はてなキーワード: 体育科とは
子殺しの上で死体遺棄して母親が逮捕されるのは当然のことでは?父親にも何らかの罪をというのはわからないでもないが。乳幼児の人権を認めてないのは怖すぎる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4721804662898478082/comment/augsUK
性教育で「性交」や「妊娠経過」の知識を得られていたら、母親に責任があるとは思うが、現在の日本では、学校で「性交」や「妊娠経過」を教えることは、文科省により禁止されている。
これは、自民党・公明党が撤廃を拒否している歯止め規定によるもの。
性教育で「性交」や「妊娠経過」の知識を得られなかった母親が死体遺棄をしてしまったのは、自民党や公明党に責任がある。
「乳幼児の人権を認めてない」のは、性教育で「性交」や「妊娠経過」を教えることを禁止している自民党や公明党であり、自民党や公明党に投票した人物の方である。
【質問】
文部科学省が推進する「生命(いのち)の安全教育」では、性交や妊娠経過について教えないなどといった「はどめ規定」があり、性に関する知識と理解が十分に得られない内容になっています。
「はどめ規定」を撤廃し、人権尊重と科学的根拠に基づく包括的性教育を推進しますか?
【自由民主党の回答】
✕(ばつ)
性教育は児童生徒の発達段階を考慮しながら、学校全体の共通理解を図り、保護者や地域の理解を得ることが必要です。不適切な性教育やジェンダーフリー教育などは行わせません。
【公明党の回答】
ー
△:中学校1年生の保健体育科の授業においては、「心身の機能の発達と心の健康」について学習する中で、思春期には生殖機能が発達し、妊娠が可能となることを理解できるようにするため、主に多くの生徒が直面する思春期の体の変化について学ぶこととしています。平成10年の学習指導要領改訂時の背景として、この内容について指導を行う場合に、生徒の発達の段階を踏まえない、いわゆる過激な性教育(性行為をイラストで示すなど)が行われており、行き過ぎた指導にはどめをかけるため、当該規定を設け、その扱いを継続しているものです。
子どもたちを性犯罪・性暴力から守るための「生命の安全教育」については、より多くの教育現場で実施されるよう推進します。
【立憲民主党の回答】
○(まる)
学校教育や社会教育で、男女ともに性暴力の加害者や被害者にならないように、性についての正しい知識を身に付けられる人権としての包括的性教育を推進し、生に対する正しい知識と理解とともに、子どもたちへの犯罪を根絶します。
【日本共産党の回答】
○(まる)
1992年改訂の学習指導要領で小学生から「性」を教える転換がはかられました。しかし、1998年改訂の学習指導要領で妊娠の過程を扱わないとする「はどめ規定」がもうけられ、2003年に都立七生養護学校での性教育に自民党都議などが介入し、自民党国会議員なども加わる性教育バッシングがおき、学校現場の性教育は委縮・後退しました。その結果、多くの子どもたちが性についての知識をもたないまま、互いの心身を傷つけてしまう多くの悩みや問題をかかえています。国連子どもの権利委員会は日本政府に「思春期の女子および男子を対象とした性と生殖に関する教育が学校の必修カリキュラムの一部として一貫して実施されることを確保すること」を勧告しています。「はどめ規定」をなくし包括的性教育をすすめることが強く求められていると考えています。
日本共産党は党綱領で「ジェンダー平等社会の実現」をかかげている政党です。人権とジェンダーの平等を大事にしながら、人間の生理や生殖や避妊についての科学的知識、性の多様性、互いを尊重しあう人間関係を築く方法、自分の心や体を傷つけるものから身を守るすべを学ぶなどの包括的な性教育の推進を提案しています。
【社会民主党の回答】
○(まる)
「性交」の説明なくして、子どもたちが性に関する知識や性暴力や性被害についてしっかりと理解できません。平等・人権の視点を入れた包括的性教育の推進が不可欠です。
【日本維新の会の回答】
○(まる)
「はどめ規定」撤廃が適切かどうかは検討を要するが、性教育については今よりも踏み込んだ対応が必要である。
【国民民主党の回答】
ー
(その他)
授業内容、性教育、生理教育等、学校生活全体を通じて、人権が尊重され、学校と地域が協力して子どもの成長に伴走する環境を創ります。
○(まる)
“性交”や妊娠経過を説明せずして、性暴力や性被害というのが何なのか、ということは子どもたちは理解できません。すでに2009年にユネスコが「国際セクシュアリティ教育ガイダンス(2018年に改訂)」を出しており、ヨーロッパの国々はガイダンスを踏まえて性交や避妊方法を小学校高学年・中学校で教えています。
中学校で理科教師(講師)をしていた。子どもは好きだし教える事も嫌いじゃない。教師は意義のある仕事だし頑張ってる先生も多い。
だけど、何が一番嫌だったかと言うと『公権力への忖度』なんだよな。おれの勤めてた学校では『社会科』『国語科』『音楽家』の先生が優秀だった。
あるとき1人の社会科の先生が業務効率化の提案をしたのだけど、管理職のせいで全く受け入れられなかった。
教頭も校長も『体育科』上がりのワンマンで、頭も悪くてクズ。教育委員会の人間も似たような感じだった。本当に保守的であれじゃあ何も変わらない。
そんなクズに忖度し続ける人生は嫌なので、教員採用試験を受験するのを辞めて、都内の外資系IT企業に転職した。
転職してから4年、今は教員の給料も遥かに超えているし、教員に比べて業務量も少ない。年収で言うと800万円くらい。
とはいえ金に困ってる訳でもないし、教育は意義のある仕事。たとえ給料が安かろうが「働いてもいい」という気持ちになる事もある。もともと教育が好きなのかもしれん。
だけど、それにしても講師の給料は安すぎだし(月収30万ちょいで頭打ち)、何より保守的な上に忖度を求められるから、気持ち悪くてやってられない。
あれじゃあ教師という仕事に魅力を感じている若者も、講師でさえもしなくなると思うよ。
学校は少子化にも関わらず教師不足で、その原因は体力的にも精神的にもキツイからだと思ってる。教員は「全ての業務がアナログ過ぎる」ので、業務量も非常に多い。
毎日の部活動、出血確認、配布物、行事などは効率化できる部分は多くある。
たとえば、部活動は外注すればいいし、出血確認はオンラインで自動で行う。配布物は全デジタルにすれば良いし、行事(運動会・体育祭)なども手軽にできる簡素なものにする。
精神的な部分はモンスターペアレンツに対しては、モンスターティーチャーになって対応。親に細かい事はギャアギャア言わないようにする。教育委員会も教師そ守るバックアップをする。
そんな風にして極限まで教師の負担を減らせるように環境をセットアップ。
これなら俺も「また教職に戻ってもいいかな」なんて検討できる。まあ何処の自治体であれ、こんな改革できるところなんてないだろうが。
小学校の教員は全ての教科を指導するし小学校にも当然「体育科」の指導はあります。つまり、小学校においては「全ての先生」が対象。
2内容の取り扱い
(3) 集合,整頓(せいとん),列の増減などの行動の仕方を身に付け,能率的で安全な集団としての行動ができるようにするための指導については,「A体つくり運動」をはじめとして,各学年の各領域(保健を除く。)において適切に行うこと。
特に強調部分を分かりやすく言うと「1年生から6年生まで体育の授業のあらゆる指導の中で、集合、整頓、列の増減などの集団行動ができるように指導しろ」ってことですよ。体育の授業が整列に始まり整列に終わる理由が分かりましたね。ちなみに学習指導要領には法律と同じ強制力があるという判例があります。公務員は法律遵守する。当然ですね。
これは「体育科」の学習指導要領なので、中学、高校では「体育教師」がこの指導の中心になります。各先生方は、真面目にこれに従って仕事をしているだけ。いいでしょうか?
というわけで、
「小学校に体育教師なんていねーよw」→体育はあるし基本全員が指導するので、実質「全員が体育教師」です。
「小学校で集団行動指導なんてみたことねーよw」→あなたが知らないだけです。
「体育教師disかよ」→体育教師が好きだとは言いませんが、教師個人でどうにかなる話ではないと思います(公務員に法律違反しろとは言えない)。
西村「学習指導要領について伺いたい。(略)LGBTに関する記載について伺いたいと思っております。先週末、私の地元の新潟日報に高校生の日報が載っていた。性的少数者への理解必要、というタイトル。”学校の保健の時間に疑問に思った。思春期になると異性への関心が高まると書いてあった。で、私はこういった教科書の説明は適切ではないのではないかと考える。確かに大多数の人間は思春期を迎えれば、異性のことを好きになるだろう。しかし中にはそうではない人もいることを忘れてはいけない。学校で、異性への関心があるのが当然だというように教えれば、性的少数者の生徒たちはますます悩む~まず教育課程において、しっかりと性的少数者への理解を深めていくべきだ”という風に書かれている。今回の学習指導要領の改訂に当たっては、パブリックコメントで大変多くの方からこの点についての記載して欲しいという要望があったと聞いております。その割合は全体の約12%と、非常に大きいと思いますが、学習指導要領には反映されなかった。他方、文部科学省は、学校における性同一性障害への対応に関する状況調査を実施して、H27.4.30に性同一性障害にかかる児童生徒へのきめこまやかな対応への実施等について、という通知を、都道府県教委、学校関係者に通知している。また手引きも出している。それで、私はこの点についてはやっぱり学校で、いろいろなこと考えますと、やはり、LGBTについての記載があることが望ましいと思います、先般質問主意書を出したんですが、回答はけんもほろろでございました。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/193199.htm
再度質問させていただきます。この回答では「体育科・保健体育科で、・・・いわゆる「性的マイノリティ」について指導内容として扱うことは、個々の児童生徒の発達の段階に応じた指導、保護者や国民の理解、教員の適切な指導の確保などを考慮すると難しいと考えています」とされているが、個々の児童生徒の発達の段階に応じた指導を行うのが、本来は教員の責務であって、これを学習指導要領から除外する理由にはなりえないと思うが、なぜこの理由をあげているのか。」
「まずこれは大前提ですが、LGBTをはじめ、さまざまな要因において、社会において、特に学校現場において、そのことによって差別をされたり、傷つけられたりすることはあってはならない。そのことについて、文部科学省も、それぞれの学校現場においても、配慮いただいているところであると考えいる。西村先生から、個々の発達段階に応じてというのは当然の責務ではないかとご指摘をいただきました。学習指導要領というのはすべての生徒・児童に対し、指導していただくことを大綱的に網羅しているものでございます。その事柄においてですね、すべての児童生徒に、授業の形式を持って指導、教えるということが、現状において適切であるかどうか、内容について、個別の保護者、生徒からの相談において進めることが適切なものがあるかどうか、そのことについて、西村先生からご指摘のあったLGBTに関してですね、まずはLGBTに対する科学的な知見が確立していないということがございます。それがなかなか授業において先生方が合理的な説明の元に進められない、問題があるかと思います。そしてパブリックコメントについても言及がございましたけども、LGBTを積極的に学校現場において教えるべきだというご意見と、あの個々の生徒児童の発達段階によるものであるから、授業の面で取り上げるのはいかがなものかと、そういったそれぞれのお立場の意見がございました。そうした中においてですね、今回学習指導要領の中においてですね、今回、LGBTについて取り上げなかったということでございます。」
「驚きました。私は学校現場で取り扱うべきだと思います。科学的な知見が確立していないからということを理由に、取り上げないということは、今実際にそれを理由にいじめを受けている子供たち、それからこのあの性的指向、性自認にかかる悩みを持っている子供たちは、そうではない子供たちに比べると、自殺のリスクが6倍高いとも言われています。そうした中で、本当に科学的知見が確立していないということが学校でこのことに言及しない理由になりえるのか。思春期が来たら異性に対する関心が芽生える、そうじゃない人もいる。そのくらいのことではないかと思うのです。それぐらいのことがなぜ入れられないのかと疑問に思います。ぜひ、今そういうことで悩んでいる子供たちを救ってください。実際に体育の授業を受けると、自分が世界の中で、本当に1人なんじゃないかとこんなことを思っている、私は、僕はおかしいんじゃないかと。なってしまう恐れが非常に強いんじゃないかと。ぜひ、考慮していただきたい。二番目の質問ですが、国民や保護者の理解が足りないとあるが、だからこそ学校で教えることで、理解を深めていかなくてはならないのではないのか(略」
(略)
「学校関係者の対応が、事態をかえって悪化させているという事例も私は実際に当事者から聞いている。しっかりと対応して欲しい。」
LGBTの科学的知見って何を意味してんだろうね。LGBTになった原因に関する科学的知見?LGBTにどういう対応をすればいいかという科学的知見?事実、LGBTが存在していて、彼らに配慮することに何の科学的知見がいるの?とおもいましたまる。できれば西村さんにはこういう聞き方をしてほしかったな。天下り問題でやめられた、前川喜平前事務次官はLGBTへの配慮に尽力されていたようですが、残っていたらどうだったかな、とは思いました。
「政治家としての答弁と事務方の作文」をどうやって外形から見分けるわけ?
いやーこれは官僚の作文ですねー、大臣の見解じゃないですぅっていえっての?だれが書いてようと国会答弁で大臣がしゃべったらそれは省の代表たる大臣の見解だよ。さすがにつっこむけどアンタアホじゃない?
10年以上前の情報も含まれているので、現在とは異なっている可能性もあります。
この記事について、「昔のことだから今は違う、今の体育は楽」という意見があるようです。
最初に記事を書いてから5年ほど経っているので、多少は状況が変わっているかもしれませんが、
大きくは変わっていないと推測できます。
理由は、韮山高校の体育科の教員は20年以上異動しないのが慣例になっているからです。
ほとんどの教員が40歳前後で韮山高校に赴任し、そのまま定年退職まで勤務を続けるというパターンです。
教員達が10年前と変わらない顔ぶれなのに「昔とは違う」と言えるでしょうか?
●服装
・女子は股下10cm丈の黒いショートパンツ(ホットパンツ?)。体育座りをすると下着やナプキンが見えてしまう。
・太っている生徒は露出した腿がこすれて股ずれを起こしてしまい、赤く腫れあがることがあるが、特に配慮されない。クロカンでは身体的にも精神的にも激しい苦痛を伴う(後述)
・ジャージの着用は禁止。そもそも学校指定のジャージはない。冬期に寒冷じんましんが出る生徒がいるが、特に配慮されない。
・準備体操まではジャージを着用していても良い。その際のジャージは部活のジャージでも私物でもなんでもいい。
以下、補講が科せられる授業について記します。
●水泳
・ひたすら泳がされた。
・泳ぎ方は教えてくれなかった。平泳ぎは手足の動かし方が分からなくてできなかった。
・泳ぎ方を教えてほしいと教員に頼むと「他のやつを見て自分で学べ」と言われる。
・授業を欠席・見学すると放課後に補講があり、500m泳がされた。
・補講では足をついていいのはプールの端だけというルールがあった。つまり50mは足をつかずに泳がなくてはならない。
・足をつくと50m無効になった。
・まったく泳げない生徒は10m泳いでは足をつき、プールの端まで戻り、また10m泳いでは足をつき・・・を2時間繰り返し、教員から「もうお前帰っていいよ」といわれるのを待たなければならなかった。
●新体力テスト
・韮山高校は新体力テストが男女とも県1位なのを誇っており、新体力テストで記録を伸ばすためにさまざまな工夫(と不正)を行っていた。
・まず全種目のテストを行い、2ヶ月間授業と補講でトレーニングを重ねて記録を伸ばしていく方式。
・最初のテストで目標値に達しなかった種目があると補講票が渡された。
・補講票はA7くらいの紙片で、種目名と氏名欄、補講日とその日の記録を書く欄があった。
・各種目、少なくとも週1日は補講日が設定されていた。
・シャトルランなど補講対象者が多い種目は週3日などもあった。
・補講は放課後に行われた。反復横跳びなら反復横跳びを行い、記録を補講票に書いて体育課に提出した。
・記録が目標値に達していれば補講票は返却されない。もうその種目の補講に出る必要はないということ。
・記録が目標値に達していないと「再」のハンコが押されて翌日朝にHRで返却された。
・目標値に達するまでは、何回でも補講に出席し続ける必要があった。
・体育の授業での記録を補講票に書いても良いことになっていた。
・体育が苦手な生徒は複数種目で目標値未満なことが多いので、毎日補講に出る必要があった。
・補講が長引いたり、毎日のように補講に出ていると部活動への参加が遅くなってしまった。
・補講は部活動に優先したが、補講のせいで部活動に遅れると顧問から叱責された。
・シャトルランの補講に週3回出ていると疲労が溜まって記録がどんどん悪くなった。
・補講対象者が減ってくると一日で全種目を行うこともあった。疲れるし、部活に出られなくなった。
・結局、補講を終わらせるために生徒は実際の記録より高い記録を補講票に書くようになった。
・そもそもこの補講システム、生徒が自発的に記録を改ざんするのを狙っていたようだ。
・補講システムが功を奏し、韮高は十年以上連続で新体力テスト県内1位を達成している。チーム韮山の成果である。
●クロカン
・授業時間内に走りきれない人は前の授業を途中で抜けて、先に準備してスタートするよう指示があった
・全授業で、絶対に指定された距離を走らなければならない。脱落は罪。
・途中で過呼吸を起こすなどしてリタイアした人や授業時間に間に合わなかった人は教員に車で回収されるが、その際必ず罵倒された
「気持ちが足りない」「気持ちが弱い」「気持ちが表に出ている」など抽象的に罵倒された
・ぜんそくやチアノーゼを起こしている人も罵倒されていたし殴られていた。
・太っていたり脚が太い生徒は股ずれが悪化し出血することがあった。
・股ずれの出血は、はた目には急に生理が始まったようにも見える。恥ずかしさのあまりか、顔を覆って泣きながら走っている生徒がいた。
・見学した人は後日の放課後に授業と同じ距離を走るノルマがあった。
・たとえば1週間風邪を引いて授業を3回休むと5km*3=15kmが課せられる。風邪が治り次第毎日走って少しずつ返済しなくてはならない。
・クロカン本番の順位は指定校推薦と密接な関係があると聞いたことがある。
●「韮高の体育は第二の入試」
・「韮高の体育は第二の入試」という言い回しがあった。主にお互いを励ますときに使ったりした。
・「韮高の体育は高校入試並みに辛く厳しい」の意だが、体育に耐えられなくて不登校になったり、中退したりしてしまう生徒がいるのは仕方がない、という意味もある。その生徒は「第二の入試」に不合格になった、ということ。
●影響
・文化部の女子生徒を中心に、市販薬の乱用が流行した。「ロキソニンを5錠飲んでから走るとお腹が痛くならない」などのテクニックが広まっていた。
・中退率は2%台後半から3%。一応進学校なのに全国平均を大きく上回っている。
●近年の動向
内部告発って難しい。頑張って文章書いてみたが、上は動いてくれるだろうか。
逆に、改善点があれば教えてほしい。
以下全文
いつもお疲れ様です。
○○中学校のK教諭(体育科・生徒指導担当)が、20代の女性教諭Aさんに対して、セクハラ・パワハラ行為を継続的に行っています。一度だけではありません。セクハラ・パワハラなどと言うと軽く感じるかもしれませんが、暴力行為や性的暴行は立派な犯罪です。悪質な事例なので懲戒免職、減給、異動、左遷等で処罰して頂きたく思います。
勤務終了後に行われる、他の教職員を含む飲み会や、二次会のカラオケで、酒に酔っ払い、胸などの体を触る行為。
Aさんは、皆の前では平静を装って、気丈なフリをしていますが、心は深く傷ついており、精神的苦痛を感じています。
しかしながら、冗談で拒否していると思われて、不快だということが加害者に伝わっていない可能性は有ります。
目撃者は多数います。K教諭は、第三者がいる前でもセクハラ行為に及んでいます。
被害者は私の見たところAさんだけですが、他にもいる可能性が有ります。
K教諭は弱い者いじめをする最低の人間で、明らかに相手を選んでいます。気の強そうな女性にはそのような行為はしません。
立場の弱い者に対して暴力を振るう人間なので、もしかすると生徒も殴られる、執拗に体を触られるなどの被害に遭っている可能性があります。そんなことは無いと願いたいですが、調べた方が良いでしょう。
今回、あまりにもAさんが可哀想なので内部告発するに至りましたが、Aさんを異動させるなど、被害者の不利益になるようなことはしないようにくれぐれもお願い申し上げます。
Aさんは上司であるB校長にも相談しましたが、「また何かあったら教えて」と言うだけで、パワハラ行為を知りつつ何も対応してくれませんでした。もしかすると対応してくれたのかもしれませんが、K教諭のパワハラ・セクハラは止んでいません。B校長の監督責任も問うべきです。
Aさんは、被害が無くなればそれでいいと思っており、事を荒立てるつもりはありません。「私さえ我慢すれば丸く収まる…」と思って耐えてきましたが、もう我慢の限界です。できれば穏便に済ませることを希望していますが、いつまでたっても状況が改善されない場合は刑事告訴、民事告訴、損害賠償請求も視野に入れています。
12月末までに改善されない場合は、私が校門前で生徒たちに向かってこの文章を印刷したビラを撒く予定です。多感な年頃の中学生ですから、噂話で持ちきりになるでしょう。
K教諭の行為は、人としての尊厳を踏みにじる行為です。絶対に許せません。
泣き寝入りはさせません。
すぐに異動させることは難しいかもしれませんが、現在、Aさんは職員室での机の位置が近くて不安だそうなので遠くに席替えするなど、なるべく業務で関わることのないように配慮をお願いします。
以前同じ中学で勤務していた、アメリカに帰ったALTの外国人英語教諭(男性)も、セクハラの現場を目撃してAさんのことを非常に心配していました。このような行為が当たり前だと思われたら、日本の恥です。△△市の恥です。
○○中学の「いじめ防止等のための基本方針」の文書がインターネット上にありますが、この学校では、生徒同士のいじめは問題視しても、教職員同士のパワハラ・セクハラはお咎め無しなのでしょうか?
http://www………
今回の件、目撃者はたくさんいるのに、問題にもなってないません。
生徒の人権は守るのに、教職員の人権は守らなくても良いものなのでしょうか?
教職員のいじめを見て見ぬふりをし、隠蔽するような人達に、子供達のいじめが解決できるなんて思えません。
きっと、生徒同士でいじめがあっても、被害者を泣き寝入りさせ、加害者には何の罰も与えず、隠蔽するような学校なのでしょうね。
こんなセクハラ教師の勤務する学校に自分の大切な子供を預けるのは、非常に心配です。
妻子ある身で、立派な大人が、どうしてこのような卑劣な行為ができるのでしょうか。
学校だより(あじさい7月号)では「マタハラ許せん!」と女性の味方のようなフリをして息巻いておきながら、裏ではセクハラ行為でしょうか?噴飯物です。
汗水垂らして働いた市民の血税をこんなセクハラ教師の給料にするなんて、善良な△△市民として絶対に許せません。
解決方法ですが、
まずは加害者以外を「絶対に個別で」呼び出して聞き取りをした上で、最後に加害者を「個別で」呼んで問い詰める方法が良いです。
http://d.hatena.ne.jp/moriguchiakira/20090520
上記より抜粋
「1 いじめの認知は、本人、親、友人の誰からの報告であっても、
※ いじめ加害者やその親は「誰がそんなこと言った」と言いがちなので、教員側の対応を統一しておくことは極めて有効と思われます。
※ チーム対応は教員の一番苦手とするところですが、是非克服してほしいところです。」
長くなりましたが、全文読んで下さって本当にありがとうございました。
>>改善点教えてくれた方
13年くらいまえ三重県桑名西高等学校にひどい先生がいました。
体育科の先生で、保健体育の授業のとき代打で現れて、その先生がいることを知りました。
最初は普通の先生に見えて、目につくところといえば、体育科なのに妙に太っていること、いやに不機嫌な印象を受けることだけでした。しかし授業が始まると、話が脱線し、あるとき女生徒をいじめ倒した話を始めたのです。
断っておきますが、その先生が学生の時に過ちを犯したという話ではありません。その先生がすでに教師にあるときに教え子である女生徒をいじめたという話です。
その先生が語るには、その女生徒が生意気だったので無視し、周囲の人間も同じように振る舞うように促したそうです。そのいじめは女生徒が奇行を始めたのでやめてやったと恥ずかしがることもせず堂々といっていました。
元増田です。
彼もゆるゆるやってる先輩同期が許せなくて、「ダブルスコアのどこが健闘なんですか」とかいって「暑苦しいよおまえ」とか言われちゃったりしてたなあ。
でも「そこ」にいると「全員頑張る」か「全員頑張らない」かしかなくて、どっちも強制で、マイノリティはかなりきつい思いをするんだろうなあと。
「どっちもできる」のが理想なんだけど、学校の中だとそれほどリソースや選択肢は豊富ではないんだよね。特に今のぎしぎしに予算制限したい行政の下の高校では(今回の事件の高校は知らんです。でも体育科って、きっとお金かかるんだろうね。器具とかいろいろ)。
元増田です。
前の記事http://anond.hatelabo.jp/20130124080522を書いて一晩たって、またちょっと考えた。
朝日の記事をもう一回読み直してみることにする。
自殺前日学校で起きた事実に関することのみ抜粋。著作権の範囲を超えてはいるが、必要なことなので。関係者の方のクレームあったら削ります。
生徒がボールを取りにいかなかったり、パスを受ける際に相手の守備側選手を見ていなかったりするミスがあった。
「なぜ、相手を見ない」。顧問は試合中、生徒を呼び戻して、まず顔を平手でたたいた。さらに「なぜ、飛びつかない」などと、たたくたびに詰問。平手打ちは計4発ほどになった。
その後も、「やるのかやらないのか」などと質問を繰り返し、頭を6発ほど指先ではたいた。生徒は無言で耐えていたが、最後に「やります」と大声で返事し、顧問も「行け」とコートに送り出したという。
その後のタイムアウト(休憩・作戦タイム)でも、ばてて足元がふらついていた生徒に、「しっかりやれ」と3発ほど顔をたたいた。「たたかれてするのは動物。それでいいのか」と叱りつけたとされる。
生徒はさらにミスをしたとされる。顧問が再び「なぜ相手を見ないんだ」としかると、「余裕がありません」と答えた。
顧問は試合後、生徒を呼んで体育教官室に。話し合いは約1時間に及んだ。
「簡単なことを言っても、たたいても分からんようだし、どうすればいいんだ」と顧問は尋ねたという。
この日は試合以外でも、生徒が顧問の質問に口ごもる場面があった。「質問の意味がわかる者はいるか」。顧問がそう尋ねると、多くの部員が挙手した。顧問は「みんなが選んだキャプテンなんだから、教えてあげなさい」と促したという。
解散は午後7時40分ごろ。直前に部員だけのミーティングがあり、生徒が顧問とのやり取りを打ち明けたという。
「キャプテンを続けるのはつらい」
考え直した生徒は「(引き続き)キャプテンをやらせてください」。
「これからも怒ったり、たたいたりするかもしれない。それでやれるか」
「やります」
生徒はミーティングで部員に「覚悟を決めて、頑張るわ」と話した。
部員から「チームのために怒られているんやから、全員でカバーだ」「助けてやろう」と、励ましの声があがった。
帰り道。生徒は親しい部員に手を振って別れた。暗い感じはなかったという。
顧問の教師の指摘は正しい。
そして多分多くの学校でこういう指導がなされているだろう。桜宮高校を評して「犯罪空間」と言った人もいるが、これが犯罪空間なら、運動部を持っているほとんどの学校が犯罪空間だ、と感じた。
そして、チームメイトの言動も、正しい。
何で引っかかるんだろう、と、もう一回記事を読み返した。で、なぜ引っかかるかわかった。
教師も正しい。
チームメイトも正しい。
正しすぎるのだ。
正しいことしか言わない。
教師は、その時々に「なぜ」と問いかけている。
自分で考えさせるためだ。
「どうするか」とも問いかけている。
でも。
それは、はじめから答えが決まっている。
「いや」という答えは、許されていない。
別の社の記事では生徒は、なぜキャプテンをしているか、と言われ、「進学のためです」と答えたという。
そういう「立派でない」答えは許されなかった。
生徒はミーティングで部員に「覚悟を決めて、頑張るわ」と話したという。
それは、本音の言葉だっただろうか。
チームメイトも「みんなで助けていこう」と言った。
いい仲間だ。でもそこは、「おれもむかつくんだよな」とか、「間違ったこと」を言える場だったのだろうか?
*
私の先生は、いつも私たちに「スポーツマンらしく」、礼儀正しくしろと言っていた。
前にも書いたが、それは私たちが「そうしたい」と思ってやっていたわけではない。やらなければ怒られるし、それが「先生に言われた正しい振舞だから」だ。「やりたいから」やっていたわけではない。
「やる気」に関してもそうだ。
先生は、もうあらゆる機会を捉えて、私たちにやる気があるか、を試していた。ちょっとした言葉尻を捉えて、「やる気」があるかのチェックをしていた。
そこで怒られたわけではないんだけど、そこで「やる気がない自分」が表出してしまうと、今まで言ってたことは嘘じゃないかい、ってことになってしまう。
その「一貫した自分」を守るために、どんなことがあっても「やる気」がなきゃならないんだった。
だから、一挙一動を気にしていたのは私たちの方だった。この先生の問いかけは、「そう」であるか、「そう」でないか。
今でもそういうところがある。
この言説は、人間として不誠実か(と他人に思われるか)、「お前が言うな」とブーメランが飛んでこないか、「社会的に」間違ってないか。
言いたいことを言っているようだが、どこかでそれを気にしている。時々「あっこれを言ったら前の言説と矛盾する」と、消すことさえある。
若いうちの「訓練」というのは根強いもんだな、と、ため息が出てしまう。
そういうのがだんだんめんどくさくなってきたので、この頃はいやがられそうな言説でも「わざと」出すことがあるのだけど。
で。
朝日の記事を見ると、みんな「間違って」ない。
愛情と熱意にあふれた先生と、やる気と思いやりにあふれた仲間。
みんな「正しい」。
生徒だけが「間違って」いる。
正確に言うと、「正しくないことを考えちゃう生徒だけが」間違っている。
こりゃ、息が詰まるわ、と思う。
やる気に満ち溢れて、信頼によってつながれている仲間と一緒にやれば、確かに成長する。
けど、それは、「本当に思った」時だけだ。
「決められたことだから」やってるのって、本当につらい。
周りが正しいとなおつらい。
何回頑張っても「正しく」なれないのは、一番つらい。
こういうこと言うと、またマズーなのかもしれないが、今回生徒が自殺したのって、本当に体罰によるものか、自分的には疑問がある。
リンチに至るほどの暴力ならそれ自体がきついが、生徒の遺書から見えるのは「何で自分だけ」という不公平感のような気がするからだ。
個人的に体罰がきつかったのは、みんなの前でさらし者になって、「お前は間違ってる、間違ってる、速く答えを出せ」とせかされたからだ。考える時間はない。「正しい」答えは決まっている。でもそうできない。でも答えないといけない。早くしないと殴られる。
でも、わかんないのだ。
でも、「私なら」つらいのは体罰じゃなかった。「体罰によって」「正しい答えを」せかされることだった。
「これで自由に料理を作ってください」
と言われると、たいていの人が刺身を作る。
答えは、渡された時から決まっているのだ。
それは、「自分で考える」ことにならない。
「自分で考えた」ことでもない答えをせかされると、つらいのだ。
生徒と私とは違う。
体育科という特殊なところにいたこともない。
でも、高校のときの、あの「正しい自分」「やる気がある自分」を求められたつらさを思うと、この子、「正しすぎる」ところにいてつらかっただろうなあ、と感じてしまうのだ。
*
部活にいて、私はたった一つ嘘をついた。
やめる時、「親が進学のためやめろと言ってる。ケンカして抵抗しているがどうしようもない」という口実でやめたのだった。
もちろん、方便だ(親は知らない)。
引退試合前にやめることは無理だと思っていたので、ケンカして意思を通しているがやむをえない、という設定ならやめられる、と思ったのだ。先生は、「本気ならケンカしてでも意志を通せ」とよく言っていたから、「そういう設定」なら受け入れられると思ったのだ。
ちゃんと本音を話してやめる「べき」だったかなあ、と今考えるが、本音は言えなかった。
嘘をついてよろしくない行為ではあったが、多分それは、私が部活でたった一つ自分の意志を通した行為だったのだ。
人として不誠実だったし、間違ってはいたが、結果的に、私は残りの高校生活、大変大変幸せだった。
ダラダラ過ごせる自分のクラスが大好きだったし、たくさん笑ってたくさん勉強してたくさんの人と話せた。
やめてよかった、と今でも思う。
追記
現在の事件に関する考察はすべて推測であり、どなたかに責任があると指摘するものではありません。
ご友人を亡くされてつらい思いをなさっている方々について配慮が足りなかった部分がありました。
http://anond.hatelabo.jp/20130122033549
元増田です。
トラバとブクマ、ありがとう。いろいろ考えさせられて思い出すことも多かったです。
それでちょっと重要なことをいくつか書き忘れていたので、以下に補足します。
前にも増して読みづらいかもです。そして、前のエントリと印象違うかもしれないので「用心深く」読んでください。お願いします。
*
前のエントリで毎日体罰を受けていたような書き方をしてしまったが、何日かたって思い返すに、そんなに頻繁には殴られていなかった。ことに私に対してはそれほどむけられることはなかった。
私は心身ともにヘタレだったので、こいつを叩くとつぶれる、と思われていたのだろう。先生も人を見て叩いていたのだ。
バレーボールというスポーツの構造上、エースは「トスが上がったら必ず打たなければならない」宿命を担っている。
セッターはその時点のアタッカーの状態、あちらのチームのブロックの状態、ゲームの流れなどを考慮して、その時点で一番点が取れるアタッカーにトスを上げる。エースはレフトから、補助アタッカーはライト、センターから。
補助アタッカーにはクイック攻撃もあるが、エースはほとんど高いトスを打つオープン攻撃。どっかん大砲を撃つ役目だ。
ゲームの中盤くらいまではクイック攻撃なども使えるが、ラリーが続くと必ずボールはエースに上がる。
上がったら打たなければならない。どんなに疲れていても飛んで、打たなければならない。ラリーが続く限り、なん10発でも。打って、決めなければならない。それができるから「エース」なのだ。
もちろんほかのアタッカーを使うこともできるのだが、ゲームの流れで、「どうしてもエースしか通用しない場面」ってあるのだ。
だから、エースってきつい。昔は後衛に回れば休めたが、いまはバックアタックも打つから休みなし。本人が自覚しなくても、構造上チームを引っ張らなければならない。それが「エース」だ。
チーム全員で拾って拾って拾いまくって、粘って敵失を誘うというチームもあるけど、身体能力に優れた選手が一人いればやはりその選手に集中する構造になるだろうと思う。
「キャプテン」もそうだ。
ゲームで、チームの期待が集中したときにそれを受けて結果を出さなければならない。
だから、「エース」や「キャプテン」を練習でいじめぬく指導者は多い。ほかのメンバーがミスしても怒られないような場面でエースが気のないプレイをしたりするとそれはもう怒られる。「自覚」をたたき込むことが練習でのかなりのウエイトを占めているのではないかと思う。
そこにはかなりの不公平感が漂う。不公平であるのはほかの部員もよくわかっている。あるいは、自分たちのミスをかわりに怒られることもある。そんなとき、メンバーは
「ああ申し訳ない、自分たちがふがいないせいで、自分たちがミスしたせいで、エース(キャプテン)が怒られている。次は絶対にエースに負担をかけないようにしなくては」
と考える。こうやってチームのつながりは少しずつ強くなっていく。
体罰が起きていたときに、なぜほかの部員が止めに入らなかったか、といわれている。他ではわからないが、うちではこうだった。
そしてまた、体罰というのはたいていが理由がある。
記事でもあったが、「怒られるのは気のないプレイをしたとき」。理由はちゃんとあるし、その理由は常に筋が通っている。
うちのチームでは、エースがラリーで相手に拾われた、あるいはブロックで止められたときは怒られることはなかった。打ち損ねたとかタッチネットしたとかで、相手にポイントが行ってしまったときでも怒られることはなかった。
でも、苦しくてフェイントでごまかそうとしたり、ただ相手コートに入れるだけだったりするとものすごい勢いで怒られた。「そういう姑息なことをするな」と言われた。
力一杯ぶつかってだめだったらそれは仕方ない。が小手先でごまかしたり逃げたりすることに対しては非常に厳しかった。
大人になって働くようになってから、その意味はちょっと分かる。苦しい中ごまかさず、妥協せず頑張りとおす、みたいなことだった。
いい指導だった、と思う。
*
これって、どう感じられるだろうか。
ゲームでは、時に一人が重責を担わなくてはならないときがある。それに耐えるためにはどうするか。支える周りの人間はどうするか。
試合に負けたっていいのだ。大切なのはそれに立ち向かうことだ。
与えられた役割を担うこと。そして彼/彼女を信頼してサポートし、最後のボールをゆだねること。
それは悪いことではない。
だけど。
それじゃあ身体能力に優れて、夢を持って入学してきた生徒が自殺するのはなぜなんだろう。
だめな人だったんだろうか。
私の先生はいろいろとトラップを仕掛けて私たちの自主性を試していた。見捨てられても食いついてくるか。先生の意図を乗り越えて、自分の意志を通すか。
しかしヘタレであるところの私たちは、その意図を知りつつ、演技をした。自主性をもって動いているかのような演技。だから、空気を読むことは大変うまくなった。先生が望んでいるものを演じるようになった。表面は大変「スポーツマンらしく」なった。が、内面ではもう気力はつき、早くやめたいと思っていた。
今考えると、ため息が出る。
でも、これが現実だ。
もし、このとき先生が「善意」で、どこまでも私たちの演技を許さず、追及していたら
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは克己の物語を「美しい」と感じる文化の中に住んでいる。一方、頑張れ頑張れと強いられたあげく、追い詰められた末の死というものの悲惨さもよく知っている。
だからこそその双方を知る人々は口ごもる。
この矛盾は多分、誰でも持っている。そして明確に解決できていない。
だから、思う。
一人を責めても解決しない。
*
教師と生徒が一緒になったいじめを受けていたという増田もいる。
http://anond.hatelabo.jp/20130123190802
http://www.asahi.com/national/update/0124/OSK201301230152.html
生徒はミーティングで部員に「覚悟を決めて、頑張るわ」と話した。 部員から「チームのために怒られているんやから、全員でカバーだ」「助けてやろう」と、励ましの声があがった
いい、チームではないだろうか。
「いいチーム」なのになぜ死んだのか。
「いい人」だからだ。
本気で生徒を伸ばしてあげたいと思い、「本気で」体罰が彼らをよくすると思い込んでいるからだ。困難を克服することが、彼らにどうしても必要だと思っているからだ。
体罰を「誰かをスケープゴートのようにして恐怖の支配をする」という記者もいる。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130118k0000e070251000c.html
私はこれに強い違和感を覚える。
「いい人」だから、善意にあふれているから、何回注意しても体罰を繰り返すのだ。自分のことではなく、相手のことしか考えていないからだ。相手がよくなればそれでいい、と考えているからだ。それがチームの結束を強め、自分で考える力、自分で解決する力をつけると思っているからだ。実際は、そうじゃないのに。
ここが理解されない限り、世間は「体罰いけない」と「現場では体罰あっても仕方ない。頑張れば克服できるはず」のダブルスタンダードを繰り返す。
体罰が法律で禁じられていることは、建前だと思っている。生徒にわからせるには体罰が一番通じると思っている。だから、殴る。善意で。
だから、異常者を切っても解決しない。桜宮高校だけではない。日本全国に法律違反をしてでも生徒を指導しようという「熱くて」「いい先生」はいるのだから。
「いい先生」と、「いいチーム」。
生徒は、「部員の信頼を失うので『キャプテンを辞めたい』とは言い出せない」と言っていたそうだ。
http://mainichi.jp/feature/news/20130110ddm041040111000c.html
信頼を裏切ることは、ときに侮られるよりつらいことだ。
教師もきつそうだと、キャプテンを辞めさせようかと何回か提案していたが、そのたびに「やります」というやり取りを繰り返していたらしい。
折れそうなところを起き上がって、また折れて、起き上がって。
生徒が弱かったのではない。
休まなければならなかっただけだ。
全員部活参加の体育科で、進路に非常に重要な影響を持つ部活動、そして迫っている新人戦。練習試合のたびの詰問、体罰。
「体罰は、やらない方がいい」という結論は同じなのだけど、それは誰かに責任を覆いかぶせるとか、ましてや一つの学校を潰してすむことではないと思う。
徐々に問題が整理されて、一面的でない見方も増えてきている。
でも、増えて行くに従って違和感を覚える。
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20130122/1358872297
興味のないことを「知らんがな」と言い、理由を「3つでしかない」と限定する。
(勿論この記事を否定したいからじゃない。前段を書いてある分、誠実だ。)
全てが理由になり得るし、最も支配的な理由が、最も効果的な対策に繋がるとは限らない。
体罰とは何なのか、分類によって見ていきたい。
まず、体罰は許されるのか、だ。
効果があるかは議論の余地があり、根絶は出来ない無いが、対策は打てるだろう。
順に見ていこう。
昭和23年、法務庁(現在の法務省)は「児童懲戒権の限界について」として以下の定義を出している。
一 学校教育法第一一条にいう「体罰」とは、懲戒の内容が身体的性質のものである場合を意味する。すなわち
(1) 身体に対する侵害を内容とする懲戒-なぐる・けるの類-がこれに該当することはいうまでもないが、さらに
(2) 被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒もまたこれに該当する。たとえば端坐・直立等、特定の姿勢を長時間にわたつて保持させるというような懲戒は体罰の一種と解せられなければならない。
懲戒とは職務上の懲罰なので、例えば退学や訓告(所謂お説教)、謹慎(居残りの自習など)などは懲戒処分とされうる。(※1前述の通牒には、遅刻した生徒に対して「廊下に立ってろ!」と授業を受けさせないことは、懲戒ではなく許されない等、かなり具体的な質疑形式で書いてある。(2)に関して、機械的に判定できないとするなど、現実的でもある)
これには、議論の余地がある。
文部科学省の「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」の別紙に、
「児童生徒に対する有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒は、その一切が体罰として許されないというものではなく」とあり、裁判例を引いている。
つまり、一度出された定義であっても、状況(荒れた状況下での、腕力による鎮圧など)によって解釈が変わりうる。
学校教育法第十一条に、「懲戒は良いが体罰はダメ」と書いてある。
罰則はないが、法律である。法治国家では、法を守るのは社会の前提になる。
しかしこれは、「なぜダメなのか」「どうして体罰が許されないのか」には触れていない。
これは、「特に注意しておかないと、蔓延するから」という過去の経緯を踏まえてのものだろう。
学校教育法では、1〜7条が学校を定義し、8〜10条で校長と教師を定義する。
その次が11条の体罰の禁止だ。(その次に、12条の健康診断となる)
「公務員等が情報収集等のために身体的、精神的な重い苦痛を故意に与える行為」を禁止している。
これも特に禁止している例だろう。
通常これらは、刑法208条の暴行罪、刑法204条の傷害罪でカバーされうるからだ。
これに、刑法第222条脅迫罪を加えれば、体罰の禁止も拷問の禁止も敢えて謳わなくても良い。
「次の試合で勝たなければ、お前を竹刀で殴る」と言えば脅迫罪で、
負けたので殴った場合、怪我をしなければ暴行罪で、結果怪我すれば傷害罪だ。(※2「法令による行為または正当業務行為」は、「違法性阻却事由(法律違反ではないとみなされる)」となるので、それを封じていると見ることも出来る)
だから、日本が法治国家であるとするなら、学校教育法の言う「体罰」は特に禁止されているし、犯罪でもある。
これには議論の余地がない。
体罰が効果的なのかどうかは、探した限りでは決定的なものはなかった。
家庭での躾の一環としての体罰は、効果的(収入、学歴、犯罪歴)であるという報告もあれば、逆の報告もある。
大いに議論の余地があるだろう。
(一番誤解を招きそうな項目であるためここに書いておくが、議論の余地がある事と、現実の功罪は別である。また、効果が大きいと言って許されるとは限らない。本質的な議論だからと言って対策に繋がるとは限らないし、表層的であっても結果的に問題が解決することもありうる。)
これは、(定義を変更しないのであれば)根絶できないだろう。
これは、種痘によって自然界の天然痘ウイルスが感染をほぼ確実に防げたからだ。(※3もちろんWHOの多大な努力の結果である)
暴行も傷害も未だ根絶する手段すら見つかっていない。
ただし、程度問題ではある為、議論の余地はある。
例えば傷害事件は平成12年に急増したが、平成15年を境に低下を続けている。
把握し、対策を打ち、低下させる手段は議論できる。
ただし、低下はしても無くならないという前提を置いての議論になるだろう。
これを、傷害、暴行、体罰、懲戒に分類して考えることが出来る。
個人的には、体罰と傷害だと考えているが、議論の余地はあるだろう。(※4ここでは、懲戒として暴力をふるうことを体罰と呼んでいる。体罰は当然暴行若しくは傷害である。「体罰」の定義が厳密ではないため、体罰ではない単なる懲戒若しくは「有形力(目に見える物理的な力)の行使により行われた懲戒」を、体罰と呼んでいる事がある。)
ただし、この論点が問題になるのは、「体罰は許される/体罰はやむをえない(法に不備がある)」という前提を置いたときか、実際に刑法・民法で裁判になったときぐらいであろう。
一般論ともなり得るが、具体的に大阪市立桜宮高校の場合としてみていこう。
亡くなった生徒や入学希望者に責任は無く、顧問には責任がある。
教職員や在校生、卒業生の責任は、その度合いには議論の余地があるだろう。
こうすれば良かった、こうしていれば自殺しなくても済んだ等の話は、あくまでも対処の話であって、責任論にはならない。
これには議論の余地がない。
その指導法が効果的であった、効率的であったという話は、効果の話であって、責任論にはならない。
これには議論の余地がない。
彼らは(別の生徒に対して直接の体罰を行っていない限り)直接的な責任は無いだろう。
その為、議論の余地があるだろう。
例えば「実際の体罰の現場を目撃した」「体罰をしていると聞いていた」「体罰があると、(直接は知らずとも)告発を受けていた」など、状況によって責任の度合いが異なるだろう。
これには職務上の責務(校長など)、教育者としての責務(体育科の教員、普通科の教員など)、社会人としての責務(職員など)と、それぞれにおいて違う。
個人的には、体罰について知っていたであろう体育科の教員と、生徒の傷を見たとは限らない養護教諭とでは、責任が異なると思う。
ただし、少なくともバスケットボール部の生徒は、他人が体罰を受けているのを目撃している。
その為、議論の余地があるだろう。
個人的には、成人でありかつ教育者である教員の責任とは異なり、例え知っていたとしても生徒に責任は無いと思う。
通報すべき、相談すべき等の話は、善意の行為であって、義務では無いと思う。
また、保護者はより間接的な関わりになるため、その影響力と責任は、限定的だと思う。
さらに、「体罰は効果的だった」「顧問は善意から行っていた」などの言説は、その発言に対する責任は生じたとしても、体罰などを受けた結果、その様に教育された被害者ではないかと思う。
(ただし、責任がないから一切の制限が加えられるべきではない、という事ではない)
彼らは、当然、責任は無いだろう。
これには議論の余地がない。
個人的には、体罰が発覚した後に入学を望んだとしても、体罰を受けて良いと言うことにはならないと思う。
(例えば、メジャーリーガーになるべく渡米した人が銃による犯罪に巻き込まれたとして、アメリカの銃犯罪の多さをもって、彼が愚かだとは言えないだろう)
長くなってしまった為、別日に改めたい。
例えば、学校教育法の第四条は、「市町村の設置する高等学校」の「学校の設置廃止」は、「都道府県の教育委員会」が行うものとされている。
そして、同法第十三条には、「法令の規定に故意に違反したとき」には、「それぞれ同項各号に定める者は、当該学校の閉鎖を命ずることができる。」とある。
体罰を故意に行った今回のケースは、大阪府教育委員会が学校の閉鎖を命ずることもできる。
責任がなければ制限を受けるべきではないのか、責任が無くても制限を受けることがありうるのか、
対策の結果、制限が起こることが許容されうるのか、現状に影響を与えない制限を行うべきなのか、
懲罰的な対策なのか、状況を変えるために行った結果懲罰に見えるのか、
いろいろな論点があり得るだろう。
体罰とは何かに関しては、その定義から責任まで整理できたと思う。
特別な場合を除いて、ソースに対してのリンクは敢えて張らなかった。それぞれが調べて欲しい。
どう報道されているか、誰が何を考えているかの切っ掛けにして欲しい。
例えば冒頭に引いたブログポストは、体罰に関しては踏み込まず、この事件が起こる構造について論じているのが判るだろう。
生徒が逃げられないのは、体育科の部活動の他に選択肢がないからであり、教職員が体罰に走るのは失う報酬が少なく、また体罰を報酬とするからであり、また効果的な対策がほとんど無いからである。これは、言ってみれば体罰を積極的に行おうとする教職員が部活動の顧問になる制度設計になっているという指摘でもある。
先の例でも判るとおり、体罰の対策を議論する場合には、体罰がなぜ生じているのかを整理する必要があるし、対策が結果的に罰に見える(例えば、バスケットボール部の顧問が懲戒解雇になった場合、バスケットボール部の現役部員は指導の機会を奪われる。彼らは被害者であるにもかかわらず、さらに罰を与えられている、という言い方も可能である)場合には、功罪を論じる必要がある。
このまとめでは論点整理にしか役に立たず、対策を論じるには不十分である点は、申し訳ないと思っている。
「なぜ今、議論しなければならないか」への返答として、大津市教育委員会のWebサイトを提示して、結びとしたい。
http://www.city.otsu.shiga.jp/www/genre/0000000000000/1000000000625/index.html
今回の一件に関して、橋下徹がやりすぎだとはぜんぜん思わないのですよ。
だってね、人が死んでるんですよ。
学校でですよ?
そりゃ、ワタミで出したってダメですけどね、学校で人を殺すのは絶対ダメです。
あそこであれを出したらもう終わりっていうやつがあると思います。
ワタミで自殺者が出たからって営業停止とかは、どうかなって思うんですけど、ワタミで集団食中毒を出したら、そりゃ店閉めないとって思います。
そういうのと同じだと思うんですよ。
他の生徒にはとばっちりだとか、政治が教育に口を出すべきじゃないとか、入試を取り仕切るのは市長じゃなくて教育委員会だとか言われたりしてるけど、学校で人が死ぬということは、そういうことだと思うんです。
どんなにバスケが好きだと言われても、
「それでもあの高校に通わせるわけにはいかない」
と答える。
自分にはバスケしかないとか、今が人生で一番輝いてるとか言われたら、
「そんなことはない。あなたの人生は、今だけじゃなくてこれからもずっと、輝かせないといけない。」
と答える。
在校生だって、後輩が入ってこないくらいでああいうのはどうかと思う。
後輩が入ってこようがこまいが、自分で選んだ高校でしょ。
部としては、層が薄くなるのは困るけど、それはそれ。
繰り返すけど、学校で自殺者、学校で体罰、それはとても重大なことだと思う。
人気取りだとか、連帯責任だとか言われてるけど、学校で自殺者というのはそういうレベルの大事件だと思う。
というより、そういうことにしないといけないと思う。
残念だとか、遺憾だとか、申し訳ないなんて言葉で済まそうってほうがおかしい。
人が亡くなった、というか殺したんでしょ?
人を殺した教育システムは、他にどんないいところがあったとしても、廃するべきだ。
伝統の重みなんか、人の命の重みに比べれば紙ペラよりも軽いよ。
その伝統とやらも、人を殺した教育システムの一部として、未来永劫糾弾されるべき。
教師は全員異勤すべきだと思うし、体育科どころか普通科の入試もやめさせるべきだと思う。
私は絶対に許さない。
私は絶対に絶対に許さない。
桜宮高校で体罰による自殺事件があった。その影響で体育科を普通科に切り替えて入試を実施するらしい。
個人的には、こうした事件による入試の中止は妥当な判断だったと考えている。
自殺事件があったとなれば、それは組織として欠陥があったということだろう。
無論「最近の軟弱な若者が云々」という声もあろうが、今回の件は明確に”教育ではなく加害”と判明しつつあるので無視する。
(そもそも、そんなに体罰教師が素晴らしいと思うなら「是非我が社で雇用しましょう!」と上司にでも掛け合えよ。)
そうした欠陥のある組織に対し、その欠陥を見直すことなく人員充填を認めるべきではないだろう。
(落盤事故のあったトンネルに、十分な調査や補強措置を行わず片付けだけして再開通するようなものだろ。中国か。)
亡くなったものは仕方がない、どんなに悼んでも戻ってこない。それより今年の受験生が大切だ、彼らには今年しかチャンスはないのだから。
いやいや言いたいことは分かるよ、でもそれを認めたら社会じゃない。一歩先の損得で判断するような話じゃないだろ。
(「この度」「たまたま体罰があり」「たまたま被害生徒が自殺しちゃった」「てへぺろ」ってお話じゃないのよ。)
別に「命は何よりも大切!」って言いたいわけじゃない。こういう事件が起こる環境があり、そうした環境が改善されることなく継続する。
一番言いたいことは、この社会は「そうした環境が改善されないほうが得」なんだよね、ってこと。
「改善しない方が得」「見て見ぬふりをしたほうが得」「状況を良くするなんて無駄」「このままでいい」っていう考え方。
これを単なる”モラルハザード”とか”日本人は西洋人に比べて云々”という社会論文化論打ちたいんじゃなくて、
本当に「何もしないほうが(経済的に)お得なシステムになってる」と思うんです。今回の高校の騒ぎなんか見てるとホントそう。
で、話は飛ぶけれどタイトルにある、”過労死は就活サイトも責任をとるべき”って話なんです。
ワタミなぞが過労死で新入社員を殺す事件がちょくちょくありますね。こういう事件があるたびに思うんです。
「この亡くなった社員を企業に仲介した人材サービス企業は、一体どう思っているのだろう?」
確証があるわけじゃあございませんが、ここ数年で就職した青年たちはたいていリクナビ・マイナビ・エンジャパンあたりの
就活サービスを利用して就職をしているのだと思う。そして過労死した方もこうしたサービスから就職したのではないか。
で、過労死事件が起こったあとに、被害者を仲介したサービスは、また同じ企業に人材を送り込むのだろうか?
なぜなら、加害企業に人材仲介するのをやめても利益にならないから。むしろサービス介して就職した人数で利益取ってるはず
だから、仲介やめたら利益が減る。今回の高校の件とちょっと似てるでしょ?「死んだものは仕方ない」「変わらないほうが得」。
異常ですよこの状況。
「過労死は就活サイトも責任をとるべきとか言っているが、就活サイトはただの情報提供サイトで、良い企業を選んだり
あるいは過労死しないような屈強な学生を選ぶことはできない。就活サイトに責任を負わせても、負担がかかるのは学生だ。」
仰るとおり、現状の就活サイトは「良い企業と良い学生を選んで登録し、マッチングする」サービスではない。
有象無象の企業と学生が、個々別々にアクセスしあうより、情報を一箇所に集めたほうが効率が良い、というあくまで機能的なものだ。
例えるならば生鮮青果でいう卸売市場、金融でいう株式とか外貨市場。
じゃあ就活サイトはこうした問題に知らぬ存ぜぬでいいのか?って言うとそうは思わない。
なぜなら上記の例えのように、就活サイトは”市場”だからだ。多数の売り手(学生)と買い手(企業)が集まるマーケットだ。
マーケットにはルールが必要だ。ルールを守らないものはマーケットに参加してはいけない。そうしないと「市場は失敗する」。
就活サイトは新卒市場のマーケット管理者であり、ルールの適正な運用に対して責任を持たなければならない。
過労死事件を起こしながら改善が行われない企業は、新卒労働市場から排除されるべきだ。
そうした”新卒採用が滞る”という明確な罰則があれば、過労死のような事件は減る。もちろん就活サイト側にも、問題を起こした
企業を市場から排除するためのインセンティブが必要だろう。こうなって初めて不正が起こりづらいシステムができるのではないか。
ルールを守る守らぬというと、何となく”道徳”とか”コンプライアンス”とか正義感の問題だと思われがちだが、ここに至っては
完全にシステム、経済の問題だ。心情の問題ではなく市場の問題。欠陥を見過ごすことが社会にとって損だ!という明白な事実を
合理的に遂行するべきだ。それを「今年の受験生が」という目先の損得で揺れ動くような社会ではイカンと思うのです。
(もちろん救済措置は要るのだろうけれど)
実質 体育科は無くなってないじゃん。
大阪の桜宮高校バスケ部員の自殺で発覚した体罰問題。橋下市長が根本的な改革を図るために今年度の体育科の入試を中止にさせた。入試を中止にしなければ予算をつけない、とお金を盾に教育委員会や生徒たちに迫る姿は何かを思い起こす。
拉致問題や核開発問題にからめて、朝鮮学校が反社会的な教育をしているという理由で、高校無償化の適用外になり、大阪では補助金不支給となった。
桜宮高校の生徒は、自分たちの現在の立場が、朝鮮学校の生徒と同じと考えるといい。
体罰した顧問を擁護したり、体罰をあるものとして黙認してきた今の桜宮高校の生徒たちは、朝鮮学校で金正日の肖像画に向かって「偉大なる将軍様」と無批判に挨拶している朝鮮人生徒と同じだ。
在日朝鮮人が拉致問題を教えられないまま朝鮮学校で北朝鮮の洗脳教育を受けているのと一緒で、桜宮高校の生徒も、そこで行われてきた体育会系の指導により体罰必須の頭に洗脳された状態にあるのだ。朝鮮学校が日本社会から批判されているように、当然桜宮高校も批判される。なぜなら反社会的な卒業生を毎年送り出す反社会的機関になってしまっていたからだ。
教育評論家の尾木直樹先生が「顧問を擁護する生徒は人格がゆがんでいる」と言っているように、現在の桜宮高校を卒業した生徒は皆、体罰容認という反社会的な感覚に洗脳されていて人格がゆがんでしまっている。そうした洗脳状態にある卒業生たちは、人に教える立場にたったとき体罰を繰り返すようになり、再び今回のような自殺事件を引き起こすはめになるのだ。
こういう悪い教育の再生産を止めるためには、朝鮮学校と同じく予算行使を盾に取り兵糧攻めにして自らの誤りを正してもらうしかない。今回の入試停止の決定はその第一歩だ。在日朝鮮人問題と同じように、日本に根深く蔓延り悪しき慣例を続けている体育会系脳筋人間を一掃するために、今後もこういう抜本的な改革をしていかなければいけない。
「先輩たちとともに、体育科・スポーツ健康科学科・普通科で桜宮高校を取り戻したいです。変わるため、変えるためのチャンスを私たち受験生にください」
色々な考え方はある。だが、自殺してしまった人間にはもはや、チャンスを与えることが出来ない。
自殺者を出すということは、そういう事だ。
これが10年前ならまだ話は違う。自殺傾向やノイローゼというものがわかっていなかった。
しかし、現在では、一定以上に追い詰めると、自殺者が出る。確率論で自殺者が出る。ということはわかっている。
自殺者が出ても、嘆願すればなんとかなるでは、イジメ(体罰等々)は止まらない。
変えるためのチャンスを与えることはできるだろうが、 桜宮高校 ではなく。
日本全土のイジメを止めるために、ではどうしたらいいか?という事を考えてほしい。
いじめが起きても、喉元過ぎれば熱さを忘れるでは、イジメが無くならないのではないか?という質問に何とか答えてほしい。
言いたいことはよく分かる。良くわかるけど。
重い処分を与えなければ、イジメが無くならないのであれば、重い処分を与えざるを得なくなる。
いじめで自殺はこれが初めてじゃない。 もう1年ももっと前から、大きな話題になっている。
それで、なぜ止まらない?
喉元過ぎれば熱さを忘れるとはいうけれど、喉元過ぎていないじゃないか。熱いさなかでまだ起きる。おかしいだろう?
だが、もう、これだけイジメが大きな話題になっているのに、 どうして、止まらず、こんな問題が起きたのか?
そこが最も 今言われていることではないだろうか?
なぜ、1年前の 数カ月前の事件で、 わが校にもイジメがと 見直されなかったのか?
イジメが見直されていれば、 先生によるイジメ=体罰だって見つかって当然だろう?
今、指摘されているのは、そこなんだ。
男性エロにはネタ要素を求めずにはいられない。みんなも、もう1冊の方は見なかったことにしたいんだろ?
わあい月見荘のあかり あかり月見荘のあかり大好き。あかりちゃんの曇り無きハッピースマイルを見るたびに湧き上がるバッドエナジーがクセになる。
ドバト先生の描くロリの健気さっていいですよね。ゴージャス宝田にいじられるドバト先生萌え。
2012年のトンデモ枠。圧倒的な触手描写と、手の込んだギャグ設定が楽しいです。
前作「ピンクトラッシュ」からシリーズ続いたねー。メンズヤングは休刊したけど、けろりん先生の人気はむしろ高まってきてるかな。
話題を巻き起こした表題作。続く裁判傍聴はちょっと露悪的過ぎたかも。
シスケ先生のエロ漫画モチベーションの高さには惚れ惚れします。
ドライブ感溢れる鬼畜展開がナイスでした。青年誌の方も段々ノってきた感じ。
紙魚丸ワールドが単行本にまとまって良かったです。しかし蕾秘(ライヒ)って誌名、格好良すぎませんか?
10.駄菓子 「純潔の終わる日々…」
光源フェチが表紙に現れてないの惜しい。乳首ガチガチなの、イイよね。
BL創作同人で注目され、2010年にはふゅーじょんぷろだくとから「ミ・ディアブロ」が刊行された梶本レイカの代表作長編が、2012年遂に単行本にまとまった。グロテスクでショッキングな展開と尖りにとがった描写は、鬼畜BLという枠組みを超えた強度と鮮烈さを持って読む人に叫びかける。サブカルコミックが鳴りを潜め、マンガ表現のホットトピックはもっぱら萌え4コマという昨今にあって、BLジャンルが表現の極北を担っているというのは決して言い過ぎでは無いだろう。ウェブ掲載分の収録は2巻で終わり、現在は新規ストーリーがふゅーじょんのオリジナルBL誌「comic Be」で掲載中。山奥の男子校で繰り広げられる暴力と退廃に満ちた肉体関係は、新たな広がりを見せている。
市川けい 「スロースターター」
高校野球部・キャッチャーの攻・エアリーヘアの受。大きく振りかぶりそうな2人の出会いは、通学の車内だった。互いの学校生活の話で盛り上がり、ふと会えない日が出来ると少し寂しくなり……。友情からのBLというのは、自分の気持ちに戸惑い、相手との距離感を測りかねながら縮めていくのが王道だ。「通学/通勤電車でいつも一緒になる」という巡り合わせは、こうしたストーリー運び非常に相性の良い舞台装置で、天丼設定とまでは言わないがそう珍しくはない。市川けいが出色なのは、それを踏まえた上でガラ空きの電車内におけるあの間延びした空気感を、コマの間合いで巧みに表現していることだ。モノローグの入れ方、固定ショット・コマでの人物の動きなどの「間」を取るセンスが独特で、意図的に停滞させられたテンポは、2人の進展のじれったさと絶妙にマッチしている。反面、肝心のプロットは2人が結ばれるまでダレることはない。各話の山場の見せ方も上手く、特にキスシーンの甘酸っぱさたるや爆発甚だしいリア充になっている。内容的にも若く爽やかな仕上がりが心地よい。とてもしかしそのキスシーンが駅構内のトイレってのがまた何とも……電車好きすぎじゃなかろか。
夏糖 「花咲き道理」
「その人の持つオーラが花や泡の形で見える」不思議な力を持つ主人公と、彼が属する劇団を舞台にした群像劇。能力設定、といっても物語中でそれが意味を持つシーンはごく数箇所で、主眼は公演に向けて活動する劇団の人間模様にある。劇団員各々の交流の中で主人公の取る立場は概して淡白なのだが、それは画面の中にこっそりと映りこむオーラの花と同じように、作品に安らいだ雰囲気を与えてくれている。ラストで主人公が心情を吐露するシーンも、劇団の居心地の良さが読み手に伝わってくるような、素朴な優しさが感じられる。抑制の効いたストーリーで、主人公の存在に癒される話。
掲載された茜新社のBL誌「OPERA」はキレの良い新人をいくつも擁するが、単行本まで結実する作家はそう多くない。群像もの、しかも演劇というメタストーリーが絡む複雑な設定で1年以上に亘って手がけた事実は、それだけの力量を物語っている。現在はリブレ出版の「Citron」でも執筆しており、今後の作品にも期待したい。
磯野フナ 「委員長のおもちゃ性教育」
真面目な文章ばっか疲れんだよ! いいよねーこういうアホ丸出しの単行本タイトルって。ジュネットのピアス・JUNEって最近は描写の濃い萌エロBLの名産地だけど、磯野せんせーはたいへんイキがよろしい。コナかけられて顔を赤らめるとこ、イジられて涙を滲ませるとこ、ブッこまれて表情を蕩かすとこ、マジでエロ可愛いぜ。目の描き方を中心に絵柄もアニメ系っつーかまあ女性同人独特なんだけど、デフォルメもメリハリ利いてるし、描き慣れた感ある一方で性交シーンも手を抜いてないのがアツいね。あと女の子が可愛い(超重要)。BL作家の女体描写って成年マンガ家(男性向け)の男体描写よりレベル高い気がするんだけど、そんなことないですかね。偏見かね。コミックJUNEは休刊してしまったが、新人の弾数は色々あるので何とか次につなげて欲しいもんです。
良くも悪くも、創作同人臭の強い作風なんだけど、いいと思います。そういうの好きなんで……。くっつかずに悲恋でおしまい、とか、何となく悩みを打ち明けて心を楽にしてEND、だとか、そういうのは、商業誌だとあまり喜ばれないと思うけど、新人らしくて贔屓したい。描線にも不安な雰囲気が出てて、作風とはよく合ってます。
ここでは基本的に新人を紹介しているが、2012年の新人を一人挙げるなら、名取いさとを選びたい。心交社の「moca」とリブレ出版の「Citron」の掛け持ち連載で、同時期に単行本を刊行。それぞれほんわか友情モノと少し鬼畜な暗い雰囲気に仕上がっていて、ストーリーの幅広さがグッド。髪の毛1本1本まで行き届いた丁寧な作画も新人離れしており、「日陰蝶」では剣道着を着けての試合・会話シーンを(第1話で)こなすなど、作画に対する気合が窺える。無理のない人体描写と細やかな表情の描き分け、作者の萌えを垣間見せるキャラクター造形も多様と、BLマンガ家としての天分アリアリ。難を付けるなら、タフな仕事量にも関わらず安定した絵柄で既に初々しさを脱却していることか。女性キャラも可愛い(超重要)し、くたびれたオヤジから涙ぐむショタまで愛のある描写が光る。今後は一般女性/青年誌まで活躍の舞台が見込めるモンスター新人だ。
“君の鍵穴は私の鍵で開かれる!!”っつー単行本帯のアオリでちょっと話題になったよねコレ。まあピアスは単行本に限らず誌面でもアオリ文が横行してて、編集がいちいちナイスフレーズ捻り出してるわけだし、ちゃんと反応するのはいいことだよね。「股間もテントもピンコ張り!!全裸で楽しむ夏休み河原キャンプ」とか、綴込みの見開きイラストもイカしてるんだわこれが。しかし東条せんせーの手がけるショタはサイコーだな。桃尻のラインが犯罪過ぎる。超絶画力だからトンデモBL変態ファンタジーも安心して楽しめるんだよなー。貞操帯&お漏らしやら目隠しオナホプレイやら猫耳コスプレの尻尾アナルin(前作)やら、マガジン・マガジンって出版社は心得てるわ。この人って美少女絵も絶品だから(超重要)、Keyのゲームのコミカライズも好評連載中なんだぜ。まさに鍵穴ってやかましいわwww
葉月つや子 「白衣にひそむ熱情」
眼光も険しいサツバツな絵柄に慣れれば、有無を言わさぬ攻の気迫はBLでも稀有なストロングスタイル。葉月つや子といえば知る人ぞ知るレディコミの女王である。近年の主な活動場所はぶんか社の「まんがグリム童話」だが、レディコミ仕込のスピーディでパワフルな作劇はBLでも健在だ。怒気漲らせる攻が駆動する物語は、受を存分に振り回し、しかし最終的には見事に鞘に収まる。各読みきりの短い尺の中で怒涛のダイナミズムを見せ、その上できっちりハッピーエンドに収めるこのカタルシスはワザマエと言うほか無い。長いキャリアを持つ作家の2年ぶりとなるBL単行本は、そのいぶし銀の魅力を堪能できる一冊だ。いつもならヤクザや貸金のダークスーツ姿が映えるところだが、本作では医者の白衣が前面に出ており、少しだけ和らいだ雰囲気になっている。
トワ 「秘密にスキャンダル」
人気タレントである幼馴染との秘密の関係を描いた、作者の初単行本。BLのお約束というか、こうした立場関係では有名人側が惚れている構図が基本であり、本作もその例に漏れない。回想の幼年時代から現在は大学生としてのキャンパスライフ、進展後はサラリーマンとなった主人公との恋仲まで、柔らかなタッチによる登場人物たちは皆親しみやすく、ほのぼのとした作品だ。タイトル通りのスキャンダル疑惑や、ライバル芸能人の横槍といった筋書きも大体鉄板だが、本作は脇役がどれもキャラが立っており、悩める主人公とのやり取りに説得力がある。そのため個々のエピソードに感情移入が出来て、自然に楽しめる、という好例になっている。スピンオフによる余りものカップル救済というお決まりの続編展開も、キャラの読者人気を裏付けるものだろう。可愛い女子も沢山出てくるが(超重要)、特に主人公の妹の鈴ちゃんがイイ。鈴ちゃんヒロインにした少女マンガが読みたい。
作画:如月マナミ,原作:渡海奈穂 「純潔ドロップ 青坂高校シリーズ」
「純潔ドロップ」は、とある高校を舞台とした原作を、2人のマンガ家が作画した双子作品の片割れである。体育科の完璧スポーツマンのモテ男と、普通科の文化部長である残念イケメンの確執から始まる学園BL。如月マナミの描くキャラクターは端正な顔立ちながら表情豊かで、特に赤面して眉を歪める描写が秀逸だ。文化部長が強気の体育会系に不意打ちする、逆転の構図もしくはギャップ萌えをメインに扱っている。その場の勢いやら体育会系特有の頑固さ(偏見)に流されて、つい一線を踏み越えてしまう運びは原作の鮮やかな手腕。双方負けず嫌いな性格がコミカルで、背伸びし過ぎな攻とオラオラ一転甘えたな受が微笑ましい。舞台である高校は共学で、2人の取り巻きには制服姿の可愛いJK(超重要)も色々出てくる。彼女達が当て馬やモブ扱いではなく、ちゃんと個性を持って物語に関わるのも好感度高い。
ちなみに、ここに挙げた他作品の掲載誌にリブレ出版の「Citron」、茜新社の「OPERA」、心交社の「moca」があるように、最近のBLジャンルは各社でオリジナルアンソロジー誌が創刊されており、新人のデビュー・活躍舞台もそちらが多数になっている。本作「純潔ドロップ」の発行元であるプランタン出版はその波に乗っている出版社だ。掲載誌「Canna」は創刊3年に満たないが2012年には500ページ超えという、BL誌全体の中でも上位のボリュームに到達した。価格や発売サイクルの違いもあるし、何より雑誌の厚さと発行の安定性は別物だから単純比較は出来ないが、見過ごせない存在感であることは間違いない。