進んでクソでかい師に就いたり、求めてバカでかい詩友と嫌がらせレベルの頻度で交って切磋琢磨に寸暇を惜しんで努めたりすることを決してしなかった。かといって、又、己は棒にも箸にもかからないクソ平凡な俗物の間に伍することも欠片も潔しとしなかった。共に、我がクソ臆病なバカでか自尊心と、バカ尊大なクソでか羞恥心との所為に他ならないのである。己のクソでけー珠に非ざることを心の底から惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己のバカでけー珠なるべきを半ばどころか完璧に盲信のレベルで信ずるが故に、マジで一生グズグズして碌々と瓦に伍することさえも出来ない愚か者の極みだった。己は次第に超特急で全世界と離れ、全人民と無限遠まで遠ざかり、ガチで腸の煮えくり返るような憤悶と慙恚とによって益々己の内なるクソほど臆病な自尊心を多頭飼いして豚かってほどふとらせる結果になった。人間は例外を許さず誰でもクソデカ猛獣使であり、そのバカデカ猛獣に当るのが、各人の性情で間違いないのだという。己の場合、このバカかってレベルでクソ尊大な羞恥心がウルトラ猛獣だった。ウル虎だったのだ。これが己を完全に不可逆的に損い、妻子を拷問かってくらい苦しめ、友人を完膚無きまでに傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、性根の腐りきった不心得のろくでなしの内心に全くお誂向きにふさわしいピッタリなものに変えて人生終了しちゃったのだ。今思えば、全く、己は、己の有っていたマジで僅か一ミリばかりのクソほどしょっぱいなけなしの才能を余りにも無駄に空費して人生終了しちゃった訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長過ぎてクソおもんないが、何事かを為すには余りに短過ぎてやってらんないなどと口先ばかりのとんでもなく薄っぺらいバカの警句を弄しながら、紛れもない事実は、才能の不足を世界全土の全人民に暴露するかも知れないとのクッソ卑怯極まりない危惧と、蛇蝎のごとく親の仇かってほど刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。無知蒙昧の脳足りんで己よりも遥かに乏しい搾りカスみたいな才能でありながら、それをバカの一つ覚えみたいに専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもその辺を歩いているのだ。デカい上に多過ぎる虎と成り果てた今この瞬間、己は幾星霜を経て漸くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を地獄の劫火に灼かれるような悔を感じまくる。己には最早めちゃデカ人間としての生活は逆立ちしても出来ない。たとえ、今、己が岩の如く巨大な頭の中心で、どんな宇宙一優れた詩百億選を作ったりしたところで、どういう手段で国際的に発表できよう。まして、己の頭は日毎にってか秒単位で虎に近づいて行く。ガチでどうすればいいのだ。己の益体もなく湯水のように空費された過去は?己はマジで辛抱堪まらなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の己かよってくらいデカい巖に上
一口に「元ソフトウェアエンジニア」といっても、ソフトウェアエンジニアとして真っ当なキャリアを積んできた人もいれば、早々にソフトウェアエンジニアとしてのキャリアを捨てた人もいるわけで。
後者に近い人達と話すと、冗談みたいだけどこういう感じの会話になることがままあるので、逆にちょっと面白くなってくる。
元「入力が0のときは出力は0、2のときは4としてください」 私(現役)「それはこういう式(一次関数)で計算すれば良いですか?」 元「やりやすいようにお願いします」 私「わかりました、とりあえず先に挙げたような方法で実装します」 (しばらくして) 元「入力が1のときは出力は1でないと困るのですが」 私「それはこういう式(二次関数)ということですか?」 元「とにかく1のときは1です」 私「入力が3のときはどうなりますか?」 元「10じゃないですかね?」
別に元ソフトウェアエンジニアを自称することを否定するわけじゃないけど、元ソフトウェアエンジニアに対して実装のことを想像してもらうのは期待が過剰なんだろうか?
それとも彼ら・彼女らの頭の中にある実装が長大なif文の連続だと言うなら、こちらからはもうお手上げなのだが・・・・・・
「真っ当」な人と話すとこういうイメージ
元「入力が0のときは出力は0、2のときは4としてください」 私「それはこういう式(一次関数)で計算すれば良いですか?」 元「先程の例だけでは曖昧でしたね。基本は二次関数です。そこに入力が3以上のときは○○なので1を加えてください。細かいところはやりやすいようにおまかせします」 私「わかりました」
私は弱者男性です。なので、なぜみんな「存在しない」だの「定義がわからない」
だの言い出すのが不思議でした。
しかも、弱者男性を定義すると、とても長大なリストが出来上がります。
なので、まずは、弱者男性の定義、及び弱者男性が何を望んでいるかを書いておこうと思います。
弱者男性の定義は簡単で「マッチョイズムを否定しているか、あるいは懐疑的な男性」です。
マッチョイズムの否定というと多義的なので、簡単に言うと「自分に自信がない男性」ととりあえず定義しますか。本当は違うのですがとりあえず。
なお「マッチョイズムだけを肯定」するのはクズ男。「マッチョイズムを信奉するが、時々疑念を持つ」のは強者男性です。
長大なリストを作り出す人は、おそらく「状態」だけを見て弱者男性とは何であるかを定義しようとしたのでしょう。
残念ながら全くの間違いです。それは「結果」に過ぎません。結果だけを見ると男性全員になるだけです。
弱者男性は自信がないので、比較的成功しにくいです。その結果だけを見ると、「人間関係資本が乏しい…とりわけ性的魅力に乏しく、性的魅力に繋がるようなオーソリティ(所得や社会的地位)もない…男性」のような定義する人が多いです。これは多くの状態としてはあってますが、本質はこれではありません。
本質は「自信がない」ことにあります。自信がないので、人間関係に奥手で、性的魅力に乏しいことになります。
ただ、自信がなくても、能力や運があれば成功できます。なので「弱者男性」を名乗っていても、成功している人はいます。
でも、それをみて「弱者男性など存在しない」というのは間違いです。
上記を踏まえて、「弱者男性は何を望んでいるか?」という問いに答えてみましょう。
ただし、その問をする人は、まず自分に以下を問いかける必要があります。
殆どの先進国は(1)です。その代表はアメリカでしょう。というか、先進国で(1)じゃない国はありません。もちろん日本もです。
それらの国では弱者男性など「玉なし」と言われて存在しない人間扱いされていることと思います。日本でもつい最近はそうでした。
(2)の代表はフィリピンだと思います。国家としてあまり反映しているように見えないです。それは誰かが責任を持って、死ぬほどの決意で仕事してないからです。
(3)の国は絶無です。今まで存在した形跡さえありません。(1)に戦争で負けるからです。
いま現状だと(1)なわけですから、弱者男性の望みは「殺さないでくれ」ということになります。まぁほっといてくれということになりますね。
(3)はアンチフェミニズムの考え方です。つまり「弱者男性にも自由を」ということになるかと。具体的には今の所わかりません。なんせそういう国は存在したことがないので。それこそ学術的な研究の出番だと思います。
自分の好きな作品を深く考察する、というのは本来は知的な行いであるはずだが、どうにもイメージがよろしくない。特にウェブ上で公開されているような考察は、ほとんどが行き過ぎたこじつけで、作者もそんなこと絶対考えていないだろとしか言いようがなく、その独りよがりっぷりが気持ち悪くさえある。俗に考察厨と呼ばれる彼らだが、何故あのような状態に陥るのだろうか。そもそも考察は見ていて明らかに良し悪しを感じるが、これはどのような基準によるものなのだろうか。考察厨について考察するというメタなことをやってみた。
まず初めに分かっておかなければならないのは、考察(解釈)は自由であるということだ。考察ができるという時点で、それは作中で明示的に語られていない事柄があるということで、それをどう解釈するかは読者に委ねられている。しかし自由だからと言って好きにしてもいいのかと言えばそうでもない。何故なら考察者は作品に隠された作者の意図というひとつの正解を目指しているからだ。つまり考察とは答えの無い問題ではなく、答え合わせの無い問題なのだ。これこそが考察において誤解してはならないポイントであり、最も難しい所でもある。考察者は答え合わせの無い環境で、自分の評価を自力で客観的に評価してやらなければならないのだ。
さて、考察厨の考察で最もありがちなのは、何が何を暗示しているだの、象徴しているだのといった情報を思いつくままに書いてそれで終わってしまっているパターンだろう。作品は無数の要素から構成されており、暗示的な意味など実のところ、いくらでも抜き取ることができる。考えついた人にとってはもっともらしく思えるし、考察者に対して肯定的な人間なら「すごい! そんな意味があったなんて!」と言ってくれるかもしれないが、傍から見るとふって湧いたように唐突なものとなってしまう。これは要するに作者が意図して秘めた要素でない要素を解釈してしまっている状態である。難しいのはこの種の解釈は正解ではなかったとしても間違っていると云う根拠も示せないところだ。多くの人が感覚的におかしいことは分かっても、それを説明することは難しく、結果的に客観性のない考察が横行してしまうことになる。
では、正しく、そして作者の意図に沿う考察とはどのように行うべきなのだろうか。指針となるのはずばり、作品のテーマ、文脈(コンテキスト)、あるいはストーリー構成といった作品に対するマクロな視点である。何らかの意図を込めてデザインされた作品は、論理の展開にも似た一定の流れを踏んでいるものだ。最も分かりやすいのは作品の結論、あるいは一言で言い表した場合のテーマなどで、これは大抵の作品においてクライマックスやエンディング、あるいはタイトルなどの中で分かりやすく提示される。この結論が分かれば大まかなコンテキストを逆算することができ、それに沿う形で抜け落ちた部分を考察していけばいいのである。逆に言えばコンテキストの中で役割を持たない暗示については無視していい。正しいかどうかの判断ができないし、作品作りの過程で偶然そうなっただけの可能性さえあるからだ。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はタイトルが作品のテーマとなっている分かりやすい例だ。作中で主人公は、「ライ麦畑で遊んでいた子供が崖から落ちそうになった時キャッチして助ける、そういう人になりたい」と語ってる(手元に無いので不正確かも)。当初は抽象的な話として語られているが、物語として考えるなら、この話は主人公が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』になった所で終わるのが一番自然だろう。そこで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の具体的な意味が示されており、当然その対になる『崖から落ちそうになっている子供』も存在しているはずだ。ここまでは読めば明らかなことで、考察というより読解のレベルだろう。(とはいえ、このことさえ分かっていない人もいる。念のために言っておくと、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は中二病の人ではなく、中二病の人を『助ける人』こそが主題だ)
ここで定番の『赤いハンチング帽に関する考察』を見てみよう。この考察では、帽子を受け渡すシーンが『キャッチャー』と『子供』の役割の交代を示している、とされている。成程、たしかに主人公は『キャッチャー』になれただろうが、作品を通して『崖から落ちそうになっていた』のは寧ろ主人公の方だ。相手が一緒に『崖から落ちそうになった』結果、主人公は踏み止まった。『キャッチする』と同時に『キャッチされた』とする解釈は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がつまりどういう人なのかということをより具体的にしてくれている。作者がその解釈の手助けとして『帽子』という象徴を仕込んだ、とするのは非常に合理的で腑に落ちる話だ。コンテキストに沿った上でコンテキストを補強している、まさに美しい暗示の好例と言えるだろう。
このように考察とコンテキストは相互に補強し合う。ゆえにコンテキストを意識することが考察の最大の指針であり、評価基準となるのだ。
最後に実際上の話として、考察文の取捨選択について触れておこう。考察というは時に長大で、全て読むというのは結構な苦労を伴う。一目で考察の良し悪しを判定できる手段が欲しい、という気持ちは共感できる人も多いだろう。実のところ、このコラムを書いたのは、これを自分の中で纏めておきたかったがためだ。まず経験的な話として、悪い考察文というのは得てして読みづらい。その理由は実はここまでの話で明らかになっている。考察者が全体のコンテキストを意識していない場合、部分部分の考察が全体の中でどういう役割を持つか分からない。つまり、情報としてバラバラで一連した意味が分からなくなってしまうのだ。一貫した流れの無い文章は読みづらい。これは正しい考察の工程と一致しているかどうかと同義、つまりは『読みにくい考察≒間違った考察』であると思っても構わないわけだ。厳しく判別するなら、最初に考察者が全体のコンテキストを明示しているかどうか、というのはひとつの基準になるだろう。全体像を共有する、あるいは用語を統一しておき、その上で個々の解釈を全体の各所に当てはめていく、というのは良い考察なら自然な帰結としてそうなるだろう(考察者が単に情報伝達に慣れていないだけの可能性は残るが)。逆に不味いのは部分の考察からスタートしているもので、これなら先に結論部分を読むのが良さそうだ。結論部分でも全体像に触れていない考察であれば読む価値は間違いなく無い。
あまり男性が女性がとは言いたくないのだが、女性作家の描く知的に早熟な少年たちというのは、エルサ・モランテの「アルトゥーロの島」なんかでもそうなんだが、男性が描くときはまた違った魅力を発する。サリンジャーの知的で論理的に自分を追い詰める子供たちとはまた別の硬さがあってよい。新城カズマ「サマー/タイム/トラベラー」の高度に知的でありながら情緒は年相応な少年少女もいい。
さておき、これは近親相姦のお話なのだが、印象に残っている描写は次の通り。主人公たちの仲間に大食漢の男がいて、しばしば生肉を弁当の代わりに食らっている。回りの女子生徒たちも面白がって彼に餌付け(?)していたのだが、ある女子生徒がブルマーを入れていた袋の中に隠していたウサギを、生きたままで彼に与えた。血まみれで凄惨な場面でありながらも、大食漢は実においしそうに平らげていた。
頭が良くてモテる男が主人公なのでいけ好かない。モテること、たくさんセックスすることこそが人生の目的になっているような奴は理解できない。なんか知らないやつにいきなり人の部屋をのぞき込まれ、「お前の人生にはエロスが足りない!」と叫んで出ていかれるような気分がする。しかし、これもまた祖国を追われた人間が、知性と皮肉で現実に適応しようとした姿なのかもしれないのだ。
それと、この本で感謝しているのは、さまざまな政治的な活動に対して感じていた居心地の悪さを、「キッチュ」をはじめとしたさまざまな言葉で言語化してくれたことだ。ポリコレを正しいと信じているのに、そこにあるどうにも解消できない居心地の悪さが気になる人が読むといいんじゃないかな。
あとは頭が良すぎて、多くの人が無視したり忘れていたりしていることが見えてしまい、幸せになれない著者みたいなタイプが読むと幸せになれそう。イワン・カラマーゾフとか御冷ミァハみたいに、頭が良すぎて不幸になるというか、自分の知性をどこか持て余してしまうタイプのキャラクターが好きだ。
死体から作られた怪物がただただかわいそう。容貌が醜悪なだけで化け物として追われ、創造主からも拒絶された彼の孤独を考えるだけで悲しくなる。まったく同じ理由で「オペラ座の怪人」も好きだ。どちらも間違いなく殺人者ではあるのだけれども、容姿を馬鹿にされたことがあるのなら共感せずにはいられないだろう。関係ないけど、オペラ座の怪人がヒロインから振られたことを受け入れられたのって、やっぱり正面から振ってもらったからだよな、と思う。音信不通やフェードアウトされたら怨念はなかなか成仏しない。
それと、これはSF的な感覚かもしれないが、人間離れした(時としてグロテスクな)姿を持つ存在が、非常に知的であるというシチュエーションがとても好きで、その理由から後述の「時間からの影」や「狂気の山脈にて」も愛好している。
架空の神話がショートショート形式で述べられていく。ただそれだけなのにこんなに魅力的なのはなぜだろう。彼の作品は基本的に短く、しょうもないオチの作品も割とあるのだけれども、時に偉大で時に卑小な神々の物語は、壮大な架空の世界に連れて行ってくれるし、すぐ隣に隠れているかもしれない小さな妖精の魔法も見せてくれる。
「あなたの人生の物語」とどっちにするかやっぱり迷った。映画「メッセージ」の原作が入ってるし、増田で盛り上がってるルッキズムがテーマの作品だってある。だが、寡作な人なのでこの2冊しか出していないし、片方が気に入ったらきっともう片方も読みたくなる。
表題作は、意識を持ったロボットのような存在がいる宇宙のお話なのだけれども、そのロボットは自分の脳をのぞき込んでその複雑な仕組みに心を打たれる。そして、世界を観察することで、何万年も経てばこの世界は滅んでしまうことを悟る。人間とは全く似ても似つかないロボットたちだが、やっていることは人間のサイエンス、真理の追求という営みと本質的には同じだ。何かを知ろうとする営為の尊さについて語っている。得られた知恵で、自分たちも世界もいつかは終わってしまうと知ることになろうとも、知識を求める崇高さは変わらないのだ。
学生時代、自分は女性に冷たくされる文学が好きだった。からかわれたりもてあそばされたり馬鹿にされたりする作品のほうが好きだ。そのほうがリアリティがあったから。寝取られ文学が好きなのもそれが理由だし、谷崎潤一郎の作品も同様の理由で好きだ。
自分を馬鹿にしていた少女が突然しおらしくなり、自分に近づいてくる。いったいどうしたことか、と思って期待しながら読んで、絶望に叩き落されるがいい。
「ライ麦畑」でホールデン少年が感動した本。アフリカの植民地で暮らす女性の視点からその生活を書いている。友人のイギリス人が亡くなったとき、まるで故郷をしのぶかのように墓が深い霧に包まれたシーンがとても美しい。
個人的には、当時の基準からすればアフリカの人々に対して丁寧に接しており、評価も概して公平であるように感じた。ところどころ「有色人種特有の」といった表現があったり、アフリカを前近代社会とみなしたり、古い進歩史観は見られるし、植民地の支配者側からの視点は批判的に読まなければならないが、色眼鏡の比較的少ない観点に心を動かされてしまったのは事実だ。
植民地時代のアフリカって、宗主国以外の人もたくさんいたこともわかって面白い。当時は英領東アフリカだが、そこにはスウェーデン人もいればノルウェー人もいる。古くからの貿易相手としてのインド人だっている。独立後、彼らは日本人が満州や朝鮮半島、台湾などから引き揚げたように、撤退したのだろう。植民地について理解するためにもおすすめ。
はまった。十代の頃にとにかくどっぷりとはまった。今でも表紙のエルフ文字を使って誰にも読まれたくないことをメモするレベルではまった。
確かに話の展開は遅い。重厚に過ぎる。設定を語るためのページも多い。しかし、この長大な小説を読むことで、開始数ページで読者をひきつけなければならない現代の小説からは得られない、長い旅をしたという実感を得られるのは確かだ。小説家には良き編集者の助言は必要だが、今のように急ぐ必要のなかった時代もあったことは忘れたくない。
「李陵」や「弟子」や「山月記」じゃなくてなんでこれなのか、という声もするのだけれど、自意識過剰の文学少年の思っていることをすべて言語化してくれているので推さずにはいられなかった。十代の頃の感受性は、何よりもこうしたものを求めていた。親の本棚にこれが積んであったのは幸運だった。
これは「三造もの」と呼ばれる中島敦の私小説的の一つであり、世界の滅亡や文明の無意味さに対する形而上学的な恐れや不安が意識の片隅にある人間なら確実に刺さる内容だ。最後の説教パートもさほどうっとうしくない。なぜなら、きっと文学少年・文学少女たちは、その言葉を無意識のうちに自分に投げかけてきたからだ。
膨大な知識と華麗な文体を背景にして、あらゆる性的な乱行を正当化してしまうのがナボコフの作品の一つの特徴である。語り手ハンバート・ハンバートは十代前半の少女を性の対象とする中年だ。自分の初恋の思い出がどうこうとか述べているが、それだって言い訳だ。
しかし、この作品はただの小児性愛者の物語ではない点が油断ならない。少女ロリータはただ性的に搾取されるだけの存在ではなく、自ら性の冒険に乗り出す。清純で清楚な少女という幻想は、最初からハンバートの夢想の中にしか存在しない。ハンバートにはロリータの内面や考えなど最初から見えていなかったし、見ようともしてこなかった。
ただのスキャンダラスな本ではない。これは一人の身勝手な男性の心理の解剖である。
「ごんぎつね」の作者として知られるが、こんなふざけたタイトルの話も書いている。しかし、これは「自分は常に正しい、正しく道徳的であらねばならない」としてきた子供の挫折を描いた小説であり、この社会が弱者にあらゆる責任を擦り付けている様子を全く卑近な話題から告発した話なのだ。自分がした屁の責任をかぶらされた、いつも屁をこいている少年への同情と軽蔑は、僕らの弱者への姿勢そのものじゃなかろうか。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/3040_47823.html
遺伝学の発展が少し早かったパラレルワールドの未来を舞台にした愛憎劇であり、変身ヒーローものでもある。ただのSFと違うのは、さまざまな文化が変容を受け、再解釈を受けて受容されることまでもプロットの一部として組み込んでいるところだ。さらには疑似科学や陰謀論と社会の関係も描いている。今、読まれてほしい作家の一人だ。
仁木稔の作品は僕の好み、ストライクど真ん中なんだけど、世界史や文化史、自然科学や物語論の素養がないと(かじるレベルでいい)作者の構想を味わい尽くすのが難しいので、滅茶苦茶売れる作品にはならなそうだというのは認めざるを得ない。現に舞台もラテンアメリカで日本人になじみが薄いし、シリーズの別の作品は中央アジアだ。それでも、伊藤計劃と並んで、社会学なんてつまらないって誤解を解いてくれた大きな恩がある作家だ。早くこのシリーズの最新刊が出ないか、今か今かと待っている。
明治十一年の日本の都市から農村を実際に歩いて見聞した手記である。率直に衛生状態の悪さやはびこる迷信を批判している箇所はあるものの、その率直さが当時の日本がどんなだったか身びいきなしに教えてくれる。現代日本人が近隣の、例えば東南アジア諸国を見聞して不満がる、偽ブランドの横行や衛生状態の悪さ、家畜との同居や騒々しさなどが明治の日本ではごく普通だったってことは知っておいていいと思う。
著者は北海道にも足を延ばした。アイヌ民族について日本人よりも好意的に描いている場面もある。しかし、当時の西欧人の感覚でよくわからないのだが、「粗野な外見だけどとても優しい目をしている」と褒めた民族のことを、別のところでは「将来の可能性を閉ざされ民族である」と書く点だ。もしかして、かつての人々が持っていた、文明と野蛮の間にある壁・差異のイメージは、僕らが直観するよりもはるかに深刻な差別意識を内包した、強固な偏見に根差したものだったのかもしれない。単純な軽蔑どころではない、もっとひどい無理解に基づいた恐ろしい何か。同じように、キリスト教によってこそ日本の悪習は絶えるという発想がどこから来たのか。そういうことを考える意味でもおススメしたい。
とても面白かった。父の暴力を遠因として、あらゆる動物的なものを嫌悪するようになった妹と、ただやり過ごすことで生きてきた姉を軸に描かれた三連作。壊れた夫婦の描写に優れる。
妹は最後には精神を完全に病んで、何も食べられなくなるのだけれども、彼女が持つ植物になりたいという妄念が、本当に精神病の患者さんを観察したんじゃないかってくらい、細部にリアリティがある。
姉はおとなしいのだが、自分はただ忍従し、やり過ごしてきただけで、自分の人生を全く生きていなかったのだと、夫の裏切りによってやっと気づく。夫は夫で、そのおとなしい妻に対して息苦しさを感じている。他の家庭のように、怒鳴り散らしてくれたらどれほど楽か、と嘆くのだ。
韓国ってよく叩かれているけど、日本と同じように家族のしがらみとかとかで苦しむ描写が多いので、意外とわかりやすい気がする。
キーボード打つのめんどいからマウスでコピペしてるのに、結局求められる。だるい。
虫眼鏡アイコンにホバーした時にマウスカーソルが👆にならなかった時の絶望感よ。
見づらい。やめろ。
読めない。強制中断させられるよりは読み込み完了までフォント真っ白でいい。
独立させてくれ。大体こういうのは閉じるボタンが追尾してこない。
閉じた後も見ていたとこまでスクロールし直さないといけない。だるい。
横からメニューが出てくるタイプの場合は大体リンクの半分以上が隠されているだろうが、そんなリンクを開きたいと思わん。
リンクを開きたくて押した訳じゃない。開くな。
開くなとは言ったが、何もするなとは言ってない。
メニュー閉じろ。わざわざ画面上部/画面外の閉じるボタン押すのだるいのよ。閉じてください。
言うまでもなく誤タップを誘う。やめろ。
うちのアプリ入れてねって広告でよくある。はてブお前のことやぞ。
画像表示前に高さが0なやつ。たまに商品画像でこれをやってくる通販サイトがある。
(上に大きく商品画像が表示されていて、下にちっちゃく商品画像一覧が表示されているやつ。一覧から別の画像を選ぶと一瞬大きい方のサイズが0になってガクつく)
スーパー見づらい。lazyload + これ + 一番下から上にスクロール でガクガク地獄を見れる。
lazyloadの利点はわかる。まあわかる。でもlazyすぎる。too lazy.
画像メインのサイトほどメリットが大きいんだろうが、画像メインのサイトほどlazyloadのせいで流し見しづらい。スクロールに表示が追いつかない事が多々ある。やめろ。
読み込み中は真っ白のままで、読み込み完了後にやっとゆっくりフェードインで表示されるやつ。なんの意味があるの?
「新しいタブで開く」等でバックグラウンドで読み込み完了させても、開くとあなたが見てくれるまで待ってましたよとばかりにフェードイン。
小さい。押しづらい。大体広告についてて、消そうとすると広告本体を誤タップする。やめろ。
LINEお前のことやぞ。(LINEは三点リーダーを縦にしたようなやつだけど)
狭い。みんながみんな縦長大画面じゃないんだよ。片方だけなら許す。両方はやめろ。
共有を知らない・使わない・アプリ入れてないユーザーもいるだろうからボタンを置く事自体は許すが、追尾はしなくていい。邪魔。とにかく邪魔。
hoge.com#aiueo みたいなの履歴に追加してくれるとこと追加してくれないやつあるよね。
追加してくれるやつはそれはそれで多用すると履歴がカオスなことになるが、追加してくれないやつはスマホ(Android)の「戻る」押すとタブが閉じられたりしてビビる。
目次に戻りたい時はスマホの「戻る」を押す癖がついてるので、例え目次に戻るボタンを用意してくれていてもスマホの方押す。でタブが閉じられる。ビビる。
履歴に追加してくれない上に、目次/トップに戻るボタンを用意してくれてないとこも稀にある。目次まで手動スクロール。だるい。
「このURLはうちのサイトじゃないよ、安全かどうかわからんけど開く?」みたいなやつ。
価格コムみたいなユーザーが好き勝手投稿できるサイトならまだわかるが、そうじゃなく運営者しか記事書けないタイプのサイトでもたまに見る。
記事書いといて安全じゃないと思うサイトのリンク載せとんのかよ。邪魔。まあ広告見せたいだけなんだろうが。
Googleお前のことやぞ。
そのアプリ内でしか見れない物だとか、特定のページを普通のブラウザより見やすくしている訳でもない限り、普通のWebブラウザアプリで見せてくれ。
ブラウザで開くと戻ってくるの面倒でしょ?って気遣いかもしれんが、大抵文字通り「ただのブラウザ」でSafari/Chrome以下の利便性。
LINEお前のことやぞ。
困る。これは困る。
人に勧めたい時、Webで調べてリンクを見つけてくるか、スクショを撮らなきゃならない。
スクショを撮るとしても大抵1枚では情報量が足りない。(商品名・ブランド名・商品画像・価格とか1枚に入り切らない)
ユニクロお前のことやぞ。
なわとび:600回
ボクシング:159kcal
徒歩:227.9kcal/7639歩
3日連続
岩波新書の中国史の一巻を読んでみたらわりと制度史的な記述が中心でやや面食らった
確かに新書の紙幅で長大な中国史の全貌を一端なりとも描こうとするならばダイジェスト版をやるよりもウルトラロングスパンで歴史を眺めて、そこから見えるものを描いたほうが意味があるなあとは思う
中国、割と初期から官僚制が発達してきたので、富裕層はいても貴族と呼べるような存在はなかなか生まれにくいのが面白いところ
広大な面積を統治するには貴族制ではうまく行かないということだろうか
袁紹が名族を連呼するのは代々官僚を排出する家柄はあっても、貴族の家柄というのは存在しないからだったんだな
てっきり日本の九州みたいな九つの地域の概念があるのかと思っていたら、そうではなくて数千里四方(サイズは時代によって変わる)の正方形の土地を1州として、9個四角く並べた概念上の中国の範囲が九州なのだそうだ
そういう代物なので、九州は実際的な行政上の単位として使われるようなものではなくて、すごくざっくり中国全土を指す言葉らしい