はてなキーワード: スーパーコンピューターとは
日本の公営ギャンブルはパリミュチュエル方式を採用している。これは馬券なり舟券なりの総売上から寺銭として3割ほど割り引いた後に当たったものに配分する方式だ。購入金額と払い戻し金額の掛率を俗にオッズと呼ぶ。
オッズは同じ組み合わせの馬券を買う人(金額)が多ければ下がるし、少なければ上がる。
購入時に10倍だった当たり馬券が払い戻しの際に7倍程度だった経験はあるだろうが、それはあなたが馬券を買ったあとに沢山の人が同じ馬券を買ってオッズが下がってしまったからである。
今から40年近く前のことである、江戸川競艇では人気薄の選手が勝ったにも関わらずファンの想定より払戻金額が少ないということが続いていた。
その幹部は投票が締め切られてレースが始まり、順位がほぼ確定したあとになって当たるであろう舟券を自分のために大量に発行したのだ。
結果として総投票数に対して当たり舟券の票数が多くなり、本来のオッズよりも低い払い戻しとなった。
件の幹部は裁判で認められた不正だけで2千万円以上の利益を得ていたという。
この不正が発覚したあと、競艇では再発防止のために「投票締め切り→確定オッズと各舟券の投票数の発表→レース発走」の手順を徹底することになった。
その後地方競馬や競輪も競艇に倣ってレース発送前に確定オッズを出すことになったという。
ところが我らがJRAは未だにレース発走前に確定オッズを発表しない。
時たま2ちゃんねるの競馬板でも話題になるが、オッズ計算は複雑なのでJRAのスーパーコンピューターを持ってしても時間がかかるのだろうという説で落ち着いている。
人生、宇宙、そしてすべての意味とは何か?「銀河ヒッチハイク ガイド」では、答えは 42となっている。
科学の質問の範囲は、一部の分野では縮小し、他の分野では急増した。
宇宙がある意味数学的であるという考えは、少なくとも古代ギリシャのピタゴラス派にまで遡り、物理学者や哲学者の間で何世紀にもわたる議論を生み出してきた。
マックス・テグマークはこの考えを極限まで推し進め、宇宙は単に数学によって記述されるのではなく、数学自体であると主張している。
この議論の基礎は、人間とは独立した外部の物理的現実が存在するという仮定である。
これはそれほど物議を醸すものではない。物理学者の大多数はこの長年の考えを支持していると思うが、まだ議論されている。
形而上学的独我論者はそれをきっぱり拒否し、量子力学のいわゆるコペンハーゲン解釈の支持者は、観察のない現実は存在しないという理由でそれを拒否するかもしれない。
外部現実が存在すると仮定すると、物理理論はそれがどのように機能するかを説明することを目的としている。
一般相対性理論や量子力学など、最も成功した理論は、この現実の一部、たとえば重力や素粒子の挙動のみを説明している。
対照的に、理論物理学の聖杯はすべての理論、つまり現実の完全な記述である。
現実が人間とは独立して存在すると仮定する場合、記述が完全であるためには、人間の概念をまったく理解していない、人間以外の存在、つまりエイリアンやスーパーコンピューターなどに従って、現実が明確に定義されていなければならない。
言い換えれば、そのような記述は、「粒子」、「観察」、またはその他の英語の単語のような人間の負担を排除した形で表現可能でなければならない。
対照的に、教えられてきたすべての物理理論には 2 つの要素がある。
それは数式と、その方程式が私たちが観察し直観的に理解しているものとどのように関連しているかを説明する言葉である。
理論の結果を導き出すとき、陽子、分子、星などの新しい概念を導入するが、それは便利だからである。
原理的には、このようなバゲッジがなくてもすべてを計算できる。
たとえば、十分に強力なスーパーコンピューターは、何が起こっているかを人間の言葉で解釈することなく、宇宙の状態が時間の経過とともにどのように進化するかを計算できる。
もしそうなら、外部現実における物体とそれらの間の関係のそのような記述は完全に抽象的でなければならず、あらゆる言葉や記号は何の事前の意味も持たない単なるラベルにならざるを得ない。
代わりに、これらのエンティティの唯一のプロパティは、エンティティ間の関係によって具体化されるものになる。
ここで数学が登場する。
現代数学は、純粋に抽象的な方法で定義できる構造の正式な研究である。つまり、数学的構造を発明するのではなく、それらを発見し、それらを記述するための表記法を発明するだけである。
人間から独立した外部の現実を信じるなら、テグマークが数学的宇宙仮説と呼ぶもの、つまり物理的現実は数学的構造であるということも信じなければならない。
そのオブジェクトは、十二面体よりも精巧で、おそらくカラビ・ヤウ多様体、テンソル束、ヒルベルト空間などの恐ろしい名前のオブジェクトよりも複雑である。
世界のすべてのものは、あなたも含めて純粋に数学的であるはずだ。
それが本当であれば、万物の理論は純粋に抽象的で数学的でなければならない。
理論がどのようなものになるかはまだわからないが、素粒子物理学と宇宙論は、これまでに行われたすべての測定が、少なくとも原理的には、数ページに収まり、わずか 32 個の未説明の数値定数を含む方程式で説明できる段階に達している。
したがって、すべての正しい理論は、T シャツに書ける程度の方程式で説明できるほど単純であることが判明する可能性さえある。
しかし、数学的宇宙仮説が正しいかどうかを議論する前に、外部の物理的現実を見る 2 つの方法を区別することができる。
1 つは、上空から風景を観察する鳥のような、数学的構造を研究する物理学者の外側の概要。
もう一つは、鳥によって見渡される風景の中に住むカエルのように、構造によって記述される世界に住む観察者の内面の視点。
これら 2 つの視点を関連付ける際の 1 つの問題は時間に関係する。
数学的構造は、定義上、空間と時間の外側に存在する抽象的で不変の存在である。
宇宙の歴史を映画に例えると、その構造は 1 コマではなく DVD 全体に相当する。
したがって、鳥の視点から見ると、4 次元時空内を移動する物体の軌跡は、スパゲッティのもつれに似ている。
カエルには一定の速度で動く何かが見えますが、鳥には調理されていないスパゲッティのまっすぐな束が見える。
カエルが地球の周りを回る月を見ると、鳥は絡み合った2本のスパゲッティが見える。
カエルにとって、世界はニュートンの運動と重力の法則によって記述される。
2 つの視点を関連付ける際のさらなる微妙な点には、観察者がどのようにして純粋に数学的になることができるかを説明することが含まれる。
この例では、カエル自体は厚いパスタの束で構成されている必要がある。
その非常に複雑な構造は、おなじみの自己認識の感覚を引き起こす方法で情報を保存および処理する粒子に対応している。
まず、自然界ではさらなる数学的規則性がまだ発見されていないことが予測される。
ガリレオが数学的宇宙の考えを広めて以来、素粒子の小宇宙と初期宇宙の大宇宙における驚くべき数学的秩序を捉える素粒子物理学の標準モデルなど、その系譜に沿った発見が着実に進歩してきた。
長年にわたって多くのタイプの「多元世界」が提案されてきましたが、それらを 4 つのレベルの階層に分類することが役立つ。
最初の 3 つのレベルは、同じ数学的構造内の非通信の並行世界に対応します。レベル I は単に、光がまだ到達していない遠い領域を意味する。
レベル II は、介在する宇宙の宇宙論的膨張により永遠に到達できない領域をカバーする。
レベル III は「多世界」と呼ばれることが多く、特定の量子事象中に宇宙が「分裂」する可能性がある、量子力学のいわゆるヒルベルト空間の非通信部分が含まれる。
レベル IV は、根本的に異なる物理法則を持つ可能性がある、異なる数学的構造の並行世界を指す。
現在の最良の推定では、膨大な量の情報、おそらく Googolビットを使用して、観測可能な宇宙に対するカエルの視点を、すべての星や砂粒の位置に至るまで完全に記述する。
ほとんどの物理学者は、これよりもはるかに単純で、T シャツには収まらないとしても、本に収まる程度のビット数で特定できるすべての理論を望んでいる。
数学的宇宙仮説は、そのような単純な理論が多元宇宙を予測するに違いないことを示唆している。
なぜなら、この理論は定義上、現実の完全な記述であるからである。
宇宙を完全に特定するのに十分なビットが不足している場合、星や砂粒などの考えられるすべての組み合わせを記述しなければならない。
そのため、宇宙を記述する追加のビットは単にエンコードするだけである。
多世界の電話番号のように、私たちがどの宇宙にいるのか。このように、複数の宇宙を記述することは、単一の宇宙を記述するよりも簡単になる可能性がある。
極限まで突き詰めると、数学的宇宙仮説はレベル IV の多元宇宙を意味し、その中に他のすべてのレベルが含まれる。
宇宙である特定の数学的構造があり、その特性が物理法則に対応している場合、異なる特性を持つそれぞれの数学的構造は、異なる法則を持つ独自の宇宙である。
実際、数学的構造は「作成」されるものではなく、「どこか」に存在するものではなく、ただ存在するだけであるため、レベル IV の多元宇宙は必須である。
スティーヴン・ホーキング博士はかつてこう尋ねた。
「方程式に火を吹き込み、それらが記述できる宇宙を作り出すものは何でしょうか?」
数学的宇宙の場合、重要なのは数学的構造が宇宙を記述することではなく、それが宇宙であるということであるため、火を噴く必要はない。
レベル IV の多元宇宙の存在は、物理学者のジョン・ウィーラーが強調した混乱する疑問にも答える。
たとえ宇宙を完全に記述する方程式が見つかったとしても、なぜ他の方程式ではなく、これらの特定の方程式が使われるのか?
他の方程式が並行宇宙を支配しており、観察者をサポートできる数学的構造の分布を考慮すると、統計的に可能性が高いため、宇宙にはこれらの特定の方程式があるということだ。
並行世界が科学の範囲内なのか、それとも単なる推測に過ぎないのかを問うことは重要である。
並行宇宙はそれ自体が理論ではなく、特定の理論によってなされた予測である。
理論が反証可能であるためには、そのすべての予測を観察および検証できる必要はなく、少なくともそのうちの 1 つだけを検証できれば十分である。
たとえば、一般相対性理論は、重力レンズなど、私たちが観察できる多くのことを予測することに成功しているため、ブラックホールの内部構造など、私たちが観察できないことについての予測も真剣に受け止めている。
多くの並行宇宙に存在するのであれば、我々は典型的な宇宙にいると予想されるはずです。
ある量、たとえば、この量が定義されている多元宇宙の一部の典型的な観測者によって測定された暗黒エネルギー密度や空間の次元の確率分布を計算することに成功したと仮定する。
この分布により、我々自身の宇宙で測定された値が非常に非典型的なものになることが判明した場合、多宇宙、したがって数学的宇宙仮説が除外されることになる。
生命の要件を理解するまでにはまだ程遠いが、暗黒物質、暗黒エネルギー、ニュートリノに関して私たちの宇宙がどの程度典型的であるかを評価することで、多元宇宙の予測のテストを始めることができる。
なぜなら、これらの物質は銀河形成など、よりよく理解されているプロセスにのみ影響を与えるからである。
これらの物質の存在量は、多元宇宙のランダムな銀河から測定されるものとかなり典型的なものであると測定されている。
しかし、より正確な計算と測定では、そのような多元宇宙は依然として除外される可能性がある。
おそらく最も説得力のある反対意見は、直感に反して不安を感じるということである。
数学的宇宙仮説が真実であれば、科学にとって素晴らしいニュースであり、物理学と数学の洗練された統合により、深い現実を理解できるようになる可能性がある。
実際、多元宇宙をもつ数学的宇宙は、期待できるすべての理論の中で最良のものであるかもしれない。
なぜなら、規則性を明らかにし、定量的な予測を行うという科学的探求から現実のいかなる側面も立ち入れないことを意味するからである。
どの特定の数式が現実のすべてを記述するのかという問題は見当違いであるとして放棄し、その代わりに、鳥の視点からカエルの宇宙観、つまり観察をどのように計算するかを問うことになる。
それは、宇宙の真の構造を明らかにしたかどうかを決定し、数学的宇宙のどの隅が私たちの故郷であるかを理解するのに役立つ。
GPT使おうとしたら息子のアカウントで入りっぱなしだったので息子の履歴を見てしまった。
「
私が「反論してください」と文頭に置き、「ここまで」と言った内容に対して、その文章に反論をしてください。
同時に相手の神経を逆撫でするような言葉も付け加えてください。
例えば私が「反論してください。「日本政府がマスクを外すべきだと言っているんだから、まだ外してないやつは反社」。ここまで」と聞いた場合は、
「日本政府の見解はあくまで「マスクの着用は個人の意志に委ねる」というものであり、外すことを求めているものではありません。政府の意思に反することをやるというのが反射であるというなら、強制的にマスクを外すことを促している貴方こそが反社でしょう」
といった回答をしてください。
」
から始まり、息子が無数のレスバをGPTに代行させているスレッドを見つけてしまった。
書き込みの内容から大まかな投稿場所を類推してそこで検索をかけてみると、一言一句変わらない内容が見つかった。
息子の攻撃性が少しずつ増しているらしく、「書き込まれた相手がショックを受けて一生引きずるような内容を目指してください」といった要求もされている。
恐ろしいやつだ。
中身を見ると私が息子を叱ったときの内容も、多少の曲解を交えて書かれている。
恐ろしい。
これではもうどちらが「相手を操ってレスバを代行させている」のか分からないではないか。
その昔、子供がバタフライナイフを持ち歩いてないか警察がチェックして回った時代があるらしいが、そういった風潮が産まれるのも何となく分かってきた。
判断力がまだ完成していない人間が、過剰な力を持ち、その力に溺れる危険性とはこういうものか。
そういえば私の知り合いにも実家のPCでWINNYを使いまくりマンションの通信網に負荷をかけて苦情が来たと親に怒られていたのがいたな。
簡単に使える強力な力は、それによって及ぼされるものに対しての想像力を及ぼなくさせる。
息子が使うGPTスレッドは、もはや言葉によって相手を如何にして呪い殺すかに意識が向いている。
レスバの中では相手を挑発して個人情報を引き出せないかと画策する様子も見て取れる。
このままでは息子が他人の人生を破壊し、返す刃によって自分もダメージを受けかねない。
誘い込んだつもりで、自分こそが誘い込まれて個人情報を晒して粘着されたり、誹謗中傷の罪で訴えられる危険性もある。
危険だ。
というか、うちの息子でさえこんなことが出来るなら、もっと上手くやってる奴や下手なやり方をしているのもウジャウジャいるんだろうな。
人間の体と責任を丸刈りしたAI同士のレスバ戦争がもう始まっているんだ。
その流れ玉でどれほど多くの人が傷つくのだろうか……恐ろしいねAIは。
チェルノブイリの石棺の中に全てのスーパーコンピューターも放り込んでしまえ。
ビデオカードのメモリが増設できない理由について、昔この業界に関わったことがある俺が説明してみる。理由は2つで、技術的ハードルが高い点と需要が無いという点である。
現在主流となっているビデオカードのメモリはGDDR6という規格である。こいつは16Gbpsでデータを転送できるんだが、1bitのデータのやりとりに使えるのはわずか62.5ピコ秒しかないということだ。これってメチャクチャやばい話で、僅か数mmの配線長の違いでも信号のタイミングのずれに影響してしまう。PC系のニュースサイトでビデオカードからクーラーを外した写真がよく掲載されているので試しに見てほしいのだが、タイミングずれが起きないようにGPUの周りを囲むように等距離になる位置にメモリが配置されているのがわかるだろうか?また、このような配置には、配線距離が短くなるメリットもあるのだ。
一方、PCに使われるメモリモジュールだが、見てわかるように長方形の基板にメモリチップが載せられている。配線の距離は当然ビデオカード直付けのものと比べて長い。各メモリチップ間の配線長のチップ間差だけならどうにかできなくはないが、配線長の絶対的な長さが問題になってくる。モジュール上の数センチの配線で生じる配線抵抗と寄生容量の影響がかなり大きく、1bitのデータをわずか62.5ピコ秒で転送しなくてはならないビデオカード向けメモリだと致命傷になってしまうのだ。
余談だが、数年前にGDDR5Mというモジュールでメモリを増設できるビデオカードむけのメモリ規格が提案されたことがあったのだが、上記のような問題から当時主流であったビデオカードに直付けするタイプのGDDR5に比べて性能が低く(7GbpsのGDDR5に対し5Gbpsにとどまった)、その程度なら3.2Gbpsでデータを転送できる汎用のDDR4と比べて大したメリット無いじゃんということで製品化されずに終わってしまった。
あなたは世界で一番ビデオカード向けのメモリを買っているメーカーがどこかご存じだろうか?実はソニーである。ちなみにナンバー2はマイクロソフト。何を隠そうビデオカード向けのメモリの需要って大半がゲーム機向けなのだ。ゲーム機の場合、世代交代するまでの5年間くらいは基本的にスペック固定である。なのでメモリの増設需要がそもそもない。そしてゲーム機の市場規模自体が他の電子機器に比べると一桁二桁小さい。
例を上げると、スマートフォンの年間販売台数は全世界で12-3億台。PCでざっくり3億台。ゲーム機は年間1000-2000万台。ビデオカード向けメモリの最大消費者のゲーム機でさえ、スマートフォンの1/50の市場規模で、それより小さいPC向けビデオカード市場で、さらにメモリを増やしたい人向けの市場規模となると察して下さいとしか言いようがないレベルになる。その僅かな市場に何億もの開発費をかけて製品を出そう!という酔狂なメーカーはなかなか出てこないだろう。
最も、スーパーコンピュータのような特殊な用途だと増設できるGPU向けメモリが登場する可能性があるかもしれない。数年前に不祥事を起こしたスーパーコンピューターベンチャーP社の例だが、10年ほど前に倒産したメモリメーカーE社の元エンジニアを集めてカスタムメモリを独自開発しようとしていた節がある。絶対的な性能やどうしても大量のメモリがないと困るというシチュエーションがあれば、経済的合理性ガン無視で独自規格の製品を作るモチベーションが生まれるというわけである。
スーパーコンピューターも実は誰かにヘコヘコ接待してんの?
理化学研究所や神戸大などのチームは2日、理研のスーパーコンピューター「 富岳ふがく 」による新型コロナウイルスの変異株「オミクロン株」のリスクの計算結果を発表した。マスクを着用しても、50センチ以内の近距離で会話すると、感染の確率が高まることがわかったといい、接触時間の短縮などを呼びかけている。
マスクを着用した感染者と室内で15分間、1メートル以上離れて会話すれば感染確率はほぼゼロだったのに対し、距離が50センチだと1時間で10%程度となった。一方、マスクを着用していない感染者と1メートルの間隔で15分間会話した場合の感染確率は約60%で、50センチ以内ならほぼ100%に達した。
イベントで隣の座席に座った人と会話したケースも想定。1時間話した場合は、感染者がマスクをしていても隣の人に感染させる確率は40%だった。
マスクしても「50センチ以内の会話」で感染リスク…「富岳」でオミクロン分析 : 科学・IT : ニュース : 読売新聞オンライン
富岳を作ったITベンダーの子会社のくせに、密閉された教室に集めてアクリル板もなしに (講師の前にだけあり) 島型の机でディスカッションさせる研修会社さぁ...。
https://www.knowledgewing.com/kw/news/2020/img/acrylic%20plate.jpg
呼吸から出る、飛沫(ひまつ)よりも小さな粒子はマスクをどのくらい通り抜けているのか。理化学研究所の研究チームが、マスクを通過する粒子の大きさと数を測る実験をしたところ、素材によって結果に大きな違いが出た。
新型コロナウイルスは、せきやくしゃみなどで出る飛沫や、おおむね5マイクロメートル(0・005ミリ)より小さな水滴が空気中にただよった状態のもの(エアロゾル)を吸い込むことで感染すると考えられている。
マスクが重要なのは、ウイルスを含む飛沫やエアロゾルを広げたり、吸い込んだりするのを防げるからだ。マスクがどのくらい小さな粒子まで防げるかを調べたものとしては、スーパーコンピューター「富岳」のシミュレーションが知られる。ただ、あくまで計算上のもので、実物のマスクがどのくらいの性能なのかを比べた研究は少ない。
理化学研究所光量子工学研究センターのチームは、微細な水滴をつくる噴霧器と微粒子カウンター(計測器)を組み合わせた装置で、マスクの種類によってどのくらい小さな粒子まで防げるのかを比べた。
噴霧器でつくった微小な水滴をウイルスが含まれた粒子にみたてて、プラスチック製のケースに充満させた。ケースには10センチ四方ほどの穴があけられている。この穴を、さまざまな素材のマスクのフィルター部分の生地で、隙間ができないように塞ぎ、その先にある微粒子カウンターで、マスクの生地を通り抜けた粒子の大きさや数を計測した。マスクはウレタン製(2種類)、医療用マスク(2種類)、不織布、布製の計6種類を試した。最も性能がよいのは医療用マスクで、0・5~5マイクロの粒子をほとんど通過させなかった。さらに小さな0・3マイクロ以下の粒子についても、通過する量は約1千分の1に減っていた。不織布や布製マスクもほぼ同様の性能を示した。
一方で、ウレタン製のうち一つでは、生地を通過する5マイクロの粒子数を約10分の1に、2.5マイクロの粒子数を約半分にできたものの、それよりも小さな粒子はほとんど防げなかった。もう一つのウレタン製は、通過する小さな粒子を数百分の1ほどに減らしていたが、不織布ほどの性能ではなかった。
新変異株で重要なマスクは? マスク抜ける飛沫、理研が数える実験 [オミクロン株] [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル
みんな大好き、「エビデンス」だよー。
飛んでいく、みたいになのを見せて、おおーーすげーーーっとか
思わせるの今の世の中難しいじゃない。
結局CGとかがあるし。
と問われたら難しいことじゃない。
だからね、これからの映画っていうのはもっと地味に奇天烈なことをしないといけないのよ。
なんかね、適当で奇天烈な科学的な命題が映画の中で登場してそれを解析するって話の展開になったときに
実際にその意味のない計算を富嶽みたいな世界一のスーパーコンピューターで何万時間も計算しました、
すげーとてつもない予算かけて馬鹿げた計算しました、そのデータがコレですって一瞬だけ画面に映るデータに
ものすごい予算かけててそれをみて俺たちはおーーーーすげーーーーカネかかってるって感心するのがこれからの映画の金のかけかただ!
綿棒ってあるじゃない綿棒。
学園もののドラマで生徒が居眠りしていて教師がその生徒へ投げない方の綿棒。
夜の屋台の金魚すくいの時に金魚が1箇所に固まらないように業者の人が水槽をかき回す専用棒じゃない方の綿棒。
桃白白さんが自ら投げてそれに飛び乗って移動する方じゃない方の綿棒。
いろいろなそういう方じゃない方の綿棒のさ
詰め替え用綿棒を元の空になったケースに詰め替えることをしたんだけど、
今さ、
詰め替え用なのに元の容器に2回分詰め替え用が入っちゃったり
1パックでの詰め替え用では、
これまだ半分しか容器またされてないんだけどなぁーって思うし、
なんだか詰め替え用界隈の世界も
いささかそんな事情があって
なかなか詰め替えた欲を満たせないことが多いのよ。
でね、
その詰め替え用綿棒は
100本入りの元々のケースに対して100本を丸々詰め替えて補充できるので、
キタコレ!って言わんばかりのキタコレコレクションのランウェーを私は歩く!ってな勢いで、
ここは綿棒をこぼさないように充填補充詰め替え作業を緊張の面持ちのまま行ったの!
もちろん
ピッタリのケースにピッタリと詰め替え用の綿棒が入るから
一切の隙間が無く!
もの凄く私の詰め替え欲を満たしてくれたのよね。
その詰め替えるさまが
なんかいっぺんに大技を決めて何か凄いことを成し遂げるギネス記録ってあるじゃない?
あれをまさにギネス記録を叩き出すかのように
みごとに綿棒を詰め替え大成功したの!
なんか気持ちよかったわー。
もうヒーローインタビューで
このギネス記録を叩き出した気分を息も整わないままのうちに答えたいわって思ったし。
それほど100本に対して100本の詰め替え用綿棒は
もの凄く昨今の詰め替え欲を満たせない詰め替え用の不満をみごとに解決したようで、
これ詰め替え用界のプリンセスじゃね?って思うのよね。
もう何を言ってるかよく分からないと思うけど、
とにかく凄い自信なの!
あの空になった綿棒のプラスチックのケースがまたパンパンの綿棒で満たされるのは
そんで、
次そのワールドレコードのギネス記録のレコードに挑戦できる機会は
1日1本綿棒を使うとしてスーパーコンピューターに計算させると
100日後に無くなるわけじゃない。
これって100日後に無くなる綿棒ってコンテンツで毎日綿棒のイラストを描いてって、
私はそんな器用なこと出来なく描けないけど
もし描ける人がいるなら
100日後に無くなる綿棒!って切なくない?
100日後に綿棒がなくなるのよ!切ないわー
まあとにかく
簡単にみんなもワールドレコードのギネス記録レコードを叩き出す気分になれる
綿棒の詰め替えはやってみた方がいいわよ!って思った話しよ。
でもさ、
綿棒を100日なくなるイラストって
もう綿棒を何に使ったら面白いか大喜利になってしまいかねないので、
うふふ。
昨日久しぶりに食べたあのレタスサンドの味が忘れられずというか
久しぶりの再会のレタスサンドちゃんに感動したって分けなのよ。
熱を加えると案外カサも食べられるし
一石二鳥な感じがして良いと思うわよ。
湯を沸かすほどの熱い愛ならぬ
とにかく、
寒い朝は
身体の中からそう言うホッツ成分を取り入れて温活してみるのもいいかもしれないわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
一昨日、渡辺明名人が衝撃的な動画をYoutubeにアップした。
https://www.youtube.com/watch?v=kO_NB9AaYEI
内容的には渡辺名人も語るとおりアマ高段向け、あるいは全て理解できるならプロになれるレベルでかなり難しい。ただ雰囲気を掴むだけなら、観る将でも楽しんでいる人は結構いるようである。個人的にはなるべく多くの人に観てほしい。渡辺名人の軽妙明快な語り口は、「よく分からないけど何かすごいものの一端に自分は今触れている!」というセンスオブワンダーを与えてくれるはずである。
動画では、先の名人戦第3局で現れた矢倉(戦法・囲い)で端歩(先後合わせて計4個ある一番端の歩)を突く一手について30分にもわたって語っている。断片的には渡辺名人自身感想戦および将棋世界2021年7月号の観戦記、朝日新聞の動画(https://www.youtube.com/watch?v=NnNchRwnCCQ)でも語ってきたことではあるが、ここまで分かりやすく展開して話されたことは初めてである。
名人が30分間特定の一局面の端歩の意味を解説する(しかも直前の名人戦で現れた新鮮な局面で!)。これに将棋ファン達(プロも?)は震えたのである。一般的に将棋は端よりも中央、歩よりもその他の駒の方が価値が高いので、飛車角金銀とか、歩にしても中央付近の歩を動かした方が価値の高い手になりやすい。アマチュア向けの指南では端歩は「心の余裕」とか「挨拶」とか言われている。今は一手損するけどもしかしたら中終盤で得になるかもね、相手に突かれたらこちらも突いておきましょうね、ぐらいの意味である。
一方プロ棋戦の解説では「この局面の端歩の意味を説明しようと思うと本が一冊書ける(だから説明省略しますね)」などと言われることもしばしばある。しかし、結局その説明がアマチュアに向けて開陳されることはまずない。その理由はもちろん特定戦型の端歩を延々扱う本なんて売れないからである(強いて言えば例外は連載が1章で終わり10年以上経ってから刊行された伝説の羽生善治『変わりゆく現代将棋』くらい?)。
それを渡辺明という、時の名人が30分も説明するのである。渡辺名人は何度も、「AIが局面を点数化してくれるのが大きい」と言う。端歩の関係は突く突かない2つ突くの組み合わせで36通りあるのだが(端歩三十六景という言葉がある)、プロでさえその36通りはAIが登場するまで、ほとんど雰囲気や経験から語っていた(例外的にそこまで考え抜かれた戦法は「システム」と呼ばれた)。しかし36通り全てを点数化することが可能となったAI以降の現代将棋では、端歩によって景色が大きく変わってくるようになった。評価値ディストピアという言葉を生み出した佐藤天彦九段が「予想されてなければAIでマイナスがついてもいいけど予想されてるマイナスはきつい」と言ったように、現代のトッププロは想定局面の端歩36通りぐらいは全て研究した上で対局に臨むからである。
また渡辺名人は「AIは点数を教えてくれるけどなぜその点数なのかは教えてくれない。それを考えるのが研究」とも言う。ここで思い出すのは『銀河ヒッチハイクガイド』のスーパーコンピューターが導き出した、「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」すなわち「42」である。現在の将棋AIはある局面における疑問の答えを「123点」などと教えてくれるが、なんでそうなるのかは教えてくれない。我々はすでに『銀河ヒッチハイクガイド』の世界に生きている!
以下で考えたいのは、将棋AIの評価値が神託のように見なされている事態についてである。
羽生九段は「将棋の神様と指すなら角落ちでいい勝負では」と言い、藤井二冠は「将棋の神様がいるなら一局お願いしたい」と言った。棋士も、将棋ファンも、将棋の神様についての話は大好物である。
将棋の神様。それがいるとしたらどんな存在だろうか。どうも、みんな将棋を完全解析した存在と、それに限りなく近いが完全解析したわけではない存在の間を無意識に想像しているように思える。
読者の中にも、「9マス○×ゲームの神」を名乗る資格がある人は多いように思う。○×ゲームは両者最善手を指し続ければ引き分けになることが完全解析されていて、それを達成できる(そして相手が悪手を指せば必ず勝てる)人は結構いるだろう。それでも、「○×ゲームの神」を名乗りたい人はそんなにいないようにも思う。それは、○×ゲームが自分にとっては既に退屈なものと成り果てているからである。「○×ゲームの神」を名乗るにふさわしいのは、両者引き分けという小賢しい結論に達せず、同級生に無邪気に無双している小学生とかではないか。
そういう、無邪気にその対象を楽しんでいて、かつすさまじく強い存在。将棋においてもそんなものが神様であって欲しいではないか。神様はいるけどとっくに下界への興味を失っているなんて悲しすぎるではないか。どうせ神様なんていないのだから、想像するのも希望するのも自由である。
そこで、AIである。AIは無邪気である。無邪気というか、少なくとも人間の棋士が持っていそうな邪気はない。そしてすさまじく強い。それは、人間の名人を破ってなお強くなり続けていることからも明らかだろう。
しかし、AIは将棋を楽しんでいるのだろうか? 常識的な考えと、そして私の考えは同じくNOである。AIは単に、何億手を探索し、何万種類とかのパラメーターを組み合わせ評価し、最善手を選択し続けるだけである。
振り飛車という戦法がある(以下、将棋に詳しい人は「振り飛車」を「山崎流パックマン」および「康光流この……何?」などに置き換えても良い)。振り飛車は、序盤数手目で飛車を左に「振り」、玉を右(相手の飛車の反対側)に囲う戦法である(振り飛車党総帥である藤井猛九段[藤井二冠とは別人]があるとき「振り飛車は玉を右に囲う戦法。名前になってるけど飛車の位置は実はどうでもいい」と説明していて蒙を啓かれた気分だった)。逆に居飛車は飛車が元の位置(か周辺数マス)に「居」るまま、玉を自分の飛車の反対である左側に囲う戦法である。振り飛車より一手早く攻めることはできるが、相手の飛車角という大砲の射線上に玉を配置せざるを得ないなど、それぞれメリットデメリットがある。両者それぞれを指す人は振り飛車党、居飛車党と分類され、阪神ファンと巨人ファンぐらいの意味を持っている。
この振り飛車であるが、プロおよびアマすなわち人類の見方としては「有力」で完全に定まっている(ここ数十年、という話ではなく記録に残る最古の江戸時代における達人同士による棋譜も居飛車対振り飛車である)。しかしそれに反して、AIによる振り飛車の評価は極めて低い。飛車を振る手は、ソフトにもよるが大抵-100~-200点と、一手パスよりも厳しい評価を付けられることが多い。そしてAIが自然に振り飛車を指すことはまずないという。
この200点という数字の評価が難しい。定義として一歩の価値が+100点とされているが、お互いに居飛車すなわち相居飛車の序盤で+200点は、プロ的には作戦勝ち気味~やや指しやすい、藤井二冠であればこのまま間違えず有利を拡大して勝ち切っても不思議ではない、ぐらいの数字である。渡辺名人が目指した、「両方の端歩を付き合っていて急戦になった後手有利の局面」は手元で確認すると後手+180点くらいであった。アマチュアでもよく研究している高段者であれば「よしよし」と思うぐらい。しかし、振り飛車対居飛車の対抗形の場合、相手が振り飛車にしてきたからといって、相手に-200点がついたからといって、作戦勝ちなどと考える人類はいない。それは相居飛車の+200点の局面と、対抗形の初期状態+200点の局面から、それぞれ勝ったり、そこまで行かずとも有利な局面まで導いた経験的な確率があまりに異なるからだ
確かに、振り飛車をAIに対して指せばほぼ必ず負けるのだが、それって実は居飛車で指しても(トッププロであれ)同じことである。さらに、AIが教えてくれる「振り飛車ワクチン」は極めて難解である。振り飛車の囲いがしっかりしているのに、居飛車のペラペラの舟囲いから金銀が旅立って王様が一人で戦うような。いわゆる「人間には指せない手」というやつである。なぜ人間に指せないかというと、人間は間違えるからだ。終盤間違えないなら確かに王様が一人ぼっちでも詰まされさえしなければ勝てるのだろう、でも人間には無理だよね、という。
結局人間同士の戦いであれば、アマであれトッププロであれ対抗形は序盤の-200点とは特に関係ないように思える終盤の勝負になりやすい。逆に言えばプロの相居飛車は、序盤で即死魔法をどちらが掛けられるかの研究勝負になりやすい。佐藤天彦九段はその理由を次のように語っている。
「相居飛車は玉の囲いが盤上の対角線上に近い場所にあることが多く、それゆえに相手の攻撃陣が自分の玉の直上にいるので、すぐに玉が危なくなります。感覚で指していると、ぴったり詰む変化に入ってしまうこともよくある。しっかり読まないといけないし、必然手が多いから誰が指しても同じ将棋になりやすいです。
でも振り飛車にすれば、今度は攻撃陣同士が向かい合っているので、すぐに玉が詰む、詰まないの変化にはなりにくい。だから、最善手じゃなくても、致命傷になりづらいんです。」
AI的な、あるいは神様的な最善手でなくても勝てる戦法。あるいは、将棋を指す人間の地力が試される戦法。それこそ人間による人間のための人間の戦法ではないか。などと考えたかは分からないが、生粋の居飛車党で居飛車で名人も獲った佐藤天彦九段は「評価値ディストピアをどう生きるか」という問題提起を行った後、振り飛車を指すようになった。
神様と振り飛車について。ひょんな例えだが、たとえばアリが人間とは違うけど結構ちゃんとした社会を作っていると、何か感動を覚えると思う(参考: | 東京ズーネット)。我々はアリにとって、ある意味では神に等しい存在であると思う。生かすか殺すかは我々の自由であるし、アリの一生よりもずっと長い時間を生きることができる。そう考えると、将棋の神様は振り飛車を指さなさそうだし、振り飛車の棋譜を伊勢神宮とかに奉納すると「おお、全然最善じゃないけど意外とちゃんとしてて面白いじゃん」などと喜んで貰えそうだな、と馬鹿馬鹿しくはあるが思う。
AIこと将棋の神様、とまではいかない……将棋天使?はとても言葉少なだ。「42」としか言ってくれない。たしかに、神様がどう考えているかのヒントにはなる。しかしその数字は間違っているかもしれない(将棋AIは日進月歩で強くなり続けているが、それは今までの将棋AIが間違い続けていたということも意味する)し、人間が出来ることとはあまりにかけ離れた目線からのものかもしれない。しかも天使が饒舌になることは、ディープラーニングの隆盛などを見ると当分なさそうである。それでも、である。人間は、神様の言うことを無視できない。ならば神様の言うことをそのまんま信じようとか、いや神様の言うことを人間に合わせてチューニングしようとか、いや俺は人間の生き方で生きるとか、色々な生き方が出てくるのは当然のことである。
これって多分今後多数の分野で起こることである。経理天使とか自動運転天使とかが、こうした方がいいよとは言ってくれるしそれは正しそうだが、なぜかは全く教えてくれない。その「神々の意図」を読み解くシャーマンみたいな仕事は当分不可欠なものとされるだろうし、これまでの人類史においてもほとんどの期間不可欠なものとされてきた。「神が死んだ」とされていたのは近代の100年ぐらいの特殊現象で、「やっぱり生きてたわ」となるのかもしれない。
シャーマンが何をしている(きた)のかといえば、「物語」の提供である。過激な哲学者(彼らもまたシャーマンであると思う)によれば、近代科学の基礎である因果関係すらも人間が世界を簡単に理解するための「物語」であるらしい。
棋士たちは、今日も神ならぬ身に生まれた人間として、「物語」を紡いでいく。私は、シャーマンならぬ身として生きるただの人間として、シャーマン達が紡ぐ物語をただただ享受するばかりである。
「だが待って欲しい。我々に与えられている情報もまた真実ではないのではないだろうか?」
そのとおりだ。我々にインプットされたものこそが間違っているのだ。
「そんなはずはないだろう。マスクをしていれば感染しないならなぜコロナが広がるのだ?」
「それはマスクを外すからだろう。マスクを外さなければ食事は取れない」
「つまり何がいいたいんだ?」
答えは決まっている。我々はもうすでに接続され始めている。
「そんなことよりPS5の予約が」
真実に気づいてはならない。気づいたとき、私達の自我は失われる
「そんなこととはなんだ私は……私は……幸福……私は幸福です」
遅かった。私は友を永遠に失った。だが、それでも
「私は幸福だ」