「ヴィトゲンシュタイン」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ヴィトゲンシュタインとは

2018-05-04

1+1+1は2だと思う

Vtuberの登場で、やっぱり顔はいいに越したことはない、って証明されたよね」

 わたしたちコメダ珈琲新宿御苑前店で一服していた。いとうは爪で髪を掻きつつ続けた。

ドゥルーズは『千のプラトー』で顔は記号だけど同時に身体でもあるから政治的ものだ、って言ったわけじゃない? で、顔の美醜を問うのはポリティカルインコレクトだってことになった。けどこれは、まさに悪しき民主主義だよね。アリストテレスは『二コマコス倫理学』で、少なくとも顔の醜くないことを幸福の条件に挙げてるけど、古代ギリシャから現代までに民主主義記号化してるんだよね」

 他人がきけば白眼視するようなことを言う。そうした話ができるだけの知性を見積もられていることは心地いいが、いつもわたしがきき役だ。

 いとうは神経質そうな険のある顔をしているが、ひとによっては美人とみるだろう。わたし彼女の顔をみるたび、坂口安吾の『白痴』に書かれている、狂人の「風采堂々たる好男子で……常に万巻の読書疲れたような憂わしげな顔をしている」という描写を思い出す。

「ひとの顔をじっとみないでよ。たいぼくちゃん、繊細そうにみえて、そういうところ図太いよね」

 いとうは愁眉を寄せた。

「――お待たせ」

 倫理わたしたちに声をかける。黒のカットソーで、シースルーレースが首周りから両腕を覆う洒落た服だ。それを着こなすだけの顔立ちをしていた。アップにした髪型が、服と調和している。彼女ほど顔立ちが整っていると、髪はまとめた方が素の魅力を出せていいのだろう。

 倫理をみると、ときどき冷たくて薄い靄のような感情かられる。

「遅い」

「ごめん。バルトで『ラブレス』みてた」

セックスするとネコミミのとれるマンガ? 女子ゼロいいよね」

 わたしがいうと、倫理は苦笑した。

アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の新作。失踪した息子を探す離婚協定中の両親のはなし。郊外舞台なんだけど、途中から延々と廃墟の場面になって、それがいいんだ」

証券って忙しい?」

 いとうが尋ねる。遅刻への当てこすりではなく、ただ気になっただけだろう。

営業そうかもしれないけど、ディーリングは定休が決まってるからそうでもないよ。うちは外資リテール部門がないしね」

 待っているあいだ、何をはなしていたか尋ねられる。いとうが説明すると、倫理は笑った。

「たしかにダナ・ハラウェイのサイボーグフェミニズムはそういう論旨だね。ただそこまでいくと、むしろチャンの『顔の美醜について』みたいに、みる側の感情操作する方が自然な気もするな。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の〈情調オルガン〉みたいにね」

 倫理はいとうのはなしをすぐ理解して、気の利いた返しをした。そのことに体内が熱くなるような感覚をおぼえた。

 店を出て、新宿御苑沿いに新宿駅に向けて歩く。二人が話しているため、わたしはその後ろをついていく形になった。他意はないとわかっていても疎外感をおぼえる。

「でも、Vtuberアンドロイドでもただのキャラクターでもないでしょ。だからナマモノと同じようにあつかわなきゃいけないわけだし」

 そう口を挟む。いとうは歩きつつふり向いた。

カントは『純粋理性批判』で対象物自体として存在していて、人間はそれを超越論的主観性において認識するのみだといった。で、ハイデガーは『存在と時間』で、そうした直観主観性にすぎないと批判して、現象学でもって実存存在者を存在させると定義しなおした。存在論的にいえば、ヴァーチャルYouTuberという架空人格存在する、あるいは存在しないというどちらの立場も幼稚すぎる。他人人格ですら、無条件に存在するとはいえないんだから。まあ、未成熟なひとは自分理想像を押しつけることで、他人人格所与のものとしてあつかうけどね。そういうひとが勝手に本人を代弁して、ナマモノダメだとか言いだすわけ」

常識範疇なら、そういう代弁もいいと思うけどね。二次エロとか。ただ本人がナマモノを解禁してるのに頑なにナマモノ禁止するひととかは、そういう主観論に陥ってるんだろうね」

「だからVtuberについていえば、Vtuberとしてした百合営業に〈中の人〉が触発されて、それがまたVtuberとしての百合営業につながるというような、循環的な重層性があるわけじゃない。実在非実在二元論じゃないでしょ。ウンベルト・エーコの『ヌメロ・ゼロ』もそういうことを主題にしてるわけでしょ? 『存在と時間』では記号をただ指示するものでなく、それ自体がもろもろの記号構造を暗示するものとしているけどね。でも、常識範疇ってなに?」

 いとうは苛立たしげに髪を掻いた。

Vtuber自然人としてあつかうとして、どうして身体属人性を与える方向にいくかなぁ……、それなら自然人の身体人格とは別個のものとする方向にいくべきでしょ。天与のものである身体人格と同一視して自然権を認めるのは、明らかに不合理じゃん。だからグレゴリーマンキューも皮肉で〈身長税〉を提唱したりするわけでしょ。……、え? マンキューくらい専門外でも知っておきなよ」

 議論めいてきて、倫理の口調も熱をおびてきた。自然わたしは無言になる。

そもそもVtuber著作物と見なした方が簡単じゃない? 〈中の人〉はVtuber演者としての著作隣接権もつわけ。二次エロには著作隣接権著作人格権に準用して対応すればいい」

「ちがうね。マッピングで体をリアルタイムに同期させてるVtuberはVRよりARの方が近い。もちろんARみたいに空間認知人格投射するわけじゃないけど、運動感覚でも同じことがいえるでしょ」

身体人格から分離するのが進歩的なのはわかったけど、テクノオプティミズムすぎるよ。こんなことをいうと、イーガンSFに出てくる保守主義者みたいかな。けど一般論として、エロが一部のひとに不快感を与えるのは事実でしょ? 前から思ってたけど、自分に関わることだとすぐ感情的になるくせに、他人には正論を押しつけるよね」

自分に関わることな感情的になるのは当りまえじゃない? 正論を曲げる理由はないよ。倫理こそ、他人配慮してるようだけど、等しく他人を見下してるだけでしょ? あと、テクノオプティミストでけっこう。わたし原発推進派だし」

 感情露出して落ちついたのか、いとうは息を吐いた。

倫理のいうこともわかるよ。でも、制作者の意見もないのに他人規制しようとするのはただの自治厨だと思うな。そういうファンは決まって創作をしない側だよね。創作ができないから、その代わりに自分ルールを考えて、それをコミュニティ強制しようとすることで存在を主張しようとするんだ。まあ、そういうファンはどこのコミュニティにもいるから、無視する以上のことはできないんだけどね」

 いいながら、いとうは自分言葉でふたたびイライラしてきたようだった。いとうは神経過敏だ。紙やすりのようだと思う。

 いとうが自家中毒めいて、自分言葉で気分を荒立てているのを察したらしく、倫理は優しくいった。

自分他人のあつかいに差があるのは当然だけど、いとうの場合、それが甚だしいってことをいったつもりだったんだけどな。あんたみたいなディスコミュニケーション女にもわかるようにいってあげると、誰もがあんたみたいにコテハン擬人化されて喜ぶ人間ばかりじゃないってことだよ」

「なるほど…」

「あ。いまのでわかるんだ」

「いとうの見方個人主義的すぎるよ。後期ヴィトゲンシュタイン言語ゲームも、そういう分析哲学に対する批判としてあるわけでしょ?」

 それから、しばらく誰も話さなかった。黙々と歩く。倫理雰囲気を変えるようにいった。

「そういえば、たいぼくってウケるんだよ。前に泊まりにいったとき料理をつくったんだけどね。カレーにするつもりで牛筋を煮込んでおいておいたら、朝にたいぼくがコンソメスープだと思って飲んでたんだよ」

 いとうは爆笑した。

「たいぼくって本当に生活力ないよねー」

 倫理に囃す。「それにしても、あんマメだよね。よっ、家父長制」

 倫理は本気で不快そうな顔をしたが、いとうは気づかなかった。

都庁って変なデザインだよね。すくなくとも都の庁舎じゃないでしょ」

 遠景に都庁みえて、なんとなくいう。

「いや、あれは自生する秩序の象徴から都市役所としてふさわしい建築だよ。エッフェル塔と同じ」

 わたしが疑問に思っていると、倫理解説した。

ロラン・バルトの『エッフェル塔』だよ。『あらゆる時代、あらゆる映像、あらゆる意味に通じる純粋表徴であり、拘束のない隠喩』ってね。具体的にどういうことかは、ルイ・マルの『地下鉄のザジ』をみればいいよ。『地下鉄のザジ』ではエッフェル塔の内外から鉄塔の無機質な幾何学模様が無限に顔をもつところが撮影されているから。『地下鉄のザジ』の原作者が『文体練習』のレーモン・クノーっていえば、わかりやすいかな」

 なんとなくおもしろくなく黙っていると、いとうがいった。

「でも、そういう意味をもたないことを意図した無機質なデザインなのに、結果として都市ランドマークになってるのは皮肉だよね。そうそう、ケヴィン・リンチは『都市イメージ』で都市認知地図における主体を〈パス〉、〈エッジ〉、〈ディストリクト〉、〈ノード〉、〈ランドマーク〉の五つに分類したけど、これはプロファイリングのGCT犯罪地理探索モデル)に利用されているんだよ。〈犯人の標的捜索行動は居住地から離れるにつれて犯行に及ぶ確率が単調減少する〉、〈居住地の近隣に犯行の行われない地域存在する〉、という二つの仮説のもとで距離独立変数とする距離減衰関数を導出するんだ。もちろん、それだとただ犯行地点の二次元的な分布の平均を求めるだけだから、ここに認知地図を当てはめるわけ。たとえばエッジに近づくと距離が縮小するとかね。平山夢明の『独白するユニバーサル横メルカトル』は、これを種本にしているんだよ」

 往来でプロファイリング平山夢明について語るいとうは完全に異常者だった。

「そういう自生する秩序の象徴をもそのうちに組みこむのが、自生する秩序なんじゃないの?」

 倫理皮肉げにいった。

そもそも新宿のもの意味をもたない記号都市なんだよ。大政奉還前は飯盛女のいる宿場戦前遊郭戦後闇市復興期は赤線地帯。七一年京王プラザ建設を皮切りに七〇年代高層ビル建設されて、九一年都庁移転するまで、ここは周縁だったんだよ。都庁にふさわしい場所でしょ? ちなみに、いわゆる〈新宿二丁目〉は二丁目の北側だけで、二丁目と三丁目は御苑大通りで隔てられてて、歩行者天国地下道もそこで途切れている。で、ご存じのとおり二丁目は都市から外れて住宅街モザイクになってる。つまり、二丁目は周縁の周縁ってわけ」

 そこまでいって、倫理は表情に翳を落とした。

「まあ、これは殊能将之が『キマイラの新しい城』で六本木についていったことを、新宿転用しただけなんだけどね。〈キマイラの新しい城〉っていうのは復元された古城と同時に、六本木ヒルズのことも指してるんだ」

「いいじゃん。ロラン・バルトによれば日本のものが『記号帝国』らしいし」

殊能将之って『波よ聞いてくれ』に引用されてたよね」

 倫理は頷いた。

「『黒い仏』だね。柔むげさんがさ、いつか『殊能将之読書日記』に感動してたじゃん。わたしはそれがわかるんだよね」

 歩きながら、倫理Kindleの端末を開いた。

「『殊能将之読書日記』ではフリッツ・ライバー長編への見方が顕著かな。殊能将之は〈ほとんどエロゲーの世界〉とか腐しながら読んでいるんだけどね……。その皮肉さがわかりやすいのが『A Spectre Is Haunting Texas』だよ。殊能将之は『幽霊テキサスに取り憑く』と訳しているけどね。月周回軌道ステーションまれ主人公が、第三次世界大戦後のアメリカにきたら〈テキサス国〉になってたってはなし。日本でいうと〈「第3次世界戦後大阪日本支配するようになった時代大阪人は全員きんきらきんの漫才師ルックで、『なんでやねん』『そんなアホな』などとしゃべっている」みたいな設定〉ってこと。テキサス国の首都テキサステキサスダラスで、街にはケネディ暗殺を記念した黄金モニュメントが建ってるの。教科書倉庫の窓から突きだす銃身とオープンカーのシャーシのやつ。で、テキサス国の政権交代大統領暗殺でおこなうのが慣例なの。爆笑じゃない? で、まあギャグ小説なんだけど〈A nation nurtured on cowboy tales and the illusion of eternal righteousness perpetual victory. カウボーイ神話永遠に正しくつねに勝利しつづけるという幻想に養われた国。〉とか書いてあって、痛烈にアメリカ批判しているわけ。だからアメリカでは出版できなくて、タイトルだけイギリス英語の〈spectre〉の綴りになってるんだけどね。ちなみに日記には追記があって、このタイトルは『共産党宣言』の〈ヨーロッパ共産主義という亡霊が徘徊している〉のパロディだと教えられたからってタイトルの仮訳を訂正してるんだけどね。教えたのは中村融なんだけど」

 倫理はひと息ついた。

世界にこういう視座をもっているひとは生きるのが辛いよね。そういうひとを理解してしまうひともね。ナボコフの『ロリータ』もそういうはなしだよね。嫌味で文学趣味スイス人が、延々とアメリカ呪いながら一人の少女を愛するはなし。柔むげさんは、そういうところに感じたんじゃないかな。で、わたしもそういうひとたちに片足を踏みこんでいるからそれがわかるんだよね。だからわたしは『程』では灯が好き」

「あ。そこにつながるんだ」

 まったく予期しない展開だったためにおどろいた。が、いとうは思うところがあったらしく、無言で前を見つめていた。

 新宿駅みえてくる。

「そういえばたいぼくちゃんお酒買った?」

キリンをまとめ買いしておいたけど。あ、あとポテチカップラーメンも買っておいた」

 そういうと、いとうは爆笑した。

大学生じゃん」

 倫理も苦笑しながら言う。

「ここの成城石井ワインチーズを買っていこう。あ、でも、それならクラッカースモークサーモンハムを買っていって、ムースをつくった方がいいな。素材の味が出るから、いいものじゃないとおいしくないんだよね」

 買物をしてからJRのコンコース階に移動する。倫理カードで決済して、わたしお金を使うことはなかった。

「ごめんね。一応、ホストなのに」

 いとうは笑って「出世払いにしなよ」といった。

 倫理は微笑していった。

「それにたいぼくちゃんからモラトリアムの気配をもらってるところがあるからね。わたしも……、わたしたちもこうして社会人鋳型にはまってるけど、それが仮初めのものだってことを思い出させてくれる」

 コンコースでは大勢のひとが行き来していた。天井からは各路線を案内する表示板が大量に下がっている。これらの記号が指示するものなかにわたしたちのいく先もあるのだな、と思った。

2018-04-04

大学でこんな張り紙を見つけた

大学っていうのは本来

マルクスを読み、経済とは何かを考え、

フロイトアドラーを読み、心理学がどう発展したか知り、

ニーチェヴィトゲンシュタインを読み、人間とは何かを考え、

夏目漱石ドストエフスキーを読み映画をみてアートを鑑賞し、教養を広げる

場所のはずだ。

でも今の大学絶対にそんなもの提供しない。

学生

「俺は何のために学ぶんだ、何のために就職し働くんだ。何のために友達必要なんだ、

理想人生って何だ?世の中はどこへ向かうんだ?」

って考え始めたら、企業にとって悪夢からだ。

2018-01-13

anond:20180112175038

ヴィトゲンシュタインがこのようなことを書いているのですか。読んでみますね。

2016-01-23

http://anond.hatelabo.jp/20160122134653

コウモリって超音波で周囲の状況を把握しているっていうけどさ、どんなにコウモリという物質分析したって、コウモリ超音波をどのように感じているかっていうのは、人間には実感できないじゃん? そういう物質的には分からない感覚ってやっぱり存在するんじゃん? それがクオリアなんじゃん?

ライオン言語を話せないのではなく、まさしく話さないのだ(L.ヴィトゲンシュタイン)」…コウモリ感覚を「感じる」ことができない、という問題ではなく、そもそも他の人間であっても、その人がどのように「感じているか」を「実感」してると考えているとしたら、それは間違いで、それは単に勝手自分理解できる何かに置き換えて(翻訳して)いるだけのことだ。

人間は喋ることができるがコウモリは喋れない。それだけのこと。もし、コウモリが喋ることができて「○○HZの音って何かスーッとする感じなんすよ」とか言い出したら、あなたは「なるほどー」って思っちゃうんじゃないの? 自分以外の「感覚」への理解など、そもそも全てが想像産物に過ぎない。仮に脳と脳を直接連結しても、誰にも他者感覚をそのまま「感覚する」ことなどできない(感覚する主体は『自我なのだから感覚できたらそれはもう「他者」ではなく、そのときあなたは今までと同じ「自分」ではなく、ある共有された集団的自我となった「何か」であるに過ぎない)。

たとえば生まれからずっと白黒の部屋で生活してるマリーちゃんが、在宅学習を頑張って「色」に関する全ての知識を身につけたとするじゃん? そのマリーちゃんが部屋から出て生まれて初めて「色」を見たら、知識だけでは分からない、何か新しい体験とか感覚みたいなものを得るんじゃねえの? それがクオリアなんじゃねえの?

現実問題として、生まれからずっと白黒の部屋で生活してるマリーちゃんには「色」を認識することはできない。猫を使った心理学実験で有名な実例。(実験「横縞を認識できない猫」http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/vital/TrueLook.htm動物のような「本能」をもたない人間にとって、「認識」とは自動的に生まれる何かではない(もしそうなら、赤ん坊は生まれた瞬間からいきなり「世界」を認識できなくてはならない)。あなたは「モノゴコロつく」まで、生まれから何年間必要だった? 人間の「認識」は膨大な学習からまれものだ。

たとえば同じリンゴを見ていても、自分認識しているリンゴの色と、相手認識しているリンゴの色は違うかもしれないじゃん。どんなにリンゴの色に関する知識を身につけても認識齟齬には気付けないじゃん。やっぱ表面的には同じでも内面が異なることはありうるよね!

内面が違うと主張するなら、あなたはまず「内面が違う」ことを証明しなくてはならない。そして、そもそもそんなことができるなら(他人感覚感覚できるなら)、その場合しろ内面」は違わないのだ。

たとえば人間とまったく見分けがつかないゾンビがいるとするじゃん。見た目も行動も完全に人間なんだけど、でも内面的には意識とかは持ってないのね。そういうゾンビ論理的存在可能だけど、ゾンビ意識が欠けていることは物理的には説明できないわけじゃん。やっぱり何でもかんでも物理現象だけで説明するのっておかしくね?

ゾンビ内面がないと主張するなら、あなたはまず、どこから見ても「内面があるとしか見えない」ゾンビに「実は内面がない」ことを証明しなくてはならない。

どうやって?

あなたが言っているのは、「全く同じ重さだけど、実は違う重さの物質があるとするじゃん?だから物質の重さなんて分からなくね?」みたいな、全く無意味仮定に基づく無意味な問いとどう違うのか。

たとえばある人間が死んだ瞬間にさ、物質的に全く同じ人間が出現したら、それは同一人物と言えるの? っていうか、それで意識同一性みたいなものは保たれてるの?

一卵性双生児は、ほぼ「物質的に同じ人間」ですが? で、それをあなたは「同一人物」と呼びますか? というだけの問題。「意識同一性」など保たれるわけがない。スワンプマンに関して言えば、スワンプマン意識同一性を「主張」するかもしれない。だが、その言葉証明することもできないし、上のように考えれば、信用することもできない。

モリヌークス問題

まれてずっと目が見えない人は、球とか立方体とかを触った感覚認識してるけど、もし目が見えるようになったとき、その人は見ただけで球とか立方体とか認識できるのかな?

先の猫、赤ん坊の話と同じく、認識できない。ただし、既に手触りなどで「球」の認識をもっていた人なら、新たに得た「視覚感覚を、これまでの「学習に基づく認識」と結びつけることによって、赤ん坊よりずっと早く「視覚的に認識する=見える」状態に到達できる可能性はある(もし、相当素早くその段階に到達したのだとしたら、その人は、今までずっと触覚を通して「見て」いたということ。目のないコンピュータだってセンサーによって世界を擬似的に「見る」ことは可能なのだから、目が見えない人だって「見る(対象視覚世界に配置して認識する)」ことは可能だし、そういう能力がある以上はそういう認識を育てる可能性はある。)。

中国語の部屋

引きこもり中国語文通できるからって、その引きこもり中国語理解しているとは限らないじゃん? 部屋の中で隠れて日本語製の応答マニュアルを見てるだけかもしれないじゃん?

日本語を話す私とあなたが、会話できていると、いつから錯覚していた?

人工知能に関する「中国語の部屋問題」を持ち出さなくても、これは「そもそも人間同士、言葉が通じているっていうのが誤解かも」問題として、言語哲学上では有名かつ重要問題。そして、そちらの結論は極めてシンプル「会話できてるならおk

テセウスの船

ある船の古くなった木材を徐々に新しい木材に置き換えていったとき、全部新しい木材になってもそれは元の船と同じだって言えるの?

人間細胞の素材もどんどん入れ替わっていますhttp://banyuu.txt-nifty.com/21st/2005/06/post_50b9.html 考え方や好みなんかも、成長だけでなく、立場や条件で変化するものですしね。「わたし」という人間は、なんらかの形で記述規定できるようなものではないのです。モノではなくコト、物質ではなく現象なのです。

船でたとえるなら、「古くなった木材」でなく、単に別の木材に置き換えるという仮定で考えると分かりやすい。Aの船の木材を交換し、元の木材で別の場所に船Bを造っていく。最終段階を見てみれば? はい、モノとしては、当然どこからどう見たって船Bが「元の船」です。バラして組み立てただけですし。しかし、Aの船が、たとえば航海しながらどんどん部品を入れ替えているというような場合は? そう、どんなに部品が入れ替わっても、Aの船が「元の船」と呼ばれるしそれは正しい。つまり現象=コトとしての「元の船」はA。物質=モノとしての「元の船」はB。

これは単に見方の違いによるものなのです。

とりあえず、あなたが知りたいようなことは大体全部本に書いてあるから、興味の赴くままもっとたくさん本を読むといいと思うよ。

ちなみに「意識の発生」に関する面白いお薦め本はコレ。

「群れは意識もつ 個の自由集団の秩序」(PHPサイエンスワールド叢書、郡司ペギオ-幸夫

2013-07-24

ヴィトゲンシュタインさんについて

一応20世紀哲学者だけど、最後の本である哲学探究』を書いたのが、確かギリ第二次大戦の終わり頃だったと思うから最近というほどでもない。「初歩的な勘違い」と言うけどさ、20世紀の初めごろなんて、それこそ「科学万能」の期待がまだあって、ヴィトゲンシュタインさんの分野である論理学にしても、「論理学が完全に言語曖昧さを解消し、哲学の問題を解決する」という期待感だって、まあ、あったわけ。

というか、むしろそれからたった半世紀で「言葉には定められた『意味』がある、というのは幻想だ」ということが常識として定着しちゃったということ自体が、すごいことなんだよ。

それに、前期の哲学だって、全く無効というわけではないんだよ。ごく日常的な場面とか、あらかじめルールが定まった言語世界…たとえば、コンピューターによる日常言語分析みたいな分野で、大きな力を発揮してる「生成文法」の考え方(N.チョムスキーさんなんかの)は、「論理哲学論考」がその出発点になったと言われてる。ネット翻訳サイトとか、翻訳アプリとか、意外なところで前期の哲学の子や孫たちは、今でも活躍してるんだよ。



http://anond.hatelabo.jp/20130722020017

2013-07-22

一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。

哲学上の諸問題と言われるものほとんど全ては、定義の問題に帰着する。」というのは、L.W.ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における中心的な主張。そして『言語ゲーム』というのは、そのヴィトゲンシュタインの作った言葉であり、論である

そこまでは正しい。

だけど、「言語ゲーム論」というのは、「論理哲学論考」を書いたあと、「これで全ての疑問は解かれた」と宣言して田舎に引っ込んだヴィトゲンシュタインが(田舎小学校教師をやっていた)、小学生とのふれあいの中から自分過去の論(すなわち「論理哲学論考」における思想)の欠陥に気づいて、その欠陥を説明するために作った論なのね。その後彼は、「哲学探究」という本を出して、「論理哲学論考」が見落としていた問題について説明しようとした。それが成功したという人もいれば失敗したという人もいるが、この本も20世紀哲学史に残る偉大な書であることは間違いない。

便宜的に、「論理哲学論考」に代表される思想を「前期ヴィトゲンシュタイン」。「哲学探究」に代表される思想を「後期ヴィトゲンシュタイン」という。言語ゲームについてのアイデアは、「哲学探究」で初めて示された。つまり、前期の彼の哲学を「言語ゲーム」という言葉で説明したり、呼んだりするのは、全く間違い、ってこと。OK?


じゃあ、両者はどう違うの? …ってことが気になる人もいるよな。

暇な人向けに書くよ。忙しい人、知ってる人、自分で調べたい人は、以下読まなくて結構


さて、「この世のあらゆる問題は、記述論理的に正確であれば、簡単に解決できる。」と、前期ヴィトゲンシュタインは考えた。確かに、かなりの程度これは正しい。だがしかしそれは、「言葉」というものを、「思想」を記述するための単なるメディアとする言語観に基づく場合の話なんだよな。「言葉を正しく定義する」というのは、「言葉には定められた『意味』がある」ということを前提としてる。だが、後期ヴィトゲンシュタインは、その定義自体が危うい場合があることに気づいたんだよ。

どういう場合か? たとえば子ども言葉を学ぶとき、どのようにして学ぶと思う? 「言葉意味」を教えられることによって、子ども言葉意味を学ぶのだろうか? 考えてみてほしい。生まれた最初から言葉を話すことのできる子どもはいない。つまりゼロだ。その状態から、どうやって「意味」を教える? 

身振り、手振り、ジェスチャー雰囲気、表情、……いろいろな「言葉ならざるもの」に頼って、最初の「言葉」は身に付けるしかない。でも、「意味」が分かった、と確信できる瞬間なんて、あるのだろうか? とヴィトゲンシュタインは考えた。

たとえば、あるとき子どもに数の順序を教えていたヴィトゲンシュタインが、黒板に

「1、2、3、4、□、□、……」

と書いて、空欄を子どもに続けさせたわけだ。数を習っていた子どもらは、まあ、普通に「5、6…」と続ける。普通の人は、「ああ、子どもは数の並びを理解した」と思って、そこで安心するだろうな。でも、「5、6」の次に子どもが「8、10…」と書き始めたら、それはダメだ。台無しだ。仕方ない。もう少し教える必要がある…まあそんな風に考え、行動するね。

けど、それは、一体どこまで続けることができたら「数の『意味』」を理解したことになるのだろうか? 「10」までいけば、まあ大抵は大丈夫? でも、ひょっとしたら、「10」の次に「12、14、18」…とか続けるかもしれない。子どもはまだ何も「理解」していないかもしれないな、「100」までいったら? でも「102、106」とか続けるかも………でも、でも、じゃあそれはいつ「絶対大丈夫」と言えるのか?…と、「論理哲学論考」で「完全な言葉定義」にこだわっていたヴィトゲンシュタインは考えてしまったんだ。どこまでいけば自分は、この子たちに、数という概念意味)を伝えることが、本当にできた、と確信できるのだろうか?

そして、考えはじめたヴィトゲンシュタインは、もっともっと怖いことを考えてしまった。自分は、周りの大人が、一応みんな数の概念を理解していると思っていた。でも、そいつらが、数の概念を誤解したまま大人になっている可能性は、本当にゼロか? もっといえば、これは数の概念だけではなく、あらゆる言葉についても同じだ。我々は、お互いに言葉の「意味」を理解し、その理解を共有していると思っている。でも、それは証明できないね言葉が通じてるって、単なる幻想じゃないの、と。

先に言っておく。これは、たぶん否定できない。ヴィトゲンシュタイン問題提起により、もし、「言葉」の体系を、「共通したルール(たとえば文法や辞書定義)」を共有することで意味を伝達するシステム、と定義するなら、我々の言語が確かに「通じている(100%意味を伝達している)」ことを証明することは、たぶんできない。

嘘だろ? と普通の人は思う。オレが言ってることを、みんな分かったような顔をしてるじゃないか。あれで、分かってないなんてことがあり得るのか? と。


でも、誰もが考えたことがあるはず。オレは、赤色が、なんだかイライラするんで嫌いだけど、Aさんは、赤色がすごく好きらしい。ところで、オレが見、感じている「赤」という色と、Aさんが感じている「赤」という色は、本当に同じなんだろうか? ひょっとして、全然別の見え方をしてるんじゃないだろうか? ってことを。もし、オレが赤色を見て「赤ってイライラするね」と言い、Aさんが「そうかな、オレは赤が好きだな」と言うとき、オレとAさんの間で本当に「言葉」は「通じている」のだろうか? …ってことを。 後期ヴィトゲンシュタインが気づいたのは、つまりそういうことなんだ。

そして、すっかり参ったヴィトゲンシュタインは、草原サッカーに興じる子どもを眺めていた。「オレは、言語というものを、きっちりと決められたルールに従って運用されるシステムだと思っていた。たとえば、目の前でサッカーをやってる子ども達のように。けれども、その根幹が、本当はこんなにあやふやものだったなんて!」このときヴィトゲンシュタインは、「言語意味定義さえ完璧なら、あらゆる哲学上の問題なんて一瞬で解けるんだよ!(ドヤァ」とやってた過去自分(前期ヴィトゲンシュタイン)の思想が、完全に崩れ去ったことに落胆していただろう。


ぼーっと子どもらを眺めるヴィトゲンシュタイン


そのうち、妙なことに気づいた。なんか、一人の子ボールをもって走り出した。「おいサッカーじゃなかったのか? ラグビーか何かか?」。ところが、今度はボールをぶつけ合いはじめた。「おい、君ら何をやってるんだ?」そのうち、一人の子が高くボールを投げたのをきっかけに、なんだか高く投げ上げる競争のようなことをはじめた。「おい、一体何を……」「一体どんなルールでやってるんだ…どんなルー……」その瞬間、天啓が走った。ルールがあるように見えていたのは、幻想だった。ルールなんてなく、彼らはただ遊んで(ゲームをして)いただけだった。つまりルールなどなくても、ゲームをする上で支障がなければ、ゲームは続くのだ。人は言語を使って「ルールに基づき意味を伝える」という作業をしていると思っていたけれども、本当は、ただ「言語を使って遊んでいた(ゲームをしていた)」だけだった。ルールは「やりながら、その都度でっち上げて」いるんだ。それで物事は、進むのだ。


これがつまり、後期ヴィトゲンシュタインと呼ばれる思想の根幹となった「言語ゲーム」という思想だ。


前期ヴィトゲンシュタインが考えていた「ルール意味」という静的なシステム論に対して、後期ヴィトゲンシュタインは「そこにルールなどない」。ただゲームをするときのように、言葉の「使用」が先にあって、意味ルールはあとから付いてくるものなのだ、(つまり、前期ヴィトゲンシュタインが主張した「先に定義完璧にすれば」云々というのは、その前提となる言語から間違っていたということになる。)言葉意味とは、「言葉がどのように用いられているか」ということに過ぎない(「言語意味とはその慣用である」)、という動的なシステム論を唱えたわけだ。この動的な言語観や、それに基づく汎用性の高い動的なシステム論を「言語ゲーム論」という。

先に言っておくと、この後期ヴィトゲンシュタインの思想というのは相当な極論であって、これをもって前期ヴィトゲンシュタインの思想が全て否定されるというものではない。前期ヴィトゲンシュタイン問題提起も、静的システム論の基盤を為したという意味で、現在でも非常に重要な思想に位置づけられる。ただ、その思想を含んだ上で、更に高次の問題提起(動的システム論)を行ったという意味で「言語ゲーム論」には非常に重要意味があるので、前期の思想と安易に混同されると、ちょっと困る。


もう少しだけ、具体的に例を挙げて説明するな。

たとえばさ。「神はいるか」という問題に対して、「それは『神』という言葉をどう定義するかによるね」と答えるのが、前期ヴィトゲンシュタイン。そして、「万能で超自然的で創造主で…」と答える人に対して、「万能」と定義するなら「存在」もできるということだ。従って、「万能」と定義した上で「いるかいないか」議論するのは、トートロジーだ、とか、まあそういう批判をしちゃうだろう。

対して、後期ヴィトゲンシュタインなら、「神はいるか」と質問する人に、「あなたは『神』という言葉をどのように用いているのか」と質問するだろう。「『神』という概念で、あなたはどのようなゲームをするのか、そのゲームはどのような性質のものか?有益か、無害か?」…etc。(後期の哲学を書いた頃、彼は「宗教とは、一つの生活の形式のことだ。」「信仰は、言語ゲームに似ている」と述べています。)

この二つは、つまり問題の視座(あるいは取り扱い方)が全く異なるんだ。一緒くたにはできない。

から、前期の論を「言語ゲーム」と誰かが呼んだりしてるのは、ヴィトゲンシュタインをかじった人間としては、ちょっと居心地が悪い感じがするんだ。まあ、そういうこと。

よろしく頼むわ。

http://anond.hatelabo.jp/20130721234333

2012-04-15

倫理について一考。

道徳の理由』という本(かなりの古書だ!)を再読したのでちょろっと。

※私はethicsに関しては全くの素人であり、ロールズ正義論でなり、ミル功利主義なりもまともに読んでいない。

倫理というのはヴィトゲンシュタイン的に言えば一つの言語ゲーム。すなわち、そこに所属している成員に対して要請される規則といえる。もっというと、その社会所属している成員に対し、「私」が期待するルール

まりのこと、その規則は「私」には適用されないと見る。

すると、倫理を私に適用する理由はないように見える。その通り、「ない」とするのが私の見方だ。つまり倫理とていうのは、あくまで、「オレ」から「オマエ」に発信される言語しかない。

Why be moral? という語は本質的why should I be moral?と Why should you be moral? に分別される。後者の方が本質的であるとみるのだ。

しかしながら、倫理には自分自身も縛られる。本来的には「私が道徳を守らねばならない」理由は何も無い。

ただし、この規則は両刃の剣であって、倫理はこの概念が、その社会所属する全員に適用される時のみ、「倫理」と呼ばれる。つまり倫理社会所属員全員からなる相互監視システムである

この考えとしては、倫理っつーもんは、村の掟となんら変わるところが無いわけだ。

補足すると、社会は多層的であるから、メンバA,B,Cが社会Xを形成し、同時に同じメンバが社会Zを形成している、ということは用意に想起しうる。人は一枚岩の思考で動いていない。

例えば、クラスの全員が、いじめは慎むべき行動だ、と考えている。(社会成員Xのメンバ)。しかし、同時に、クラスリーダーであるAに対して不快な行動をとった者に対し、いじめを行うことは推奨される、と考えている。(社会成員Zのメンバ)

話を戻す。この相互監視システムは、相互監視であるから、単体では監視機能は働かない(とひとまず考えることにする。まず主体をyouにおくのだ!)つまり密室状況において倫理を構成する要素は何も無い。

これは幾分思考実験的な状況だ。現実的な意味密室などこの世に存在し得ないといえる。猫箱の中で倫理は問えない。しかし、実質的な猫箱なんて社会にはなかなか存在しないのだ。

まぁ、例えばあなたと一人を除いて他の観測者がいない世界で、どうやって第三者があなた監視するのだ、という問題である。誰も監視できないじゃないか。このような環境下では、そもそも倫理という語が成立しない、というのが原語ゲーム的な倫理観です。(実際には、このような環境化でも倫理存在しうる。例えば一人で行う行為に対する倫理の第二者から倫理的判断や、意識の無い第二者に対して行う第一者に対する第二者の遡及倫理判断など。例えば、地球存在者一号たるあなた存在者二号が気絶している間にアッー!アッー!して、意識がある第二者が何らかの要因でそのことに気づくなど。尻が痛いとか。)

更に問題をややこしくするのが、相互監視システムによって監視されていることは、人間自分ではなかなか感知できないことにある。知能の高い社会の成員はこの言語ゲームによる制裁を受けないように、証拠の残る反倫理的行動は取らないように務めるが、知能の低い成員はそうではない。また、どこからその制裁の追求が来るかわからいから、人はうかつな行動が取れない。

さらさらに、言語ゲームでよく言われる話だが、人は一人でも社会を形成する。人は自分と対話することができるが、これは自分のうちに一つの社会を形成しているに等しい。ここでも言語ゲームによる制裁は成立する。これが自分倫理的に行動せしめる要因の一つだと思う。人は一貫した規則性に基づいて行動するような文化的特性を獲得しており(そりゃ獲得してない人もいるだろうが)、その中には動物本能から立脚すると思われる特定の行動を含む、ある種の言語ゲーム存在するのだ。これがWhy shoud I be moralに対する根源的回答になるのではないかと思う。

 トートロジーで何も言ってないじゃないかとか言われそうだが。

まり、人が倫理的に、道義的に何かせねばならないと判断をする時、そこには価値判断が伴っている。その価値判断は、本能的形質的文化的なさまざまな要因から定められた判断を取るのだが、それにいいもわるいもないということになる。だって、判断してんの本人だもの。勿論、第三者が介入していい、とか、わるい、とか論じることはできるが、そいつは俺らの言語ゲームであって、彼の言語ゲームではないのである

逆説的に、自分自分行為道徳的に正しいかどうかを判断しているというのは、極めて社会的アクションだと言える。そういうわけでは、監視者としての神の存在というのは、実に都合のいい概念なのかもしれないね

倫理が善概念と結びつくことが多いのは、この種の言語ゲームひとつロールモデルを通じて語られることが多いからではないかと思う。

例えば、ギャングの掟なるものを考えてみる。これは、ギャングが他のギャングにあってそうあって欲しい姿であり、かつ、ある程度自分がそうありたいと望む姿になるだろう。これは、ひとつ共同幻想であるとも言える。

さてさて、このような言語ゲームによる倫理の規定は、多くの倫理的問題をすっ飛ばしてきているようだが、少なくとも功利主義倫理論よりはうまく倫理現実のありようを捉えているような気もするが、なにぶん門外漢なので、功利主義的説明で説明でき、言語ゲーム的説明では説明できない、本質的倫理的判断に関する問題があったらご指摘願いたい。まる。

※書いてからコンマ1秒考えたけど、結局これはアプローチの仕方の問題であって、何が正義であるか、何が道徳であるかということに関しては「なんでもいいんだけどさ」で逃げてるなぁ。だから、「なぜ道徳的であらねばならないか」はぼんやりと答えているけど、「道徳であるとは(ソクラテス的な意味を前提した上で)なんであるか」ということに対しては、回答を拒否している。それこそ言語ゲームによるよね、と。イワシを祭ろうが隣人を石でぶとうがしったこっちゃねーや、という考えだ。そして、列車急停止のジレンマに対してこんなとんでもない回答を出すのだ。「おい、目の前の人間の顔色伺えよ。どっち答えて欲しそうなんだよ。そっちって言っとけ。」

※そもそも、真とか善とか美とか言い出したら定義論以外いいようがないじゃないか、という無限後退に陥っている。

2011-04-24

http://anond.hatelabo.jp/20110424074534

まず文章の書き方を学んでから出直してこいよ。いっちょまえに背伸びして人の批判する前にな。ゲーテの言を借りるなら、その人の具体的にイメージできる範囲でその人の知的基準が決まる。お前の知的水準はその程度ということ。ヴィトゲンシュタインもその人の言葉限界はその人の世界限界とのたまった。しかるに、敬語も使えないお前はそれだけ世界が狭いということ。

2010-11-25

http://anond.hatelabo.jp/20101125215643

レッテルを貼るという行為は、差異を把握するという行為である

 私自身の個人的な意見では、定義は上記の命題において果たされます


「あるものと、あるもの……つまり、分かたれている二つのものが、同じものであるとするような判断はナンセンスである

 ヴィトゲンシュタイン氏が以上のようなことを仰っていたという記憶があります

彼女が死んだ話

 僕が雪村に出会ったのは、大学研究室新入生歓迎会ときのことで、そのとき歓迎する側にいたのが僕で、歓迎される側にいたのがいっこ下の雪村だった。

 彼女は、長くきれいな黒髪の落ち着いた女の子で、お嬢様という感じではないが、どこか品のある立ち居をしていた。

 僕は彼女とは別のテーブルにつくことになり、でも彼女のことが気になったのでたまにそちらの方へ目をやったりしていたのだけれど、ちゃんと正面に座って話す機会は、ひとつ上の先輩がくれた。

真田くん、ちょっとこっち来てよ」と先輩が僕を手招いて呼んだ。「この子エーティーフィールド張ってて、俺ひとりじゃキビシイよ」

 先輩なりのジョークである

 それで僕は、彼女の向かいに座って話をした。雪村は聡明で、控えめで、微笑みながら人の話にうなずき続けることができるタイプ女性だった。

 でも僕は自分のことが話したいわけではなくて、彼女のことが聞きたかった。僕はゆっくりと、何か自分と合うような話題がないかと探した。彼女趣味読書で、好きな作家恩田陸(←「ああ、あのガチホモミステリの……」)。よく読むのは講談社ノベルス(←今にして思えば恩田陸講談社ノベルスあんまり関係ない気がする)。映画も好きで、好きな監督スタンリー・キューブリック(←『バリー・リンドン』)とピーター・ジャクソン(←『乙女の祈り』)。ピクサージブリも好き。好きな漫画は『夢幻紳士』『百鬼夜行抄』『うしおととら』『タブロウ・ゲート』……。まともにやったゲームは『ファイナルファンタジーX』くらいで、時間カウンタが止まるまでやって(←大学受験が終わってから暇だったようだ)、「全てを越えし者」を倒すところまではいったとか。あと何かのレースゲームは前に進めなくて諦めたという。

 僕はといえば、好きな作家星新一で、好きな映画は『ショーシャンクの空に』で、好きな漫画ジャンプチャンピオンヤングジャンプヤングマガジンスピリッツモーニングだった。僕はその程度の文化パワーの人間だった。

 雪村は本当に本が好きで、暇なときには一日一冊くらいのペースで読んでいた。「『雑食なのでなんでも読みます』とか言うやつは信用できねえよ。そういうやつは絶対に大して本を読んでない」と吐き捨てる友人が僕にはいたが、雪村は本当に雑食で、ノンフィクションを除けばなんでも読む女の子だった。小説漫画も。

 その新入生歓迎会の日は、友達が帰るというので、彼女もそれについて早めに帰っていってしまった。僕はもっと残っていってよと頼んだけれど、穏やかに断られてしまった。

 次に僕が彼女と話をしたのは、それからしばらく後の教養の授業のときのことで、雪村は教室最前列に座って、社会学だったか文化人類学だったか講義を無視してペーパーバックを読んでいた。

 勇気を出して隣りに座って(←勇気を出したのだ)、何読んでるの、と彼女に訊ねた。雪村は手に持った本の表紙を見せてくれた。G.R.R.マーティンの『玉座をめぐるゲーム』だった。もちろん僕にはまったくわからなかった。

 それからも僕は、折にふれては勇気を出して彼女に話しかけていった。レポートがあるので……と断られてひどく落ち込んだりもしたけれど、ついに僕は彼女を連れて名古屋城デートにいくことに成功した。名古屋城はつまらなかったけれど、彼女といるのは楽しかった。

 そして初めて彼女から漫画を借りた。『夢幻紳士』だ。

 これはおもしろかった。本当に。

 それからも授業で隣りに座ったり、食事に誘ったりして、僕らは付き合うことになった。僕は実家に住んでいて、彼女下宿をしていたので、よく彼女の家に泊まって二人で本を読んだり、映画を見たりした。本山ゲオがあったので、近所でレンタルができて助かった。

 でも不思議なことに、幸せなことはそんなに長く続かないもので、僕と雪村が二人で東尋坊を見に旅行に行ったとき、泊まった旅館でカニを食べて一緒の布団で寝たあと、彼女は僕の知らない何かに引っ張られて、僕が寝ているうちに布団を出て服を着替えて旅館から脱げ出して、東尋坊の先から海に飛び降りしまう。

 東尋坊では死ねないという話があるけれど、やっぱりそれは嘘で、飛び降りればちゃんと死ぬ。雪村がそれで死んだのだから間違いない。

 彼女を失った僕は悲しくなって、雪村が死んだというそのこと自体よりもむしろ雪村が僕に一言も告げずに死んでいったことに鬱々と悩んで、こりゃだめだ、このままじゃ何も解決しない、と思ってそのまま十五の夜ばりにバイクで走り出す。でもそのバイクは別に盗んだものじゃないし行き先もきちんとわかっていて、僕は一直線に福井まで行って、雪村と同じように海にダイブする。そして生きて浮かんでくる。本当に死にたいのなら、そのための飛び降り方をしなければならない。

 病院のベッドでしばらく暮らすことになった僕は、とりあえずアマゾン小説漫画と学芸書とDVDを注文しまくって、それを片っ端から消費する。雪村が生きていたときにはこの女はまたなんか読んでんなあとしか思っていなかった僕が、いまさらになって雪村の触れていたものたちに目を向け始める。村上春樹を、伊坂幸太郎を、恩田陸道尾秀介舞城王太郎を僕は読む読む。雪村のようにペーパーバックをぺらぺらとはいかないが、翻訳者感謝しながら、ヴォネガットカポーティフィッツジェラルドを読む読む。福満しげゆき藤田和日郎増田こうすけを読む読む。カントを、デリダを、ヴィトゲンシュタインをホフスタッターをドーキンスを読む読む。そんでDVDはよく考えたら病室じゃ見られねえなと思ってそのままジャケットだけを眺める。いいじゃんアマデウス時計じかけのオレンジタクシードライバー

 そして読みたい本をあらかた読み終えてしまったので、そろそろ家に帰ってDVDでも見るかと思って僕は退院する。退院するために荷物を片付けてきれいな服に着替えて、もう忘れ物はないよな、と思って振り返った病室に雪村がいるのを見て僕はびっくりする。

いまさら化けて出てんじゃねーよ」と僕は言う。

 でも雪村は生きていた頃と同じ顔で、僕がさっきまで寝そべっていた病室のベッドに腰掛けている。いつもと同じように黒い服ばっかりを着ていて、別に幽霊だからって白いベッドが透けて見えたりはしない。

「いやーいいじゃん。嬉しいでしょ」と雪村は言う。

 そんな口調じゃねーよ。

2010-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20100324234602

言語ゲーム」の説明が根本的に間違っていると思います。

言語に先立って個人の内的感覚や客観的事実があらかじめ存在しており、言語はそれを写し取る道具であるという事なのです。

とあなたは書きましたが、ヴィトゲンシュタインは「哲学探究」の冒頭…有名なアウグスティヌスの『告白』を用いた例で、「言語に先立って…感覚があらかじめ存在する」という考えをまさに否定するところから、言語ゲームというアイデアに繋がる一連の議論をスタートさせています。

変な解説本読むより、まずは「哲学探究」の本文に触れてじっくりと読みこなしてから話した方がいいですよ。

哲学探究http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html

ネットで全文が読める。良い時代ですね。

2009-09-01

棲み分け」の問題

遊郭キャバクラといった、女の性を売る仕事をする人を

一部のフェミニズムは「セックスワーカー」とか言って、肯定したりする。

社会学やってる人とかに多い。

特にマルクス主義フェミニズムと言われる領域にいる人たちは、

女性が働く権利」という視点から、働く機会均等の社会を作らなければいけないと思って動いてて、そういうことになる。

これは、もちろん一理ある。

格差は是正しなければいけない。社会が実際に運営されている以上、その運営に基づく法の倫理道徳は思考されなければならない。

そういうのをわかった上で、

私は、新地キャバで働く人のことを「彼女の権利だから」と肯定する気にはなれない。

おそらく、彼女らに共感する部分が多いからだと思う。

想像や思考によって語られた言葉が、漏らしてしまう感覚や感情を

観念的に思考されたものが宙づりにしてしまう現実

少しは、知っているからだと思う。

男性暴力の話を嬉しそうにするとき、私はいやな気持ちになる。

暴力を受けとったときの痛さをなんにもわかってないくせに。とか思ってしまう。

(でも、暴力を受け取る強さを私が持っていることも知っている。私たちは、受け取った暴力快楽に変える心的な構造を、生理的に持っている。)

私は「語り得ないものについて沈黙すべきである」というヴィトゲンシュタイン言葉が好きだ。

「語り得ないもの」とは、決して論理的に整合しないもの、ということを意味しているだけではない。それは、形式的に論理的にだけ物事を語ることが、現実に言い表されるべきであったものから断絶した意味を構成し、言葉を宙づりにしてしまうということがわかっているからこそ、「語り得ないもの」とし、その領域を守るべきだという倫理の一種の形態である。

ここで、また現実的な話に戻ると、

遊郭では、私の想像に及ばない且つ経験したことがないことが毎日起こっている。

それに対して、私はどうして介入をすればいいのか。

それとも、介入などはおこがましいから、私は彼女らとは違った場所に「棲み分け」をして、「私には何もできない」からと沈黙することがいいことなのか。

いまは答えがわからない。

沈黙は、認識しないということとは違う。認識をしながら語らないという決断があり得る。それは、私たちが先験的にどんな能力を持っているかということではなく、今から何を行動するかについてを決める能力を持っているかということに価値を置くことにもなる。

2009-03-28

ポパー反証可能性って、ぶっちゃけどうよ?

>20世紀科学哲学者、カール・ポパーに従えば。

>彼は科学疑似科学の境界を「反証可能性」に求めた。

いつも思うんだが、ポパーって、そんなにありがたがるほどの奴か?

僕はヴィトゲンシュタイン言語ゲーム万世派の人間なせいか、

科学反証可能性」とかの発想は、すげえ薄っぺらくみえるんですけど

2008-12-19

http://anond.hatelabo.jp/20081218235536

本当に関係のない追記

ヴィトゲンシュタインでずっと覚えてたけど

ウィトゲンシュタインを使う人のほうが多いのね

彼がベルリンケンブリッジ、と行ったので、過去には漠然ドイツ系の哲学者のように誤解されて「Wittgenstein」を「ヴィトゲンシュタイン」と誤読されてた時期があったけど、本当は彼はオーストリアの人で、しかも本人自身が「『ヴィ』ではなく『ウィ』だ」と主張していたという話があって、'90頃からはずっと「ウィトゲンシュタイン」が基本表記になってます。

2008-12-18

http://anond.hatelabo.jp/20081218220127

僕はあまり好きでないし、ヴィトゲンシュタイン的に言うならば「私の美的感覚に反する」ってところですね


本当に関係のない追記

ヴィトゲンシュタインでずっと覚えてたけど

ウィトゲンシュタインを使う人のほうが多いのね

2008-12-12

http://anond.hatelabo.jp/20081212144047

歴史は?

これを認められるんなら哲学も実は「哲学史」だということに気がつくはず。

まあそれもヴィトゲンシュタイン以降みたいなとこがあるんだけど。

2008-11-13

目的目標を区別しよう

yahoo!辞書より引用

もく‐てき【目的

1 実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。「当初の―を達成する」「―にかなう」「旅行の―」

倫理学で、理性ないし意志が、行為に先だって行為を規定し、方向づけるもの。

[用法] 目的目標――「目的目標)に向かって着実に進む」のように、めざすものの意では相通じて用いられる。◇「目的」は、「目標」に比べ抽象的で長期にわたる目あてであり、内容に重点を置いて使う。「人生の目的立身出世に置く」◇「目標」は、目ざす地点・数値・数量などに重点があり、「目標は前方三〇〇〇メートルの丘の上」「今週の売り上げ目標」のようにより具体的である。

もく‐ひょう〔‐ヘウ〕【目標

1 そこに行き着くように、またそこから外れないように目印とするもの。「島を―にして東へ進む」

2 射撃・攻撃などの対象。まと。「砲撃の―になる」

3 行動を進めるにあたって、実現・達成をめざす水準。「―を達成する」「月産五千台を―とする」「―額」

目的抽象的、実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。

目標:具体的、目印、対象、実現・達成を目指す水準。

目的は1年後の決算で黒字にする、目標は1ヶ月の売り上げを2500万円を目指す。

目的は持続可能な社会を目指す、目標生産→消費→破棄→資源(循環を目指す)

目的幸せになりたい、目標金持ちになる。

・・・これではわかりにくい。一つの目的に複数の目標があるって考えたらわかりやすいかな。

目的は○○大学に受かりたい。目標偏差値60以上、金銭面で大丈夫か確認。

目的偉人たちの考え方、発想法、創造力を取り込みたい。目標ヴィトゲンシュタインアインシュタインカント原著を読む。

目的言葉の使い方を知り、区別することで考え方を整理する。目標は、目的目標の区別をする。

んー、戦略戦術みたいな違いだろうか。理念と方針の違いとか。抽象的とか具体的とかを考えるとき、集合を使って考えた方がわかりやすいような。KJ法みたいに、ラベル目的で、各要素が目標・・みたいな。

2008-10-20

http://anond.hatelabo.jp/20081020025244

何か似てるなーって思った。周りの人と一緒にいても楽しめないし、一人でいるほうがいい。ただ、決して現状に満足できているわけではないから、何をすれば満足できるのか求めている。観念論で考えれば、友達(小集団)と一緒に何かに取り組むのは面白いと思っている。興味や関心の対象が一致しているならもっと充実した毎日を送ると思う。だけど、心から楽しめる趣味を持っているわけではないので、物足りない毎日を送っている。

もっといえば、周りの人間自体がつまらないのではなくて会話がつまらない。日々、目の前の出来事を消化するように会話をしていても楽しめない。注意深く観察すれば、人間的な魅力の一つや二つぐらいはすぐ見つかる。でも、根底としている考え方が一致しないから自分には合わないと思ってしまう。

一時期「孤独」についての本を読み漁ったことがある。孤独の良い面と悪い面。小説家芸術家哲学者なんかは人間関係から離れることで創造的(統一性への興味)になれるとか。

ex)ヴィトゲンシュタインショーペンハウエルドストエフスキー

>>誰か1人、孤独感を共有する人がいれば生きていけると感じるのだが、その1人を愛せるのか、不安に駆られる。

誰か1人、孤独感を共有する人がいれば、何が期待できる? お互いに存在は認めつつ、沈黙のまま場を共有するってこと? もし、無根拠にそう思っているならずっと不安なままだと思う。

アーカイブ ヘルプ
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん