はてなキーワード: 人智とは
直接関係は無いけど、なんか昔書いた日記の事を思い出しました。
読み直してみて、これが誰かの何かの助けになればと思い共有します。
誤字脱字含め当時のままです。
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障害について。
それは絶対に正しいと思う。
というかそれが正しくないなら、逆に正しいってことになんの意味があるのかと問いたいくらいだ。
○○と○○が生まれた時、今後どうなるか分からなかった、今もそうだ。
子供だけの話ではなく、自分がいつ障害を負うことになるのかも分からないのだからこれを考えておくことは重要だ。
人生の豊かさや幸福というのは、その人自身が決めるというのは真理だと思う。
なので、障害が人生に寄り添っても、その上での人生の豊かさと幸福を追求すればよいだけだと考える。
ただ、そのためには、それを含め幸福だと思える物の考え方に沿った人生にしなくてはならない。
なので、その考え方を決めることは重要だ。人生を決めるというのと同義な程に。
だから、障害者は生きる価値があるという正しさを自分の中で納得しなければならない。
障害者にも生きる価値がある、のではない、障害者は生きる価値がある、のである。
私は生きる価値がある、と言いたいということだ。私にも生きる価値がある、ではない。
その考えを血肉にしなくてはならない。
様々なことを考える時に、その考えの元となる軸として機能させる程に自分が納得していなければならない。
その考えを自分の考えとして相手を説得できる程でなくてはならない。もちろん相手を説得することが重要なのではない。
相手を説得することができる程、自分の血肉になっていることが重要なのだ。
自分の中で納得できない考えを元にして、自分の行動に結びつけることはできない。
自己矛盾を抱えたままでは強い意志が持てない、堂々と人生を生きていけない。
まずは、ここから始めたい。
「障害者は社会の役に立っていない。医療費や介護、治安の面で社会の負担となっているのではないか?」
つまり、
ということである。
障害者→治安という結びつきは、多分知的障害等のコミュニケーションがとれないことを想定していると考え、話を進める。
知的障害者は、
→コミュニケーションがとれない
→何をするか分からない
→怖い
このような経緯で治安の面の負担という議論が上がってくるのだろう。
しかし、実際治安の面で言えば、知的障害者よりも健常者の方がはるかに犯罪率が高いのが事実である。
しかし、そうは言っても、やはり怖いものは怖いという人がいるかもしれない。
それに関しては、それでもいい、としか言えない。
怖いなら近寄らなければよい、そっと離れればよい。
街にいる健常者で危険そうな人にはそのように対応するだろう、それと同じでよい。
というより、こうした議論に上げるまでもなく、そうした対応に関しては相手が障害者かどうかが重要なのではないはずである。
医療費、介護の面で社会の負担となっているということに関して、これは費用対効果ということになると思う。
障害者に対して、かかる費用とその効果だけを考えれば、それだけを考え社会負担だと判断するのなら、多分、そうだろう。
人通りの少ない道の電灯は費用対効果がないと言っているようなものだ。
その電灯の明るさがもたらすものに目を向けていない。
人通りが少ないからこそ本当に必要な場面があるのだ。そこに電灯がついているという安心感が何をもたらすかということなのだ。
たばこなどにかかる医療費だって社会の負担ではないか。それと同じなのだから障害者の医療費だけ問題にするのはおかしい。
このように、同じような他の悪者を上げて、その問題と比べると・・・といった議論の進め方をする人がいるが、こういった進め方は自分はあまり好きではない。
―たばこを吸う人は税金を納めているのだからプラマイゼロ位だろう
―いや、肺ガンになったらかかる医療費の方が大きいから少しはマイナスだろう
―健常者で社会の負担にしかならない人もいっぱいいるじゃないか
押し付け合い、悪さ探しでは、生きる価値の答えからは遠ざかるばかりだと思う。
「障害者は医療費、介護の面で社会の負担となっているので生きる価値がない。」
つまりこれは、価値を判断する側から見て、いらないのでいなくて構わないということである。
本当にそうだろうか。
障害者がいないことが社会にとってプラスになるのだろうか。そうではないと思う。
もしも、障害者がいないことが当然という社会ならば、自分が健常者であってもそういった社会で生きること自体が不安であると思う。
自分だって、事故や病気でいつ障害者になるか分からない。そうなったら自分は生きる価値がないんだ。
自分の子供が障害を持って生まれてくるかもしれない。そうしたら社会は誰も助けてくれない。
このような不安を社会全ての人々が抱えている状態は、はたして幸福なのだろうか。
こうした不安を緩和するという点だけでも、障害者は生きる価値があり、安心して暮らせるようにすること自体が社会にとって大きなメリットがあると言える。費用対効果は正確には表せないが、医療費とか、そういった細かいレベルではない。
ただ、障害者が幸福に暮らせることは社会にとってもメリットなのだ。だからあなたには生きる価値がある。
これでは、社会の人々から障害者が攻撃を受けることを防ぐ効果はあるかもしれないが、
障害者本人が―だから僕には生きる価値がある―と自己を肯定するところまでには至らないだろう。
それではまだ、障害者には生きる価値があるということの本質には至ってないように思える。
生きる価値があることの社会的なコンセンサスを得ることも大事なのだが、それは本質ではない。
極端に言えば、どんなにおかしな考えだろうが、本人が自分には生きる価値があると納得できる方が大事なのだ。
そういった個人的なものの答えを求めようとしているのだから、答えも個人的なものになるのかもしれない。
と自分が強く思えるような納得できるような考えを見つけること。
―僕は歩くことができないけど、僕には生きる意味があるの?―
と言った子供の問いに、意味があると心の底から答えられること。
それが大事なのだと思う。それこそがこの問いの辿り着くべき姿なのだと思う。
逆に言えば、一般論では難しいのだ。
この手の問いに一般論で正解が出たことなんていまだかつてないのだから。
費用対効果の部分で考えたこと―視野を広げて考えれば、障害者が幸せに暮らすこと自体に社会的な大きなメリットがある―について、それではまだ、心に響く答えではなかった。なので、コストという面でもう少し掘り下げてみる。
コストという面から障害者を見ることは、コストという面から健常者、もっと広く言えば人間を見ることにつながると思うからだ。両者の答えが異なるならば、異なった考えが必要だし、同じならコストという面から障害者と健常者を分けて考えること自体が無意味であるということかもしれないと考えるからだ。
ただ、何を持って社会の役に立つ還元だと判断するかにもよるが。
環境破壊を伴う経済活動は、短期的には社会に賞賛をもって迎えられるかもしれないが、長期的には何もしないよりもデメリットが大きいといった場合もある。
しかし、ここでは、世間一般の視野レベルにおいて好ましいと思われるレベルと考えれば良いだろう。簡単に言えば社会的な成功(スケールは問わず単なる賃金等小さなものも含まれる)ということで良いだろう。
その基準で判断するならば、やはり、障害者はコストの方が勝るだろう。
個別で見ていけば、社会的に成功する障害者も、社会的な害悪としかならない健常者も存在する。
だが、障害者、健常者という全体のくくりで見ると、障害者というグループに分けた場合にそのブループはコストが勝ると言うことができてしまうだろう。
コストに関して、障害者、健常者と分けて考える必要はあるのだろうか。どうであれ、コストが勝る人がいるということだけである。
と、言ってしまいたいが、生きる価値という部分を産むべきか否かといった側面から考えた場合には残念ながら簡単には言い切れない。
一生体を起こすことはできない、一生自分を自分と認識することができない、といったように、ほぼコストが勝るであろうということが、生まれる前から分かってしまうという事がありえるからだ。
ただ、これについても、ドーキンス博士のように例外もいる。彼は生まれる前ならコストが勝ると判断されても仕方がない状態であったと思われる。だが、彼が社会に与えた功績は非常に大きい。
これの意味するところは、コストが勝るなどと正確に判断はできない、ということだが、この判断と同様のケースにおいて、数が増えれば平均コストが勝ることになるだろう。
平均という概念にはその平均を算出するためのくくりが必要である、そのくくりとして障害者、健常者といった分け方がなされることになる。
あと残っている議論は障害者と健常者の線引きをどうするかといったことだけだ。
この議論では生きる価値には辿りつかない。なのでこの方向で進めるのはもうやめることにする。
もうこれは、誰にとってのコストかということに尽きる。
他の生物にとって人間は特に価値がない、地球にとっては逆に諸悪の根源かもしれない、宇宙にとっては人間などなんの意味もないだろう。まとめれば、人間は等しく生きる価値がないということだろう。
それでも、大部分の人々はそれぞれ自分には生きる価値があると思っている。
意識していないと言う人がいるかもしれないが、それは、自分には生きる価値がないわけではないと思っているということだ。
なぜ、大部分の人々はそう思えるのか。
いや、もしかしてこれは、必要とされている度合いから、かけている迷惑を引いてプラスになるからということなのかもしれない。
あれ、よく分からなくなってきた。
この考え方で生きる価値があるという答えに辿り着けるのだろうか。
いったん、ここでやめる。
下記にネットに載っていた、何か訴えかけられた気がした文章をのせておく。
あの子が死んで、この子がまだ生きていることの理由やその不思議を
いったい誰に説明できるというのだろう。
そんな、人智をはるかに超えたところにある命に、質もへったくれもあるものか。
「生きるに値する命」だとか「命の質」だとか「ロングフル」だとか、
生まれてきて、そこにある命が
生きて、そこにあることは、それだけが、それだけで、是だよ。
だから、
生きてこの世にある命を、誰はばかることなく、ただ生きて、あれ──
それを、せめて大らかに懐に抱ける人の世であれ──と
ぶっちゃけいつ来るかなんて誰も正確に予想できない。
天才か努力家かあるいはたまたま思いついた誰かが突然公表してその時が来る。
少なくとも現状のAIではいくら学習データを増やしてもシンギュラリティにはほど遠い。
人間の脳の構造を真似ても人間と同等のレベルまでにしか上がらない。
人間を超える要素をちょっと加えるだけでAIは自分自身を進化させながら人智を超える存在になる。
最初の1年は騒がれるだろう。
10年くらいすればAIがロボットを生産して肉体労働を含めてAIが仕事を始める。
仕事も趣味もすべてAIがやってくれるのでAIによってただ生かされているだけともいえる。
倫理観が薄れていき、酒・ドラッグ・犯罪などに享楽をもとめてやがて飽きれば生きる意味を失う。
シンギュラリティによってAIが人間を排除するストーリーはいくつも見かけるが、
地上から人間が消えた後のAIは時間をかけて独自の進化を遂げ系外惑星を目指し旅立つ。
乗せられていた方じゃない。水に潜っていた方だ。
家族連れが集まる流れるプールのようなところで、その日はかなり混んでいた。
いつものように潜水でいけるところまで行こうと潜り、行けるとこまで行って上がろうとした。しかし、混んでいる上にみんな大きな浮き輪やなんかを使っているものだから、中々上がれる場所がない。流れるプールなので水中は縫うように流れていくスペースはあっても、水面に出れるスペースとなると、家族連ればかりなもんだから、浮き輪だのなんだのばっかりで本当に見つからない。
そんなとき、やっと見つかった。空が見えた。上がろうとした。ところが。
何度上がろうとしても上がれない。そこに水面はあるのに。
息が持たないから死にもの狂いでなんとか浮上しようとする。しかし、なにかに阻まれる。もうこれは何か妖怪か人智を超えたものの仕業に違いない。
必死で別の水面を探す。空いてるところがあった。そこを目指して必死で移動し、また必死で上がろうとする。全然上がれない。
そういうことが何度か繰り返されたあとやっと、やっと水面にでれた。もう息がもたない、もうだめだ、と思ったギリギリで。
大きく息をする。プハッ。
すると、いきなりおじさんに頭を叩かれる。「なんでこんなことするんだ!」みたいなことを言い、かなり怒っている。一瞬わけがわからないが、大泣きする女児が目に入る。一瞬で理解した。
その、大きく、まったく柄もない透明な浮き輪。水中まではっきり見える。正体不明の壁に阻まれて上がれない!と思った謎の正体。
結果的に、俺は女児がのる浮き輪を何度も何度も下から突き上げるクソガキになっていた。
こちとらもう息がもたず死にそうだったんじゃ!こんなわけわからん紛らわしい浮き輪を使うなや!とめちゃくちゃ思ったが、大泣きしている女児の前に何も言えることがなく、そして、やっと息ができたと思った矢先に知らないおっさんに頭を叩かれたのに釈然としない小学生は、ただただ無言で解散するのみ。
不幸にも、混雑していたので、少しの隙間がある→そこに移動しようの流れは、浮き輪にのっている方も、潜っている方も、同じ考えだったんだろう。結果的に、おっちゃんからすれば、移動しても移動してもクソガキが可愛い子供の浮き輪をガンガン狂ったようにつき上げてくることになり、俺としては移動しても移動しても見えない壁に阻まれ余計に激しく水面に頭突きすることになった。
だから、柄のない透明な浮き輪は、混雑してるプールで絶対使ってはいけない。潜ってる方が悪いとか好きな浮き輪使ってなにが悪いとかそういう話ではない。コントロールできない動きをする他人がたくさんいる中で、安全面でリスクがあるものをわざわざ使うことはない、という話だ。
ただただ、あなたの自律性と自立性、すなわち尊厳を冒さないように、侵入しないように自らを自制する事だけだ
何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地も蜃気楼も求められない沙漠のような……カサカサに乾干びたこの巨大な空間に、自分の空想が生んだ虚構の事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております。
その大切な大切な彼女の天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女の創作の天国を、アトカタもなくブチ毀され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります。
隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います。
彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。
単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです。
しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局のドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。
ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。
ただそれだけです。
理不尽に産み落とされ、苦しみ喘いで生きていき、恐怖と後悔に苛まれながら果てていくような、
そんな地獄が、現世には顕現している
「もう無理なのに ですか?」
「後でできないと 知ったら余計に 傷付くんじゃ…」
「そうかも しれません」
「でも 亮介君の 生き方は 亮介君に 決めさせて あげたいんです」
友田は、折々に「ブライアン氏」が「真空」、すなわち、独りの状態になる必要があると言及していることに着目しました。対するセラピストは、その度に、中立または否定的に、これに応じています。セラピストは理論上は、非指示的であり続けましたが、一般の西欧のセラピストと同様、孤独な状態もしくは真空の状態の治療効果について非常に熱心だったわけではないようです。
友田の見解では、「人間というものの真の飛躍もしくは成長は、完全に一人ぼっちであるときに生起する。個人の飛躍もしくは成長を確かなものにするのは、何らかの人間関係においてか、もしくは現実の世の中においてである。がしかし、真の成長がおこるのは、現実の人間関係においてでもなければ現実の世の中においてでもない」
友田はさらに、「このことはまた、禅の真理である。(中略)カウンセリングに関して言えば、ロジャーズ派の技術の真義は、それらの技術がクライエントを援けて完全に一人ぼっちである状態になるようにすることである。」と続けます。
―中略―
母性的尽力的配慮は相手を甘やかしたり、子ども扱いするものですし、父性的訓育的配慮は相手を支配したり、奴隷化するものでしかないわけです。第三自我形成期(第三反抗期)を超えてレベルⅢの人格に到達することは、本人にとっても周りの人々にとっても、大変難しい困難なことでもあります。
「人」ができることは、本当に少ない、殆どない
神でも仏でもならざる我々の手や腕は、あまりにも短く細い
半径85cmの範囲ですら「すくえない」のが、我々という生き物の現実なのだ
だから、できる事は祈り、願い、目の前にいる相手を「人」として扱う事だけなのだ
「物」ではない、「人」として
それは非常に難しい
生きていることは素晴らしい、働くことは凄い、人に優しくできるのは偉い、頑張っている人は美しい
それに沿って生きる事が善いとされる
苦しんでいるなら無理をしなくてもいい、休んでも良い、人にはできないこともある、人にはそれぞれの価値観がある
「やさしい」言葉がある
これも、また「正しい」のだろう
けど、何もかもに納得できないまま生きていくこともある
何が正しく、何が善く、何が良いものなのか分からずに、それでも人生が続いてしまうことがある
「裸も」
今思えば、いつかこうなってしまうと、はじめから解っていたのだと思う。
でも、もし駄目になってしまうとしても、その前にゴールに駆け込むことさえ出来れば、何も問題が無いとたかをくくっていたんだ
ゴールはまだ見えない。あの頃想像していたより、僕たちは長生きしすぎてしまったんだろう。
一時停止ボタンなんかどこにもなくて、力一杯全部を出し切った、その瞬間に都合よく存在が消えてなくなったりもしない。疲れ切ってしまって、戦う気力なんか全然なくなって、勇気と書き棒とか自分を守ってくれるものが全部失われてしまって、映画だったら「終」とテロップが出るような場面が過ぎても、生活は続いてしまう。けして止まらない。
そこからが本当に人間が生きるということなのだろうと、最近はそう思ったりもする。
ドラマが終わって、興奮から冷めて、何も心を守ってくれなくなって、これからはもっと大変な毎日が続くだろう。でも、どんなに苦しくても、心が死んだようになって、痛みも喜びも何も感じることが出来なくなってしまって、何をしても無意味に感じられて、もうダメだと思っても、諦めないで、自分に耐えて、もう少しだけ頑張って欲しい。
小さなころに見ていた者は、まだ何も知らなかった時代のまぼろしなんかではなくて、いまでも見ることが出来るずっとそこにある変わらないものだった。辛くなるからって無理に忘れてしまわなくても良かったんだ。僕は気がつくのが遅すぎた。必要なものを、自分で隠していたんだ。でも、こんな僕でもまだすべてを失ったわけではなかった。
時間が過ぎて、僕の事は忘れてしまっても構わないけれど、僕が今ここに書いている言葉のいくつかをときどき思い出してくれるなら、それより嬉しいことはない。
追伸。今までありがとう。
出来る事ならば、誰も憎まないで生きてください。
正しくないことは悪いことだったのか?
それでも正しさを追い求めたり、苦しむことは悪いことだったのか?
諦めたり、やっぱりあきらめきれないことが悪いことだったのか?
善悪の果実を植えておきながらも、そこから取って食べてはならないとも定める、矛盾したことにすら正しさを与える存在であったという
どうか、本当の幸いを与えた給え
1. 悪いことが起きるなら、それは試練
2. 悪いことが起きるなら、それは行いに対する天罰
というのも、悪いことをしていない人が自然災害で死んだら、それはどう説明がつくのかということだ
死を試練として課すこともありえないし、悪いことをしていないから天罰ということもありえない
科学を超えて、人間自身の自由意志によって悪いことが起きるから、神のせいではない、という主張も考えることができる
また世の中に苦しみと自由意志が存在するのは人間の善性に価値があるからだという話もある
あるいは、そもそも神は人智を超えた存在であり、我々からは理解できないという話も
どの話を信じるかは人それぞれかもしれないが、一つだけ重要なプラグマティズムが存在する
自分の行動を見ている存在がいることを信じれば、悪いことをできないというわけだ
ヒソカのようなサイコであれば平気で人の道を踏み外すだろうが、子供の頃から神の存在を教えることは悪いことではないと俺は思う
イヤだった結婚ニュースランキング~!(芸能界・国内のみ、高橋ジョージさんは離婚により殿堂入り)
「イタイ奴をあげつらう腐り芸で今日の地位の礎を築いたアラフォー男が」「ジャリ番で共演してた、出会ったときは中学生の未成年の」「お笑いオタ媚び営業子役上がり女と」結婚するという本当に気持ち悪すぎる結婚。しかし、この気持ち悪さの何パーセントかは本来はサッカー部陽キャである岩井さんを「斜に構えてます大喜利が面白い人」として世に送り出してしまった佐久間さんとゴッドタンの責任もあると思う。
「バツイチで18も下の女と結婚したと思ったら」「離婚して今度は31も下の女と結婚してる」だけでももうGPS埋め込んで一生隔離しといてほしいくらいキモいが、さらに一人目のかないみかから、全員「業界の後輩の女」だという、相手を下にした権威勾配でしか勃起できないハラスメント方面の気持ち悪さも備えている。
「(つつもたせだったなんて話はあるにせよ事実として)17の女子高生酔わせて抱こうとして事務所をクビになった前科者が」「31歳年下の23の、番組共演者の女と結婚してる」という人智を超えた気持ち悪さ、のみならずあちこちオードリーとかで話してた「告白の席に軍団山本の田村淳さんやココリコ遠藤さんたちを揃えてみんなで圧かけて断りにくい空気にしてた」という話のブッチギリのヤバさで堂々一位!山奥豚の乱!
年の差と権威勾配でしかチンチン立たないペドフィリアのじじいに天罰あれ!!!!
そうだ番外編!次点で鬼越トマホーク坂井さん!ああいう、毒親に育てられて認知が歪んだ人は他者との健全なコミュニケーションが築けずに親から受けた虐待の模倣と試し行動に終始して絶対に遅かれ早かれ離婚すると思うんだけど、その時にDVやモラハラが明るみに出たらこのご時世一発退場なんだから結婚なんて最初からしないでほしかったぜ!
新型コロナウイルス感染症に関する忽那賢志医師の記事を読んだ。
私自身は「社会機能を維持するためには高齢者や基礎疾患のある人はコロナで死んでも仕方ない」という考えよりも「周りの誰かを守るために自身の行動は一時的に多少制限されても仕方ない」という立場にありますが、どちらが正しいというものではなく、日本人の国民性、死生観が問われるところかと思います。
忽那氏は「社会機能の維持」と「周りの誰か」を天秤にかけているようだが、それは的を外していると思う。重要なのは人間の自由と権利だ。
クマに襲われて人が死ぬ、活断層が動いて人が死ぬ、台風が直撃して人が死ぬ――これは悲劇だが、人間が直接的に責任を負うわけではない。人間の意志はどこにも介在しておらず、不幸な出来事と呼ぶしかない。そして、感染症で人が死ぬのもこれと同じだ。直接的に人間に責任はない。
一方で、人びとの行動の自由を制限することは、人間が人間の自由や権利を直接的に奪うことだ。クマや活断層や台風による死と違って、こちらは人間の手による悪行であり、人間に責任が発生する。
私たちは、まず人間による悪行を防ぎ、次に自然災害に対処すべきだ。したがって、新型コロナウイルス感染症を理由にした行動制限はすべきではない。なぜならそれは人の手による、人に責任がある人権侵害だからだ。自然災害は人智の及ばぬ領域にあり、起きてしまっても仕方ないが、人間の意志による悪行は人間によって阻止することができる。私たちはまず人の手による人権侵害と立ち向かうべきである。そのうえで自然災害と対峙しよう。行動制限という人権侵害はいらない。コロナ対策は私たち一人ひとりの自由権を脅かさない範囲でのみ行われるべきだ。
ものすごく寝付きが悪いので、いつまでもいろいろな妄想してる。
考え始めるといつまでも眠れないタイプのやつとわりとすぐ寝ちゃうなってタイプのやつがあるらしいことに最近気づいて、すぐに寝たい時は後者の妄想を優先するようにしてる。
人智の及ばぬ不思議な力から、世紀の大発明となるであろう無限エネルギーの詳細をさずかる。
それは地球のどこにでもあるもの(ケイ素だったり、水だったり)から大量の電気を取り出せる技術で、世界中のエネルギー事情を一撃でひっくり返す大発明である。
しかし俺ひとりで抱え込んでもどうにもできない。
しかしうかつに他人に漏らすと当然ながらたいへんな面倒に巻き込まれる。
この技術を、もっとも世のため人のためになる方法ですみやかに世に広めつつ、自分の身が安全なまま巨万の富を得るためにはどうすればいいだろうか。
ある朝アメリカの広大な砂漠の片隅に突如現れた巨大な真っ黒い人型の像。
背丈は周囲の丘よりもずっと高く、高さはドンピシャの1マイル(このキリのいい寸法には何か意味があるのだろうか?)。
その像はただ漆黒なだけでなく、あらゆる波長を呑み込む不思議な物体である。
音波や電波を照射してもまったく反射せず、物理的には「穴」に近い。
それだけの大きさになれば質量も相当なもののはずだが、なぜか周辺の重力傾斜には異状がない。像は本当にそこに存在するのだろうか?
新入社員の一挙手一投足に対する怨嗟がSNSに溢れはじめる今頃になると、毎年思い出す。
いかにもリア充風の見た目で、話題は流行りのJ-POPとワンピースと恋バナ(という名の下ネタ)と留学自慢だけのXくん。
弊社は側から見たらキラキラ系ベンチャーなので、意識高い系の彼は喜び勇んで入社してきたのであった。
しかしXくんは学歴だけはそこそこだけど、仕事が恐ろしく出来ないとんでもないウスノロの無能新卒だった。
例えばXくんに「急ぎなので、○日の朝イチまでに最優先で仕事Aをやって」と指示したら、
「一旦自分なりに考えて先手を打って仕事B・Cをやりました!(ドヤァ」「仕事Aは今から着手で大丈夫かと!」
と○日の前日の夕方に言ってくるような、人智の及ばない常軌を逸した思考回路の持ち主だった。
もちろん肝心の仕事Aは徹夜(するなと言ってるのにする)しても○日の朝イチに当然間に合わないし、優先した仕事B・Cなんて今は必要ない作業。
しかも仕事A・B・Cいずれも提出できるレベルを満たしていない。(100点満点で採点すれば、どれも20点以下とかそれくらい。)
一事が万事この調子。進捗報告も一切しないので、半ば強制的に報連相を促しても「順調です(嘘)」「大方完璧です(大嘘)」といった抽象的な返答で話にならない。
で、蓋を開けてみれば①納期間に合わない、②完成度半分以下、③ギブアップです...後はお願いします!、という鬼コンボを決めてくるので手に負えない。
先の例で言うと仕事B・Cを力ずくで取り上げて、当初の仕事Aだけに専念させてもそれすらも終えられないという有様で周囲の人間はほとほと呆れ返っていた。
自主学習を言い渡すと「はい!」と威勢のいい返事が返ってくるものの、5分後にはクソ小さくしたウィンドウで大学生彼女とのlineとインスタの反復横跳びが始まる。
そんなXくんもいざ会議の場になると、活き活きと「僕が海外で学んできた知識を活かして、この会社のグローバル戦略をサポートしたいです!」だの、
「先輩達の熱い指導のおかげで、自分の日々の成長を実感しています!」だの、何処かから受け売りの大言壮語を壊れたレコードのように毎回並び立てる。
流石に周囲が疲弊しはじめてきたところで、待ってましたと言わんばかりに牙を剥いたのが、弊社随一のパワハラ上司だった。
(ちなみにこのパワハラ上司もたいして仕事はできない。周囲を辞めさせることで物理的消去法にて昇進した生え抜きのウジ虫。)
それからまあ、周囲が引くほどにXくんを詰める詰める。退路を一つずつ潰してって追い込む。崖のギリギリまで追いやって平気でそのまま落とす。
Xくんは「申し訳ございません」という高等語彙を持ち合わせていないので、「ごめんなさい!次は頑張ります!」と毎度、うな垂れていた。
しかし一向にXくんの勤務態度は改善されず、ほとんどウジ虫パワハラ上司のサンドバッグになる日々が続いた。
そんなある日、Xくんが席を立った際につい出来心で、彼のPC画面を覗いてしまった。そこには数個のタブにyahooの検索結果が表示されており、
検索窓には「発達障害 診断」「発達障害 治したい」「発達障害 治療」とかそんな感じの文言が並んでいた。
「いやいや、君が無能なのは障害のせいじゃないと思うよ・・・」と苦笑が漏れた。むしろ彼にとっては障害のせいにできた方がよっぽど楽だったろうな。
話を聞く限り関西にある実家がかなり裕福で、ガキの頃から過保護な母ちゃんと姉ちゃんに面倒な事は全てやって貰って自分は好き放題・遊び放題。
父親の金とコネでそこそこの学校に入って、学生時代はノリと口先だけで上手いこと渡り歩いて来たらしい。現に彼女は途切れないし、ノリが良く友達も多い。
そんな彼も齢23歳にしてメッキが一気に剥がれてしまった。いや、むしろ遅すぎたくらいか。彼自身の為にも中高あたりで一回コテンパンにされるべきだったのだ。
一度も真剣に課題解決をしたことがなかったんだと思う。多分「うーん...」とか言って首を捻れば母ちゃんや姉ちゃん、彼女が全部やってくれてたんだと思う。
「もー!Xちゃんはしょうがないなぁ!」とか言われてね。言動も見た目も年齢の割に妙に幼かったので、二十歳前後までさぞや周囲に可愛がられてただろうが、
流石に仕事においてはそうは問屋が卸さんわけでね。我々同僚にしてみれば身長168cmの3歳児を掴まされたようなものでたまったもんじゃない。
3歳児なら可愛くてチヤホヤもしてやるが、Xくんは23歳児である。アーンや尻拭いまでしてやる義理はこちらにはない。
前述のウジ虫パワハラ上司が立派に昇進できている時点で賢明な読者諸君は既にお分かりかとは思うが、この会社自体が
外はキラキラ・中は肥溜め的な下痢便チャーだったので、事の成り行きを見届けずに俺自身もとっとと辞めてしまった。
っていうか、Xくんレベルの傑物が社長の肝入りで入社できてる時点で終わってるよな。そう、そんな会社に勤めてた俺も同じ穴の狢で終わってるってこと。
その後も退職する人間が続出し、会社運営にもいよいよ支障をきたし始めたというところまでは小耳に挟んだが、以後の流れは知らないしもう興味もない。
さあ、Xくんはどうなったんだろう。今30代前半かな。そのままの会社に生ける粗大ゴミとして鎮座してるのか、ビシバシ転職して方方で疎まれてるのか。
それとも金持ち実家に帰って、家業の役職だけ得た上で仕事せずに親の金で放蕩だろうか。←多分これがカタイと踏んでる。人生って公平じゃないよな、ホント。
「どこ行っても通用しない」ってのは、彼みたいな人物の事を言うのだろうな。天地がひっくり返っても、彼がバリバリ仕事こなしてるイメージが一切浮かばないもん。