はてなキーワード: テッドとは
当たり前だけど全て主観です。
戦後から現代に至る女性向けのハイファッションのベースを作ったと言っても過言ではないと思う。
ココ・シャネル以降、ハイファッションが多様化しドレス服に限らない仕事や遊びにも使える自由でモダンな服が広がっていった。
彼女がいなかったらモードの世界も欧州に閉じたローカルで予定調和な文化に留まっていたかもしれない。
シャネルのショーウィンドウ見るたびに思うけど分かりやすい流行を取り入れようとしない。
一見するとコンサバに見えるんだけど一方でちゃんと新しさを感じる。
ハイファッションというか上流階級のファッション。ドレスの再定義をした人かな。
実際現役時代の写真を見ると素材使いと仕立てのバランスがめちゃくちゃいい。男目線でもドレスの膨らみと丈のバランスとか神がかったセンスだと思う。
と思ったがサンローランがデザインしてた時代かもしれん。古すぎてよく分からん。
のちにエディ・スリマンのディオール・オムで再ブレイクしたのはもう別物と思ったほうがいい。
あれは元のクリスチャン・ディオールとはほとんど連続するものがない。
80年代から90年代にいたるモード不毛の時代に数々のレガシーブランドを若返らせることに成功したらしいがあんまり知らない。
初代デザイナー引退後にブランドを畳まず再構築するために外部からデザイナーを雇うことは今では当たり前だがこの人がそのテンプレートを作ったんだと思う。
彼がいなかったら業界全体がオワコンになり昨今のラグジュアリーブランド全盛時代(最近中国の不況でまた陰ってきてるみたいけど)はなかったかもしれない。
素っ気ない服でも素材や仕立てによってラグジュアリー足りうることを示した。
「アンコン(ストラクテッド)ジャケット」といって肩パッドが入ってないジャケットを作ったのもこの人。
一度ジャケットを試着したことがあるが軽くて仕立てがきれいで買おうかと思ったけど想像の2倍近い値段で諦めた。
ボロファッション、左右非対称、切り替え、脱色、縮絨、製品染め、ジェンダーレスなどあらゆる手法を使って既存のファッションを脱構築してきた。
パリコレデビューから40年以上経つのに未だ健在。コムデギャルソンのフォロワーも出身デザイナーも多い。
一時期ハマったがジェンダーレス風味が強くなってきて手を出さなくなった。
ハイファッション史上ということでアントワープ勢から一人は選ばないといけないんだけど自分はマルタン・マルジェラでもラフ・シモンズでもなくドリス・ヴァン・ノッテン。
革新性という意味では他の5人と比べると穏やかで分かりにくいが、彼も伝統服やワークウェアの様式を持ち込んでハイファッションとして昇華するという重要な役割を担ってきた。
少しひねりがあるがいわゆる「着れる服」でハイファッションのリアルクローズ化を進めた。
グッチの起用で大ブレイク。80年代完全に死んでいたグッチを蘇らせた。
本人の見た目通り男性向けにはマッチョな服、女性向けにはセクシーな服で現在のジェンダーレスな世界とは一線を画すが、ハイファッションらしく仕立てがよく品が漂うのはやはりセンスの賜物だろうと思う。
日本人の平板な体型には最も似合わないであろうデカいピークトラペルのジャケットには憧れた。
あのラペル見ただけでトム・フォードって分かる。
ハイファッション史上というとちょっと役不足な感もあるが、2000年代のタイトファッションの潮流を作った人で当時抜群の人気を誇ったので挙げざるを得ないか。
オーバーサイズ全盛の今では信じられないが、当時スキニーじゃないジーンズなんてアメカジ好きなコンサバおじさん以外は見かけなかった。
それくらい人気が高くハイファッション内外への影響力が絶大で、セレクトショップオリジナルでコピー商品をよく見かけた。
ディオール評でも触れたがブランド再構築というよりブランドクラッシャーだと思う。
今はセリーヌでフィービー・ファイロ後の後始末をやってて残念な感じ。
ここ10年のモードとストリートファッションのクロスオーバーはキム・ジョーンズがきっかけだったと思う。
単にストリートの形式を流し込むだけのパイプ役に留まらず、非常に有能なデザイナーでもあり固有の世界観とセンスを持っている。
ブランドイメージを壊さないギリギリのところで着地させるセンスはとても現代的でブランドからも使い勝手が良いのだと思う。
マーク・ジェイコブスと似てる。というかルイ・ヴィトンがそういうデザイナーをうまく見つけてるのかな。
今はディオールをリブランディング中でちょっと落ち着いてしまった印象。
もう1人誰だろう?
いろいろ忙しくて乗り遅れたのですが余裕ができたので書いてみる。
発明初期のライセンスの諸々は省略で、あくまでプロダクトとしての10選とします。
元ネタはこの辺。
https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
現在のテトリスの基礎となる設置移動と緩急をつけて上昇する難易度が絶妙であり、
初心者からスコアのカウンターストップを目指す上級者まで楽しめる形となっている。
アーケードゲームの流行と併せ、当時の日本のテトリスブームはここから始まることとなった。
当時のゲームボーイにおける通信対戦機能を広めることになったエポックメイキングな作品。
横井軍平氏がプロデューサーを務め、通信対戦モードの導入はもちろんのこと、
当時のコンシューマのテトリス作品の中では非常に快適な操作性であったこともあり大ヒットを記録した。
「ハート」レベルは令和の現代でも通用する高難易度。現在はSwitchでの移植により遊ぶことができる。
海外版のファミコンであるNES(Nintendo Entertainment System)のテトリス。
ファミコン版はBPSから出ているが、こちらは任天堂から発売しており、ファミコン版とは操作性を含め全く別物となっている。
ゲームボーイ版に近い快適な操作性であり、またレベルアップについてもゲームボーイテトリスと同様に難易度上昇は非常に高速。
スコアのカウンターストップについては超高難易度であり、MAXOUTと呼ばれ多くのプレーヤーの最終目標となっていた。
10年ほど前からこのゲームの世界大会が開催されており、テトリスの権利元の協力もあり毎年の大きなイベントとなっている。
通常では人力では操作できないスピードに到達するためプレイに限界があるのだが、近年操作方法を工夫することにより超高速状態でもプレイをする方法が発明され、現在も世界大会のレベルが年々上昇している。
2024年1月に通常プレイを約1時間続けることによりクラッシュすることに成功したことが世界的なニュースになる等、テトリス史の中で最も重要なテトリスの一つであることは間違いないだろう。
キーホルダーサイズの小型の液晶のおもちゃ。テトリスを中心としたブロックゲームで遊ぶことができる。
入手性の高さ、そして小型のガジェットの手軽さから学生を中心に一大ブームとなった。
訴訟問題となった「テトリン55」を始めとしてほとんどが非ライセンス品であった。
その後ライセンス品としてはテトリスJr.という名前で発売された。
この時のキーホルダー型ゲームのブームはその後1997年のたまごっちに受け継がれていった。
競技向けに最適化された高難易度テトリスで、近代では一般的となった「出現後即接着(20G)」のシステムを初めて本格的に組み込んだ作品である。
続編である「Tetris: The Absolute – The Grand Master 2(とアップデート版のPLUS)」、「Tetris: The Grand Master 3 – Terror Instinct」とともに
長い時を経てようやく初代TGMとTAPの移植が行われ、今はSwitchで遊ぶことができる。
最新作である4については何度か発表と中止を繰り返しているが、2024年にテトリスのライセンスの取得をしたことをアリカが発表しており期待が高まっている。
携帯電話のアプリとして公開されたテトリス。アプリは買い切りが基本のため、十数種類の異なるバージョンが存在していた。
当時は物理キーの十字キーの中心に決定ボタンがある携帯電話がほとんどであり、その操作方法に最適化されたテトリスとなっている。
シリーズを通しておそらく遊んだことのある延べ人数としては日本最大なのではないかと考えている。
そのうちの一つであるTETRIS DIAMONDはSwitchに移植されたため遊ぶことが可能。
ワールドルールというテトリスの新仕様(ここにはT-Spinも含まれる)を盛り込んだ作品の中で一番普及に貢献したソフトであると思われる。
各種任天堂ゲームやキャラクターを活かしたステージやモードであることに加え、
システム上も新しい概念であるワールドルールをうまく昇華させたゲームバランスは見事というほかない。
そして世界中の人々と対戦が出来るネット対戦や、相手がソフト未所持でも最大10人まで対戦できるワイヤレス機能など、
3800円とは思えないボリュームがすばらしかった。宇多田ヒカル氏がエンドレスをカンストまで遊んだという逸話も。
特にネット対戦においては、近年の対戦テトリスにおける戦法はこのゲームで開発されてきたものであり、
テトリスの対戦を普及させた作品としては歴史上もっとも重要な作品であると考えている。
セガがテトリスのライセンスを取得し、ぷよぷよとの2in1として発表された作品。
ぷよぷよとテトリスの異種間対戦が売りであったが、対戦のバランスは初級者戦~中上級者戦に至るまで基本的にテトリス有利なバランスとなっていた。
理由としては、セガはコンパイル開発時代を含めぷよぷよ通ルールとしては長年の研究を経て高度化された対戦が繰り広げられていた一方、
相対してテトリスの対戦に関する知見に乏しかったのではないかと推測される。
次回作のぷよぷよテトリス2も含め、長期間にわたり日本のコンシューマのテトリスのデファクトスタンダードとして運用されてきたソフトであるため、
ゲームクリエイターとして有名な水口哲也氏がプロデューサーを務めた新時代のテトリス。
音楽と映像とゲームの融合が特徴の水口氏の作品の例に漏れず、このテトリスもステージ毎のビジュアルとサウンドの没入感が素晴らしく、各所から高い評価を受けている。特にVR機器との親和性が高く、VRでのプレイを推す人も数多い。
没入感を重視するためゲームとしては難易度を低く設定されており、文字通り誰でも遊ぶことが可能な作りになっているが、
それ以外の需要に応えていないわけではなく、各種対戦や高難易度モードも用意されている。
特に高難易度モードについては近代のテトリスの中で1、2を争うほどの難しさであり、完全クリア者は数えるほどしか存在しない。
続編であるテトリスエフェクトコネクテッドでは、先に述べたNESテトリスを再現したモードが追加しており、日本のテトリスプレーヤーにとって最も容易なNESテトリスの練習方法であった。
(なお、今年末に日本のSwitchオンラインでもNESテトリスが遊べるようになる模様)
テトリスにバトロワ系の要素を盛り込んだ作品。単純に既存の対戦テトリスのシステムを99人戦に拡張したのではなく、
独自のシステムを数多く盛り込む事で実力差がある人同士での対戦でも簡単にはやられないようになっている。
これによりバトロワ系のゲームを知らない初心者でも十分楽しめる作品となっている。
任天堂のサブスクシステムを登録している人にとっては実質無料で遊べることが大きく、テトリス単体でのソロプレイ機能も含めて非常に大きな人気を博した。
既にリリースから5年が経過しているが、現在もなお遊ばれている作品であり、2024年におけるテトリスの代表的な作品であることは間違いないであろう。
世界が五分前に生まれたということはどういう事か分かりますか?
仏教徒の皆さんは「この世界はシミュレーテッド・リアリティに過ぎないから色即是空なんだ」とおっしゃるでしょう。
キリスト教徒の皆さんは「神がこの世界をお作りになったのが五分前なのです」とおっしゃるでしょう。
私の論点は、実はそこにはありません。
つまりですね。貴方が東大卒だとしてもその学歴は「貴方が何年も頑張って勉強して手に入れたもの」ではなく「何年も頑張って勉強して手に入れたという設定により手に入れたもの」だということです。
もしも貴方が自業自得の事故で五体不満足であってもそれは「貴方の不注意によって生じたもの」ではなく「貴方の不注意によって生じたという設定により生じたもの」だということです。
これについて「何の罪もないのに不幸ならば、それはあまりにも理不尽だ!」と思うかも知れません。
自業自得だと思えば耐えられたものが、自業自得で無かったと考えたら耐えきれなくなる人もいるかも知れません。
ですが考えても見てください。
過去の貴方はもう既に今の貴方にはコントロールしようがない他人なのです。
現代社会では多くの人がもうすでにコントロール出来ない過去に対しての後ろめたさから前を向けなくなっています。
仕事が上手くいかないのを「過去の自分が頑張っていい会社に入らなかったせいだ」と悔やんだりしても、それに何の意味があるのでしょうか?
人間関係が上手くいかないのを「子供の頃からもっと人付き合いの勉強をしていればよかった」と悔やんでも、それは過去の自分への八つ当たりのようなものではありませんか?
過去は五分前に作られてしまった設定なのでもうどうしようもありませんが、未来は現在の自分によってある程度コントロール可能な領域です。
「その考え方をするのに別に五分前仮説は必要ないのでは?」というのは正論ですが、人は正論にそのまま従えるほどに賢い生き物ではありません。
「過去はもう過ぎ去ったから仕方がない」と信じるためには、過去の自分と今の自分を決定的に切り離されなければいけないのです。
そのためには世界観に「巨大な仕切り板」を作ってやることが効果的なのです。
もしも、貴方が見にくく太っていたとしましょう。きっと貴方は過去の自分が自分で許せないという気持ちで日々を生きるでしょう。
ですがもしも、それが五分前に作られた設定だったらどうでしょうか?
自分で自分に攻撃することをやめれば気持ちに余裕が出てきます。
すると今度は他人の悪癖さえも「五分前に作られた設定に引きずられているだけなんだから仕方ないな」と許せるようになるでしょう。
もちろん「俺は五分前に連続殺人鬼として作られた人間なのだから殺人衝動も仕方がないのだ」と暴れまわる人は当然のように逮捕されます。
世界がそういう設定であるから仕方がないと人を許すことと、世界に設定された法律が無条件に人を許すことは全く別だからです。
五分前仮説を信じる世界とは、裁かれるべき罪がフラットに裁かれ、その上で人の心が不必要に裁かれることがない社会なのです。
その社会において人々は他人が法によって裁かれるべき存在であるならば淡々と裁き、私情によって私刑を加えられそうであれば許していけるわけですから、本当の意味での法治国家がここに産まれるというわけです。
ですが多くの人は仮説という表現につられてこれをただの思考実験と捉えてしまっています。
違うのです。
「天賦人権論」が単なる論では終わるものだと考えている人は現代にはほとんどいないでしょう。
「天賦人権論」はある種の信仰、それも20世紀的な社会の土台となる新世代の教義とも言えるものです。
ですが、これが社会に浸透するまで、多くの人はこれを「仮説」として捉えていたのです。
「世界五分前仮説」には、「天賦人権論」と同じく、新世紀を代表する宗教となれるだけのポテンシャルがある。
私はそう思います。
なるほど。
なんで私がこんな増田を書こうとしたのかよく分からないのですが、そういう設定の人間として社会に生まれたのなら仕方がないですね。
貴重な月曜日のアフターファイブをドブに捨てたような気もしますが、書いている状態で始まってしまった人生を書き終わらせずに続けるのもおかしな話ですから、書ききったことに後悔はありません。ありません。ない。ないです。
ぬいぐるみだけど心を持っているキャラが出てくる漫画を教えてください。
心を持った理由としては(職人が)真心こめて丁寧に作ったから的な理由がいいです。
https://booklive.jp/product/index/title_id/20043379/vol_no/001
↑の作品に出てくるぬいぐるみのような、ゆるキャラっぽいゆるさがあって癒しを与える感じのがいいです。
ハッピーエンドがいいですが、途中に映画のテッドみたいに、壊れて動かなくなるみたいなシリアスな要素もあるとそこから助かるという結末も込みで、カタルシスというかなんというかぐっときます(なくてもよい)。そういう漫画あったら教えてください。
イギリスでも学校教育でブルマーが導入される前に、女性だけの集まりでブルマーを採用している例があった。おそらくそれとパラレルなのだろう。
Women's League of Health and Beautyについてはこちら。
https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2011/jan/02/prunella-stack-obituary学校教育外の1939年のショーツ型ブルマーだ。
実際、以前書いたアメリカのブルマーやロンパースーツの記事では、女子だけの場所の服装ってのもあった。
https://thistedbilleder.dk/index.php?pr=101&n=745&img=10150&p=31
……おっと、デンマークのが混在していた!
https://digitaltmuseum.no/021015459515/barn-pa-skolen-jenter-gymnastikk
☆提灯ブルマーとショーツ型ブルマー(右から2番目の人物)の混在。年齢的に、学校教育のブルマーだと確実に言えるのはこれだろう。
男子生徒の体育が上半身裸であったケースは多々あるが、へそ出しというのは珍しい。
https://digitaltmuseum.no/021015859174/johannes-skole
https://digitaltmuseum.no/011012908903/gymnastikk-ved-lademoen-skole
https://digitaltmuseum.no/0210113541906/mensendieckgymnastikk
このサイトは、ノルウェーの各地の美術館のアーカイブを横断的に検索するものらしい。左上に表示されているのは、データのある博物館・美術館の名前だろう。
ブラトップとブルマーの組み合わせが陸上ブルマよりも前にあったのには驚いた。
なお、これは愚痴だが、言語学的な類似があるためか、ノルウェー語で調べ物をしていても、上述のようになぜかドメインdk、つまりデンマーク語のサイトばかりヒットした。
スラブ系の言葉でも似たことが起きていて、同じキリル文字を使っているせいか、バルカン半島の言葉で調べていても、なぜかロシアのサイトばかりヒットするのである。
続きはトラバに。
競馬の主要なレースには、GⅠ、GⅡ、GⅢのようにグレードが付加される競走(グレード競走)のほかに、リステッド競走というものがある。
グレード競走に次ぐ重要な競走を国際的に、リステッド競走と呼んでいるのだ。
そして、グレードを「G」で略するように、リステッドは「L」と略されて表記される。
一方で、競馬には「○○ステークス」と呼ばれる競走が多い。
ステークスとは本来、馬主が掛金(ステーク)を出し合ってそれを分配するようなレース形態だったようだ。
今やそんなレース形態は無いのに、名前だけが残っている不思議な呼び名だ。
そして、ステークスは「S」と略記される。ステークスと付くレースは数が多く、略記しても意味は通じるのだ。
たまに、この二つが融合することがある。
これを略記するならば、「○○S(L)」となる。
スコッチウイスキーは瓶詰め時に40%以上のアルコール 度数であることが求められる。大量生産される製品は水が加えられてアルコール度数が均一化されているが少量で販売されるボトルは加水せず樽から出されたそのままの度数であることも多い。この樽から出されたそのままの度数のことをカスクストレングスという。カスクストレングスであっても長熟のボトルは度数が低めであることが多い。
ウイスキーの製造に使う大麦麦芽は成長を止めるためと貯蔵のために乾燥させられている。この乾燥に用いられる燃料のうち伝統的な燃料がピート(泥炭)である。このピートを燃料とするとピートの香りが麦芽に移りこの麦芽を使ったウイスキーにはピーティと言われる香味(燻製のようなスモーキーさとヨードチンキや正露丸のような薬品香)がもたらされる。その香りはピートを燃焼させたときの燻煙に含まれるフェノール化合物によるものであるが、その麦芽に含まれるフェノール化合物の割合をフェノール値と言いppmを単位として示される。このピートはスコットランドに広く存在するがアイラ島のピートには海藻由来の成分が多く含まれ特に薬品香を強くもたらすと言われる。このピートで乾燥させた大麦麦芽を使った原酒は程度の差こそあれアイラのみならず多くのスコッチウイスキーに使わている。また日本のウイスキーにも広く使われている。
ウイスキーがどれくらいピーティかは実際にはフェノール値だけでなく蒸留のどのタイミングの蒸留液をどう使うかや熟成に使う樽によっても変わるのであるが便宜的にフェノール値を用いてほぼ0の場合をノンピーテッド、それから順に(人によって違うが)10ppmぐらいまでをライトリーピーテッド、25ppmぐらいまでをミディアムピーテッド、50ppm台までをヘヴィリーピーテッド、その上をスーパーヘヴィリーピーテッドとしてウイスキーを区分することがある。ただ特にフェノール値が非常に高いような場合、例えば150ppmのウイスキーを飲んでも50ppmの3倍スモーキーだと感じるようなことは(増田の経験上は)ない(多分それを目指して作っていないと思う)。フェノール値はあくまで目安である。
ウイスキーには様々な成分が溶けているがその中には冷却すると目に見える澱や白濁の原因となるものがある。この原因となる成分を除去するためにウイスキーを冷却して濾過するのだがこの成分にウイスキーの香りや味わいの成分が含まれるとして香味が薄くなるのを避けるためにこの冷却濾過をしないウイスキーがある。このような冷却濾過しない製法もしくは冷却濾過していないウイスキーそのものをノン・チルフィルタードと言い、一般にラベルにNon-Chillfilteredと書かれている。冷却濾過は大量生産するウイスキーの味の均一化という側面があるとも言われる。
スコッチウイスキーの蒸溜所は地域別(ハイランド、スペイサイド、ローランド、キャンベルタウン、アイランズ、アイラ)に分類されることが多い。ここではスペイサイドとアイラの蒸溜所の一部を紹介する。ここに挙げた蒸溜所はすべてモルトウイスキーの蒸溜所である。
日本のウイスキーはスコッチウイスキーから大きな影響を受けている。そのため法律に基づく部分を除き日本では用語等はジャパニーズウイスキーとスコッチウイスキーで同じ意味で使っていると言えるのであらためて説明しない。日本のウイスキーについてオーセンティックバーで見ることが多い銘柄のうちいくつかを紹介する。
もともと日本のウイスキーの定義は酒税法で定められたものだけで非常に緩く輸入した原酒を日本で瓶詰めしただけのウイスキーがジャパニーズウイスキーと称されて販売されたり、酒税法上の焼酎が海外でジャパニーズウイスキーとして販売されたりしていた( https://toyokeizai.net/articles/-/216248 )。その問題への対処として業界団体である日本洋酒酒造組合が「ウイスキーにおけるジャパニーズウイスキーの表示に関する基準」でジャパニーズウイスキーを定義した( https://www.yoshu.or.jp/files/libs/550/202303291553482719.pdf )。この基準の施行前に販売していたウイスキーについては経過措置により従前の表示が認められているが2024年3月31日で経過措置の期限となるためもしかすると一波乱あるかもしれない。
その3へ続く
ごめん
アディクテッド トゥ ホストは宇多田ヒカルの曲名をもじったジョークのつもりで書いた
いわゆる「ホス狂」について、朝日新聞 英語版では「Host crazy」と直訳してるようだ。
ホストはそのまま「Host」と訳されている。
> She had become a “hos-kyo” (host crazy).
‘Host crazy’ women fall into debt hell through pay-later system
なお「ホストクラブ依存」は「Host Club Addiction」と訳す模様。