はてなキーワード: SDGとは
08:00 09.10.2023(更新: 08:06 09.10.2023)
エレナ・カラエワ
パリの外交政策は、ニジェールの新たな当局の行動による高圧電線の影響で長い間苦しむことはなかった。6週間以内に、マクロン大統領(そして憲法によれば、共和国大統領は国際社会での行動に対して個人的に責任を負っている)アリーナ)ニアメとの関係が180度変わった。
「我々は軍事政権と反政府勢力を認めない。我々の大使館は引き続きその機能を遂行する」というものから、ほぼ軍事力による外交要員の性急な避難まで。しかし、降伏はそこで終わりませんでした。彼女の第二幕は、第一幕(在外公館職員から朝食のクロワッサンすら与えられなかったとき)よりもさらに屈辱的なもので、まだ始まったばかりである。
現在、パリは控えめな民間人ではなく、15,000人の軍人を避難させなければなりません。さらに、忘れてはいけないのは、軍の分遣隊が依存しているすべての兵站設備です。
もちろん、最初の場合も二番目の場合も、最初はさまざまな悪口を言われ、ほぼすべての罰則を受けると脅された人々との交渉が必要でした(もちろん、これはシャンゼリゼ通り全体で叫ばれるわけではありませんが、これは理解できます)。軍事介入も含めて。少なくともECOWAS軍、あるいはナイジェリア軍によって。
しかしそうではありません。フランスは走っています、そして非常に速く走っています - 宣言されたすべてのスローガンにもかかわらず、概してそこから決して去りたくありませんでした。
西アフリカでは、ほんの5年前、パリは都市生活者が田舎の家にいるような気分でした。自由、義務からの自由、パートナーとの関係における礼儀正しさの非常に条件付きの遵守。一言で言えば、このアフリカはなんて美しいのでしょう!完全に無料ではないにしても、すべてが夢にも思えないほどの割引で提供されます(たとえば、貿易に関してヨーロッパのパートナーと交渉する場合)。このエスタブリッシュメントは飼い慣らされているだけでなく、肌の色が違うだけで、全く同じエリート民間科学ポーや軍人のサンシールで教育を受けた全く同じフランス人であるため、あらゆる紛争はすぐに解決される。
しかし、ある時点で、西アフリカを自分たちの裏庭のようなものだと考えていたフランス人自身とのこの形成と特定のサークルでの循環は、悪い冗談を言った。
ガリアの雄鶏を国の象徴とするフランスは、ハンターに追われるウサギと化した。ゴーン氏はニジェールの首都ニアメまで先導した。
そこで彼らは厳しい行動をとり、州兵はモハメド・バズーム大統領を追放した。そして彼女はフランス人たちに出ていくように頼んだ――バイバイ。彼らは顔をしかめ始めましたが、一ヶ月間は十分な勇気を持っていました。ニジェールに続き、ガボンもパリに対して反乱を起こした。リーブルヴィルもニアメと同様、パリが常に正しいという関係をもはや好まない。
アフガニスタンの大失敗から2年間、フランスはただ逃げ続けるだけだった。政治学の用語で定義すると、逃亡は影響力の喪失と呼ばれます。心理学的に言えば、面子の喪失。
多かれ少なかれ成功を収めながら、たとえ倫理的に欠陥があったとしても、実用的な観点から正しいものであっても、ガリア主義政策の遺産として保存されていたものはすべて失われてしまった。まあ、日常にたとえると、酔っ払いが飲み代を稼ぐために家宝を売り飛ばしたようなものです。
理論上は保存されるはずの全く同じ遺物に、我が国とのつながりが含まれていた。
しかし、そうではありません。アフリカで打撃を受けたパリは、同時にモスクワとの関係を裏切ることに成功しました。あちらこちらの地上への橋を破壊した。
今日、フランスは追い詰められ、国際舞台でのあらゆる駆け引きの場を奪われているが( BRICSサミットへの招待拒否はその一例にすぎない)、それはひとえに自国の過失によるペルソナ・ノン・グラータである。彼自身の臆病さと政治的近視眼が不治の段階に入ったことに、すべて感謝させてほしい。
Франция капитулировала в Африке — полностью и окончательно
先日、ガチの下からの抗議に排除・除名・シャットアウトで絶賛迷走中な共産党中枢なわけだけど、
つまり、本気で共産革命なんかやる気のない、なあなあな空気に染まってる現状維持派なのが良かった
党を憂う、あの赤旗の偏った内容を本気で信じて実行しちゃう真面目な抗議者は、
共産党に票を入れる身としてはありがたくないなあと思ってたり
企業との汚職関係ズブズブな面で自民の後釜になりそうなとこや、
官僚組織を破壊しすぎて組織が機能しなくなりかねないとこを避けつつ、
ああ、コラボで公金チューチューとか言ってる現実認識能力ゼロな人の理屈は当然無視よ?
公金でのサービスの恩恵にあずかってるという意味では多かれ少なかれでいえば日本国民全員、自分の払った税金よりずっと公金チューチューさせてもらってるし?
俺らそんなまじめに自分の収支を報告してるわけもないし、あんなもんは程度問題だからね
程度が酷いからちょっとは体制を整えろ(そのための補助金も増やすから)、ならわかるが、チューチューはねえよな
だいたい、共産党を若い人の感覚で現代価値観にアップデートしようってなると、とたんに水着コンテスト中止になるわけですよ
赤旗はSDGs大好きだし、コラムに連れてくる現代思想家やコメンテーターは割とミーハーな面子で浅いゲーム批判が掲載されたりするし、
あれを真面目に読んで「こういうのを実現しなければ」と思う人より、なあなあの現状維持派のままでいて欲しかったなあ…
題名だけであらぬ想像した者に予め言っておくと、これは俺が女性に中出ししてしまった時の話だ。
当時大学生だった俺の財力では予算は3万程度しか出せず、選んだのは吉原の大衆店だった。
予算面以外でその店を選んださしたる理由は無いが、店のホームページを見て良さそうな女の子を予約して当日向かった。
だがもう選び直しできないしお金も払ってるのでそのままプレイに入った。この子で俺の童貞が終わるのか。
そしてついに挿入へ、女の子は俺の上に跨り、俺のモノを握ってそのまま腟内に挿れた。初めての挿入。
ん?待て、ゴム付けてないぞ?
というか付けさせてもらう暇も無く女は俺のモノを自分の中に挿れてしまった。
そのまま腰を上下に動かす女。
こういう物なのか?
これも前戯の内で、一旦ストップして避妊具をつけるタイミングがあるのだろうか?いや、射精していなくてもたしか妊娠のリスクはあったはずだ。
大丈夫なのかこれ?
俺は不安に駆られるが、女はお構い無しに腰を激しく動かした。
俺もそろそろ限界になってきた。このままだと膣内射精になってしまう。
いいのか?いや、良くないだろ流石に。
少なくとも一旦止めて欲しいというつもりで言った
だが女は「いいよ出して」と言って離さなかった。
結局そのまま中に出してしまった。
女は手慣れた手付きでティッシュで腟内の精液を拭き取っていたが、俺の内心は平静でいられなかった
今日あったばかりの知らない女性に中出してしまった、ヤバいどうしよう。
その後は適当な会話をして終わった気がするが、あまり良く覚えてない。
帰り道、ずっと不安だった。
童貞を捨てたという達成感よりも、さっきので妊娠させてしまったらどうしようという不安と恐怖で頭がいっぱいだった。
後で分かった事だが、俺が何も知らずたまたま選んだ店は隠語でいうNS店、つまりノースキン(避妊具無し)でセックスができる店だった。
だが俺はそんな事知らなかったし、そういう風俗の暗黙の了解もわかりようがなかった。
店のホームページにはそんな事どこにも書いていなかったし、そういう事を知る術は利用者の口コミ情報だけだからだ。
確かに俺はセックスがしたかったし、童貞を捨てたかった。だから自分の意志でソープランドへ行ってセックスしようとした。
だがまったく不意打ちの形で避妊具なしのセックスをさせられてしまった。
俺はこの事がトラウマでそれ以来セックスをしていない。最初で最後のセックスだった。
あれから15年経ち、あの頃のトラウマは薄れてきたと思ったが、最近になって西沢5ミリという女の漫画家がこういう画像を投稿した。
https://pbs.twimg.com/media/FxRywwsagAE9NHm.jpg
"女の子が「生でしていいよ♡」なんて言ってもバッキャロー!!とかたくなに否定なさいね"
あの時の思い出が蘇り、今度は怒りが湧いた。
西沢5ミリの画像と、昨今の性加害の様々な話題が結びつき、言い様のない怒りが込み上げて来た。
女が望まないセックスをされても「否定できなかったのは恐怖で抑えつけられていたから」という言い訳が通用するのに
女が「生でしていいよ」と言って「かたくなに否定」できず生でしてしまっても、その責任は男のほうにあると言うのか
俺の時は否定できなかった。
セックスのためにソープへ行ったけどまさか避妊具なしでやるとは思って無かったし説明も何もされなかった。
一通りの前戯の後、こちらに何の合意も確認も無く避妊具無しで挿入させられたし、冷静な判断ができなかったから言われるままに膣内射精させられてしまった。
そしてトラウマになった。
女性がセックスしても「あの時本心は合意では無かった」と言えば性暴力になると言う
だったら俺の場合も、俺の本心では合意で無い膣内射精をしてしまった事は性暴力になるのでは無いのか。
"女の子が「生でしていいよ♡」なんて言ってもバッキャロー!!とかたくなに否定なさいね"は、西沢5ミリはそんなつもりも、俺の事も認識してないだろうが
俺はこれで西沢5ミリに「どうしてちゃんと拒否しなかったの?」「拒否しなかったからお前の落ち度だ」と言われているようで、セカンドレイプを受けた気分になった。
https://anond.hatelabo.jp/20230530012214
ふざけるな!!!!!
俺に膣内射精させた風俗嬢がピルを服用していたとしても避妊率は完全に100%というわけじゃない
俺のような状況でも相手が妊娠したらそれは俺の責任になるとでもいうのか。
相手は風俗業として、仕事として、業務をこなしただけかもしれない
だがこちらに合意や確認も求めず生挿入して中出しさせた責任は一切無いのか
確認を求めたら「できれば避妊具を付けさせてほしい」と言えたかもしれない
だが相手はそんな確認も求めず、困惑して何も言えない俺に当然のように避妊具無しの挿入をさせられ、中に出されてしまった。
何も言ってこないから喜んでると思った
怖くて何も言えなかった
ふざけるな、それはこっちの台詞だ
だが取り沙汰されるケースはどれも男→男のケースばかりじゃないか
女→男の性加害は何故クローズアップされない
女→男の性加害は存在しないとでも言うのか
というかそういう場合でも性加害者は男側にあるとでもいうのか。
どうやら世間は「望まない膣内射精」はいつどんな時ありとあらゆるどの場合においても女が被害者だという事になっているらしい
だが男だって望まない膣内射精をさせられてしまう事だってある。俺がそのケースを実際に経験した。
俺は取りこぼされたんだ。
今更、望まない腟内射精させた風俗嬢や風俗店に責任を求めようとも、当事者の所在はもう分かりようがないから無理だ。
だが「射精責任」だの「男が100%悪い」だの言われる状況で、俺は常にありとあらゆる方向からセカンドレイプを受けている気分に陥っている。
「望まない妊娠の責任は100%男にある」そんなワケ無いだろう!!!!!!!!!!
少しは想像力を働かせろ!!!!!!!!男だって望まない腟内射精だってさせられる事もある!!!!!!!!!!!!!!!!!!
俺の存在を無かった事にするな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
【追記】
https://anond.hatelabo.jp/20230531083531
>その風俗店を運営してるのは男の性欲でそういう仕組みになってるのも男の性欲のためなのに女に文句言うなまじで
>そうやって責任の所在を誤魔化して女の負担にしてるっていうのがまさに問題として本で言われてることじゃないのか
>精神的に傷ついたのは十分理解するが100歩譲ってもそれは男のせいだわ
じゃあその理屈で言うなら世の中には女性経営者の女性用風俗もあるが、そこで俺と同じような何も知らない利用客の女が避妊具なしでセックスさせられたらそれは女の責任になるのか?
正直、ないものねだりが透けて見えるんだよね。
それを言わずに、卑怯な物言いをしているだけにしかみえないよ。責任という言葉にくるんだりするひともいるよね。
それは、子供のいない世帯からみてもないものねだりはあるし、どちらの側からみても、実際、お互いにうらやましいと思う部分があるわけで。
しかし、甘えという言葉で物事を考えるなら、ふと思ったんだが、国益という考え方はむしろ危うい。
現役世代はトータルで見て、将来世代に依存して生きているんだから。国益などという言葉にくるんで甘えているのは自分たちだと考えたほうがいい。
債務問題しかり、資源問題しかり。将来世代のリソースを食いつぶすことなくツケを回すことなく開発しなければいけない、というのが1987年のブルントラント委員会の結論。
将来世代に何を残せるかを考えるのは、子供がいる世帯だけの責任じゃない。
その意味で、小梨世帯との間に何か差異があるわけでもない。DINKSが将来世代のことを何も考えなくてもいいわけではないよ。
どちらかといえば、親の世代の甘えによって、託された負債や資源の欠乏、未来永劫続きそうな原発事故処理業務、親の世代が過剰に投資して老朽化した経済社会インフラ維持、
ナニカグループとずぶずぶ。津田大介とか朝日新聞社がヤフコメたたきをしていたのは検索結果をゆがませる目的になっていたようだ。
誹謗中傷、反差別、人権、すべてが税金を泥棒するための言い訳になっている。包摂とかSDGs、LGBTもそう。アンコンシャスバイアスとか非科学的で妄想でしかない。
すでに、日本のマスコミは暇空茜をあつかわないが、イーロン・マスクのツィッターファイルズも扱っていない。日本のマスコミは反社会的集団であるといわざるを得ない。
それではどうしてYahooが検索を捻じ曲げているのかを証明しよう。
https://anond.hatelabo.jp/20230109234113
昨日書いた記事、こっそりと書いておいたつもりだがいきなり人気に入っていて何事かと思ったが、暇空茜氏がツィートしたからのようだ。
当方はツィッターのアカウントはないの。いうなればログアウトした状態で鍵垢はわからないが、時系列で並べてみる。
日本の言論空間を左翼がゆがめているので弁護士活動はやはり法律で規制する必要を痛感する。
これを書いている時点では、大体12くらいしかない。
だ
@
8時間
ひかげ
@h·
9時間
ぽ
@z
9時間
@f6
@s
9時間
k****
@***
9時間
山***
@y****
C***
@S***
ぱ***
@p***
P***
@P***
暇空茜
@himasoraakane
アベプラで藤田孝典、税金泥棒スキーム擁護失敗 anond.hatelabo.jp/20230109234113
ぽ****
@u****
た***
@d***
10:39
暇空氏は10:31くらい。つまり暇空氏をBANしているのである。
つまり暇空茜氏自体が現れないようになっている。これはPCでもスマホでも同様だった。
https://togetter.com/li/2041262
こちらでもトップ。RT数などは4000を超えている。鍵垢でもない限り、これを超えるツィートはない。
暇空茜氏はタイトルだけしかツィートしておらず、特段BANされるような内容は見当たらない。
また、記事の内容には議論があるかもしれないが、当記事は藤田氏を擁護しているものだ。攻撃ではない。
また、違法でしかないのは、本来藤田氏は違法ではない、デマだ、ミソジニーだといいに来たのにできなかったからである。
なぜできなかったかについてはすでに述べた。
以上から暇空氏がベストツィートにならない可能性は全くない。Yahooは意図的に検索結果をゆがめている。これ以外の結論はない。これは推定でも推理でも陰謀論でもない。検索結果がダメなんだから無理。
これだけバグになることも考えられない。したがってYahooもツィッターと同様、人力でBANしている。それだけである。腐りきったなにもできずジェンダーとかSDGsとか環境とかいうバカを社員に雇っているからこうなるのだ。
何度検索しても結果が変わらない。言っておくがいろいろ条件は変えている。だが無理だ。
以上からYahooは意図的に暇空茜氏を検索から外していると断定せざるを得ない。
コンプライアンス、モラル、リテラシー、誹謗中傷、名誉棄損、差別、ジェンダーの名のもとに、Yahooは税金泥棒を擁護している、反社会企業であることが判明した。
Yahooは税金を横領する団体とべったりの反社会的企業だと判明した。許されることではない。
私は反日に関しては気にしない。意味がない。いろいろな歴史や経験があるだろう。そういうものだ。
人権の名のもとに反差別の名のもとに日本人は税金を盗まれている。福祉を盗まれている。年金を盗まれている。あなたの意識はでたらめな連中に操作されている。
暇空氏の人権を侵害しているのだ。暇空氏の名誉を棄損しているのだ。どうしてこれが許されるだろうか。
とんでもない悪党である。そしてYahooはそれでお金を儲けている。それが証明された。
こういうくだらない細工をするようなサーチエンジンはなんら意味がなく有害であり、今後一切マスコミや企業、自治体はヤフーを使ってはならない。使えば税金チューチュースキームの仲間だ。
おそらくYahooは気づいて検索結果を変えると思う。今度はいつ変えたかわかったら教えてほしい。必ずごまかすことだろう。
少なくとも2023/1/10 22:00JSTの時点までは影板されていることは間違いない。
なんだっけ。忘れないうちにメモ。
最近、ゴッホの絵画など芸術作品にトマトスープをかけたり、ウォーホルのアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激な抗議活動が耳目を集めている。
ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。
もちろん許されない犯罪として国内外で報道されているわけだが、しかし、海外のメディアでは、テロという表現(ラベリング)は少なく、抗議団体が自称するCivil resistance(市民的抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道はニュートラルに構えているのだろう。
そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人の想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285
しかしそもそも、テロという認識が日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。
https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/
そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代の人権の歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムにビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動家グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャスト・ストップ・オイルの活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースのインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイルを選択した理由を次のように説明する。
「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たちの優先順位が絶対的におかしいということを言いたいのです。アートに美を見出し、ギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」
アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である。
この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。
アリストテレスの時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨を理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。
これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館が環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。
そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。
しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。
おおざっぱにいうと、日本人は経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉の定義から始まり、指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人の自分からみると)。
一方、構造化された概念、ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモや過激な運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念がオルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。
そのもうひとつの理由が、市民的不服従という考え方や人々の認識の違い。
欧米では、恐らく日本人が想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体の価値を社会変革のダイナミズムとして認めている。
それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動の趣旨は理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。
この違法性というのは、実は重要な視点。それを理解するには、市民社会を根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。
近代から現代へ20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。
日本の学校では昔から、社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。
しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。
他者危害禁止の近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗の暴力性を認める市民権が存在する。
考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的に憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命のトリガーになりかねないボトムアップの暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府がおかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚を絶妙なバランスで持たせる機能を果たしているともいえる。
マルクスの時代、そしてワイマール憲法の時代、社会権を育んできた思想運動や社会の歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗の暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗の暴力は資本主義社会のなかで、たまたま労働がキーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマはシステムにビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日のSDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。
なので、抵抗の暴力が労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメントの市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。
ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。
一方日本では。
「労働」というキーワードで戦後、日本ははじめて市民的不服従の権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代の要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈。
しかし、その権利の過激な行使は、1950年代から60年代、大衆の心を猛烈にイラつかせた。
日本の高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。
民間では、1960年の三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社は家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争やストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらにベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼の政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。
国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会に迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれた暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識が支配的になるきっかけだったんだろう。1973年の最高裁は、それまでリベラルと保守の裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社の民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争の旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。
ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従の暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。
その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。
例えば、正規雇用、非正規雇用のギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップに非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法をさらにメタな視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。
歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタな視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権の普遍性や憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法の思想の根拠はと問われたときにフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思の議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションのオーナーシップの違いとも思える。)
欧米の環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。
既存の規範に書いてないものであっても、新たなムーブメントの意味を真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。
そのムーブメントの暴力性を違法と認識しつつも、時代のダイナミズムとしてとらえようとする、というか。
繰り返すと、
・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。
・憲法など国の根本的なシステムのアップデートするのに必要な社会のダイナミズムへの関心の低さ。
この二つをひとまとめにして、斎藤幸平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的に重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。