はてなキーワード: ぼくらのとは
その時、小学生のときに同じ野球チームに所属していた二個上の先輩にとても可愛がってもらった。
可愛がりでもないしほもぉでもない。
地元では、中学のときの上下関係を大人になってもひきずって生きているような人が多い。
そういうのが嫌な人間は当然街を出ることになるが、
高校を出るとすぐに親の建設会社を継ぎ、ベンツを乗り回すようになった。
まあまあ有名な建設会社だったし、官公庁の下請けをするような会社だったので
矢口先輩は、18になるとすぐに免許を取り、これまたすぐに中古だがデフォルトで500馬力まで改造されている
僕はその矢口先輩たちのチームのようなものに参加させられることになり、
週末だけでなく、先輩たちの気が向くときには山へと走りに付き合わされた。
深夜近くにならないと蠢くことはない。
一般車の走る時間帯は走れないし、
ではそれまでどうしているか。
ちなみに、車で10分も走れば首なしライダーが出没するという峠もある。
走り屋の間では、この首なしライダーとレースをした、というのが武勇伝として語られているが、
大抵は友達の友達とか知り合いの話であり、実際に首なしライダーをみた人はいなかった。
僕らも、あきるまでその峠を攻め首なしライダーとの遭遇を願ったが、
一度も出会わなかったくらいだ。
まあそんな風にして心霊スポットへ行ってから走りに行く、というのがぼくらの過ごし方だった。
心霊スポットへ行くのはさすがに500馬力のFD3Sでは情緒がないため、
他の先輩のでかいクラウンだかセルシオだかに同乗させてもらい、
4~5人、男ばかりで行っていた。
ある週末の夜。
以前ギャラリーからナンパした女子が3人一緒に心霊スポットへ行ってみたいということになった。
僕と矢口先輩が、その時矢口先輩が狙っていた女子、まな(仮名)の車に乗り、
二台で向かうことになった。
地元にちゃんとした彼女がいるくせに、まなを口説きまくる矢口先輩に少しいらつきながら、
僕は後部座席で眠ったふりをした。
心霊スポット到着。
見た目は普通の別荘だった。
しかし一旦中へ足を踏み入れると、まさに心霊スポット特有の線香の臭いが鼻をついた。
ジュンジーのファンだった僕は、
と矢口先輩、AB先輩へ告げた。
「○○くん、怖いの?」とまなが言った。
てめえ、ぶっころすぞ、と心の中で思った。
矢口先輩が続ける。
「こいつ童貞なんだよ。」
まなが笑いながら言う。
なんてことを言いながら二人は急接近しているようだった。
AB先輩も、かな&あなといい雰囲気のようだった。
僕は一人でとぼとぼと彼らから離れて歩いた。
A先輩が
「おい、このドア開けてみようぜ。」といいながらドアノブにてをかけた。
見た目はすごく重厚で、簡単に開くようにはみえなかったが、
僕の想像に反し、ドアはぎぃいい、と音を立てながら開いた。
「おい、階段だぞ。」
その扉はどうやら地下の貯蔵庫へ通じているらしかった。
その別荘が建てられた当時、地下室を作ることがある種の流行だったというようなことを父か叔父から聞いたことがある。
よく熱帯の豪華な家に暖炉を作るのがステータス、というのと同じような流行がかつての日本にもあったらしい。
そもそも貯蔵庫に食料を溜め込まなければいけないほど、雪の深い地域ではないのだ。
とにかく、ぼくらは懐中電灯を片手に、階段を下りてみることにした。
ぼくはもちろん最後だった。
矢口先輩はまなといちゃいちゃし始め、きゃーきゃー言う彼女を隣にし、さらっとお尻をなでていた。
あのキャラクターは俺も欲しい。
心の中でうらやましく思ったものだ。
地下の貯蔵庫へ入ると、大きな金庫のようなものが目の前にあった。
「おまえ、入ってみろよ。」
矢口先輩が言うと、まなが
「えー、あぶないからやめてあげなよー」と言ってくれた。
しかしAB先輩まで僕に入るように言い始めたので、仕方なく中へ入ってみた。
案の定、というか当たり前のように後ろでドアが閉じられた。
懐中電灯の明りだけを頼りに、回りにちらばっているものを確認していくと、
そして、目をこらしながら良く見ると、缶詰のようなものがはいったダンボール箱を発見した。
ちなみにこの貯蔵庫、内側からも開けることができる。
そう、外でわっかが固定されていなければ、内側のわっかを回せば開くのだ。
僕もさすがにこわくなってきたので、そのわっかを握り、勢いよく回そうと手を下ろした。
勢いよくわっかがまわるのを期待したが、途中でがくん、と止まってしまい、
再びそのわっかを握ったときのことだった。
「*+>?+<>#””#($%’%’(#」
何か聞こえた。
しばらく耳をすましていると、再び、
「*+>?+<>#””#($%’%’(#」
女の人の声だった。
ああそうか、そとにいるまなかなあなが何か言ってるんだ。
そう思いながら重いわっかを動かし扉を開けた。
しーん。
扉の前には誰もいなかった。
僕は再び耳をすました。
「*+>?+<>#””#($%’%’(#」
もしやこれはジュンジーの例のやつか?
とぼくはすこしわくてかしながら、聞き耳を立てた。
「*+>?+<>#””#($%’%’(#」
しかし、なんど聞いてもその女が何を言っているのかわからなかった。
ぼくは彼女の言葉を理解するのをあきらめ、階下へとあがっていった。
AB先輩、かな&あなが不機嫌そうな顔して待っていた。
「矢口がよぉ、ちょっと彼女とドライブしてくるって行っちゃったからお前乗っけてけだってよ。」
A先輩がとても不機嫌そうに僕にいった。
やぐち、ぶっころす。
「地球を丸ごとぶっ壊す物語って知りませんか?」関連の
トラックバックとブックマークコメントで言及されたもの、自分で言及したものをまとめました
情報を提供してくださった皆さんと、場所を提供してくださった株式会社はてなさんに感謝します
ありがとうございました
あああああああああああああああああああああ面倒くさかったああああああああああああああああああ
誰かに面倒くさいこと軽い気持ちで押し付けて平気な顔してるやつが大嫌いなんじゃあああああああああああああああ
感謝なんかしてねえくせに軽い言葉で済ませようとする奴が大嫌いなんじゃあああああああああああああああああああああああ
そこのお前じゃお前えええええええええええええええええええええええええええええええ
二度とこんなことやりたくないです
どうやら「”この宇宙”>次元>パラレルワールド>時間>光」らしい。”この宇宙”がすべてを内包しているようだ。
なんとなく
だと思ってた。
宇宙を”この宇宙”と言っているのはパラレルワールドにある地球の上の宇宙は別なものであり、この宇宙のはじっこの壁の先に別の宇宙があると思っているから
”昔、ビッグバンがあってこの宇宙ができた”というぐらいだから、”この宇宙”よりも時間の方が絶対的なものだと思っていた。
ビッグバンでできた”この宇宙”は「水たまりに石を投げた波紋みたいなもので、そのうち静かになると”この宇宙”はなくなる」とか、
実は”この宇宙”は開発者(神)がメイン環境を作業中にバックアップで作って忘れてるだけでPCの整理しようとして「DELキー」押したらさくっとなくなってしまうとか、
”この宇宙”を1単位や有限のものとして扱う考え方を見てきたから”この宇宙”が他のものよりも身近に感じただけかもしれないけど。
・マドマギ
・ぼくらの
・涼宮ハルヒ系
いなくなった現場のエースとやらが作ったバカみたいにややこしいSQLの解析を頼まれて、ちょっとだけ現実逃避したかったです。難しい仕様を可読性高く変更しやすいように書いておくのが真のエースだと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20140421200127
http://point.recruit.co.jp/doc/campaign/cm/20140206/
このCMをソチ五輪にぶつけるリクルートさんの感覚に違和感を感じてしまいました。
ぱっと見、既成概念にとらわれない自由な生き方をすすめる感動的な内容に思えるCMです。
このCMが流れるまで、私は、スノーボード・ハーフパイプ競技のNo.1になることを夢見て、努力し続けて国の代表として五輪に出ているアスリートたちの活躍を見ていました。
華やかなステージに立つ一流選手と今の自分をぼんやり比べつつ、自分より何十歳も若い選手を尊敬のまなざしで見ていたのです。
そこへもってきて「だれかと比べなくていいんですよ、あなたの人生もすばらしいんですよ」と優しい目線を装いつつ上から語ってくるこの長尺CM(2分)が放送されたのです。
人それぞれ多様な価値観があり、その人に見合ったゴールがあるべきだという理想はわかります。
ですが、誰かに決められたゴールに向かって通しナンバーのゼッケンつけてルールに縛られて競い合うなんて古い、もっと自由であるべき!ゴールは人の数だけある!どこを走ったっていい、自分だけの道がある!などというメッセージを流して、最後には「リクルートポイント、はじまる。」「まだ、ここにない、出会い。リクルート」ですよ…。
クォリティの高い撮影や池松壮亮氏の見事な演技、ナレーションにもかかわらず、私には素晴らしいはずの「ぼくらの人生」がとてつもなく安く扱われているように感じてしまいました。
マラソンという競技に人生をかけ取り組んでいる選手たちは、このCMを見てどう思うのでしょうか?
冬季オリンピックにマラソンはありませんし、人生をマラソンに例えることが多いからマラソンを使ったのでしょうが、どうにもうなってしまいます。
リクルートさんが高い制作費と出稿料をかけて「競争ばかりの狭い世界から飛び出して、人生楽しみましょう」という広告をうつのは、リクナビ進学や受験サプリで良い学校に入って、TOWN WORKでバイトを探して、リクナビで就職して、とらばーゆして、ケイコとマナブで自分磨きして、SUUMOで住むところを決めて、ゼクシィで結婚式場を決めて、赤すぐでマタニティ用品を買って、じゃらんで旅行先の宿を決めて、じゃらんゴルフでゴルフ場予約して、HOT PEPPERグルメで居酒屋予約して、ポンパレでお得にお買い物しましょう(ほかにもいっぱいありますが)と伝えたいからです。
それを言いたいがために、決められたゴールに向かって愚直に努力するという価値観を否定するのはいかがなものでしょうか。
人生がマラソンに例えられることが多いのは、厳しいルールがあることや優勝者や完走者が偉いという価値観があるからではないでしょう。スタート時点でははるか遠く、目には見えないゴールを目指し、自分の力を信じて、レース全体のペース配分を考えつつも自分なりのペースで最後まで走り続けることが、長い人生を全うすることに似ているからだと思います。
駅から少し距離のある喫茶店。この街では、それなりに長い歴史を持つお店なのだが、駅前開発の影響を受け、つい先日現在の場所に移転した。オーナーの意向で、移転を機に若い女性向けの内装となったため、長い歴史には似つかわしくないポップな洒落た空間となっている。仕事の息抜きに、ぼくが立ち寄るお店のひとつ。二十代〜四十代の、働く男性たちがこのお店を利用する主な顔ぶれだ。
移転してからというもの、近くの高校に通う女子高生たちが出入りするようになり、それはそれで平和的な絵面なのだが、どこか尻がむず痒く落ち着かない。だから、最近は専らお昼が落ち着いた時間に寄るようにしている。この時間はお客さんも少ないため、ぼくはオーナーや店員さんたちと他愛もない話をしながら、珈琲を二杯飲んで帰る。この日もそのつもりだったのだが、思わぬ出会いによって習慣を破らざるを得なくなった。
その老人は、店内に入ると軽い戸惑いの表情を浮かべたが、数秒のうちに何かを納得し、カウンターに腰を据えた。お客さんはぼくと彼だけだ。カウンターに二人で並ぶカタチになった。老人はぼくの前に灰皿が置かれているのを目にし、自らもガサゴソとポケットを探りはじめた。オーナーの女性が、スッと灰皿を出す。老人は煙草を探す仕草をいったんやめ、オーナーの機転に「ありがとう」と会釈をする。その仕草から「ダンディで、丁寧なおじいさん」という印象が漂う。ぼくは不思議と、この老人がいまのこのお店の雰囲気に最も似合っている人物であるような気がした。
芯の通った太い声に、オーナーがもちろんですよと笑顔で答える。老人は、珈琲を淹れる準備をしはじめたオーナーを優しげな目で見届け、ポケットから丁寧に折りたたまれた一枚のチラシを取り出した。すぐ近くのデパートのチラシだ。
「クリスマスケーキ…ですか。」
ぼくは何気なく尋ねた。
「ひ孫に…ね。」
老人はチラシを前後させながら、文字の読みやすい距離を測りつつ答えた。
「ひ孫さんですか。」
ぼくは少し驚きの気持ちが込められた声を出してしまった。オーナーも少し顔を上げ、驚きの表情。ご老人は、確かにご老人だが、ひ孫がいるような歳には見えなかった。そんな空気を察したのか、老人は「ふふ…今年、九十歳」と照れくさそうに自分の歳を告げた。
「九十歳!」
「…そう。長生きしてしまったねえ。ここらも変わるわけだ…。」
「九十歳というと…ぼくの六十五歳上ですね…。」
「そうかね。君は孫より歳下か…この歳になると、若い子を見ても幾つか判断つかなくなるなあ。」
「はあ…それはそうで…いや、そういうものですかね。」
「おまたせしました」
「このあたりでお仕事をされていたんですか?」
「このあたりは、たまにかな。魚をおろしに来ているんですよ。」
「魚…」
「え…!まだ現役なんですか!?」
「そうだよお!さすがに重たいもん運んだりするのは、若い人たちに任せているけれどねえ。」
「はあー…」
「いまは…いい時代になったよ。君たちは自由だ。軍人勅諭を暗記する必要もない、どんな仕事だって選べるし、勉強したいことがあれば、その道の学校はたくさんある。幸せな時代だよ。」
遠い目をして語る老人に、ぼくらは何と言ったらよいかわからずにいると、老人は「まあ、私たちだって負けじと幸せだったけどな」とニヤリと笑ってみせた。説教臭い話がはじまるわけではなさそうで、ぼくは少し安心した。店内の緊張が一気に解けていく。
「若い頃は、どちらにいらっしゃったんですか。」
「戦後は東京だねえ…東京に出てくれば何でもあると思っていた。」
「ああそうさ。あの頃、渋谷の喫茶店には珈琲とあんみつしかなかった。フルーツポンチというものを出す店が出はじめた頃は、仲間とみんなして食べに出かけたものだ。」
「…なんだか、想像もつかないです。」
「そうだろうねえ…メチャクチャな時代だったよ。何もなかったけれど、楽しかったし、若さだけはあった。それに…」
「それに…?」
煙草の煙をふかし、一呼吸置く。「…女性も美しい人が多かったねえ。」
オーナーが嬉々として尋ねる。「おじいさん、カッコイイし、モテたでしょうねえ。」
老人は煙を払うように手を動かし「ぼくは、ぶっきらぼうだったから全然ですよ。」
老人は、遠くを見つめるようで、すぐ近くのことを語っているようだった。
「ふむ…」老人は少し思案を巡らせ「…言葉遣いが綺麗な女性だね。言葉遣いが綺麗な女性は、セクシーだよ。」
この言葉に、ぼくは胸を打たれた。「美しい言葉遣い」と「セクシー」という単語が、こんなにもスマートにイコールで繋がることを、ぼくはこの時まで知らなかった。
それから、老人はぼくらの知らないこの街、東京、日本という歴史を語り聞かせてくれた。やがて「おお、そろそろひ孫のケーキを買いに行かないと」と言って立ち上がり「はじめて入ったけれど、いいお店ですね」と優しく言葉を残し、去っていった。
その言葉に煽られるようにして、予定時刻を大幅に過ぎていることに気づいたぼくも立ち上がった。
だれにも見られていないとき、
海はもう海ではなくなる。
海は、だれにも見られていないときの
ぼくらのようになる。
その海には別の魚たちが泳ぎ回り、
別の波もまたうちよせる。
それは海のための海
そして、ここでぼくがしているように
海を夢見る者たちの海だ。
死にたくないなああ最近。そしてもっとも恐ろしいところは!死にたくないと思いつつ自分が死ぬとは全く思っていないところなのだ!!むしろこう書きながらもいやいや死なねえだろと何言ってんだ状態ですよ。あれだよねーなんか色々みんな言うけれども、いやなんかそれ死なない前提じゃね?お前?みたいなときばかりで心底おちんちん。いや、そうじゃなくて死ぬよ!どうすんのバカ!
イエモンの「ニュースキャスターはうれしそうに乗客に日本人はいませんでした」ってのはさ、糾弾してるとかそういうわけじゃなくて、そういう事実があったときどう思えばいいだろうっていうね。もうよくわかんねえからそんな夜は君に会いたいっすっていう単純かつ素敵なラブソングなけわけじゃん?そう、もうよくわかんないんだよ何を思えばいいのやら・・・
もはやクソして寝ることしかできず、せめてツイッターでちょっとウマイこと言っちゃったりでもして溜飲を下げようとしている僕らのささやかな営みには何らバカにされる要素はないのだけれども、俺以外は全員バカだからしんでくれ!もうホントさ・・・ジャンプも風俗も陶芸も一緒だと何回言ったら分かるんだよお前らは!観客がいないだけであって、僕等の日々はある意味オリンピック!おっ君は風俗代表かい?奇遇だね〜僕はクソして寝る代表さ〜要はそういうことだよ!
おっぱいとかそういうのって山が高いってのと基本的には分野は同じだから、よくよく考えるとこんなクソ名クソアリーやらクソッターやらなんやらのほうがよっぽど成り立ちとしては汚らわしいよ!大きな握り飯をくわえながら和太鼓を乱れ叩き、おっぱい!おっぱい!と高らかに言えたのならば、それはきっと遥かに気高い領域であり、そのときのぼくらの存在は正に愛!子どものころわたしたちは皆愛であり死なない存在であった!
臆病になるばかりだなぁ、ホント。以上。
生きることは流れていくようだとおもう。流されていくようだとおもう。ずっとそのかんじが嫌いだった。流されてはいけないっておもっていた、なにかしなくてはいけない、怠惰に過してはいけないってずっとおもっていた。まあ、いいんじゃないかなあと最近はおもう。
けれどもやはり、生きることは流されることだとおもう。ああ、なんというか、べつにいいんだ、有意義であったり、向上心があったり、学習したりとか、そんなことはどうでもよくって、そんなことなくて、ただ生きているだけでいいんだとおもう。しかし生きていると様々な苦しみがあって、そう、苦しみがある。人の自慢話がきもちわるいとか、太っているのが嫌だとか、オンナにモテないとか、この世界にはそもそも苦しみなんて存在しないのに、ぼくらの心は苦しみを感じとる、感じる、存在しないものを感じて勝手に苦しむ。だから何も感じなければそれは救いだとおもう。
ぼくはそういった様々な苦しみから目をそむけて生きている。なるべく感じすぎないように生きている。目をそむけて生きている。何も感じなければ幸せなのだ。だから死にたいっておもうことはとても自然だ。
一方で、死にたいと言うことはちょっとやばいかんじがする。生き物としてそれってどうなのっておもう。生存こそが本能なのに、なぜ死をのぞむのか、それはなにかが狂っている気がする。
苦しみを回避しようと、努めてなにも感じないようにすることはなんとも思わない、それはとても自然であたりまえなことだ、いつも寝惚けたように生きている、いつも少しだけ麻痺して生きている。そうしたほうが楽だからだ。
何も感じないように生きるのは結局、死のうとしているのと同じではないか。
ぼくは生きることが好きなのだ、生きてるって感じが好きなのだ。生きてる感じにずっと包まれていたい。それは静寂と孤独だ。あと挑戦。心を開いて、肩の力をぬいて、勇気をもって飛びこむ。そんな日常。散歩の途中でみつけた怪しい店にふらりと入れるとか、そんな程度でいい、挑戦することがあたりまえの生活。孤独と静寂の時間をいつでも呼び出せること。倦怠と覚醒の間をいったりきたりできる。身軽さ。精神も肉体も身軽でしなやかで開かれていること。何ものにも囚われることなく、好きなものに集中できるということ。全てが無価値であることを知りながら、心の叫びをちゃんと聞きとれる。そしてその叫びに従える。そういう幸せが欲しい。
店長がブログを辞めてしまった。とても残念だ。店長が止める宣言をしたブログのコメには結構なショックを受けているひとがいっぱいてぼくもその一人だ。
それは、店長のブログがエッセイとして抜群に面白くて、というだけが理由ではないと思う。面白い文章を書く人はいっぱいいるだろう。
もちろん対話したことがあるわけではないのでこっちの勝手な印象なんだけど。
僕の個人的な話になるが、僕は勉強はまあそこそこできて大学も出て就職もしたけど、コミュニケーションは苦手で結局うまく行かず会社は辞めてしまった。今まで恋人ナシ。今はバイトをしながらの生活。まあわりとありがちな奴ですね。
こういう人生を送っているといろいろコンプレックスが多いわけで。ネットをみているとこれはきついな・・・という文章もわりと多い。
例えばシロクマ先生とか。あれきついよね。ワインの紹介にむかついたり。いやシロクマ先生面白いけどね。それからちきりんとか日経なんちゃらのビジネス系の記事とかも刺さるものがある。切り込み隊長は平気なんだけどそれはまた別の話。
かといってあんまり僕はだめだだめだと傷を舐め合ってるようなじめじめした系も好きじゃない。
店長のブログは読んでいてシロクマ先生的な痛いとこ突くな感もなかったし、かといってじめじめ感もなくてからっとしていた。
もちろんそういう話題を避ければいいけど、店長のブログは結構ビジネス系のことも書いてあったじゃないですか。一応経営者だし。
それが新鮮だった。この人のものでだったら楽しく働けるかも知れないと妄想したり。実際店長もそういう記事を書いていたような気がする、アレな奴らを集めて店を作るとか。
http://anond.hatelabo.jp/20130207121644
どうかな。むしろ一時期に比べると良くなってる気がするが、それは自分がまた読み出したからかもしれない。
だから取り込み取り込まれ、そしてSFって何だ?と論争が起こる。
てな感じでですよね。
http://anond.hatelabo.jp/20130207134633
SFの一般化で歴史物、推理物、ジュブナイル物とかとか沢山出てきました。
パラサイト・イブとかループはホラーだけどSFだと思うのです。
背景たるSF要素を組み合わせ、綿密にシミュレーションすれば、また新たなSFが生まれると思います。
宇宙とかロボットとか人工知能とか、物理や科学技術の幻想的世界というのは難しくなっているかも知れませんが、
科学と人との関わりとか、インターネットと同じで、普及すればよりソーシャルな面に目が向かい、
人格とかアイデンティティ、生命や哲学なんかはフロンティアです。(でした?)
http://anond.hatelabo.jp/20130207131847
でもロバート・J・ソウヤーはいまいちついていけなかった。
一方、舞台背景として宇宙とかロボットとか人工知能とかネットワークが一般化してるのも面白いと思います。
漫画ですが、ぼくらのよあけは面白かったです。ジュブナイルですが。
でも、ピアピア動画とふわふわの泉をよんで、これがライトノベルか、と思ったのです。楽観的明るさが。
あれ?違いました?
http://anond.hatelabo.jp/20130207235440
ドラゴンランスは暗かったです。キティアラはちょっとエロかったっけ?
http://anond.hatelabo.jp/20130207165456
そんなお年頃です。
http://anond.hatelabo.jp/20130207165456
まあお約束が受け入れられないとこんなことになるようですが。
http://anond.hatelabo.jp/20130207135507
それで、ニューロマンサーの話だっけ。エンダーのゲームでなく。
サイバーパンクは好み?
それが原因じゃないかな?
男性エロにはネタ要素を求めずにはいられない。みんなも、もう1冊の方は見なかったことにしたいんだろ?
わあい月見荘のあかり あかり月見荘のあかり大好き。あかりちゃんの曇り無きハッピースマイルを見るたびに湧き上がるバッドエナジーがクセになる。
ドバト先生の描くロリの健気さっていいですよね。ゴージャス宝田にいじられるドバト先生萌え。
2012年のトンデモ枠。圧倒的な触手描写と、手の込んだギャグ設定が楽しいです。
前作「ピンクトラッシュ」からシリーズ続いたねー。メンズヤングは休刊したけど、けろりん先生の人気はむしろ高まってきてるかな。
話題を巻き起こした表題作。続く裁判傍聴はちょっと露悪的過ぎたかも。
シスケ先生のエロ漫画モチベーションの高さには惚れ惚れします。
ドライブ感溢れる鬼畜展開がナイスでした。青年誌の方も段々ノってきた感じ。
紙魚丸ワールドが単行本にまとまって良かったです。しかし蕾秘(ライヒ)って誌名、格好良すぎませんか?
10.駄菓子 「純潔の終わる日々…」
光源フェチが表紙に現れてないの惜しい。乳首ガチガチなの、イイよね。
BL創作同人で注目され、2010年にはふゅーじょんぷろだくとから「ミ・ディアブロ」が刊行された梶本レイカの代表作長編が、2012年遂に単行本にまとまった。グロテスクでショッキングな展開と尖りにとがった描写は、鬼畜BLという枠組みを超えた強度と鮮烈さを持って読む人に叫びかける。サブカルコミックが鳴りを潜め、マンガ表現のホットトピックはもっぱら萌え4コマという昨今にあって、BLジャンルが表現の極北を担っているというのは決して言い過ぎでは無いだろう。ウェブ掲載分の収録は2巻で終わり、現在は新規ストーリーがふゅーじょんのオリジナルBL誌「comic Be」で掲載中。山奥の男子校で繰り広げられる暴力と退廃に満ちた肉体関係は、新たな広がりを見せている。
市川けい 「スロースターター」
高校野球部・キャッチャーの攻・エアリーヘアの受。大きく振りかぶりそうな2人の出会いは、通学の車内だった。互いの学校生活の話で盛り上がり、ふと会えない日が出来ると少し寂しくなり……。友情からのBLというのは、自分の気持ちに戸惑い、相手との距離感を測りかねながら縮めていくのが王道だ。「通学/通勤電車でいつも一緒になる」という巡り合わせは、こうしたストーリー運び非常に相性の良い舞台装置で、天丼設定とまでは言わないがそう珍しくはない。市川けいが出色なのは、それを踏まえた上でガラ空きの電車内におけるあの間延びした空気感を、コマの間合いで巧みに表現していることだ。モノローグの入れ方、固定ショット・コマでの人物の動きなどの「間」を取るセンスが独特で、意図的に停滞させられたテンポは、2人の進展のじれったさと絶妙にマッチしている。反面、肝心のプロットは2人が結ばれるまでダレることはない。各話の山場の見せ方も上手く、特にキスシーンの甘酸っぱさたるや爆発甚だしいリア充になっている。内容的にも若く爽やかな仕上がりが心地よい。とてもしかしそのキスシーンが駅構内のトイレってのがまた何とも……電車好きすぎじゃなかろか。
夏糖 「花咲き道理」
「その人の持つオーラが花や泡の形で見える」不思議な力を持つ主人公と、彼が属する劇団を舞台にした群像劇。能力設定、といっても物語中でそれが意味を持つシーンはごく数箇所で、主眼は公演に向けて活動する劇団の人間模様にある。劇団員各々の交流の中で主人公の取る立場は概して淡白なのだが、それは画面の中にこっそりと映りこむオーラの花と同じように、作品に安らいだ雰囲気を与えてくれている。ラストで主人公が心情を吐露するシーンも、劇団の居心地の良さが読み手に伝わってくるような、素朴な優しさが感じられる。抑制の効いたストーリーで、主人公の存在に癒される話。
掲載された茜新社のBL誌「OPERA」はキレの良い新人をいくつも擁するが、単行本まで結実する作家はそう多くない。群像もの、しかも演劇というメタストーリーが絡む複雑な設定で1年以上に亘って手がけた事実は、それだけの力量を物語っている。現在はリブレ出版の「Citron」でも執筆しており、今後の作品にも期待したい。
磯野フナ 「委員長のおもちゃ性教育」
真面目な文章ばっか疲れんだよ! いいよねーこういうアホ丸出しの単行本タイトルって。ジュネットのピアス・JUNEって最近は描写の濃い萌エロBLの名産地だけど、磯野せんせーはたいへんイキがよろしい。コナかけられて顔を赤らめるとこ、イジられて涙を滲ませるとこ、ブッこまれて表情を蕩かすとこ、マジでエロ可愛いぜ。目の描き方を中心に絵柄もアニメ系っつーかまあ女性同人独特なんだけど、デフォルメもメリハリ利いてるし、描き慣れた感ある一方で性交シーンも手を抜いてないのがアツいね。あと女の子が可愛い(超重要)。BL作家の女体描写って成年マンガ家(男性向け)の男体描写よりレベル高い気がするんだけど、そんなことないですかね。偏見かね。コミックJUNEは休刊してしまったが、新人の弾数は色々あるので何とか次につなげて欲しいもんです。
良くも悪くも、創作同人臭の強い作風なんだけど、いいと思います。そういうの好きなんで……。くっつかずに悲恋でおしまい、とか、何となく悩みを打ち明けて心を楽にしてEND、だとか、そういうのは、商業誌だとあまり喜ばれないと思うけど、新人らしくて贔屓したい。描線にも不安な雰囲気が出てて、作風とはよく合ってます。
ここでは基本的に新人を紹介しているが、2012年の新人を一人挙げるなら、名取いさとを選びたい。心交社の「moca」とリブレ出版の「Citron」の掛け持ち連載で、同時期に単行本を刊行。それぞれほんわか友情モノと少し鬼畜な暗い雰囲気に仕上がっていて、ストーリーの幅広さがグッド。髪の毛1本1本まで行き届いた丁寧な作画も新人離れしており、「日陰蝶」では剣道着を着けての試合・会話シーンを(第1話で)こなすなど、作画に対する気合が窺える。無理のない人体描写と細やかな表情の描き分け、作者の萌えを垣間見せるキャラクター造形も多様と、BLマンガ家としての天分アリアリ。難を付けるなら、タフな仕事量にも関わらず安定した絵柄で既に初々しさを脱却していることか。女性キャラも可愛い(超重要)し、くたびれたオヤジから涙ぐむショタまで愛のある描写が光る。今後は一般女性/青年誌まで活躍の舞台が見込めるモンスター新人だ。
“君の鍵穴は私の鍵で開かれる!!”っつー単行本帯のアオリでちょっと話題になったよねコレ。まあピアスは単行本に限らず誌面でもアオリ文が横行してて、編集がいちいちナイスフレーズ捻り出してるわけだし、ちゃんと反応するのはいいことだよね。「股間もテントもピンコ張り!!全裸で楽しむ夏休み河原キャンプ」とか、綴込みの見開きイラストもイカしてるんだわこれが。しかし東条せんせーの手がけるショタはサイコーだな。桃尻のラインが犯罪過ぎる。超絶画力だからトンデモBL変態ファンタジーも安心して楽しめるんだよなー。貞操帯&お漏らしやら目隠しオナホプレイやら猫耳コスプレの尻尾アナルin(前作)やら、マガジン・マガジンって出版社は心得てるわ。この人って美少女絵も絶品だから(超重要)、Keyのゲームのコミカライズも好評連載中なんだぜ。まさに鍵穴ってやかましいわwww
葉月つや子 「白衣にひそむ熱情」
眼光も険しいサツバツな絵柄に慣れれば、有無を言わさぬ攻の気迫はBLでも稀有なストロングスタイル。葉月つや子といえば知る人ぞ知るレディコミの女王である。近年の主な活動場所はぶんか社の「まんがグリム童話」だが、レディコミ仕込のスピーディでパワフルな作劇はBLでも健在だ。怒気漲らせる攻が駆動する物語は、受を存分に振り回し、しかし最終的には見事に鞘に収まる。各読みきりの短い尺の中で怒涛のダイナミズムを見せ、その上できっちりハッピーエンドに収めるこのカタルシスはワザマエと言うほか無い。長いキャリアを持つ作家の2年ぶりとなるBL単行本は、そのいぶし銀の魅力を堪能できる一冊だ。いつもならヤクザや貸金のダークスーツ姿が映えるところだが、本作では医者の白衣が前面に出ており、少しだけ和らいだ雰囲気になっている。
トワ 「秘密にスキャンダル」
人気タレントである幼馴染との秘密の関係を描いた、作者の初単行本。BLのお約束というか、こうした立場関係では有名人側が惚れている構図が基本であり、本作もその例に漏れない。回想の幼年時代から現在は大学生としてのキャンパスライフ、進展後はサラリーマンとなった主人公との恋仲まで、柔らかなタッチによる登場人物たちは皆親しみやすく、ほのぼのとした作品だ。タイトル通りのスキャンダル疑惑や、ライバル芸能人の横槍といった筋書きも大体鉄板だが、本作は脇役がどれもキャラが立っており、悩める主人公とのやり取りに説得力がある。そのため個々のエピソードに感情移入が出来て、自然に楽しめる、という好例になっている。スピンオフによる余りものカップル救済というお決まりの続編展開も、キャラの読者人気を裏付けるものだろう。可愛い女子も沢山出てくるが(超重要)、特に主人公の妹の鈴ちゃんがイイ。鈴ちゃんヒロインにした少女マンガが読みたい。
作画:如月マナミ,原作:渡海奈穂 「純潔ドロップ 青坂高校シリーズ」
「純潔ドロップ」は、とある高校を舞台とした原作を、2人のマンガ家が作画した双子作品の片割れである。体育科の完璧スポーツマンのモテ男と、普通科の文化部長である残念イケメンの確執から始まる学園BL。如月マナミの描くキャラクターは端正な顔立ちながら表情豊かで、特に赤面して眉を歪める描写が秀逸だ。文化部長が強気の体育会系に不意打ちする、逆転の構図もしくはギャップ萌えをメインに扱っている。その場の勢いやら体育会系特有の頑固さ(偏見)に流されて、つい一線を踏み越えてしまう運びは原作の鮮やかな手腕。双方負けず嫌いな性格がコミカルで、背伸びし過ぎな攻とオラオラ一転甘えたな受が微笑ましい。舞台である高校は共学で、2人の取り巻きには制服姿の可愛いJK(超重要)も色々出てくる。彼女達が当て馬やモブ扱いではなく、ちゃんと個性を持って物語に関わるのも好感度高い。
ちなみに、ここに挙げた他作品の掲載誌にリブレ出版の「Citron」、茜新社の「OPERA」、心交社の「moca」があるように、最近のBLジャンルは各社でオリジナルアンソロジー誌が創刊されており、新人のデビュー・活躍舞台もそちらが多数になっている。本作「純潔ドロップ」の発行元であるプランタン出版はその波に乗っている出版社だ。掲載誌「Canna」は創刊3年に満たないが2012年には500ページ超えという、BL誌全体の中でも上位のボリュームに到達した。価格や発売サイクルの違いもあるし、何より雑誌の厚さと発行の安定性は別物だから単純比較は出来ないが、見過ごせない存在感であることは間違いない。
気が向いたらスニーカーを履いて、Tシャツ短パンの軽装で玄関を出る
あとは走るだけだ
嫌になったら バスにでも乗って帰ってくればいい
ここ5000年くらいの話
ぼくらは毎日12時間くらい草原を駆けまわったり 毎日12時間くらい畑耕す生活をつづけてきたのだ
一日12時間光る板を凝視するようにはできていないし、一日300歩しか歩かない生活なんてなかった
それは20万のアーロンチェアに座ったって、JinsPCをかけてブルーライト防いだって
エスカレーターを階段に変えたってなんの足しにもならないくらい
「人体の構造と根本的にかけ離れた生活」を送っているんだ いまのきみみたいに
それが ここ100年も経たないくらいのおはなし
原始的な生活にもどりたいっていう話じゃないよ
でもそんなんじゃパフォーマンスが下がる一方だ
お金があるなら整体でもジムでもご自由にどうぞ行ってらっしゃい
でも解決策はそこにはないんだよ
0円でいまからはじめよう
安いスニーカーと Yシャツの下に着るようなペラペラなシャツを着て
これを読み終えたら外に出てみるといい
走るくらいしかやることがないし
走って走って 嫌になったらバスにでも乗って帰ってくればいい
辛くなったらやめるのがコツ
限界まで追い込まないのがコツさ
なぜかみんな続かないよね
それは 体を痛めつけるのはただ辛いだけだから
ランナーズハイじゃないけれど いちど走りはじめたら辛いことなんてないし
むしろ日々のつらい仕事を忘れて 頭からっぽで無重力みたいな開放感が得られるんだ
だからみんな 疑ってもいいけれど
ランニングが解決してくれるんだ
ほんとうだよ
走る衝撃で イヤホンが踊り 風がおこり タッチノイズにまみれた128kbpsの音楽は
きみの集中力によってどのオーディオルームよりも音がクリアに 今までにないほど綺麗に聞き取れる
はじめての感覚におちいるんだ
湿度や温度をきにしながら 座布団の感覚すら余計だったきみのオーディオルームを一回でひっくり返す
これは 本当にくせになる
もしかして ぼくが感じているような集中や開放感は
ほかの何かでも得られるものかもしれないけれど
あえて何故ランニングなのか
ただ ジムに7000円と入会費を払ってやるのもしゃくだとおもっただけだ
たとえばきみが ジムで筋肉質なオトコ(コウチとかいうヤツ)にマゾヒスティックになじられるのもよし
たとえばきみが 座禅組んでハゲアタマのオトコにはたかれるもよし
たとえばきみが ヨガでアロマでロハスするもよし(ただ新興宗教に気をつけて)
たとえばきみが 早朝から皇居を周回して意識高いひとたちと共に陛下の気を高めるもよし
やり方はきみしだいだ
でもね
おつかれさま きみはよくがんばった
走り終わったら、水分をとって日陰か家かでゆっくりすること
さっきまでとは違った充足感がきみを包んでいるはずだ
頭の中にこびりついていた仕事の悩みや 人間関係のドロドロしたやつは
コースにポロっとおきわすれていて 心臓が全身にここちよいリズムで血流を遊ばせているはず
どれだけたくさんライフハックを齧っても手に入らなかった自己変革感が
得られましたよね
つまり
そういうことです
これを理解できると、私はどうなれるんだろうか、
現実の面白みがわかるのか、物語が現実より面白くてもいいんだと思えるのか、
そのあたりが具体的にイメージしにくいのです。
もし君が物語形式の芸術作品における物語の役割を理解しているなら余計なお世話になるけど、
あまりよくない例えかもしれないが、ラーメンを食べるときについて考えてみよう。
このうち人間の基本的欲求である『食欲』を主に満たすのは炭水化物である『麺』だ。
もしラーメンというものをおよそ一度も食べたことのない人が腹をすかせていたとして、ラーメンを見たらどうするか。
麺をおそるおそる手にとって、どういう食べ方だかしらないがそれを胃に入れて、空腹を満たすだろう。
これももちろん、人間の食事の仕方の一つだ。非常に原始的なやりかたのね。
だからといって、麺をずるずるすすって(あるいはもぐもぐやって)、ああいいのどごしだなぁ、
しこしこしてるなぁ、はらいっぱいになったなぁ、
という風に感じるだけじゃあ、『ラーメンを味わった』事にはならないのはわかるだろう?
ではどうすればいいか。ラーメンなら、麺のパターン(縮れているとか、太いとか、柔らかいとか)があるよね。
それぞれに、ぼくたちの味覚に別々の効果をもたらしてくれる(ぼくはラーメン屋じゃないので
それぞれがどんな効果をもたらすかについては省略するよ)。
それを理解して初めて、なぜこのラーメンはこういうスープの味付けで、こういう具が添えてあって、
というのが理解できる。それがほんとうの意味で『ラーメンを味わう』ことになる。
物語もこれと同じだ。芸術作品というのはその全体で味わうものであって、
その物語要素だけを取り出して味わったとしても、その作品をほんとうの意味で味わった事にはならない。
せいぜいあらすじについての感想を言うのが精一杯だろう。物語のパターンを知って、
その役割(人間の感情を効率よく刺激する)を知って初めて、ほんとうの意味でその作品を味わったことになる。
そんなこと言ったって、ラーメン食べるときにいつもそんなこと考えてないよ、という人もいるだろう。
もちろんそのほうが正しくて、だいたいの処理は脳内で自動でやってくれている。
だからぼくたちはラーメンを食べるときにいちいちこうやって考える必要がない。
でも芸術作品は違う。芸術っていうのはそうやってぼくたちが頭を働かせる前提で作ってある。
だからいろんなフックも仕掛けてあるし、前提知識がないと見えてこない面白さもある。
単純に物語の刺激に踊らされているだけじゃ、ちっとも楽しめない作品もある。
もちろんそうじゃない作品もあるだろう。たとえばそう、某大盛りラーメン店みたいに、
そのことだけを目的においている作品もある(現代においてはそれが大半だろうね)。
でもそれだけじゃ寂しいよね。ほんとうの意味で作品を楽しむには、今書いたようなことを知っていたほうがいい。
それにこのことを知っていても、『ぼくらに単純な刺激を与えて楽しませる』ために作られた作品を
楽しめなくなるわけじゃない。
むしろ、作り手の側の意図なんかが見えてくる楽しみもあると思うよ。
さて、物語の芸術作品における役割がわかったところで、その現実世界との関わりについて考えてみよう。
物語が現実より面白いのは当然のことで、そういうふうに感情を刺激するように作られているからだ。それ自体に何の不思議もない。
ただそれをわかった上で「現実世界のほうが楽しいよ」と言うために必要な飛躍というのは人それぞれだ。
『自分次第で解釈できる物語が無数に転がっている現実世界のほうがいい』
あなたがどういうふうに思うかはぼくにはわからない。ただ物語というものの役割を理解した上で、
それでも現実よりも楽しいものがある、というふうに主張することについてはぼくは否定しないよ。
ただ、余計なお世話かもしれないけれどぼくが強調しておきたいのは、
『現実世界に物語の構造を持ち込む奴らには気をつけろ』ってことだ。
過労死するまで居酒屋で働かされた若者に経営者が与えていた『物語』が何だったのかは、
その経営者の言動を見ていれば簡単に想像できるだろう。それほど物語というものは
暴力的で、人の心を簡単に支配してしまうものなんだ。だって、そういうふうに作られているからね。
161 ほとんどコピペ :2011/02/24(木) 03:29:45.26 ID:q32K6zHQ
BRIGADOONまりんとメラン:主人公のマリンとその周りの人達が送る心温まるストーリー!!
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一度虐殺器官を読んだ人(=自分)が内容を思い出すためのもの。
第一部
1
死者の国の夢と、そこに現れる死んだ母さん。
2
僕は「濡れ仕事屋(ウェットワークス)」として、二〇一〇年代後半に頻発する内戦をおさめるため、「レイヤーワン」を殺してきた。レイヤーワン――罪の多寡とは無関係に、それを殺すことでもっとも効率的に争いを終結させられる標的。
仕事で殺してきた数多くの(時に罪のない)標的のことは少しも心に留まらないのに、プライベートでの、母に対する医療行為の打ち切りを決断したことで、僕は気を病んでいる。
3
仕事で、二人の標的AとBを殺すように命じられ、異国に入る。標的Bについての情報は、上司から与えられているはずなのだが、それが上司の意図により隠されている。
4
標的Aはその国で虐殺行為を率いていた為に、ぼくの手により暗殺される。
ぼくは標的Aに、なぜそのようなことをしたのかをきくが、彼はしきりに「わからない」と繰り返す。
標的Bはすでにそこにはいなかった。
第二部
1
彼はしばしば「地獄は頭の中にある」と言っていた。
ぼくの父も、かつて自殺したのだった。
標的B――ジョン・ポールを追って、僕らは殺しを繰り返してきた。彼は内戦から内戦へ渡り歩いているようだった。
だが、ぼくらが暮らすアメリカは、「ドミノ・ピザやペイムービーのリピートの平和」か支配し、戦火とは無縁だったのだ。
2
ペンタゴンに召集される。
そこで「ジョン・ポールは軍とは無縁の文人、学者でいる」、「しかし、彼が関わった国は決まって内戦が起こる」と聞かされる。
彼は今度、ヨーロッパに入ったらしい。
ぼくの新たな任務は、チェコで彼を追跡すること。
3
死者の国の夢――「死体は物質にすぎない、生きた人間も」と母さん。
幼少時、僕は家の中で母さんの視線を感じ続けて育った。その視線から逃れるために、「濡れ仕事屋」を始めたのだった。
4
ジョン・ポールと関係を持つらしい女、ルツィアと接触する。チェコ語の講師をしている彼女の生徒として。
ルツィアに、「言語は進化によって獲得された『器官』である」という話を聞かされる。
5
チェコ・プラハで行方をくらませた人間(ジョン・ポールもそうかもしれない)のIDの追跡可能性はゼロらしい。
9・11のテロとの戦い以後、認証を繰り返さなければ買い物も交通機関を利用することもでしないのに。
ルツィア曰く、「ジョン・ポールはもともとMITの学者だったが、いつからかDARPAの研究(ぼくが使う武装、SOPMODを作ったのもDARPA)をするようになった」
6
ルツィアの部屋からの帰り、若者におそわれるが返り討ちにする。おそらくは、ジョン・ポールの協力者。
IDトレースによれば、かつてジョン・ポールとルツィアが密会していたとき、彼の妻子はサラエボで核に吹き飛ばされた。
第三部
1
死者の国の夢――夢の中のプラハでは、例の虐殺が発生していた。
その夢でも、母さんが現れる。
「母さんは意識はなかったけど、内蔵は動いていた。そして、ぼくが医療行為の中断を認証した。
……母さんが死んだのは、ぼくが認証でイエスと言ったときだったんだろうか?」
「あなたは、任務での殺しでは「それは政策が決めたことだ、自分が決めたことじゃない」と、責任の重みから逃れられた。
でも、医療の中断の責任からは逃れられない。あなた自身の決断だから。
……そう思っている。もしくは、中断をする前から私は死んでいたと信じたがっている。
けれど、本当は、私だけじゃなく、あなたがころしてきたすべての人々が、あなたの決断によって死んだ。
私を殺した罪を背負い込めば、あらゆることが帳消しになると思っているの?」
2
夢の虐殺後の静けさとは裏腹に、プラハのあるクラブには、生き生きとした騒々しさが満ちている。
そのクラブでは、IDを認証せずに支払いできる紙幣(みなくなって久しい!)を使うことができる。
「プライヴァシー(認証されない)自由と、テロの自由からの恐怖はトレードオフ。自由の選択の問題」
3
ジョン・ポールの妻子がサラエボで核の熱で蒸発したとき、彼女はジョン・ポールと不倫し、セックスを楽しんでいたという罪の告白。
罪悪感の対象が死んでしまうということは、いつか償うことができるという希望を剥奪されること。
死者は誰も許すことはできない。
4
「濡れ仕事」で数々の骸を見、中央アジアからワシントンに帰ってくると、母さんは事故で死んでいた。が、彼女の心臓は再び動き出した。――危険な軍隊へ行ってしまったぼくへの復讐として、ぼくに生き死にを決断させたかったから?
決断の材料を探す為に、母さんのいえ――ぼくの生家でもある――に行く。
かつてそこでも母さんの視線を絶え間なく感じながら、ぼくは育った。
見つめられることの安堵は、(認証され続けることの安堵は、)息苦しさの表面にすぎない。
結局、母さんの残したログは見ずに(ロックがかかっていて、他人が見ることはそもそもできなかった)、ぼくは母さんの「死」を決断する。
――母さんの視線の「気圧」から逃れたくて、ぼくは母さんを「殺した」んじゃないのか。
5
僕の告白に対してルツィアは、
「人間は生得的に善ね利他行動を行える。あなたの、お母さんを「殺した」決断も、本能による利他の行動。だから、あなたは許されるべき」
ルツィアとの帰り道、気を失う。
ジョン・ポールによる電撃を食らって。
6
とらえられた僕は、ジョン・ポールと会話をする機会を得る。
虐殺の言語は、僕の装備を作ったDARPAが協力した研究により生まれ、僕の殺す対象を選ぶのと同じシステムを利用してる。
7
ルーシャスは、〈計数されざる者〉という、ポールの協力者集団の一人だったのだ。
〈計数されざる者〉は認証を嫌う。プライバシーと平和はトレードオフの関係にあるはずなのに、実際は、認証をすればするほどテロが増加している。
それは、世界の人々が、自分のことにしか興味がないから。ドミノ・ピザとビデオクリップの平和に浸っているから。すぐに手にできるはずの現実に手を伸ばそうとしない奴らばかりだから。
ジョンとルツィアは去る。
僕はルーシャスに殺されかかる。その寸前のところで、ウィリアムズに助けられる。
第四部
1
旧印パ国境地区。そこにいるらしいジョンをとらえるように命じられる。
2
痛いと「感じる」ことはなくても、痛いと「知覚する」ことはできる。人をためらうことなく殺せても、その殺意を自分のことのようには感じない――僕は「濡れ仕事」をこなせるように、DARPAによって、そのように調整されている。
――「殺される」前の母さんと同じ、希薄な意識だ。僕が「濡れ仕事」をするために必要な、意識の希薄さ。
この殺意は、本当に僕のものなのか、僕が「殺す」前、母さんが本当に「死んで」いたのか、僕にはわからない。
3
4
ジョンを文化顧問として雇った、ヒンドゥー原理主義国、ヒンドゥーインディア。
その少年・少女の兵を、「他人の殺意」で殺しながら、ジョンのもとにたどり着き、彼をとらえる。
5
ジョンは、
「私が行っている「虐殺の言語」と、きみが施されている「「他人の殺意」による殺人」は同じだ。どちらも、良心を抑制する」と。
ぼくは、
「あんたには内通者がいるな。政府部内に。僕らの面子か、もっと上のほうだ」
ぼくらアメリカと同等の技術を持った敵によって、列車が襲われる。ジョンは僕たちによる拘束から逃れる。
僕たちも敵も、痛みを「知覚」するが、感じない。体の部分が吹き飛ばされても、戦闘は続く。お互い、「ハンバーガーになるまで弾と火薬をたたき込むしかない」。
リーランドはミンチになりながら、死の間際まで、冷静で希薄な意識で戦い続けた。
第五部
1
インドでミンチになったリーランドは、商品と違ってメタヒストリーを持たないから、つなぎ併せて一つにして、棺に納めるだけでも一苦労だった。
それでも、ミンチにさえならなければ、認証によるメタヒストリーを僕らは持つ。母さんもそうだった。
母さんのメタヒストリーがプロテクトされていなければ、僕は母さんを「殺す」か否かの決断を、認証の蓄積によるライフログを手がかりに探すことができた。
リーランドがミンチになった戦いがきっかけで、ジョンとの内通者が発覚する。
2
発覚した情報を手がかりに、ヴィクトリア湖へとジョンを追う。そこは、誰も追おうとしない人工筋肉のメタヒストリーの行き着く先。
〈ヴィクトリア湖沿岸産業者同盟〉は、人工筋肉の利権を得るために、独立しようとしている。
3
ジョンがいるはずのゲストハウスにルツィアを見つける。
ルツィアを探してゲストハウスに入ると、ジョンが待ちかまえていた。
4(物語のコア)
ジョンは、
「虐殺も利他も、進化によって得たモジュールという点で同じ。むしろ両立すらできる。生存のための大量虐殺というのもありうる。たとえば、食料を多部族から奪って自部族の仲間を生きながらえさせるためだったり」
ルツィアは、
「あなたは、サラエボの奥さんや子供を失って絶望しているから虐殺の言語をばらまいているのね?」
ジョンは、
「いや、愛する人々を守るためだ」
――そうだ。ジョンがいたどの国も虐殺に見回れていたはずなのに、彼の過ごしたアメリカとチェコでは、それが起きていない!
5(物語のコア)
ジョンは、
「人々はみたいものしか見ない。だから、いくら認証しても、テロはなくならない。
ならば、テロで爆発するはずの憎しみがこちら、アメリカやチェコといった先進国に向く前に、彼ら同士で憎しみあってもらおう。――そのために、虐殺の言語をふりまいた」
ジョンは、ぼくらの世界へのテロを未然に防ぐため、虐殺の旅を重ねた。
ルツィアは僕に、ジョンを殺さずに逮捕するように言う。僕らの世界の平和は、ジョンによる無数の死者の上に成り立っているのだと、みんなが知るべきだと。
と、ルツィアがヘッドショットを決められて死ぬ。
ウィリアムズによって。
「なぜ殺した」と僕。
「妻と子のためだ。彼女らは、この世界が虐殺の上に成り立っていることを知らなくていい。
ドミノ・ピザを認証で受け取る世界、くそったれの平和な世界を、俺は彼女らのために守る」
ウィリアムズはジョンを殺したがっているが、僕はルツィアの最後の言葉の通りに、ジョンを生きてアメリカにつれていき、証言の場に立たせたい。
ジョンとともに、逃げる。
「おまえを逃がせばまた、虐殺の言語を振りまくのだろう?」と僕。
「いや、死んだルツィアの望んだ通り、世界に真実を知らせよう」
タンザニア兵と合流しようとするが、それはタンザニア兵になりすました、僕の「濡れ仕事」の仲間だった。
彼がジョンを射殺し、僕の任務は(アメリカからすれば)成功裡に終わる。
〈エピローグ〉
……僕は、プロテクトがあるためにライフログを見られなかったのではない。ただ、漠然とした恐怖があって、ライフログの閲覧を申請しなかっただけだ。
僕は幼いころ、常に母さんに監視(ID)されているような気でいたが、母さんのログを読んでみると、必要最低限にしか、僕の存在が記述されていない。
母さんの記録の中に生きていたのは、圧倒的に父、自殺したはずの父だった。
僕は、ジョンからもらった手帳を元に、虐殺の言語を語る。虐殺の言語でもって、ルツィアの願い通り、真実を世に知らせるのだ。
そして、世界にとって危険な、アメリカという火種を、虐殺に突き落とす。
僕はこの決断を背負う。ジョンがアメリカ以外の命を背負おうと決めたように。
☆改変版
ジョンは、
「いや、私は米国内の後ろ盾を失った。深層構造の原理を知られれば、たかが言葉だ。応用されるのも時間の問題だろう。マスコミや政府公報で、いくらでも虐殺の言語を打ち消せるさ。
だが、私は〈計数されざる者〉という新たなバックアップを得られた。認証に対して憎悪を抱く、世界的な組織だ。この力を使えば、私たちのすむ「こちら側」を静寂に保つことができる」
「なにをするつもりだ?」
僕の「濡れ仕事」の仲間が、僕がジョンの答えを聞く前にジョンを射殺し、僕の任務は(アメリカからすれば)成功裡に終わる。
〈エピローグ〉
僕はジョンに、「真実」が書かれたテキストファイルを渡されていた。
それを世界に知らしめ、僕たちが虐殺の上にたっていることをみんなが理解することがルツィアの願いなら、僕はそうするべきなのだろう。
公聴会で、ぼくはジョンの件で見聞きしたものを語る機会を得る。
ジョンから渡された「真実」をオルタナに浮かべて話そうとする。
すると、僕が見ずにいた、母さんのライフログをオルタナに突きつけられる。――これが、〈計数されざる者〉、ジョンが最後に得た力か。
幼少の僕は、母さんに監視(ID)され続けていたと思っていた。しかし、母さんのライフログには、あまりにも父ばかりがいる。彼の死語ですら。
それを皮切りに、次々に、アメリカの全議員、いや、オルタナをつけているすべての人々の視界に突きつけられる、真実のログ。世界からアメリカに憎悪の数々が向けられているという真実。〈計数されざる者〉のルーシャスは言っていた。プライバシーの提供と、テロとのトレードオフの不均衡は、みたいものばかりを見ることによって起こると。認証の中に閉じこもり、ドミノ・ピザとビデオクリップの平和の外を知ろうとしないことで起こると。
ふと、アメリカはもう死んでいるのだと思った。母さんに視線を返せない、父さんのように。憎悪を浴び続け、しかしそれを無視しているアメリカは、死んだ父さんと同じだ。
……だが、アメリカに憎悪を向ける小国とて、自分の窮状をしらしめようと騒ぐばかりで、他の小国を知ろうとすらしていないのだ。僕が母さんのログを見ようとしなかったように。
ジョンが行った、〈計数されざる者〉の力の改変。それは、小国の内部で争いを起こす虐殺の言語よりも規模が大きなものだった。互いに無視しあっていたずの、小国と小国の視線をぶつけ合わせる。そして、小国同士で戦争を起こすことで、「こちら側」の平和を保とうとするものだった。
ジョンの考えと僕の考えは違う。
母さんが僕を見ないのは、父さんというすでに存在しない項があるからだ。アメリカからの存在しない視線を小国が期待するように。
存在しないものを、存在しないと意識させること。僕にはそれができる。ジョンから得た「真実」の欠片、虐殺の言語と、僕のマザータン、アメリカで語られる英語によった。
これを読んでいたらもやもやしてきたので書く。
4つだけは本当だということじゃない。
8つすべては「真実」に近いと思う。
実践できれば楽に生きれると思う。
それがいいとか悪いとかいう問題じゃない。
ただ、この理論だけでは結果的に不十分だとおもう。
いったいなにを欺いているのか?
リンク先で語られている内容よりも
語られなかった内容に注意してほしい。
1、今に生きる
過去を悔やんでたらればを繰り返したり、起きてないことをあれこれ憂いたりするのは時間と労力の無駄遣いで非生産的。
2、人や社会に期待をしない
求めたり「こうあるべき」とイメージを持ったりすれば、現実との差異にがっかりすることになる
自分が見ている他人は、他人という物質に反射して映った自分だと考える。
その出来事を通して味わいたい思いや学びたいことがあるからそれを引き付ける。
こうしなきゃ、こうでなきゃ、というのは自己満足であって、大抵の場合は不必要
6、ワクワクするものごとを選ぶ
選択の連続の人生で、自分の心がワクワクする方を正直に選ぶのが一番スムーズ。これができないと葛藤やジレンマに苦しむ
7、自分の行いは必ず帰ってくる
きちんと受け止めないでぶつかった時に、痛いと言って責任転嫁しようとしても事は進まない。
自分が受けたい言動をとればそのまま返ってくる。
8、物事は全て中立
「悪い出来事」「縁起の良い場所」なんてのは本当はなくて、全て中立な物事に自分が意味付けをしてるだけ。
たとえば同じ場に居合わせて災害にあったとしても、ある人はたまたま見舞われたと感じるし、ある人は自分の宗教の教えを遵守しなかったからと捉えるかもしれない。
ぐうの音もでない。
いろんな本を読んだり、テレビを見たり、人と話したりすれば
わりと納得できる考え方だなーと。
(というかこれがわからないとしんどい)
しかし、正しいということとそれが妥当であるということはまた別の問題だと思う。
でも、とりあえず
ということはほぼ間違いないと思う。
世界じゅうの人がみんな
この方法を身につければ
きっと生きやすい世界が目の前に広がると思う。
ちょっと想像してみよう。
(親、兄弟、親戚、同級生、上司、同僚、社会のしくみ、政府、日本、テロリスト、なんでも)が
もし、これらの特性を身につけたならと考えてみよう。
こりゃパラダイスだ!
ぼくたちはお互いがお互いを認められるような
真に寛容な社会を実現できる!
誰と遊んでいようが楽しい!
よーし!あの丘の上まで競争だ!
これらの方法に従うことで楽に生きられると思う。
でもそれは「従うことができれば」の話。
実際、どこの場でも目にする。
「人生論」でも、「大往生」でも、「論語」でも、「エセー」でも、「徒然草」でもなんでもいい
長く広く読まれている「人生の教え」的な本を読んでると
最後にはだいたい前の8つくらいに収まる
(代わりにどっかの社長の話を聞いてもいいし、テレビで美輪明宏さんの話を聞いてもいい)。
昔の人は偉いなあと思う。
そういう感じの本はいろいろ読んだ気がする。
もちろん、まだまだ読み足りない。
なにせぼくはまだ今年から活字に触れはじめたばっかりだ。
きっと死ぬまで読んでも読み足りないのだけど
個人的には、ぼくの考えを
そういう本が「間違っている」と指摘してくれることを期待して
今のところ、ぼくの考えを「否定してくれる」本は見つからない。
いや、正確に言うと、否定してくれはするけども
それが納得できないのだ。
ぼくの読解能力がないだけならそれでいいんだけど
もしヒマならちょっとぼくの考えを聞いてほしい。
まず1つめのウソ。
ぼくが言いたいのは
すべての人間がこれらの方法を実行するのは不可能だということだ。
古今東西のえらい人がみんな同じ結論にたどりつくなら
さっさとそれを実行すればいいのに
なんで同じ内容の本ばっかり書かれていくんだろう。
それが人間全体に広くみられる普遍的な問題だからじゃないかなあと思うけど
じゃあ、なんでその普遍的な問題が
大昔から今まで解決されないままなんだろう。
般若心経の新訳を読んだ。
ぼくらはなんで2000年も前の真理がいまだに実行できないの?
そりゃあれじゃないの?
大笑いしながら観ていた。
その中の一作で寅さんの「おいちゃん」が
実は若い頃は文学をやりたいと思っていたと話すシーンがある。
おいちゃんは父親にこう言われたらしい。
「団子屋に文学なんか必要ない」
団子屋が文字を読む必要がないなら、
本なんてまったく読まない人がいてもおかしくないんじゃないだろうか。
これは団子屋だけの問題か?
かなり多く存在してるんじゃないのか?
それでなんの不自由もなく生きていけたなら
感覚だけで生きていくことを恥じることもない。
それどころか、論理的なことをバカにさえするかもしれない。
難しいことはわからない。
バック・トゥ・ザ・フューチャーを何十回も観てるのに
なにがどうなっているのかいまだに理解できてない。
でもそれがどうした?
バック・トゥ・ザ・フューチャーの理屈がわからなくてもなんの不自由もない。
熱心な仏教徒や
わかりにくいな…。
その最初の救いを信じていたら
いつのまにか犯罪者の仲間入りをしていたことだってあるみたいだ
(オウム真理教の元信者のそういうエピソードを読んだことがある)。
「念仏を唱えれば救われる」って
そそのかされただけじゃないのか?
バック・トゥ・ザ・フューチャーがわからないお父ちゃん。
念仏を唱えるだけの百姓。
そういう人たちがいるかもしれないと思ったことは?
つまり、ぼくが言いたいのは
読めない人がいるかもしれないということだ。
読んだ人に待ち受けているのは
でも、読んでない人はどうすりゃいい?
で、その論理を理解できなかったら?ほったらかし?
そりゃあもう素晴らしいことになるとおもう。
でも、現実はそうじゃない。
何を語っていないかをもっとよく考えたほうがいい。
この人生訓がなぜいいのかということを
絶望的なまでに理解できない人がいる。
そういう人たちは人生訓が提示されるたびに足場が少なくなっていく。
要するに勉強ができない、感覚で生きている人たちをないがしろにしているのだ。
このたぐいの人生訓すべてが。
掛け算までしかわからない子どもに、方程式の素晴らしさを説いているようなもんだ。
上から目線で「こうしたらいいのに」と言ってしまってることになる。
いつまでも掛け算のところでつまづいて
文句ばっかり言ってる子どもはほったらかして先に授業を進めるべきなの?
掛け算のところに戻って教えなおしたほうがいいんじゃないの?
やっと言いたいことの一つが終わった。
冗長になりそうだけど
もうひとつ言いたいことがある。
更に絶望的な想定だ。
さて、こんな文句をどこかで見たことがあるだろうか。
(まちがってたら言ってください)。
なんかさぁ…
内容自体はそんなに変わらないのに
急にうっとうしくなった気がしない?
どこかで見たことあるなあ…
これどこで見たんやろう…
ああ、そうか
「これ、うちの経営理念やわ」っていう人いる?
その時どんな気分がした?
殺したくなった?
泣きたくなった?
正義づらした誰かに強制されるのだ。
それが「楽に生きる」とは真逆の事態を連れてくる。
この想定のたちの悪いところは
その大義名分が「間違ってない」というところだ。
誤解なら間違ってると指摘することはできるけど
ほぼ正しいと思う。楽に生きるためならね。
え?
間違ってないなら実行できない人が無能で怠惰なんだから仕方ないって?
wikipediaによると2009年の時点で日本のニート総数63万人
彼らがみんな死んでしまえばいいと思うの?
賢くて強い人だけ生き残ればいいと思ってるの?
ニートだけじゃない。実際働いている人でも
(実際これだけの説教レパートリーがあれば人格を破壊するには充分すぎるとおもう)。
(統計を出すつもりはないけど)。
1つめのウソで言及しているような
感覚で生きていて、なおかつこういう人生訓に苦しめられている代表選手は
2つめのウソで言及しているような
こういう人たちはまとめて死ぬべきなのか?
損する人のほうが多くないか?
そう考えたら、「人生を楽に生きる8つの方法」が最後の答えだと思えない。
この考え方を否定してもらいたくてそういう本を読んでいた。
でも納得できない。
これでは救いにならない。
でもいつまでも状況に進展がない。
だれか否定してくれよ。
「おまえ間違ってるよ!」って。
1つめのウソについては別の解決策が見当たらないし探そうともしてないけど
そして、その解決策をこの場で披露することを許していただきたい。
枠組みを作ろうと思う。
ほとんど働かなくてもいいような枠組み。
楽観的な言い方をすると、これは収益を生み出せるかもしれない。
そうして、口やかましい人たちを黙らせる
http://auauai.tumblr.com/post/9080858048
これはブログでも書いてるけど
やりたいことはphaさんのギークハウス構想に似てると思う。
優しくて閉鎖的な空間だ。
個人的にはなるべく一人でいたいんだけどそのためのコストが高い。
そういう人と連帯を組むことはしたくない。
じゃあ、ぼくが怖がらずに近づけるのは
そういう人たちととりあえずお互いを認め合う。
自信を少しずつ取り戻す。
まずはそこからだ。
誰だって生きていていいんだという相互理解をつくることだ。
心底、世の中に絶望していた。
どれも納得できなかった。
共感をもたらしてはくれたけど
やっぱり現実はしんどいままだった。
山の中に草庵でも建てて住もうと本気で思っていた
(いまでもその選択肢を考えてる)。
いくら本を読んでも
現在の恐怖と、わずか数年後の不安を解決してくれるものすらなかった。
でも最近考え方が変わった。
それもやはり本を読んで変わった
(次に挙げるだめ連の本とはまた違う本だ)。
だめ連の本によると
連帯すると分散される(当たり前か)。
家賃10万円の家を10人で借りたら一人1万円だ。そういうことだ。
近隣の人の援助もあったらしい。
それはちょっとできるかどうかわからない。
でもぼくらにはインターネットというツールがある。
レゴ作って2chにスレ立てるだけでプロビルダーになる人がいたり
自分の顔を毎日撮って繋げただけの動画がYoutubeで何万再生もされたり
「ありがとごじゃいます」って歌って動画として公開するだけでテレビに出演できたり
要するに「好き」とか「やってみた」とかの
ということは
そういうしょーもないアイディアが収益化する可能性があるのだ。
ちょっとでもおもしろそうなことはなんでもやってみりゃいいのだ。
社会不適合者が集まっているということだけでもちょっとおもしろいかもしれない。
誰が許さなくても本当は関係ないんだよね。
心苦しさを飛び越えるほどの、欲求があればぼくらは動ける。
外にある楽しいことに手を出すのは怖いしめんどくさいけど
ネトゲくらいならちょっとやってみようかなーなんて思える。
とりあえずヒマならその家に集まってみて
生きるのに向いてない人がリラックスできる場をつくる。
なんかちょっとやる気出たり、アイディアわいてきたら
そういう人たちの「好き」とか「アイディア」を片手間でネットに発信してみる
(ぼくもいくつかアイディアがある)
奇しくもこの考え方は
楽しいことだけを追い求めて生きていくことが可能かどうか確かめたいのだ。
しかし、生きるのに向いてない人がラクになれる場所
(SNSでの付き合いで世界のツラさを「ごまかす」だけじゃない場所だ)
これができるだけでも意味はあると思う。
もうだから早く家借りよう。
とりあえず、ツイッターかmixiかメールかなんでもいいから連絡をください。
http://twitter.com/yukkun1986/
http://mixi.jp/show_profile.pl?id=25533767&from=navi
breed0902@gmail.com
(悪いことをまったくやってないってことじゃないけど)。
たすけてくれよ。「私も怖かった」って言ってくれよ。
怖いよねー(*´・ω・`)(´・ω・`*)ネーって慰め合おうよ。
別に住まんでもいいのよ家には
慰めとか遊びとかアイディアの拠点にするねん。
もう疲れた。
もう待てない。
もう泣きたくない。
誰かが泣くのも見たくない。
きみは死ぬな。
それでも生きれるようにしたいのよ。
ぼくもきみも。
これがぼくらの「楽に生きるための一つの方法」じゃないかと思うんだ。
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なげーよ。
ごめんなさい。短くしようともしてませんでした。
短く的確に書ければいいなと思います。
書いていくだけでその練習になればいいななどと虫のいいことを思ってます。
誰も強制してないし、できない奴を馬鹿にしてもいない。自意識過剰/自分以下を眺めて満足したいだけでは?/「5. 自分がいなくても世界は回る」の「自分」は語り手を選ばないからこそ「楽」につながる