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2017-09-23

anond:20170923102158

二度にわたってごくろうさん。

増田の言いたいことは、確かにある種の的を得ていると個人的には思う。

しかしここではあえて、別のベクトルからツッコんでみたい。


それは、「そもそもなぜそんなにヨッピーに期待しているの?」ということだ。

増田だけではなく、多くのユーザー感情を代弁するつもりで以下を書く。

ある時期からヨッピーはなぜか突然、ある種の正義キャラに変貌した。

それまでは奇抜な格好をしたりして「ネットの片隅で自虐笑いを取りにいくおじさん」だったのが、ある時を境にモラリスト代表みたいになっていった。

身を切ってパクリサイト糾弾し、被害者の肩を持ってPCデポ悪徳商法を広く知らしめたりした。

どれも対処療法しかなかったが(どれも結局おおもとの問題は片付いていない)、この辺でヨッピーに好印象を覚えた人は多いだろう。

増田には、ヨッピーイケダハヤトに噛みついてたかつての様子も、下品炎上商売に対するアゲインストに見えたのかもしれない。

おそらくこの辺で、世間の「ヨッピー」というキャラクターに対する期待値は跳ね上がってしまっていたのではないかと推測する。

しかし当のヨッピーの昔のブログを見ると、それこそ目も当てられないような罵詈雑言誹謗中傷が書かれている。

笑いになっているのならわかるのだが、果たしてこれが笑えるだろうか?

一部引用するので、判断は読者諸氏各々に委ねたい。

なおご当人近辺まで侮辱が届くとは思えないが、引用することで二次被害を広めたいわけでないので名前伏字としておく。

【直後に追記】

はい確認用のソース必要か。

ヨッピー オレイズム」でググると出てくるので、どうしても確認したい人はそこを掘ってください。

件のヨッピーと同一人物ブログであるということは、ブログ名で調べていくとわかると思う。

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なんか周囲で「●●●●が可愛い!」「●●●●最高!」みたいな話を耳にした。

とは言ってもテレビとか全然見ない生活を送っているので、

スポーツ選手らしい」くらいの知識しか無くて、

(中略)

まあそんなこんなでついさっきその「●●●●」の写真を見てみたんだけど、

普通に山猿みたいな顔だったので心底ガッカリした。

なんか女性スポーツ選手って、小マシな顔だとすぐに「美女!」とか「美少女!」とかってチヤホヤされてる気がする。

こないだなんて▲▲▲が「美少女!」みたいな扱いされてて心底ビックリした。

▲▲▲が美少女て。

あんなもん日本法律適用すべきかどうかを悩む必要があるクラスの顔じゃないですか。

ヒゲ生やしたら完全に関羽雲長ですよ。

5虎大将軍の筆頭として長安あたりで暴れまわっててもおかしく無いクラスの顔ですよ。

あれが美少女なら太陽も西から昇るっつーの。

そんな風にしてスポーツ選手必要以上にチヤホヤするもんだから

女優になります」とかわけのわからん事抜かして真夏打ち上げ花火のように華麗に散っていったXXの■■■■選手のような悲しき道化師ピエロ)が産まれしまうのです。

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もちろんこんなのはネット上をうろついていたら珍しくないレベル中傷である

また、言われる方も有名人ならある程度叩かれる覚悟もできていると思う。

スポーツ選手容姿で叩くのはやっぱりちょっと違う気もするけど)

が、これがあの「世直しヨッピー」が書いた文章だとしたら、あまりギャップ愕然としないだろうか?

別にわざわざ過去蒸し返して誰かの株を落とそうとか普段まり思わんが、

過剰値になってただけの株の暴落愕然としている人は結構いるようなので、

今回わざわざエントリしてみた。

2017-06-11

白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない」

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの筆者です。

id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。

  

なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。

山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。

618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジア大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。

東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本から遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度国際的文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。

朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。

これはひどい遣唐使派遣再開が何年だったかという記述がありません。

そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。

一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。

  

ちなみに、他の教科書では、遣唐使派遣再開についての説明が次のようになっています

7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」

東京書籍日本史B』(日B 004)

「また政府は、8世紀のはじめに遣唐使派遣して、669年以後とだえていた唐との国交を回復した。」

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

「日本は唐の文化積極的にとり入れようと意欲をもやし、ほぼ20年に1度くらいの割合で遣唐使派遣した。」

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)

白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島から渡来人新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」

桐原書店新日本史B』(日B 011)

律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物制度摂取につとめた。[中略]

こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

引用者注教科書のページを戻って「白村江の戦い国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]

この中では、桐原書店ダントツに優れていると思います

遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます

  

三省堂記述おもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています

大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代様相として語っているのがすごい。

  

東京書籍実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。

  

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代出来事と把握すると誤りになります)

  

  

  

東大入試でよくわかる遣唐使

東大入試2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています

次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。

(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。

(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。

(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。

(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまり大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。

  

設問:この時代の日本にとって、唐との関係新羅との関係もつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。

これの答えがピンポイントで載っている教科書があります

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですからいくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂のぞく。後述)

8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]

一方、日本の律令国家内では天皇皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。

白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人仲介したものが多いと考えられる。[後略]

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)

以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。

  

(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。

(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。

(3)は、日本と新羅関係悪化について述べています新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。

(4)は、日本と新羅政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。

  

教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試対応するためだけではありません。

例えば『詳説日本史』には、最初引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。

  

ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまます

もしくは、これは2003年入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史シリーズ2000年2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズから引用しておきましょう。

国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正天皇諸蕃』)

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。

実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである

[中略]

このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しか東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。

  

網野善彦日本の歴史00巻 日本とは何か』

日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。

いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。

こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。

  

私がこのエントリ題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者国内国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います

それに、このことは現代外交問題についても、重要示唆を与えてくれます。例えば政府国内に向けて愛国心ナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調アピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。

あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。

  

  

  

教科書の読み比べ

遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

遣唐使船はふつう「よつのふね」とよばれ、1隻に100人まりが乗りくみ、多い時で約500人の大使節団であった。

悪くはないですが、遣唐使について普通説明があるだけです。

おもしろい特色がありません。

無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。

華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚イベントになったと推測できますもっとも、沈没行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

  

……って、今回はここで文字数制限なのか。

引用をしていると、あっというまに文字数が膨らみますね!

つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459

2017-05-19

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

2017-01-28

兵車行 唐 杜甫

車轔轔馬蕭蕭  

行人弓箭各在腰

耶孃妻子走相送

塵埃不見咸陽橋      1

牽衣頓足欄道哭

哭聲直上干雲霄      2

道傍過者問行人      3

行人但云點行頻

或自十五北防河

便至四十西營田

去時里正與裹頭      4

帰来頭白還戍邊

邊庭流血成海水

武皇開邊意未已      5

君不聞

家山東二百州      6

千村萬落生荊杞

縱有健婦把鋤犁      7

禾生隴畝無東西

況復秦兵耐苦戰      8

被駆不異犬與鶏

長者雖有問

役夫敢申恨

且如今年冬

未休關西卒        9

縣官急索租

租税從何出

信知生男惡

反是生女好        10

生女猶得嫁比鄰

生男埋沒隨百草      11

君不見青海

古来白骨無人

新鬼煩冤舊鬼哭

天陰雨濕聲啾啾      12

1   塵埃不見咸陽橋:人道の成果である国都大橋非道の砂塵によって隠される。咸陽橋は漢の国都にも玄宗時代長安城にも実在した。杜甫は両者をわざと曖昧にし、この行詩が当代の唐を批判するものであることを示唆している。

2   雲霄:神仙の棲む天上界

3   道傍過者:杜甫自身を指す。

4   裹頭:髷を黒布でつつみ紐で結ぶ。兵士のしるし。通常数えで15歳のときにおこなうのは元服だが、ここでは出征の儀式

5   武皇開邊意:漢王武の西域侵略。じっさいには唐王玄宗辺境拡大策。

6   漢家山東:漢の故地。中原現在山東省とはことなる。

7   健婦把鋤犁:男性は出征もしくは戦死しているため、女性が農作業従事している。

8   秦:漢家山東の別名。秦の故地でもあることから

9   關西:玉門關以西。

10   生男惡反是生女好:儒教下の男尊女卑思想を痛烈に罵倒することで愚劣な体制への怒りをあらわにする。

11   埋沒隨百草:家持の長歌(万18 4093)との類似は偶然かどうか。

12   天陰雨濕聲啾啾:塵埃不見咸陽橋と陰陽天地で対比させ、首聯の擬音「蕭蕭」とも呼応する。天地仁の不調和をあらわす。

2016-10-26

ネトウヨ江戸は100万都市で当時は世界最大の都市だった(ドヤ

江戸開府から1000年くらい前の隋の首都長安が100万都市だったじゃん。。。

2016-03-05

http://togetter.com/li/945700

広場がないからデモができない、という言い訳をしたいんだろうが、駅前広場がないが町中の広場は(特に教会前に)残るパリでは、教会前広場なんかじゃなく道で活発にデモが行われている。町の中心のコンコルド広場も、普段ものすごいスピードで車がグルグル回っていて、観光客以外の市民が近寄る場所ではあまりない。しかデモをするなら車を封鎖してやる(目の前に下院議会もあるし)。

2013-04-26

喫煙もそうだけど、詩も禁止するべき

常々思うんだけど、喫煙もそうだけど、詩も禁止するべきだよね。

詩は煙草みたいにそのものが直接害になるわけじゃないけど、名を遺せない人間が他人に迷惑をかけるということは多々ある。場合によっては深夜の発狂で急性獣化なんかで虎になることもある。喫煙ばかりが取りざたされるが、詩も厳しくとりしまって禁止にするべき。あんなもの嗜好品であって、なくても死ぬわけじゃないからね。長安風流人士の机の上なんかで隔離されてるって言っても、臆病な自尊心尊大羞恥心のせいで虎になったらその後山野や藪の中なんかに出てきて他人に迷惑をかける。迷惑をかけられる方はたまったもんじゃない。で、当の本人は「記憶がない」とか言って虎のせいにして責任逃れをしようとしたりする。人喰い虎で死亡事故なんて枚挙にいとまがないし、なんで詩そのものを禁止にしないのか不思議。虎は一時的に基地外を製造する魔法であり、詩人なんて虎化予備軍ばっかりじゃんね。

http://anond.hatelabo.jp/20130426010512

http://anond.hatelabo.jp/20081112163347

2013-03-18

       ハ,,ハ 
     _,( ゚ω゚ )、     ∧ ハ,,ハ ∧ 
    (⌒`    ⌒ヽ   /,、( ゚ω゚ ),、 l 問う、門前の痩せ犬にも仏性はございますか? 
     |ヽ  ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒)   
    │ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /|  答える、有。 
    │  〉    |│  |`ー^ー― r' | 
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 | 
   |  irー-、 ー ,} |    /     i 
   | /   `X´ ヽ    /   入  | 

      r ‐、 
      | ○ |         r‐‐、 
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧  問う、門前の痩せ犬にも仏性はございますか? 
     (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l  
     |ヽ  ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒)   答える、無。 
    │ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /|   
    │  〉    |│  |`ー^ー― r' | 
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 | 
   |  irー-、 ー ,} |    /     i 
   | /   `X´ ヽ    /   入  | 

       ハ,,ハ 
     _,( ゚ω゚ )、     ∧ ハ,,ハ ∧ 
    (⌒`    ⌒ヽ   /,、( ゚ω゚ ),、 l 問う、門前の痩せ犬にも仏性はございますか? 
     |ヽ  ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒)    
    │ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /|   答える、家々の前の小道は、都、長安に通ず。
    │  〉    |│  |`ー^ー― r' | 
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 | 
   |  irー-、 ー ,} |    /     i 
   | /   `X´ ヽ    /   入  | 

2012-09-02

諸葛亮は稀代の詐欺師

孔明は嘘を吐かせると右に出る者はいない。

かつて劉備の代理として孫呉に訪れた際、共に赤壁を打ち倒しましょうと言ってすり寄った。

実際には漁夫の利を得た形で約束違反である荊州簒奪した。漢朝廷にすら許可を取らなかったため、後に曹操に利用されて公式に周瑜を南郡太守、荊州総督を任せる等として荊州統治を孫呉に委ねたのだ。そうなると当然荊州の正当支配者は孫呉になり劉備違法にそこを占拠してるに過ぎなくなる。そこで孔明は一計を案じて周瑜を誅殺し孫権から荊州を借りる形を取って劉備を統治者とした。当然条件付きで蜀を取れば荊州を全て返還するという劉備孔明両名のお墨付きであるしかし蜀、そして漢中を奪っても返さなかった。孔明は嘘吐きである。これがきっかけで荊州争奪戦および関羽刑事件に繋がるのである。また、後継者問題では自身の優位を絶対にするため、劉備信者魏延らをあることないこと誹謗し続けたのである。これは一政治家としてあるまじき愚行であろう。ともすれば、これを手本とする日本の某政党は嘘吐きであることを肯定しているも同じである

孔明は人を見る目が皆無。

嫁に関して「孔明の嫁選びを真似るなかれ、阿承(黄承彦)の醜い娘をもらう羽目になるぞ」という諺が存在するほどで人を見る目が全くない。

後に重用された悲劇の名将魏延も反骨の相(史実では不明)としており、一方で劉備が重用するなと言っていた登山家馬ショクへは自身の片腕以上の待遇だった。また、後蜀将として蜀漢を直接滅ぼす原因を作り滅んだ後も劉禅迷惑を被って死んだ姜維へも彼は特別待遇にしていた。そう、孔明は老練の将軍よりも口先だけの若造を重用する傾向にあったようだ。だがそんな彼でも老練を重用することがあったのである名前李厳。後に李平と改名する政治家である。彼は孔明いわく「陸遜匹敵する名相」だったが、才覚は確かにあったらしい。しか性格に難があり、孔明はたびたび彼への諫言を聞くことになるが無視し重用し続けた。その結果231年の北伐の大惨敗を引き起こすことになる。とんだ見立てである。実は李厳だけではない。後に魏に投降したのち蜀に再び寝返り新城の戦いで司馬懿に瞬殺された孟達孔明は重用した。実は孟達も才能はあったが、李厳同様性格に難があった。日本プロ野球選手に例えると中村紀洋である孟達面白い所は劉備に信任された上庸を守らず更に関羽からの援軍要請を無下に断り見殺しにした所であろう。彼は李厳と同じく才覚はあったが考えるところは常に目先の小利だけである。その結果、関羽は死にその責任を負わされることになった孟達曹丕の元へ逃げそこで厚遇を受けた。しか曹丕死ぬ冷遇された孟達は蜀に帰りたいという非常に自分勝手な判断のもと蜀に保護を求めて降伏してきたのである。それを大いに喜んだ孔明は自らドツボにハマる事に気付かず結局孟達の死をきっかけに北伐は失敗に終わる。逆に彼が冷遇し続けた魏延は殿軍を務めるなど蜀を守る役目に徹して彼以上に功績を挙げてしまった。孔明自分が貶めようとした者が成功するのを見ていられなかったのだろう。死の間際にこれまた後に蜀を滅ぼした姜維に後事を託して五丈原で病没した。その託した後事が問題で当時重用していた文官楊儀確執のあった名将魏延を排除したのである。これを機に蜀は滅ぶ道を辿ることとなる。オチとしては魏延を廃した楊儀も後に謀反を起こして流刑となったことくらいか

結局孔明は人を見る目が皆無で、結果として劉備に信頼されておいて蜀を守りきれず滅ぼす遠因を作ったのである

孔明は内政は超一流だが外交軍事も他国どころか身内にも劣る

漢の四相と称される孔明だが、それは内政だけの話でこと軍事においては亡きホウ統法正に劣る。後の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」で有名になる司馬懿電撃戦を得意とし曹操にも警戒された天才普通な孔明では太刀打ち出来ない相手なのだがここでも孔明は嘘吐きの才覚を遺憾なく発揮するのだ。また、火刑オタク陸遜孫武に勝るとも劣らないと称された天才孔明も対呉では慎重論を唱えたほどだ。実際には孫呉派閥政権なので内側から崩せば安易に滅ぼすことも可能だった。また曹魏にしても司馬懿の専横を煽る批判文を口先だけは超一流の馬ショクがやって見せたように続けていたら内部亀裂は免れておらず面白いことになっていただろう。孔明は情勢音痴だったのだ。また地理にしても荊州益州では無双だった孔明長安への道についてはこれまでにない慎重な姿勢を貫いていた。これを地理に詳しい魏延にたびたび批判されていたことは有名で、子午谷を通る国士無双の名将であった韓信攻略法を提案し続けたものの、却下し続けた。その結果が成果の見えない3度の北伐であるしか孔明は人を見る目がなかったので要所要所を劉備にすら諫言された将を大将に据えて任せており、その都度名将魏延を殿軍にするなどして引き離すといった愚行を演じている。こと軍事においては後世の学者からしても魏延の方が上回っていたと指摘されることがあるが、実際その通りだったのかもしれない。孔明は何も成果を挙げられていないのだからしかも北伐にかまけて劉禅教育を怠り漢王朝滅亡の原因である宦官制を敷いていたことが後に蜀を滅ぼすのだから孔明は実は内政も言われてるほど優秀ではなかったのかもしれない(宦官劉備提案かもしれないが)。

結論として孔明は、無能だが口先だけは一流の人間を重用し、まともな武将を片っ端から左遷ちゃうクソ政治家である。ま、そんな政治家を神としちゃう政党も流石だとは思いますけどね。

以上、孔明歴史捏造が生んだ最大の恩恵者であり、また稀代の嘘吐きである。某政党もこれを真似たのだから面白い。後に筒井康隆がその政党政権を取ると日本が終了するといった旨の小説を書いているが、これは単なる偶然の一致なのだろうか。

2009-10-03

中国軍パレード北京から中継(十月一日のメモ

北京にいます。いよいよ軍事パレードが行われます。

朝、7時に宿を出ました。霧は晴れましたが、まだおよそ曇りと言っていいでしょう。ただ真上のあたりがうっすらと青空になっています。

ホテルを一歩出ると、直立不動の若い武装警察官が立っています。動員されたバス大通りを駐車場代わりに使っています。

歩いて天安門方向に歩きますが、すぐに規制にあって進めません。外出は控えてテレビを見ていろという政府の方針なのです。仕方なく戻って遠回りします。しかしそこでも規制があります。

また遠回りして遠回りして、たどり着いたのが復興門のあたり。ここでは長安街におよそ200メートルほどに近づけました。8時半です。しかし、多くの人が集まってきました。

数百人に膨れあがったころ、いきなり公安がそこを規制しはじめました。

公安たちの怒号、負けじと言い返すおじさんたち、女子供たちの悲鳴、もみくちゃにされる年寄りなど暴動の発端はこんなところにあるのかなと思ったほどです。せっかく三脚を立てて撮影ポイントをばっちり決めていた隣のおじさんは掴みかからんばかりに怒っていました。

一方で、式典が始まる10時前には快く晴れ上がり、暑くなりそうな予感でした。歩兵たちの姿はもうありませんでしたが、ミサイル戦車などはほぼ全部見られたのだと思います。

復興門を離れる時、帰隊する若い軍人たちが乗ったバスに遭遇したのですが、人々は小旗を振り大歓声で見送っていました。

この演出はやはりすごいと思います。外国人でさえ、つい「中華人民共和国万歳!」と叫びたくなるような高揚感を与えます。一般の人たちならばなおさらでしょう。胡同(フートン)では夜遅くまでテレビの音が聞こえていました。

そういえば、列席者の中にパンチェン・ラマとおぼしき青年の姿がありました。

こうしたことはパレードも含め、平時における軍人にとっての最大の晴れ舞台なのですね。各省からの山車マスゲームコンサートなどイベントは深夜まで続き、テレビでは生中継されていました。いまも再放送しています。

パレードの後は中心部にいつまでいても仕方がないので、長城に登ってきました。今日はたぶん20キロぐらい歩いた感じです。

  (NS生、北京にて)

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  「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 

     平成21年(2009年)10月2日(金曜日)貳

        通巻第2729号  臨時増刊号

2009-10-01

国慶節前夜、温家宝首相が七つの産業で新規投資を禁止

アルミ精錬、セメント、鋼材など生産過剰で在庫急増

フィナンシャルタイムズ(9月30日付け)によれば、中国生産過剰による経済構造の悪化を調整するため、向こう数年、鋼材、セメントなど七つの分野で新プロジェクトの禁止を決定した。

 

合計4兆円の景気刺激策は、建設部門だけに過熱をもたらし、高速道路地下鉄橋梁鉄道などはブーム、人手不足が続いているが、民間部門はさっぱり。

きょうの国慶節を終えるや、中国は景気冷却に突入するとみられる。

現在北京にいる友人からのネット情報に依れば、北京戒厳令下、軍事パレード一般国民は参観できないほど長安街の警戒は厳しいという。

  

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   「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 

      平成21年(2009年)10月1日(木曜日

         通巻第2727号 

2009-09-19

<速報>習近平、軍事委副主任に。第17届4中全会、今晩終幕

華字紙ネット「多維新聞網」が18日午后報じたところでは、四中全会で、習近平(国家主席政治局序列第六位)の軍事委員会主席就任が承認されたもよう。今晩、7時(北京時間)、中央電視台から発表されるという。

これで習近平の次期(18回党大会、2012年)総書記国家主席が確定したことを意味する。

国慶節をまえに北京では軍事パレートの演習が盛んだが、今晩は前夜祭花火大会が行われ、地下鉄一号線を運休、長安街は通行止めになる。ところが、天安門広場の南側の繁華街ナイフ男が狂器を振り回し、二人が死亡する事件も起きている。

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  「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 

      平成21年(2009年)9月18日(金曜日)貳

         通巻第2719号 

2007-12-17

社会保険庁官僚です

みなさん、大学時代勉強だけに打ち込んで官僚になりましょう。

官僚は身分保障があり、競争しなくて良い上に、権力を存分に

行使して血税をむさぼることができます。幸せすぎて最高です。

これができるのも、まだ我が国が諸外国からの輸入に頼れており、

長安定時代で多少贅沢ができる時代にあるからです。

この傾向は今後もしぶとく続くというのが

我々の予想です。官僚は民間に必死に競争させ、

その果実だけを頂く事ができます。

まあ、あんまり贅沢していると国民が牙をむくので、

官僚自身は自分は薄給激務だとウソを言い、

マスコミを使って官僚をけなさせておりますが、

これも損して得を取る常套手段です。

こういう時代に民間に行く奴はただの馬鹿です。

ビバ官僚

 
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