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その人が何を考えているのか、コミュニケーションで知る。
そうすれば、突然のチョコ配りも事前に察知できただろう。
世の中、コミュニケーション能力が無ければ段々と立ち行かなくなってきているのだ。その先輩ともコミュニケーションを取って、もやもやする事を消していく。考え方に疑問があったら、何で?と聞いてみる。聞いてもダメだったら、もう宗教が違うんだなと思えばいい。或いは自分はこうだ、ととりあえずは言ってみるべきだ。
2月が終わる。今年はうるう年でもないので、例年通り28日までだ。
思い出すといまだにもやもやとする、今年のバレンタインの話だ。
***
先輩の女性社員と、私だけだ。
私は入社したあと、初めてのバレンタインが近づいてきたときに先輩に確認した。
会社によって、チョコに関する色々な習慣があるのをわかっていたからだ。
先輩は社則で決められているわけではないが、全社員の暗黙の了解で義理チョコはないと教えてくれた。
ただし、仲の良い女性社員同士は、こっそり友チョコ交換しているよ、と。
私はそれを聞いて、チョコの用意をすることなくバレンタインを迎えた。
先輩に教えてもらった通り、誰も男性社員に義理チョコを配っていない。上司も例外なく、だ。
昼食を共にするような仲のいい女性社員たちは交換しているのを見かけたりしたが、それ以外は本当に誰も配っていなかった。
そうして、何年もすぎた。
相変わらず私の会社は義理チョコ禁止だったし、自部署も他部署も、誰も公にはチョコを配らなかった。
今年のバレンタインも近づくけば、女性社員はチョコの話題をそこここでしていた。
もちろん私と先輩も、友人の会社で義理チョコがあって大変らしいという話題をしてみたり、自分たちの会社は義理チョコがなくてよかったと笑いながら話していた。
そして、バレンタイン当日。
今年は平日がバレンタインだったので、いつも通り仕事をしていた。
ふいに、先輩が席を立った。
けれど、給湯室に向かって行く姿を見て、おや?と疑問が生じる。
給湯室に姿を消してすぐ、先輩は何か箱を手にして出てきた。
かわいらしいピンクの箱と、そのあとに続いた先輩の言葉で、初めて事態を察した。
チョコだ。
先輩は自部署の人間に「今日はバレンタインなので、よかったら、チョコどうぞ」と、言葉を添えて、配り始めた。
個包装になっている、明らかにばらまき用とわかるチョコだった。
それでも、男性社員はそれだけでワントーン明るい声を出して、先輩からチョコを受け取っていた。
先輩がチョコを配りながら自部署を練り歩くその姿を見て、足元がぐらつくような心地がした。
チョコを買いに行ったと話したときも、そのあとに会社で配らなくてよかったねと話した時も、今年に限って配るだなどと一言も聞いていなかった。
やられた、と、その一言が頭の中を渦巻いていた。
そんな私のところに最後に来た先輩は、私にもチョコどうぞ、とすすめてくれた。
私は、はい、と小さく答えて、引きつった笑顔で受け取る以外に道はなかった。
退社するまでのそのあとの時間は、針の筵に座らされているような心地だった。
男性社員たちから、気遣いのできない嫌な女だと、感謝と配慮の足りない女だと、そう見られているような感じがした。
もちろん、私の被害妄想だと思う。
けれど、確かにそう思われているような気がしたのだ。
男性社員たちは表に出さないけれど、心の片隅でなんで私はくれないのだろうと思ったことだろう。
もともともらえなかったところで、急にもらえるようになったら、比較してしかるべきだろう。
退社して、電車に乗って夜に沈む街並みを見ながら、私はぼんやりと裏切られたと感じていた。
チョコを配らなくて楽だと、あれほど話したのに、どうして急に配ったのか。
チョコの話題はそれこそ何度も出たのに、どうして一言教えてくれなかったのか。
一言教えてくれさえしたら、私だって安かろうが配る用のものを用意したのに。
そんな気持ちでいっぱいだった。
感謝の気持ちがないから、チョコを配ることもしない、気遣いの足りない女なのだというレッテルを貼られたのだろうと。
前々から、人間としてどうかと思うところがある先輩ではあった。
仕事に対する態度も社会人としてどうなのだろうと疑問に思う点があったり、仕事をよく押し付けてくるのでずるい人なのだなと思うところが多々あった。
けれど、わざとらしい今回の件は、さすがにひどくはないだろうか。
こんな小さなことでうだうだいまだに悩んでいる自分もばからしいとは思うけれど、どうしても毎日先輩の顔を見るたびに思い出してしまうのだ。
不意打ちの、苦い気持ちにしかならないバレンタインの出来事を。
そうすると、どんどん嫌な点ばかりが目について、先輩のことが余計に嫌になってくる。
人を嫌ったりするのは仕事という公には不要な点だと思うから、たとえ苦手だろうと平等に接する努力はしていたのだ。
だけど、どうしても、この先輩だけは人間として尊敬できないし、いまだに唖然としてしまうことをしているのだ。今回のこと然り。
私生活で交流があったら、軽蔑して速やかに人間関係を整理するような相手だと、私は思う。
けれど、私にも一言言ってくれていても、いいのではないだろうか?
そんな気持ちが、消えない。
気遣いのできるいい子だとアピールしたのだろうが、私から見ると、抜け駆けしたごますり女だ。
やられた人がどう思うか考えられない、そんな想像力もない人間が、気遣いなんてできると思えない。
端的に言えば、この先輩に対して呆れて、そして失望している。
たったそれだけ。
それだけのために、こんなに時間と文字を消費して、心を沈ませていた私はバカみたいだ。
こんなこと、ずっともやもやとさせていたなんて。
毎日、何かしら、この先輩が呆れることをしてくる。
そのたびに、もやもやするのだ。
私の気にしすぎだということはわかっている。
けれど、一度染みついてしまった苦手意識は消えないし、嫌な気持ちは増えるばかりだ。
どうしたらいいのだろう。
股間にイソギンチャク 未来は木の養分 骨の髄まで流出 液体だの益体だの ひどく貪る 陰陽老子の隙間から お前の影が見えたなら 転生も挽回も拭えぬほとりにこぶしを突
股間にイソギンチャク あららは箪笥 間違えたので簡単 獰猛だの泥濘だの ひどく退屈 凡退走者の太陽に 明日の息吹が見えたなら 後悔も殺伐も期せぬ夜ごとに変化を
部屋に蝿が現れたの これで あしたも 蝿が 飛ぶ 蝿よ荒縄の腐臭よ
はてなのホッテントリも増田もブコメもあまりにレベルが低くなってきましたね。
私は最近はpinterest で綺麗な風景とか名言のカテゴリを選択して綺麗な風景や名言だけを眺めるようにしています。そうすると心も綺麗になって生きる活力が湧いてきたんです。明日は休みだからまた増田に戻ってきちゃったんですけど。
すこしづつはてなやめようかと思います。あまりにレベルが低いので。皆さんもよかったらどうやって辞めるのが良いか考えてみましょうね。
狙いとしては痛みを知ったので優しくなれるよ!ていうかなれ!なんだろうけども
実際には痛みを受けて当人にとっては理不尽でありえない嫌な思いをしたことで心が捻じくれるってところだけが極めて正確に再生産されるのだと思う
「辞めればいいんじゃないですかぁ?」って投げやりに言われて絶句して帰ってきた。
それだけで1万も取られた。なんて無駄なことをしてしまったのかと今でも思ってる。
簡単にカウンセリング受けろって言う人はよほど素晴らしいカウンセラーを知っているか、カウンセリングを受けたことがない。
いいカウンセラーだったら教えて
「世のため」とは人間社会のため、「人のため」とは他人のためなのですから、人間至上主義のエゴイズムがほとばしっていることにはかわりありません。さらにいえば、自分のためでは無いということによってあたかも「エゴイズムではありません」っていう大義名分を得るわけですから、むしろ危険です。
「世のため人のため」は人間中心の利己なのですから、どうやっても、地球のためとか宇宙のためとか動植物や国土風土のためだとかいう価値観には直結しえません。
道徳と称するものは、(儒教の)信仰ですから、「道徳はエゴイズムだ」というのはタブーであり、嫌悪されます。中国文化圏は儒教信仰で、日本というものも儒教国家です。そして、国家社会を維持するための方策として、儒教が教化されてきました。信仰を「間違っていますよ」と指摘されると怒るわけです、己の誇りの無さを埋めるために依拠するところですから。信仰とは、無批判に善悪が決まっていて、自然法則は抜け落ちます。日本は儒教国家ですから、儒教や道徳を批判することは国家社会の既成構造、既成状態を批判することと同じ、すなわち社会の既成状態によって助かっている人々にとって、儒教批判はタブーで、絶対にダメであるわけですね。
さて、例えば「一番じゃなきゃダメ」だというスパコンにせよ、その神戸のスパコンのケイってやつは確かに例えば気象シミュレーションに用いることで災害予測技術の向上にも活用されています。災害予測をすることで、「かけがえのない人命」が助かると、ほぼ皆思うでしょう?
人類は人間至上主義で、他の動植物や地球や宇宙のことが抜け落ちています。例えば、人命のためだとか、国家のためだとか、人類のためだとか、子孫繁栄のためだとか、そういう目的で資源も浪費するし、地球を破壊して、それでもなお増殖しようとしてきました。その異常性を省みることすら、ほぼ全ての人は、しません。
人命のためとか、産業のためとか、経済成長のためとか、国家のためだとか言っていれば、いくらでも資源を浪費してかまわないという理屈になるでしょう。そのためには、化石燃料を浪費するし、核燃料を遣ってでも電力をジャブジャブ消費可能にしなければならないということになる。防犯のためならば電灯点けっぱなしにもするし、宣伝のためならば看板の電灯も点けっぱなしにするし、自家用車は売りつけるし、誰もがモノを所有し放題で浪費していいという社会状態にした方が都合がいいわけです。
そもそもは例えば神道にせよ、原初の神道、つまり神祇信仰、いわゆる自然崇拝という時点では、地球や宇宙や自然現象に対する畏敬がありました。天皇は祭祀を行いますが、その祭祀の目的は天神地祇、つまり自然や自然現象の御機嫌を読むことです。それは、天皇以前の卑弥呼などであっても同じです。そういう超能力(ESP)であり、そういう職業です。
それに対して、神社神道へと変遷し信仰の対象が人へと換わり、そして人間の我欲を満たすことが主目的の祈願ばかりが行われるようになり、さらには国家主義のいわゆる右翼にせよ国家神道と称する儒教を信仰しているわけですけれども、そうなるともう人間社会至上のエゴイズムです。
人間ってそんなに大したタマなんか? 「かけがえのない命」っていうけど、どうせそのうち死ぬんだろ? それが当然の自然法則であるわけですから、その現実を直視してイヤイヤしないのが、本来の神道(原初神道)もそうですし、本来の仏教(人間釈尊が説いた仏教)もそうです。
儒教や国家主義だけではなく、民主主義とか共産主義とかでも凡そ、人間中心主義から脱け出られません。人間至上のエゴイズムから脱出するには、そもそもの自分自身の思想が、脳が、その域に達する必要があります。デモクラシーであろうがコミュニズムであろうが、当の人々ひとりひとりがその域に達した生物にならなければ、人間至上から抜け出した自己客観視の可能なスーパーエゴのある社会にはなりえないのです。むしろ、民主主義とかいってその域に達しない人が政治参加をして自己批判もしないでいると、エゴイズムによる政治になります。つまり衆愚政治になります。けれど言うまでもなく、独裁体制や階級政治、身分による社会であっても、社会を差配する者がエゴイストであれば、話になりません。
そうすると、今の、安倍日本にせよ、プーチンロシアにせよ、トランプアメリカにせよ、どうなのかって、いちいちここで言うまでもないと思います。
●意味
大阪人の気質を表す言葉としてもよく使われる。大阪人の特徴としてよく例に挙げられる「信号が待てない」「歩くのが速い」
「エスカレーターに乗ってもさらに歩く」などはその典型だろう。
「苛ち」と書く場合もある。
●使い方
「自分、ほんま、いらちやなぁ」(あなたは本当に気が短い人ですね)
「大阪人はほんまにいらちやなぁ」(大阪の人は本当にせっかちだ)
など
村上春樹作品って全般的に何が言いたいのかよく分からないんだよね。かと言って単純な娯楽小説と切り捨てることも拒んでるような感じだし。
ハルキスト自称するならその辺分かっててほしい(そして教えてほしい)、みたいな期待があって、「あ?ハルキスト自称するならお前じゃあ教えてくれよ」みたいな態度になりがちになる。
これがサリンジャーとかドストエフスキーなら、こっちも大体テーマが分かってるから、ファンに対して優しく接することができる。
「この穴突っ込んだら最高だろうなぁ」って穴に指だけ入れるのって、何かすごく残念な気分にならないかい?