これを理解できると、私はどうなれるんだろうか、
現実の面白みがわかるのか、物語が現実より面白くてもいいんだと思えるのか、
そのあたりが具体的にイメージしにくいのです。
もし君が物語形式の芸術作品における物語の役割を理解しているなら余計なお世話になるけど、
あまりよくない例えかもしれないが、ラーメンを食べるときについて考えてみよう。
このうち人間の基本的欲求である『食欲』を主に満たすのは炭水化物である『麺』だ。
もしラーメンというものをおよそ一度も食べたことのない人が腹をすかせていたとして、ラーメンを見たらどうするか。
麺をおそるおそる手にとって、どういう食べ方だかしらないがそれを胃に入れて、空腹を満たすだろう。
これももちろん、人間の食事の仕方の一つだ。非常に原始的なやりかたのね。
だからといって、麺をずるずるすすって(あるいはもぐもぐやって)、ああいいのどごしだなぁ、
しこしこしてるなぁ、はらいっぱいになったなぁ、
という風に感じるだけじゃあ、『ラーメンを味わった』事にはならないのはわかるだろう?
ではどうすればいいか。ラーメンなら、麺のパターン(縮れているとか、太いとか、柔らかいとか)があるよね。
それぞれに、ぼくたちの味覚に別々の効果をもたらしてくれる(ぼくはラーメン屋じゃないので
それぞれがどんな効果をもたらすかについては省略するよ)。
それを理解して初めて、なぜこのラーメンはこういうスープの味付けで、こういう具が添えてあって、
というのが理解できる。それがほんとうの意味で『ラーメンを味わう』ことになる。
物語もこれと同じだ。芸術作品というのはその全体で味わうものであって、
その物語要素だけを取り出して味わったとしても、その作品をほんとうの意味で味わった事にはならない。
せいぜいあらすじについての感想を言うのが精一杯だろう。物語のパターンを知って、
その役割(人間の感情を効率よく刺激する)を知って初めて、ほんとうの意味でその作品を味わったことになる。
そんなこと言ったって、ラーメン食べるときにいつもそんなこと考えてないよ、という人もいるだろう。
もちろんそのほうが正しくて、だいたいの処理は脳内で自動でやってくれている。
だからぼくたちはラーメンを食べるときにいちいちこうやって考える必要がない。
でも芸術作品は違う。芸術っていうのはそうやってぼくたちが頭を働かせる前提で作ってある。
だからいろんなフックも仕掛けてあるし、前提知識がないと見えてこない面白さもある。
単純に物語の刺激に踊らされているだけじゃ、ちっとも楽しめない作品もある。
もちろんそうじゃない作品もあるだろう。たとえばそう、某大盛りラーメン店みたいに、
そのことだけを目的においている作品もある(現代においてはそれが大半だろうね)。
でもそれだけじゃ寂しいよね。ほんとうの意味で作品を楽しむには、今書いたようなことを知っていたほうがいい。
それにこのことを知っていても、『ぼくらに単純な刺激を与えて楽しませる』ために作られた作品を
楽しめなくなるわけじゃない。
むしろ、作り手の側の意図なんかが見えてくる楽しみもあると思うよ。
さて、物語の芸術作品における役割がわかったところで、その現実世界との関わりについて考えてみよう。
物語が現実より面白いのは当然のことで、そういうふうに感情を刺激するように作られているからだ。それ自体に何の不思議もない。
ただそれをわかった上で「現実世界のほうが楽しいよ」と言うために必要な飛躍というのは人それぞれだ。
『自分次第で解釈できる物語が無数に転がっている現実世界のほうがいい』
あなたがどういうふうに思うかはぼくにはわからない。ただ物語というものの役割を理解した上で、
それでも現実よりも楽しいものがある、というふうに主張することについてはぼくは否定しないよ。
ただ、余計なお世話かもしれないけれどぼくが強調しておきたいのは、
『現実世界に物語の構造を持ち込む奴らには気をつけろ』ってことだ。
過労死するまで居酒屋で働かされた若者に経営者が与えていた『物語』が何だったのかは、
その経営者の言動を見ていれば簡単に想像できるだろう。それほど物語というものは
暴力的で、人の心を簡単に支配してしまうものなんだ。だって、そういうふうに作られているからね。
うぁ、気持ち悪い。 こんなことも言ってんのかよ。
いやー、笑えた。
生き物の写真を分析してレントゲン図や筋組織図を組み立てるのはいいんだが、それをもって「ほんとう」と呼称するのはいかがなものか。
http://anond.hatelabo.jp/20120228235026 元増田です。丁寧な説明ありがとうございます。 たしかに、面白い面白くないの前に現実と物語の関係について誤解がないようにするのは大事ですね。 あ...