はてなキーワード: ハイフェッツとは
「もし二十年後に君の演奏を聴いたとしても、私はそれが君の演奏だと思い出せるだろう」
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2019年の5月、モントリオール国際音楽コンクールが主催するジュニア音楽家のためのコンサートが開かれた。
名前は村田夏帆、当時11歳である。小柄ながら卓越したヴァイオリンテクニックを有する彼女は、このコンサートでの演奏曲目をヴィヴァルディの『冬』としていた。コンサートの当日、疾走感と柔らかさを交互にもたらす複雑なメロディーは三楽章に渡り、十分余り続いた。演奏が終わった時、彼女は微笑んでいた。
熟練した室内楽オーケストラとの共演は、完全に成功を収めたのである。
演奏が終わると、司会者が壇上にやって来て、フランス語にて彼女の演奏を讃えた。司会者を前に、恐らく村田夏帆はフランス語を解してはいない様子ではあったが、真摯な表情で司会者の言葉に向き合っていた。
演奏を無事に終えた安心感と、そして異国の言葉で賛辞を向けられる緊張感。その二つをない交ぜに、彼女は生真面目な表情で司会者の言葉に耳を傾けていた。
そんな時である。
オーケストラの面々の表情が瞬時にして緊張感を帯びた。
ピエール・アモイヤルは、フランスのヴァイオリン界における重鎮中の重鎮である。
伝説的なヴァイオリニストの一人と言っても良い。かの魔術的なヴァイオリニストであるハイフェッツが寵愛した唯一にして最高の弟子であった。
壇上にいた何人もの音楽家たちが慌てて居ずまいを正し、貴賓席でゆっくりと立ち上がる初老の男性に向けて視線を注ぐ。「本当にアモイヤルが来ているのか?」と言わんばかりに、椅子に腰かけていた数人の音楽家が僅かに腰を上げて、会場の奥へと探るような眼差しを向けた。
ただ一人、村田夏帆だけがその緊張感を共有していなかった。彼女にとって、アモイヤルは音楽界の重鎮ではなく、単にチャーミングな笑みを浮かべた初老の男性の一人である。とは言え、彼女は著名な音楽家の一人からコメントを受けるとあって、程よい緊張感を含んだ表情で男性へと視線を向けた。アモイヤルは微笑んでいた。
アモイヤルはまず、オーケストラと小さなヴァイオリニストの素晴らしい演奏を讃えた。その後、彼はゆっくりとした英語で少女に向かってメッセージを紡ぎ始めた。
とアモイヤルは言うと、続けた。
「もし20年経って君の演奏を聴いたとしても、あの時聴いた音だとすぐに思い出せるだろう。
過去の巨匠であるハイフェッツ、オイストラフ、ミルシュタインがそうだった。そのくらいあなたの『声』はとてもユニークだ」
会場からは拍手と共に微笑が漏れた。それはアモイヤルの英語がお世辞にも上手ではなかったからかもしれない。あるいは、その賛辞が、コンクールで優秀な成績を収め続けているとは言え弱冠11歳の少女に述べるには、あまりに本格的に過ぎたからかもしれない。
いずれにせよ、村田夏帆は通訳の女性の声を通し、アモイヤルの賛辞を聞き届けると、微笑みを浮かべた。
そんなこんなで、モントリオールにて開かれたジュニア演奏家のためのコンサートは成功裏にて幕を閉じ、彼女は日本への帰国の途に就くこととなった。彼女は、学業の傍らヴァイオリンを演奏し続ける忙しい日々へと舞い戻っていくことになる。彼女のヴァイオリニストとしての物語は、2022年の現在に至ってもまだ続いている。
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客観的に言えば、この時の村田夏帆の演奏には些かの粗もあったと言えよう。
そのような感想を抱く音楽愛好家は決して少なくはないだろう。才能があるヴァイオリニストであるとは言え、やはり彼女は11歳の女の子なのであり、十分なキャリアを積んで技量に磨きを掛けてきたベテランのヴァイオリニストに比べれば、見劣りする部分は(多くはないにせよ)存在する。
彼女の演奏は、過去の偉人たちと同様、独特の『声』を持っている。そのことも同時に明らかなのだ。
弦に当てる弓を僅かに傾け、切ないまでの叫びを上げるヴァイオリン。
その響きには、明らかに音楽に対する愛と、そして、時代を超えて人の耳を捉え、心の奥底に触れる繊細なタッチが同居している。その音を聴くことができる喜びは、時代を超え、人の心を超えていく。我々はそんな彼女の『声』を耳にできることをきっと喜ぶべきなのだろう。
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
アマオケでヴァイオリンを弾いていると、フォルテシモ以上の箇所で「もっと出して!」としょっちゅう言われる。
自分がただでさえ少ない男のヴァイオリン弾きだからなのか、まず第一に力強い音を求められるのは閉口する。
自分にとってヴァイオリンは「世界一綺麗な音が出るモノ」という位置づけなので、それを壊すような力技の演奏はしたくないんだけどなあ。
もちろんそういう演奏を売りにする、ハイフェッツみたいなソリストは嫌いだったりする。
ヴァイオリンは楽器の性格上、ちゃんと弾けばいくらでも綺麗な音が出る反面、少しでも油断すると容易にけたたましい音や汚い音が出てしまう。
なので騒音発生器状態だとたちまち周囲から「なんだアイツ中途半端な腕で無茶しやがって」という目で見られるので、とにかくまずは余計な力を抜いて、そして出来る限り艶やかに・・・ということに腐心するわけで。
それに力強い音でとか、お前それメンコンやバッハのシャコンヌでも同じ事言えんの?という感じ。
ネットというかニコ動にいるクラシック好きの間では、どうやらハイフェッツのヴァイオリン演奏が大人気らしい。
でも決して綺麗な音ではない。
そもそも西洋の楽器は、ノイズを除去し純粋な倍音を追求する方向で発展してきたので、擦れる音まで味にしてしまうのは明らかに異端というか。
それに、世界の有名ソリストが使っている楽器も、甘く柔らかくシンプルな音で定評があるストラドが多数派で、華麗で力強い音のガルネリが少数派という現実を加味しても、世界的傾向として、ヴァイオリンで好まれる音色はしっとりした優美さだと思っていたのだが、ニコ動だけ違うというのが興味深い。
ちなみに個人的にはパールマンの、聴いていてとろけそうになる極上の音が好きなので、ハイフェッツの凄さは認めるけど、演奏する参考にはちょっと・・・という感じ。