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2021-03-07

[]考察考察厨に関する考察

 自分の好きな作品を深く考察する、というのは本来知的な行いであるはずだが、どうにもイメージよろしくない。特にウェブ上で公開されているような考察は、ほとんどが行き過ぎたこじつけで、作者もそんなこと絶対考えていないだろとしか言いようがなく、その独りよがりっぷりが気持ち悪くさえある。俗に考察厨と呼ばれる彼らだが、何故あのような状態に陥るのだろうか。そもそも考察は見ていて明らかに良し悪しを感じるが、これはどのような基準によるものなのだろうか。考察厨について考察するというメタなことをやってみた。

 まず初めに分かっておかなければならないのは、考察解釈)は自由であるということだ。考察ができるという時点で、それは作中で明示的に語られていない事柄があるということで、それをどう解釈するかは読者に委ねられている。しか自由からと言って好きにしてもいいのかと言えばそうでもない。何故なら考察者は作品に隠された作者の意図というひとつの正解を目指しているからだ。つまり考察とは答えの無い問題ではなく、答え合わせの無い問題なのだ。これこそが考察において誤解してはならないポイントであり、最も難しい所でもある。考察者は答え合わせの無い環境で、自分評価自力客観的評価してやらなければならないのだ。

 さて、考察厨の考察で最もありがちなのは、何が何を暗示しているだの、象徴しているだのといった情報を思いつくままに書いてそれで終わってしまっているパターンだろう。作品は無数の要素から構成されており、暗示的な意味など実のところ、いくらでも抜き取ることができる。考えついた人にとってはもっともらしく思えるし、考察者に対して肯定的人間なら「すごい! そんな意味があったなんて!」と言ってくれるかもしれないが、傍から見るとふって湧いたように唐突ものとなってしまう。これは要するに作者が意図して秘めた要素でない要素を解釈してしまっている状態である。難しいのはこの種の解釈は正解ではなかったとしても間違っていると云う根拠も示せないところだ。多くの人が感覚的におかしいことは分かっても、それを説明することは難しく、結果的客観性のない考察が横行してしまうことになる。

 では、正しく、そして作者の意図に沿う考察とはどのように行うべきなのだろうか。指針となるのはずばり、作品テーマ文脈コンテキスト)、あるいはストーリー構成といった作品に対するマクロ視点である。何らかの意図を込めてデザインされた作品は、論理の展開にも似た一定の流れを踏んでいるものだ。最も分かりやすいのは作品結論、あるいは一言で言い表した場合テーマなどで、これは大抵の作品においてクライマックスエンディング、あるいはタイトルなどの中で分かりやす提示される。この結論が分かれば大まかなコンテキストを逆算することができ、それに沿う形で抜け落ちた部分を考察していけばいいのである。逆に言えばコンテキストの中で役割を持たない暗示については無視していい。正しいかどうかの判断ができないし、作品作りの過程で偶然そうなっただけの可能性さえあるからだ。

 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はタイトル作品テーマとなっている分かりやすい例だ。作中で主人公は、「ライ麦畑で遊んでいた子供が崖から落ちそうになった時キャッチして助ける、そういう人になりたい」と語ってる(手元に無いので不正確かも)。当初は抽象的な話として語られているが、物語として考えるなら、この話は主人公が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』になった所で終わるのが一番自然だろう。そこで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の具体的な意味が示されており、当然その対になる『崖から落ちそうになっている子供』も存在しているはずだ。ここまでは読めば明らかなことで、考察というより読解のレベルだろう。(とはいえ、このことさえ分かっていない人もいる。念のために言っておくと、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は中二病の人ではなく、中二病の人を『助ける人』こそが主題だ)

 ここで定番の『赤いハンチング帽に関する考察』を見てみよう。この考察では、帽子を受け渡すシーンが『キャッチャー』と『子供』の役割の交代を示している、とされている。成程、たしか主人公は『キャッチャー』になれただろうが、作品を通して『崖から落ちそうになっていた』のは寧ろ主人公の方だ。相手が一緒に『崖から落ちそうになった』結果、主人公は踏み止まった。『キャッチする』と同時に『キャッチされた』とする解釈は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がつまりどういう人なのかということをより具体的にしてくれている。作者がその解釈の手助けとして『帽子』という象徴を仕込んだ、とするのは非常に合理的で腑に落ちる話だ。コンテキストに沿った上でコンテキストを補強している、まさに美しい暗示の好例と言えるだろう。

 このように考察コンテキスト相互に補強し合う。ゆえにコンテキスト意識することが考察の最大の指針であり、評価基準となるのだ。

 最後に実際上の話として、考察文の取捨選択について触れておこう。考察というは時に長大で、全て読むというのは結構な苦労を伴う。一目で考察の良し悪しを判定できる手段が欲しい、という気持ち共感できる人も多いだろう。実のところ、このコラムを書いたのは、これを自分の中で纏めておきたかったがためだ。まず経験的な話として、悪い考察文というのは得てして読みづらい。その理由は実はここまでの話で明らかになっている。考察者が全体のコンテキスト意識していない場合、部分部分の考察が全体の中でどういう役割を持つか分からない。つまり情報としてバラバラで一連した意味が分からなくなってしまうのだ。一貫した流れの無い文章は読みづらい。これは正しい考察工程と一致しているかどうかと同義、つまりは『読みにくい考察≒間違った考察であると思っても構わないわけだ。厳しく判別するなら、最初考察者が全体のコンテキストを明示しているかどうか、というのはひとつ基準になるだろう。全体像を共有する、あるいは用語統一しておき、その上で個々の解釈を全体の各所に当てはめていく、というのは良い考察なら自然帰結としてそうなるだろう(考察者が単に情報伝達に慣れていないだけの可能性は残るが)。逆に不味いのは部分の考察からスタートしているもので、これなら先に結論部分を読むのが良さそうだ。結論部分でも全体像に触れていない考察であれば読む価値は間違いなく無い。

2021-03-04

[]ウマ娘について

現在、大流行ソーシャルゲームウマ娘』。これについて、どんなゲームか軽く説明しながら、少し難点も挙げようと思う。

最初に『ウマ娘』がどんなゲームシステム簡単説明しておこう。まずプレイヤーウマ娘を一人選んで『育成』をスタートする。そしてトレーニングステータスを伸ばしながらレースに参加し、どのレースで何着以内、といった課題クリアしていく。最終的にUDPファイナルというレースで優勝すればクリアだが、ここまで至るのは始めのうちは容易ではない。マクロには所謂ローグライク風来のシレンなど)と同様のゲーム構造をしており、リロード不可でゲームオーバーになると最初から『育成』がやり直しになるシビアシステムしかしそれだけにテンポ良くリトライを繰り返しながら学習していくやりごたえのあるゲームとなっている。ローグライク系のゲーム構造と比べて大きな差異となっているのは『因子継承』というシステムだ。これは以前に育成したウマ娘能力を、次回以降の育成対象にある程度引き継げるというもので、これを繰り返すことによって徐々にウマ娘能力が高まっていき、UDPファイナルでの優勝も近づいていく。短期的な試行錯誤をこなしつつ、永続的な報酬も得られるというゲームデザインになっているわけだ。

次はストーリーについて見て行こう。ストーリー一言で言えば、スポ根モノ。ウマ娘たちが勝利し、時に挫折し、迷いながら、己の道を見つけて進んでいく様が情熱的に描かれている。王道ではあるがクオリティは十二分に高く、キャラクタービジュアル以上の魅力が全く無いソーシャルゲームの多くとは明らかにレベルを異にしている。勿論、ビジュアルについても魅力が無いわけではなく、高品質で表情豊かなキャラクター3Dモデルも非常に魅力的だ。

と、ここまでウマ娘の良い所を挙げてきたわけだが、しかしながらこのコンテンツ、今後の展望には一抹の不安がある。その理由は、現在の異常な流行が続くのかが今一つ分からないためだ。実は、ウマ娘に関する現在話題は(キャラクターコンテンツ作品としては意外なことに)キャラクターではなく、前述の『因子継承システムに関わるものほとんどとなっている。より強い『因子』を作るためにはどうしたらいいか、その方法論や成功報告などである。また、『育成』を行うモチベーションも、既にUDPファイナルというゲーム中の現在の最終目標はとうに通り過ぎており、とにかく強い『因子』を作り出すことへと向かっている。不安要素というのはまさにここであるソーシャルゲームにおけるプレイヤーのコア層、すなわちゲームの一日当たりのプレイ時間が長く、エンドコンテンツを早期に消化し、課金する割合も高い人たちだが、実は彼らにはそのゲームを辞める決断をするのも早いという特徴がある。つまり現在ウマ娘流行を担っている人たちは、あまり長期的なプレイヤーでないことが見込まれるのだ。

勿論、コア層がいればライト層もいる。マイペースに噛みしめるようにゲームを楽しんでいるプレイヤーも当然存在するだろう。しかウマ娘にはここに更なる不安材料となるシステムがある。それは『他プレイヤーが育てたウマ娘からでも因子継承ができる』というシステムだ。これは使用すればゲーム攻略を飛躍的に早められるシステムだ。実際、コア層のプレイヤーは他プレイヤーから共有される『因子』を使って『育成』を行い、さらに強い『因子』を作り、さらにそれを共有する、といったことを繰り返している。その結果、サービス開始時からゲーム難易度は格段に落ちていて、さしたる苦労もなくUDPファイナルクリア可能となっている。だがこのシステムを使ってエンドコンテンツを終えた後にやることは、せいぜい他プレイヤーとの競争的要素というライト層の好まないものしか残っていない。

ウマ娘話題にあがる事柄として『ハルウララ有馬記念に優勝する』というのがある。未プレイの人に分かりやすく言えば、『最弱クラスキャラで相性最悪のレースに優勝する』といったところだろうか。これはクリア必須ではないのだが、思い入れのあるプレイヤーなら是非クリアしたいと思わされる課題で、クリアすればそこでしか見れない『ハルウララ』の姿を見ることができる。普通なら、長い間プレイして打ちのめされながらも『因子』を強化していき万感の思いとともにクリアしたい所だ。だが、本作では誰にでも手の届くところに『他プレイヤーの因子を使って勝つ』という手段が用意されている。これではせっかくの課題陳腐化してしまうのではという感覚は筆者だけのものではあるまい。これはライト層がコア層と混ざってしまい、時間をかけて楽しもうというプレイタイルが損ねられるリスクに他ならない。

今回、ウマ娘が明瞭にしてくれたのは、プレイヤーゲームをどういったペースで楽しむべきかという問いかけだ。人それぞれ、というのは簡単であるし、最終的にはその通りだろう。しか果たして全てのプレイヤー自分にとってベストなペースを選択できていると言えるだろうか。ゲームというのは時にプレイヤー強迫的にプレイ強要する。プレイさせることは開発の意図するところなのだからそうであって当然だ。だからこそプレイヤーは時にゲーム仕様、例えば「こうすれば強いキャラが作れるよ」という勧めにさえ逆らうべき場面がある。本当にゲームが上手い人というのは、ゲーム中で強い人などではなく、ゲームを最大限に楽しめる人のことなのだから

 
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