はてなキーワード: 公野櫻子とは
最初に言っておくけど俺は音楽的センス0で音楽は完全に「情報を食う派」だからな。
以下目次。順番は思いついた順なので特に意味はない。食える情報の系統が違いすぎて順位はつけられねえや。
・硝子ドール
・アカシア
・Constan Moderato
・群青
・CROSSING
・夏の記憶
・Gの閃光
・硝子ドール
データカードダス・アニメ『アイカツ!』より藤堂ユリカ様(ヴァンパイア設定アイドル)の持ち歌。女児向けでまさかのプログレッシブメタルを!更にはピロピロギターソロを完備。個人的に特筆すべきは「永遠の時を生きる吸血鬼少女」という設定から産まれた『超・少女趣味・耽美的・モラトリアム語り』な歌詞である。「ビロードの重い空」、「鍵が壊れた鳥籠」、「自分だけに見える鎖」などなどの歌詞によって浮かび上がる永遠の暗闇の中に自ら引き籠もりその悲観的な世界に酔いしれる姿。それを「いつまでも少年時代のトラウマに引き込もったまま人間関係を構築しなくて良い趣味やフィクションの世界に籠もり続ける」オタクが勝手に自分に重ねてガン刺さりである。人目を恐れて締め切った暗い部屋の中で人生に絶望しながら聴きたい曲。
・アカシア
ポケモンのMV『GOTCHA!』テーマソング。MVを見ればそこにはポケモンの20年分の歩みが。目を閉じればBUMP OF CHICKENの25年の歩みが。
バンドってのはときに「メンバーAがメンバーBに音楽をやらせ続けるために存在し続けている」なんて表現されることがあるが、BUMPもそういうタイプのバンドだと思ってる。最高の仲間と出会い仲間を輝かせる中で自分も輝く道がある。ウッチャンとナッチャン、ピカチュウとサトシ、オタクとオタク趣味。まあ俺みたいな消費オンリーオタクは一方的に貰うだけでは誰かに何かを与えたことはないが、心の中で出しもしないラブレターはいくらでも綴ってきたから輝きを見出してきた回数じゃ負けてねえぜって気持ちで聞いてるぜ。
歌:fripSide
TVアニメ『とある科学の超電磁砲S』の後期OP。でももっとずっと重要なのはfripSideが小室哲哉の作曲した歌を歌ってるってこと!オタクソングの中には一定割合でコレもろに小室の影響を受けているなって曲が存在する。I'Veが一時期量産したエロゲソングに代表されるように!それが、今、遂に、交差する!伝説との共闘。始祖との共演。夢のクロスオーバー。内容それ自体よりなんかもうそこが凄い!fripsideのクロスオーバーだと『escape -crossroads version-』という白詰草話(大槍葦人のガンスリンガーガールっぽいやつ)のOP(元はresetの曲)をfripsideが歌ったバージョンが個人的には激推しなんだが、だが、eternal realityは……小室とのクロスオーバーは圧倒的すぎる……俺たちがずっと心のなかで思ったことが具現化してんだぞ……。
歌:堀江由衣
アニメ版『シスター・プリンセス』のOP。ある日突然12人の妹ができることで知られるあのシスプリを代表する曲。「lovelovelove」に「アイアイアイ」とルビをふる歌詞は一度見聞きすれば忘れられない。内容自体は「ほ、ほーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!!」で長年愛される堀江由衣が歌うバリバリの純愛ソング。とにかくシスプリは凄かった。いま流行りのラブライブと設定を考えたのが同じ人(公野櫻子)だと言えば、その凄さの片鱗が少しは想像できるかも?一時期インターネットの個人日記でどこもRO(ラグナロクオンライン)とシスプリの話をしてる時代が確かにあったんだ。KANONかROかシスプリの話を皆してたんだ。最近だとシスプリのキャラが20周年を記念してVtuberをやっていてまたちょっと話題になった。そのVのバーチャルライブの最中でこの曲のイントロが流れた時、どこからか「きょええ~~~~~~」という叫びが聞こえた。その時「わかる。」と思ったもんよ。だって本当に心拍数が凄い上がって、まるで初恋の人に夢で再開したみたいになって、さすがは運命の恋を歌う超名曲だなって。美化された思い出の完成形なんだよ。
歌:KOTOKO
OVA『マリア様がみてる』ED。オタク的にマーティと言えばももクロかコレ!本当にきれいな旋律なんだなコレが。その綺麗さがマリみてのイメージと最高に噛み合って神々しい清涼感がある。聞いている間だけはどんな汚いオタクも静謐な気持ちになってしまうのだ。この曲を聞いてるときに必要な語彙力は「きれい」の3文字だけで十分だ。
oblivious
歌:Kalafina
劇場版『空の境界』第1章OP。あの頃の日本に漂ういよいよ駄目なのではという閉塞感、自分の価値を高めて生き残るしか無いという焦燥感、そうはいっても俺には無理だろという絶望感、そこから逃げるために広がる妄想膨らむ悲観の非現実感。そういったロクでもないものが心のなかで混ざり合ううちに、都会の暗黒へと魂が霧散していくような浮遊感。青く光る闇が広がりがちなビジュアルイメージとの噛み合いが最高だぜ。梶浦由記は名曲まみれな中でコゼットの肖像から始まり.hackやまどマギやら脳内で次々トーナメントで戦わせていった結果最後にはコレが残った。研ぎ澄ましてもしょうがないオタクのペラペラな感受性が尖らされた挙げ句にセンサーが無限の虚無の中に落ちていく感じが好き。
作曲:mozell
フリーゲーム『遺跡島と7つのまほう』等で使われているフリー楽曲。数多くのアレンジが存在し、その中でも『バンバード ~Piano Version~』が特に有名。ノリノリでテンポのいい民族風の音が非常に軽快で楽しい。とにかく「音」が「楽」しい。うわーい「音楽」だ―。鼓膜に気持ちの良い周波数が次々叩き込まれて脳が快感に揺られる気持ちを味わいたい欲求を満たす能力が非常に高い。
Constan Moderato
作曲:ミツキヨ
スマホゲーム『ブルーアーカイブ』タイトルBGM。タイトル画面にふさわしい柔らかさをベースとして軽快にピッコピッコと音を叩いていくエレクトロな曲調に妙な安心感がある。これは……GBCとかGBAのゲームでありがちだったアノ感じや……なんちゅうもんを食わせてくれたんや……。強めの味付けでスパイス聴かせて音を立たせていくレトロさは健在。そこにGB時代と比べ物にならないスマホゲーの豊富な容量が実現する当時にはなかった柔らかさを追加。古臭さは感じさせずに圧倒的に懐かしい全方面にあったっけえ音。これぞまさに実家のような安心感。デジタルの羊水よ。
アーケードゲーム(家庭用もあるけど)『電脳戦機バーチャロン』の主人公ステージBGM。知ってる人なら一発で分るレベルの自己主張抜群のイントロを聞けば魂が当時のゲーセンへと帰っていく。対人ゲーというストレス憎しみ発生装置から産まれたとは思えない爽やかさと前向きさ。それでいてピリピリきてる神経とのくっつきの良さ。いつしか意識は画面の中へとシンクロし機体と痛覚がリンクするのだ「痛っ」「食らったのお前じゃないだろ」
群青
歌:YOASOBI
ブルボン『アルフォート』のCMソングらしいが、オタクからすると漫画『ブルーピリオド』イメージソング。八虎の「好き」が受け入れられた感覚を手拍子やコーラスで表現する発想が天才すぎる。コーラスパートの明るさによって今度は1人で歌っている時の孤独さが加速する。芸術というコミュニケーションを通して不安を抱えながら恐る恐る胸襟を開く怖さ、伝わることの喜び、ブルーピリオドの世界観がよく表現されてるぜ。そんな姿に漫画家と音楽家の間でもグッドコミュニケーション成立してるなと俯瞰視点で古参面だ。ブルーピリオドが本当に面白いって皆が知ってくれて俺も鼻が高いよ。
CROSSING
作曲:Funczion
歌:Marica
18禁ノベルゲーム『CROSS†CHANNEL』ED。「絶望でよかった」から始まる歌詞が自己や社会への失望感を語りながらも、それでも結局は人と関わる道を選ぶことを歌う。聞き手の社会不適合度が高いほどに何度も何度も頷いてしまう。同じように社会への不適合を嘆く歌詞の歌は世の中に数あれど多くはメタルなオッサンがヘドバンしながら聞き手を責めるがこちらはゆったりとその懺悔を復唱するかのように歌ってくれるので非常にメンタルにいい。社会が怖くて仕方ない夜でも何度も聞いているうちになんとか社会に戻ろうと思わせてくれるので助かっている。このゲームにインスパイアされたらしい岸田教団の『84』もオススメ。
夏の記憶
TVアニメ『スケッチブック』の最終話前回の限定OP。どこまでも広がる夏草の真横でママチャリ漕いでるような光景が浮かぶ曲。シットリとしていながらも爽やかな夏限定の青いノスタルジー。まったりしたいときに聞くとちょうどいい。
歌:ハセガワダイスケ
TVアニメ『ガンダム Gのレコンギスタ』ED。散々鬱っぽいことを繰り返してきたガンダムシリーズながらもまさかの超前向きソング。と思わせて2番では「リアルは地獄」と言い出し、3番にいたっては「出来ると思ってない」なんて語ってしまう躁鬱の激しさ。富野監督が今までの人生の中から『やらないと始まらないからやるしかない』という答えを導きそれを若者へと伝えようとするある種の説教ソング。でも富野がそこまでいうならまあ地獄の中であがくしかねえなって気持ちになれる。
歌:SHIHO
18禁ノベルゲーム『未来にキスを-Kiss the Future-』テーマソング。歌詞で叙述トリックかけてくる歌でこれ超えてるの俺はまだ知らない。OPでネタバレしてたアニメやゲームは知ってる。叙述トリック仕込んでる恋愛ソングも知ってる。でも曲単体で叙述トリック成立させつつゲームの設定とも絡めてきててやってることのスケールが作品世界の根底全部ひっくり返してくるようなのは自分が知る限りこれだけ。それ以上にやってることのテーマが好き。気持ちのいいリリックで気の狂ったトリックしかけてくるし作曲は高瀬一矢で全部好き。なにより今の世界だと「まあ人類って結局何度もピンチを乗り越えられてるからそうそう滅びなくね?」が蔓延してるけど、その直前の「本当にピンチになったとき人類は遂に滅びるのでは?」に神経をとがらせることがまだ出来た時代の名残とかデジタル技術の指数関数的進歩への盲信とかが加わってこの曲の展開に対してコレマジであり得るんじゃねみたいなノリがまだ可能でさ……つまりは失われた技術、オーパーツだよ。
お前らなら分かるだろ?
ラブライブってのは言ってしまえばベビプリの反省を生かしてシスプリとストパニを焼き直したものなわけだよな?
こんなの当たり前なのに、ラブライバーの癖に知らない奴らが大勢いるんだ。
シスプリは聞いたことあるけど、ストパニは知りませんって奴ばかりだ。
あのなあ……ベイビー・プリンセスで人数を増やしすぎたという反省が、9(+3)というシスプリ方式への回帰を産んだんだぞ。
キャラが立っていれば9人までなら覚えられる。
そこからあとで3人までなら追加で覚えられる。
女子校世界の設定だって、もしもストパニを経由してなければ、もっとマリみてもどきで終わっていたさ。
それを知らずにラブライバーをしてる連中が多すぎる。
新海誠だって、君の名の素晴らしさを散々語ってるやつがほしのこえも彼女の猫も知らねえし遠い昔に自主制作アニメブームが巻き起こっていたこともエロゲが一つの巨大なコミューンと化していた時代すら認識の外にあると来やがる。
そういう所だぞ。
うっすいんだよ!
もちろんあるよ。
デビュー作は荒削りで良かったのにそこから変にまとまっちゃってダメだとかね。
最初は売れなかったけど路線転換してヒットした作家のその初期作が好きだったのに、とかあるよね。
逆に売れ線描いてた頃は好きだったけど趣味に走ってダメになった、とかね。
他の作品はダメだけど、この作品だけ奇跡的に自分好みの要素を詰め込んでいる、みたいなパターンもある。
個人的にはガンダムSEED DESTINYなんかがその枠。
うーん、まあGODにコアなファンが付いてるのは分かるけど俺は違うし、他の大多数のラブライバーも違うと思うぞ…
たとえば「耳をすませば」が好きでも「近藤喜文の作品が好き」とは言わんよね。
最近観た映画だとBvSが好きなんだけど、じゃあザック・スナイダーが好きなのかと言われれば別に…
DCEUの雰囲気は全体的に好きだけどね。
ゲームだとか、まあ中にはプロデューサーが前に出てきてるのもあるけど、
新曲「GOD OTK -Like a Monster-」の視聴版です。
こういうクソオタク○してぇなって想いで作りました。トラックは内田彩さんの絶望アンバランスをサンプリングしたものです。 pic.twitter.com/1nd1oQLtg9— †ぽ太郎† (@Hentarou_LL) 2016年12月15日
GOD OTKのラップがRT先で荒れてるらしいという話をちらりと見て、そこであのラップが「過激なラップだった」かのように触れられていたんだが、そうかな?僕はちっとも過激だと思わなかった。— しーたけ# (@sh_tkn) 2016年12月21日
ぽ太郎さんのラップは「自分が気に入らなかったアニメに対し、『お客様は神様』な超絶上から目線で中身のないテンプレ批判をするオタク」を風刺したもので、全てのアニメ批判に対する風刺ではないでしょ。— しーたけ# (@sh_tkn) 2016年12月21日
逆に言うとあのラップに対し反感を持つこと自体が、「ぼくは気に入らないアニメに対し超絶上から目線の中身のないテンプレ批判をするオタクで~す」という表明になりかねない。それってめちゃくちゃかっこわるいと思うんですけど大丈夫かw— しーたけ# (@sh_tkn) 2016年12月21日
ラップの内容はキモ声のキモラップが聞こえてきたらと思うと怖くて聞けないので聞いてない。文章にするかボーカロイドか何かつかって再録音してほしい。
だがこのツイートから内容を推測しても、やっぱりラブライバーもといラブライブ信者って頭おかしいなって感想を持ちそうになった。でも多分この人たちはギャグを言っているだけなのだ。
アニメなどに対して「中身のないテンプレ批判をするオタク」は確かにたくさんいるが、この人たちの大好きな「ラブライブ!」「ラブライブ!サンシャイン!!」といったアニメシリーズの脚本や演出の批判のされ方は中身のないものではないし、テンプレ批判ばかりでもない。また、テンプレ批判であっても、そのテンプレ批判に未だもってまともに反論したファンがいないためテンプレ化してしまったようなものが多い。
特に「GOD OTK」つまりGOD=公野櫻子(ラブライブ!シリーズ原案)のオタクによる批判となると、必然的に、適当な外部の盲目アンチではなく、ラブライブ!のファンまたは元ファンという立場からの、中身を込めた思い入れや論理を用いた批判になるわけであり、中身のないテンプレ批判にはならないことが多くなる。
実際に、こういうアニメラブライブ全肯定的なラブライバーたちがそういう作品内容批判に対して反論してるのを見たことがない。
反論に見せかけて、ただ「批判してる奴はクソだ」とか「批判してるお前みたいなことを言う奴はファン失格」「俺の方がファンとして偉いから正しい」みたいな的外れの話を振りかざすだけである。
「○○の描写は××のシーンなどから考えて▲▲だからその批判は間違ってる」のような形ではないため、批判内容に対する反論をしようという気が全く感じられないのだ。
それこそ「あれの面白さを理解できない奴はダメ、死ね」と批判者に対して「超絶上から目線の中身のないテンプレ批判をするオタク」になってしまうだけなのである。
花田十輝の神脚本理解できないオタク生きてる価値ないぞ。ほんまに— †ぽ太郎† (@Hentarou_LL) 2016年4月27日
花田十輝叩くやつ死ね— †ぽ太郎† (@Hentarou_LL) 2016年4月27日
元々「中身のないテンプレ絶賛をするオタク」が多いことで散々叩かれてきたのがこの人たちラブライバーなわけであることは、様々な所で語られてきた。某劇場版批判でもそのようなことについて言及されていた。
実際、この人たちやその界隈もちょっとツイート履歴を見る限り批判を見ると謎の立場を盾にした中身のないテンプレ擁護や、作品批判者に対する「超絶上から目線の中身のないテンプレ批判をするオタク」そのもの、典型例であるため、体を張った自虐ネタのギャグになっているのである。
まとめると、この人たちが言いたいのは「自分にとって気に入らないこと言う奴の話は全部“超絶上から目線の中身のないテンプレ批判”扱いして叩いてやるぜ」ということであり、
「超絶上から目線の中身のないテンプレ批判」というのはむしろ彼らのお家芸で、↑の姿勢がまさにその自分達が誰かに貼りつけてやりたがってるレッテルの姿そのものであるところが面白いのだ。
網羅系なる新単語が登場してきたので、乗じてこれに当てはまりそうな来期アニメを紹介してみる
5つの世界が融合していろんな属性の美少女がてんやわんやという。
原作はTCG。TCGはそもそもキャラ数が膨大で、複数の世界観が融合してるってのも珍しくないけど
カードゲームのプレイヤーじゃなくてカードゲームの世界観そのものがアニメになるってのは近年になって出てきた形式かも。
余談だが監督は今作が初監督。キャラデザも兼任してて結構入れ込んでるっぽい?
キャラ数は普通だけど、複数のラノベ作家がシェアワールドとして一つの世界観を扱っていく
という企画概要は普通のメディアミックスともちょっと趣が違う感じだし、網羅系といえるかもしれない。
ちなみに自分がラノベ全く読まないからなのか、書いてあるあらすじが全く把握できない。
2期だしショートアニメだけど、これはまさに網羅系だよなってことで。
原作だとガールズバンドのプラズマジカを中心に、V系和ロックエレクトロニカ部活動と
様々なジャンル×様々な世界観のバンドが登場するまさに網羅系。
男性アイドルは女性アイドル以前から複数人グループがメジャーだっただけあってか
ワンパンマンはまさに網羅系って感じだったけど、
「次々と現れるニセ霊能力者に宗教団体、不良番長、謎の秘密組織」とあるのでコレもどうやらその様子。
制作はボンズ。監督がデスビリヤードの立川譲。キャラではハガレンなんかで大活躍してた亀田祥倫。
ストーリーは分からんけど、ワンパン同様よく動きそうなので個人的には期待。
http://www.lovelive-anime.jp/uranohoshi/caststaff.php
今更って感じだけど一応。
公野櫻子はこの手の美少女がいっぱい出てくるコンテンツの先駆者、とは言わずとも立役者だよなあ。
しかしラブライブはスクールアイドルって軸がある分、他のアイドルアニメよりはフルコースって感じはしないかも。
こんなところかなあ。
http://anond.hatelabo.jp/20160413013038
言及いただいたkato19です。大変遅くなりましたが地震の影響はありませんでしたでしょうか?
※意味不明な一般の方へ:一連の流れは下記のブログに記載されています。
じっくり読ませてもらいました。批判文っていうのは読むのにもなかなかエネルギーを消費してしまいますね。増田の文章は論点も多いのでなかなか大変です。自分の知らない分野についても検索しながらできるだけ理解できるように努めました。とはいえアニメ化以前をリアルタイムで追っていない以上は本当の意味での理解は難しいなと思いました。増田が本当に細かい所まで気にしている所に驚かされますが、これがまさに増田の拠り所であるんだなと感じましたね。
今回増田の疑問に逐一回答する事はあまりに労力が大きのでご容赦ください。総論的な内容になります。それに以前も書いたように、そもそも回答した所で増田が納得するとは到底思えないのです。増田も同じような事を書いていますが、結局それぞれが重要だと思う所を重要だと思えないのです。
それを踏まえた上で今回のやり取りの感想を書かせてもらいます。
私が、批判派に対して当初思っていたのは、あの作品を観て面白くなかったんだろうか?それとも面白かったんだけど細かい所が気になってしまってダメだったのか?もう全てがダメで良い所はほとんどないのか?という所でした。
増田の文章を通読してみて感じたのは、やっぱり原作・原案問題がなければこんなにこじれる事はなったんだろうなぁという事。増田ですら『カップヌードル』程度には面白いと思ったわけで。『見たい作品が見られなかった』という点については批判派の方からもツイッタなどで一定の賛意をいただけた所です。
さらについでに言うと、僕はこの映画を観たとき、涙もろいタイプなのもあってちょっと泣いたんだよね。その意味では、その程度には感動した。でも、あの劇場版が駄作だという評価、特に脚本が極めて稚拙だという評価はまったく変わらないし、それは普通に両立することだと思っている。— おりあそ (@oriaso) 2016年4月11日
批判派のおりあそ氏が劇場版で泣いたってのも自分にとっては結構衝撃的な事実で驚いたんだけど『μ'sが解散するんだから涙くらい出るよ』という事なんでしょうね。もちろん自分にも当然そういう所はあるのだけど、今回はそれだけではない感動があったんですよね。
自分は『ガルパン』劇場版でも大変感動して涙が止まらなかったんだけど、あれは決して大洗女子学園が存続してよかった!という事で感動したのではないのです。あの映像と演出自体に感動させられたのです。心底すごいと思いましたしその凄さに当てられて感動しました。話の筋で感動したのではなかったのです。
参考 http://kato19.blogspot.jp/2015/11/girls-and-panzer-movie.html
劇場版ラブライブ!の感動はそれによく似ていると思いました。技術レベルと前衛的な演出、それと当然ストーリー上の感動が合わさって強い感動を得られたんだと思います。自分は少数派になる事が多いので自分の意見が絶賛派の主流ではないでしょうけど。
増田はおそらく劇場版ラブライブ!はガルパンより論理的妥当性がないからダメと言うでしょうが、自分にとっては十分に許容範囲であったという事です。しかしこの点については程度問題としか言いようがありません。
『もっとも、絶賛派の多くは作品において即時的で表面的である所の彼らがいうところのアニメならではの表現内容への思い入れを拠り所にしていて、前後や総合的なつながりや辻褄の考察を要する物語性やキャラクター性については考えたくないようなので難しいかもしれませんが…。』- 絶賛派の負のエネルギーを和らげたい より引用
『考えたくない』のではなく『気にならない』というべきですが、上記のように互いの主張は『糠に釘』状態なわけです。お互いを説得する事は出来ないよね。実際、増田はなぜ絶賛派が絶賛するのか?その理由を理解できていない。その結果『ラブライバーの自己愛』などという荒唐無稽な理由で論じている。自分は前回から増田はもっと前向きな方向にエネルギーを使うべきだと主張してるのだけど、それはこの問題については相手の考えを変える事は無理だからです。もしも増田が絶賛派に対して『本作が駄作だと改心』しなければ納得しない・・・とすれば残念な事です。
増田は初期作品の良さも述べているというが、アニメ版への恨みつらみが主となってしまっているのは間違いないですよね。増田が単に虚空に向かって文句を叫びたいだけなら仕方ないですが、初期作品の良さを知ってほしいのならその方法があるはず。増田で絶賛派を無能呼ばわりしていてもしょうがないわけです。
増田の意見を読んで公野櫻子さん関係を少し勉強しました(増田から見ればまだまだでしょうけど)その中で上記ブログの公野櫻子論で印象的だったのは、公野さんの特徴として読者参加型作品を得意とする事でした。ラブライブ!の初期作品も読者参加型であった事を考えると増田もその影響を強く受けているのかなと。やはり自分達で作り上げた作品という感覚が他の作品よりもずっと強く、それがアニメ版に対する『歪められた』という感覚につながっていると推察しました。そこが単なる原作改変問題とは違う根深さなのかな。
自分は『参加型』とは真逆の鑑賞者。京極・花田氏の作家性が強く出ていても何の問題もありません。ガルパンのように映像作品としての演出・技術に感動し『物語』は当然必要だけれどもそれは作品の一部を構成しているにすぎない。それがつまり『構成・演出・楽曲すべてが一体となって表現』の意味なのです。増田にとっては物語(や、それを含むキャラの設定)が重要なテーマであってそれ以外は物語をよく見せるための添え物であるべきなんだろうと思う。そしてラブライブ!においては公野さん以外の作家性が見える事は不快感につながっているんでしょう。
ちなみに私だって物語重視の作品は大好きですよ。『ここさけ』なんて感動しすぎて3本も感想書きましたし・・・。
参考 http://kato19.blogspot.jp/2015/10/kokosake.html
ラブライブ!については原案の先入観なくアニメに入っているだけの違いです。増田は先入観でまずハードルがあり、さらに細かな物語重視の点でさらにハードルがあった。その二つに加えて大事にしていた公野作品が汚されたという感情的な問題が不快感を増幅させているのだと思います。
本当の数はわかりませんが、初期作品からのファンの全てがアニメ版を否定しているわけではないですよね?おそらく増田が一番怒りを感じているのは、初期作品からのファンのくせにアニメ版・劇場版を礼賛している人間でないでしょうか。アニメ版以降の人間はただの無知蒙昧だから啓蒙する必要があるが、初期作品からの人間はなぜ礼賛するのか理解できない。だからラブライバーとしてのアイデンティティを維持するためだけに礼賛している害悪だ。完膚なきまでに叩く必要がある・・・と。
増田氏は絶賛派を宗教的などと揶揄するけれどそれはお互い様でないですか?というより、この議論そものもが神学論争である事を自覚していないのだろうか。私は自覚しています。この問題は宗教論争やイデオロギー論争と全く同じです。
(初期作品群を)肯定をしている様子も殆ど見受けられません。ただ踏み台として蹴落とされるべき歴史としての存在を認めているだけに過ぎないでしょう。先述のメディアミックス理論の持ち出し方にもそれが現れているように思います。 - 絶賛派の負のエネルギーを和らげたい より引用 カッコ内筆者付加
原案作品群を否定していないだけでは飽き足らず積極的に肯定しなければ満足しない・・・踏み絵でしょうか?折伏でしょうか?『目を覚ま』さねまばらないなど過激な宗教団体と同じではないでしょうか。少なくとも私は初期作品群を『踏み台として蹴落とされるべき歴史』とは思っていません。そもそもよく知らないだけですから。
まあ、そういう人もいるでしょう、誰もが議論に慣れているわけではないでしょうから。もちろん私は『批判する奴が悪』なんて思っていません。しかし好きな作品をけなされる不快感は原案派の人だって同じでしょう。貶して凹ませるのが目的なんでしょうか?そうであるなら品がない行為だなぁと思いますが、実際には増田にとって大切な『初期作品群』を不当に扱われている事を質したいという趣旨ではないですか?
それなら絶賛派に対して『自分の感動はまちがっていました。この作品はご指摘の通り駄作です』と言わせる事で目的は達せれれるのでしょうか?私には単なる当てつけのようにしか感じません。
増田とは確かに感じ方もキャリアも違いますが、同じラブライブ!というコンテンツを楽しんでいた者としては、互いを排除しあうのではなく包摂されるべきだと思う。
増田氏がアニメコンテンツの流れに大変造詣が深いだろう事は一連の文章を読む事で推察されます。であるからこそ、ラブライブ!が『もはや好きとは言い難い作品』などと離れるのではなく、その想い・知識を残すべきだと思うんですよね。
それは、ネガティブな文章を増田で埋もれさせるのではなく体系的に整理された作品案内を提示するべきでなないですか。増田の思う本当のラブライブ!の楽しみ方を、初期作品の良さを記録に残す方がずっと目的にかなうと思います。確かに旬は過ぎてますが、ワンテーマのブログだとしても増田で埋もれるよりはずっと有益だと思う。注目されやすいアニメ版にくらべて原案作品群は実際のところ目立たないし、新たなファンには見る事すら困難になっているわけです。サンシャインが出た今はなおさらμ'sの初期情報は検索しにくい状況です。だから意味はあると思う。
個人的には、この一連の投稿はすごいと思うし、内容についての賛否は別にしても、ただ増田で埋もれるのは残念だと思う。でも別の形で発表するにしても、ぜひ否定だけではない前向きな批判。つまり好きな作品を広めるために使ってほしいと思うんですよね。
増田は原案作品が軽く扱われている事に不満を持っていますが、増田にとっては自明の事でもアニメ以降のファンにとってはその周辺知識は非常にわかりにくいのは事実です。サンシャインが始まるとはいえ、これから再放送や配信でオリジナルを見るファンも多いでしょう。実際私もちょっと調べただけでは意外と整理されていない事に気付きました。作品紹介、見る順番、その魅力など、いまからでも整理して発信する事は無駄ではないはずです。はっきり言って知識の乏しい自分には無理です。
それなら読んでみたいと思うし、こんなマイナスのエネルギーで文才を消耗する事はないと思う。もしそんなページを作ってくれたら是非私のブログにリンクしてお知らせください。こちらからも紹介させてもらいますから。
こんな事書くとまたね『上から目線』みたいな批判がツイッターでされそうですけどね。ツイッターで深い議論のやり取りはむずかしいですが、このように長文を書ける人の意見は真意が分かりやすくエネルギーを使う意味があると思います。自分も今回の事で劇場版の良さを変更する気は全くないのですが、初期作品群の事を詳しく知るきっかけになりましたし、批判派の真意というのも(ある程度ですが)理解できてよかったと思っています。
いいじゃん平和で!と思ったけど、まさに批判派にとっては戦争状態なのだな・・・その心中がわかりますね。平和に絶賛を謳歌している絶賛派への怒りを感じます。
海未はアニメ以降特に不遇だと囁かれるキャラの一人であったため制作陣の悪意や、または慢性的な配慮の怠りの結果だと感じる人も多かったようです。
そうなんだ・・・でも海未ちゃん不遇かなぁ・・・アニメ版でもすごく人気あるじゃないですか、自分もかなり好きですよ。でも一番好きなのは花陽ちゃんですね。批判派の人はアニメ版の花陽ちゃんを『ただの米好き女』に貶められた怒っているみたいですけどね。あのキャラ設定良くないですか?アニメ版の花陽ちゃんすごく良いと思うんだけどなぁ。
※以前指摘されたメディアミックス論の『出自』部分については訂正しました。
『ラブライブ!』は私達に何をもたらしたのか? http://kato19.blogspot.jp/2016/01/lovelive.html
追記:最後になって申し訳ないんですが、『絶賛派の負のエネルギーを和らげたい①』http://anond.hatelabo.jp/20160413011057 を見逃してたみたいです!ごめんなさい。読んで改めて追記で補足しますね。(2016/5/1)
μ’s名付けの親の御児勇馬さんがネット上から消えた件について
という記事について。
ブログ主は御児勇馬氏と同じラブライブ!の古参ファンであることを自らの立場の説得力の盾にしつつ論じていますが、実際にはテレビアニメ以前の音楽以外の内容について愛着が皆無であり、
内容的に好きなのは元からアニメ版のことだけであるため、アニメ版ラブライブ!批判者を極めてアニメ以降の新参に近い立場から感情的に否定しているだけで、古参であることを後ろ盾にする資格が無いのではという話。
(ブログ主)
ここにあるツイートだけを見る限り「読者参加型企画として発足したのに現在のラブライブのやり方は制作者からの一方的な押しつけだ」という旨の発言をしていたところラブライブファンからたしなめられて消えていったμ’s名付け親という古参代表といった感じです。アンチにしたら彼もそう言っているんだからやはりアニメラブライブは駄作なんだという使い方が出来てとても便利だと思います。
では『一部のフォロワーからご意見をいただいた御児勇馬によるラブライブ!に関する発言』にどういったものがあったのかというと
コレとか
(御児勇馬氏)
テレビアニメ版の制服or衣装の真姫ちゃんなら吐き捨てる 2012年以前の真姫ちゃんなら首肯する 茶髪の真姫ちゃんなら描いた人を抱き締める
コレです
御児 勇馬 @umamiko
茶髪の真姫ちゃんなら僕の隣で寝てるよ。赤髪のレズビッチは消えろ http://t.co/acqU3Z6Mzt
4 months agoReplyRetweetFavorite
これとか最高に古参拗らせててヤバい— 13代目 (@GARIoftheyear) 2014年5月12日※ブログ主
御児 勇馬 @umamiko
茶髪の真姫ちゃんなら僕の隣で寝てるよ。赤髪のレズビッチは消えろ http://twitter.com/umamiko/status/418739888687554560/photo/1pic.twitter.com/acqU3Z6Mzt
4 months agoReplyRetweetFavorite
「読者参加型企画が蔑ろにされているというのは建前で、自分がμ’sの名付け親であることにプライドがあり自分が名付けたという設定がアニメや漫画で無視された事に不満がある」
「推しだった真姫の性格が改変されたことが気に入らない」
という印象を持ちました。少なくとも真姫を赤髪レズビッチ扱いするのはμ’sの名付け親として…なんて以前の問題でろくでもない発言だと思います。
そんなわけで結局何が言いたいかというと、御児勇馬さんはそこまで聖人君子ではなかったし、上記のような発言をする彼の意見がたかだか名付け親で名が知られているというだけで古参の総意のように扱われるのはファーストシングル発売時から応援してきて、アニメ版ラブライブも好きな自分としてはとても気にくわないのでアンチ諸兄におかれましてはそんなモノに頼らずもっと自分の言葉でラブライブや花田十輝を批判するようお願い致します。
とブログ主は御児勇馬氏をこき下ろしつつ同様に従来設定を持ち上げてテレビアニメラブライブ!批判する者へ釘を刺しています。
しかし、ブログ主は「古参拗らせててヤバい」という言い方からも古参や初期原案設定を好むいわゆる原作厨の立場を適当に馬鹿にしているだけのように受け取れます。
ブログ主は、自分も御児勇馬氏と同じ古参であることを明かして古参にも自分のようなテレビアニメ設定ファンがいると自らの説得力の補強を図っているのですが、その割には御児勇馬氏の心情を「ろくでもない」と完全にぶった切っており、古参だからこそ従来の設定を愛するファンの心情への理解を示す姿勢が殆どありません。
それもそのはず。そもそもブログ主は古参ではあるがラブライブ!原案の作成者である公野櫻子が嫌いな様子で、初期設定や絵柄に元から愛着や思い入れはないことを仄めかしています。
公野せんせーの文章はただでさて修飾過剰で読むのしんどいのに穂乃果が書いてる体の文だから更にすごいことになっててもう。— 13代目 (@GARIoftheyear) 2013年6月4日
公野先生の文章はこんな女いねーよっていう思いと女性が描いてるっていう現実との間で押しつぶされそうになって読めない— 13代目 (@GARIoftheyear) 2013年9月3日
頑張って読んでみたけどやっぱり公野テキストは受け付けないし漫画は本になってからで良いし全部摂取しなきゃファンじゃないみたいなの面倒臭いから適当に行く— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年1月30日
ラブライブ初期って室田絵やゴッドポエムはアレだったけど掛かってる予算と曲の良さはあった— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年6月15日
ラブライブもアニメ化までにあったお話はゴッドのポエムとアルミ版で、あれにコンテンツの牽引力があったかというと疑問— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年9月24日
以上の発言から元から立場上古参だとして、アニメ化以前については音楽の良さは評価していても、キャラ設定や絵など大半の部分については従来から評価し応援してきた様子がないことが分かります。
それにしても、真姫の設定が改変されたことが気に入らない御児勇馬氏の心情を推測した後、それに関しての感想や考察をもう少し真面目に行ってほしい気がします。
その点は多数派と化したアニメ以降ラブライバー派閥に属しているため、適当にこき下ろしても楽に支持を得られるだろうという傲りが表れたようにも映ります。
ちなみに、御児勇馬氏が批判したアニメ版の西木野真姫は矢澤にこや東條希と並んでアニメ前後で設定が大きく改変されたキャラの一人です。
(簡単にいうとアニメ前の真姫がガルパンのアニメ本編の逸見エリカだとしたらアニメ版の真姫は、二次創作においてコメディ色強く歪められた西住みほにも簡単にデレデレになり、催眠オナニーが趣味のエリカというくらいに違います。)
ブログ主は古参でファーストシングルから応援してきたファンを自称し、それを立場の補強に使うならば自己紹介やCDドラマ部分含めた初期設定の内容についても多少好意的に捉える向きも欲しいところですが、
それらの内容には全く否定的な様子でテレビアニメ以降のみを賛美する状態では、興味があったのは音楽か声優だけ、または人気が出そうだから一応ウォッチしていたら人気が出て古参を名乗れてラッキーという立場のようにも思えてしまいます。
御児勇馬氏の設定改変への嘆きは、キャラや作品内容の当時の今とその延長線上にある未来を思って期待していたからこそ応援していたことが受け取れるため、むしろファンとして当然の姿のように思います。
それに比べると、前から作品買って追ってはいたけど人気が出たから、好きな脚本家がアニメ脚本書いたから本格的に推し出しただけであって、実は昔の内容は嫌いだったと言い出す人の方がろくでもない人のように映ります。
黙ってたけど実は俺もアレ嫌いだったんだよね~~~って言い出すタイプは積極的に殺していけ— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年12月1日
ブログ主は何かと古参であることを自説の後ろ盾にしたい様子が見られますが、
既に京極ラブライブ嫌いなオタクが結構いるし今後ロクでもない喧嘩が発生するだろうしそのたびにウザい古参オーラ出しまくります(^^)/— 13代目 (@GARIoftheyear) 2014年6月23日
今度こそ古参になれるとか思ってる弱いオタクにいつでも最古参パンチ食らわせられるようにですね— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年4月28日
アニメ版を大好きな古参の自分がいるのだから御児勇馬氏の嘆きを古参の総意としないでくれとも述べています。
実際に、古参でありアニメ以前の内容を好きでもありながらアニメ版も好き、またはアニメ版の方が好きという人もいるでしょう。
しかし、先にも述べたように彼はただ初期当時を知るだけであり、「ラブライブ!の従来の設定や世界観を愛する故に応援してきた古参ではありつつもアニメ版を評価している」という立場ではないため、立場上はむしろテレビアニメ化以降のコンテンツの姿が一変して人気が出た後に嬉々として本格的に乗っかったラブライバーに近い立場ではないでしょうか。
同時に、ブログ主はアニメ版ラブライブ!批判者をまとめてアンチと断定する態度(まるで昨今オタク世間を賑わしてきた新参ラブライバーのよう)で、御児勇馬氏に頼らず自分の言葉で批判するように訴えていますが、本人も古参であるという立場に頼らず自分の言葉で擁護や批判をするべきなのではないかと思いました。
ブログ主のように古参でありながら過去に何の思いもなくテレビアニメ以降を妄信的に愛するファンは他にも存在しますが彼らは新参同様に基本的に好きの内容を語ることは少なく、好きという立場を語ることが多いので、御児勇馬氏のように作品の内容を好きになって応援していた人の気持ちが分かりにくいのかもしれません。
SIDのコミカライズはSIDの本来の内容を歪めてアニメ版ファン向けにアレンジされてしまっている。
SID自体もアニメ版に設定的に歩み寄った部分があるんだけどね。
恐らく未完のまま終わるけどストーリー付媒体では鴇田アルミ先生の漫画版が一番いいよ。
http://anond.hatelabo.jp/20160221211019
に対する
kato_19 確かにすごい考察ではあるが・・・楽しめなくて可哀想としか。辻褄や現実にこだわる理由がわからない。私の感想『『ラブライブ!』は私達に何をもたらしたのか?』http://kato19.blogspot.jp/2016/01/lovelive.html
匿名でここまで書くのはすごい!でもおりあそ氏同様、脚本の物語性に非常にこだわる点が自分とは大きく違う所。現実に根ざした物語を超えて、抽象化されたアイドル像に魅力を感じるんだよなぁ。 https://t.co/C43GeQjkcD https://t.co/9DE4lPVVaB— kato19@アニメとスピーカーと‥‥。 (@id_kato_19) 2016年3月19日
について。
まず、彼に限らずアニメラブライブのファンが多少筋の通った批判を目の当たりにすると苦し紛れに発することが多い「楽しめなくて可哀想」という感想について。
この表現にこそ、とにもかくにも「ラブライバーである自分が好きだからラブライブが好き』という感情状態から生じた「ラブライバーでない奴は可哀想」という論理が見え隠れする。
一応、何事も楽しめたらそれは素晴らしいことだ、というのにも一理はある。
しかし、見方や立場を変えてアニメ前の作品内容や原案公野櫻子先生による内容を特に愛するファンから見た場合は逆に、アニメと同等以上に可能性に溢れているそれらの媒体をおまけ以下と扱って注目せずにアニメや声優のみに注目し楽しむ現在の大半のラブライバーこそ、楽しめなくて可哀想に映るともいえる。
本来であればもっと楽しかったもの、もっと楽しくなれるものに期待できず楽しめない状態でありながら、あんな物語性もキャラクターも薄く浅いアニメを萌えるとか尊いとかいって満足して楽しんでいることこそ可哀想だ。
と、子供の喧嘩のような言い合いになるので、楽しめなくて可哀想理論は微妙だ。
次に、「辻褄や現実にこだわる理由がわからない」「脚本の物語性に非常にこだわる点」について。
これもアニメラブライブなど、拙い脚本を持ち味とする作品のファンが内容を批判された場合に反論でよく用いる意見だが、この意見が出てくる時点で大体の場合勘違いが存在しているように思う。わざとの可能性もあるが。
アニメや劇場版のラブライブ、少しずれるが艦これなどに至るまで、脚本内容を批判している人達の大半は恐らく完全な辻褄や現実性、脚本の物語性に非常にこだわっているというわけではない。“最低限”の辻褄や現実性が脚本や演出に伴っていないからこそ批判しているのであって、辻褄や現実性絶対主義者だから批判しているのではないことを盲目的に賛美することしか念頭にないファン達は再認識してもらいたい。
もしくは、彼らにとってそれらの作品の「萌え」や「勢い」といったものが上級表現の「尊い」どころか脚本の物語性や辻褄・現実性の拙さと乏しさから来る違和感と物足りなさを補えるほどには全く至っていなかったのだ、ともいえる。
実際、辻褄やリアルさよりも萌えや勢いで全てを吹き飛ばして満足感をもたらしてくれる尊い作品を自分も欲しているが、アニメラブライブはそれには程遠いと思う。
そしてそのような細かい辻褄の拙さやおかしさを吹き飛ばせる萌えや尊さといったものが存在しているものこそ、アニメ以前の雑誌や漫画におけるラブライブ!だと自分は思うのであるが…。
京極尚彦氏や花田十輝氏、ラブライバー達にとってはそんなものより海外ドラマにのっぺりとした無個性の二次元美少女絵を貼り付けて動かしてたまにライブシーンで踊らせておけば萌えて尊い、物語性など要らないって思ってしまうらしい。そのような部分を見ていると、彼らが一体作品の何を好きなのか分からなくなってくる。(そこでラブライバーはラブライバーである自分のファンでしかないという説が起こる)
ラブライブ!はアニメ以降よりも1stシングルPVのキャラクターデザインの方がシンプルながら個性と卓越性があった。当時は黎明期だし全てが未熟だっただろうという雑な先入観から考えて初期の絵や内容を馬鹿にしている者はファンにも多いが、もう一度しっかり見直してみた方が良い。実際初期の雑誌の絵は拙いもっさりした感じの絵もあって、主にそれを持ち出して「初期のキャラデザはこんなに酷かった」なんてネタにされているのをよく見る。しかし、雑誌やスクフェスなどの公式絵はアニメ化以降でも当たり外れがあるのでそのあたりを踏まえて考え直してみる機会を設けてもいいだろうと思う。
次に「現実に根ざした物語を超えて、抽象化されたアイドル像」とそれに呼応する内容が述べられているブログの記事内容について。
『ラブライブ!』って本当に美しいですね!特に劇場版のラストライブ・・・極限まで高められた美しさに圧倒されました。『萌え』の上級表現である『尊い』って言葉がこれほど似合う作品ってあるでしょうか?
ここまで心に響く理由・・・それは『ラブライブ!』という作品がアイドルの持つ偶像部分のみを分離し、現実の枷から飛び立つ事が出来たから。現実に囚われない理想のアイドル像を実現できたからだと思います。
(アニメの)ラブライブ!って何が美しいのだろう。ラストライブの何が美しかったのだろう…。個人の主観だから仕方がないが、同様に自分の主観だと1stシングルのPVの方がまだ美しかったように思うためによく分からない。
劇場版のライブは1期や2期と比べても心に響くものがなかった。楽曲の質が突き抜けてこないのはネタ切れもあって仕方ない所もあるだろうが、無理矢理終わらせようという勢いと都合に溢れていたからだろうか。
「『ラブライブ!』という作品がアイドルの持つ偶像部分のみを分離し、現実の枷から飛び立つ事ができた」「現実に囚われない理想のアイドル像を実現できた」
この意味がよく分からないが、後の記述から推測すると、芸能界というビジネス的なしがらみのある世界から分離され、物語やキャラクター性といった辻褄や論理から脚本やライブ演出に特化され解き放たれたことで自由になった作品だと言いたいように感じた。
しかし、それと併せて考えて見てもラブライブ!という作品が「現実に根ざした物語を超えて」(いる)というのは、先述したような内容の辻褄や物語性の乏しさという都合の悪さを隠すために言い換えてみただけの取って付けたような表現に感じてしまう。
2013年、そこへ発表されたのが『ラブライブ!』という作品でした。架空のアイドルをつくるメディアミックス・プロジェクトを出自とする本作にとって、現実のアイドルという縛りは初めから希薄なものだったのです。
2013年からラブライブ!という作品が始まっており、その時点でメディアミックス・プロジェクトから分離され独立していることが前提であるかのような書き方に嫌悪感を覚える。
現実から解き放たれたラブライブ!という作品
当時、多くの人がアイドルアニメといえばアイマスのようなものをイメージするなか、京極監督はおそらく気づいていたんだと思います。『アイドルアニメはもっと自由になれる』という事に。
『ラブライブ!』のTV放送一回目。多くの視聴者の度肝を抜いた突然のミュージカル演出。これによって本作がダンスと楽曲のコラボレーションに重点を置いた作品である事を宣言しました。
この方に限らずアニメラブライブ!や京極氏を絶賛する人達はこのように言うのだが、そもそも元からラブライブ!は「スクールアイドル」作品で、キャラクターが外のしがらみから独立して作詞作曲・演奏ライブなどを自由に行う描写がある作品も、ブログでも言及されている『けいおん!』などのように以前から存在しているし、その点においてラブライブがそんなに画期的だったとは自分にはあまり思えない。
また、ダンスと楽曲のコラボレーションに重点を置いた作品であることを宣言しても、作品の脚本内容の致命的な拙さやキャラクター配慮の不備の免罪符にはならないし、海外ドラマからパクって間に合わせただけで許されるわけでもない。
そもそも、元々の設定が存在し、それがある程度当時のファンに支持された上で存在していたメディアミックス作品なのだから、どうせ別のどこかから適当に引用する程度にしか監督や脚本家に作品のキャラクターや物語性への真摯さと思い入れが足りていないのであれば、元の作品から丸々引用する方が良かったはずである。それならコピペでも文句を言われないどころか、原案原作を生かしていて素晴らしいと絶賛されていた可能性の方が高いくらいである。
実際、アニメのラブライブ!で古参新参問わず最も評価が高いシーンの一つである1期8話は1stシングルPVの内容をほぼコピペするようにリメイクした内容だった。
それを、わざわざ無関係の別作品から引用して作品やキャラクターの軸までねじ曲げてしまったのは悪意の盗作という見方がされても仕方がないし、別作品へのオマージュやリスペクトとして捉えてあげるとしても肝心のラブライブ!という作品内容への思い入れと配慮の無さが強く感じられてしまい、その意図と効果は肯定的に受け入れにくい。
その特異にも見える現実離れした演出は回を重ねるごとに深まり視聴者を戸惑わせます。しかし秀逸なストーリー構成は私たちの心を掴み、いつしか違和感を感じなくなっていきました・・・ここに、現実のアイドルという枷が外れた『ラブライブ!』という作品がひとつの完成を見たのだと思います。
分かりやすく「特異にも見える現実離れした演出」があったのは主に1期&2期1話・最終話だったと思う。それ以外は態々特異というほど現実離れした演出があったと自分はあまり思わなかった。そのため、時折挟まれる無駄に寒いコメディータッチな演出や描写に違和感と嫌悪感が生じた。
腐ってもキャラクターアニメであるのにキャラクター描写が雑すぎて、キャラクターの魅力が淡白で薄くなっていて消えてしまっている。とても演出や勢いがどうとかでは補えるものではなかった。その内容については先述の批判考察記事やそこで引用される元の批判記事で書かれているので省略。
また、自分でストーリーの物語性や現実性と辻褄にこだわってアニメラブライブ!を見ることを批判的に捉えておきながら、その作品のストーリー構成を秀逸と考えた根拠も少々謎である。
百歩譲ってその論理からストーリーにこだわらず演出やライブ(ダンス)シーンがいい、ストーリーはおまけだからというなら意味も分かるし、それに特化した自由なアイドルアニメ作品を評価する論理としても、その人の中でそう思えたなら仕方ないかと多少納得できるのだが、そこで、無理なおべっかを使うような賛美を繰り出す所にラブライバーらしい空虚で盲目的な部分を垣間見てしまう。そのような評価の仕方を見ているとやはり彼らの感覚と論理の間には齟齬が生じているように思う。
結局の所、ラブライバーはキャラクター描写の拙さや、脚本や物語性を批判されたら「ライブシーンが見所だから」「ライブ演出が~」と言い、その演出もさほど大したことがないと指摘されてしまうと「キャラクターが魅力的で~」「初期から紡がれてきた声優ライブとアニメとの融合によるコンテンツの包括的に捉えた中でのみんなで叶える物語(の物語性)が~」というような形のことを言って相反した発言を繰り出すために説得力がない。
そしてコンテンツの初期からの積み重ねやみんなで叶える物語という既に剥がれ落ちた空虚な幻想の影を掲げて信奉する割には、アニメ以前の作品像やキャラクター像には最低限の興味や配慮を払うことすら稀な人が殆どである。
そのような点を見ていると、彼らは結局作品の中身には興味がなく外部のパッケージだけを愛しているように思える。「よく分からないけど初期から歴史があって人気が出たからみんなで叶えた物語だ尊い」、「よく分からないけど結構可愛い声優がアニメキャラとシンクロしたダンスを踊るために頑張ってるから尊い」というような状態なのではないか。別に作品を楽しむためには必ず重厚で説得力のある感覚や根拠を必要とはしないが、そのあまりに粗雑な状態の感覚や根拠を掲げることが必ずいつでもどこでも許されるわけではないということは少しだけでも覚えていてもらいたいように思う。
一方で、そこで素直に「アニメラブライブはクソでもラブライバーとしてアニメやライブを楽しんでいる俺は最高だ、だからラブライブは最高だ」と言ってくれるのであれば、それはそれで確かに素敵だと思うし、納得できる。それを聞くことで作品内容自体の素晴らしさは相変わらず伝わってこないが、彼らが作品を最高だと思っている気持ちは本物なのだろうと思えるからだ。しかし先述のように取って付けたすぐに剥がれ落ちるような根拠ばかり持ち出して内容評価を繰り返すようだと、何かに洗脳されたり、駆り立てられたりして仕方なく作品を賛美している状態に見えて、彼らが作品を好きと思っている気持ちすら実は偽物なのではないかという疑念が生じてくる。
実体がなく抽象化したからこそ表現できるものがある。劇中の『飛べるよ』というセリフは、まさにこの作品自体に向けられた言葉のように思えてなりません。
現実のアイドルという縛りから飛び立った時、アニメーションはここまでの表現ができるという事を教えてくれました。アニメーションの可能性がさらに一歩広がった事を実感できたのです。
自分は劇場版の『飛べるよ』という台詞を聞いて、苦笑いを浮かべた。最近(2016年3月現在)話題の違法・脱法薬物使用によるトリップを「飛べる」と表現することがあるが、それになぞらえて、「ラブライブ!を見てば『飛べるよ』」「作品内容もキャラクターも全部積み重ねてきた歴史をアニメ化してから根こそぎ捨ててきたから中身は空っぽだけど、裏には歴史があると思い込みながら「今が最高!」と騒げば『飛べるよ』」というようなパッパラパーな意味に捉えられ、作品批評者にネタを提供しているなと感じた。
「アニメラブライブ!という作品は、包括的なストーリー性やライブ演出が魅力だから作中のキャラクター描写とかアニメ自体のストーリー性は雑でもいい、描写の足り無さは効果的な省略だからおかしくても逆にそれがいい(効果的な省略が得意なはずの監督なのに無価値な蛇足なシーンやキャラが多いのは何故?)」というような無理矢理な盲目擁護調の論理はこのブログの筆者や、某K氏やG氏S氏V氏などラブライブ!賛美系評論者の多くに共通しているように思う。京極尚彦氏や花田十輝氏の信者に共通しているのかもしれない。
ちなみに、本作で一番株を上げたキャラはにこだろう。
彼女は出番こそ決して多くなかったものの、登場するたび印象的なセリフや立ち回りを披露し、それを中の人であるそらまる氏が完璧に演じきっていて素晴らしかった。
特に5話の「アイドルっていうのは~」というセリフ、12話の「あんた、それ本気で言ってるの?」から始まって激昂するシーン、いずれも本作屈指の名場面である。
結果として、気難しいところもあるけどそれ以上に可愛いところもいっぱいあって、実は1年生組と一番仲が良くて(面倒見の良さを想像させる)、そしてアイドルに対する強い想いが芯にあってと、これでファンが増えないわけがない。
アニメ以前2010~2012年の矢澤にこがどれだけ可愛くて個性と魅力を両立させていて強く期待を背負ったキャラだったかを知っているとなかなか上記のようには思いがたい。むしろアニメ化の被害者という印象の方が強い。
これが曲者で「印象的」と曖昧な言い方で誤魔化してはいるが、印象的なだけならアニメ前のにこも十分に印象的なセリフばかり残している。むしろアニメ前のキャラクターの方が印象的かつアイドルらしく可愛いセリフや立ち回りが多い。
アニメ前の設定を馬鹿にする新参系や流され系のファン(実質アンチ)もアニメ前の矢澤にこについては「キャラのクセが強い」、「キャラがキツイ」とよく言っている。クセが強い、キツイというのは個性の強烈さの言い換えとも言える。つまりアニメ前の方が印象的なキャラであることを認めているようなものでもある。
アニメ前や原案作成者の公野櫻子系作品の矢澤にこは常に理想のアイドルになろうとしていた存在だった。キャラ作りではなかった。キャラ作りだとしてもプライベートでもその作ったキャラのまま振る舞うキャラクターだった。
その姿勢はアイドル活動に疎い他のメンバーからも尊敬され、一目置かれている描写も多々あった。そのにこのキャラクター性には(公野媒体のギャグ度が弱い)海未ですら翻弄される描写もある。
アニメ版の矢澤にこは花陽と絵里以外には基本的にいつも馬鹿にされている。意識だけ高い振りするウザい奴という扱いのクズである。
一方でアニメ版も印象的なキャラではあったが、良い意味で印象的だったのは最終話付近で穂乃果に檄を飛ばす所くらいであり、寒い天丼ギャグ扱いのために花田十輝が拵えた改悪キャラクターとしての役回りが中心である。
それでも、最終話付近は穂乃果をはじめとした周囲のメンバーが腑抜けていたのと対照的にアイドル活動への熱意と執念を見せるセリフや行動で株は上がっていたのは確かである。
ただ、アニメ以前と比べたら少なくとも株は上がっていない。アニメ1期直後に新規投票者が増えたことで人気投票の度合が増した総選挙の順位も下位を低迷し、最後にようやく自己最低タイの5位に滑り込んだ形であったことからも、1期終盤の展開もあまりカバーする効果がなかったことが明らかになった。
その他、各種ネット媒体での評判を見てもアニメ以降、矢澤にこ=クズ、馬鹿、無能といった印象ばかりが定着してしまい、矢澤にこはアニメで最も株を下げたキャラクターであるというのは当時を多少知る人なら分かるはずであるし、それを認める書き込みや同情の風潮も1期から2期の途中までは他のキャラよりは多く存在していた。
実際にアニメ以後、矢澤にこといえばクズというような扱いのネタ系のスレッドや書き込みが増えて定着していった。
また、そこにアニメ制作側の悪意に近いものが存在していることも、その後の2期で海外ドラマglee盗作問題が浮上した際、glee元ネタ回の損な役回りをことごとく矢澤にこに当てていた所からうかがえる。2期4話や6話は脚本プロットもgleeの元ネタ回に近いが、2期4話の元ネタではにこに当たるキャラは最終的に同情を買うキャラでマイナスイメージは無いストーリーになっているが、ラブライブ2期4話ではフォローがなくただの痛い奴という扱いのまま、メンバーのご厚意で許されたようなギャグキャラ的扱いの流れで終わってしまう。最後のソロライブすらライブシーンはなく終了。6話でも元ネタ同様の憎まれ口を言わせる役をわざわざにこに当ててしまっている。
ただ1シーンならそういうシーンとして認められるだろうが、元からいちいち頭や性格の悪い発言をさせる役をことごとく矢澤にこに当ててきた上でまた駄目押しのようにそのようなセリフを与えたことで呆れたファンも少なくなかったようであり、そこでは既に盲目信者の割合が増えていた当時のラブライバーでも流石に疑問を抱いた者が多かった。それが後のglee盗作疑惑の発覚にもつながったかもしれない。
しかし、この記事の筆者に限らず2期以降はまともなファンが見限って消えた影響もあるのか、ラブライブファンの中心は感覚と思考が麻痺したファンばかりになってしまったようである。
2期途中まではアニメ制作の矢澤にこの扱いを特に問題視したり、かつてのファンに同情したりするファンが結構いたのだが、段々とそういうファンがいなくなり、たまに内容に踏み込んだ批判をする人が現れても、「アニメの被害者は目に見えて出番が少なく映像付きセンター曲もない海未と花陽だ」とか、むしろ「出番は多いが変な行動ばかり描かれた穂乃果が被害者」だとか、
基本的には即時的で短絡的な感情からの物言いをするファンが多く、1期から2期途中まで比較的多かったアニメ化の被害者の代表格が矢澤にこという意見は殆ど見当たらなくなってしまった。
もしかすると、アニメラブライブにおける矢澤にこの描写の問題点を指摘しようとする際、どうしても「アニメラブライブのキャラクター描写や脚本がgleeの盗作ネタがあり、その影響でキャラクター改変を受け、損な設定や役回りを与えられたのが矢澤にこ」
という事実にぶつかってしまい、彼らがなんだかんだいっても大好きなアニメラブライブという作品の根本部分を痛烈に批判・否定しなければならなくなるから避けているのでは、と邪推してみたくなるほどである。
ラブライバーは騒動が段々と大きくなるにつれて当初は問題視していたファンも割と存在していたのにパクライブことglee盗作疑惑の件には頑なに口を閉ざし、批判者を雑に馬鹿にして精神的安定を図るのみで、その問題についてはまともに語ろうとしない所からも本能的に避けるようになった節がある。
スクフェスを制作しているKlabがgleeでスクフェスみたいなゲームを作ったから円満解決とか考えるアホらしい解釈もあるようだが、そういう簡単な問題ではない。仮に盗作が許されたとしてもそれでOKという表面的な話ではないのだが、やはり作品の内容については愛しておらず、ラブライバーをやっている自分の地位だけが大事と噂されるラブライバーという人種はその地位さえ守られたら安堵できてしまうものなのだろうか。
1期の後は、この記事の筆者も実力を懐疑的に見ている花田十輝氏によるキャラクター大改悪により、
人気はあるようだが、大半はチビロリ黒髪ツインテールという記号としての見た目と声優で見ているのが大半であることは、彼らに好きな所を聞くと2期以降の話が殆ど出て来ないことから明らかである。
実際は上に述べた見た目や声優のことだけが好きな理由であり、1期で少しだけ見せた良い所を拠り所に、好きな所を聞かれたらそれを答えておくという状態だろう。
それはそういうものとしていいとは思うが、それで出来上がった人気を根拠に、人気が出たのだからキャラクター改変は成功や正解というのは通らない。
そんな記号や声優という要素さえあればいいならアニメ以前のまま変更する必要は皆無だった。作品内人気の面では今以上に定評があった。
徳井青空は大半が新人若手で構成されていたラブライブ!の中でも早い段階でキャラクターに適応した演技を見せていた。
ニコ生内で、自分で考えてキャラクターのセリフを演じるコーナーでも他の声優より抜きん出て台詞考案と演技が上手かったし、アニメ以前の矢澤にこのキャラクターをよく理解していた。
それもあって作品としては黎明期であった当時の矢澤にこの人気と評価は高く、作品の今後を背負う大きな存在として期待されていただけに勿体なく残念である。
電撃ラブライブ!3学期の花田十輝氏もこの記事の筆者と同様にアニメのそらまるの演技を評価しつつ、徳井青空のおかげであの改変したキャラ設定がものになったみたいなことを言っていたが、徳井青空の演技力を過小評価している。アニメ版矢澤にこを見てアニメ版ミルキィホームズのネロの延長線上でああいうキャラ付けにされたような印象を感じた人は当時多かったと思うが、徳井青空はもっと他の演技もできる声優だと自ら矢澤にこを演じて証明していたのに何故あんな薄く浅いキャラクターに改悪してしまったのか、とても悲しいし悔しい。
ラブライブ!のアニメシリーズというのは結局の所、京極尚彦氏と花田十輝氏のストーリーやキャラクター描写を行う上での無能さを知らしめるための作品でしかなかったし、その最大の被害者は矢澤にこだった。
http://anond.hatelabo.jp/20160221211517
ブログではその後、キャラクター描写の観点から批判が展開されている。自分がアニメラブライブのキャラクター描写について感じたことについては既に言及した部分が多いが、この部分の論述についても内容的には概ね同意できるものである。
ただ、だからこそそう考えるのであれば、突っ込みたい箇所がある。
以下では、以上で書いてきたのと本質的には同じことを別の観点から論じてみたい。それは、キャラクター描写という観点である。
(中略)
このように8人のメンバーの主体性が奪われてきた一方で、それと反比例するかのように各メンバーの薄っぺらいキャラ付けは強化されてきた。(中略)
たとえばこの劇場版において花陽が最も目立つシーンは、花陽がいつも通りにお米キチガイであるということがこれでもかというぐらいにしつこく描かれるシーンである。この劇場版において、花陽がどういう想いでアイドル活動をやっているのかとか、メンバーとのあいだにどんな新しい人間関係が生まれたのかとか、そういうことは全然描かれない。その代わりに、とにかく花陽はお米が大好きで白米が食べられないと気が狂ってしまうほどだということだけが強調されるのである。端的に言って、この映画を作った人たちは小泉花陽をバカにしているのではないかと思う。
キャラ付けにおいては現実のアイドルだってそんなもんじゃないかと思う人がいるかもしれないが、そうではない。たとえば、いつもカメラ目線を絶やさず満開の笑顔で視聴者にアピールする「まゆゆ」という優等生的キャラクターがなぜ魅力的なのか。それは、ファンがそこに渡辺麻友の野心の大きさと意志の強さ、そして完璧なアイドル像への執念を見て取るからである。スキャンダルで名を売ったり、アイドルの殻を破る破天荒な行動を取るメンバーたちが人気を集めるなかで、それでもなお自分が信じた理想のアイドル像にこだわり、それに徹しようとしている。アイドルとファンの距離がぐっと縮まった現代において、完璧なアイドルを演じ続けることの困難さ、時代遅れさを自覚しつつも、それでもなおその道を貫こうとしている。その職人気質、ストイックさ、生き方が人を惹きつけるわけである。このように、アイドルのキャラ付けは表面的にわかりやすいものであると同時に、その人の人生や信念と深く結びついたものでもあるからこそ、見る人の心を惹きつける。アイドルは人間だからこそ、魅力的なのだ。
翻って劇場版『ラブライブ!』において、我々は花陽の白米キチキャラに何を見ればいいのか。あるいは、一様にニコニコとして歌い踊るμ'sの9人のその笑顔の裏に何を見られるのか。それこそが問題なのだが、今の制作陣にそのような問題意識はまるでないようで、判で押したような浅薄なキャラ付けを毎度繰り返すばかりである。もちろん、判で押したようなキャラ付けが普遍的に悪いと言っているわけではない。そういうキャラクターが適している作品だってある。しかし『ラブライブ!』は、元々はそういうキャラ付けをする作品ではなかった。それなのに作品人気が高まり、ファン層が入れ替わるにつれて、人間を描こうという当初のスタンスがすっかり失われてしまった。雑誌連載時代そして第1期の頃に比べて、μ'sメンバーの魅力がめっきり減ってしまったように感じられるのは本当に残念なことである。『ラブライブ!』を、こんな消費の仕方をするための作品にしないでほしかった。(以下略)
この批判においても現実のアイドルである渡辺麻友が比較対象に出されている。AKBについてはあまり詳しくはないので渡辺麻友が実際語られている通りのアイドルなのかは分からないが、ここで語られている渡辺麻友の魅力を読むと自分にはかつて存在したあるスクールアイドルの姿が思い起こされるのである。
アニメ以前の矢澤にこはプライベート含めて完璧なアイドルに近い存在として描かれていた。また、本人も最高のアイドルになれる器だと自覚し、なろうと努力を続けている存在であったし、その姿勢やポテンシャルがメンバーの尊敬を集めたりしてもいた。(公野櫻子氏原案・鴇田アルミ氏作画の漫画版や過去のCDドラマ参照)
そのようなにこのキャラクター性、物語性が人気と支持を得て総選挙1位も獲得したし、自分などはこのキャラクターをもっと様々な舞台で見てみたいと期待していたのだが、TVアニメ以降は大幅な設定改変を行われて、矢澤にこというキャラクターは闇に葬り去られてしまった。
TVアニメではかつての設定は面白おかしくねじ曲げられてネタにされるのみであり、後輩含めた他のメンバーからも馬鹿にされることばかりで、本人もアイドルになりたいというよりはただのアイドルオタクという部分が強調され、努力の跡はあまり見られない。
京極尚彦・花田十輝両氏は元々典型的先輩らしさがなかった絵里以外の3年生キャラを先輩らしい役割を与えたかったために矢澤にこと東條希のキャラクターを改変したらしい(電撃ラブライブ!3学期参照)が、TVアニメのにこの良い意味での先輩らしさは1期終盤の数箇所くらいであり、他は悪い意味でただ偉そうにするだけの残念な存在として描写されている。その点を抜きにしても適当ににっこにっこにーと言わせておけばいいというように薄っぺらく判を押されただけのキャラクターとしてアニメ以降のファンに印象付けさせられてしまった。
つまり、前半にも同様の指摘をしたように第1期の時点でキャラクターを人間として描こうとする当初のスタンスは失われていたことを指摘しておきたい。
ブログ著者の批判の仕方はもっともであるが、渡辺麻友をそのように態々例に出して語りながら、矢澤にこをはじめとするTVアニメ以降のキャラクターの改変について無視して語り通すことに違和感を覚えるし、所詮第1期アニメについては盲目的な信者である所以が見え隠れする。
第1期をはじめとするアニメ版や劇場版を評価する人の存在も個人の好み故に仕方のない部分だが、2期や劇場版のキャラクター性や物語性をあのように初期や現実のアイドルと比較する論理から批判しておいて1期は問題なく賛美する見方に関しては異議を唱えたい。
結局批判に近いような形で締めてしまったが、基本的には概ね同意できる内容であるし、劇場版公開間もない頃にはっきりと内容を批判する記事を公開したのは当時は勿論だったが今から考えても意欲的な試みで素晴らしかったと思う。それまでファンとアンチの盲目的で説得力と内容のない賛美と批判ばかりがありふれていた中で、ファンに多少は内容に目を向けるように刺激を与えた意味で画期的なものだった。
彼の批判がたまたま拡散されたからというのもあるが、個人的に、TVアニメ化以降のラブライブ関係のイベントで最も興味深く見る価値があったのはアニメの内容やライブや紅白出場などよりも彼の批判ブログとその反応関係だったのではとすら思っている。
一時期、ラブライバー界隈で話題になった劇場版ラブライブ!の批判記事があった。
それは、おりあそ氏による
「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html
である。
自分はTVアニメ第2期以来ラブライブ!という作品にうんざりしており、ほぼ既に内容に希望を抱くことを諦めた立場だった。
そのため、劇場版の内容を目の当たりにしても、2期の調子から続きを作ったらこんなものかという程度に軽くとらえていた。
批判記事についても早い段階で拝読の機会を得ており、概ね同意はしたのだが、批判へ寄せられた賛否両論の意見の軽さと2期以来の作品の現状の救いようのなさに呆れていたこともあり、あまり触れないようにしていた。しかし、ラブライブ!(以下ラブライブと表記)という作品が何と言おうとフィナーレを迎えようとしている今になって、少しは気分が落ち着いたこともあって改めて自分なりに読み解いたものを記しておこうかと思う。
彼の批判文の序盤はTV第1期から劇場版の終わりに至るまでの説明なので割愛。その直後の文章から批判と問題提起が始まる。
しかし、アニメ『ラブライブ!』のラストを飾るイベントが、このようなものであっていいはずがないのである。
問題点を明確化するために、3年前に現実世界で開催されたあるライブイベントと対比してみたい。それは「ゆび祭り ~アイドル臨時総会~」といって、普段はライバル同士である人気のアイドル10組が一堂に会し、次々にライブを行うというイベントであった。このイベントが話題となった最大の理由は、指原莉乃という当時AKB48で人気を急上昇させていたメンバーが自らプロデュースをしたことにある。つまり「ゆび祭り」は、μ'sが企画してライバルであるスクールアイドルを集めた、劇場版のクライマックスを飾ったあのお祭りと非常によく似たイベントだったと言えるだろう。
実は「ゆび祭り」は感動的なイベントであった。それは何故かというと、指原莉乃というアイドルの人生物語を象徴するイベントだったからである。もともと指原は故郷の大分県において、熱狂的なアイドルファンとして育った。モー娘の全盛期に小学生時代を過ごし、様々なグループのライブに通い詰める重度のアイドルオタクになったのだ。そしてアイドルへの憧れが高じて上京、自分自身がAKBのメンバーとなり、ブレイクを果たしてこのようなイベントを企画できるほどの地位に登りつめた。つまり「ゆび祭り」は、指原のアイドル愛が余すところなく表現されたイベントであり、アイドルオタクの成り上がりストーリーを体現したからこそ、感動的なイベントだったのである。
この部分、ある意味では三次元アイドルへのアンチテーゼ的な役割が求められる二次元のアイドルアニメというジャンルの批評に実在アイドルのAKBを持ち出したきたことで一瞬、辟易した読者も多いことだろう。自分もその一人であったが、よく読んで考えれば、その意図も分かるものになっている。
実際、AKB指原がAKBとしてデビューする以前からアイドルオタクだったことは有名な話らしくいろいろとエピソードや写真が残っているようである。
そんなアイドルオタクが、一応トップアイドルとなり、事務所などの枠を超えて自分がリスペクトしてきたアイドルを集めて「ゆび祭り」という大きなお祭りを主催したことは確かに快挙である。
そして、この「ゆび祭り」というイベントのチケット代は指原の愛称「さしこ」にちなんで345円という特価であったらしい。自分の好きを極めて走ってきた上で積み重ねてきた成果を現在のアイドル達やアイドルオタクに還元するという意味で確かに素晴らしいイベントだったといえよう。
それに対して、劇場版ラブライブにおけるお祭りが比較されながら述べられているのが以下である。
では、アニメ『ラブライブ!』のストーリーを締めくくったあのお祭りは、どのような物語性を内包していたのだろうか。筆者の考えでは、残念ながら「どのような物語性もない」のである。あのお祭りでは、「スクールアイドル」がキーワードになっていた。しかし今までの『ラブライブ!』で、「スクールアイドルはいかにあるべきか」とか「スクールアイドルの未来」とかいったことが主題になったことは一度もない。穂乃果たちは、今まで他の(A-RISE以外の)スクールアイドルのことなんかちっとも考えてこなかったのである。最後の最後になっていきなり《スクールアイドルという問題》を提示されても、あまりにも唐突だと言わざるをえない。
指原には長年アイドルオタクとしてアイドルに憧れ続けてきた上でトップアイドルになり、先述のお祭りを主催したというプロセスがあるのだが、ここで述べられている通り、μ'sもとい穂乃果にはそんなプロセスはない。
廃校を阻止しようという目標が最初に生まれたが、スクールアイドルという手段は後付けであり、(スクール)アイドル活動は積み重ねてきて目的となるような価値としては弱いものだったといわざるをえない。TVアニメ第1期途中で廃校問題が有耶無耶になり、自分達はアイドル活動をこの9人でしたいんだという方向に物語は動いたのだが、それも行き当たりばったりで賛否両論であった。作中でもまだ比較的まともだった頃の矢澤にこに「穂乃果の(アイドルへの)好きはいい加減」と批判されている。
また、自分達のスクールアイドル活動には目を向けても、他のスクールアイドルに対して何らかの注目を向けたのは穂乃果にアイドル活動をさせるきっかけを作ったA-RISEくらいであり、それも主に廃校阻止や後のラブライブ出場&優勝という目標を達成するための当面の壁やライバルとして注目された程度に留まっているため、おりあそ氏の批判にある通り、指原のような他のアイドルへの想いが高じて開催につながったイベントと比較すると、劇場版で急に穂乃果やμ'sの「スクールアイドル」に対する想いが打ち出され、スクールアイドルを集めてイベントをやろうと言い出すのは唐突であり、付け焼き刃だとか行き当たりばったりといった表現で揶揄されても仕方がないものといえる。
一方で、そのイベントや発想自体は悪いものではない。スクールアイドル全員で楽しい大きなお祭りをしましょうというのはとても魅力的で素晴らしいものである。しかし、作品上仕方ない部分もあるとはいえ、「スクールアイドル」全体のお祭りへの想いを一旦は語り、イベントを開催してみたらμ'sしか目立っておらず、他はバックダンサーに近い扱いというのは、劇場版という大きなお祭りという面を考えてもどうにかならなかったのかとか、他のアイドルやファンへの還元の面でも現実のアイドルに大きく負けているのはどうなのだろうとか考えてしまう。
したがって、あのスクールアイドルのお祭りは作中における開催への過程や内容の意味だけでなく、ラブライブの劇場版というお祭りの観点でも説得力と盛り上がりに欠ける粗末なものだったといえるのではないだろうか。
今回の劇場版ラブライブ!でとにかく目につくのが、このように行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーである。映画の前半では、脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行くことになるが、そこで何かを得ることはなく、後半ではまったく無関係なストーリーが始まってしまう。後半のストーリーから逆算すれば、前半では「スクールアイドル」の問題が提示されていたり、μ's活動終了への伏線が描かれていたりしなければならないはずだが、そういったことは全然なく、ライブ場所を求めて街を探検したりアメリカ人と交流したりするだけである。また、ニューヨークで迷子になった穂乃果は、彷徨っているうちに一人の女性シンガーと出会い、ホテルまで連れ帰ってもらう。この女性シンガーにはいろいろと不思議な点があり、穂乃果以外のμ'sメンバーには見えないなどの設定があるため、「未来の穂乃果」だというのがネット上では最も有力な説である。この女性シンガーは帰国後にも一度穂乃果の前に現れるのだが、それっきりストーリーからは退場し、穂乃果に思い出されることもなく、謎も一切明らかにならない。映画のキーパーソンであるかのように登場しておきながら本筋にはちっとも絡まないというこのキャラクターは、何のために出てきたのか本当に謎なのである。他にも、映画冒頭で描かれる、穂乃果が水たまりを飛び越えるという過去エピソードがこの映画のストーリーに全然そぐわないなど、とにかくこの映画の脚本はいたるところが継ぎ接ぎだらけの雑なものであり、一貫したテーマがないので物語性を感じられない。「物語性がない」と言うと、『けいおん!』なんかの例を持ち出してくる人がいるかもしれないので予め書いておくと、『けいおん!』にはストーリーはない(大したことは起きない)が、物語性はある(一貫した主題がある)。それに対して劇場版『ラブライブ!』には、ストーリーはあるが物語性がないのである。
と、ここも個人的に意見の相違はないのではあるが、突っ込みたい点が何点かある。
そもそも行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーというのは劇場版に限らず、第1期から指摘できる問題点であり、ラブライブというよりも花田十輝氏の脚本によく見られる傾向ともいえる部分である。その点を、恐らくブログ著者は第1期を評価したい立場であるために触れないでいるのだろうが、後々2期や劇場版でそれが起因して物語性やキャラクター性の破滅につながっていることは無視できない。
たとえば2期においても用いてプロジェクト開始初期から掲げていた「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズ。それが本来はコンテンツ全てを統括する一つの物語性やコンセプトになるべきだったし、アニメ化以前は細かなキャラクター設定のブレはあっても、その点においてのブレはなかった。個性や事情を違えるキャラクターが集まった上で廃校阻止やアイドルになるといった目標を叶えること、また結果的に初期からそのコンセプトやキャラクターを支持してきたファンの思いを叶えるという意味にもつながってくることになる。
しかし、アニメにおいてその作中の物語性は破棄された。廃校阻止という目標がプロジェクトを束ねる大きなコンセプトの一つだったが、それは第1期で大会に出たわけでもなく他のアイドルと大々的に競ったわけでもなく達成される。その後μ'sは文化祭における穂乃果の件もあり活動休止となることもあり、せっかく大きな目標を達成できたのにカタルシスが弱い。
アニメラブライブに肯定的なファンの間では「アイドル活動で廃校阻止というコンセプト自体に無理があるから、1期でそれを消化したのは悪くない」という見方があるが、無理があることを簡単にあっさり達成・消化させてしまったたものをよしとする神経や論理にこそ無理があるように思える。
また、裏を返すと、大会に出ずとも廃校阻止につながるくらいにスクールアイドル活動の影響力や効果が大きいことを描写してしまったともいえる。さらに2期では、次に開催された大会に出場し、プロのアイドルを上回るとも言われていたA-RISEをも倒し優勝を達成してしまったのだから、その後のμ'sの人気や知名度は絶大なものとなっていただろう。少なくとも地元東京や関東地区では。
脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行きライブを行い、間違いなく関東の空港である日本の空港に帰ってきたところでファンに出待ちされて知名度を得た自分達に驚くというシーンについてであるが、既に廃校阻止や大会優勝の時点で雑に考えてもかなりの人気と知名度を得ていたはずである。ましてや地元であり、さらに出迎えたファンは同年代であったから今さら驚くことではないはずだが、それに初めての体験であるように驚く描写を入れてしまったことで、劇場版やアニメラブライブという作品自体がどの場面においても何かを得ることはなく、いつもまったく無関係なストーリーが乱雑に入れられるだけの作品だと物語っているかのようである。
続いて、ブログではそのような内容や批判を受け入れるファンの態度についての批判が述べられている。
さて、劇場版『ラブライブ!』は以上のように脚本に重大な瑕疵を抱えているにも関わらず、この劇場版が良かったという人々の多くがこのことを大した問題ではなかったと考えているようだ。ここがポイントである。もし以上で挙げたようなことがそもそも物語上の瑕疵ではないと言うのなら、それは根本的なセンスの違いだからどうしようもない。しかしそうではなく、瑕疵だとは認めつつもそのことによってこの映画の価値が損なわれないと考える人々が多くいるという、その点にこそ本質的な問題がある。なぜなら、これほど重大な物語的欠陥を目にしておきながらそれを大した問題ではないと言うのは、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という物語性軽視の態度に他ならないと考えられるからである。
『ラブライブ!』はTVアニメ第1期以来2年半のあいだ爆発的に人気を拡大し、日本の二次元コンテンツを代表する作品の一つにまでなったが、残念ながらそれと同時に、物語性をひどく軽視するファンを増やしてしまったように思う。そういった人々は、μ'sを一方的かつ即物的に消費するだけであり、μ'sのメンバーに共感したり、あるいは彼女らから何かを学んだりしようとするチャネルを持たない。そしてそういった人々の消費態度は、実際に『ラブライブ!』の作品そのものに反映されるようになってしまった。その結果がこの劇場版における脚本の崩壊だと考えられるのである。
そもそも、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という擁護を持ち出すのも苦しい点がある。
何故かというと、このアニメラブライブの脚本家である花田十輝氏や監督の京極尚彦氏は自分たちが志向する物語性を作るために、キャラクター性やプロジェクトの大きなコンセプト(一貫した主題)を変更して犠牲にした経緯があるためである。(電撃ラブライブ!3学期http://www.amazon.co.jp/dp/B00BW8MRVY等参照)
いくら結果売上が出たとか人気が出たとはいっても、道理に背く大きな決断を下したからには内容に責任を負うべきである。自らが企画し原案から打ち立てた作品なら構わないだろうが、ラブライブは三社合同のプロジェクトであり、原案は公野櫻子氏であるため、彼らは作品の物語性の中枢部分に適当にメスを入れられる資格はない。つまり覚悟を持ってメスを入れてしまったのだから、それ相応の義務や責任を負わなければ話にならない。
本来あったキャラクター性や物語性を軽視した上で、打ち立てたストーリーに不備が生じ、それを擁護するために切り捨てたものを持ち出すというのは都合が良すぎるし、つまりストーリーコンセプトの変更やキャラクター性の変更の失敗を証明しているようなものである。