はてなキーワード: 明確化とは
なんだか頭が回らなくて、でも作業しなくちゃということで何か打ち込もうとするのだがいろんなことがチラチラしてなにも思いつかず
頭がショートして「あああ」と打っては消すというヤバげなことをしばらく繰り返していた。
あれもやらなきゃこれもやらなきゃあれどーしようと頭の中のメモリを食いつぶしている心配事や不安がいくつかあるような気がするので、
これは大丈夫やぞとか、今別に考えんでもええぞと棚卸して明確化すれば少しマシになるだろうか。
所持金134円
不安になってるけど会社の自販機でお茶(110円)買っても24円残る、お茶が買えるなら今日は会社にいる間はとりあえず問題ない。
帰りにおろせば大丈夫。
晩ごはん
コロッケonごはんの状態で食べきれなくて残ってしまっているものを今夜何とか食べないといけない。
とりあえずラップかけておいてあるけど、卵とじ的な何かを施せば食えるだろうか?
美味しく食べるアイデアを思いついてないのがすげー不安なんだけどとりあえず今は置いておいてもいい気がする。
昨日乾燥を使ったけど掃除し忘れた気がする。家に帰ってから確認すればいいから今は考える必要なし。
作業優先度
一旦区切りがついてるけど少し手直ししたい先週末までの作業Aと今日からやり始める予定の作業B
どっちから手を付けようか迷ってしまっている、Bからやってとりあえずスケジュール遅延を避けるべきか?
でも作業Aが昨日から頭の中にずっとこびりついていて、なかなか離れられない、昨日はそれで寝れなかったし
せっかく頭が整理できてきたのに忘れてしまいそうなのも怖い
なにをどう手直しするつもりだったのかまとめる作業だけやっておいて作業Bに取り掛かって後から作業Aをやるというのがいい塩梅っぽいのだが
でもまとめるのに時間がかかってたら新しく無駄な作業生み出しただけで時間が無駄なのでは感
っていうかこの頭の中の整理に時間をかけなきゃいけない時点で時間の無駄なのではなかろうか
しかし自分はこうしないと半日でも数日でも平気で頭の中がアバババってなったまま何もしないで固まってることがあるのもまた事実でごわすし
って言って何もできてない時間がまた増あああああああ
裁量労働が認められているような専門技能が要求される職種だと、発達障害の傾向をうまくカモフラージュしてパフォーマンスを発揮してる人も散見される。
仕事内容自体が過程よりも結果が重視されるがゆえ、職場の全体的な雰囲気として他人の仕事のやり方に寛容であるという土壌が、そういう人材を醸成してるともいえる。
もっともそういう職種に就いている人は、障害の有無にかかわらず十分条件としてほぼ漏れなく比較的高い知能運用能力を有しており(結果的にほぼ受験難関校出身である)、全労働人口の数パーセントにも至っていないのが現実であろう。
超過勤務の是非にかんするエントリでブコメが地獄のごとく紛糾しているが、知能がよくも悪くもないごくありふれた発達障害の労働者が、マジョリティの労働者として職場に適応することの困難さや絶望を想定したコメントがちらほらあり、ネタ元のどちらかと言えばハイアチーバー・マイノリティ労働者の考え方と噛み合っていない点に苦しさを覚える。
ネタ元のブログ主側も、自身の経歴・立ち位置をいまいち明確化していないため、想定読者をどの辺りに置いているのか不明確な点がそもそも問題であるとも言えるが。
しかしながら、「その逆をやれよ」というのは少し酷だとも思いますし、
私は人間の不完全さを信じているので、このような形で日記を書こうと思います。
もうとっくに始まってる人、決まっちゃった人、最近始めたばかりの人、もっと後からだと思ってた人、色々いると思います。
私はいわゆるクリエイター系の会社で働いている者ですが、自分の経験やこれまで出会ってきた学生さんのことを思い出しながら、
こんな学生、ほしいです
と思われるケースをいくつか紹介したいと思います。
知ってますか?
例えば大手企業に務めるクリエイターが何かを知りたいと思った時、どうやって調べるか。
違うんですよ。
「なんでだろう?」と思いました。
そこですぐに調べる。グーグルさん教えて。
これが出来れば素晴らしい人材です。
的確にほしい情報を掴むのが逆に難しい程です。
そんな「ネットの知識」という名の引き出しを自在に扱えるなら、
あえて言おう、ググレカスと。
何かを取捨選択する時、或いは2つのパーセンテージという天秤を上下させる時、
あなたは双方の目線に立ち、どちらも尊重し、その上で判断を下さねばなりません。
ゲームであれば、多くの(そして旬の)ゲームをプレイしなければ「鋭いユーザ目線」は培われないでしょうし、
多くのゲームを製作しなければ「鋭い開発者目線」は培われないでしょう。
経験が深ければより鋭く、経験が多ければより多角的に物事を捉え、判断する事が出来ます。
あなたがクリエイターを志すのなら、多くの目線を身に着けなさい。
ゲームであれば、体力ゲージのUI一つをとっても多くの目線は磨けます。
・そのゲージは見やすく、直感的に「現在の危なさ」が分かりますか?
どういう作品を作り、世に送り届けたいのか。
どんな部分に関わりたいのか。なぜそれを魅力的だと感じるのか。なぜ憧れるのか。
これから自分がどうなりたいのか、その「道」が明確な人は、どんな面接も突破します。
成長したいと思い、その手段を調べられる人が大成しないわけがないですからね。
「何を作りたいのか」「どうなりたいのか」が明確になる頃には、『道』も作れるようになります。
しかし、仮としてゴールを設定してしまっているうちは、『道』は明確化されません。
「とりあえずアニメ作りたいから、ゴールは監督だな」みたいな感じではダメです。
あなたが真に「やりたい」「なりたい」と思えなければ、『道』は見えてこないからです。
今できる事で、自分が目指すゴールは何かを探して下さい。
文脈からお察しの通り、私はゲーム業界でクリエイターをしている者ですが
しかし、クリエイターだからこそ彼のにじみ出る優しさが理解できますが、
業界経験の浅い人(就活生)たちには酷な書き方かもなあ、とも思いました。
そこで、まだまだ重鎮とはとても呼べない私ですが、このような形で日記を記した次第です。
この日記が一人でも多くの学生のケツに火を付ける事になれば幸いです。
あと、関係ないですがウメちゃんの公演がビビるぐらいタメになったので、是非観てください。
当たり前を当たり前に出来る人って、少ないんですよ。当たり前ですけど
フリーランスPGは値下げ要求を受け入れないよ。面倒だからやめようぜ。
フリーは安いよ。ただし、高給取りだよ。
フリーランスの出す見積書は、大変安く見える(らしい)。
世間相場の2,3割は安く上がるかも。主観だけど。
なぜ?
1)基本ウデが良い=仕事が早い
2)バックオフィスコスト皆無
ただし。
安価な労働力であるか、というと、決してそんなことは無い。
1)のとおり、並みの人より手早く終わるので、時間単価換算だと遥かに高価。
時折その辺を誤解して、フリーだから安く買い叩けるじゃーん的に値下げ要求が来る。
しかし、フリーがフリーであることを理由に値下げに応じることは、無い。
そんなとき、フリーは、どう応じるか。
1)単価を下げる理由を明確化し、対処を施す。あるいは対処を促す。
2)断る。
1)が選択されるのは、比較的関係が良い相手の場合。
予算が足りないなら削れる部分を探すし、エンドユーザーが出し渋っている場合は吹っ掛け方を教示する。
一見さんや渋ちん相手だと2)が選択される。
元エントリでは案の定田舎disになっとりますが、消えたとされる分は出てきてる団員の腹の中に収まった後(消化後)だろうな~とw
ブコメ http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20161001165535 に答えて、
id:comzoo “ポンプやらホースやらの機材整備の費用は自治会持ち” 消火栓とホース格納箱についてはそうですけど、ウチの市はポンプ車両・可搬とかは自治体(市)の備品で整備費ガソリン代も市が負担してくれていますね。
こっちだと、調達(入札)、調達時の補助金、車検・自動車保険、機材運用費(年間定額ガソリン代とかオイル代用)が自治体担当。
調達時の機材選定、機材費、制服費、故障対応とかの保守費用は自治会(集落)持ち。
入ってきた機材は自治会の物品で、それを消防団の人間が使うという建前な枠組み。
自治会もお金無いので、修理できんとか機材更新できんとかで、40年選手な機材が動くか毎回ヒヤヒヤというのもあるある。
id:hyakuni 操法大会についてどう思ってるかが気になる。参加してる人のブログを読む機会があったが、これがかなりの負担らしいので。
id:hilda_i うちの地域では人数合わせに役場職員を入れすぎなのが問題になってるわ。災害時に役場か消防団が機能しなくなる。自営業の衰退でサラリーマンの団員が多いから、昼間出動が難しいし長時間労働+訓練で皆疲弊してる。
id:kvx id:hyakuni 個人的に大会は消防団という組織を維持するために必要なのかなと思ってます。大会自体はおまけで、練習時に連絡回したり、団員同士のコミュニケーション増やして生きた組織にするために重要なのかなと。
操法大会の練習は毎年5月6月頃に3週間。20時から2時間。練習休みは週1+お天気具合次第。
「みんな勤め人ばかりなんで、それぞれできる範囲でベストめざしましょう」ぐらいの意気込な分団なの
で「仕事なんぞ辞めて練習に専念しろ」って脳筋なことは無いのが救い。
構成員の大半は一般サラリーマンなので、連日参加になる選手は勤め先が近場か消防団の活動に理解ある企業に
行ってる人に限られるので、その条件に合う特定の団員に負担が集中してしまう問題もありますし、条件が厳しい
遠方だったり夜勤あったり会社が無理解だったりする人に選手が回ったときは、練習と仕事との板挟みで、
当人も同部の団員も体力的にも精神的にもかなり疲弊することになります。
さらに「仕事なんぞ辞めて練習に専念しろ」って地域だと、大会の半年前から走り込みとか筋トレとかの基礎トレ
始めてたり、ロープワークの練習してたり、ミスったらOBにどやされたり死ぬまでそれをネタにされるとかで相当
大変みたいですね(人口減少がキツイ地域ほどこの傾向が……)。
操法大会そのものは、ポンプ運用法の確認になるのでメリットが無いでは無いですが、採点方法が不透明だったり
するので、少なくともそれぞれの採点基準の明確化とその基準の存在意義の説明は欲しいかと。
(やみくもに型が決まってるのでその型に合うようにやれ、だと意義が薄い。 Why -> How の解説が欲しい)
大会の成果が実際の現場で役にたつか、という面ではポンプ操作とホース連結についてはやってないよりマシ、
でしょう。
ただ、現場に応じて臨機応変に対応できるか、というのは現場に出た当人それぞれの素養に依存する要素が大きい
かと。
大会対応以外では、大体月一どこかの休日で集まって、伝達や機材チェックや掃除やらの1時間程度動いて、缶コー
ヒー飲んで解散の流れなので、地域の同世代の顔合わせって感じで悪い話じゃないですね。
災害出動の際は、昼間に出る分には遠方サラリーマンとかは呼び出しせずに近場勤務で集まれる人だけ集まる体制
なので、逆に出られなかった人が心苦しく感じるようです。
夜間だと全員出てこいになるんですが、当然翌日の仕事には響きます。
夜間活動後なんでしゃーないんですが、それで上司やらからグチグチ言われたりするとアレなので、行政が消防団
という仕組みを維持したいのであれば、企業側の理解を得られるような政治的広報や施策は欲しいところですね。
id:kunitaka 期末毎に部の総会で会計報告されている。知らないのは総会にすら参加してない幽霊団員。活動してない幽霊団員が手当を貰うのは詐欺に等しい。ただ頭数に応じて手当が支給されるから、対応が難しいんだよな。
入団をお願いする際に、頭数のために入って。と言って入って貰ってる場合もあるでしょうから、対応が難しい
ところで。
今回の件もこのパターンかなぁと……。
会計報告はやってるところもあれば、やってないところも。。でしょうね。
id:Expway 消防団自体は今までと同様では立ち行かない状況になりつつあるのは間違いないので(世情的にも人情的にも)、どういう切っ掛けでも議論が深まるのは良い事だと思う。
地方部の年齢構成見ても人口動態みても、近く崩壊するのは間違いないでしょうなぁ。
そもそも、基本になる20代層が払拭していて、新規加入者が見込めない状況。
定数の都合もあるから引退もできず、所属20年(あらふぃふ)のおっさんとか当たり前になりつつ。。
特に厳しい地域だと、新入団員については自治会の責任で若いの入れさせますってところも出てきてるけど、たぶ
ん逆効果でその世代が村の外に出て行って終わりだろうなーとか思ってます。
id:guriuripop なんか消防団と聞くと、頭に浮かぶのは「コンパニオン」の単語。笑
好きな人は好きですねぇ。それ(酒&おねーちゃん)があるから入ってるんや言う人もいるし。
おねーちゃん苦手な人にとっては苦行に追い銭だったりするので、辛いところではある。
そんなのに用は無いって高尚な人ばかりならいいんですけど、企業とかと違って、各層関係なく地域単位で集まるので
だからといって、ここらの懇親会的部分を絞りきると士気というかモチベーションが瓦解しそうという危険性も感じら
れるので、懇親会とか禁止とすると組織崩壊を早めるだけでしょうね。
現状でも制服での店舗出入りは禁止とされてますからねぇ。。休憩時にコンビニ行ってコーヒー買ってくるってのもできないので。
今後の選択肢としては
といったところでしょうか。
http://kenokabe-techwriting.blogspot.jp/2016/05/timeengine.html
nonstarterの言うことがハッタリじゃなければ、さっさとToDoListの課題をOcamlの関数型の状態渡しをもって実装してみせればいいだけだが、言い訳始めてるからな。
nonstarterはこの発言の時点では、Ocamlの関数型の状態渡しに限界があることはお首にもだしていない。読んだものはそうだったのか、何でもできると思って不思議ではないだろう。
しかしなぜか、Haskellが急に登場する。別の言語の助けを求め始めた最初がここ。
そのうち、OCamlの実際的な環境じゃスケールしないという指摘がはいる。
nonstarterは、複雑性への限界を認めるが、同時に、FRPの足をひっぱることも忘れ得なかった。つまり「負けてない!」ってことなんだろw
しばらく有耶無耶にされていたが、お絵かきアプリもまだ書けないといか書かれているのを目撃した岡部氏が、すでに実装していた自作FRPライブラリでお絵かきアプリを示して、
ついでに、ハードルを引き上げた。
nonstarterの言うとおり、
岡部氏が示したFRPコードと同等のかんたんさで、OCamlでも出せるはずだ。
もちろん、他のHaskellやFRPは使うな、という至極当然の縛りつき。
http://anond.hatelabo.jp/20160520153948
そもそもの最初がesumiiやlambadaなどのOCamlユーザへむけての課題で、
nonstarterが、
と急に何故かいきなりHaskellを持ち出し、Haskellのコードを引っ張り出した。
いろいろとっちらかしてんじゃねーよ、ってことだろ。
OCamlではライブラリも足りず机上の空論だったという、ひとつの区切りはついた。
とこの点について「一般化」を試みた、誤魔化そうとしたのは、nonstarterだ。
http://kenokabe-techwriting.blogspot.jp/2016/05/timeengine.html
nonstarterの言うことがハッタリじゃなければ、さっさとToDoListの課題をOcamlの関数型の状態渡しをもって実装してみせればいいだけだが、言い訳始めてるからな。
nonstarterはこの発言の時点では、Ocamlの関数型の状態渡しに限界があることはお首にもだしていない。読んだものはそうだったのか、何でもできると思って不思議ではないだろう。
しかしなぜか、Haskellが急に登場する。別の言語の助けを求め始めた最初がここ。
そのうち、OCamlの実際的な環境じゃスケールしないという指摘がはいる。
nonstarterは、複雑性への限界を認めるが、同時に、FRPの足をひっぱることも忘れ得なかった。つまり「負けてない!」ってことなんだろw
しばらく有耶無耶にされていたが、お絵かきアプリもまだ書けないといか書かれているのを目撃した岡部氏が、すでに実装していた自作FRPライブラリでお絵かきアプリを示して、
ついでに、ハードルを引き上げた。
nonstarterの言うとおり、
岡部氏が示したFRPコードと同等のかんたんさで、OCamlでも出せるはずだ。
もちろん、他のHaskellやFRPは使うな、という至極当然の縛りつき。
http://anond.hatelabo.jp/20160520153948
そもそもの最初がesumiiやlambadaなどのOCamlユーザへむけての課題で、
nonstarterが、
と急に何故かいきなりHaskellを持ち出し、Haskellのコードを引っ張り出した。
いろいろとっちらかしてんじゃねーよ、ってことだろ。
OCamlではライブラリも足りず机上の空論だったという、ひとつの区切りはついた。
とこの点について「一般化」を試みた、誤魔化そうとしたのは、nonstarterだ。
http://anond.hatelabo.jp/20160520153948
nonstarterのいうことが嘘ハッタリじゃないのならば、さっさとOCamlの関数型状態渡しでToDoリストアプリ書いて見せればいいだけ。
出来ない時点で終わってる。
nonstarterはこの発言の時点では、Ocamlの関数型の状態渡しに限界があることはお首にもだしていない。読んだものはそうだったのか、何でもできると思って不思議ではないだろう。
しかしなぜか、Haskellが急に登場する。別の言語の助けを求め始めた最初がここ。
そのうち、OCamlの実際的な環境じゃスケールしないという指摘がはいる。
nonstarterは、複雑性への限界を認めるが、同時に、FRPの足をひっぱることも忘れ得なかった。つまり「負けてない!」ってことなんだろw
しばらく有耶無耶にされていたが、お絵かきアプリもまだ書けないといか書かれているのを目撃した岡部氏が、すでに実装していた自作FRPライブラリでお絵かきアプリを示して、
ついでに、ハードルを引き上げた。
nonstarterの言うとおり、
岡部氏が示したFRPコードと同等のかんたんさで、OCamlでも出せるはずだ。
もちろん、他のHaskellやFRPは使うな、という至極当然の縛りつき。
そもそもの最初がesumiiやlambadaなどのOCamlユーザへむけての課題で、
nonstarterが、
と急に何故かいきなりHaskellを持ち出し、Haskellのコードを引っ張り出した。
いろいろとっちらかしてんじゃねーよ、ってことだろ。
OCamlではライブラリも足りず机上の空論だったという、ひとつの区切りはついた。
とこの点について「一般化」を試みた、誤魔化そうとしたのは、nonstarterだ。
すごく良いこと書いてあったのですが参考にしようとしたらサイトが消えいたので、魚拓から転載。
働・学・遊・美をミックスしましょう
計画は役に立たないが、計画することは不可欠だ。
by ドワイト・D・アイゼンハワー(第34代アメリカ大統領)
人を最もダメにするのは「全体像」を見せずに「部分的なこと」をずっとさせること。
これ続けてると何も考える力のない指示待ち人間ができあがる。こわいこわい。
by 外尾悦郎(スペイン、バルセロナのサグラダ・ファミリア主任彫刻家)
腹が立ったら自分にあたれ、悔しかったら自分を磨け。
神は細部に宿る。
by ミース・ファン・デル・ローエ (建築家)
放っておくと会議の時間の九十五%は「コメントの交換」に使われている。
by 「ケッヘル」(中山可穂)
重要なことは、正しいか、間違いかではない。うまくいくか、いかないかです。
マネジメントとは、そのようなものです。
by ピーター・F・ドラッカー(マネジメントの神様)
やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず
あなたに幸運の女神が微笑んだのであれば、プロジェクトは無事に完了し、幸せになれます。とてもとても幸せになれます。多くの人々は、自分では何の失敗もしていないのに、ここまで到達することができないのです。豪勢な夜を計画してください。どんちゃん騒ぎをして散財してください。そして、その時のことをいつまでも語り継げるようにしてください。
by 「アート・オブ・プロジェクトマネジメント」
この50人時間の差が大規模で長期間のプロジェクトの場合に大差を生む。
20人のチームの場合。
この4人分の差が大規模で長期間のプロジェクトの場合に大差を生む。
ミーティングと同じようにコストを意識する。読む人の時間をムダに奪ってはいけない。
反省会は、社内グループウェアのメッセージ機能を使って、こんな感じでやってます。
ファイアープロジェクトに助っ人参戦した場合にどうするか。原因のほとんどはマネジメントもしくはコミュニケーション。
20人程度のチームならこれらを1~2日で終わらせて雰囲気を一新する。あとはふつーのマネジメントへ。
誤訳御免。
とりあえず力尽きたので、公開されたメールのやりとり
とか、NPMの説明
http://blog.npmjs.org/post/141577284765/kik-left-pad-and-npm
このドキュメントでは他のnpmを公開している人とのモジュール名の紛争について取るべきステップを記述している。
このドキュメントは"npm行動規範(Code of Conduct)"で説明されている容認可能な行為の明確化であり、このドキュメントに記載されている内容はnpm行動規範のいかなる側面に対しても矛盾する解釈を与えるものではない。
パッケージ名を不法占拠してはならない。コードを公開するか、さもなくば去るように。
あるユーザがモジュールを公開していて、その後、他のユーザがその名前を使いたいと思うケースがしばしばある。ここではよくある例を記述する(個々の例は実際の出来事に基づいている)。
それぞれの状況下でのアリスからのクレームは議論されるであろう。しかしそれらのケースでアリスが取るべき適切な段取りは共通している。
これまでのほとんど全てのケースでは、巻き込まれた当事者は重大な介入を要さずに妥当な解決へと到達することができた。多くの人々は本当に合理的になることを望み、おそらく彼らがあなたの邪魔をしていることに気付いてすらいない。
モジュールのエコシステムはそれらが可能な限り自律的である限り最も活気づいて力強くなる。もし管理者がある日あなたが取り組んでいたものを削除したら、それは理由のいかんにかかわらず多くの人を怒り心頭にさせつつあるのだ。人々が自分らの問題を相手との敬意を持った会話により解決すれば、その交流にたいして皆が良い気持ちで終わりを迎えるチャンスを得るだろう。
幾つかの事柄は許されておらず、npmの管理者に注意喚起された時点で議論なく削除されるだろう。例えば:
もしそうした悪い振る舞いを見たらすぐにabuse@npmjs.comに連絡ください。あなた自身でそうした悪い振る舞いを解決しようとする必要はない。われわれはここにいます。
これは生きた文書であり時間とともに更新される。変更点を確認したければ、gitの履歴(https://github.com/npm/policies/commits/master/disputes.md)を参照
Copyright (C) npm, Inc., All rights reserved
本ドキュメントは"Creative Commons Attribution-ShareAlike License."(https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/)の元で再利用可能。
一時期、ラブライバー界隈で話題になった劇場版ラブライブ!の批判記事があった。
それは、おりあそ氏による
「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html
である。
自分はTVアニメ第2期以来ラブライブ!という作品にうんざりしており、ほぼ既に内容に希望を抱くことを諦めた立場だった。
そのため、劇場版の内容を目の当たりにしても、2期の調子から続きを作ったらこんなものかという程度に軽くとらえていた。
批判記事についても早い段階で拝読の機会を得ており、概ね同意はしたのだが、批判へ寄せられた賛否両論の意見の軽さと2期以来の作品の現状の救いようのなさに呆れていたこともあり、あまり触れないようにしていた。しかし、ラブライブ!(以下ラブライブと表記)という作品が何と言おうとフィナーレを迎えようとしている今になって、少しは気分が落ち着いたこともあって改めて自分なりに読み解いたものを記しておこうかと思う。
彼の批判文の序盤はTV第1期から劇場版の終わりに至るまでの説明なので割愛。その直後の文章から批判と問題提起が始まる。
しかし、アニメ『ラブライブ!』のラストを飾るイベントが、このようなものであっていいはずがないのである。
問題点を明確化するために、3年前に現実世界で開催されたあるライブイベントと対比してみたい。それは「ゆび祭り ~アイドル臨時総会~」といって、普段はライバル同士である人気のアイドル10組が一堂に会し、次々にライブを行うというイベントであった。このイベントが話題となった最大の理由は、指原莉乃という当時AKB48で人気を急上昇させていたメンバーが自らプロデュースをしたことにある。つまり「ゆび祭り」は、μ'sが企画してライバルであるスクールアイドルを集めた、劇場版のクライマックスを飾ったあのお祭りと非常によく似たイベントだったと言えるだろう。
実は「ゆび祭り」は感動的なイベントであった。それは何故かというと、指原莉乃というアイドルの人生物語を象徴するイベントだったからである。もともと指原は故郷の大分県において、熱狂的なアイドルファンとして育った。モー娘の全盛期に小学生時代を過ごし、様々なグループのライブに通い詰める重度のアイドルオタクになったのだ。そしてアイドルへの憧れが高じて上京、自分自身がAKBのメンバーとなり、ブレイクを果たしてこのようなイベントを企画できるほどの地位に登りつめた。つまり「ゆび祭り」は、指原のアイドル愛が余すところなく表現されたイベントであり、アイドルオタクの成り上がりストーリーを体現したからこそ、感動的なイベントだったのである。
この部分、ある意味では三次元アイドルへのアンチテーゼ的な役割が求められる二次元のアイドルアニメというジャンルの批評に実在アイドルのAKBを持ち出したきたことで一瞬、辟易した読者も多いことだろう。自分もその一人であったが、よく読んで考えれば、その意図も分かるものになっている。
実際、AKB指原がAKBとしてデビューする以前からアイドルオタクだったことは有名な話らしくいろいろとエピソードや写真が残っているようである。
そんなアイドルオタクが、一応トップアイドルとなり、事務所などの枠を超えて自分がリスペクトしてきたアイドルを集めて「ゆび祭り」という大きなお祭りを主催したことは確かに快挙である。
そして、この「ゆび祭り」というイベントのチケット代は指原の愛称「さしこ」にちなんで345円という特価であったらしい。自分の好きを極めて走ってきた上で積み重ねてきた成果を現在のアイドル達やアイドルオタクに還元するという意味で確かに素晴らしいイベントだったといえよう。
それに対して、劇場版ラブライブにおけるお祭りが比較されながら述べられているのが以下である。
では、アニメ『ラブライブ!』のストーリーを締めくくったあのお祭りは、どのような物語性を内包していたのだろうか。筆者の考えでは、残念ながら「どのような物語性もない」のである。あのお祭りでは、「スクールアイドル」がキーワードになっていた。しかし今までの『ラブライブ!』で、「スクールアイドルはいかにあるべきか」とか「スクールアイドルの未来」とかいったことが主題になったことは一度もない。穂乃果たちは、今まで他の(A-RISE以外の)スクールアイドルのことなんかちっとも考えてこなかったのである。最後の最後になっていきなり《スクールアイドルという問題》を提示されても、あまりにも唐突だと言わざるをえない。
指原には長年アイドルオタクとしてアイドルに憧れ続けてきた上でトップアイドルになり、先述のお祭りを主催したというプロセスがあるのだが、ここで述べられている通り、μ'sもとい穂乃果にはそんなプロセスはない。
廃校を阻止しようという目標が最初に生まれたが、スクールアイドルという手段は後付けであり、(スクール)アイドル活動は積み重ねてきて目的となるような価値としては弱いものだったといわざるをえない。TVアニメ第1期途中で廃校問題が有耶無耶になり、自分達はアイドル活動をこの9人でしたいんだという方向に物語は動いたのだが、それも行き当たりばったりで賛否両論であった。作中でもまだ比較的まともだった頃の矢澤にこに「穂乃果の(アイドルへの)好きはいい加減」と批判されている。
また、自分達のスクールアイドル活動には目を向けても、他のスクールアイドルに対して何らかの注目を向けたのは穂乃果にアイドル活動をさせるきっかけを作ったA-RISEくらいであり、それも主に廃校阻止や後のラブライブ出場&優勝という目標を達成するための当面の壁やライバルとして注目された程度に留まっているため、おりあそ氏の批判にある通り、指原のような他のアイドルへの想いが高じて開催につながったイベントと比較すると、劇場版で急に穂乃果やμ'sの「スクールアイドル」に対する想いが打ち出され、スクールアイドルを集めてイベントをやろうと言い出すのは唐突であり、付け焼き刃だとか行き当たりばったりといった表現で揶揄されても仕方がないものといえる。
一方で、そのイベントや発想自体は悪いものではない。スクールアイドル全員で楽しい大きなお祭りをしましょうというのはとても魅力的で素晴らしいものである。しかし、作品上仕方ない部分もあるとはいえ、「スクールアイドル」全体のお祭りへの想いを一旦は語り、イベントを開催してみたらμ'sしか目立っておらず、他はバックダンサーに近い扱いというのは、劇場版という大きなお祭りという面を考えてもどうにかならなかったのかとか、他のアイドルやファンへの還元の面でも現実のアイドルに大きく負けているのはどうなのだろうとか考えてしまう。
したがって、あのスクールアイドルのお祭りは作中における開催への過程や内容の意味だけでなく、ラブライブの劇場版というお祭りの観点でも説得力と盛り上がりに欠ける粗末なものだったといえるのではないだろうか。
今回の劇場版ラブライブ!でとにかく目につくのが、このように行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーである。映画の前半では、脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行くことになるが、そこで何かを得ることはなく、後半ではまったく無関係なストーリーが始まってしまう。後半のストーリーから逆算すれば、前半では「スクールアイドル」の問題が提示されていたり、μ's活動終了への伏線が描かれていたりしなければならないはずだが、そういったことは全然なく、ライブ場所を求めて街を探検したりアメリカ人と交流したりするだけである。また、ニューヨークで迷子になった穂乃果は、彷徨っているうちに一人の女性シンガーと出会い、ホテルまで連れ帰ってもらう。この女性シンガーにはいろいろと不思議な点があり、穂乃果以外のμ'sメンバーには見えないなどの設定があるため、「未来の穂乃果」だというのがネット上では最も有力な説である。この女性シンガーは帰国後にも一度穂乃果の前に現れるのだが、それっきりストーリーからは退場し、穂乃果に思い出されることもなく、謎も一切明らかにならない。映画のキーパーソンであるかのように登場しておきながら本筋にはちっとも絡まないというこのキャラクターは、何のために出てきたのか本当に謎なのである。他にも、映画冒頭で描かれる、穂乃果が水たまりを飛び越えるという過去エピソードがこの映画のストーリーに全然そぐわないなど、とにかくこの映画の脚本はいたるところが継ぎ接ぎだらけの雑なものであり、一貫したテーマがないので物語性を感じられない。「物語性がない」と言うと、『けいおん!』なんかの例を持ち出してくる人がいるかもしれないので予め書いておくと、『けいおん!』にはストーリーはない(大したことは起きない)が、物語性はある(一貫した主題がある)。それに対して劇場版『ラブライブ!』には、ストーリーはあるが物語性がないのである。
と、ここも個人的に意見の相違はないのではあるが、突っ込みたい点が何点かある。
そもそも行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーというのは劇場版に限らず、第1期から指摘できる問題点であり、ラブライブというよりも花田十輝氏の脚本によく見られる傾向ともいえる部分である。その点を、恐らくブログ著者は第1期を評価したい立場であるために触れないでいるのだろうが、後々2期や劇場版でそれが起因して物語性やキャラクター性の破滅につながっていることは無視できない。
たとえば2期においても用いてプロジェクト開始初期から掲げていた「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズ。それが本来はコンテンツ全てを統括する一つの物語性やコンセプトになるべきだったし、アニメ化以前は細かなキャラクター設定のブレはあっても、その点においてのブレはなかった。個性や事情を違えるキャラクターが集まった上で廃校阻止やアイドルになるといった目標を叶えること、また結果的に初期からそのコンセプトやキャラクターを支持してきたファンの思いを叶えるという意味にもつながってくることになる。
しかし、アニメにおいてその作中の物語性は破棄された。廃校阻止という目標がプロジェクトを束ねる大きなコンセプトの一つだったが、それは第1期で大会に出たわけでもなく他のアイドルと大々的に競ったわけでもなく達成される。その後μ'sは文化祭における穂乃果の件もあり活動休止となることもあり、せっかく大きな目標を達成できたのにカタルシスが弱い。
アニメラブライブに肯定的なファンの間では「アイドル活動で廃校阻止というコンセプト自体に無理があるから、1期でそれを消化したのは悪くない」という見方があるが、無理があることを簡単にあっさり達成・消化させてしまったたものをよしとする神経や論理にこそ無理があるように思える。
また、裏を返すと、大会に出ずとも廃校阻止につながるくらいにスクールアイドル活動の影響力や効果が大きいことを描写してしまったともいえる。さらに2期では、次に開催された大会に出場し、プロのアイドルを上回るとも言われていたA-RISEをも倒し優勝を達成してしまったのだから、その後のμ'sの人気や知名度は絶大なものとなっていただろう。少なくとも地元東京や関東地区では。
脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行きライブを行い、間違いなく関東の空港である日本の空港に帰ってきたところでファンに出待ちされて知名度を得た自分達に驚くというシーンについてであるが、既に廃校阻止や大会優勝の時点で雑に考えてもかなりの人気と知名度を得ていたはずである。ましてや地元であり、さらに出迎えたファンは同年代であったから今さら驚くことではないはずだが、それに初めての体験であるように驚く描写を入れてしまったことで、劇場版やアニメラブライブという作品自体がどの場面においても何かを得ることはなく、いつもまったく無関係なストーリーが乱雑に入れられるだけの作品だと物語っているかのようである。
続いて、ブログではそのような内容や批判を受け入れるファンの態度についての批判が述べられている。
さて、劇場版『ラブライブ!』は以上のように脚本に重大な瑕疵を抱えているにも関わらず、この劇場版が良かったという人々の多くがこのことを大した問題ではなかったと考えているようだ。ここがポイントである。もし以上で挙げたようなことがそもそも物語上の瑕疵ではないと言うのなら、それは根本的なセンスの違いだからどうしようもない。しかしそうではなく、瑕疵だとは認めつつもそのことによってこの映画の価値が損なわれないと考える人々が多くいるという、その点にこそ本質的な問題がある。なぜなら、これほど重大な物語的欠陥を目にしておきながらそれを大した問題ではないと言うのは、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という物語性軽視の態度に他ならないと考えられるからである。
『ラブライブ!』はTVアニメ第1期以来2年半のあいだ爆発的に人気を拡大し、日本の二次元コンテンツを代表する作品の一つにまでなったが、残念ながらそれと同時に、物語性をひどく軽視するファンを増やしてしまったように思う。そういった人々は、μ'sを一方的かつ即物的に消費するだけであり、μ'sのメンバーに共感したり、あるいは彼女らから何かを学んだりしようとするチャネルを持たない。そしてそういった人々の消費態度は、実際に『ラブライブ!』の作品そのものに反映されるようになってしまった。その結果がこの劇場版における脚本の崩壊だと考えられるのである。
そもそも、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という擁護を持ち出すのも苦しい点がある。
何故かというと、このアニメラブライブの脚本家である花田十輝氏や監督の京極尚彦氏は自分たちが志向する物語性を作るために、キャラクター性やプロジェクトの大きなコンセプト(一貫した主題)を変更して犠牲にした経緯があるためである。(電撃ラブライブ!3学期http://www.amazon.co.jp/dp/B00BW8MRVY等参照)
いくら結果売上が出たとか人気が出たとはいっても、道理に背く大きな決断を下したからには内容に責任を負うべきである。自らが企画し原案から打ち立てた作品なら構わないだろうが、ラブライブは三社合同のプロジェクトであり、原案は公野櫻子氏であるため、彼らは作品の物語性の中枢部分に適当にメスを入れられる資格はない。つまり覚悟を持ってメスを入れてしまったのだから、それ相応の義務や責任を負わなければ話にならない。
本来あったキャラクター性や物語性を軽視した上で、打ち立てたストーリーに不備が生じ、それを擁護するために切り捨てたものを持ち出すというのは都合が良すぎるし、つまりストーリーコンセプトの変更やキャラクター性の変更の失敗を証明しているようなものである。
それはジャンルが明確化したんじゃなくて、取り扱うジャンルが増えたってことでしょ。
ちょっと前なんて「ラノベとミステリは合わない」「ファンタジーなんてもう売れない」と言われていたくらいだよ。
いまはどっちも大人気だけどね。
あのころはオーフェン、スレイヤーズみたいなファンタジーが主流だったかなぁ。
能力バトルもラブコメたくさんあったけど、割と自由奔放だったと思う。
それらが土台となってある程度の読者に受けるポイント、つまりテンプレが構築されてきた。
いい意味で何でもありだった。
「学園異能」「異世界転生」「謎部活」「俺TUEEE」などなど。
でも別にこれは悪いことではない。
読者はある程度どういう物語なのか、どれが売りなのかを知ることができる。
でも「テンプレばっかり」ってのは違うと思う。
問題はパッケージングで、表紙や挿絵、あらすじ、あるいはエロハプニングといった細かな展開が
テンプレになぞったものばかりになってイメージが似通ってしまうこと。
読んでみると違うんだけど、一見すると同じに見える。
先日も、当時はブギポの表紙が斬新だったって話題をTwitterで見た。
絵師さんが悪いわけではない。
問題は全体的なイメージが平均化されてきてしまってるということ。
この組み合わせで仕事として本をまるごと一冊書いている人間としての感想。
iPad mini 4 16GB + Magic Keyboardの組み合わせでMacbook Air最安モデルの約半額で、macの快適なキーボードを使って高速で仕事ができ、電源がない場所でも一日中問題ない。
iPadは消費電力がPCより少ないので、スマホ用のモバイルバッテリを持ち歩けば、24時間電源なしでいける。
実感として、iOSが仕事に使えないというのは、すでに過去の話になっている。(追記:ものを書くという仕事に関して使える/使えないを議論している旨をタイトルで表明している。他の業種については論じていない)
勤務先の事情によりつねにフルWindowsを使わなければならないという制限が外せる人は、重いノートpcとACアダプタをバタバタ持ち歩いたり、最近たくさん出始めている格安windows10タブレットにキーボードカバーやらをつけて、安っぽいキーボードの打ちにくさを我慢しながら使う必要はもはやないと思う。
現在の組み合わせにたどり着く前に、Macbook Air、Windowsノート、Windowsタブレット、Androidタブレット、Chromebook、Pomera DM100を買って使ってみたが、常に以下のいずれかの点で問題があった。
・携帯性と重さ
・キーボードの快適さ
・オフライン環境での使用(Chromebookは速くて快適だが、オフライン環境で起動するとログインすらできない)
・原稿へのスタイル適用(章タイトル・見出しのフォント変更、ルビ振り、レイアウト指定等)
特にキーボードの選択は、一日8時間以上タイピングを続ける人間にとっては致命的であった。現在出回っているMicrosoftのモバイルキーボードはAmazon等での評価が高かったので全種類試してみたが、打鍵の快適さはMagic Keyboardに比べると、どれも3万円前後の格安Windowsタブレットについてくるキーボードと変わりない。
携帯性と重さという点では、最初のうちはMacbook Airに満足していたが、やはりこの機械の独特のゴツゴツ感と肌触りの冷たさには最後まで抵抗があった。また、あのアダプタをつねに持ち歩くと、けっこうかさばるのである(あのアダプタの華奢な感じが携帯時に与える不安は、Macbook Airをずっと持ち歩いている人ならわかってくれるだろう)。
iPad miniの分解できるアダプタ&ケーブルは、カバンに入れるときに大きな安心感を与える。また、旅行中以外はそれすら持ち歩く必要がないことにあとで気づいた。
iPad mini 4 16GB + Magic Keyboardで約530g、好みのケースを付けて600 - 650g 、
テキスト入力メインでの動作時間が体感で約8〜9時間といったところだ。
一方、最近話題になったキングジムの小さなpcポータブック XMC10は、本体重量が約830g、
動作時間は約5時間。本日付での価格.comの最安値は約9万円。
Surfaceをはじめとして、携帯性を重視したWindows機を最近各社がこぞって出しているが、サクサク動くスペックにして15 - 20万の価格帯を考えるとどれもライトユーザーにとっては高嶺の花だという感じがする。フルwindowsで1kg以下というのは、現時点でそんなに高い付加価値なのだろうか。
追記:
そういう評判をネットで読んでChromebookを購入して使ってましたが、オフライン環境で電源OFFから立ち上げるとゲストユーザーとしてしか使えず、いろいろ制限が多すぎて面倒なので結局売ってしまいました。(再追記:映像ありがとうございます。去年秋頃までAsus C200MAを使っていて、何回やってもオフライン環境では自分のアカウントでログインできなかったんですが、その後アップデートで改善されたという理解でよいのでしょうか。ちなみに、このエントリの著者です→http://anond.hatelabo.jp/20150927211800)
Google日本語入力はとてもよいと思いますが、問題は別の言語(欧文)との入力を組み合わせる場合です。Android端末と共通の問題ですが、特定言語(欧文)に特有でしかも頻繁に使う引用記号などがChromebookでは瞬時に打てません。OS全体の言語設定を変えても無理でした。多言語処理が一番まともにできるのがmacとiOSという消極的な理由で現在の選択肢に落ち着いています。
iPad miniのバッテリ残量:38%
自分の場合は、特定の仕事に必要な条件を列挙していって、あとのことには目をつぶったら消去法でこの組み合わせになった。最初はiPad miniなんて割高な情弱向けの端末だと思って、見向きもしなかったが、いろいろ試してみて結局現時点でこれが残った感じか。
出先であれもこれもやる必要がありそうだと考えて、「全部入り」を選択するとフルwindowsのノートになるんじゃないか。
その場合でも、価格/重量/バッテリー持続時間/キーボードやタッチバッドの使いやすさ等で、トレードオフがある。
あらゆるシーンでフルwindowsが必要だという考え方は、仕事に必要なものの明確化ができていないか、心配事が多くて、バッグにいろいろ詰め込みすぎて重くなってしまう事態に似ていると思う。
文章を書く時は横置き。iPad miniだと、縦置きでPagesを使うと字が小さすぎる。Wordのドラフト表示みたいなのができて、プレーンテキストだけじゃなくて、傍線を引いたりスタイル設定できるアプリがあったらそっちに乗り換えて縦置きで書くかも。
Thinkpadのキーボードの使い心地、自分も大好きだけど、やっぱり重量が問題。
歩き回って考える→カフェや図書館で座って書く→歩き回って考える
の繰り返しで書いていくので、バックパックに重いノートpc一式を入れて1日それをやると、背負い紐が肩に食い込んで痛くなってくる。
テーブルが高すぎる施設もけっこうあるので、キーボードだけを膝に置いて打てるのは便利。
タブレットホルダーやらをいちいち立ててセッティングするのが面倒ではある。
帰宅してから古くて大きい方のiPad + Microsoft Universal Mobile Keyboardでこれを書いてみたが、やっぱりこのキーボードは長時間執筆には向いていないと感じる。ちなみにこれは、最近話題だったASUS Transbook T90 CHI のキーボードによく似ていると思うのは自分だけ? まったく使えないほどひどくはないが、どこかおもちゃっぽい。
iPadの日本語入力が完全ではないというのはまったく同意します。ただ、使い続けているとなんとかなってきます。いまのところATOKは買わずに、もともとの日本語入力だけで毎日原稿用紙10枚分書いています。他の人が言われてるほどこの日本語入力は苦痛ではないです。
なぜキーボードにそんなにこだわるのかというと、腱鞘炎が再発しないように気をつけているから。
エディタは無料のPages。UIの好き嫌いで選んでますが、結果的にアイディア出しをやりながら草稿を貯めていく作業にけっこう向いているようです。起動すると文書がカード形式で並び、それまで自分が考えてきたことがおよそ俯瞰できます。Command + Spaceキーでスポットライト機能を出して検索するとpagesファイルは全文検索がかかるので、ipadに入れてある他の資料、複数の草稿の間を行き来しながら納品原稿を仕上げていくイメージです。縦書き状態のチェック等は最後にdocx形式にエクスポートしてノートpcでやります。pagesファイルとdocxファイルの互換性、見た目の再現性等については、校正が入るので基本的には問題になりません。
なぜ電源のない環境にこだわるかというと、自分の場合、歩いて体を動かしているといちばん考えがまとまるので、ある程度まとまって座ったところに電源があるかないかを気にして行動を制限したくないからです。
「多言語処理」で意味するところは、複数の言語に特有な記号や文字組みを同一の文書内で適切に混在させるという程度のことです。
日本語入力を切って半角入力にしただけでは入力しにくい欧文の記号はたくさんあります(アクセント記号、"と違うかたちの引用符、改行できないスペース記号等)。日本語と英語だけを混在させる分にはこれは問題になりませんが、他の欧文を表示させる段階になると問題になってきて、Androidはこういった処理がひどく弱いので実用に耐えませんでした。Windows + Wordで文書を書いている分にはこの問題はクリアされていますが、日本語版のwindowsにたとえばフランスで作られた辞書アプリをインストールすると、文字化けします。OS全体の言語設定をフランス語に変更しても解消されません。一方、同じアプリのmac版は、OSの言語設定に関係なく適切に表示されます。こうした処理をユーザーの側がいちいち気にしないレベルで解決されているのがmacとiOSという消極的な理由で、少々高くてもしょうがなく使うわけです。Androidのキーボード周りがもう少し洗練されてきたら乗り換える可能性もあります。
初対面の時、和食系ファミレスに連れてって話したら喫茶店かどこかで話すものだと思ってましたと言われたため、
そうか、真面目に婚活しようとお見合い始めたばかりの人に相応しい対応じゃなかったか、と思い直し
次は地域で一番の高級料亭に連れて行った。席料も料理代も馬鹿高いところ。
一通り高級料理の数々に舌鼓を打ったところで、
結婚後は、男兄弟も居るし家を出る方向? → うーん、まあ、そうなるでしょうね
仕事は辞める? → 続けたいです
じゃあ市内にアパートか何か借りて住む予定? → 遠くないところがいいです
子供さんは欲しい? → それについては全然考えていませんでした
加えてすぐに結婚する気はないという驚きの返答。
普通にお付き合いして普通に距離を縮めて、遊び行ったり旅行行ったりとかしてそれから考えたいそうな。学生みたいな男女観。
収入や身元を保障された見合い相手と、そのへんで引っ掛けた合コン相手とを「恋愛対象」として同列視しそうなあたり、あまりお見合いには向いてないタイプと判断。
結婚に至るまでのプロセスの具体的なサンプルが出てきたので尋ねてみると、ソースは最近結婚のニュースが続いている大学の同期連中らしい。ただし彼女達は大学からの長い付き合いの彼氏と結婚する、とは注釈がついた。
もう30超えてるんだからそのあたりの想像というか未来設計くらいしておかないと…、と思ったが婚活市場では珍しくもないタイプの女性ではある。嘆かわしい事に。
話を続けていくと「具体的なビジョンがないとお見合いとかしちゃダメですか?」と訊かれたが、そりゃもちろんそうだ。
伴侶が誰かは限定せずとも、もし自分が結婚するとしたらどこに住んで、どういう生活をして、どうなりたいのか、という自らの願望が明確化していない限りはまず、他者との間に欲求と目的の一致をみることはない。
というか結婚することを念頭に入れて具体的に行うのが婚活で、未来に関する具体性のないチャラチャラしたお付き合いはただの若い男女交際だ。
結婚して自分はどうしたいのか?共働きなのか?専業するのか?家事は?料理は?分担は?
明確に理想像を描いて、それを目指して行動するのが婚活であって、ただ男を紹介してもらうのが婚活ではない。
結婚に向けての具体的なビジョンもなしに婚活するのは、理想を押し付けないおしとやかな淑女、ではなくて、ただただ真剣な相手に失礼なだけの話だ。
…んだけど、詰まるところは結局、やれる相手でないとどれだけ話を進めたところで無駄になる。
要は相手を異性として見れるかどうか。
そのギリギリのラインをクリアしている相手でなければ、同じ土俵にすら上がれない。
今回はやれる相手だったので、厳しい事を言うのはやめておいた。
加えて交際には積極的な為、しばらくは若者のようなチャラけた付き合いを続ける予定。
もうお互い年なので年相応の付き合いをしたいものだが、彼女の提案内容からはどうも頭の中身の若さが感じられる。
ニコニコ笑って男女交際ごっこも疲れるので、さっさとホテル前で待ち合わせるような無駄のないお付き合いに切り替えたいのだが、それでは婚活相手として不実となじられそうだな。一番手っ取り早いのに。
あーあまだるっこしいなー
ある種の二次元がキャラの容姿や性的な感じを強調し過ぎていて、それが女性にとって不快だからゾーニングしろってのはわかるしある程度共感もできる。
女性はああいうの不快だろうーなー、となんとなくわかる感覚は実はオタク側だって持ってるんじゃないかと思う。
ただ、共感できるけど、そういう「俺に不快なものを俺に見せるな」って場合によっては結構マズくない?とも思う
例えば俺は全然大丈夫だけど、いわゆるオネエタレントが見るだけで不快ってやつはいる、これを「俺に不快なものを俺に見せるな」と言ってゾーニングしていいものか? オネエタレントが若いイケメンを性的に見ることをネタにするような場面ってあるけど、あれってまんまじゃないのか。二次元を見る女性と同じ意味合いで不快な男性もいるんじゃない?
それにさっきの二次元の話は三次元にも適用できる。女性性の消費として例えばAKBやももクロが不快だって女性もいると思う。じゃああれもゾーニングされるべきなのかな? 出演禁止にすべきと。少なくとも行政の関わるイベントには出演させるべきではないかも。
俺には「程度問題」ってのがわからないんだと思う。世の中の多くの人はこのあたりうまく乗りこなして、似たような判断が阿吽の呼吸で出来るんだろう。俺には曖昧すぎてわからないし基準を明確化して欲しいと思う。
コンビニに売ってるエロ本だって、コンビニが誰かから押し付けられたから売ってるわけじゃないだろう。売れるから売ってるだけで、商売だ。
コンビニにはエロ本を売る権利が無いのかな? 普通の売り場から見えない18禁ゾーンを作るってスペース的に無理だと思うし、コンビニに暗幕に囲まれた「18禁ゾーン」が常備されてる状況の方がなんかマズイ感じはするがwでもそっちの方がもっとドギツイエロコンテンツをめいっぱいおけるからある意味ではいいのかも。あれでもこれレジどうすんだ。18禁ゾーン専用の男性店員を付けるか、いや、女性だって買いたい人はいるだろ、トイレみたいに男女別にするか、ってどんどんスペースが足りなくなってくるな。
ビジネスチャンス、儲ける権利を奪うほどの正当性があるものなのかな? 俺達の不快さは。まぁ今のテレビの状況なんかはそうやって出来てきた感じはあるよね。
ツイッターとかにしても、まぁエロ専用のとことか作ればいいんだろうけど、それって結局出会い系とかなんだよな。そういうのは潰す方向だろうし、なにがしたいのかよくわからん。
もともとはネット自体が「隠れる場所」だったような気もするが、いまではネットに上げることは世間に公開することで、ゾーニング議論にひっかかる、新たに「隠れる場所」を作っても一般人にまた占領されて「公開された場所」になるんじゃないかなー、って危惧はある。バカッターとかと繋げられる話だよね。
あとは「性的なものを見せられたくない」って気持ちは男性側(の一部)にもあって、それがアイドル幻想だ。アイドルは恋愛してはならない、うんこもしない。事実上は「隠れてやる」ことで許されている状況も週刊誌による「ゾーニング破り」で「公開され」、悪いのはアイドルということになる。似た構造だ。アイドルの恋愛は、うんこは、ゾーニングされるべきなのか。アイドルは自分の恋愛を結婚を世の中に公開する権利を持たないのか。「俺に不快なものを俺に見せるな」という理由で?
クリエイター奨励プログラムとは、ニコニコ動画内のサービスの一つ。2011年12月12日に発表され、翌13日より開始された。
http://commons.nicovideo.jp/material/nc31930
削除されているので不明だが
1つ前の作品の登録時期が 2011年03月07日 00:33:25
2つ後の作品の登録時期が 2011年03月07日 14:48:54
その前から情報が伝えられていたとかそういうのがあれば話は変わるがまぁカネ目当てではないと思う。
また利用条件は騒ぎになる前から「もともとYoutubeでは不許可」という設定にしていたらしい(要確認)。
ズーズさんに提供させて頂いているゆっくり霊夢素材の使用範囲において、私の旨意をまとめたものになります。ご一読いただけますよう、よろしくお願い申し上げます。 pic.twitter.com/8K7gyNANBC— 黒子 (@kkuroko) 2015, 11月 18
権利というよりは「責任」の範囲を明確化したかっただけの模様。
なぜこういうことをしたかというと、登録者には素材の管理責任があるからだ。
御存知の通り東方は二次創作においては非常に寛容だが「商業利用禁止」である。
そして、Youtubeでの広告収入を得るという行為はギリギリライン、というかアウトと判断される可能性が高い。
それを放置した場合、素材管理者が責任を取らされる危険がある。それをおそれてYoutubeでは使用禁止、という話を強調しただけである。
問題起きたら登録者の責任になるのだから、使用範囲を制限したいと思うのはそれほど不自然ではない。
事情も知らずに文句言ってる奴は興味あるやつはニコニコ規約読めやボケ。
むしろYoutubeにまで投稿して収益得ようとするやつの方がよほどお金を儲けたい人間であるはずなのになぜKUN氏はそのことには触れようとしないのか?
この件についてKUN氏が一切触れてないのが本当に不自然である。
KUN氏はまるで動画投稿者は無罪で黒子氏だけが得をしようとしたように印象操作しようとしているが本当だろうか。
怪しいとすら思えななかった人はあまりに思考停止しすぎではないか。
最後にと申しましたが、一点だけ失礼致します。自身が作成したゆっくり霊夢素材においてクリエイター奨励金は投稿時から今まで一度も発生しておりません。— 黒子 (@kkuroko) 2015, 12月 4
ニコニコのガキどもは最低限ここまでは抑えた上で語れ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27732787
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27723410
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27729694
見るなとは言わないが、極めて恣意的であり情報が制限されている。
なまじプレゼンが見事なのでバカであればあるほど真っ先に見たら信じてしまうであろう。上の動画を見た後にすることをおすすめする。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27727329
頭に矢の刺さった人の動画が発火点であるようだがそれに拍車を書けたこの動画が今回ガキを暴走させた最大のきっかけで間違いなかろう。状況の理解にとまどうが自分で調べたり考えたりする知能を持たないサルどもに武器を配ったという意味で非常に問題を感じる。
断言はしていないが明らかに黒子氏が自らの利益のために他者に迷惑をかけているという誘導を行っており案の定頭悪いバカはまんまと釣られている。 自分で調べたり確認したりするとう知能がないゴミがKUN氏の動画にすぐ煽られる。はてなブログでもしっきーという人がKUN氏動画に煽られてマリオメーカー騒動を起こしていたがおそ松問題には一切何も語っておらず矛盾がひどい。
KUN氏の動画は非常に理路整然としておりプレゼントしての完成度は高い。何も考えずに見ていたらあれが真実に見える。図説を使い、法律の条文まで調べ、信ぴょう性を持たせるために努力をしている。本当に見事な手腕だと感心する。高校生以下のガキ、や大学生でもMARCH以下のバカなら釣られても仕方あるまい。慶応大SFC卒のしっきーはさすがに気をつけろ。ここまでできるなら動画を作る前に黒子氏に意図を確認するなどすればよかったはずだがしていない。そこまでしないにしても、KUN氏が動画を投稿する時点で黒子氏の意図を書いたツイートは書かれていたのでそれすら確認していないというのは無能では説明できまい。明確な悪意を感じる。黒子氏が己の意図を書いたツイートをしたのは2015, 11月 18日となっている。 一方2015年12月04日 22時22分 KUN氏動画投稿である。情報確認が間に合わなかったという可能性は皆無である。黒子氏側の言い分を完全にシャットアウトし、黒子氏がこんなに悪いやつである、というストーリーを組み上げて語っている。プレゼンとしてあまりに有能だからこそどういうつもりでこの動画を作ったのか問われるべきではないだろうか。
鋼兵氏もそうだが、KUN氏もおもしろおかしくストーリーを組み立てる才能は非常に高い。だが、最低限の検証や確認作業をしない人間であるということもひと目で分かる。 企業づとめ経験がないのであろうか?オタク界隈のつまらない話ならいくらでも自由に語ればよいが、法が絡むような問題に口をはさむ資格があるとはとうてい感じない。これにたいしてろくなツッコミが入らないニコニコ空間というのはほとんど言論空間としては死滅していると言って良い。
はてなはもはやこの問題に触れているのがkyoumoe氏だけというあたりでオワコン度がニコニコ以上かもしれないが。
http://kyoumoe.hatenablog.com/entry/20151206/1449380713
おそろしいおそろしい。
こういった問題になるとまず間違いなく「オタクカルチャーが差別されてるから叩かれている」という言説が飛び出す。
また、例の楽器が男根と言い出した人の例を引くまでもなく、萌えキャラ・アニメキャラを嫌う人というのは存在する。
しかし、そういう人は決して多数派ではない。もしそうだとしたら、各地にいる無数の萌えキャラはすべて大なり小なりの炎上をしているはずだろう。
実際にはそうはなっていないのだから、炎上したキャラには「ほかのキャラにはない(問題)点」が確かにあったと考えるほうが妥当である。
美濃加茂市の『のうりん』良田胡蝶、志摩市の碧志摩メグは共通して、そのイラストの性的アピールが過剰であるという意見が多く見られた。
自治体、それに準じる第三セクター(=ここでは「お役所」とする)の表現にふさわしくない、公共の場に掲示していいものではない、一般人の羞恥を呼び起こすセクハラである。
それらに対する反論も噴出している。
客観的な基準が示せない、個人の「不快である」という感情の言い換えに過ぎない、ファンに向けたイベントなのだから問題ない。
そのどちらも決して間違いとは言い切れない。
理論上は、R-18に相当する表現がなければ、子供が見ようが女性が見ようが問題はないはずだ。
だが実際には女性の乳房や肢体を強調するのは「公共の場にふさわしくない」し「お役所らしくない」。
つまり、我々はいつの間にか、暗黙のうちに、お役所にふさわしい「表現の範囲」を定めていたのだろうか。
それを逸脱したことが今回の問題の核心であり、今後、その「範囲」を明確化して、その中に納まる表現だけが認められるのだろうか?
そもそもお役所がアニメとコラボしたり萌えキャラをつくること自体、今までの「表現の範囲」から脱却しようとする動きではなかったか。
無難で、地味で、つまらないお役所イメージから飛び出そうとするからこそ、オタクカルチャーを取り込もうとしたのではなかったか。
その意味で、じつはこれは「お役所の表現の範囲」のなかにはそもそも収まらない問題なのではないだろうか。
この関連の論争を眺めていると、「じゃあ○○もだめになるな」という言葉が散見される。
家族の楽しげな写真は、ぼっちに配慮がないよ。猫が嫌いだから子猫の写真で精神的苦痛を受けるんだけど。
それに対し、「それとこれとは違うだろう」と思う向きは多いだろうと思う。
あたりまえのことだ。
単なる個人であったとしても、ブログを書くたび、一言ツイートするたび、一言喋るたび、視線を誰かにぶつけるたび、
もしかしたら誰かを不快にするかもしれないし、「不快になった誰か」が多数になれば叩かれるかもしれない。
今までの「お役所らしさ」は、そのリスクを最小限にしていた。だから「無難」だった。
しかし、いくつかの町が萌えというカンフル剤を手に入れ、そして成功した。
各地が我も我もと続き、ご当地アニメという言葉が生まれ、萌えキャラが量産された。
今やどこでも見るメジャーな戦略になったから、一部のお役所の皆さんは忘れているのではないか、と思う。
「無難」にほんわかしたイラストは、目に留まりにくい代わり、どんな層にも受け入れられやすい。
対して、萌えキャラというのはそもそも、ごく一部のオタクに対してのアピールに特化してできている。
そこには女性に対する性的視線が織り込まれている。既存アニメならば、アニメ視聴者しか知りえない文脈が隠れている。
オタク以外には不快かもしれないし、ついてこれないかもしれない。でも確実に『一部』は喜ぶ。
「無難」ではなく、リスクが高い代わり、リターンが見込めるからやるはずのものなのだ。
そう思ったとき、表現する側に必要なのは「ディレクション」だ。
ターゲットは誰か。ターゲットにリーチするために、どんな方法を取るか。
そして、もちろん、苦情が出ないかどうか。苦情が出るリスクが高い部分は、先んじて対策を取る。
リスクが高くとも、コンセプトとして譲れない部分はどこかを見極める。
「攻めた」表現をする人たち――広告や出版や放送にかかわる人たち――は、当然それを考えて動く。
今回、美濃加茂市の観光協会は、苦情が出たことに「困惑した」という。
「支給された素材を順番に使っただけだ」と。
はっきり言うと、つまり、考えが足りなかったのだ。
苦情を言うほうが悪いのではない。苦情が出ることを想定できないほうが悪い。
そして、苦情に対し「これこれこういう理由でこの表現は適当です」と、きちんと説明できないのが悪い。
萌えおこしに頼らざるをえないような田舎の観光協会に、そんなことを求めるのは酷だろうか。
わかってもらえないとしても、それでも、この戦略は間違ってない。
でも、仕事ってそんなもんではないだろうか?
全体的に「のうりん」ポスターや碧志摩メグを肯定する書き方になったが、
私個人としては、やはりあれは「性的アピールが行きすぎで、TPOを弁えておらず不愉快だ」と感じているし、
いくつかの場でそれを表明してきた。また、そう感じている人が少ないとは思わない。
だがしかし、今回の二つのバッシングに、一切問題がなかったか、と言われると、それも首肯しかねる。
ツイッターで似たような意見をまとめ、センセーショナルな見出しをつける。
同じ意見の人がたくさん見えるから、自分の意見が「常識」「良識」の側であると信じる。
だからそれをかさにきて叩く。
ネットでは非常にありがちな光景だけれど、しかし、これが正しい状態だと私は思わない。
私は「個人の不愉快」を表明することを擁護するし、「常識」が結局は多数決の結果であることを否定しない。
しかし同時に、他者が「多数」「常識」に従わない自由を、いつも頭の片隅に置かなければならない。
いかに自分が「多数派」で「常識」で「正しい」と信じようが、法に反さない限り、何を採用するかの決定権は相手にある。
それを尊重する態度を忘れてはならない。
叩きはネットの華だ。きっと今後もなくならない。
ホッテントリとかに上がってくる簿記の記事が大体間違っていることが多いので書くことにする。
というか、コメントとかを見る限り知りたいのは簿記の知識というよりは財務諸表のことだと思うので、
シンプルではあるが、正確な帳簿をつけることは正確な財務諸表を作るためには必須。
正確な単一の会計帳簿から作る様々な形式の企業の状態を表す資料。
なんで様々な形式かっていうと、企業経営者・投資家・取引先等様々な利害関係者によって求めるものが違うので。
例えるなら、経営者側からすれば家賃の変化だとか光熱費の値上がりだとか、そういうのもそれなりに重要な情報になるんだが、
ただし、元になる帳簿は同じじゃなきゃダメだよってことで、これを単一性の原則という。
概ね、特に重要とされるのは貸借対照表と損益計算書の2つ。補足としてキャッシュフロー計算書なんてのもある。
端的に言うと、企業の財政状態を表す資料。資産の部・負債の部・純資産の部の3つで構成される。
資産の部は企業が支配する経済的資源を載っけるところ。つまり、モノとカネ。なんでヒトが載らないのかって言うと支配してないから。
負債の部は企業が支配する経済的資源を放棄・又は引き渡す義務を表す。代金の支払の約束とか借金とかそういうのだ。
純資産の部は正味の財産を表す。……ぶっちゃけた話、単に資産と負債の差額だ。見方を変えれば「まだどれだけ負債を抱えられるか」を表しているとも言える。
資産と負債には流動と固定って区分があるんだけど、ざっくり言うと一年以内に自由に動かすことができるものとそうでないもの、と思ってくれればいい。
企業の経営成績を表す資料。某記事では通知票ってしてたけど、わかりやすくていい言い回しだと思う。
内容は収益-費用=利益。利益率が大きい=今期はよく頑張りましたねってことだ。
収益とか収入とか費用とか支出とかよくわかんねえんだよ!って人いるだろうし、ちょっと解説する。
ただし、信用取引が行われている現代においては売り上げた時期とその代金の回収の時期がずれるのは日常茶飯事なので、
収益という形で収入が確定した時期を明確化するわけですな。「確定した」っていうのは商品の引き渡しとか役務の提供が完了した時のこと。
収益という成果を得るための努力、それが費用。支出のことと思ってもらっていい。
細かく言えば、支出のうち、収益を得るための代価として割り当てたものを費用と呼ぶ。
でも、買った年に全部費用としてしまうと正確な期間損益計算ができなくなるので、会計期間ごとに「今期使った分」を見積もって割り当てるわけですな。
これを費用配分という。
というのも、すべての収益と費用はすべての収入と支出に基づいて計上しなければいけないからだ。
じゃあなんでこんな面倒くさいことするんだよって思うかもしれないけど、
昔は会社は一回の活動が終わったら解散してたから収入-支出=利益で、利益を分配しておしまいだったんだが、
今は継続企業、つまり特に事情がない限り永遠に営業活動を続けることが前提になったので、
どっかで区切りをつけなきゃいけなくなったわけだ。で、期間損益計算って概念が生まれた。
んで、期間損益計算を正しくやるために、収益と費用という形で収入と支出の対応関係のズレを解消するっつーか、そんな感じだ。
っつーことです。