はてなキーワード: 思想運動とは
【2】と【4】の解像度が低い
その中で【2】に反論するなら性的な表現が問題になるときは性嫌悪が原因ではない
性被害を受けた人間のトラウマや嫌悪が一番強い根拠になりがちだが、彼女らは普通に描かれた制服の少女や女性を見て嫌悪を感じるだろうか?
その前に性的に描写された表現が存在し問題視されていると認められないのが歪んでいる、「未成年を性的に描写したものを社会が許容すべきでない」、未成年でなくても「女性の身体を性的記号化した状態を普通としてはいけない」が本当の理由である
アンフェはすっかり忘れているが、全く性的な表現を狙ったわけではない蘇民祭のポスターは性的に見えすぎるという理由で取り下げられているし、電車の同性愛の啓蒙広告で下着を見せたイラストはリベラル側の思想運動だったのにも関わらず誰にも反対されずに取り下げられた(両方とも成人の表現である)、男性の消費が許されているなんてことは全くない
意図せず性的になってしまうということは男性でも女性でも起き、性的な記号はポルノメッセージでなくても受け入れられない、女性ではさらに性的な表現を普通のものとして使ってしまいがちなので炎上が起きる
成人の身体をどこまで性的に扱って良いかは議論の余地があるが、そのときに考えとして決定的に違うのが「性的な表現として狙って演出し、過度なポルノにならない範囲に収めているかどうか」で、男性の表現は当然そうなっているのに、女性の表現は「普通の状態を性的に描写、消費すること」が基本的に問題のトリガーになっている
なぜ男子高校の不自然な腹チラや短パンがないのかという疑問が例のPRにはついていたが、二次元においてキャラクターが自然に露出している範囲の差はあまりにも大きく、性的に扱われる差が存在し、男性キャラクターがTPOに関係なく露出していたら誰もが不自然だと感じるからである
男性の同等の表現を持ってこようとすると女性向けにしか存在せず、女性向けのサービスを含んで不自然な露出をしたイケメンは美少女より圧倒的に受け入れられない
よくポルノですらないものに文句をつけられるのが気に入らないという発言者がいるが、ポルノではないものに肉体的、性的な表現が使用されているから問題になるのであり、前提として美少女を性的に描写することが普通になってしまっている感覚が間違っていると言える
ちなみにここから【4】に話を繋げられるが長いので簡略化するとオタクを大衆化した深夜アニメ作品のほとんどは意識的に性的な記号があえて排されているものが多く、男性向けアダルトの文脈を残す萌えとは異なる文化を作っている、萌えが普通になったと認識しているオタク男性は萌え文化の大衆化のメソッドを全く通っていないので、古典的な萌え絵から性的表現を消した深夜アニメ美少女の登場から京アニ的美少女の変遷をあまり認識していないらしい、ただ深夜アニメが流行ったと思っている
戸定梨香や温泉むすめプロジェクトに対し、未だにフェミニスト界隈からの嫌がらせ・デマゴーグが続いている。
特に後者に関しては尊師が性搾取コンテンツなどと打ち出している以上フェミニズム教のカルト信者的には止まれないのだろう。
※統一教会へのレッテルが🏺ならフェミニズムの場合は何になるのだろうか?🌈か🐈か🌷か?
それにしても彼女ら・彼らは徹底的にターゲットは悪であり即ちキャンセルされ「健全な社会」から消さなければ気が済まない様だ。
既に法的措置を明言されても尚止まれないのは、自分達の行為を正当化する為には、相手が異常な社会悪でありキャンセル対象として
石を投げリベラル棒で顔面を叩き潰し家族ごと住処を燃やし尽くしても何ら糾弾される事の無い正義の行いでなければならないのだろう。
極めて迷惑なサンクスコストである。勝手にヒートアップして逆ギレしてるのだから話になんねーよ。
さて、闘う相手は徹底的な邪悪であり、多少過激な行為をしてもそれは「正義」「正しき行為」であるから許される。
長く続いた自虐史観、中韓のいつまでも続く謝罪・賠償金要求、朝鮮学校の生徒による治安の悪化。
そんな彼らにすっかり辟易していた若い世代が、ネットの普及と小林よしのりの登場により、保守的主張を唱える者が増えた。
単に事実を指摘し、中韓の過剰な要求やテレビ局・マスゴミの韓流ゴリ推しなどに怒ってれば良いものを
韓国人はマスコミや政権を支配し日本人に対し攻撃をしている!などと電波な主張をする様になり
わざわざ朝鮮学校の前でデモなんかやったりした結果、ネトウヨ=過激に外国人を差別するキチガイファシスト、という扱いになった。
敵は邪悪であり、全てを否定せねばならぬという過激化が、結果として主張や存在自体を受け入れられない異常集団・思想に自らなってしまった。
是々非々が出来なかった結果、バランスを崩し一部の異常思想者しかついていけない領域になってしまったのである。
さて、フェミニズム・フェミニストは、完全にかってのネトウヨを同じ末路を辿っている。
戸定梨香の例にしたって、本当にキャラクターの服装が問題ならば、当事者と話し合い変更を要求すれば良かっただけなのだ。
それをいきなり抗議という形で圧力をかけ、戸定梨香の名誉となる筈だった公的機関とのコラボをキャンセルカルチャーした。
その後のラッピングバスへの抗議とキャンセルに関しては完全に正当性が無い。
フェミニスト曰く「アンフェの象徴」になった「フェミニズムの敵」である戸定梨香を徹底的にキャンセルしようとしたとしか思えない。
主張・意見では無く、ただの嫌がらせ・妨害行為に変わってしまった。
フェミニストがかってのネトウヨの様な扱いをされていくのは最早避けられない流れではあると思うが
所詮ネット時代の徒花として生まれた「ネトウヨ」という事象とは異なり、フェミニズムは先人の女性達が文字通り血を吐いて築き上げた偉大な思想運動だったのだ。
これが今、フェミニストを名乗るネトウヨの様な何かによって、その歴史を終わらせられようとしている。
フェミニストは、ただの過激なジェンダークレーマー集団、悪質なファシストでありキャンセル対象と成り果てる。
非常に悲しく、残念だ。
日本社会党中央執行委員長、議員淺沼稻次郞君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました。
私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。
ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。
かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、また、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります。
私は、目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます。これこそ、故淺沼稻次郞君のみたまに供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります。
淺沼君は、明治三十一年十二月東京都下三宅島に生まれ、東京府立第三中学を経て早稲田大学政経学部に学ばれました。早くから早稲田の北沢新次郞教授や高校時代の河合栄治郞氏らの風貌に接し、思想的には社会主義の洗礼を受けられたようであります。
当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動が思想界を風靡していました。君は、民人同盟会から建設者同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然に社会主義運動の戦列に加わったのであります。
大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動の実践に情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身を挺したのであります。
すなわち、同十四年農民労働党の書記長となり、翌十五年日本労働党の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、戦時中のあの政党解消が行なわれるまで、数々の革新政党を巡礼されたのであります。
君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和十一年の第十九回総選挙に東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。以来、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります。
戦後、同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一回国会が召集されますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。書記長代理の重責にあって党務に尽瘁するかたわら、君はよく松岡議長を助けて国会の運営に努力されたのであります。幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行の確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与・野党を問わず、ひとしく賛嘆の的となったものであります。
翌二十三年三月、君は、日本社会党の書記長に当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、野党第一党の党首として、今後の活躍が期待されていたのであります。
かくて、君は、戦前戦後の四十年間を通じ、一貫して社会主義政党の発展のために尽力され、君自身が社会党のシンボルとなるまでに成長されたのであります。淺沼君の名はわが国政治史上永久に特筆さるべきものと信じて疑いません。
君がかかる栄誉をになわれるのも、ひっきょう、その人となりに負うものと考えるのであります。
淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。
君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。
よごれた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺
これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。
「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である」と生前君が語られたのを思い、七日前の日比谷のできごとを思うとき、君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。
君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。
私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝し、国民の批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じます。しかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。
ここに、淺沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼の言葉にかえたいと存じます。
なんだっけ。忘れないうちにメモ。
最近、ゴッホの絵画など芸術作品にトマトスープをかけたり、ウォーホルのアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激な抗議活動が耳目を集めている。
ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。
もちろん許されない犯罪として国内外で報道されているわけだが、しかし、海外のメディアでは、テロという表現(ラベリング)は少なく、抗議団体が自称するCivil resistance(市民的抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道はニュートラルに構えているのだろう。
そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人の想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285
しかしそもそも、テロという認識が日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。
https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/
そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代の人権の歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムにビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動家グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャスト・ストップ・オイルの活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースのインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイルを選択した理由を次のように説明する。
「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たちの優先順位が絶対的におかしいということを言いたいのです。アートに美を見出し、ギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」
アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である。
この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。
アリストテレスの時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨を理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。
これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館が環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。
そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。
しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。
おおざっぱにいうと、日本人は経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉の定義から始まり、指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人の自分からみると)。
一方、構造化された概念、ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモや過激な運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念がオルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。
そのもうひとつの理由が、市民的不服従という考え方や人々の認識の違い。
欧米では、恐らく日本人が想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体の価値を社会変革のダイナミズムとして認めている。
それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動の趣旨は理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。
この違法性というのは、実は重要な視点。それを理解するには、市民社会を根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。
近代から現代へ20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。
日本の学校では昔から、社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。
しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。
他者危害禁止の近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗の暴力性を認める市民権が存在する。
考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的に憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命のトリガーになりかねないボトムアップの暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府がおかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚を絶妙なバランスで持たせる機能を果たしているともいえる。
マルクスの時代、そしてワイマール憲法の時代、社会権を育んできた思想運動や社会の歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗の暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗の暴力は資本主義社会のなかで、たまたま労働がキーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマはシステムにビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日のSDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。
なので、抵抗の暴力が労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメントの市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。
ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。
一方日本では。
「労働」というキーワードで戦後、日本ははじめて市民的不服従の権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代の要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈。
しかし、その権利の過激な行使は、1950年代から60年代、大衆の心を猛烈にイラつかせた。
日本の高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。
民間では、1960年の三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社は家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争やストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらにベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼の政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。
国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会に迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれた暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識が支配的になるきっかけだったんだろう。1973年の最高裁は、それまでリベラルと保守の裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社の民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争の旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。
ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従の暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。
その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。
例えば、正規雇用、非正規雇用のギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップに非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法をさらにメタな視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。
歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタな視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権の普遍性や憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法の思想の根拠はと問われたときにフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思の議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションのオーナーシップの違いとも思える。)
欧米の環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。
既存の規範に書いてないものであっても、新たなムーブメントの意味を真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。
そのムーブメントの暴力性を違法と認識しつつも、時代のダイナミズムとしてとらえようとする、というか。
繰り返すと、
・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。
・憲法など国の根本的なシステムのアップデートするのに必要な社会のダイナミズムへの関心の低さ。
この二つをひとまとめにして、斎藤幸平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的に重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。
共産党がまさにこれな
老人が「アベガー」と気勢を上げ
デモだ何だと話が出るが、モリカケサクラとかさ、一般人はどうでも良いわけよ
給食費とか、介護問題とか、身近なところで改善したいことがある人らはさ
アベを嫌って自民を憎みモーリカーケサクラーと叫ぶ人の仲間にはなれないんだよね
労組とか生協とかでさ、業務そっちのけで政治活動しちゃったりさ
デモに動員されたりさ
ただただお前らが嫌われてんだって話
医療生協とかさ、裁判までされちゃって、公明党とかに食い込まれてるわけよ
でも、そういうのを総括して、やり方を変えようって出来ないんだよね
なんにも結果を残さなかったけど、学生運動がマスコミに報道されたり、教科書にのったりしてさ
勘違いしちゃってんだよね
自分たちの闘いは意味があったんだと(勘違い「したい」のかもしれんがね)
日本の市民運動は、右にしろ左にしろ、現場にいる活動家の老害が死滅しないと、無理だと思うよ
ストライキとか小規模なのは結構起こってるけど、ほとんどニュースにもならんでしょ?
労働者の権利で、賃上げのための武器なのにさ、馬鹿どもが陳腐な思想運動にしちまって、忌避されてんだよ
工場なんて三日四日止めてやって、賃金を上げろーって言っていい筈なのに、そういう音頭をとる労働組合が政治色強すぎて嫌われてさ
労働組合のあり方が労働者を遠ざけて逆に資本家を喜ばしてるっつうアホさ加減
現場はそんななのに、どこまで行っても「俺たちに迎合して頭を垂れない市民があほなんだー」と自分を顧みることが出来ない連中
そういうのが退場しないと変わらんよ
ある種の地獄になってるはずなんだけど
現実は「男女の別なく救われない」のだよね
それで自己満足以外の何が得られたんですかね?
実際にはほぼ影響ないんですよ
設置数は爆増してるんですけどね
AEDが使われるためにはとして
・設置場所の目印の紹介や
・利用手順の実演
まだまだそういう段階だったのに
いまじゃもう、「法的な救護義務はない」とかそういう話がされちゃってる
敵味方に分けて切断することに何の意味があるんだよ
本当に無能な働き者だよ
後ろ弾にも程があるだろ
本当に醜悪なのはしたり顔で正義ぶってる糞共も見殺し組だって事だ
そうでもなければ「目撃後」の使用率が4%の訳ないだろ?
糞共はよぉ
実際にそこらでAED使って助けてやれよ
ぐうの音も出ないほど数字で示して見せろや
俺から見れば、「やらねぇ」って宣言してるウジ虫の方がよほど好感持てる
AEDを使わないような輩は軽蔑されるべきなんだと言ってるのもいたが
「自分は違う」とそう思える性根がどういうもんなのか見てみてぇよ
でなければ目撃後使用率が4%になったりしねぇんだよ
ほとんどがな
他人を嗤う前に
てめぇが出来る事をやれや
今回のラブタイツの件でもそうだけど、女性中心に何かしらに声を上げると決まって「フェミがまた騒いどるww」というようなコメントで溢れかえる
うるせーーーーーー!!!!
『フェミニズム(英: feminism)とは、女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称であり、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差を明るみにし、性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想・運動である。』
まず大なり小なりフェミニズム的な考えを持つ人は男女問わずいる
そして批判されるような事柄には、フェミニズムとは別の方向での問題点もあったりする
(ラブタイツの場合、メインターゲット層にマッチしないプロモーション・企画や公式垢の私物化など)
一次ソースにあたらずに「わざわざ俺らのテリトリーに来て暴れとるw」とコメントするのは、ただのアホのやることだと気づけ
あと、いい加減「ブス・おばさん・モテない・オタク憎し」みたいなイメージで誹謗中傷するのをやめろ
男性の研究者や思想運動家が「お前は男だしハゲだし独身の非モテおじさんだから」という理由で批判(ではなく罵倒だが)されるか?
相手の論以外の要素を持ち出してきて暴言を吐くのは、性別関係なく人を侮辱することだと理解しろ
※ただしこれはそういう人がいるのを否定するものではなく、全く知らない相手に対する「どうせ○○だろw」という決めつけをとがめているものである
周囲の人間(家族・親戚・友人・クラスメイト・同僚など)が被害にあっていたり、ニュースで問題になっているのを知った人が批判して何が悪い
身近に殺人犯も被害者もいなかろうが殺人に反対するのは普通なのに、どうして痴漢やレイプの問題になると色々言われにゃならんのだ
※たまに「女性の問題だから男性は引っ込んでろ」という意見があるが、私個人はそれに反対だ
当事者の意見を無視して事を進めたり、現実の問題を見ていないような発言にはうんざりするが
私自身は痴漢やレイプにあったことはないし、男性向けや女性向けのエロは好きで良く見ているし、時たまポカをやらかしてしまうこともある
そもそも「フェミニスト」って言葉自体、「アニメを批判したやつ」あるいは単に「気に食わないことを言う女」くらいの意味で使われて定義が無限に拡散している中で、「お前らはフェミニストだ。定義は特段決めていないが、なんとなくネット上で”俺たち”がフェミニスト認定したやつはフェミニストだ。フェミニスト認定されたお前たちはネット全域に渡って思想や主張を一致させろ」って無茶苦茶ではないか。
例えばフェミニストを自称する団体Aがいて、その団体の明確な構成員として活動しているaがおかしなことを言ったとき、団体Aに対してaを批判するよう求めることはできるだろうけれど、多くの場合そうではない。
思想的にも主張的にも関連性がない、そもそもフェミニストを自称してもいないネット上のひとつのつぶやきを拾ってきて、「フェミニストがこんな事を言ったぞ!さぁ全世界のフェミニストのみなさん、こいつを批判しないとあなた達はダメダメですよ」みたいなことを言われても、まずフェミニストの定義を明らかにしないことには何もリアクションできないでしょう。逮捕されたオタクなり表現の自由戦士を持ってきて「これだから表現の自由戦士は犯罪者予備軍」とか宣う輩と程度的に変わらない。
一口にフェミニストといってもパワハラセクハラマミートラック育休的なビジネスサイドの面もあれば緊急避妊薬がどうのとか風俗に従事する自由とかトップレスとか性に関することまで様々。それを十把一絡げにして全体で統一させないと嘘だって支離滅裂やぞ。
【追記】
「お前らはオタクだ。定義は特段決めていないが、なんとなくネット上で”俺たち”がオタク認定したやつはオタクだ。オタク認定されたお前たちはネット全域に渡って思想や主張を一致させろ。ついでに死ね」
これは誰を想定した発言?フェミニスト?フェミニストがオタクに対してネット全域に渡って思想や主張の一致を求めたり、そこから外れたオタクについてオタクの中で総括するよう求めている?そういう事実があった?それともあなたがそう思っているだけ?
他人を殴る時は十把一絡げに属性で殴り、自分達が攻撃されたら「一人一派」の印籠で関係ないと切断処理して知らんふりするからおかしいと言われるわけだけど散々言われてようやく自分達の支離滅裂さに気づいたのか
・そいつはフェミニストだと思う(あるいはフェミニストだと自称していた)
・なので俺たちはネット上すべてのフェミニストを十把一絡げに殴ってよい
一人一派は個々の思想の指向性が矛盾しても免罪符として機能し、フェミニズム内で矛盾も誤謬も詭弁も暴走も黙認される。つまり何でもあり。思想運動として問題がある。フェミニズムは一度解体されるべきと思う。
ネット上全域に渡って教条・思想が完全に一致した思想運動を寡聞にして存じ上げないのですが、そうした思想運動があるのですか。通常、ネット上の運動はゆるやかな連帯を以て進行するものと思いますが。
また、「アンチフェミニズム」や「表現の自由派」などがフェミニストに教条・思想の一致を求めるのであれば、同じく思想運動であるアンチフェミニズムや表現の自由派もネット上で構成員間の思想を完全に一致させる必要が生じますが、そんなん無理じゃないですか?
フェミニストを自称する人が一人一派なんて語るのはおかしいよ。本文で言うように他人が勝手にフェミニストと名付けて矛盾をあげつらうのももちろんおかしいよ。タイトルと本文の間に繋がりが見えないんだが何なの。
オタクの中にもガンダムオタクプリキュアオタクゲームオタク、ゲームの中でもRPGオタクFPSオタクと、単にオタクといっても中身は多様。しかしオタクであるという一点では共通し、ゆるく連帯もしている
フェミニズムも同様で、人類の半分の女性全般の権利を取り扱う運動なのだから主義主張が人によって異なり細分化されていくのは至極当たり前。で、イシューごとに必要に応じてKutooとかで連帯して成果を出しているわけでしょう。何も問題がない。
・自分の観測範囲ではそもそも「フェミニストを自称しつつ一人一派と主張する人」を殆ど見かけない
・むしろフェミニストは一人一派と言っているのは「アンチフェミ」の方
・またフェミニストを自称しつつ一人一派を主張する人がいたとして、それはフェミニスト思想全体への批判に繋げられるほど一般化された主張なのか?
・アカデミアの世界でも〇〇派、✗✗派といった主張の派閥が存在するのだから、ゆるく活動しているネット上のフェミニストが「一人一派」になることも自然ではないか?何が問題なのか
・逆に、一人一派を批判している思想集団である「アンチフェミ」なり「表現の自由派」はネット全域で思想を一致させているのか?NOならばアンチフェミや表現の自由派も一人一派なのだし、それでよいのでは?
【追記2】
「フェミニズムが運動や学問として成立するわけがない」とか評している人もよくわからないな。
事実として、MetooとかKutooとかは世界的なムーブメントとして成功してるじゃん。どう評価するとかじゃなくて、もう事実としてうまくいってるじゃんフェミニズム。
すでに運動としてバリバリ成功しているものに対して「運動として成立しない」とコメントする意図がわからない。私含め、ネットで書き込みしているだけの皆々様と違って、フェミニストはネットで活動した上で現実社会での成果にも繋げてるじゃん。そこは直視したうえで批判しようや
【追記3】
“むしろフェミニストは一人一派と言っているのは「アンチフェミ」の方”→追記でこいつが書いてる。この記事のタイトルと見比べろよ。一人一派で何が悪いの返しが、アンチが勝手に言ってるだけって。糞バカ以下だ
トラバでも触れたけれど
・フェミニストの中で明示的に「一人一派」理論を採用している人は少ない。一人一派との指摘を行っているのはアンチフェミニストが主である
・それはそれとして仮に(社会運動としての)フェミニストが一人一派であっても何が悪いのか
って矛盾なく成立するし、引用いただいた箇所の直後に「フェミニストが一人一派になることも自然ではないか」と明示的に書いてもいるのだから「アンチが勝手に言っているだけ」との理解は明らかな誤読ですね。文意を断ち切って部分的に引用するのはやめましょう。
攻撃してこないなら何でもいいよ 攻撃してくるやつが同じ看板掲げてるクセに土俵ころころ変えるのがダメなんだよ 考え方に対して対抗も出来んじゃないか 何で学者ですら一定の統一ルール持ってないんだ
この認知も本当にわからない。ネット上で「攻撃してくるやつ」はみな統一された主張を持っていないといけないと言っている?
フェミニストの側がフェミニストと自称して同じ看板を掲げているというより、アンチの側が攻撃してくるやつのことを勝手にフェミニスト認定しているパターンの方が多くないか?「攻撃してくるやつ」程度の認識で多数の相手を一纏めにフェミニスト認定しているのだから、相手方の主張が都度異なるのも同然では?
それとも悪の秘密結社が作り上げた恐怖の洗脳統合思念体フェミニストみたいな存在がいて、フェミニストっぽいことをしているからにはその思想や教義は全国で統一されているはずだ、されていなければおかしいと思っている?
【追記4】
世界を変えたいと望むならば、思想を推し進めた先にある「理想的な未来像」がどんなものなのかは示して欲しいんですよね。先に地獄しか見えないケースが多くて困ってます。
言っていることはわかるけれど、ふつーのフェミニストって「女性差別をやめて男女平等にしましょう」くらいのゆるい連帯であるし、その集まりで全世界単位でコンセンサスを取ってゴールはここですって設定するの物理的に無理だと思うんですよね。そもそものイシュー設定が巨大すぎるから。だからそのイシューをブレイクダウンして、ハイヒール辞めましょうとか医学部で女性と多浪を受験料だけきっちり取りつつ裏で差別して不合格にするのやめましょうとか、問題の具体化と短中期的なマイルストーンの設定が都度行えていればそれで良いと思っています。
おかしいというか、共食いを防ぐための内向きの言葉であって外側に向けて言っても意味がないのでは?同じ看板掲げて暴れまわる人たちが現れたことは気の毒に思ってる。結構そこらじゅうで起きてる問題だし。
PCR検査いるいらないみたいな科学分野でさえ専門家の間で派閥ができて混乱していたわけだから、同じく全世界的に現在進行系で動いている社会を舞台にしたフェミニズム活動で活動員全員の主義主張を統一するのなんて無理じゃね?おかしくね?と思っている次第。一人一派だから一切全体を批判するなと言っているのではなく、その性質ゆえ必然的に一人一派な状態になっているのだから、その事自体を批判するのは酷ではないか、と考えます。
右翼にだって安倍やめろと思ってる人がいくらでもいるだろうし、オタクなんてフェミと兼任の人もいるし、たいていの思想が普通は一人一派状態では? フェミにだけ教条的な意見の一致を求めるのはおかしいじゃん。
たしかに。アカデミアのフェミニズム界隈に一人一派の主張があるが、扱う問題の性質上、違和感はない
「フェミの一人一派」を問題と思えない奴らが、なぜか「オタク」とか「ネトウヨ」とか「ジャップ」とか「アンチフェミ」等とレッテルを貼って、一人一派は認めずその属性を理由に問答無用で殴ってくるの笑うしか無い
オタクは犯罪者、とかも当然ダメなんじゃない?ただこんな感じで
・なのでフェミニズムなる思想においてはオタクは全員犯罪者だと言っているに等しい。ああなんてフェミニストは悪い奴らなんだ
みたいな主張が理解できないというだけ。変なこと言ってる個人か、それを明確に支持している集団だけ批判すればよくね?というかそれ以外は論理的に批判不可能じゃね?
おかしなフェミニスト(あるいはフェミニスト認定されただけのただのおかしな人)の発言ひとつで、アカデミアのフェミニズムまで含めて批判するのは理路が通らない
・個人の自由は絶対なのだから、恋愛対象や結婚対象の選択に関して、政府はもちろん、それ以外の何ものも、社会的圧力をかけるようなことは許されないという立場。
・「リベラル」という原理原則を、個別の問題に適用するだけなので、異なる利害集団の共闘が可能。また、「リベラル」の立場から特定の政治的主張をする人は、他のリベラルな政治的立場を取る場合が多い。たとえば、「リベラル・フェミニスト」であり、LGBTの結婚に賛成であり、中絶に賛成であり・・・・といった具合。
・結果として、悪しき伝統を維持し、社会的不正義を許容することになるという批判を受ける。
・個人のパーソナルな領域を絶対だと言ってしまうと、さまざまな差別は是正されない。個人のパーソナルな領域に立ち入ってでも、人間の平等という価値を守らないといけないという立場。
・有名なところだと、「若くて従順な女性を好む男性」を批判したり、「特定の属性を持つ者との結婚を嫌がる人間」を批判したりする立場。
・ラディカル・フェミニズムのスローガンである「個人的なことは政治的なこと」という言葉が良く知られている。
・欠点は、あくまで「政治運動」にしかなりえず、一般化された思想運動にはなりえないということ。あくまで、特定の利害集団の利益のための政治運動であることを自覚した主張であり、異なる利害集団の間での共闘は原理的には不可能。「私は○○の利害を代表して主張する。お前たちは、お前たちの権利を主張するべきだ。そして敵として戦うことで社会をより良くしよう」という立場。「ラディカル」の主張に普遍性を求めてはいけない。
・リベラルはラディカルを「政治的自由」の範囲で擁護する。ただし、本来のリベラルの原理では、それぞれの政治的主張の是非には立ち入れない。
・個人のパーソナルな領域は、絶対ではないが、個人のパーソナルな選択が、純粋にパーソナルな問題であるうちは、やはり尊重するべき。ただ、それをパブリックな場で発言するなら、それはパブリックな問題として扱われるべき。「特定の属性を持つ者と結婚をしないのは個人の自由だが、それをパブリックな場所で公言するのはアウト」というような立場。
・「ラディカル」な政治的主張に、「強きものは弱きを助けなければいけない」というような伝統的・保守的価値観が融合して、本来「ラディカル」な政治的主張に過ぎなかったものが、普遍的な「リベラル」の問題であるかのように扱われているケースがある。これは、本来のリベラルの原則と反する。(例:アファーマティブ・アクション)
・本来の「ラディカル」が「政治的主張に過ぎない」ことを明確にするのに対し、バランスに取り込まれた「ラディカル」では、「政治的主張に過ぎない」ことが覆い隠されてしまい、対立する利害集団からの反発を受ける。
・保守やリベラルから見ると、ぶっちゃけ、原則なき本音と建前の使い分けに見える。ラディカルに取っては、「政治的運動の成功」とも言えるが、一方で穏健的過ぎるという批判もある。
最近のネットでの言論を見ていると、ラディカルな政治的主張とリベラルの混同が見られる。特にラディカル独自の考え方(たとえば、個人の性的指向も政治的批判の対象になるという考え方)をリベラルとして批判するのは完全に誤解であり、間違いである。
ただ、今日、広く受け入れられている、「バランス」の立場は、リベラルとラディカルの両方に、保守の考え方も取り入れることで成り立っている、そもそも、内部に矛盾を抱える考え方である。これは「保守」「リベラル」「ラディカル」の全てから、批判を受けているし、その批判はいずれも議論として正しい。「保守」は「バランス」や「ラディカル」を「リベラル」だと思って批判するし、「ラディカル」は「バランス」を「保守」だと思って批判する。「リベラル」は「ラディカル」や「保守」だとして批判する。
そこの理解が甘いってのも日本のフェミの良くないところなんだけど、「弱者同士が連帯する」必要があるのは、前述したとおり、「そうしないと弱者の主張の論理的正当性が担保できない」からなのね。
決して、数を揃えて強者に対抗するためじゃないわけ。っていうか、ぶっちゃけ弱者の数を揃えて権利勝ち取ろうというのは、むしろ勝ち負け理論の世界に自分から飛び込むようなものなわけ。数を揃えて強者を打倒するほぼ唯一のルートは武力革命なわけだけど……てーか武力とか言葉ごまかさないで言うと暴力なわけだけど、そんな段階になった時点で弱者でもなんでもないでしょ? 単純に暴力という武器を備えた新しい強者が(集団として)誕生しただけなわけね。
「弱者の連帯によって数で上回って強者を脅迫して権利をもぎ取る物語」なんてのは、弱者が夢見る「俺が支配者になった世界」妄想であって、倫理も論理も関係ない、ただの欲望なわけっすよ。もし仮にそれで何らかの権利がもぎ取れたにせよ、それは「弱者が強者になったから、現在の強者から権利(や財産や自由や生命)を奪うことが可能になった、奪った」という話であって、それは革命ではあるかもしれないけれど、思想運動ではないわけですよ。
これは別に革命が悪で思想運動が善という話じゃないのね。思想運動の成果的なものを革命が成し遂げることはままある(南北戦争の結果奴隷解放がなされたように)。ただ、その種の暴力革命で権利を確立した場合、「さらなる暴力革命でその権利をさらに覆す自由」を他者にも認めないと自己矛盾するだろうという話なわけです。
本来「弱者同士が連帯する」必要があるのは「たとえ自分が弱者の立場であろうが、弱者を見捨てるということはしない、そういう社会こそが全員の希望なのだ」と高らかに宣言し、それを守り続けることで「この宣言は信頼できるものなのだ」ということを示すためなのね。その信頼を持って、現在強者である人々から、権利を正当に移譲してもらうってのが思想運動の要諦なわけ。すごくざっくり言っちゃえば「弱者が強者に信用してもらうために、財貨や権力ではなく、倫理の次元で気高さを見せる」ためにこそ連帯は必要なの。
そういう意味では「どんなに強者に見える人であっても弱者だという自己申告があれば弱者同様の手助けをする(そもそも本当に強者であればその手助けはささやかすぎて意味が無いわけだし)」「むしろ、社会構成員はその全員が何らかのジャンルで弱者なのだ、敵はひとりもいない。すべての人々は未来の仲間なのだというスタンスで活動する」のが弱者救済の思想であって、「弱者かどうかの判定踏み絵」とかやってる時点で、ニセモノなのよ。
小さい頃から兆候はあったんだけれど中学に入って間もなく、もしかして俺って男が好きなのかなと思うようになって、
それからもうちょっと経ってから男だけじゃなく女にも興奮するとわかってから、俺って何なんだろうと思って、
そんなときたまたまブックオフで読んだ、スラダンのスピンオフかなと思って手に取った本が二次創作のボーイズラブだった。
たしかに最初は「こんなものがあるなんて」と驚いたけれど、もっと続きが読みたいと思って、気がつけばこっそりBLを買うようになって、
俺ってやっぱり男が好きなのか、バレたらみんなから嫌われるかな、気持ち悪いと思われるかなと思い悩むようになった。
大学生の従姉妹の家に遊びに行ったときにBLマンガを見付けて、もしかして理解者になってくれるかもと思って、
とにかく一人で思い悩むのが辛かった自分は従姉妹に、自分が男を好きかもしれないこと、BLをこっそり読んでいることを打ち明けると、
俺を否定せずに受け止めてくれて、それからBLマンガをこっそり読ませてもらうようになって、
うれしいな~と思うようになってからしばらく経った頃、従姉妹が俺をある場所に連れて行ってくれた。
いわゆる腐女子同士のオフ会で、そこにいけば俺の理解者がもっと増えるかも、という従姉妹の心配りだった。
俺はとにかく緊張しっぱなしでオフ会に参加した。当日に突然の参加だったからみんな俺の存在に驚いていたし、
俺がBL好きであることを従姉妹がみんなに告げてから、しばらく口論っぽい感じになっていて、俺はだいぶ肩身が狭かった。
中でもひとり、大人の女性がすごく怒っていて、従姉妹も説き伏せるのに困っているようだった。
どうもその人にとっては、男の俺がこの場にいることが不快らしく、やっぱり男がいると変なのかなと思ってビクビクしていると、
その人が俺に向かって「もうBLを読まないでほしい」と言ってきた。なんでだろうと思っていたらその人によると、
「男はみんな、いつも女を性的に観て暴力を与えたり搾取したりしている」
「BLにハマるというのは、性的に搾取され続けた女が、自分の意志で誰にも迷惑をかけず男を性的に消費することができる機会」
「ボーイズラブにハマるのは女だけの特権。男がBLをハマるのは女から機会を奪うのと一緒。搾取行為である」
「男がBLを読むのは間違っている」「男が男との恋愛に憧れるのは誤り」
といったことを、子供向けに噛み砕いた感じで言われてしまった。もちろん一字一句一緒というわけではないけれど、概要はこんな感じだったと思う。
見ての通り偏ったフェミニズムなんだけれど、なにぶん俺はそのときまだ13とか14そこらの子供だったから、
男が女を性的に搾取とかフェミニズムとかこれまでの人生で考えたことなんて一切なかったし、そのときは緊張もしていたもんで、
しかも目の前で年上の女性が怒っているし、とにかく自分が悪かったんだと思って、「わかりました。ごめんなさい」とだけ謝って、従姉妹と一緒にそそくさとその場を後にした。
雰囲気は最悪だったので、従姉妹は俺に謝ってくれたんだけれど、俺はとにかく頭の中がこんがらがっていて、とにかく怖かったということだけ覚えていて、
それから家に帰ってひとりでいるときにあのことを思い出すと、急に胸が苦しくなって、喘息のように咳と涙が止まらなくなった。
パニクっていてよくわかっていなかったけれど、その頃は自分のセクシャリティに関して思い悩んでいたこともあって、
面と向かって「男がBL読むな」「男が男を性的に観るのは間違っている」と言われたことはかなりメンタルに響いていたようで、
しかも「俺は女にも興奮できる男だから女の人に迷惑をかけていて、そのうえでさらに男を好きになるという悪を上塗りしているんだ」と思うと、
自分を否定され、存在を誤りだと言われ、悪者にされた悲しみと、自分が「悪」であることの自己嫌悪とがないまぜになったような感覚に落ちて、
誰に謝ればいいのか、これから自分はどうすればいいのかなんてことを考えて、とにかく胸が張り裂けそうでずっと咳き込みながら泣いていた。
その日から今まで親には内緒で買ったBLを、夜中にこっそり遠くのゴミ捨て場やどこかの側溝に捨てたりして全部処分した。
大学に入った頃には、自分がはっきりとバイだと自覚して、そもそもあの人の考え方がおかしいんじゃねえかとわかるようになり、またBLを読むようになった。
気持ちが上向けば幸せがやってくるのか、理解のある腐女子の彼女もできたのでそれなりに充実するようになったのだけれど、
昔あったことを彼女に話すと、本当にわずかではあるけれど腐女子の中にいると、そんな主張をしている人を時折見かけるとのこと。
ネットで調べてみたら、あの日俺の前で怒っていたあの人と同じ主張をしている人がゴロゴロ出てきてビックリした。
てっきり、あの人はかなり特殊な存在で、似たような人は二人といないだろと思っていたくらいなので。
ゲイやバイに親でも殺されたのかってくらいの恨み節や、自分達のおかげでゲイは権利を獲得できたのだといった主張が並んでた。
これらの主張を読んでいるとあの日のことを思い出して、心臓がドキドキいって落ち着かなくなり気分も悪くなる。
考えてみればあの人にとって「男は女を性的に搾取する存在」なので、「女を性的に見ない男」の存在は自分達の主張を脅かすことになるんだろうし、
今ならあの人に反論することも可能だけれど、当時は子供だったのでしょうがない。
もちろんそんな主張をする腐女子なんかごく少数、多分フェミニストの中にだってごく少数なんだろう。
彼女が多少フェミニズムに噛んでいる関係上、フェミニストの人達の意見を聞くことが多いけれど、
「私達のフェミニズムは女性の権利向上や搾取の撤廃は掲げているだけであり、男性から権利を奪ったりLGBTを否定するなんてもってのほか。
とはいえ思想運動である以上、そういう主張が過激な人たちの存在は否定できず、こちらとしてもとてもわかりあえず、悩みのタネ」と話していた。
女性が歩んできた歴史や現状を考えれば、俺は男性蔑視といった極端でないもので限りフェミニズムの思想にはわりかし肯定的なほうなのだけれど、
それでもあの日のことを思い出すと胸がざわついて呼吸が荒くなるし、そのためフェミニズムを支持したくても複雑な気分になってしまい、心が折れてしまう。
まあフェミニズムがどうとか腐女子がどうとかに関係なく、俺はそんなに頭がよくないんで知識や考えが足りているわけじゃないけれど、結局言いたかったことは、
自分がどんな思想を持っていても、あんまり悪辣に他人のセクシャリティを否定しないでほしいってことだけなんだよ。特に子供相手には。
俺は口が裂けても腐女子に対し「BLを読むな」なんて言えないし、そんな気もさらさらない。
時々、腐女子を叩くゲイも、本当にごく少数見かけるけれど、それもやめろよな。
ここまで書いて結構スッキリしたよ。吐き出すのって大事だねやっぱ。あんまりこういう長い文章書く機会ないんで、文章ヘタでごめんな。
フェミニズムには現在残念ながらふたつのおおきな側面があって、ひとつはもちろん「女性の社会的地位向上(男性との権利バランス)を目指す」ってものです。この運動や思想ってのは否定されるべきものではない。でももうひとつには「社会的地位において搾取されてる女性がスカッとする」ってのがあって、こっちはもう、どうにもならんほどただれて瘴気を放ってしまってる。
これはけっして諦めろという意味ではないんですが、日常生活を送ってる「社会的地位が搾取されてる女性」個人が、その個人の搾取された状況を変えろって無理ですよね。たとえば企業勤めの女性が上司の「そろそろお嫁に行かんのかね」発言をやめさせようとしたって無理がある。「そんなの訴えろよたれ込めよ!!」っていうかもしれないけど、そんなことしたら職場にいづらくなるだけでしょ? 職を失ってまで戦えっていうのはやはり現実的じゃない。もちろんだからこそ、そういう発言はよくないですよ、という社会風潮を形成するために前者のフェミニズム運動があり、それは必要だと思います。
しかしながら「ド許せない犬畜生にも劣るハゲ爺だしね」なんて言い放つってのは、特に実際体面もしてないネットで炎上ってのは、それはもう、なんというか、自分をすっきりさせるための行動なんですよね。そんなセリフいってどうなるの? といえばすっきりするだけです。まあ居酒屋の愚痴みたいなものですね。
思想運動政治運動ってのは時間のかかるものです。10年、いや歴史をみれば100年越しの運動なんてのも珍しくないわけです。
ですからそういう運動というものは果実を受け取る期待とは無関係にすべきなのだと思います。つまり、利益が直接自分がえられない、自分自身はすぐさまは救われない。「しかし」それが正しいから賛同し、運動する。次の世代のために地ならしとして粛々と進めておく。そういうスタンスが思想運動には重要です。なぜかといえば、自分自身が利益を即座に受取ろうとすると往々にして後者のヒステリーになるからですね。
前述したとおり、個人がその個人の置かれた周囲数百人の思想を個人のちからだけで一晩にして解決するのは難しい。ほぼ無理だといっていい。誰もがそんなことは言葉にしなくても肌で感じている。そうである場合、個人にとっては「目先でスカッとする」ことのほうが重要(利益があるように感じる)になってしまうわけです。現実自分の置かれた苦痛を麻痺させるために、言葉の棍棒を振り回して自己慰撫するような状況です。
最近出ているアンチフェミってのは後者に対する反発運動だと考えれば理解がすっきりします。まあ仕方ないですよね。誰だってこん棒で殴られたくはないです。「これだから男性優位社会なんだ、男性は優遇されてる、男性は世界を支配してる、みんな死ね!」みたいなことをサービス残業計算したら最低賃金割ってました本当にありがとうございましたみたいな弱者男性にいったとしても「こっちくんなよキチガイ。ほっとけ、俺は自分サバイバルで手いっぱいなんだ」としか返答のしようがないです。
日本における思想運動家ってのは人気商売なので(っていうか要するにTVタレントなので)、前者の「粛々と運動を進める」スタンスだと金になりません。後者の炎上発言をして、女性の「うんうんそうだよね、よく言ってくれた、スカッとした」みたいなのを集めないと生活が立ち行かないという構図もあります。そんなわけで、こん棒的な発言や人材には事欠かないわけです。
しかし中長期的に見れば、フェミニズム運動(前者)の障害は後者であるという結論になりかねない、なりつつあるというのが現状ではないでしょうか?