はてなキーワード: 矮小とは
これはわかる。
私は野党支持者であり、選挙では共産党や立憲民主党に投票しているし、世論調査で「岸田政権を支持しますか?」と訊かれたら「支持しない」と答える人間である。
しかし、岸田政権には嫌悪感が無い。それが安倍政権や菅政権と決定系に違う。
安倍は歴史否認主義者でありレイシストだ。ネトウヨそのものである。そんな奴が日本の首相であることは心底我慢ならない。ガースーはより陰湿な矮小な安倍であり、似たようなものだ。
ところが岸田は違う。岸田さんはハト派の平和主義者であり、「平和の岸田」とも呼ばれる人だ。また「新しい資本主義」を示し、新自由主義の安倍スガとも違う道を示した。自民党の政権だから支持する気にはならないが、前の二人に比べたら圧倒的に印象が良い。
安倍政権や菅政権は極右ネトウヨ政権だったから、なんとしても粉砕したかった。しかし岸田政権は支持はしないが敵意もない。
平和主義者の岸田さんのいう「敵基地攻撃能力」なら支持できる。
平和主義者の岸田さんの内閣なら、憲法改正も良いかもしれない。
もし総裁選で高市早苗が総裁になっていたら、あのクソ自民党改憲草案が復活していた。しかし平和主義者の岸田さんはそれを認めず、あくまで「改憲4項目」を堅持した。
改憲4項目は「9条への自衛隊明記」「緊急事態条項」「参院選合区の解消」「教育の充実」であり、これは「自民党改憲草案」と違って危険性は少ない。
次の参院選でも私は共産党か立憲民主党に投票するだろう。自民党内にいる極右ネトウヨ勢力を増長させないために決して自民党には投票しない。しかし、おそらく選挙の結果、参議院でも改憲勢力が3分の2を上回り、やがて憲法は改正されることは間違いない。平和主義岸田政権のもとで、日本は平和の盾と同時に矛をも持つ新しい時代を迎えるだろう。
俺は学生時代から典型的なコミュ障タイプの非モテで、社会人になってからも時間が無いという言い訳をして彼女を作ろうとしていなかった。
そしてネット上で見かけた以下の言説をそのまま信じていたわけじゃないけど、影響されて勝手にネガティブなイメージを持っていた。
しかし30代になってちょっと精神的余裕ができたタイミングで幸いにも初めて彼女ができて、大きく衝撃を受けた。
恋愛が想像を遥かに超えて素晴らしい体験だという意味でもそうなのだが、上に書いた1~3はどれも本質的でないし取るに足らない言説だと気づいたことにも衝撃を受けたので、それについてここに書きたい。
確かにイケメンもクズ男も第一印象が良くて不特定多数の女を引き寄せるには有効だと思うが、性格のいいイケメンは別として性格の悪いやつは長続きするかで言うと疑問に思う。
実際、俺の彼女も以前そういうやつに引っかかっていたりしたけど、結局すぐに破局していた。
で、そういう経験をしてきた彼女は優しくされることに飢えていたし、彼女の話を親身に聞いてあげるだけで相当に好意をもたれた。
(そしてこれは彼女に限った話ではなく、似たような経験を若いうちにしてきた女は他にも多くいるはずだ。)
俺はもともと非モテだったが、社会人として何年も仕事で揉まれて人の話をよく聞けるようになっていたから、いわゆる優しいやつにはなれていたと思う。
しかし俺は恋愛経験ゼロだし彼女との出会いも急だったので、本当に不器用で優しいだけのやつだったと思う。
もちろん正確には他にも好意を持たれた要素はいくつもあるんだが、それは単に相性の話であって、モテとは違う。(仕事を自分なりに頑張っていたところはモテ要素かも。)
とにかく相手の話をしっかり聞いて受け止めてあげる優しさは恋愛において最大の武器だと思う。
だから1の言説を信じて恋愛を諦めるのは、今振り返ると言い訳じみていると思った。(まあ10代とか20代前半とか若いときほど1の話が当てはまりがちなのかもしれないが。)
これは女性全体の統計的な話でいうとそうなのかもしれないが、探せばそうでない人もいると最近知った。
というのも俺の知り合いの多くが感情を制御しながら対話できる女を選んで彼女にしていたし、俺の彼女もそうだから、感情的で面倒でない相手をちゃんと探せば見つけられると思う。
それよりネット上でもリアルでも普段接する男で感情のコントロールが下手くそで面倒なやつはごまんといるわけで、統計的にとか平均的にとかそんなことは気にせず、相性のいい女を探せばいいだけだと思った。
マジで男女差より個人差の方が大きいから、男はこうで女はこうみたいな一般論をこねくり回すより、自分と相性のいい相手を実際に探した方が手っ取り早く幸せになれるはずだ。
(ただ、具体的な恋愛コミュニケーションテクは打率が大事だから、そういうのは統計的な話を活用するといいと思う。)
恋愛で一方的に自分のコンプレックスを解消してもらう、つまり相手に依存するだけの姿勢のやつは恋愛はうまくいかない。(そういう恋愛もありだとは思うが長続きさせるのが難しいと思う。)
そういう意味では正しいと思う。
しかしお互いのコンプレックスを受け止めたうえで仲を深める会話を重ねる関係になれば、コンプレックスは自分にとって矮小なものになる。
だから結果として恋愛でコンプレックスは気にならなくなるし、自己肯定感も凄まじくあがる。
恋愛ではお互いの欠点を認めた上でお互いのことを好きだと思っているわけだし、いわゆる無条件の肯定に近い愛情を感じられる。
たとえば片方がめんどくさいことをしても「ごめん」と「大丈夫だよ」のやり取りですぐ慰めてもらえるし、今日の○○ちゃんはどこどこが可愛いとか、今のxxくんのどこどこがかっこよかったとか、そういうお互いの良いとこ探しをするような言葉が毎日のように飛び交うわけだし、恋愛による自己肯定感の増幅作用はマジで凄い。
実はここが友人関係と恋愛関係の大きな違いだと思っていて、友人に対して相手の良いとこ探しをするのは善意であって限界があると思うが、恋人に対してはとにかく好きだという気持ちから本能的に良いところを探し続けるから、際限なく相手の良いところを伝え合うことができる。
だからコンプレックスを抱えてるやつは、頑張って恋愛した方が報われると思う。
そういう意味では(3の言説は)間違っていると思う。
もちろん、信頼関係を深める前にコンプレックスを一方的にぶつけるような自己中なやつはモテないと思うが、それは単に相手を配慮する力が欠如しているのであって、コンプレックスとは関係ない(単に性格が悪いだけ)と思う。
出会いの手段についてはいろいろあるからここでは触れないが、自分にぴったりはまる彼女を見つけるコツを一つ伝えたい。
それは、他の多くの人が許容できなかったり不快に思うことを、自分は許容できたり不快に思わない、そんな事柄が無いかを自己分析すること。
そういう事柄を女が抱えている場合、それを受け止めることを自分の役割にできるわけで、それだけで他の男より圧倒的に有利になる。
恋愛では自分が他の男より優れた点(モテ要素)を探そうとしがちだし、それも大事ではあるんだけど、それだけだと壮大なスペック競争に巻き込まれるし、女の側がもっといい男がいるかもという発想で浮気してしまう不安も尽きなくなる。
それよりも、彼女が普段周囲の人から不快に思われたり認めてもらえなくて寂しく思ったりコンプレックスに感じているようなことを、自分が優しく受け止めてあげられるのであれば、それは最強の武器になる。
なぜなら人の特定の振る舞いを「本当は不快なのに不快に思わないようにする」ことや「抵抗を感じるのに心からいいねと認めようとする」ことは至難の業で、それを自分が不快に思わなかったり心から認められるのであればそれは立派な才能だと思うから。
そしてこの逆も成り立つことが理想だ。
つまりもし自分が周囲に不快に思われたり認められないことを相手が受け止め、認めてくれるのなら、それがまさにぴったりはまる彼女だ。
もちろん、相性のいい相手を見つけるための自己分析は他にもいろいろあるけど、一つだけ選ぶとするなら俺はこれが大きいと思った。
ということで、今の時代は恋愛は二次元の疑似体験で十分とか性欲解消は風俗で十分とか、そう考える人も多いだろうし俺もそういう考えは尊重されていいと思うが、食わず嫌いで恋愛に手を出さないのはもったいないとも思うので、上に書いたネット上の言説はあまり鵜呑みにしない方がいいと思った。
ちなみに俺ももともと恋愛と性欲解消は二次元の疑似体験で十分だと思っていたし、それを超える体験なんて存在しないとまで思っていた(現実の恋愛は絶対に幻滅すると思っていた)過激派だけど、実際にリアルな恋愛を体験してみると二次元の疑似恋愛はそのサブセットに過ぎなかったと感じるくらい、リアルの恋愛は理想的で衝撃を受けたというのが正直な気持ちだ。
一言でいうと、恋愛は想像を遥かに超えるレベルでいいものだぞ。相性の良い相手が見つかれば。
見終わったら隣の席から緑のクマ(ぬいぐるみ)が出てきて「なお、この映画はベクデルテストをパスしない」って言ってた・・・
冒頭に掲げられた「INSPIRED BY TRUE STORY」がdisclaimerとして機能しているように、しょうがないんだけど、スカッとしないんだよね。
いや、わかるのよ。わかる。悪の凡庸さ、罪の矮小さを通じて人間を描こうとしている。あるいは描かれている。
自律的に暴走していく欲望に躓き、尻つぼみにみじめな終局を迎えるキャラクターたち。
だけれども、私がみたいのはガガ姉さんが悪のカリスマを演じるピカレスクロマンなのですよ。
フィクションであればもっと吹っ切れた魅力を表現できた可能性がある筈なのに、そうはならない。
(緑のクマ氏であれば、男性キャラクターと女性キャラクターの違いが作劇にどう影響しているか歴史的文脈を踏まえて考察してくれるかもしれない)
ジャレッド・レト(ジョーカー@スーサイドスクワッド、エイズ患者@ダラスバイヤーズクラブ、クラブメンバーのエンジェル@ファイトクラブ)演じるパオロにあてがう「記号としてのダサファッションセンス」を作り上げた美術は絶妙。
日本のドラマは視聴者を信用していないから大げさに説明しすぎるっていう批判を時々見かけるけど、父グッチ(ロドルフォ)ジェレミー・アイアンズの”病人風メイク”はやりすぎの「コントかな?」って思った。
前職を辞めて1年以上が経った。そろそろ事業会社で働いてみようと決心したところで、キャリアの棚卸しをしてみようと思った。
私は、新卒で人材広告の営業会社に入った。その次は転職支援の仕事をしていた。いずれも管理職になって、いくつかのチームをマネジメントする立場になり、二番目の会社を数年後に退職してからは個人事業主になって、ひょんなことから地方自治体(市役所)に転職した。
そこを辞めてからは、幾ばくかの退職金を元手に、フリーランスをしながら自由な毎日を送っていた。今でも個人でコンサルの仕事を請けたりする。学生時代を懐かしんで、マクドナルドのクルーに応募して働いてみたりもした。
人生の休息はたっぷり取ったし、そろそろ本気で再就職を目指そうかと考え始めたところ、職務経歴書を書かねばならないことに気が付いた次第だ。
なお、当日記のタイトルは、問題社員の正しい辞めさせ方(Amazonのページに飛びます)という本から拝借している。
名著だった。今回の日記の投稿に至ったのはキャリアの棚卸しが主な理由だが、この書籍にインスパイアされたこともある。
前職の説明をする。とある地方自治体の特定任期付き職員として、人事政策の立案と運用を担っていた。役職は部長級。人事~~と名の付く長ったらしい名前だ。
かつて個人事業主だった頃、それまでに培った人材広告の営業や、転職支援のスキルを活かして個人コンサルをしていたところを当時の市長に拾われた。この人は、私が勤めていた会社のひとつで上級管理職をしていた縁があった。
私以外にも、いろんな組織から多くの人間を市に引っ張っていた。みな幹部としての登用だった。それぞれが民間等での専門性を活かし、刷新的な業務に取り組んでいたのを覚えている。
ここに綴るのは、地方公務員の端くれとして〇年間、人事の仕事に携わった諸々の実例だ。
始めに言ってしまうと、私の仕事は政策立案の本流ではなかった。それよりも、できがよくない職員、いわゆる問題職員や無能職員と言われる者たちのトラブル処理や、彼ら彼女らへの指導――のみならず、退職勧告まで含めて担当していた。
当時の市長(私の任期の途中に退職)は、私をそのために採用したに違いないという確信がある。行政経営における中核的な人事施策は、当然ながらプロパー職員に担わせるべきだ。私は、公務員が慣れていない型の人事業務(いわゆる肩たたき系)の企画運営を行い、後の人間に引き継ぐために採用されたのだ。何か問題が起こっても、私は幹部職員で権限ある人間ということになり、責任を取ることも可能というわけだ。
前の会社においても、人事責任者として様々な人間に接してきた。その経験を当時の市長は買ったのだろう。かくして勤めることになった市町(K市とする)が抱えていた問題を解消するために動くことになった。
実際、当時のK市には労働関係の指標に問題があった。3年以内離職率だ。私が赴任する直前年度の3年以内離職率は、30%を超えていた。地方自治体は、同規模の民間企業に比べて恵まれた労働環境にあるというのに、この数字はちょっと高い印象がある。
辞めていく人間の大半が査定の低い者、トラブルを起こす者ばかりであればまだいい。だが実際には、将来のK市をしょって立つと期待された職員が半数を超えていた。特に若手だ。
せっかく、まちづくり活動に携わる職場や、霞が関や、県の本庁にある部署や、県内市町から1人ずつ出して組織される団体(〇〇合同機構や、〇〇事務処理組合など)を経験させたというのに、辞められては元も子もない。
「全くの嘘は書かない」
というものだ。どういう意味かというと、例えば「A」のことを「アルファベット」と表現することはあっても、全く別のBと言うことはない。A´みたいな表現はするかもしれない。
当日記は、胸の痛くなる描写を伴う。しかし、私自身が次の転職に向けて準備をするために行っているので、赤裸々な事実まで含めてきちんと振り返ってみようと思う。死人は出ないので安心してほしい。
次に、この日記を書いたきっかけについて。何となくお察しかもしれないが、△年前に雇止めの通告を受けた。任期はその年度の3月末までだという。
結果を出したにもかかわらず、任期を更新されないという裏切りを受けた。私はそのように感じている。
当自治体に配慮する道理はないものと考える。書いてもいいこと、書くべきことは何でも綴ってやるつもりだ。
形式的には地方公務員だったかもしれないが、本当は違う。私はあくまで民間側の人間であり、自治体の人事運営の一部をコンサルティングする立場としてアサインされた。しかし、業務委託(準委任契約)の立場ではできない(例えば職員への直接の命令や指導)ことが多いため、致し方なく特定任期付き職員として採用された。それだけのことだ。
尤もらしいことを書いたが計算もある。以前、はてな匿名ダイアリーで、元公務員である作者が、かつて勤めていた組織の内情を(おそらく)包み隠さずに綴った日記を何点か読んだことがある。その中には、当然官公庁の内部事情に関するものもあった。「それ書いたらあかんやろ、捕まるぞ」と直感的に感じたものもある。
その人の日記では死人が出ていた。当日記では誰も死なないし、たとえどんなに面白い話であろうと、亡くなった人間をネタにするつもりはない。
例の日記は、今でも増田に残っている。魚拓と比べて、投稿後に何かを隠した形跡もない。私がこれから書く内容も赤裸々なものだが、あの日記の暴露レベルをラーテルとすれば、当日記はチンチラのようなものだ。ラーテルとチンチラが戦ったとして、多くの場合はラーテルが勝つだろう。
そこまで大した内容を書くつもりはない。挑戦してみるのも悪くないと思えた。
当然ながら、職員個人については特定がされないように最大限配慮する。特定の危険があると判断した場合は該当箇所を削除する。では、以下に1章ずつ綴っていく。
初めに言っておかねばならない。この日記はとても長い。全部で5万字はあるため、気になったところだけ読んでいくやり方は大いにアリだと思う。
かなりざっくりとした目次は以下のとおりだ。
第一章 更生が期待できない問題職員について Part1の途中~3,5~6
思い出に残っている職員を1人だけ取り上げる。
結びにかえて Part10
では、さっそく第一章に入る。
この章では4人分、問題職員への対処例を述べたい。私が採用されてから退職するまでの間に接した事例になる。
A夫さんは当時、50代後半だった。まるで絵に書いたような昭和風の地方公務員であり、私が若い頃に聞いた「公務員はこんな感じ」を地で行く人物だった。今では絶滅危惧種だと言っていい。
・毎日5時になったら帰り支度を始める。朝は始業2~3分前に出勤する。たまに遅刻あり。
・主任~主査級(※民間で言うと平社員の最上位。ここまでは自動的に昇進する)。年収は8本ほど。
・仕事量は少ない。勤務時間中はのんびり過ごしている。電話や窓口には出ない。
・台風待機や他課の行事があると積極的に手を上げて参加する(時間外手当がほしい)
ここまではいい。業界的には許せる範囲だ。生産性の低い人間には違いないが、問題職員とまではいえない。
この年代になると、彼らが新人職員の頃に先輩が行っていた(よくない)行為をすっかりと踏襲している。出張の帰りに公用車で自宅に帰ったり、家のごみを市役所のごみステーションに放り込んだり、イベントで余った飲食物を箱単位で私物化したり、市の取引先の〇△メーカーから私物としての〇△を卸売価格以下(店頭価格の約4割。同種の横領の誘発を避けるため伏字)で購入したり、机の下に焼酎やウイスキーを隠し持っていたり……。
重ねて言うが、ここまではまだ許せる。働く組織によって文化や慣習は異なるものだ。彼らや彼らの先輩が今までずっとそうしてきて、それで通用してきたのであれば、それは組織の責任でもある。
それに、若い職員には年配の職員が不幸である様子は極力見せたくない。「自分たちも将来は……」という希望を持っていてほしい思いがある。ほかにも理由はあるが、当日記を読んでいるうちにご理解いただけると思う。
罪を犯したのだ。職場の飲み会の帰りに酔っぱらって気が大きくなった彼は、とある罪を犯した。現行犯逮捕されたA夫さんが翌日に暗い顔で上司に報告したのが、私が赴任してちょうど一か月の頃だった。
新年度の第一例目ということで、私は総務部や人事課の職員(特に幹部クラス)がどう対応するのか見るつもりでいた。人事課の隣にある面談室で、A夫さんと、総務系・人事系部署の役職者が何人かと、私が同席していた。みな、それぞれソファに座っている。
その時のA夫さんの印象は、以下のようだった――と書こうと思ったが、そこまでの価値もない。一言でいえばこうだ。
『反省の色がない』
夜中にコソコソと他人の所有物を盗んだにもかかわらず、ヘラヘラと笑いながら、「すいません」と首をブラブラさせるばかりだった。シャツその他の衣服はよれよれで、ネクタイは曲がっていて謎のシミがある。
面談後、私は単刀直入に人事課長ほか数名に尋ねた。「免職ですよね?」と。
それは、短い返答だった。「これから協議します。民間なら免職かもしれません」というものだ。
私は負けじと、あらかじめ調べておいた根拠を示した。人事院が発している「懲戒処分の指針について(平成12年3月31日職職―68)」というものだ。
国家公務員も地方公務員も、この通達に従って処分を決めるという。免職処分か否かで揉めて裁判になった場合も、裁判所はこれを基準として判決を下す。その中に、以下の文言がある。
(1) 放火
(2) 殺人
(3) 傷害
(中略)
A夫さんの場合は、(7)のアにあたる。免職処分にできるはずだ。だが、人事課よりも上の立場の人間(※その人は部長級で、私と同格だったが、新人だった頃の私に権限や権威などあろうはずもない)は、A夫さんを停職1ヵ月と減給で済ませるという。
ここが勝負どころだと思った。
私が最初に入った会社では、飲食店などをメインに、自社の求人広報誌に情報を載せてもらう飛び込み営業を十年近く続けた。その後に実績が認められて人事部署に異動となり、数多くの優秀な社員や問題社員と接してきた。次の会社でも、現場を経験後に人事畑に移っている。今、この経験を用いる時だ。でなければ私の立場は矮小のままである。職員からの信頼は得られない。
手を挙げた。次回のA夫さんの面談は、私が主担当となった。面談室のソファの中央に私が座り、右脇には人事課長、左脇にはそれに準ずる者がつく予定だ。後は結論と筋書を用意して、A夫さんをその方向にもっていくことになる。
その前に、市長に軽く相談したところ、「お前の好きにやってみろ。決着がついたら教えてくれ」とのこと。ならば好きにやらせてもらおうと思った。
(続く)
自尊心とは、自分が自信があり、他者の干渉を排除したいという気持ちのことである。
これから書くことはある人から見れば勘違いをしたオタクの戯言、ある人から見れば窮屈な恋愛物語とも読めるかもしれない。
一介の夢女子がぜんぜん思い通りに行かない思いの丈を綴っただけである。苦手な方はブラウザバックを推奨する。
私は彼と出会ってもう4年になる。相手の名前は伏せておくので詮索しないでほしい。そして皆さんにも何次元であろうが好きな人がいると思う。
私の好きな人は二次元なので会えこそしないのだが彼が存在してくれるだけで毎日毎日楽しい。たぶん今も、楽しい…と思う。
平穏に日々彼への想いを募らせていたのだが、長年動きのなかったジャンルに続編が出ることになった。
とても嬉しかったし作品は面白かった。私の好きな人ももちろんかっこよかった。
しかし、引っかかる部分はそれ以上にあった。新しい作品が出るたび私の好きな人の名前がツイッターのトレンドに入る。すごく不愉快だった。新しい作品から彼のことを好きになる人がたくさんいて嫌だった。書いていて本当に自分のことを醜いと思う。
自分は毎日毎日彼のことを考えて過ごしているのに、軽々しく好きだとか話題に取り上げられるのが嫌で嫌で仕方なかった。
作品を作りに協力している人が、原作者でもないのに我が物顔で彼のことを語るのが悔しくて悔しくて仕方なかった。(私も何様って感じだが)
実際はそんなことないが、私が考えてきたこと、してきたこと、たくさんの思い出が無為に感じてしまった。日本中が彼に興味を持ち私という存在をより矮小に感じさせた。
周りの人から見たら何言ってるんだろうと思うかもしれないが、一種のアレルギーのようなものだ。普通の人は普通に受け取れることも徹底的に受け付けないのである。
別に大きい顔をしたいわけじゃない、彼のことを嫌いになるなんてこともない。けれど続編が出ることが怖くなっている。平穏に過ごしてきた日々はもう返らないのだろうか。
そして新しいものを受け入れられない私は顧客ですらなくて、彼を好きになっていい価値すらない人間なのではとひどく落ち込んだ日もあった。
ただ、私だって彼のこと好きなのに…というやりようのない気持ちだけがずっとある。
私は多分誰がなんと言おうと自分が彼と過ごしてきた日々が間違っているだとか、無駄だとかは今は思わない。それはアイデンティティだから。
それにもう公式が供給するものですら排除したいと思うほど、私の自尊心は膨れ上がっているのだ。
私はたとえどうなっても、ただあなたを好きでいたいしそれだけで構わない。私の精神世界を守れるのは私しかいないのだから。
彼が人気者になっていくぶんだけ私は虎になるのだ。醜い私には十分すぎる。
これからも虎らしく今まで通り人目につかないところで息をしようと思う。
声優さんが好きなら行くものだと、なんとなく思っていたからだ。
しかし行くのをやめてしまった。その流れを書いてみようと思う。
そんな光る棒の振り方にも…ルール、というか流れがある。
上下に振る時、左右に振る時、ゆーっくり念を送るかのように下から上に押し上げるように振る時などを、曲の部分部分によって使い分ける。
光る棒を振る時の掛け声の出し方にも色々ある。
「はい!はい!」「おー、はい!」といったものや曲ごとに特殊なセリフの合いの手があったり、それぞれお決まりの流れが存在する。
慣れてない私は、楽しむためにyoutubeでのライブ映像なんかを見て予習をしていた。
覚えてくると音ゲーのような感じで、周囲とぴったりと息を合わせられるようになってくる。一体感があって、だんだんと成長が感じられて、その達成感が楽しい感じがした。
…でも次第にだんだんと「なにやってんだコレ」と思うようになった。
セリフ合いの手を忘れたときにはごにょごにょと誤魔化した合いの手をしたりして小学校の時のトラウマが蘇ったし
新曲が出るたびに「周りに合わせないと」ということを必死に考えている小さな自分がそこにはいた。
元々分かってはいたことなんだけれど、私と声優さんは格が違うと強く意識するようになった。
キラキラ輝く舞台上に、浮かないように、外れないように、予習をしてまで周囲と合わせようとする私は、声優さんと比べると比較にならないくらい矮小な存在だと思わされるようになってきた。
わちゃわちゃとした一般人の群れの中で、外れないように、乱さないようにして光る棒を振りながらひしひしと「あぁ…なんて私は一般人なのだろう」と感じるのだ。
憧れの存在を、大好きな存在を、遠く離れている存在だと自認させられに、ライブに行っているような気がした。
…それきり行くのをやめた。
おしまい。
人間がどうとかは全部どうでもよくて(どこに行っても人間はある程度カス)とにかく乾燥していて日照時間が長いっていうのがいい
カンタンに地平線を拝めるのもいい
レンフェの電車に乗って、適当な駅までバーっと行って、降りて、20分も歩いたら、ガチで何にもない、荒野って感じの場所に行ける
そういうのって素敵だと思う
俺は荒野の方が好きだ
街もいい
なんかこう、地面が石造りなんだよな
石造りじゃない場所も当然あるが、旧市街みたいなとこに行くとまあ石造り
そんでこう、石がなんつうかドッシリしてんだよな
サンダルで踏むと、自分の矮小さが不安になっちゃうくらいドッシリしている
大地を踏みしめているんじゃなくて、なんかこう、ペラいゴム底で表面をペシペシ叩いてるみたいな感じがして、いたたまれなくなる
アレがいい
あと、日差しは殴りつけるような強烈さなのに、日陰に入ると突然ヒヤッとするのもいい
コルドバ(Córdovaって綴りがかなりいい、駅の入り口にでっかくCórdovaって書いてあるのをみてしばらく立ち尽くしてしまった)に行ったとき、外をアテもなくウロウロしてたら、すげー暑くて、グラニサードっつうカキ氷的なものを売ってる屋台がやたら魅力的に見え、ひとつ買った記憶がある
橋の近くに日陰になってるところがあったんで、そこに腰掛けて、川を見ながら冷たいグラニサードを食った
そしたらすぐ震えるくらいに寒くなったんだよな
あの峻別される感じ、アレがカッコ良かった
それより俺はあの感じが好きだった
チーズが安いのもいい