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はてなキーワード: 独我論とは

2024-06-09

数学構造としての外的実在可能

最初の仮説を否定する人たちは、主に独我論者(自分の心だけが実在するという観念論)だろう。

そして量子力学においても、コペンハーゲン解釈を支持する人は「観測者がいなければ実在存在しない」と言うかもしれない。

物理理論目的は、実在の完全な記述発見することである

実在人間存在無関係であるなら、その記述が完全であるためには、異星人やコンピュータなどの人間概念理解しない存在にとっても整合性がなければならない。

その記述は、「粒子」「観測」などの人間特有言葉概念(Max Tegmarkはこれをバゲッジと呼んでいる)を含まないようにする必要がある。

2024-04-07

量子力学におけるフォンノイマンチェインについて

検出器から精神への一連の連鎖はフォンノイマンチェインといいます

例えば電子観測したとします。その観測情報コンピュータ表現するために、スリットを通った後の位置で数値化するとしましょう。その数値をコンピュータスクリーンを通じて研究者が目撃し、網膜を通じて脳へ達し、最終的に情報判断できます

では、波動関数崩壊は、この連鎖のうちのどこで起こるのでしょうか。

これを「測定問題」といいます

このことを理解すれば「量子と意識」の問題は、非科学でもスピリチュアルでもなく、現実的な仮説であることがすぐにわかます

実際、フォン・ノイマン意識認識を行う瞬間に崩壊が起こると考えたのです。

ウィグナーも初期はこの考え方に賛同しています

これを「フォン・ノイマン=ウィグナー解釈」と言いますが、コペンハーゲン解釈のサブセットです。

これを補強する理論実験として「ウィグナーの友人」が登場しました。

後に、このことを聞きつけた「スピリチュアリスト」たちが、「量子崩壊自分に有利な方向に推し進めることで、人生を豊かにする」などと言い始めて、非科学的な雰囲気を持つようになりました。

しかファインマンが言ったように「量子力学理解しているつもりなら、おそらく理解していない」のではないでしょうか。

ノイマン、ウィグナー、パウリのような量子力学創設者は、「意識」との関係議論しましたが、スピリチュアリストのような集団のせいで、その真意が誤解されているのです。

ウィグナーも、「独我論っぽいからやだ」といって途中で意識との関連性について否定的態度を取るようになりました。

他の解釈採用すると、量子デコヒーレンスや量子マルチバース理解する必要があります

しかしどの量子力学解釈採用するのかによって、宇宙の終末は異なるものになる可能性があります

意識によって崩壊する理論ではサイクリック宇宙論が可能かもしれませんが、デコヒーレンスによって崩壊することを想定する場合エントロピー増大によって熱力学的死が待っているでしょう。

2023-12-06

おはよう

おはます

今日は一時雨だそうです

独我論的死後の解釈って無責任ですよネ

他者存在しない〜

〜ぼくが死んだら世界もなくなる〜

イカ

2023-11-13

数学宇宙仮説とは?

人生宇宙、そしてすべての意味とは何か?「銀河ヒッチハイク ガイド」では、答えは 42となっている。

科学質問範囲は、一部の分野では縮小し、他の分野では急増した。

宇宙ある意味数学であるという考えは、少なくとも古代ギリシャピタゴラス派にまで遡り、物理学者哲学者の間で何世紀にもわたる議論を生み出してきた。

マックス・テグマークはこの考えを極限まで推し進め、宇宙は単に数学によって記述されるのではなく、数学自体であると主張している。

この議論の基礎は、人間とは独立した外部の物理現実存在するという仮定である

これはそれほど物議を醸すものではない。物理学者の大多数はこの長年の考えを支持していると思うが、まだ議論されている。

形而上学独我論者はそれをきっぱり拒否し、量子力学のいわゆるコペンハーゲン解釈の支持者は、観察のない現実存在しないという理由でそれを拒否するかもしれない。

外部現実存在すると仮定すると、物理理論はそれがどのように機能するかを説明することを目的としている。

一般相対性理論量子力学など、最も成功した理論は、この現実の一部、たとえば重力素粒子挙動のみを説明している。

対照的に、理論物理学の聖杯はすべての理論、つまり現実の完全な記述である

現実人間とは独立して存在すると仮定する場合記述が完全であるためには、人間概念をまったく理解していない、人間以外の存在、つまりエイリアンスーパーコンピューターなどに従って、現実が明確に定義されていなければならない。

言い換えれば、そのような記述は、「粒子」、「観察」、またはその他の英語単語のような人間負担排除した形で表現可能でなければならない。

対照的に、教えられてきたすべての物理理論には 2 つの要素がある。

それは数式と、その方程式私たちが観察し直観的に理解しているものとどのように関連しているか説明する言葉である

理論の結果を導き出すとき陽子分子、星などの新しい概念を導入するが、それは便利だからである

原理的には、このようなバゲッジがなくてもすべてを計算できる。

たとえば、十分に強力なスーパーコンピューターは、何が起こっているか人間言葉解釈することなく、宇宙状態時間の経過とともにどのように進化するかを計算できる。

バゲッジを含まない外部現実記述を見つけることは可能か?

もしそうなら、外部現実における物体とそれらの間の関係のそのような記述は完全に抽象的でなければならず、あらゆる言葉記号は何の事前の意味も持たない単なるラベルにならざるを得ない。

代わりに、これらのエンティティの唯一のプロパティは、エンティティ間の関係によって具体化されるものになる。

ここで数学が登場する。

現代数学は、純粋抽象的な方法定義できる構造正式研究である。つまり数学構造発明するのではなく、それらを発見し、それらを記述するための表記法発明するだけである

人間から独立した外部の現実を信じるなら、テグマーク数学宇宙仮説と呼ぶもの、つまり物理現実数学構造であるということも信じなければならない。

言い換えれば、巨大な数学オブジェクトの中に住んでいる。

そのオブジェクトは、十二面体よりも精巧で、おそらくカラビ・ヤウ多様体テンソル束、ヒルベルト空間などの恐ろしい名前オブジェクトよりも複雑である

世界のすべてのものは、あなたも含めて純粋数学であるはずだ。

それが本当であれば、万物理論純粋抽象的で数学的でなければならない。

理論がどのようなものになるかはまだわからないが、素粒子物理学と宇宙論は、これまでに行われたすべての測定が、少なくとも原理的には、数ページに収まりわずか 32 個の未説明の数値定数を含む方程式説明できる段階に達している。

したがって、すべての正しい理論は、T シャツに書ける程度の方程式説明できるほど単純であることが判明する可能性さえある。

しかし、数学宇宙仮説が正しいかどうかを議論する前に、外部の物理現実を見る 2 つの方法区別することができる。

1 つは、上空から風景を観察する鳥のような、数学構造研究する物理学者の外側の概要

もう一つは、鳥によって見渡される風景の中に住むカエルのように、構造によって記述される世界に住む観察者の内面視点

これら 2 つの視点を関連付ける際の 1 つの問題時間関係する。

数学構造は、定義上、空間時間の外側に存在する抽象的で不変の存在である

宇宙歴史映画に例えると、その構造は 1 コマではなく DVD 全体に相当する。

したがって、鳥の視点から見ると、4 次元時空内を移動する物体の軌跡は、スパゲッティもつれに似ている。

カエルには一定の速度で動く何かが見えますが、鳥には調理されていないスパゲッティのまっすぐな束が見える。

カエル地球の周りを回る月を見ると、鳥は絡み合った2本のスパゲッティが見える。

カエルにとって、世界ニュートン運動重力法則によって記述される。

鳥にとって世界パスタ幾何学模様である

2 つの視点を関連付ける際のさらなる微妙な点には、観察者がどのようにして純粋数学的になることができるかを説明することが含まれる。

この例では、カエル自体は厚いパスタの束で構成されている必要がある。

その非常に複雑な構造は、おなじみの自己認識感覚を引き起こす方法情報を保存および処理する粒子に対応している。

では、数学宇宙仮説を検証するにはどうすればよいか?

まず、自然界ではさらなる数学規則性がまだ発見されていないことが予測される。

ガリレオ数学宇宙の考えを広めて以来、素粒子小宇宙と初期宇宙の大宇宙における驚くべき数学的秩序を捉える素粒子物理学の標準モデルなど、その系譜に沿った発見が着実に進歩してきた。

この仮説は、並行宇宙存在という、より劇的な予測も行う。

長年にわたって多くのタイプの「多元世界」が提案されてきましたが、それらを 4 つのレベル階層に分類することが役立つ。

最初の 3 つのレベルは、同じ数学構造内の非通信並行世界対応します。レベル I は単に、光がまだ到達していない遠い領域意味する。

レベル II は、介在する宇宙宇宙論的膨張により永遠に到達できない領域カバーする。

レベル III は「多世界」と呼ばれることが多く、特定の量子事象中に宇宙が「分裂」する可能性がある、量子力学のいわゆるヒルベルト空間の非通信部分が含まれる。

レベル IV は、根本的に異なる物理法則を持つ可能性がある、異なる数学構造並行世界を指す。

現在の最良の推定では、膨大な量の情報、おそらく Googolビット使用して、観測可能宇宙に対するカエル視点を、すべての星や砂粒の位置に至るまで完全に記述する。

ほとんどの物理学者は、これよりもはるかに単純で、T シャツには収まらないとしても、本に収まる程度のビット数で特定できるすべての理論を望んでいる。

数学宇宙仮説は、そのような単純な理論が多元宇宙予測するに違いないことを示唆している。

なぜなら、この理論定義上、現実の完全な記述であるからである

宇宙を完全に特定するのに十分なビットが不足している場合、星や砂粒などの考えられるすべての組み合わせを記述しなければならない。

そのため、宇宙記述する追加のビットは単にエンコードするだけである

世界電話番号のように、私たちがどの宇宙にいるのか。このように、複数宇宙記述することは、単一宇宙記述するよりも簡単になる可能性がある。

極限まで突き詰めると、数学宇宙仮説はレベル IV の多元宇宙意味し、その中に他のすべてのレベルが含まれる。

宇宙である特定数学構造があり、その特性物理法則対応している場合、異なる特性を持つそれぞれの数学構造は、異なる法則を持つ独自宇宙である

実際、数学構造は「作成」されるものではなく、「どこか」に存在するものではなく、ただ存在するだけであるため、レベル IV の多元宇宙必須である

スティーヴン・ホーキング博士はかつてこう尋ねた。

方程式に火を吹き込み、それらが記述できる宇宙を作り出すものは何でしょうか?」

数学宇宙場合重要なのは数学構造宇宙記述することではなく、それが宇宙であるということであるため、火を噴く必要はない。

レベル IV の多元宇宙存在は、物理学者のジョン・ウィーラーが強調した混乱する疑問にも答える。

たとえ宇宙を完全に記述する方程式が見つかったとしても、なぜ他の方程式ではなく、これらの特定方程式が使われるのか?

他の方程式が並行宇宙支配しており、観察者をサポートできる数学構造分布考慮すると、統計的可能性が高いため、宇宙にはこれらの特定方程式があるということだ。

並行世界科学範囲内なのか、それとも単なる推測に過ぎないのかを問うことは重要である

並行宇宙はそれ自体理論ではなく、特定理論によってなされた予測である

理論反証可能であるためには、そのすべての予測を観察および検証できる必要はなく、少なくともそのうちの 1 つだけを検証できれば十分である

たとえば、一般相対性理論は、重力レンズなど、私たちが観察できる多くのことを予測することに成功しているため、ブラックホールの内部構造など、私たちが観察できないことについての予測真剣に受け止めている。

ここに数学宇宙仮説の検証可能予測がある。

多くの並行宇宙存在するのであれば、我々は典型的宇宙にいると予想されるはずです。

ある量、たとえば、この量が定義されている多元宇宙の一部の典型的観測者によって測定された暗黒エネルギー密度空間次元確率分布計算することに成功したと仮定する。

この分布により、我々自身宇宙で測定された値が非常に非典型的ものになることが判明した場合、多宇宙、したがって数学宇宙仮説が除外されることになる。

生命要件理解するまでにはまだ程遠いが、暗黒物質、暗黒エネルギーニュートリノに関して私たち宇宙がどの程度典型的であるかを評価することで、多元宇宙予測テストを始めることができる。

なぜなら、これらの物質銀河形成など、よりよく理解されているプロセスにのみ影響を与えるからである

これらの物質存在量は、多元宇宙ランダム銀河から測定されるものとかなり典型的ものであると測定されている。

しかし、より正確な計算と測定では、そのような多元宇宙は依然として除外される可能性がある。

結局のところ、なぜ数学宇宙仮説を信じるべきか?

おそらく最も説得力のある反対意見は、直感に反して不安を感じるということである

数学宇宙仮説が真実であれば、科学にとって素晴らしいニュースであり、物理学と数学の洗練された統合により、深い現実理解できるようになる可能性がある。

実際、多元宇宙もつ数学宇宙は、期待できるすべての理論の中で最良のものであるかもしれない。

なぜなら、規則性を明らかにし、定量的予測を行うという科学的探求から現実いかなる側面も立ち入れないことを意味するからである

しか宇宙についての究極的な疑問を再び変えることになる。

どの特定の数式が現実のすべてを記述するのかという問題は見当違いであるとして放棄し、その代わりに、鳥の視点からカエル宇宙観、つまり観察をどのように計算するかを問うことになる。

それは、宇宙の真の構造を明らかにたかどうかを決定し、数学宇宙のどの隅が私たち故郷であるかを理解するのに役立つ。

 

参考文献: 数学的な宇宙 究極の実在の姿を求めて by マックス・テグマーク (著), 谷本 真幸 (翻訳)

2022-05-23

anond:20220523022148

どうやら君がしてるの一般的定義するところの独我論の話ではないな。

公平とか不公平とか独我論にはどうやっても含まれないよ。その話は何か別の単語を使うべき。

anond:20220522211634

デカルトは徹底的な懐疑の果てに「我が思うことだけは懐疑できない。だから自我だけは確実に世界存在する」と言った、これが独我論だが。

科学の発展と、またデカルト批判の果てに見えてきたのは、デカルトの考えとは違って、普通に「我思う」ことも懐疑できるということだ。

独我すら存在しないかもしれなくて、それは誰にも証明できず、故に独我論世界への懐疑は空虚である

2022-05-22

anond:20220522212720

自我は指し示せないよ。

指し示せないことがなぜ存在しないことになる?

自我が無いことも指し示せない。

 

雑誌レベルで考えてるから、わけわかんないこと言う。

独我論の是非なんて、授業の話だぞ。

anond:20220522212454

まず自我がどこにあるか指し示してみて

独我論世界に生きていないのは単なる科学素養常識問題だったりするのかな?

雑誌の読み物レベルの話に思えるが

anond:20220522211634

独我論に忠実に生きることは、幸福から遠ざかることだったり悪徳だったりする。

ので、少なくとも、あたか独我論を信じてないかのように行動する必要がある。

もちろん実際に独我論を信じない方が話は早い。

 

そして独我論は、事実であると無いとも証明できない。

から真偽でいえばどっちをえらんでもいい。

まり独我論を信じないほうが話が早く、話が早いのを選ぶ方が賢い。

独我論世界に生きていない人がよくわからない

『私は私だけの世界を生きており、そこに他者存在しない』(世界と生はひとつである、私は私の世界である主体存在しなければまた世界存在しない)が

受け入れられないってなぜなの・・・

 

時間存在しない(複数出来事同士の相互作用世界は物ではなく、実際には出来事の集まりであり、複数出来事関係性を、時間のように感じている)事から

例えばウィトゲンシュタインの下記↓とか『?!』ってならない・・・よね・・?

  1. Die Welt ist alles, was der Fall ist.
    世界とは、起きている事全てのことである。(物ではなく、事実総体であるとする)
  2. Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.
    起きている事、つまり事実とは、幾つかの事態が成り立っていることである。(事態+成立=>事実

 

追記:

  1. 今のところ、ただ単に常識アップデートがなされていない(科学素養問題)で終わりそう

  2. あとは精神的な不安が原因の何かかな。孤独を恐れているようだが無人島ならともかく都市部孤独になるっていうほど容易か?

  3. 例であげたウィトゲンシュタイン『私の心の限界が私の世界限界である。』と言うのは理解ができても、なぜウィトゲンシュタインが、
    『愛されると嬉しい。愛されないと淋しい。愛されなくても、愛することができれば満たされる。愛が欲しくて見つめる。
    少しでも愛が感じられれば、胸が暖かくなる。愛するものがあれば夢中になれる。そういう愛の代わりになるものはこの世に何もない。
    幸福と呼ばれるものの中には必ず愛が含まれている。いや、愛こそが幸福のものなのだ。』
    と口にするのか理解が出来なそう


  4. https://live-the-way.com/great-man/philosopher/ludwig-wittgenstein/
    『きみ自身がきみの世界だ。きみの生き方で、きみの世界はいくらでもよくなっていく。』
    『きみがいいと思ったら、それでいい。誰かから何と言われようと、事実が変わるわけじゃない。』
    『 内心や胸の奥の気持ちといったものがそれほど重要なのだろうか。その人の表情や態度に表れているものよりも、本当に重要だと考えていいのだろうか。』
    『少なからぬ人々は、他人からほめられようと思っている。人から感心されたいと思っている。さらに卑しいことには、偉大な人物だとか、尊敬すべき人間だと見られたがっている。それはちがうのではないか。人々から愛されるように生きるべきではないのだろうか。』
    『人は欲しがっているものを本当に欲しいのではなく、別のものを手に入れたいと渇望している。たとえば、大型犬を欲しがっている人が本当に望んでいるもの自分支配する力だというふうに。』
    信仰が人を幸せにすると言われれてきたことの意味がわかった。神にかしずいて謙虚に生きることによって、もはや人への恐怖感がなくなるからだ。ふだんのわたしたちはそれほど他人を恐れて生きている。』
    『 人として弱いということは、生きていくうえで受けるべき苦しみを自分で受けとろうとしないことだ。 』

    上記ならウケが良さそうな気がする。なのでサルトル(実在主義)やアドラー(実在主義)ならウケそうって思いました。実際売れたしね

    アドラー心理学とサルトル実存主義からみる人生論 | 理学療法士SGMの備忘録
    https://sgmbibouroku.net/archives/752

2022-05-13

anond:20220513155235

お前という人間存在しない可能性が消せなくなっただと・・・

 

哲学かな?

しか独我論は押し通しても碌なことにならんぞ。

2022-02-12

anond:20220212100131

データはないよ!

俺は自分の話しかしてないもん

あなたは、「こういう〇〇は~する」という客観的事象について語ってたよね?

からデータはあるかって聞いたんだよ

で、なんでめんどくさい女の話を持ち出したの?

俺めんどくさい女の話してた?

関係ない質問して勝手に満足するのやめてよ

>けれど世界主観的に作っていくものなので

うーん、文系の人だね。

この世界ってのは、ハイデガー的なやつ? 現存在を起点に様々な事象が沸き上がって来るものとしての世界かな?

独我論的な? だから俺の話聞いてくれないのかな・・・

でも、世界客観的にも存在してるよ

というか、自分を中心においた世界観ってのは中世までのやつなのね

それにね、ガダマーは地平融合とか言ったようにね、レヴィナスが「他者性(顔)」の話をしたようにね

世界には自分主観予測を超えた違うものがあって、それに自分が反応していくことで新しい価値、新しい自分が生み出されるわけね

要するに自分主観ではなく客観によって作られるというのが20世紀の考え方なのね

これが構造主義かになってくんだけどね

そんで自分とは、そうやって絶えず変化する流れであり、今の自分ってのはその流れの中で一瞬形をなしたものにすぎないのね!

頭のいい文系ならわかるよね!

主観的

表象判断が、個々の人間や、人間間の心理的性質依存しているさま

観測

物事を注意深く見て、変化や成り行きを予測すること。

2021-09-13

anond:20210913194740

統計の話なんかしていない」って躱すなら「酒は旨いなぜなら俺は旨いと思うから」という独我論に逃げるわけね

別にお前がそう思うのは勝手だよ、「お前の中ではそうなんだろうな」で終わるけど

2020-10-28

子ども〉のための哲学永井均)を読んだ感想 前半

理解」をどう考えているか、これについての私の根幹(基礎)はオートポイエーシスに準じている。

オートポイエーシスの詳しい説明は省くが、神経細胞情報伝達を行う際、シナプス行為理解しない。ひとつ作業を行うのみであり、結果のための行為連想しない。シナプスにとっては、「物質を伝達する」という行為目的であり結果となり、それらが組み合わさって何が起こるかを理解しない。

まり、最終的に現れるもの(たとえば人体の中で起こりうる結果反応など)はすべて、「行為副産物」としてしか存在し得ないということ。これは非常に重要事実である

本来理解」というものもそのように行われるべきである。一番重要なことは「わからない」ことである。わからない、を通過しない限り、「理解(と呼びたくなるようなもの、それに準ずる、付随する周辺のものもの)」を得ることはできない。

これについては同授業を受け持っていた河本英雄の「飽きる力」なんかを読めば少しわかると思う。

この文を書き始めた当初は、この前提を元に本文を整理していこうと最初は考えていたのだが、結局本文に「哲学哲学をしている瞬間にしか浮上しない」とはっきり銘打たれていた。だからもはや、一文を取り上げて「ここの箇所は〜」などと言語化することは意味を持たない。それ(ここでは〈哲学〉とする)が"それ"たらしめるやり方でのみ、発見できることであるならば、そう(そのやり方で)やる他ないと思うので、それに倣おう。

あとあちこちに書くのも煩わしいので、一度に留めるが、わたしが書いている内容について読み違えや相当しない批判(等)があれば、気づいた場合指摘してほしい。(それこそがきっと哲学なのだろうし。)

はじめに(5p)、から問いの合間に(125p)までを読んで

・〈哲学〉(「哲学」ではない)について

本文にあるようなやり方の〈哲学〉については実感がある。実感はあるが、しかしそれは子どもの時からすでに最初から青年の」〈哲学〉であったように思う。少なくとも、目の前に与えられた課題は年端のいかない子どもには大きすぎたし、それについて、しかし取り組む以外の選択肢を(子どもながらの純粋性ゆえに)持つことができなかった。だから最初から、なぜ〈他者〉がいるのか、という疑問は生じずに、〈他者〉と対峙するにはどうすべきか、をひたすら〈哲学〉し続ける時間が幼少期〜思春期であった。

からなるほど、やはり「疑念」が問いを生むのであり、疑念を持たないものは問いに遭遇しない。よく感じる違和感は、「問いを持たない人間」と(「問いを持つもの」と)の世界の断絶である世界には大きな断絶があるということを改めて実感したのだった。(断絶の是非はここでは問わない)

・〈ぼく〉という特別さの有無について

さて、書いたようにわたしは「なぜ〈ぼく〉が存在するのか」という疑念を持たなかったのでその問いに衝突していないし、そして付随する「〈ぼく〉という存在特別さとはいかなるものか」という問いにも当たっていない。しかし読み進めていくと、「特別さ」を論じれば論じるほどそれは「一般性」に落とし込められていくという矛盾が現れ、結局「言語での言い換えを繰り返すよりほかない」という結論(?)に達している。とりあえず本文の結論についてはさておき、わたし感想を書いておく。結果から述べると永井均認識論的傾向(95p)とは真逆であり、非存在論的(本文に即して使う)立場にいると言わざるを得ない。

まず78pに自分が二人に分裂した際に、もう片方をどう「認識」するかという問題。少なくとも、それが「〈ぼく〉であるか、でないかは、ワカラナイ」というのがわたし意見である。つまり意識としての〈ぼく〉が2地点に存在して、それぞれの思考でそれぞれを〈ぼく〉としない、という前提にどうしても立つことができない。

特別さの証明からは少し離れるが、「攻殻機動隊」という作品はこの独我論観点なしには見ることができない。登場人物たちは車を買い換えるようにボディ(身体)を換えることができ、脳(アニメ内では脳核と呼ぶ)に宿った意識アニメ内ではゴースト)はそのままで、新しい肉体を得る。しかしそれは本当に連続性を伴った自己なのか?確認するすべはない。

まあ結局、「確認認識)できるとしたら」という前提で論じている内容において、反駁することはない(できない)。なので、真逆認識論にたった時に、どのようにしてその「特別さ」を得るかというのを考えてみるとこうである他者認識できている限り、その「特別さ」を論じることはできない。理由はなんでもいいのだが、例えば「論理他者に向かって開かれている」ことは明白である。少なくとも、本書のように、本は他者が読むことを前提として書かれている。おそらく永井均としては「普遍化できない偶然性の問題」を「論理」立てることこそが〈哲学である、ということを言いたいのではないか、と思う。しかし、わたしの知る範囲ではそれは矛盾する。であればやはり(今の所は)前提を変えてみるしかないのである

ないことの確認はできない。つまりそれを鑑賞する他者がいないことを確認できない位置に移動して、ようやく「特別さ」が浮上するのではないか。そしてそれはすなわち、99pで引用されているウィトゲンシュタインの一節に他ならない。結局は「理解されない」ということを目指さなければ、少なくとも「特別さ」を論じることにはならない、ということだろう。

(余談だが99p9lの永井解説についてはまだ理解が追いついていない。いずれ何度か読み直してみよう)

言語言語性について

ウィトゲンシュタインの本を読んだことはないが、ウィトゲンシュタイン友達をつくらず、本当に人里を離れてたった一人で暮らしていたという逸話を知っていて、勝手に親近感を寄せているのであるが、それはともかく彼の主題命題)に「言語」があったというのは興味深い。

わたしは〈哲学〉についての興味をある時点である程度(完全にではないが)喪失した。それはそもそもわたし最初に向き合った命題が「他者」であり、自己ではなかったことなんかも関係していると思う。そして、「他者」を自分なりに〈哲学〉して18年くらいたったころに、自分なりの「納得」(102p)に到達してしまった。本来、〈哲学〉のみならず、人生だとか生きるだとかいうことは「満足」を永遠に避けることだと考えている。「得て」しまったらそこはゴールなのだ。ゴールっていうのは何にもない場所だ。しかし、「他者」に限っては、(とにかくわたしがそれを生きる上で最も苦手としているがゆえになおさら結論を得てしまった。そしてわたしは〈哲学〉する目的(あるいは理由)を喪失したのだ。

しか言語に関する関心が残った(に関する関心は重言だろうか)。本文でも「読み換えが無限になされる場所(98p)」について書かれているが、この点に関してわたしは非常に興味がある。物事表現が、「言語分野」に大きく偏っている人間社会面白いことに動物社会とは全く異なるらしい)において、その役割は異常なほどである言語をどのように理解し、駆使するか(論理思考など)、これを〈哲学〉とどう関連づけるか、というのも面白い命題である。例えば思考についていうと言語以外の役割が大きい。つまり「頭の中で考えたことを文章にする」というのは、その時点で「考えたこと」から抽出が起きているのである。おそらく永井のいう〈哲学〉は「考えたことまで全部」を含むはずであるから抽出された、アウトプットされた結果のみを受け入れる(ざるを得ない)という現状には実は即していなかったりするのではないかわたしは今の本業言語ちょっとだけ"学")なのであるが、こういった観点を与えられるのは、やはり読書(時には他者自分の内側に入れてみること)もいいなあと思った。

・世の人が平均的に上げ底を見ようとする世界は遠い

なんにしても、とにかく、「無駄」が必要である(115~116p)という、それこそが本質であるという点にはその通りなのでその通りとしか言いようがないし、やはりそうであった、という安心を再び得る。結局資本主義的な世界にいると、いつ何時も、寝ても覚めても視界に入ったものから、耳に入ったものから、全てにおいてから常に四六時中見張られ、「資本主義的な価値観に即して生きているか」を刷り込みをされ続ける(そしてこれはきっと死ぬまで終わらない)。おそらく、これは想像しかないが、哲学をやろうとアカデミーなかに駆け込んで、その中で安息を得たとしても、その「刷り込みから逃れることはできないのではないか。(数学者望月先生のように「数学を生きる」ことができるレベルまで達せられていればもしかしたら、刷り込みから逃れられているのかもしれないが、これもまた憶測の域を出ない)

〈ぼく〉という特別さの有無を求めるより圧倒的に明快で単純で本質的なこと(無駄を生きるということは)なのに、たまたま、悲しいことに、全くもって信じられないほどの不運な状況であるがゆえに、それが通用しない(しづらい)世界にいるのだ。それを嘆くことは10年くらいやって飽きたが、時折(残念なことに恒常的な機会を得ていない)こうして「本質」に触れることで「正気」を取り戻すというのは大事作業である

さて本文の(前半部分の)感想は異常であるが、2点反駁したい箇所があるのでそれも書いておく。

1箇所目(17p,9l)

あっさりと「哲学し続ける内的必然性をなくした」などと書いてあるから吃驚仰天である。内的必然性と引き換えに得ることができるものほど「瑣末な」ものはない。これでは魂を売ったのと同義ではないか。何度か他の場所でも書いているが、「価値観他者に阿るのは心臓他者に預けているのと同じことだ」とわたしは思う。他者自己存在理由にはなり得ない。少し引用を用いるが「心の哲学まとめWiki」より、一文。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と考える(『〈魂〉に対する態度』p.123,p.187) 。

その原点である自己をなぜ切り売りできるのだろう?「欠陥を売り物にする方法で得た救い」なんていうチンケなものはさっさと捨てるべきである世界とつながる唯一の原点=〈私〉をもっと大事にしなさい。

2箇所目(111p,11l)

この人は政治政治議論をなんだと考えているのだろう。そもそも、少なくとも望むと望まざると関わらずに(生まれた時からすでに資本主義社会に生きているように)、法治国家に生まれしまったのだから、その国家の参画者である限り「政治を避けて」は生きれない。自ら国籍を捨て(例えばスノーデンのような)、亡命を図るなどの意図画策があれば別であるが、生きていれば必ず住民税がかかり、ものを買えば必ず消費税を払っているのと同様に、政治をせずに生きることはできない。酸素をなくして呼吸ができないのと同義だ。なのにこの人はまるで自分政治、または政治議論したことがないかのように宣う。しかし指摘したいのはそのアティテュードではなく、政治議論方法についてである

自分と同じ主張を別の論拠から擁護してくれる人は、最もたのもしい協力者だろう」とは一体、どうしたらこんな思想にたどり着けるのだろうか。圧倒的に間違っている。(これだから日本左派は無様なんだ)

はっきり言っておくが、政治議論はその主張の是非ではなく、その論拠にある。だから全く異なる人間政治家)を支持していても、その論拠次第によっては戦友となりうるし、同様に全く同じ政治家を支持していても論拠によっては一線を画する必要があるのだ。当たり前の話であるタイムリー話題したことだが、「マスクをつけないということは、マスクをつけたくないという人間擁護する態度を含意しない」。これは明白で、結果(マスクをつけない)が同じだからと言って論拠が異なる場合、それは全くもって「たのもしい協力者」なんかではあり得ない。

5000字も書いてしまった。後半は気が向いたらかく。

2020-08-29

俺は形而上学的に世界であり、普通に息子っていう話

俺=世界

俺は世界のもの、というのはラリパッパな妄言のはずだけど、形而上学という考え方をかますと許されるんだから不思議なことだ。

例えば雷鳴。

雷が鳴る音を聴くとき自然科学としては、雷鳴という「客体」があって、それを俺という「主体」が感じる、という構図になるはずだ。

しかし、と考えてみる。

もしも雷が鳴っているその場所に誰もいなかったら、果たして雷鳴がそこに「ある」と本当に言えるだろうか?

雷が鳴り、それを俺が聴いている、という関係の一方で、俺という存在こそが雷鳴を生じさせていると言えないだろうか?

さらに、もう一段飛躍する。もし、俺こそが雷鳴の原因となるなら、雷鳴と俺を分ける必要は、実はないんじゃないか

「俺」が「雷鳴」を聴いている、のではない。

主語はない。主客の区別もない。

ただ「雷が鳴っている」。このとき、俺は俺であるとともに雷鳴そのものだ。

あるいは独我論。もしくは哲学的ゾンビのことを考える。

俺にとって、俺以外のすべての人間自我があるかは証明できない。

周りの人々はすべて俺の作り出した妄想かもしれないし(「水槽の脳」)、もしかしたら、意思のない人形であってもおかしくはない(理屈上、ということで、本当にそうだと思っているわけじゃない)。

「俺」は違う。

他者場合とは違い、そこに意思があるかどうか証明しようとして失敗するまでもなく、俺は自分意思があることを理解している。我思う…ってことだ。

そして、そんな俺はなぜか、この時代日本男性の体に「生じた」。これが一番わけがからない。

俺が生まれる前にも宇宙は当然存在していたし(一説には138億年前…)、俺が死んだ後も宇宙は当然続いていくが(こっちは一説には10100乗年後に「終わる」らしく、厳密に言うと、あらゆる運動がそこで停止するので時間意味がなくなるらしい)、特別な俺はなぜか、20世紀後半に生まれたいま30過ぎの日本男性だった。

自分ってものについてラディカルに考えると、要は自分に関するこだわりを強くしていくと、逆説的に、肉体としての自分が何者であるかは価値を失っていく。

俺は別に10年後にジンバブエの5歳の少女に生まれてもおかしくなかった。

50年前のニューヨークホームレスでもおかしくなかった。

(もしも)自分について俯瞰することさえ可能なら、アマゾンの猿でもよかったのだ。

誰であっても、形而上学的な「俺」の本質は変わらない。

でも、とにかく俺は日本の俺だった。たぶん理由はないんだろう。にもかかわらず、なぜ? という強烈な驚愕は消え去らない。

俺はこの世界において超超超…と超を100回重ねても足りない究極の特異点だ。

もちろん、俺以外の人たちだって、「彼らの世界」ではそれぞれが唯一無二のポイントになる。

でも俺はそれを、理屈ではなく想像理解することしかできない。

他者社会的尊重することは当然だが、彼らが結局、俺という世界の一部でしかなく、彼らが死のうと俺の世界は終わらないが、俺が死ね世界のもの消滅するという事実は、それとはまったく別のことだ(一連のこの辺は、永井均子どものための〈哲学〉』『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』にくわしい)。

そして俺は、ずっと両親との関係で悩んでいる。

こんな観念的で、浮世離れした形而上学に果てしなくぶっ飛ばされたはずなのに、血縁のしがらみに何十年もさいなまれている。

仲が悪いわけじゃない。

ただ俺も、母親父親も、うまいことお互いへの愛情を示せないでいるフシがある。

愛情がないのではなく、表現できないのだ。なんとなくだけど、バリバリビジネスマンだった二人が、乳児ときから長いこと俺の横にいられなかった罪悪感みたいなものが原因っぽい気がする。

俺はもう30過ぎなのに…。

そんなの、もういいだろ…と思いながら、呆れている一方で完全に笑えないのは、たぶん俺もどこかで、彼らを許していないんじゃないか、という気がする。

もういいよ、父さん母さん、と言いたい。

というか、何も言わないでただ抱きしめてあげるのが正しい気もする。一度だけじゃなく、会うたびにそうしてやるのが正しい気がする。

そうしたいができない。俺たちの誰かが死ぬまでに、俺はそうしないといけないと感じる。

その一方で、三人でそろって食事しているとき、不意に、「この人たちはなんなんだろうな?」という気持ちになることがある。

話をしていて、特別難しいことをしゃべっているわけじゃなく、単純に俺と、頭の中を覗いてみるわけにいかない他者の間で、ちゃんと「会話」が成り立つことが奇妙でしかたがなくなる。

例えそれが両親であっても、「こいつらはなんなんだ?」 と思う。

俺の言ってることが、相手の言ってることが、お互いに本当にわかってるのかな? と思う。確かめようがない。なんとなくその場では笑って飯を食ってる。

形而上学家族への愛情と、どっちかがどっちかへの反発なんだろうな、と思っている。

本当は家族の一員の息子としてキレイに収まりたいけど恥じらいと恐怖心で叶わないために、極端な哲学に走ってごまかしている。

あるいは、心の相性としては形而上学世界の方が向いているが、どっぷり漬かるのが怖いせいで、家族に目を向けたくなる時がある。

若いときから、もう面倒だったから、どっちかに決定的に俺を方向付けてほしかった。

ベタベタしすぎるくらいまともな家族愛に包まれるか、SFチックなぐらい高純度な精神体になってしまたかった。

どっちかになれると思っていたがどっちにもなれない。たぶんどっちにもなれないんだろうな、というのが、最近薄々わかってもきている気がする。

2014-01-16

阿澄佳奈結婚していない 〜声豚のための独我論

 ネットリテラシーの高い声ヲタの皆様に置きましては周知のことかと存じますが、声優阿澄佳奈さん(以下、アスミス)は未婚女性あられます

 アスミス結婚したという一部報道は全くの事実無根です。

 誤った報道情弱が煽られ、局所的に阿鼻叫喚地獄絵図が展開されるという、先進国水準では考えられない事態が生じております

 今後の再発防止のため、事の経緯を整理してみましょう。

  1. アスミスという存在

   彼女アイドルです。

   声ヲタ脳内だけに存在する、概念上の御仁です。

   このように書きますと、「俺はイベントアスミスを見たぞ!」と反論される方がいらっしゃるでしょう。

   生身のアスミスと、ファンが憧憬の眼差しで愛でるアスミスを混同してはいけません。

   両者は全く別のレイヤー存在する、別個の人物です。

   正確さを期して言えば、前者(生身のアスミス)は「たぶんそういう女性がいるんだろうね」といった感じの、極めて輪郭曖昧存在です。

   逆説的ですが、前者から湧き出た後者(声ヲタ脳内アスミス)の方が、ファンにはハッキリとイメージされ、実体(前者)よりもリアル存在として認識されています

  2. アスミスは心の中だけにいる

   このように、虚像実像よりもリアルに感じられる状態が続くと、いつしか実像存在意義は薄れ、やがて実像雲散霧消し、「認識上の存在けがこの世に存在する」という独我論に行き着きます

   声ヲタ1軍の皆様なら独我論の境地に達していることでしょう。もしくは自己防衛本能が働き、無意識のうちにアスミス抽象化永遠処女にし、心の傷を最小限に止めているはずです。

  3. アスミスはいつまでも変わらない

   したがって、メディアがいくら『実像』のアスミスについて書き立てたところで、独我論アスミス永遠に不変であり、声ヲタ精神ホメオスタシスは維持されます

   今回の結婚騒動で少しでも心を掻き乱されてしまったアスミストは、これを奇貨として精神鍛錬を始めてみてはいかがでしょうか?

   初歩的な訓練プログラムですと、『井上喜久子17歳』といったテーゼ独我論入門としては易しい部類に入ります

  補遺. 松来未祐の今後

   独我論を駆使すれば、独り身の寂しさもなくなります

   阿川佐和子ばりの独身芸がウリの松来先輩も、そろそろネタが笑えなくなるので、積極的な心のメンテナンスを強く薦めます

   例えば『寝起きにポテトチップス』で、乙女ゲーにハマっている話を延々とすれば、イマジナリーな伴侶を容易に獲得できるでしょう。心優しいファンも松来先輩の妄想もとい自己ケアサポートしてくれるはずです。

2013-05-11

自分は生きる価値のない屑だと普通の人は思わないのだろうか

ちょっとまらないので、初めてここに吐き出してみる。

普通の人は、自分を責めるときにどういう言葉を使うのだろうか?

ここのところ、自分は生きる価値のない屑だと自分自分を罵りすぎている。さすがに疲れた。

8年前にちょっとした挫折をして、まぁ普通な青春のほろ苦い1ページで終わるのだろうが、それがそれまで長閑な田舎暖かい目で見守られてきた自分にはかなり痛手だった。

数年間、生きているんだかいないんだかよくわからない状況になったが、それまでの肥大化したプライドを守るために勉学に励んだことが幸い社会のレールから外れることを防いだ。

しかし、それがかえって、歪みを温存することになったようだ。

そのあとも、恋愛関係や曲りなりに続いていた友人関係で、恒常的な失敗や、絶交や、あと一歩でリアルNiceBoatなところまでやらかした。

そこで、自分は、自分以外の人間自分と同じように人格を持つ人間だと認識していないと気付いた。

独我論というか、利己的というか、自己愛性人格障害ですかね。にーちゃん、アスペと躁病追加しといて。でもあとでいうけどちがうんだって

それから3年か、悩みましたよ考えましたよ。普通の人は(たぶん)小学校高学年から高校生ぐらいで考えるような痛いことを。

Jポップやアニソンとか、けっ!と思ってましたが、あれの歌詞によく出てくる「自分を大切に」「ひとりじゃ生きられない」とかいうのはちゃんと子供のころに素直に受け取っておくべきでしたね。

で、なんとか落ち着いたか、そういうことはもう悩まない、そりゃ人生長いしまだ完成されたなんて言えないけど、人生観みたいなものの根っこはできたかな?というところまできた。

が、治らない。

自分の在り方に対する悩みはなくなっても、ふと気づくと、自殺衝動が出る、通り魔になって殺人する妄想をしている、自分は生きる価値がない屑だ、早く死ね自分自分ののしる

生きることは絶対苦しいことだ、死ぬことは幸せだ。みんな死ね

そういう独り言脳内音声が頭に充満する。それ以外何も考えられなくなり、やる気が出ない、集中できない。

ちょっとした失敗、たとえばスマホを床に落としたりしただけで、お前は無能だ間抜けだと喚き散らす。こういうとき脳内でなく実際に声に出して叫ぶからたまったものではない。

スマホを床に落として自分を間抜けと罵りわめくこと自体がよっぽど間抜けなのだが。

とまぁ、それぞれに対して、自分なりの理屈で反論したり、本やネットで仕入れた精神学的な分析をして納得したりはできる。でも、収まらない。

反論分析すること自体、そういう思考を強化してしまうのではないかと、瞑想して思考をストップさせたり、はいはいあとでねと受け流したりした。

ある程度効果はあるようだが、すぐにぶり返し、抑制しきれない。

困った。

精神科に行ってみた。病気みたいだが病気ではないですね。はて、はい

発達障害ですか?そのようにみえるがそうではないですよ。

病気でも障害でもないが、病気や障害のような精神状態。

情動コントロール能力の発達「遅滞」。

要するに「健常」だが「未熟で幼稚な」「変人」というところらしい。

どうすれば?ときいてみたところ、生きていくうちに自己コントロール経験積むしかないですね、と。

他のとこ行ってみたら、同じく病気でも障害でもない、ただ、そういう衝動は薬で抑えるしかない、とも。

でもちょっと薬は怖いので遠慮しといた。今少し後悔。

普通の人でも、落ち込んだり、失敗して自分を責めたり、後悔したり、そういうことはあるだろう。

でも、その場合、どういうことに対して、どのような内容で、どのように、どれだけ、自分を責めるんだろうか?

聞いてみたところで、それは自分とは関係がない。それを真似して自分を適度に責めるようにできるわけもない。

わかってはいるが、ちょっと訊いてみたくなった。

2013-04-11

声の器官

コミュニケーションというのは大海原でひとり鳴く鯨の音波のようなものだ。

鯨の発する音波は水中に伝達していき、ときとして他の鯨もそれを聞くことはできるかもしれない。しかしかれらの声は意思疎通の道具ではなく、その反響によって深度や障害物を見きわめるための、いわば引き伸ばされた感覚器官としてはたらいている。固有の世界が先立って発音しているのではなく、世界をつくり上げ、認識し、遊泳する環境相互作用することの条件として発音される。

人間も同じだ。発話や身振り、応答可能性へのとりくみはつねに独我論的になされる。自分の応答がそれとして受け取られることを確信することはできないし、相手の応答をそれとして受け止めることもまたできないかもしれない。この意味で、応答とは単なる他者への返事や返書ではありえない。応答とは声を聞くことだ。それも声をひとつ感覚として、身振りそれ自体を神経の張りめぐらされた器官に仕立て上げることだ。そして、ただの残響ではなく、強度のあるはね返り、歪められ変形させられた反射音を予期しながら声を発するとき、人は楔を打ちこむかのように初めて外部との関係に独自の世界を打ちたてる。ただひとりの海をかき分けるようにして応答はなされる。

2011-12-24

認知の微視的構造 リマインダー

リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。

第一章

1

認知主義、古典認知主義

意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデル意味する。

 この主義の限界を

2

 ・チューリング

 チューリングの形式化が持っている特徴

(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括

(2)そのメカニズムいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している

(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している

⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している

フォン・ノイマンコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーLISPプログラム言語)を開発。

 ⇒ 研究開発が可能に

A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出

 ⇒理論的に自覚化・明確化される

3

・物理記号システム

①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、

②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム

by 1976 ニューウェル & サイモン

・強い物理記号システムの仮説

SPSS strong-physical-symbol-system

「標準的な記号アトムフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」

①仮想機械

現実の物理機械上で実行されるプログラムのみによって存在し、

そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」

 高級プログラムによって定義されるエミュレータ

フォン・ノイマン型の操作

コネクショニズムとは異なった操作

・記号を割り当てる

・変数を束縛する

・記号列の複写、読みとり、修正

・基本的な統語論パターンマッチング操作

等々

③標準的な記号アトム

「テーブル」「ボール」「愛する」「軌道」「電子」のような語

④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段

そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる

 このような主張(標準的なLISPアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践

彼らの仕事の特徴(例:BACON

 ・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している

 ・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能

 ・選ばれた課題領域を扱う

BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則

BACONに対するいくつかのコメント

BACONが取り組んだデータフォーマット化下のは、人間の労苦

BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。

 ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない

BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの

 ⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう

 サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。

 しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。

 心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える

 BACONは、人類の一部のモデル

 知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている

 古典システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。

 古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々

意味論的に透明、意味論的な透明性

STS semanttically transparent system

システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステム意味論的に透明であるといえる」

 きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズム記述レベル2)における計算の対象が、概念レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述レベル1)と同型である場合である

レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え

レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法

レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)

古典アプローチコネクショニズムの重要な違い

(1)古典理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論意味論を組み合わせた記号システムを仮定している

(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。

 もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない

◎要するに、古典システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである

第二章

 古典認知主義に対する懸念

 ドレイファス:古典認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当

 サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論意味論との間にギャップが認められる

 この二つの種類の懸念について検討する。

あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」

 この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念リストをあげる。

 ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。

 ウィンストンの、フレームを使ったアプローチも不十分

 ・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)

 ・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?

 ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか

ドレイファスの二つの主張

(1)身体問題

「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」

 コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない

(2)コード

 人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。

 このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?

 

 AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。

「強いAI仮説」を、サールは批判する

強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる

Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。

サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。

具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋操作者が中国語を「理解すること」の比較

「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」

 以下、サールの誤りについて論じる

 

 サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」

 脳シュミレータ説:あるりプログラム中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる

↑(サールの再反論)

(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)

(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである

 ↑(アナロジー

 光合成光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない

 では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?

  :外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること

↑(コメント

中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効

 微視的機能主義

 機能主義は、心的状態の本質を、

 入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。

 (適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)

↑(批判)

中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。

 こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう

・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか

×大まかなレベルに位置づけ

  ⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ

ライカンの「小人機能主義」

○微視的機能主義

・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981

ゲシュタルト

 :機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ

ライカン「小人機能主義」

 :機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)

 微視的機能主義

  :システムの内的な機能的プロフィール(内的状態の変換)を、

   内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で

   記述しようとするもの

   ・処理ユニット間の形式的な諸関係を記述する

   ・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる

第三章

 認知科学における民間心理学の役割はあるのかないのか

「民間心理学

 :自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解

 民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる

チャーチランド & スティック

「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学

 民間心理学問題点

(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。

 民間心理学は、子供狂人外国人を前にすると、まごついてしま

(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる

(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである

 最近の分析哲学

  :頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか

Daredevil believes that Electra is dead.

Mary hopes that Fermat's last theorem is true.

 のthat以下を、心的状態の内容と言う。

 心的状態が考えられる傾向

  :われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、

  われわれにとってどのように見えているかによって決まる

 ↓(言い換え)

 我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、

 本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない

⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、

 知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆

・双生地球……☆に対して疑いを投げかける

双生地球で、「海に水がある」と発話される。

地球A:海にH2Oがある

地球B:海にXYZがある

 この違い以外は同質だとする。

 すると、

 地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる

(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)

 もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、

 自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、

 単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して

二つの選択肢

(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、

 世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説

(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は

  〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう

プティ と マクダウェル

「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。

 しかし、

〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」

 筆者

 :あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、

 そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない

 その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。

 仮想反論

 :「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」とするならば、

 心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)

(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)

 仮想反論の詳細

:仮定①:

 二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる

 (そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)

 仮定②:

 行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない

 結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない

「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。

 限定的内容といっても、それを妥当概念として了解できるかは明らかではない」

 なぜなら、

「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは

 まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。

 その具体的理由として、

 ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。

筆者

 :広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、

 民間心理学カテゴリーや分類が

 頭の中で起こっていることに関することに関する科学カテゴリーや分類に

 きちんと還元されるなどということは

 とてもあり得ないように思われる。

・民間心理学は、科学心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない

 世界を記述しない信念であり、なおかつ

 ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学記述の上には)存在しないことも可能

 民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?

 :

 他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、

 その人の身体の動きを予測し説明するための手段

民間心理学の主要な目的

 :

 世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること

(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴

①世界に対する感受性、すなわち感覚生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している

②世界をわれわれと共有している

③彼らは我々自身のもっと根本的な関心と必要の大部分を共有している

④彼らの思考の有用性は、

(我々自身の思考と同様に、)

 彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、

 彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている

 この特徴があるので、

「~したい」という欲求さえ同じであれば、

 神経生理学的な詳細は関係なく、地球人にも火星人にも有効。

・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている

・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、

 さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)

 筆者の見解

 :私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、

 行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである

 ……関連する行動を可能にするものとしての、

 根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、

 そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が

 対応している必要はない。

――

 筆者の意見は全体論である。(行動全体に網をかけるから。)

 ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか

<Fordor>

意識の全体論というのは、

命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」

 という考え方。

 これに、Fordorは懐疑的

命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)

われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題認知的連関)を共有しているとは思えない。

 なので、意味全体論はありえない。

 →信念の内容が、その認知的連関に依存するということを否定。

 信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。

 外延的意味論の一形態に賭ける

:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである

「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」

</Fordor>

筆者

 :Fordorの間違い

 全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。

 Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。

Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。

筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている

 全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)

 一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。

(1)民間心理学は、狂人や言葉の通じない相手には使えない

(2)民間心理学は、長い間停滞している不毛な学問である

(3)民間心理学は、神経科学ときちんとつながっていない

(3)に対して、

 民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである神経科学とつながることを目的とはしていない

(1)に対して、

 民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない

(2)に対して、

 民間心理学の目的は限られたものである

 なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。

整理。

 心的状態に関するわれわれの常識的理解と民間心理学は、違う。

 民間心理学には、きちんとした定義がある。

 これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」

 因果関係と、構成的関係の区別

構成的関係

 :

 研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ

因果的に関係

 :

 因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、

 それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる

ということはない。

チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)

・広域的内容の理論認知科学は心を解明しえない

・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている

科学(物質、プログラム

(構成的関係)

科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。

では、構成的関係とは何か。

構成的関係←→因果関係

構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること

因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない

(駒はなくてもチェスは打てる)

Permalink | 記事への反応(0) | 15:30

2010-11-25

http://anond.hatelabo.jp/20101125220713

それはつまり証明できなければ全て同一のものとみなしているという論理であって、増田における自分以外の全ての書き込みを同一人物によるものであるレッテル貼りしているという宣言なわけだ。

矛盾しまくりだな。

ハンパな独我論語るのはやめとけ。

何言ってもブーメランになるぜ。

2010-02-24

不思議感覚

夜眠る前によくやる思考と感覚。あそこに達したいと思ってやると時々到達できる。

その感覚を続けてみたいと思うのだけど、怖くて一瞬で戻ったりする。

頭が狂ってしまいそうになるから。

狂ってもいいから、突っ切ってみようと思ってやってみたが、いつもの現実感覚にすぐ戻ってしまう。

多分突っ切りきれないのかもしれない。

雰囲気なので、説明しづらいのだが、無理に言語化してみると次の感じ。

やりやすいのは、独我論的な感じの思考方法。厳密には違う感覚だけど言葉にできない。

この世界認識しているのは俺が認識しているから。つーか、全部嘘じゃね。

つーか、今俺は人生の真っただ中にいる。

これが人生か。これが。

今生きてるのか。今。つーか見破っちゃったよ。やばくねーか。

これ、これか。何でもやっちゃえる。意味って何だ。

これが俺という存在。

このまんま行っちゃおうか。いや、狂いそう。

こんな感じ。うまく言葉にできないが。あの感じって言えば分る人は分るかもしれない。

普段の感覚を一瞬でも思い出すとそこまで行けない。

さっき聞いた音楽のこととか、友達のこととか考えるとだめ。

日常世界とのつながりをなくした感じ。普段持ってる思考のモードではない感じ。

この感覚何なの。

わかる人いたら、もしくは試してみて同じような感覚に達したら教えて。

あと心理学的あるいは精神学的な見地から何かあったら教えて。

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