「十分条件」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 十分条件とは

2021-07-14

「男は男の言う事しか聞かない」のだとしても、

「男の言う事」は必要条件であって十分条件ではないのだから

一部の男が行動してさえいれば全ての男が変わったという理屈にはならないんだが。

2021-06-27

anond:20210626195942

おお、前から思ってたことが言語化されている

フォロワーの多い女オタクってかなりの数が一流大卒一流企業務めでオタ活に割く時間金もあるタイプが多いよね

大体独身貴族なのでオタ活プラス生活にじゃぶじゃぶ金を遣えるし時間があるから多くのコンテンツに触れられて門戸も広いし、教養や文才もあるので感想面白い

そういう人がフォロワー増えるのは自明という感じはある、コスメ投資しまくって新作をバンバン紹介できる人はインフルエンサーになりやすいのと同じ原理

あほぼ同じスペックかつコンスタントにオタ活してるのに全然フォロワー増えない私みたいなのもいるか全然必要条件であって十分条件ではないよ、とはいえ資本主義を感じる例ではある

2021-06-21

anond:20210620135554

Wikipediaにも 「業界内でも明確な基準確立されていない。」 「ライトノベルには、はっきりとした必要条件十分条件がない。」 ってかいてあるやん。

なんで増田定義採用されると思ったの? 何十年も議論して結論出てないのに。レーベルももちろんとっくの昔に剪定された説だよ?

2021-06-11

弱者男性本質的に救うには男女平等を徹底的に推し進めるしかない

弱者男性論はフェミニズムへのカウンターミラーリングからまれ概念で、だからこそカウンターミラーリング以上の社会的意義を持たないし目的もないというのは正しいと思うし、そのカウンターとしての意義すら見失ってしまった「あてがえ論」や「女性教育社会進出制限」などという時代錯誤意見は論外だと思う。

そういった過激思想を取り除いたとしても弱者男性論は結局の所かわいそうランキング向上運動しかなく、弱者であるから優遇されるべきだ、弱者なんだから強者女性)への攻撃正当化されるといった外部への責任転嫁に終止してしまい、その「成果」を得るためにますますかわいそうランキングを向上しようと自身弱者性をアイデンティティにしてしま矛盾に苛まされることになる。だからこそ、弱者男性論に解決すべきイシューはなく救いようはないという意見反論もわかる。

そうは言ってもフェミニズムという性別による差別に戦ってきた先輩の方法論に学び、弱者男性という階層集団発見され名前がつけられたことは意義があったんじゃないだろうか。名前があることで初めて対象考察できるようになる。弱者男性存在を頑なに認めない人もいるが、課題があることを認めることはそれを即時解決しなければいけないことを意味しないし、ましてや解決していないからと咎められることもない。人間できること・やれることには限界がある。まずは「弱者男性」という概念があることだけでも認識されれば十分な気がする。

そんな非モテ弱者男性を本当に救うのは、あてがえ論や女性社会進出制限など女性の権利を押さえつけることではなく男女平等を実現することではないかと思い至ったので簡単に書き下してみる。この増田では上でも書いたとおり特に非モテフォーカスした非モテ弱者男性論について書くので低収入等については考慮しない。一般弱者男性モテの話が切り離せない理由弱者男性論が女性に向けられる理由も同時に書こうと思う。

男女の所得格差

フェミニズムや反女性差別本丸の一つは間違いなく所得格差だろう。具体的な数字もありわかりやすく、女性社会進出指標としてよくあげられる。実際のところ、正規雇用社員において女性所得男性の75%程度に留まると言われており、男性と同一の労働でありながら女性であるからという理由所得格差がもたらされているとすればそれは差別的と言える。

たとえば、統計的女性20代後半から30代の離職率が高いので女性という属性によって雇用を渋ったり昇進を阻んでいるとしたら、それは犯罪率が高いという理由男性保育士雇用を渋るのと同様に差別的だ。

グラフデータはほしい結論仮定して読むと見誤る。女性所得が低いのは女性差別されているからというのは本当だろうか?女性自体が高い所得を望んでいないとしたら?日本女性幸福度男性幸福度に比べて著しく高い。目的手段を取り違えてはならない。大金を手にすることが目的ではなく幸せに生きることが本質的であり金はそのための手段に過ぎない。日本女性は稼ぐ必要に迫られずとも幸せになれるからそもそも稼ぐ必要がないということはないだろうか?逆に男性は「稼がされていて」それゆえに不幸で、女性労働から解放されていて「稼ぐ必要がない」ゆえに幸福なのではないだろうか?

仮に実際に稼ぎたかったとしても女性は稼ぐ努力をしているだろうか?非モテ弱者男性悲鳴を上げているとき真っ先に投げかけられる「モテ努力をしていないのでは?」「だからモテないんだ」という言葉、そのまま返ってくることは考えなかったのだろうか?まさかキラキラ文系キャンパスライフみたいなことをしてなんの学も積まずそれゆえに「パンプスを履かされる」ような労働しか選択肢がないことを差別などといっているのだろうか?低い職業能力しかいか容姿が問われるような目にあっているというぐらいの想像力もないのだろうか?女性性を求めず、責任に伴って高い給与を与えてくれる仕事なんていくらでもある。

シンプルな話として、そんなに稼ぎたいならなぜ女性理系を選ばないのか?少なくとも稼ぎたい女性であれば実際的に稼げる能力やそういったキャリアパス投資すべきだろう。理系修士博士女性の知人友人なら年収1000万程度かそれ以上も珍しくない。

成果物を求められる仕事成果物こそが全てだ。愛想笑いでは機械は動かない。そういった世界では性別なんてものは些末で、結果を出す人間こそが正義だし高い対価も支払われる。なぜそれを目指さないのか?「稼げる努力をしていないのでは?」「だから稼げないんだ」と言われても仕方ないのではないだろうか?

女性性的客体化

フェミニズムや反女性差別文脈で特徴的な表現女性性的客体化や性的消費というものがある。性的客体化はものすごく簡単にいえば「女性をモノとして扱うこと」「女性主体性を認めないこと」である

女性に限らずだが同じ人間人間として認めずモノのように扱うのはまったくもって不当であるし、そういう風景を見るのも不快に感じる。そして女性がそのような人間的でない、男性の性欲を満たすためのモノ扱いを受けるといったシーンは見たり聞いたりする。そういった加害者と戦うべきだ。書くのも嫌だがいわゆる「ヤリ捨て」といった言葉などにもあるように、モテ強者男性女性をモノのように扱うような話は枚挙にいとまがない。ではフェミニスト女性モテ強者男性と戦っているだろうか?

これはトートロジーではあるがモテ強者男性女性モテるのだ。すなわち、なぜかフェミニスト女性は自らを性的客体化するモテ強者男性攻撃しない。それどころかモテ強者男性に群がっているのだ。つまり女性性的客体化を積極的に支持しているのは女性自身という矛盾が生じる。そしてなぜか女性には触れることも会話することも早々にかなわない非モテ弱者男性攻撃するのである

フェミニズム文脈ではこの性的客体化の不自然適用がしばしば行われる。いわゆる二次元女性に対して「これは女性性的客体として扱っており、そのような表象女性の累積的な抑圧経験の強化につながる」と。たしかにこういった表象男性ATMに例えたり年収評価するようなことを公の場で発言することで直接的な男性経済的客体化・モノ化と同様抑圧的かもしれない。

このような過激な言説は一部の極端なフェミニストの行動であり大半の女性はそのような攻撃的なことは行っていないと思うかもしれない。しかし様々な研究で明らかになっている通り女性男性の上位2割程度にしか魅力を感じず、そして魅力を感じない非モテ弱者男性8割についてはその行動の如何に関わらず不快だと感じる。席替え非モテ弱者男性が隣の席になったからと泣く女性がいた場合加害者はどちらだろうか?

このような非モテ弱者男性積極的排斥しようという女性本能欲求が、相手を求める男性の「正(+)の性欲」に対して相手排斥しようとする女性の「負(-)の性欲」と表現されたことは記憶に新しい。

この負の性欲と「女性不快と思ったら加虐」とされるセクハラ性的消費という概念の組み合わせは非常に強く、何をやっても女性不快と思われかねない非モテ弱者男性女性の気分を少しでも害したらセクハラだと指弾され社会的抹殺されかねない。

女性男性に対して身体的に弱いため男性が近くにいると恐怖を感じるという話と同じように、非モテ弱者男性女性から中傷セクハラ指摘ナイフによっていつ刺されるか常に怯えながら生活しているのだ。悪いことに、暴力を振るえば逮捕は免れないが、セクハラ指摘なら非モテ弱者男性社会的に殺してもなんの罪にも問われない。

これが弱者男性論が非モテと不可分であることの理由であるモテの量は女性感情的加虐からの盾であり、非モテであることは女性から加虐を受けることを直接的に意味する。そしてその意味において現代日本男性ほとんどが弱者男性であり、結婚していても「本当に結婚たかった男」にはなれずATMとして扱われたり旦那デスノート罵倒されたり托卵されたりなど被虐される立場にあるのだ。あてがえ論は女性人権制限するという意味でもまったくもって荒唐無稽であるが、同時に弱者男性の救済にも値しない。

男女平等弱者男性を救う

ここまでだらだらとフェミニストの主張や女性差別について考察してきた。端的にまとめると現代日本では一般的に女性理性的に行動ができず本能を抑えることができない野蛮で怠惰状態にあるということが言えるかと思う。そしてそれが非モテ弱者男性という女性加虐される被差別階級を生み出している。

しかしここで短絡的に「だから女が悪いんだ!女はダメなんだ!」と思った方々は少し落ち着いてほしい。これは上記あくまでごくごく僅かな例から一般化した話であり、女性のすべてがそのように振る舞うということを意味しない。今短絡的に怒りに飲みこまれあなたより遥かに理性的で、高い成果を上げ人類に貢献してきた女性はそれこそ星の数ほどいるだろう。すなわち「女性であること」は「理性が弱く本能を抑えることができない野蛮で怠惰状態」の必要条件でも十分条件でもない。つまり弱者男性論に散見される女性叩きではなにも解決しない。そうではなく、現代日本女性がそのような野蛮で怠惰な振る舞いをしてしまいがちな構造的な問題があると考えるべきだ。

そしてその構造問題を解消できれば、女性理性的主体的になり男性同様本能を抑えられるようになることが期待できる。そしてそれは非モテ弱者男性にとって本質的な救いになりうる。

社会男性本能抑制するように要請することで近年の社会秩序の発展と女性地位向上がなされてきたように、女性本能を理性によって抑制できるようになれば女性による非モテ弱者男性への中傷排斥加虐が抑えられ、何度も訴えられてきた非モテ弱者男性の消耗した自尊感情社会とのつながりの回復も期待できるだろう。

では、女性本能を理性で抑制できず野蛮になってしま構造問題とはなんだろうか?おそらくそれは男女の不平等だろう。

男女平等を推進するには

未だに「女性高学歴だと結婚できない」「男性自分より所得の多い女性結婚したがらない」「女性家事愛嬌」といった女性に対する社会的抑圧は残念ながら存在する。そしてこのような女性教育社会進出を推奨せず結婚して扶養されることこそが幸せだという価値観の押しつけは女性教育社会進出を阻害するだけでなく、そういった過程で培われる理性的思考主体性女性から奪ってしまう。同時に女性に「私は社会から抑圧された」という言い訳を与えてしま努力するモチベーションを失わせて堕落させてしまう。こうして本能のままに弱者男性攻撃排除被害者面をしながら強者男性に媚びを売る怠惰女性構造的に発生してしまう。繰り返すが彼女らにその責任はない。構造問題構造的に解消されるべきだ。

ではこれらの慣習を打破し、男女平等を実現して女性理性的になってもらうにはどうしたらよいだろうか。高度化した現代では教育の水準がある程度強く所得に影響しており、経済的事由によって教育を受けるインセンティブを設定できる。すなわち女性が「稼がねば」と自ら思うような状況を生み出すことで、必然高い教育を受け理性が鍛えられ本能抑制できるようになることが期待できる。

ではどうやったら女性が「稼がねば」と思うようになるだろうか?わかりやすいのは婚姻制度にメスをいれることだ。しばしば「女性婚姻制度で楽をしている」「理解のある彼くん」と批判されるように、女性男性収入依存する構造女性怠惰堕落させ社会進出を阻んでいる。ひいては最初に上げた所得格差などを温存する結果となっている。

そのため女性男性収入依存できないようにし、女性自身必死に「稼がねば」と思うように法律修正するのが効果的なはずだ。たとえば

このように、女性男性収入依存するための多くの法律制度存在する。基本的にこれらの法律修正をしたとしても「一人暮らしが二人」の経済状況とは変わらないため、女性がきちんと社会進出労働し稼げている限りにおいて女性が極端に不利になることもないはずだ。にもかかわらずこれだけ「女性男性収入依存せよ」というシグナルが法律にまで入り込んでいるのはグロテスクに感じる。女性社会的制度によって強く婚姻男性依存して堕落することを動機づけられてしまっているのは異常だし、社会活躍たかった・できたはずの多くの女性にとって悲劇と言えるだろう。フェミニストとしても解決したい課題のはずだと思う。

もちろん女性出産に伴うフォローのための法改正も同時に必要になるだろう。これだけは男性にはどうしようもない。1年間の法定産休・育休と休職間中給与保証などの大胆な支援策もあるべきだと思う。フェミニストのいう結果平等はこういった形で強力に推進されるべきだろう。

出産後に男性経済的支援があるならとパートタイム等の責務の軽い・時間の短い仕事に移ってしま女性も多いと聞くが、上記婚姻制度改革によって男性依存を断ち切ることで改善が期待できる。男性のように「働かなければ・キャリアを失ったら死ぬ」という緊張感があれば成長意欲も刺激されるだろうし離職率も下がって「女性は30代になると離職するから」などという理由採用・昇進を渋られることもなくなっていくだろう。

このような先進的な男女平等の実現・婚姻制度解体によって女性男性同様社会に参画し、男性に求められるよう女性も理性によって本能を抑え他者への加虐性を抑制することで、弱者男性は初めて「弱者男性」としてではなく「弱者」として男女平等な救済の道に進めるだろう。弱者男性本質的な救済は男女平等推し進めることにあるはずなのだ

2021-06-06

陰謀論者は増加中?フラットアーサーは日本にも。

いつもは反ホロコースト否定論活動報告みたいな投稿してるけど、ちょっとだけ視点を変えてみようと思った。

Netflixビハインド・ザ・カーブ』の衝撃 

地球平面説の広まりを知ったのは、Netflixにある「ビハインド・ザ・カーブ」を何年か前に見た時くらいからだと思う。いわゆる、トンデモ説を信じる人が昔から絶えないのは知っていたけど、まさか地球平面説を現代で信じる人がいると言うのは私にとっては衝撃的だった。科学万能の時代に生きていて、スマホには当たり前にGPSを使った地図アプリがあり、毎日天気予報には観測衛星データが使われ、そんな人工衛星宇宙ゴミになるほど衛星軌道上に存在してて、海外旅行では時差を合わせなきゃならないし、ネットを使って海外の人とリアルタイムでやりとりすればこちらは昼でもあちらさんは夜なんてよくある話――と地球が球体でないと考え始める理由が見つからないほど文明人全員が地球が球体だと知っていると思っていた。

 

そんなフラットアーサーたちが拒否する考え方である地球が球体である事実」を何故、現代文明人のほとんどが受け入れているのかをアーサーたちに言わせれば、それは「NASA陰謀」らしかった。アーサーたちは例外なく、たくさんの他の陰謀論を信じている。9.11は当然アメリカ政府陰謀だし、人類は月へなど行ってないし、イルミナティだのロスチャイルドだのシオンの議定書だのと言ったよくある陰謀説をいくつも信じている。もちろん、ホロコーストだって連合国ユダヤ人による陰謀だ。アメリカン・アーサーのオキニ映画は『トゥールーマン・ショー』である理屈的に言えば似たような発想であるマトリックス』にならないのは、正直、知性の問題だとしか思えないわけだが、アメリカン・アーサーの直感にピッタリなようである。(ほんの少しだがレベルが上がるとマトリックスの「白ウサギを追え」が合言葉になるQアノンになるけれど)。

 

アーサーたちは改心することがあるのか?

どうも、それはないようである。アーサーにも色々な人がいて、積極的に「地球は平面か球体か?」を科学的に調べようとする人たちもいる。200万もする高精度ジャイロを使ったり、あるいは遠距離レーザービーム飛ばしカーブを調べようとしたりするのだけど、自分達で調べておいてその「球体である」と証明されたはずの実験結果を都合よく平面説の方に合わせてしまうのだからけがからない。私は、ネットを通じて何人かの人に聞いてみたのだけど、一様にその回答者全員が「信仰を変えさせるのは無理」との返事だった。都合の悪い様々なエビデンス無視するか、何かが間違っているからだとか、都合よく解釈して平面説に無理やりに合わせてしまうので、どうしようもないらしい。

 

何故そうまでして平面説にこだわるのかを聞いてみると、直感に反するから、だけのようである。例えば、科学的に説明される「地球赤道上で時速1700kmで回転しており、太陽の周りを時速10万8000km太陽自体銀河系を時速85万kmで移動している――だなんてアンビリーバボー!」なんだそうだ。確かに、そんな速度で動いていたら人間はひとたまりもなく吹っ飛ぶ説を覆そうとすると、それらが相対速度であったりすることを「科学的に」説明しなければならなくなるので、アーサーの知性の方が早々に吹っ飛んでしまうだろう。

 

フラットーアーサーは日本でも増殖中?

そんなアーサーは海外からこそ見られる現象なのかなと思っていた。特にアメリカは、進化論否定する人たちが大勢いることもよく知られているし、アメリカ人はアメリカこそ世界の中心だと思っている人も大勢いて、地球平面説が受け入れられやすい土壌があるから広まっているんだと普通に考えていた。しかし流石に日本は海に囲まれ島国だし、「日出る国」と呼ばれるからこその「日本」でもあるし、なんとなくイメージ的にフラットアーサーは皆無に近いと思っていたのだけど、そんなことはなかった。こんな本がとうとう日本にも。

地球平面説【フラットアース】の世界 単行本(ソフトカバー) – 2021/2/2

私が知らないだけで、昔にもあったのかもしれないが、レビュー欄を見て二度目にびっくり。一つだけ引用してみよう。

Eden Mediaというチャンネルで、CGI宇宙偽装している動画を見てからフラットアースってありかもと思っていました。地球がとんでもないスピードで移動していることを、本を読むまで全く考えたことがなかったのですが、数字を見たらありえないスピードです。私はめまいがするメニエール病で苦しんだ経験があるので、考えただけでも気分が悪くなるような異常な速さの高速移動。こんなのあり得るの?と思いますが、実際に現実の地面は全然動いている気配がしません。あと重力とか引力とかが、単に仮説だったとは。とにかく自分常識だと思っていることが、実は真実ではなかったという驚きの連続で、とても面白いです。

南極条約の不自然さがとてもよくわかりました。きっと南極条約世界中がウソをつくことに契約したんだろうなと思います。騙されていたことに腹が立ちますが、新しい世界が見えてきたようで、なんだかすがすがしい気分。フラットアースオカルトでもスピ系でもなくて、自然ちゃんと観察して出した結論だと思います自分でも太陽や月を観察してみたいです。とにかく本当の世界が知りたいと思いました。

南極条約世界中がウソをつくことに契約した」だそうであるわたしゃ、南極条約というと、ファーストガンダムで「捕虜の扱いは南極条約に則ってくれるんだろうな?」のコズンのセリフしか思い浮かばなかったけど、そっか、南極の向こうは地球平面の縁だったもんな、アムンゼンの偉業は嘘だったんだね、――ともかく、結局そういう陰謀論で解決するんだと呆れた。

 

フラットーアーサーは単に知性のレベルが低いだけだから生ずるのか?

知性レベルが低いのは必要条件ではあっても、十分条件ではないとは思う。個人的に思ってるだけの話だけど、知性レベル教育レベルであるとか元々の頭の回転の良さであるとか、特に定義があるわけではないが)が低くても、ほとんど大抵の人は自分が知らないことに対しては思考シャットダウンする。例えば、私は歴史に非常に弱いのだけど、そうした知らない歴史の話が出てくると、普通に私は知らないだけなので話に加わることはほぼ出来ない。実際、誰もが知らないことがたくさんあるのが当たり前だし、そうした無知世界に対しては、ほとんど大抵の人は考えること自体は無いはずである。極端な話をすれば、私の飼ってる猫のプリンが、地球が球体であるか平面であるかなど考えることがあるとは信じられない。

 

私たちは、そうした考える必要がなかったり、考えても知らないだけの事に対しては、普通思考シャットダウンするのではないのか。この話については、AI領域の話で、「フレーム問題」ってのがあって、簡単に言うと「ありとあらゆることについて考えないと行動に移せないのであれば、そのロボット永久に止まってしまう」というパラドクスである私たち人間はどこかで思考シャットダウンするからこそ行動が出来ているのである。例えば、道路交通法では自動車運転手は今から運転する自動車を最低限の点検しないことには運転してはならないはずだが、ほとんどの人が運転開始前の点検などしないはずだ。これを極端に考えて、自動車のありとあらゆる部分について点検しないと安全を保てない、などと考え出したら、一生かかってもその自動車運転することは出来なくなるはずである。「ガソリンに異物が混入していないか」「バラして点検した後に組み付けた時に何かミスはしていないか」「何か部品時間的劣化はないか」等々。

 

一言で言えば「余計なことを考えるな!」だけの話ではあると思うのだけれど、その余計なことを考えるように仕向ける「自分の頭で考えてみろ」というアドバイスをする人がいるから困る。著名な哲学者ルードウィヒ・ヴィトゲンシュタインは「語りえざることについては沈黙すべし」と言ったが、私に言わせれば「考えても無駄なことは考えるな」と翻訳したいところである

 

なんか話が変な方向に行ってしまったが、ともかく、地球平面説な人たちは日本ももしかすると増殖中なのかもしれないよ。

2021-05-22

大分と私

今日十分条件って文字を見て、ひとつ棒つけたら大分だなと思った

その後、あれ?大分って県あったっけ?って思った ぼーっとしてたからかな

県じゃなくてどっかの地域名前か?それとも私の幻想か?

そんなことはないあるだろうと思って調べたらあった 幻想じゃなくて良かった

大分って九州にある感じがしない

じゃあどこにあるのかと訊かれてもどこにもしっくり来ない

私と関わりがないか異世界にある感じがする というか存在を忘れていた

抽象的な漢字ⅹ2で構成されているのも異世界感がある 私の中でふわふわ浮いてる

大分って単語最後発音したのはいつだったっけ、とふと思った

いま小声で3回言っといた 6回言った

ヘルスケアアプリ大分って項目があったとしたら、今日の記録はディズニーに行った日の歩数よりもずば抜けているはずだ

私は色んな選択をする時に名前できめがちだが、大分って単語はなんか好きだ なにか関わりを持ちたい、大分

ゲシュタルト崩壊してきた

こんなに大分のことを考えるのは人生最後な気がする なんだか悲しくなってきた

ますぐ私の異世界大分に行きたい

2021-05-14

良い子ちゃん巨乳が嫌われる

https://anond.hatelabo.jp/20210513130417

これ、単純なヒロイン論争じゃなくて、

「(腐・非腐問わず)大量の女性読者から『良い子ちゃん巨乳』が盛大に嫌われる」(別ヒロイン特別好かれてるわけではない)

勢力として大きすぎる(のに対して作者と編集ちょっとグラつく)のが簡単に語れない話なのよな

 

最近だと『あせとせっけん』の主人公が嫌われてたし、今日ホッテントリで言えばアイシルのまもりもすげー嫌われてた

古くは北村薫の「私」(別に巨乳ではない)もその良い子ちゃんぶりで多くの女性読者から蛇蝎のごとく嫌われてたのが忘れられない

ハーレム漫画等の「当初から負け確とわかってる、要員の一人でしかない地味眼鏡巨乳」とかだとそこまでは嫌われないんだけど。

 

少年青年漫画女性読者も多く獲得しつつ「良い子ちゃん巨乳ヒロインがあまり嫌われないラブコメ」を作るのはかなりの難事業だと思ってる

 

僕ヤバやその着せ替え人形~辺りははやりの両片思い事実上対抗馬がいないのと「『良い子』だけど『良い子ちゃん』じゃない」んだな、

と書いてて気づいた

良い子ちゃん十分条件はなんなんだろう……

 

さらに余計な疑問)

しか男性向けコンテンツだとすさまじく嫌われがちなのに、TL漫画主人公は良い子ちゃん巨乳圧倒的多数だよね?

2021-05-12

anond:20210512132201

... いや、だから、「民主化あくまでも必要条件であって十分条件ではない」と言ってるだろうが。

民主化必要条件であるって主張は、「民主主義じゃない国は良い国の条件を満たしてない」って主張にほかならない

まり民主主義独裁より無条件に素晴らしい」って話となんもかわらんじゃん

他の条件が同じであれば民主主義であるだけで良い国に近いって主張になってるの自分でわかってないの?

 

... ほう、それじゃあキミは日本なんかよりもキューバに住みたいと本気で思えるかね? (もちろんたとえばの話だよ)

日本に生まれて今それなりにいい暮らしさせてもらってるからからキューバ移住するってのは考えてないけど、労働者として生まれるならアメリカよりはキューバのが絶対いいと思うわ、まじで

anond:20210512115136

民主化兆しすらない独裁国家」って指摘してるなら「民主主義独裁より無条件に素晴らしい」って主張をしてるのと一緒じゃん

  ... いや、だから、「民主化あくまでも必要条件であって十分条件ではない」と言ってるだろうが。

キューバではキューバ共産党による独裁憲法に明記されてるけど、犯罪率は低いし、誰でも最先端医療アクセスできる素晴らしい国だろ

  ... ほう、それじゃあキミは日本なんかよりもキューバに住みたいと本気で思えるかね? (もちろんたとえばの話だよ)

anond:20210512104948

横だが、、、  

民主化したら良い国」みたいな考えはあまりにも浅すぎるわw

   って言うけど、誰もそんなこと(「民主化したら良い国」みたいな考え)は言ってないぞ。

そうじゃなくて、「民主化兆しすらない独裁国家」と指摘されてるんだが、違いがわからんのか?

要するに、民主化あくまでも必要条件であって十分条件ではない、と言えばわかるかな?

2021-05-07

anond:20210506234730

わざと主語デカで煽ってるのかと思いきや、この増田を支持してる人気ブコメとか見てると、

どうやら必要条件十分条件という論理学の基本概念理解していないっぽい

バカのフリしてるのかと思ってたけど、この界隈、本当に頭が悪いのがいるんだな

2021-04-21

[] #93-6「栄光の懸け箸」

≪ 前

そして、これも弟たちだけの話では終わらない。

このやり取りを学級内でやっているということは、教員達の耳にも必然的に届いた。

まり、今度は教員保護者の間で箸の持ち方談義が繰り広げられることになる。

子供達が箸の持ち方ひとつ揉め事を起こすのは、授業での教育が不十分だからですよ」

教育必要なのは一理ありますが、この件はどちらかというと我々の管轄外だと思うんですよねえ」

給食時間だってあるわけですし知らん顔とはいかんでしょ。あれだって、ただのランチタイムではなく教育の一環ですよ」

モメるのは決まっていた。

しかも、弟たちより年上で知識も語彙も多く、コミニケーションの妙も理解できる同士だ。

そのグダグダっぷりは俺たちの時の比じゃない。

「やはり家庭科の授業等で、しっかりと時間をかけて教えるべきでは? 一時間、二時間はいわずワンシーズンくらい」

「箸の持ち方だけでワンシーズンですか? 他にも教えたいことがあるのに」

「なんだったらオールシーズンあってもいいですよ。将来、料理裁縫は避けられても、食べるために使う箸は今後も確実につきまとってきます

「うーん、でも個人資質もあると思いますし。同じことを無理やりやらせるのは、昨今の潮流を無視しているといいますか。みんな違って、みんないいの精神でいきませんか」

多種多様人間がいる中で社会を回すためには、時に同じことが求められる。それを学ぶための義務教育、その場所としての学校しょうが

大人たちは一回りも二回りも歳を重ねているから、当然ながら箸を使ってきた回数も遥かに多い。

その分“拗らせレベル”が高まっているんだ。

そんな中で繰り広げられる談義は、俺たちのディベートもどきや、弟たちの口喧嘩とはワケが違う。

「まあ、先生が渋る理由も分かりますよ。生徒に箸の持ち方を教えるためには“必要条件や十分条件”が必要ですからねえ」

「……私としましては、箸の持ち方ひとつ他人にとやかく言わないよう教える事の方が大切だと思っていますので」

道徳の授業でマナーの大切さを教えているのに、箸の持ち方は自由しろでは通らんでしょ。子供はそういう不合理に敏感ですぞ

彼らは長く生きてきたが故に、箸をちゃんと持ててない人をより多く見てきた。

今でも矯正せずに生きてきている人もいたりする。

それを気にする時も、気にしないようにする時もあっただろう。

から箸の持ち方について、腹に抱えているもの若者よりも熟成されている。

先生の言ってることは、箸の持ち方を直す気がない人間ポジショニングトークしかないんですよ。それの何が悪いのかと逆切れする術でも教えるっていうんですか」

うーん、この歳になって箸の持ち方で説教なんてくらいたくなかった……」

しかも彼らは教育者という看板を背負っている手前、その日限りの雑談で片付けられなかった。

次 ≫

2021-04-12

anond:20210412144640

見向きもしないというか一部の推理ゲームみたいに規約的に配信できないゲームもあるから

「Vが見向きもしないか流行っていない」は勘違いの元だと思う

必要条件であって十分条件ではないってやつ

配信できないゲームでもツイッター雑談プレイしていることを話すVはいるけどね

それにつけてもポケモンGOにハマっていると言われても「配信して」とコメントできない悲しさよ・・・

2021-02-20

anond:20210220123756

逆裏対偶やら必要条件十分条件が分からない人の文章なんて読めたものではないと思うが

anond:20210219201256

大概の県には「天下の○○高」「○○高生にあらずんば人にあらず」と称されるようなトップ校(旧制一中を前身もつことが多い)があって、地域政財界に強力な高校閥を作っていることが多い

子供がそうした高校卒業すると、地域でのエスタブリッシュメント資格を得ることになる(もちろん十分条件ではない)

また地方でも周囲より地価の高い住宅地があって、その地域小学校中学校は落ち着いた環境で成績も優秀だ(大都市圏以外では新興の「高級住宅地」は避けた方がいいかもしれない。城下町だと昔は武家屋敷街だったりする)

そうした地域民度が高く文化的程度の高い家庭が多い

江戸明治から続く階層社会の名残は地方ほど色濃く残っており、上級土地に住んでトップ校に子供を通わせることによって、上質な友人を作り文化資産を身につける可能性がでてくる

大都市圏でなければ、トップから東大いったりしたら地元役所地銀での出世は期待できるし、政治家だって夢ではない

リベラル的な価値観からすると気持ち悪く感じるかもしれないけど、地方左翼に傾倒してもいいことはあまりない

2021-02-02

年収の高い男は魅力があり、年収の低い男は魅力がない

お金が多い事に対する軸の場合はそうなるが

それは別に年収の低い男が「嫌い!」と言っているわけではない

「魅力が無い」ことと「嫌い」なことは別の意味であって

「魅力が無い」=「好きじゃない」は成立するが

「好きじゃない」=「嫌い」は成立しない

まり論理的

嫌い → 好きじゃない 【成立】

きじゃない → 嫌い 【不成立】

「好きじゃない」ことは「嫌い」の必要条件であって、十分条件ではない

これを考えられない人は多い

同様におっぱい軸において「巨乳好き!」ということは「貧乳が嫌い」というわけではない

貧乳が好きじゃない」だけなのだ

からおっぱい以外の魅力の軸を作ればいいだけなのだ

優しい性格とか、料理が上手とか、いつも笑顔とか、励ますのが上手いとか、耳掃除をしてくれるとか、

肌がきれいとか、声がかわいいとか、フェラが上手いとか、締まりが凄いとか、甘えるのが上手とか、

働きもの家事が好きとか、いい匂いがするとか、機転が効くとか、笑いのツボが合うとか、

趣味があうとか、なんとなく波長が合うとか、絵が上手いとか、実家金持ちとか、体が物凄く健康とか

色々な魅力の軸があって、みんないい

2021-02-01

社会学は滅びるべきなのか

 以下の文章は、社会学客観性が無いか学問の体をなしていないか解体すべき、という暴論を見かけて、趣味社会学を学んでいる人間イラッとして書き散らしたものです。専門家によるまともな読み物としては、盛山和夫社会学方法立場: 客観性とはなにか』(2013)、佐藤俊樹社会学方法――その歴史構造』(2011)(たまたまですがどっちも東大系の人ですね)、あるいは以下で紹介する「客観性論文」やそれ関係論文などがあります。ちなみに「岩波科学科学論文」の人に関しては擁護のしようも無いと思います

 たとえば、この宇宙スパゲッティモンスターによって創作されたという誤ったイデオロギーを抱えた科学者がダイナマイト発明したとして、ダイナマイトは誤った発明であるとか、あまつさえ存在しないということにはなりません。それはそれ、これはこれ、という態度が科学的というものでしょう。しかし、誤ったイデオロギー社会学者が抱えることは望ましくないとされます。なぜでしょうか。

 それは社会社会問題が、原子DNAが「存在する」のと同じ意味では「存在する」と言えないことに根本的な原因があります。たとえばホームレス現在社会においては色々な意味問題とされていますしかし、ホームレス人類の定住以前においては間違いなく問題概念として存在していませんでしたし、中世近世においても今日と全く同じ問題としては存在しなかったことでしょう。原子がこの宇宙の始まりから今と同じように存在していたのとは対照的です。ホームレスを扱う社会学が、物理学生物学と比べて胡乱なものに見えがちな理由はここにあります。誤ったイデオロギーを抱えた社会学者は誤ったもの存在するとみなしてしまいかねないのですね。

 しかしだからといって、今日ホームレス問題としてまったく「存在しない」と言い切ることはできないのもまた確かな実感でしょう。原子の「存在」とは別の意味とはいえ社会社会問題は確かに存在」する、と言いたくなります。「実在」と「非実在」のあいだの独特な在り方。社会学者はそのことを「社会実在」のような言葉で表してきました。これはいかにも怪しい物に思われますしか今日における我々が「ホームレスになりたくない」、「ホームレスが怖い」、あるいは「そうしたホームレスに対する差別的見方こそが問題なのだ」と思っているのもまた確かなことです。およそ100年前、そのことを単に思うだけでなく、その思い自体を当時隆盛しつつあった科学方法分析しようと考えた人々がいました。

 マックス・ウェーバーの「社会科学社会政策にかかわる認識の『客観性』」(以下、客観性論文)という1904年論文がありますウェーバー社会学におけるビートルズであり、この論文イエスタデイくらいの重要さと著名さを誇ります。要するに、まともに社会学をやっていればなんとなくは知っているべきもの、という位置づけでしょう。(ちなみにLet it beは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。読んでいないのは許されない)

 とか言いながら私は手元にその本が無いので、ネット記述に頼りつつ思い出した記憶で以下のことを書くことをお許しください。

 ウェーバー客観性論文のなかで社会学者がよって立つべき「価値自由」という概念提唱します。この主張はしばしば「価値判断をしてはならない」とか「価値判断に影響されないデータだけを虚心に扱うべきである」といった主張として誤解されていますしかしそうではなくウェーバーはここで「社会学者もまた人間である以上、何かの価値判断を持ってしまうことは避けられない。そして価値判断は時として認識を狂わせる。しかしだからこそ、社会科学的に取り扱う社会学者は価値判断認識区別しなければならない。そのためには自分の持っている価値判断に対して敏感でなければならないのだ」といったことを主張していたはずです、たぶん。客観性論文については多様な読解や批判がなされている(上に私の手元にその論文が無い)ので客観性論文の内容についてはこれ以上立ち入らないことにします。以下ではその代わりに、客観性論文に関する微かな記憶を頼りにしながら、社会学客観性について考えてみたいと思います

 たとえば次のような主張がなされることがあります。「数字は嘘をつかないが、数字を使う人(社会学者!)は嘘をつく」。けだし名言でしょう。しかし、社会学であるならばもっと深く考えなければなりません。ここでは「ホームレスの人数」について考えてみましょう。ここで名言に従って単純に考えるのであれば次のようになるでしょう。ホームレスの人数は、数学物理における定数のように誤ることなく(それを測り間違うことはあるかもしれないが)存在しているが、それを多いとか少ないとか、それを減らすべきだとか主張する人は誤ることがある、と。

 後半は確かにそうでしょう。しかし、前半は間違っています。たとえば、日本政府ホームレスについての統計を発表していますしかし「国民税金を使ってホームレスの人数を数えよう」という時点ですでに何かしらの価値判断が働いています。そのことは政府サイトに「ホームレス実態に関する全国調査」が載っていて、「鼻くそをほじって鼻血を出した人の実態に関する全国調査」が載っていないことを考えてみればわかるでしょう。こうした極論を言うと、「どちらも数字としては存在するが、後者はただ(未発見物理性質のように)見つかっていないだけだ」と言われるかもしれません。しかしたとえば日本政府ホームレスに関する調査は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法第2条に規定する「都市公園河川道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所として日常生活を営んでいる者」」を対象にして行われているようですが、ここからはいわゆる「ネットカフェ難民」がその統計から漏れています。これは単なる「測り間違い」なのでしょうか。そうではありません。「ネットカフェ難民」をホームレスに入れるべきか、あるいはそもそもネットカフェ難民」をそもそも問題」とすべきかこそが、ひとつ価値判断であるのです。「ネットカフェ難民」を入れたホームレスの人数と入れないホームレスの人数、どちらが正しいでしょうか?それは重力加速度として2m/s^2と9.8m/s^2のどちらがより正しいか、という問いのようには答えが出そうにありません。

 社会についての数字は、自然科学における定数のようには存在しないのです。つまり社会における事実は、自然科学における事実のようには存在しません。そのような状況で、いかにして社会科学的に扱うことができるでしょうか?

 もしかしたらそもそも可能かを問う以前に、そんなことを目指す必要があるのか疑問に思う人がいるかもしれません。あるいはより直裁に「社会科学的に扱う学問社会学って何の役に立つの?」と聞かれることはしばしばあります。それには多様な答えがありうるでしょうが、私は次のように答えることにしています。「何かの役に立つわけでもないのにやらずにはいられないのが科学の出発点なのだ」と。人間が持つ認識能力や、何かを書く/描く、喋るといった能力は、生存する上での必要から発達したはずです。自分の周囲を見渡す能力や、自分が見た物事他者に伝える能力は、それを持っていない種よりも生存上の有利をもたらしたことでしょう。しか人間は、その必要性を越え出たところまでその能力を、あるいはその能力によって生み出すものを発達させました。それは、芸術とか哲学とか、あるいは科学とか呼ばれるものです。存在しない風景を描くことに、どんな必要性があるでしょうか?死後の世界を思い描くことに、どんな必要性があるでしょうか?そして宇宙の星々の表面を調べることに、どんな必要性があるでしょうか?こういうことを言うと、次のように返されるかもしれません。「芸術哲学生存に不必要かもしれないが、いまのわれわれは科学無しには生きられないではないか」と。まあ、確かにそうです。でも、それは科学根本的な不必要性を否定するものではありません。人間ホモサピエンスは、ニュートン万有引力発見する以前からずっと世界覇者であったではないですか?それでもニュートン万有引力発見したのは、「世界のことをもっとよく知りたい」という、ただ生きるためには不必要知的欲求、こういってよければ人間特有本能からであったはずです。「ただ生きる」ことに飽き足りないのが今の人間であり、そうした人間が生み出したのが芸術哲学科学です。そのうちの科学欲求が、これまた不必要に複雑化した社会のありように向かうことも、私は自然なことだと思っています。先のような問いをする人には、正直に言えば「なぜあなた社会について科学的に分析したいと思わないでただ生きていられるのですか?」と私なんかは思うのですが、これはさすがに社会学に頭をやられてしまった奴の意見でしょう。ほかの社会学者はもっとうまく説明することができるはずです。まあ、そんな可哀想な奴もいるんだなと思っておいてください。でも実際、「社会に対する科学認識って必要?」と言われたら、究極のところ「認識したいんだから仕方ないじゃん?」としか私は返せません。なのでこの問題放置して次の段落に向かいます

 さて、いか社会科学的に扱うことができるかという問題でした。その問題は、社会に「存在する」もの数字が、ふつう科学が扱うもの数字と同じようには「存在しない」、というところから発生しているのでした。より明確に言えば、社会実在は、それを観測する人や社会価値判断を抜きにしては存在し得ないという独特の性質を持ちます。たとえば「ネットカフェ難民」は、ここ二十年ほどの日本労働環境ネットカフェの事情抜きには科学的な意味で「存在しませんでしたし、さらに言えば科学的な意味で「存在」していても、支援団体の人々などが発見ニュース等で取り上げられるまでは社会的に「存在」しえませんでしたし、いまだに政府ホームレス統計には「存在」していない、という状況にあります。そのことは万有引力宇宙の始まり以来、ニュートン発見しようとしまいと科学的な意味で「存在」していた、あるいは今現在未知の物理現象生物現象が、まだ発見されていないだけですでに世界のうちに「存在」していることとは対照的です。

 価値判断抜きで存在し得ない対象を、いか科学的に扱うか。それこそがウエーバー客観性論文のなかで考えたことでした。ここでよくある誤解は、そして絶対に避けられるべきなのは、「社会実在は実は価値判断抜きに存在しうる」と考えたり「価値判断抜きで存在するもの社会学は扱うべきだ」と考えたりすることです。前者が存在しないことはすでに説明しました。社会実在は――それが単なる数字統計であっても――価値判断抜きには存在し得ません。であるからして、後者社会学根本的に否定する思想です。そういう価値判断に影響されざるを得ないもの、すなわち社会社会実在をよりよく知りたいと考えるのが社会学なのですから。それを否定する人に対しては何も言えないということはすでに述べました(あくまで私個人からは、の話ですが。ほかの社会学者はもっとうまく説得するかもしれません)。

 そこでウェーバーが述べたのが「価値自由」でした。社会学者は自分価値判断をわかっていなければならない。より分かりにくく論文に忠実な言い方で言えば、「存在する」ことと「存在するべき」ことを区別しなければならず、科学は「存在する」ことしか明らかにできない。このウェーバーの主張に対しては、それもまたひとつ価値判断ではないか、という主張を投げかけることが可能ですし、一見ただのいちゃもんに見えるその問いは、社会学の中で大真面目に議論されてきました。私の見たところ、この問題は答えが出ない種類の問いなので、取り扱わないことにします。いいじゃないですか、どんな学問だってドグマの一つくらいありますよ。それより重要なのは、「自分価値判断をわかる」ことが、本当に社会実在を扱う上での十分条件であるのか、ということです。それが必要条件であるのは確かにそうであると思います。ある社会学者が「ホームレス問題についての社会学分析」という論文を書くとして(テーマが広すぎますがそれは置いておいて)、その人が「自分ホームレスを望ましい人間の在り方ではないと考えている」とか「というかホームレス気持ち悪い」とか「ネットカフェ難民をホームレスに含めていない日本政府問題である」とかい自分価値判断自覚していなければ、それは社会学研究として成り立たないでしょう。しかし、それだけで十分なのか。社会実在というものは、もっと慎重に取り扱わなければならないものではないか。(実際、客観性論文より後の後期ウェーバーも、そう考えて「理解」を社会実在根本に据えたと私は理解しています[詳しくないので間違っているかもしれません])

 と、ここまで書いて疲れたので一旦筆を置きます。続きは最初に挙げた二冊を読んでください。でも、ここまで読んでくださったあなたに問いたいのですが、私の書いたことは多少なりとも興味深くはなかったですか。社会学はこのような根本的な問いを抱えながら成長してきましたし、まだその途中にあるのかもしれません。私の考えるまともな社会学者はこの文章における中心的な問い「社会実在とはどのようなものか?」に対する、この文章以上に説得的な答えをそれぞれ持っています。そこが人によって違っていいのか、と思われるかもしれません。もしかしたらそこが社会学の駄目なところかもしれません。しかし、おおよその社会学者は確かにウェーバーや(この文章では触れませんでしたが)デュルケームなどが作った社会学歴史の上で考えている、という点では一致していると思います。それこそが社会学共通性であり、知的伝統であるとみなしてはもらえないでしょうか。よろしくお願いします。

2021-01-02

anond:20210102004925

金を出している国はトップ論文も多くGDPたかい。

これっていわゆる科学考察ってやつなの?

因果関係が全く伝わってこないんだが。金を出していることがトップ論文を増やすための必要条件なのか十分条件なのかも不明

しか科学的とかいいながら「トップ論文」とかいうすっげーいろんな意味にとらえられるクソ抽象曖昧言葉を使う科学センスの無さ。

引用数が多い論文トップ論文なんですか?人口多い国でゴミ論文互いに引用しまくって数増やしまくるのもカウントしてんの?ん?

それともインパクトファクター?ん?

そんな素晴らしい本を読んだお前の口から出てくるのが、↓これなわけ?

金を出している国はトップ論文も多くGDPたかい。

2020-12-14

日記を書こうと思う

日記を書こうと思った。

日記を書くのは何年振りだろう。

まずはあまりまらず、文体も飾らず、思いつくままに自然体で文章を綴っていこうと思う。

どうせ誰かに見られているわけでもないのだ。

格好つける必要もない。

思えば(思ってばかりだ)、人の目ばかり気にして生きているような気がする。

喋る時、声の大きさや口調、あるいは内容、大学にいるとき他人視線、年齢を気にしている。外を歩いているとき他人服装無意識に目がいってアレコレあの人はどうだと批評したくなるのは自分他人からどう見られてるか気にしていることの裏返しのような気がする(また、気がしてしまった)。

正直、疲れる。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

から、誰もいない特に馴染みのない住宅街なんかを散歩しているととても心が落ち着く。

神経症と言ってもよさそうだ。

過剰に他者視線を気にしているし、不意に暮らしの中で誰かに自分人生否定されやしないかと、ビクビク怯えながら過ごしている。身を強ばらせて、責められたときのために理論武装をして。

実際にそういう機会に出くわすことはほとんどないのだが、何気ない日常会話のなかのふとした発言に、弱り切った心を傷つけられたり、同じような体験をした人の恐怖心にSNS共感してしまったりするのを繰り返しているうちに、なんだか外を歩けば蔑まれるんじゃないかと思うようになってしまった。

難儀なことだ。

なまじ人生途中まで順調に見えたがために、プライドだけは人一倍高くて、困る。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

今、これを母校の一角で書いている。

思えば(また思った)、mixi日記を書いて友達と見せあっていたときもこの学校に通っていた。

今はコロナで対面授業は実施されていないのか、学生の姿は疎らにしか見えない。

私の青春を彩ったこ学び舎は、少し角張ってピカピカしたいけすかない講義棟が増えたことを除いて、概ね往時のぬくもりを残して私を迎え入れてくれた。

このキャンパスに舞い戻って呼吸を取り戻したようで「ああ、今まで苦しかったんだな」とようやく気付けた。

実家もかつての家も失って、未来もなく、現在灰色の私にとって、本当に数少ない、幸せだった頃の感覚身体に思い出させてくれる場所

いつまでもこのまま変わらないでいてほしい。

代謝がいいことは健康必要条件であって十分条件ではないのだ。

私は故郷に変化を望んでなどいない。

いつまでも、私が過ごしたあのころのままで。

願わくば……

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん