はてなキーワード: 成田闘争とは
会議は資料はほぼ全公開、発言動画もYOUTUBEで公開、だから大林某委員の提言で中国の国益だというものがあれば、
個別に精密に検証可能な状態。でもそんなのは出てこない。「ロゴが動かぬ証拠!!!」「成田闘争が・・・」「孫正義が・・・」
みたいな外形の話だけで「アカを国政に絡ませるな」という議論をして気持ちよくなっている人たちがいる。大林某委員は確かに発言が素人クサくて空気読めていないところもあるが、役所側は是々非々で、「その点はこういう事情でこうなっているので今はできない、継続検討」「改善に向けては〇〇の見地から継続した議論が必要」等と押し返しているのでそれでいいのではないかと思う。
https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kisei/conference/energy/e_index.html
千葉のとあるターミナル駅に住んでるが、とにかく朝と夕方以外人がいない
昼間歩いてるのは少しのお年寄りとわずかな赤ちゃん連れだけである
夕方になれば学生さんで多少賑わうが、それまでは人がいなさすぎて本当に中核市の中心都市か?と思う
当然そんな感じだから、平日昼の客がいなさすぎて、街にあった飲食街は土地の高さに耐えられず潰れてゆく
狭い土地でなんとか商売できて回転率がいいラーメン屋だけが残る
客単価をあげざるを得ないため、人が多い地域にも関わらず食べログの点数は低めな店ばかりである
それだけ人がいても、土地に金吸われてお金がないファミリー層と、古くからの地主の高齢者ばかりなので、賑わってるのはディスカウントスーパーとサイゼリアなどの激安店のみである
また駅近タワーマンションが建つらしいが建築費ペイできるだけの金額出せるやつは千葉なんかに住まねえぞ?みんな都内選ぶぞ
下手したら市も赤なんじゃねーの?
なんでターミナル駅なのに賑わいを創出する必要があるととか再開発計画に書かれてるんですかねえと思う
にしても相模大野、町田というまあまあ栄えた街がまあまあ近い割にえらい栄えてるという印象なのよね
やっぱソニーがあったりして所得が東京から遠いのに高いというのが1番大きいのかな
厚木が思ったよりかなり高いなと思った
あとは私鉄が都市開発を全くやる気がない京成と、それなりに再開発を考える小田急の差なのかな〜
市川は成田闘争の都合で都市開発が失敗した千葉に所属してるというのもデカいのかな
市川は市川というより、江戸川区という方が個人的にはしっくりくるのよね
下町の延長というか
周りに栄えてる街があるといっても、船橋と錦糸町だしなぁ最寄り、そんなに便利じゃないって感じなんよね
考えると色々面白いわね
台風からの復旧が全然なされてない様子を見て、日本で最も早く崩壊するのは千葉県と思ってたけど、最近のニュース見てると秋田や大阪も猛追してるなと思った
●生活インフラクソ(成田闘争の影響でインフラ整えられなかった)
●隣県に東京があるためエッセンシャルワーカーの人材流出(バス運転手、建設作業員、介護職員、保育職員の不足)
●ベッドタウンは金にならん
●駐車場高いし道路インフラがグロでマイカー社会に移行できない
●それなのに人口はかなり多く、多い人口を捌くだけのインフラがない
以上のことからおそらく日本で千葉が最もきつい状況に置かれると確信してたんだけど、クマ被害見てると秋田も相当だなと思った
でソフトランディング出来るんじゃね?逆に千葉みたいに人たくさん住んでる方がキツくね?とずっと思ってたけど、ここに来てクマという要素が出てくるとは思いもしなかった
クマが常に現れるとなると生活は相当きついだろうし、根絶やしにするのも絶滅危惧種ということで、今の世の中だと難しいだろう
大阪あたりも、千葉と同様で人が多すぎる、なおかつ産業が続々流出してる(千葉も茨城に移転してるから同じ構図か)ので、ソフトランディングしていくのがキツいと思う
とはいえ県の底力がおそらく違うから千葉ほど危機的にはならないのかな
なんだっけ。忘れないうちにメモ。
最近、ゴッホの絵画など芸術作品にトマトスープをかけたり、ウォーホルのアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激な抗議活動が耳目を集めている。
ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。
もちろん許されない犯罪として国内外で報道されているわけだが、しかし、海外のメディアでは、テロという表現(ラベリング)は少なく、抗議団体が自称するCivil resistance(市民的抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道はニュートラルに構えているのだろう。
そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人の想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285
しかしそもそも、テロという認識が日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。
https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/
そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代の人権の歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムにビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動家グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャスト・ストップ・オイルの活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースのインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイルを選択した理由を次のように説明する。
「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たちの優先順位が絶対的におかしいということを言いたいのです。アートに美を見出し、ギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」
アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である。
この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。
アリストテレスの時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨を理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。
これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館が環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。
そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。
しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。
おおざっぱにいうと、日本人は経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉の定義から始まり、指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人の自分からみると)。
一方、構造化された概念、ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモや過激な運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念がオルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。
そのもうひとつの理由が、市民的不服従という考え方や人々の認識の違い。
欧米では、恐らく日本人が想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体の価値を社会変革のダイナミズムとして認めている。
それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動の趣旨は理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。
この違法性というのは、実は重要な視点。それを理解するには、市民社会を根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。
近代から現代へ20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。
日本の学校では昔から、社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。
しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。
他者危害禁止の近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗の暴力性を認める市民権が存在する。
考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的に憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命のトリガーになりかねないボトムアップの暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府がおかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚を絶妙なバランスで持たせる機能を果たしているともいえる。
マルクスの時代、そしてワイマール憲法の時代、社会権を育んできた思想運動や社会の歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗の暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗の暴力は資本主義社会のなかで、たまたま労働がキーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマはシステムにビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日のSDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。
なので、抵抗の暴力が労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメントの市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。
ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。
一方日本では。
「労働」というキーワードで戦後、日本ははじめて市民的不服従の権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代の要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈。
しかし、その権利の過激な行使は、1950年代から60年代、大衆の心を猛烈にイラつかせた。
日本の高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。
民間では、1960年の三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社は家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争やストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらにベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼の政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。
国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会に迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれた暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識が支配的になるきっかけだったんだろう。1973年の最高裁は、それまでリベラルと保守の裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社の民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争の旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。
ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従の暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。
その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。
例えば、正規雇用、非正規雇用のギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップに非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法をさらにメタな視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。
歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタな視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権の普遍性や憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法の思想の根拠はと問われたときにフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思の議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションのオーナーシップの違いとも思える。)
欧米の環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。
既存の規範に書いてないものであっても、新たなムーブメントの意味を真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。
そのムーブメントの暴力性を違法と認識しつつも、時代のダイナミズムとしてとらえようとする、というか。
繰り返すと、
・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。
・憲法など国の根本的なシステムのアップデートするのに必要な社会のダイナミズムへの関心の低さ。
この二つをひとまとめにして、斎藤幸平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的に重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。
元増田ではない。
【すべてが半世紀前と異なっている】
市中での犯罪はもちろん騒音や有害物質やら、県民を守るものは何もなかった。
だって被占領地だぞ。琉球政府が存在すると言っても力関係的に無理だろ。
だから反米・反基地・共産主義への傾倒という土壌が必然的に醸成された。
じゃあ本土復帰後はどうかというと、事件事故は減りまくっている。
米軍側が地元の反米感情に危機感を持って統制に努めた結果もあるだろうし
騒音等々の基地被害だって現に普天間基地の近所に住んでる俺が大したものだとは思っていない。
米軍負担が結構減ったにも関わらず、県民に世論調査で選挙の争点とかを聞くと必ず基地問題がトップに来る。
これさ、地元マスコミはもうほんと執拗に毎日毎日反基地の記事をほとんどのページに載せてくる結果に過ぎないわけよ。
政治というものは経済とか医療とかいろんな分野があるわけで、地元ごとに更に具体的な課題がたくさんあるわけよ。
毎日の新聞やテレビラジオの報道の大半が基地問題で塗りたくられててそれ以外のトピックスが脇に寄ってるようじゃ、
「あ、基地問題が大変なんだね」って思っちゃうじゃない。現に沖縄で生活している人間ですら。
基地がほぼ無い那覇市や周辺市町村では基地被害なんて感じようがないぐらいだぞ。
それでも基地問題が最大のトピックになって反基地勢力ワッショイしちゃうのは、実態にそぐわない。
が、ふんわりしたワッショイとはいえ第一トピックなので県民も本土の奴も沖縄=基地問題という認識になってしまう。
普天間基地なら滑走路の延長線上、嘉手納基地ならジェット機が主な関係で嘉手納町全域はマジの騒音被害を被っている。
あと沖縄戦経験者な。これは理屈抜きで強固な反米感情を抱くのも仕方がない。
このへんの補償は防衛施設周辺交付金とかで手当てはされてるけど市町村役場向けのものだったりで補償を受けてる感は薄いと思う。
あと最近ではヘリからの落下。小学校にヘリのドアガラスが落ちたのは映像が残っていて明白。
こういう事故は実際に存在するんだから、住宅街の真ん中にある普天間基地を辺野古なり馬毛島に移転するのは妥当ではあるわけ。
イデオロギーで反基地やってる勢力が目立つせいで、政府も米軍も基地被害自体に懐疑的で、基地に対する反感は全てイデオロギーに基づくものと勘違いしている節がある。
実はそうじゃない。ここのズレが政府の沖縄対応の下手糞さの根っこになってる。
ケアすべきものもケアしてないんだから、沖縄で本来大多数を占めるであろう基地問題中立派を味方にできていない。
【実情は化石化した反基地勢力vsふんわりした政府のだらしない社会資本の浪費】
反基地勢力の言う「軍備があるから戦争が起きる」的などうしようもない主張はどうしようもない。放っておくしかない。
でもな、「基地は違憲」とか「体を張って基地建設を阻止」とかいうアレには政府としてちゃんと対応できるはずなんだよ。
今まで何度も何度も在沖米軍基地は裁判で争われてきて、騒音被害について賠償を認めた例はあるものの
基地の存続や辺野古移設については最高裁も認めている状況じゃない。
ならば粛々と進めるのが法治主義国家として当たり前のことだろう?
なんで数々の明らかな実力での建設妨害活動を検挙しないかっていうと、
「辺野古建設が延びても普天間基地の移設が伸びるだけなんで、成田闘争みたいになるリスクを冒してまで事を進めるメリットが無い」だけだろう。
今までも沖縄県知事選挙や名護市長選挙で基地賛成派が勝ったことは何度もあるぜ?
だけど地元メディアは
基地容認派が当選→今回は基地問題は争点にならなかったので基地反対が民意だ!
という具合なのでどうしようもない。こいつらと話をしても意味がない。
【でもそろそろ中国ヤバくない?】
沖縄は必然的に巻き込まれるわけだけど、地元メディアも玉城デニーを頂く革新勢力はほんとにもう心からピュアに「話せばわかる。米軍は悪。」の精神なのでどうしようもない。
自由主義国家の一員である台湾が一党独裁国家の中国に占領されて甚だしい人権侵害が生じる事態を容認するんですか
とか訊いても「そうならないようにするのが政治の責任です^^」「沖縄と先島に米軍がいるから悪いんです^^」とかマジで回答する連中だからね。
いざ台湾で事が起きたら地元自治体がこんな状態で政府も米軍も対応できるのか。
マジで自衛隊や米軍の足を引っ張る連中がいるし、このままじゃ中立派の県民もそれに影響されるぞ。
それなのにこないだの知事選なんだあれ。
元宜野湾市長のあの人ってカリスマ性とか全然なくて選挙に勝てる人間じゃないって。絶対。
もっと手を打て。考えろ。
無宗教が海外では恐れられるとはよく言われる話であるし、社会主義などの事を考えるとそういうアレルギー反応が出るのも仕方ないとは思う。しかし、日本人は無宗教であることもあるし、様々な宗教をオムニバス的に取り入れることもある。このように日本においては無宗教というのは意外と無害なものなのだ。
無趣味の奴らのほうがもっと恐ろしい。ぼーっと生きるだけならまだしも、そういう連中は大抵群れて人のことをいびり倒したり陰湿なことをしているのだ。目標は大体趣味に熱中できる人たち。こんな有害なことは他にないし、日本衰退の原因と言っても過言ではない。文化的・技術的に生産的なことをしている人間を、何も生産しない人間が攻撃して文化・技術を退行させる。さらに、授業に於いても私語を連発して人の集中を途切り、学習効果やモチベーションを大きく下げる。こんな馬鹿らしいことは無いし、今すぐ解決されるべきことである。
文科省も馬鹿なのだ。いじめなどという過度にかわいく抽象化した単語で済まさず、「特定リンチ」「精神リンチ」などもっと現実に即した単語を用いる必要性があるのではないか。それなのに、奴らは見直そうともしていない。もしかして、文科省は関係者や圧力団体にこういう無趣味人間どもがいるのか?というか、そうでないと説明がつかないレベルのクソムーブである。中学校・高校は愛知の事件もあったことだしそろそろ学内警察でも置いたらどうか。適切な立法さえ出来ればこのようなことは減り、平和な学校生活を送れる生徒が増えるはず。
皆さん御存知の通り、売電大統領は産油国に対して若干敵対姿勢を見せている。之は私の想像だが、一ヶ月とかくらいあとに「産油国に兵器がある」だとか因縁をつけてきそうだ。そもそも昔からこういう気質がある以上思われても仕方ないと思う。其のようなことをしないと厳に誓ってほしい。ヒッピーどもがまちなかに繰り出したり、左翼の力が強くなるのは勘弁だ。もうあんな混迷の時代は二度と繰り返すべきではない。
左翼は現在極めて信用されていない。一部のカルト的信者が其の力を信じているだけで、大多数は「右翼は嫌だ。でも左翼はもっと嫌だ」という考えであろう。そんな左翼が脱炭素へ食い込んでいるらしく、脱原発まで言い出しているのだが、何度左翼は介入を繰り返す?
成田闘争といい、左翼は切実な問題へ介入しては泥沼化させるのが好きなようである。問題は悪化するばかり。
そこで困っている方に問います。あなたは今何に困っていますか?それは左翼の力がどうしてもないと解決できないことですか?右翼じゃだめですか?