はてなキーワード: 視力とは
よく自由や規制の問題が出るけれども、それを一番推し進めようとした、そして現実に推し進められた例が、香川県の「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」だと思う。
「インターネットやコンピュータゲームの過剰な利用は、子どもの学力や体力の低下のみならずひきこもりや睡眠障害、視力障害などの身体的な問題まで引き起こす」
「脳の働きが弱い子どもが依存状態になると、大人の薬物依存と同様に抜け出すことが困難になる」
などと記し、子どもたちを「ネット・ゲーム依存症」から守るために条例を制定するとうたった。
条例に罰則はないものの、そこでは①子どもにスマートフォン等を利用させる際、家庭内でルール作りを行う、②コンピュータゲームの使用は1日60分(休日は90分)を上限とし、スマホの使用は夜9時までなどとする、③保護者はこのルールを守らせるよう努めなければならない、などが含まれている。
まぁ、バチくそにゲームやスマホの自由を侵害する内容で、これが制定されたのはショッキングなことだ。
これを推進したのは2019年春に発足した県議会の議員連盟だった。香川県の最大メディア・四国新聞は同じ年の1月からキャンペーン『ほっとけない「ゲーム依存」』を開始しており、その報道に触発されての議連発足だったともいえる。
ところが、条例案をつくる議会の検討委員会は一部が非公開。しかも、議事録も作成されていなかった。
この議員連盟は自民党県政会や公明党議員会などで構成されている。
民放のBS放送だと通常のBS放送(2K)とBS4Kで同じ時間帯に同じ番組を放送しているので比較してみた。
登山番組とか世界各地の大自然の風景を扱った番組で比較して思うのは、4Kってそんなに良いか??ってこと。
確かに通常のBS放送(2K)より若干は鮮明かもしれないけれど、そんなに大差はないし、何よりも4K放送は画面が暗い。
山番組の空の青さとか緑の鮮やかさとか、雪山の頂きの白い輝きとか、通常のBS放送(2K)の方が輝かしく見えるのに対し、4K放送は画面が暗く色褪せて見える。ちなみに画質設定は通常のBS放送(2K)もBS4Kも同じである。
ソニーのテレビに問題があるのか?それともオッサンになって視力が衰えたことが原因なのか(運転免許証の更新の時に「次回までに眼鏡を作ることをお勧めします」と言われた)?
さらにNHKは8K放送を行なっているけれど、それって需要あるのか?
一昔前、CDより高音質のSuper Audio CDやブルーレイ・オーディオが喧伝されたが、あまり普及しなかった。多くの人々はCDよりも音質の不安定なダウンロードやストリーミングで音楽を聴くようになった。
子供の頃から物を粗末に扱う子供だった。ウルトラマンの人形、お気に入りの筆箱、MDウォークマン。ぞんざいに扱っていると、お気に入りだったものは傷付き壊れ一部機能が動かなくなりいつの間にやらお気に入りではなくなっていた。そうしてなんの感情もなく廃棄していた。
一昨年に白内障の手術をした。白内障が発覚したのは二十代も終わる頃でこんな若くしてなるものなのかと驚いたけど、元々子供の頃からアトピー性皮膚炎を患っており、アトピー患者の中には若くして白内障になる人が少なからずいるらしい。加齢による白内障はゆっくりと進行し、多くの人は両目とも進行するため進行に気が付かないと聞くが、幸か不幸か自分は右目のみ進行していたため、自分の右目が見えなくなっていく過程を常に体験できた。左目だけを閉じ一月前より明らかに白む視界を目の当たりにするたびに「ああ、また失われたか」と心の中で呟いていた。自分の人間としての機能が失われていく感覚。出来ないことが増えていく諦めと少しばかりの絶望。身に覚えがあるものだ。
初めて喪失を感じたのはこれもまた視力だったような気がする。小学校3年生。遠くの細かい文字が見えなくなっていることが親に気づかれた。後日眼鏡を買いに行きクリアになった視界に驚くとともに「あぁ自分はもう裸眼では物がクリアに見えないようになってしまったんだな」と子供ながらに絶望したこと記憶がある。その後も喘息や食物アレルギーなど主に自分のアレルギー体質に起因する喪失を経験する度に、自分の身体への執着は薄れていっている。
年を重ねるごとに更に機能を失っていくだろう。そうして自分の身体への執着をなくして安寧とした死を迎えるのは別に悪いことではない。必要なプロセスなんじゃないかな。
パプリカの天ぷらの効能についてですね。パプリカ自体はとても栄養価の高い野菜で、天ぷらにすることで、その栄養素をさらに美味しく摂取できるという点で、とても良い組み合わせと言えるでしょう。
パプリカはビタミンCが豊富で、特にオレンジ色のパプリカはピーマンの約3倍のビタミンCを含んでいます。ビタミンCは、免疫力の向上や美肌効果が期待できます。天ぷらにすることで、ビタミンCが壊れにくく、効率よく摂取することができます。
パプリカには、β-カロテンも豊富に含まれています。β-カロテンは体内でビタミンAに変わり、視力維持や粘膜の保護、抗酸化作用など、様々な働きをサポートします。
赤パプリカには、カプサイシンという成分が含まれています。カプサイシンは、新陳代謝を活発にする効果や、脂肪燃焼を促す効果が期待されています。
パプリカには食物繊維も含まれており、腸内環境を整え、便秘解消に役立ちます。
油で揚げることで、油溶性ビタミンであるビタミンAやビタミンEの吸収率がアップします。
揚げることで、パプリカの甘みや旨味が引き立ち、より美味しく食べることができます。
カリウムの補給: 天ぷらの衣に含まれる塩分と、パプリカに含まれるカリウムがバランス良く摂れるため、高血圧予防にも繋がります。
揚げすぎると栄養素が壊れてしまうだけでなく、カロリーも高くなってしまいます。
衣の量: 衣の量が多いと、カロリーが高くなってしまいます。薄めの衣にするか、片栗粉や米粉など、ヘルシーな衣を使うと良いでしょう。
揚げ油は、酸化しやすいので、こまめに交換することが大切です。
パプリカの天ぷらは、栄養満点で美味しく、美容や健康にも良い一品です。ただし、揚げ物なので、食べ過ぎには注意し、バランスの取れた食事を心がけるようにしましょう。
パプリカの色によって栄養成分が異なります。赤パプリカ、黄パプリカ、オレンジパプリカなど、色々な種類のパプリカを組み合わせて食べることで、より多くの栄養素を摂取することができます。
大谷フィーバーで野球熱が高まり、大谷自身が全国の小学校にグローブを寄付するなど、減少しつつある野球人口を回復しようとする動きも活発になっている。
野球はやめておけ。
神童と呼ばれるレベルの子が結局プロにすら届かないのは当たり前。
大谷レベルの才能でも甲子園には出場できていないことからもわかるように、いくら自分が強くても上の大会には進めない。だからといって強豪校に進んでしまえば9割方は応援席、よくてもベンチである。
中学や高校の同級生を見ていて感じるのだが、優秀な運動センスを持つ人材が野球部に流れすぎていて、レッドオーシャンそのものだ。そのため、ベンチで3年間を終えるような子でも、他の部活ならエース級、インハイ出場レベルになれる逸材だらけである。
このような才能が野球という無駄にレベルの高い運ゲーで擦り潰されるのは日本にとっても本人にとっても損失である。
超一流選手でも打率3割強、調子のいいタイミングを切り出しても4割がいいところだ。つまり大事な試合で打てるか打てないかなんて運にすぎない。
スタメンなら1試合あたり3〜5打席立てるわけだが、死ぬほど努力して打率5割のバケモンになれたとしても全打席凡退の可能性は十分あるし、自分が打てても後続が3割ガチャを引けなければ点数にならない。
プロ野球のペナントレースならある程度確率が収束するだろうが、高校野球はなんとトーナメント戦である。血と汗と涙を流した3年間の集大成がガチャで決まってしまう運ゲーというのはあまりにも馬鹿馬鹿しく、家で寝転がってソシャゲのガチャでも引いていた方がよほど有意義である。
たとえ運ゲーだとしても努力をした日々は無駄にならない! スポーツを通じて身に付けた健全な精神と人間性にこそ価値がある! という人もいるだろう。
しかしこれを見てほしい。
https://video.twimg.com/ext_tw_video/972787886717222913/pu/vid/640x360/Pc24MvGUASmFbpeu.mp4
これは稲村亜美という女性タレントが始球式を行った際の映像である。
恐ろしいことに、稲村氏が始球式を終えたあと、男子中学生たちが何の許可もなく稲村氏ににじり寄り、一斉に襲いかかっている様子がわかる。
野球で心を鍛えているはずの男子中学生たちがこの有り様なのだ。
本当に野球で鍛えられるのは礼儀でも人間性でもなく、怖い監督や先輩の目の前では逆らわないという奴隷根性と、集団で気が大きくなって一人の女の子を襲うという卑怯な「チームプレー」精神なのかもしれない。
大谷が飛び抜けて優れている点は何だろうか。
190センチ超の恵まれた体格、鍛え上げた体、野球に全てを捧げる精神力、マンダラチャートに代表されるような努力の軌跡……。
どんなに筋肉を付けても、どんなに素振りをしても、ボールに目が追いつかないと打てやしない。
しかも悲しいことに、動体視力は筋力と違って、努力より才能に因る部分が大きい。鈴木誠也選手は大谷以上にゴリゴリムキムキに鍛えてメジャーで活躍しているが、大谷には勝てていない。筋力で上回れても、動体視力で上回らないと野球で勝てないのだ。
失明しそうになってから初めて考えればいいことなので、わざわざ考えるだけ無駄なので考える必要もないよ。
なぜなら中途失明の原因は生活習慣の悪化・遺伝的要因・感染対策の不備・医者嫌いだからね。
特に最後の医者嫌いってのが重要なファクターだけど、普通の人は別に医者なんて嫌いじゃない。
エリート嫌いを拗らせたり、注射が怖いとかガキみたいなこと言わないんだよ普通の人は。
中途失明の原因で最も割合が高い緑内障の原因は「よく分かってない」ということになっているけど、単に決定的な証拠がないだけで医者は皆薄っすらと原因を知ってる。
その原因っていうのは「生活習慣の影響により身体に強い負荷がかかっている」ということ。
なぜなら緑内障になる人は生活習慣を悪くして薬を飲んでいる人が多いから。
これを単に老化が緑内障における重要なファクターであると片付ける人もいるけど、実際には「生活習慣の乱れを若さでごまかせなくなった」というのが大きいんだよね。
緑内障にならなくても糖尿病による合併症によって失明するパータンもあるので、失明の原因の3割割は糖尿病によるものだと言ってもいいぐらい。
次に割合が高いものに網膜色素変性があるんだけど、これについては遺伝性によるものなので「自分はコレになるかも知れない」ということは親戚の体調にちゃんと興味を持っている普通の人は事前に把握できる。
自分にそういう遺伝的要因があると分かってるなら、定期的に医者に行って見てもらえば早期発見が出来るし、点眼薬によって進行を大きく抑えることもできる。
緑内障・色素変性・糖尿病以外の理由であっても、「違和感を感じたらすぐ医者に行く」ってのを徹底すれば失明まではいかないものばかりだよ。
自分の体調をちゃんと管理して、何かあったら早めに医者に見て貰って、医者の言う事をちゃんと聞いて薬をちゃんと摂取すれば視力低下までで何とかなるものばかりだから。
中途で失明するやつってのは「医者の言う事を聞かない」「自分の身体が抱えている病気リスクを把握しない」「定期検診や緊急時の診察をやりたがらない」といった人種なの。
普通はそういうことしないから中途失明なんてめったに起きないわけ。
分かった?
みたいな返答が欲しかったんだろ?
わざわざ増田に書くってことは。
ちゃんとした返答が欲しいならこんな肥溜めじゃなくてNoteやXに書くもんな。
徹夜続きの仕事が終わって久しぶりに遊ぼうとしてるんだが、何も頭に入ってこないし体も上手く動かなくてまるでジジババになったような気分だ。
ゲームをやろうとしても上手く動けないでイライラするばかりだし、映画を見ていてもなんとなくしか話が頭に入ってこない。
これが老化したあとの世界、肉体が終わってしまった後の人生なんだ。
どうしようもないからとりあえず音楽をかけながらマッサージ機を使ってるんだが、これならまあまあ楽しめる。
ジジババの遊びといえば大体は以下のようなものだ
・温泉に入る
・あらすじを知っている歌舞伎を見に行く
ボンヤリとしたままで楽しめるような娯楽ばかりだ。
確かにこういったやり方なら腐る程ある時間を壊れた体でも穏やかに過ごせるというものだろう。
なるほどな。
https://anond.hatelabo.jp/20240825233708
このときのコマツナについてたのをなんとなくそのまま捨てずに家に置いてる。
母に写真を送ったら「まだおるんや」と言い放たれた。そうだよ、まだいるよ。
殻の維持生成にはカルシウムが必要だと聞いて、ときどきタマゴの殻を入れていたがまったく口をつけない。なので、先日道端のコンクリート片を拾って入れてやったらむしゃむしゃと食べてコンクリートのうんちをしてた。(…コンクリートのうんち!?)
野菜どころかティッシュも食べるし、あげてないけど多分お菓子とかも食べる。その代わり、本人が気に食わない餌はまるで食べない。
同じコマツナでも口をつけるやつとつけないやつがあるし、ニンジンはあのてっぺんの部分を好んでよく食べる。皮は残す。皮も食えよ。
こいつ、糞しかしねーくせに好き嫌いするのかよと悪態をつきながら、1.5日の頻度で虫かごを洗って餌を変えてやる。不衛生なのは嫌だからね。
まあまあな量を食べるので、こりゃ畑にいたら相当嫌われるだろうなと思う。
こいつがついていたコマツナも、気づかずに冷蔵庫に入れていたらまあまあ食べられていたし。
こいつは決して清潔な存在ではないので、洗う時はビニール製の手袋をして、終わったら必ず手を洗って。洗う際にはカタツムリをカゴから引っ剥がすので少しかわいそうに思う。吸盤みたいに張り付いてるのをプチョ…っと剥がす。
最初の頃、明るい時間はほぼ天井にくっついてるだけだったけど、最近は環境に慣れたのか昼間でも割と活動的。仕事の休憩中にふと目をやるとニンジンをムシャってたりする。
虫かごを洗った後に必ず餌を入れ替えるのだけど、匂いでわかるのか新しい餌が入った瞬間、一目散に餌の方へと進む。「目は悪い」と書いてたので、むしろある程度は視力もあるのだろうか。
インターネットによるとカタツムリは記憶力もあるらしい。そうなの!?あの小さい、ほとんど水分らしいぬめぬめの体で!?生命の不思議すぎる。
私や旦那のことも覚えているのだろうか。おい、その猫じゃらしは旦那が昨日ひろってきたやつだよ。ちなみに、いつもお家を掃除してるのは私だよ。旦那じゃないよ。
こいつはウスカワマイマイという品種なので、蛍光灯に照らすと殻がうっすら透けて見える。間もなく出てくるであろうニンジン色のうんちやコマツナ色のうんちがうっすら見えるときがある。
呼吸する穴が肛門の役目も担っているので、人間とは少々勝手が違う。
うんちしてるときは無呼吸なのだろうか。うんちに溺れることもあるのだろうか。不思議だ。
雄雌の区別がなく、なんなら単体でも卵を産めるらしい。私がいつも掃除して虫かごごと丸洗いしてしまうので、仮に卵があったとしても即排水溝行きだろう。
「いつまでいるか知らんけど」と言いながら、今日もカタツムリは家にいる。
人参のヘタを切ったら、次の餌用に冷蔵庫に保存するようになってしまった。
寿命は1年程度らしい。家に来た時点で生まれてどれぐらいか知らんけど。
おい、きさま。一体いつまで家にいるツムリだ?
文章を書くこと自体はめんどくさくない。むしろ喜んでおこなう。
しかしおもしろい小説というものは、人間のリアルな気持ちが反映されたものだ。誰がどこでどう考えてどう行動し、だからこうなった、なるほどぉと読者が納得するものだ。
冷静に考えればわかるのだが、小説というのは大抵1人が書く。1人の作者が書くものなのに、複数人登場する。この複数人にはそれぞれバックグラウンドがあるわけだ。これは作者とは異なる。
作者と異なる背景の人間がさまざまなことを言うからにはそれぞれの歴史を考えなければならない。これがまあ非常にめんどくさいのである。一人ひとりの歴史はめんどくさい。
まず俺は、その人間がどういう学校を卒業したかなどの経歴や、どういう人間関係を持っているかを組み立てる。だから今こうなっている、というものに説得力を与えるためだ。
これがめちゃくちゃ苦痛。だってそれは俺じゃない。俺はその人物に全然興味がないわけ。誰だよ。俺はお前が死のうがどうでもいいわけ。でもむりやり考える。
むりやり考えて、そいつがどういうことに興味があるかを自分でシミュレーションする。重要なのだが、俺はその興味にも興味がない。興味がないが調べる。調べてなるほどぉと感じる。
そいつがどういうことに興味があるかだけでなく、どういうことに興味が無いかも調べる。
たとえば読書に興味がない人物は読書に興味がないときほとんど無視をする。読書に興味がない人間は読書で得られる知識を知ってはならない。もし知っているときは、別の連なりがある。そこは説得力を持たせなければならない。たとえば親から教えてもらったとか。その親は教育的だった。だがではなぜ親は教育的なのに子がそうなのか。親は死んだからだ。何歳のときに?親が死んだといっても全員がそうなるわけではないのになぜその人物はそうなのか。親が死んだときどう感じていたのか。そのとき友達はいたのか。今もその友達とは続いているのか。友達の容姿はどうなのか。家から何分ぐらいのところにコンビニがあるのか。徒歩で行くのか。歩く頻度はどのくらいか。普段食べるものは何か。好きなものは何か。どういった人物に好感を抱くか。視力はどのぐらいか。空は好きか、自然は好きか。ジャンクフードは食べるのか。
また、人間関係がどうなっていて誰にどういう感情を抱き、他人をどう捉えているかを考察する。
別の登場人物に対してだけではない。人間をどのように感じているかを考察するわけだ。脳が疲れる。
誰かが勝手に言ってきてそれを聞く分にはいいが、自分で無から産み出したくない。
俺としては、小説はある舞台があってその舞台上で俺が導く運命に沿ってキャラが動いていってほしい。勝手なことをしないでほしいし、おもしろく終わらせたい。
だが、感情を豊かにしてそういうふうに登場人物同士を対話させると話が勝手な方に進んでいく。おいおい余計なことすんなってと考える。だが登場人物には歴史があってそういう性格になっているので運命の方に進まない。
運命の方に進ませるために別の登場人物を作り上げたり殺したりする。殺すにも理由が必要なのだが。
これは「嘘」みたいなものだ。嘘をつくために別の嘘を作り上げる形。フィクションがリアルのように成立するためには別のフィクションが必要となるのだ。
我の強いキャラは自由に動き出す。神である俺が勝手に指示してもよいのだが、そうすると物語が単調になる。「そうはならんやろ」ということが増える。そうするとおもしろくない。
この設定はすごく大事なもので、絶対公開はしない。公開すると秘術がバレるからだ。その秘術は読者に考察させるに留める。
読者はいろいろ考える。実はこうなんじゃないかとかああなんじゃないかとか。当たっていることもあれば外れていることもある。大抵は外れている。
そういうもんだから、俺の書く登場人物は魅力がある。まるで生きている人間のようになる。当たり前だ。めっちゃ調べたり考察しているのだから。
だが、だが、だが、そのために死ぬほど労力をさく。いろいろ推理したりする。
なんでこんなことをしているのかわからなくなる。どうでもいいわけ。そんなことすんなよって思う。だってその登場人物は俺じゃない。俺はそういうふうに考えない。
登場人物たちは、俺がめちゃくちゃ嫌悪することも平気でしたりする。俺が興味あることに全然興味を持たなかったり、俺が興味ないことにとことん興味を持ったり。キモすぎる。
なんでそんなふうに考える?それっておかしいよねって思うことも、登場人物は意にも介さない。そんな登場人物の気持ちをずっと考えていると、登場人物を殺したくなる。
腹いせに登場人物を殺そうとするも、そうすると物語がめちゃくちゃになる。なんだこれ。いや俺はおもしろい物語を読みたいんだって。
殺すのも難しいからそれも腹ただしい。殺すために新しい登場人物を考える。だるい。めんどくさい。こんなことして何になる?
働いた方がマシだろ。そしてこんなことしても稼げないのか。ありえないな。
小説なんてやめてやる。
50も過ぎると本当に老眼がつらくて本当につらい
子供の頃から近眼の乱視だったけどメガネがあるとピントが合う距離を少し遠くにできてそこから手元までは確実にちゃんと見れた
でも老顔になるとなんというか全体的にピントが合いにくくなって裸眼の15センチくらいまでの距離が一番心地よくピントがあってメガネしててもピントが合いにくい、なんとなく目が疲れる、文字を読みたくなくなる、小さい文字が見えにくい、頻繁にメガネをとったりつけたりして読むのがつらい、近眼なのでパソコンモニターまでの距離が遠いのにピントの合う範囲がちょっと違う(これは今のメガネが悪いのかも…)(モニターまでの周りの景色はちゃんとピント合うのに文字のような細かいものだけちゃんとピントが合わない)
とにかく毎日の起きて目を使ってる全ての時間がいつも常にゆるく不愉快に感じる
体力の低下とかどこか体のあちこちに不調を感じる、みたいなのは幸いに無いんだけど視力の老化がほんまにつらい
もっと歳とってこんなふうに少しづつのどうにも言い表しにくい不快感が体に続くならやはり俺も早く死にたいと感じるのかもしれない
正確に言えば、私の関心を俗世に繋ぎとめておく軛として配偶者より適当な仕組みがこの社会に存在しないんだ。
心底では他人に関心がなくて、素面では他人と対等の付き合いしか信じることができないからしがらみとしての結婚が必要なんだ。
結婚でなくてもいいが、しがらみが。
あなたがたの言いたいことはこうだ。他人に興味がない社会的欠陥動物が無理して結婚など目指すな。一理ある。
結婚に向かない人というか、一人でいることが最も心地よく、もしかすると周りにとっても善であるような性質の人間がいることは承知しているし、私もそのようであるという自覚がある。
だが同時に、いみじくも『最強伝説黒沢』でゲストキャラのおっさんが独白するように、人間は強制されてかろうじてまともだ。私もそのようであるという自覚がある。
人間に目指すことができるのはせいぜい短期的な報酬だけだ。長期的な野心を抱く人間も短期目標の積み重ねそれ自体を報酬として野心を維持しながら長期目標を目指すのであって、我々はそういう作業ができる人間のことを解決力とか実行力があるとか呼んでいる。
私はまとまったカネを要する種類の欲をまったく持たないので、短期的に私が心地よいようにするとあまりにも失う社会性の量が過大になってしまう。後に社会に復帰するのに必要な弾性ごと失うほどに。
もし社会性を完全に捨て去った私が幸福の最大値を目指すなら、私のすべき行動は今すぐ退職して生活保護費を申請し、読書と惰眠、自慰、あるいはPCで完結する創作趣味に明け暮れながら自殺までの時間を気ままに遅延することになる。
今現在の私が不本意にもそのような理想的生活状況にないのは、既にして私は本当には一人ではないからだ。
カネを必要としていない私が曲りなりにも職に就いているのは、あえて両親を泣かせたくはないというのと、学生時代に得た数少ない友人との付き合いに負い目を作りたくないという気分が理由のおおよそになる。
資産を持たず、浮世を捨てたほうが心地よいと信じているのにそうしないのは、数少ない私が気にかける人がもし困窮したときに私が伸ばせる手がなくなるからという、いうなれば不安のためだ。
これは災害的、ポアソン的なイベントに対する備えのようなもので、「その時」に至るまでの報酬は何もない。
マメな友達付き合いというのも好まないから、本当にない。ただ生活の荒野があるだけだ。この空白地帯を超える術をしがらみの慣性力のほかに私は知らない。
ところで、ここまでの話に配偶者は登場しなかった。既にいる私の気にかける人たちが目的であり、同時にしがらみであったからだ。
次に私が恐れているのは?いずれ私が生活に摩耗する間に彼らの存在が後者として機能しなくなったのに、前者としてのみ残ってしまうような事態を恐れている。
私は多分、両親や友人を無視することを容易に合理化できる。自己都合で私を生み落とした両親がどうなっても究極的には自業自得だし、対等な立場であるべき友人の人生にお節介であまり立ち入るべきでもない。
とはいえ自分の内心についての予断はロクなものではなく、いざその時を迎えて、実際に私が不幸ではないかどうかは、したい賭けではない。今はそういう判断をしている。
いや、あなたがたの言いたいことは分かる。互いに迷惑をかけるのが健全な人間関係だと。
しかしながら、互酬的なフェアネスを想像することは難しい。私が物理的に距離の遠い彼らに対して望むことなどほとんど何もないから。
書いてるうちに気づいたがつまり、どこかで生きている友人に対して、勝手に幸せになってほしいと勝手に思っているという事態が私の友人関係の内実なのではないか。それはどうなんだろうか。
ともかく私は両親には義理と友情を感じているが、おそらく愛してはいない。友人に抱く情はいくぶん愛かもしれないが、強いしがらみを望んではいない。
必然的に私は物質的にはフェアでありつつ、同時にその枠の外に置くことのできる一方的で独善的な、強い愛の対象を求めざるを得ない。私の言語では独善的なものだけを愛と呼んでいるといったほうが近いかもしれない。
思うに、それは観念的なものではどうしても強度が不足していて、臭気芬々たる、不愉快極まる肉の質量でなければ私のような凡人を長く捕らえておくことは難しいんだろう。
今いる友人たちをそのようなものに貶めるよりは、いずれそのようになるものと思って新たな人との付き合いを求める方が、かろうじて私は我慢ができるはずだと今は考えている。現実的な相手とのすり合わせ可能性を踏まえても。
ハタチあたりの頃に私は人に対して愛しているといった言葉遣いをしたことが一度だけあるが、それさえもやっとネットの友人で顔も知らぬ半回り上の男を相手にしてのことでだ。
彼はこの世に数少ない愛すべき人たちが肉のある人間であることが残念でならないといつも考えていて、私もまったく同意見だった。
現在の彼は私が単に気にかける友人のひとりで、ここ数年私はアプリで知り合った女性の一人と習慣として会話を続けている。アプリ自体は疲れたのでやめた。
お互い遠くに住んでいるわけではないと知りながら、半年に一度のペースを超えては会う気にもならず、焦点のぼけた会話の中から彼女の趣味のよさを探そうとしている。そんなのをずっとやっているだけで精一杯なんだ。
しがらみを追い求めるふりをしながら、回避的にしがらみから逃げ続けているわけで、傍目には奇行としか言いようがない。
私が同じところで回って何も進んでいかずとも爪は伸びるし身体が衰えるのを感じる。今夏には低い視力がまた落ちていたが、道行く他人の顔をよく見ずに済むように矯正視力は0.6で止めた。
分裂した私の間でいたちごっこを続けつつ、結局は騙しだまし、私が死ぬまで私の延命を続けるようなおもしろくもない羽目になるような予感がしている。現実はひどい。
「嘘っぽい」→現実と考える要素を持ち合わせていない
「青いな」→青く見える
「顔真っ赤」→真っ赤に見えている
「くだらねえな」→それに価値を感じていない
「こういうやつらって、何なんだろうね」→そういうやつに囲まれている中でそれを理解し対応できていない
なにを言っても結局発言者の目に見えてるものを発言者の脳が処理した答えしか口から出んのよ
馬鹿といったほうが馬鹿、というのは毒を毒だと言うのは毒が効く生物だけだというのと同じ
16Pの漫画がすごいとか濃厚とか最初に評価したやつの言葉を借りて連呼してるだけみたいなのも同じ
そう見えたんやろねその目から見たら
現実はどうであれ視力0.1の人間が信号を青と見たんなら青だろうね
青だとみてやがると馬鹿にするのもいいが本人にはそう見えてる事が理解できずにただ自分とは違う事を言ってるだけなら言葉にする意味もない
すごいやつがすごいと言った言葉を繰り返してみるとなんだか俺もすごいんじゃないかそれがわかる側の人間なんじゃないかという気持ちにはなるんだろう
嘘っぽいと見えるやつに人生経験が足りないとまで見えるんだったら、みえましたと挙手してもらってもそうだね見えるんだねとしか言ってあげられないね
俺はそうやって、どうなんだと思う事があったんなら共感したりする表現とかさがしたり借りてきたりしたらいいんじゃないのって思うね
じゃあお前はどうなんだって言われると、俺も「嘘っぽい」って何なのかという人間は嘘とは何かを知っていてそれを自分も言うから信じられない事がわかる共感はしてるのだろうと感じる
俺も嘘つきだからね
なぜこれを誰も語らない。
不思議だ。
「若者が東方に興味を持つ理由は精通を迎えるのに東方Projectが丁度いいからです」という暴論が飛び出すことはあっても、そもそも老人が東方から離れていった理由は語られない。
「老人はブルアカで過酷なオナニーをしているから」というのはもっともらしく聞こえるが、今なお東方のエロ画像は増え続けているわけであることを俺のチンコは知っている。
というか、若者だってブルアカで過酷なオナニーをしているわけだからして、老人だけが東方から離れていっている理由は他のコンテンツが伸びたからであると説明するのは厳しいだろう。
oi、誰か語ってみせてはくれないのか?なぜ誰も語らない?ファーストペンギンは突き落とされてジッサイアブナイと言われているからだろうか?
どうやら、我が古のサイバネ魔術「シッタ=カブリ」を使うときが来たようだな。
老人共は弾を目で追うことが実際難しい。
老人がスプラのワザマエランキングでイキることはあっても、エペやCSになると途端に黙り込むのがいい見本だ。
ゲーセンでグラディウスを延々とやっている無職とニートの中間になった中高年達はパターンを見ているだけで弾は見れていない。
東方の高何度はランダム弾幕を避ける視力が必要なので、老人はいつの間にか東方を落第し、視力が低くても遊べるカードゲームやRPGへと消えていくのだ。
キャラが増えすぎて老人には覚えきれない。
なぜ、老人たちの間で学園アイドルマスターが流行ったのだと思う?
古参アイマス老人を見ればわかるが、彼らはもう自分の推しの話しか出来なくなっている。
広大なアイマス世界の広がりを語り、シリーズをやりまくって何百というアイドルの複雑な関係性を諳んじていた姿はそこにはない。
自分の好きな数人のキャラクターとの関係性しかもう語れないのだ。
東方はどんどんキャラが増えるだけでなく、公式非公式で様々な関係性が日夜増築されていくのでもう老人にはついていけないのである。
ミドルエイジクライスの真っ只中にいる中年、それを終えて自分の人生の虚無を認めるしかなくなった壮年、彼らにとってZUNという成功者に親近感を感じることはもはや不可能に近い。
その昔、まだ若かった彼ら、まだインターネットの力で無能が突然這い上がれるドリームを信じていた彼らにとっては、ZUNという多才なる存在さえもいつか自分のマブダチになりうる同人作家の一人に感じられただろう。
AI技術が発達すれば俺だって神ゲーが作れるさ、バーチャル女体化が発達すれば俺も大人気配信者だ、そんな妄想はいざ技術が発達したあとには見事に瓦解した。
ここ10年ほどの技術的特異点の数々が彼らに己の無能を知らせる効果たるやあまりにも絶大であった。
世界に対する解像度、好奇心の総量、努力の才能、自分を信じる勇気、それらがないならどんなに技術の下駄を履かせても結局は無能なのだと痛感させられてしまったわけだ。
そんな彼らにとって、ZUNはもはや恵まれた才能を振り回すいけ好かないチート野郎。
そんな奴がこれ以上チヤホヤされるのに1ミリも協力はしたくないという感情は自然だ。
応援するならせめてチームで結果を出している連中や、才能があっても一種類だけの人間であるほうがいいだろう。
だって、優秀なチームを組めればという前提条件なら自分だって成功してた可能性もあるしこれから先もワンチャンはあって、なにか一つが優れているだけの奴なら自分だって自分の仕事でやってる分野でマウント取る余裕がまだ残るから。
凄すぎるクリエイターの作った作品を応援できるのは、自分の才能を信じられる若さがあるうちだけなのだ。
とりあえずこんな所でいいだろ。
最終成果に対する俺の取り分は1割ぐらいでいいぞ。