はてなキーワード: 演目とは
何様なんだよって思う。
そもそも「おそ松さん」なんて、赤塚不二夫大先生の漫画「おそ松くん」のリメイクだかパロデイだかでしょ?
それを腐女子が妙に持て囃しただけでしょ?
もちろん、日本語には歴とした「お粗末」(ただの「粗末」とはニュアンスがちがう)という言い回しがあって、それをキャラの名前にしたのは赤塚先生の功績だし。
「嘘松」って言葉が生まれるに当たっては「おそ松さん」とやらが絡んでるらしいが、今更そんな語源の話なんてどうでもいい。
あれは元々、寄せの最後(キリ)でやる演目で、普通の落語じゃなくて特別な出し物をやることを指していたのだが、笑点のせいで、今やすっかり意味が変わってしまった。
大喜利って言葉の響きが、なんだか「お題を出してみんなで面白い答えを競う」という出し物の雰囲気に妙にマッチしてたせいで、もはや語源なんてどうでもよくなってる。
嘘松って言葉がこれだけ普及したのは「お粗末なウソ」=「嘘松」って言い回しがキャッチーだっただけだろ?
外国人「日本の仏教は後期密教が入っていない点に加え、海を隔てているという地理的な条件により周辺国からの影響が少なくチベット仏教と並んで特異な仏教文化を育んでいる」
日本人「俺たちの国すげーだろ?俺たちの文化ってすげーんだわ」
日本人「えーっと、んー、仏教とか?神道とか?あと歌舞伎とか?(どれも知らんけど」
日本人「日本の伝統的な宗教です!雅楽とか神道をベースに日本で育まれた素晴らしい音楽もあるのです!キリっ」
外国人「迦陵頻伽などの演目は仏教由来ではありませんか?色の配置など極めて仏教的な要素が強い上に、神という概念は仏教とともに中国から渡ってきたという日本人の論文があります」
日本人「」
外国人「鎌倉時代のような実力主義から儒教が中心に据えられて権力者には歯向かわない牙を抜かれた犬がかっこいい?儒教の年功序列は捨てた方がいいですね」
日本人ってなんだろな。
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
去年の1月に雪組の望海さんと真彩さんのお披露目公演を、東宝で見てから
だけど、このファントムだけはライブビューイングで見よう!そう決めていた。
公演中はもちろん大号泣だし、終演後はもぬけの殻になってしまうほど感動した。
望海風斗さんと娘役の真彩希帆さんの歌唱力がまさに圧巻だった。
でもさ‥
あぁ、また、だいもん 死んじゃった‥
最後は苦しみながら、でもヒロインの愛に包まれ、死んでいくものばかりのような気がする。
(といってもまだ二作品だけだけど)
原作通りの結末ならまた死んじゃう‥。
望海さんの苦しそうなお芝居を見るたびに、お願いだから生きて幸せなラストが待っている演目にして欲しい。
と、知識の浅い私は思うのでした。
一部で話題になってる、大阪ライブでのレポをみて踏ん切りがついた。断捨離みたいなものだ。
思えば、一年前くらいから辞めるタイミングを伺っていたのかもしれない。ただ黙って辞めるのもこの数年間の自分が可哀想なので文章にしてみる。人に読ませるというか、自分のために書く。
多分、私にとって最初で最後の推しだと思う。もともと、舞台に興味があった人種ではないから。私は、上京してテニミュを観劇する機会がなければ出会うことのない世界だった。ただ、舞台上に立っているだけであのキャラクターが生きている。観劇経験がない私にとっては衝撃的だった。自分が1番好きなキャラクターをこんなにも巧みに演じてくれる役者がいるのか、とその巡り合わせに感謝すらした。勝手に恩義を感じて、その後の仕事も追いかけ始めた。といっても、舞台だったら複数回入るだけ、イベントも1回参加できれば良しとしている側から見れば緩いオタクだった。けれど、少ない給料から家賃、生活費を出した残りからだけだが、彼にお金を使えるということが嬉しかった。何度も同じ演目を観ても、違う表情を見せてくれた。観劇って、好きな役者ががいるって、こんなにも楽しいものなのかと幸せだった。
日々、アプローチを変えるお芝居への探究が、舞台は生物を体現していていつまでも観ていたかった。
どこか煙に巻くようなカーテンコールの挨拶をしつつも、周囲の人々への感謝を忘れない姿勢がなんだか誇らしかった。
友人が、誰も名前を知らなくても堂々とこの役者が好きだと言えた。
でも、もう応援する気が失せてしまった。この人をみていたいという気持ちよりも、チケット当たったし、行かなきゃなという義務感が強くなってきた。
元々やりたがっていた音楽活動をやり始めたからなのか、刀のミュージカルでソロライブをやり始めたからなのか、彼のSNSの存在意義が分からなくなったからなのか、彼より年下の役者の発言の方がしっかりしているのがだんだん目につくようになったからなのか、どれがキッカケか分からないけれど、少しずつ蓄積されていったんだと思う。
しまいには、有名な人と共演する機会を得た舞台を観ても、自分のなかの蟠りのせいで余り楽しめなかった。
私みたいなのは彼の想定するお客ではなくなってしまったんだろう。悲しいが、彼にとっては数多くいるファンが1人消えるだけでなんでもないことだ。
2月のライブのチケットも譲渡に出した。3月の舞台のチケットも友人に譲った。
キッカケがどうであれ、初めて推しを降りるという経験をした訳なのだが、嘆き悲しむかと思いきや通常運行で日々を送っている。そもそも、ここまで3次元の人間に入れ込んでいたのが24年生きてきたなかでたった数年だ。こちらのほうが異常だった。でも、そうまでして応援したいと思わせるものを彼が持っていたのも事実だ。
SNSで彼に感じてしまった不平不満を発信したことはないが、多分壊死する呪いをかけられる側のファンであったことには違いない。
キッカケはそうだとしても、彼にそこまで価値を感じなくなっていた私にとっても、彼のファンを辞めたことはなんでもないことだった。
それがはてブの総意じゃなかったの?
教員の働き方がブラックすぎて、教育学部の倍率がヤバイことに。 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1309183
日本の英語力は国際的に見ても壊滅的だから、英検の上級やTOEICの高得点を持っている教師に低学年からの厚い教育を期待するんじゃなかったの?
情報理論の時代遅れの知識ではなく、プログラミングの実務面にも明るい教師を求めるんじゃなかったの?
運動会で組み体操などの危険な演目に走らずとも児童全員に見せ場を用意し、児童の安全にも完璧に配慮できる教師を求めるんじゃなかったの?
児童のエスニックバックグラウンドの多様性に配慮して、日本語が拙い児童にも個別にケアし、場合によっては外国語しか話せない保護者の方ともコミュニケーションを取りつつ、誰もが劣等感を抱かず自分のアイデンティティに誇りを持てる教室作りを目指すんじゃなかったの?
発達障害や運動協調障害の児童にも配慮して、誰もが自分のペースで学びを深め、体育の時間にも競技を安易にやらせて終わり、ではなく運動が本当は楽しいことを伝えるべき素質が教師に求められるんじゃなかったの?
糖尿病や重度身体障害、知的障害の児童も特別支援校や特別学級へと排除するのではなく、適切なケアを提供しつつインクルーシブ教育を推進するのが今の教師なんじゃなかったの?
家庭科では子供を持たない人生もあっていいことなど多様なライフタイルの存在を伝え、ジェンダー平等の追求だけでなく性的少数者の児童にも寄り添い、誰もが自分の性のあり方に誇りを持てる性教育の実践家としての教師、じゃなかったの?
アルビノの生徒に髪を染めさせるような人権侵害は言語道断として、そもそも無意味な校則で子供達を縛るのではなく、自主性を尊重した上で公共心を養わせ、自分達の手で自然とルール作りを行うことのできる場を教師は提供すべきなんじゃなかったの?
さくらんぼ計算や掛け算の順序、漢字の瑣末な書き順といった意味不明なカリキュラムに拘泥するのではなく、生徒の多様性と教育の本質を理解し、かつ学びが速い生徒の能力も尊重してカリキュラム外の高度な代数や三角関数を用いた解法を用いた算数の答案にも合格点をつけられる教師が21世紀のありうべき教師像じゃなかったの?
イジメを未然に防げるよう児童同士の関係性を日々気にかけて、それでも起きてしまったら迅速な関係児童へのケアと関連公的機関との連携、さらに社会へのコンプライアンスを全うできない教師は失格じゃなかったの?
何、あらゆる事態に対処できる有能な人材は有限だとか、私生活のことも考慮すると教師一人一人の時間は有限だとか、トレードオフ構造を今さら理解しましたみたいに、皆しおらしくなっちゃってるのよ。
今日が卒業の日、記念公演も行われるがその場に私はいない。今はアパートの玄関にいる。
ももち(嗣永桃子さん、Berryz工房でした)に次ぐ円満な卒業、卒業先のレールが見えた卒業、スムーズな移行、その子の卒業を前のように称す人は多々いる。
実際にそうである。華々しいのかは見る人によるだろうが、ファンの贔屓目込だろうと言われてもこんなに華々しい卒業はないと思う。
昨日は卒業の匂いをさせないという意志に楽しさを纏わせて色とりどりにした塊をぎゅうぎゅう詰めにしたカプセルを弾けさせるような、楽しすぎてせつないライブだった。
新メンバーの加入やメンバーの卒業・脱退を機に最近はあまりライブやイベントに通うこともなく、新曲のリリースもエアチェックする程度だった。いわゆるヲタ卒だろう。
それでもその子、推し ※以後「推し」と書く のことは大好きで気がかりで(心配する余地がないくらいに幸せそうでもある、心配すべきなのは自分の将来なのだが)ブログをよんだりラジオをきいたりしていた。
話は戻るが、卒業の発表は突然だった。来るか来るかと〇〇推し ※ファン がソワソワする機会は何回もあった(結婚も)ため、こんなことを言ったら〇〇推し失格だと言われてもおかしくないと思う。なんだか笑えてくる。
その後ポップアップストアに行き、ひたすら眺めて、寄せ書きを書き、写真を撮り、自撮りを友人に送った。少ない小遣いをかき集めて親を説得しライブに行ったり、Twitterでできたコミュニティの友達と話したりしたのが懐かしかった。おすすめのCD欄を見ると、推しきっかけで知ったいろいろな趣味を思い出しいつもいつもきっかけを作ってくれていたんだなと感じた。
どこにでもあるハート型のダイカットのふせん、あんなに小さい紙切れにすらうまく気持ちを乗せられず手が震え、3枚無駄にした。有名レコード店さんごめんなさい。後からSNSに行ったよ〜の報告があり、それに映る寄せ書きは自分が見たときより遥かにたくさんで誇らしくなった。愛されていることが嬉しい。
昨日の話に戻る。
新メンバーを嫌ってしまうと思ってライブに行けていなかったが杞憂だった。めちゃめちゃいい子。
会場は空席が見つからないくらいに埋まっていた。初めて行く会場がこの子たちのライブで本当に嬉しい。
演目はこれまでの歴史を凝縮したようだった。グループごと終わりに向かっているな、などと感じてしまったが元からタイムリミットが近いと言われてきたことを忘れていた。これだけ続いていること自体奇跡なのだろう。
これ以上書くとネタバレ感がある。
エアチェックでフルで聴くのがほぼ初めてのような曲ばかり脳内をリピートしている。まだまだ続くんだね。
帰りのバスでは推しの子の本を読んだ。一緒な時間をたくさん過ごせて幸せだったなと思う。ステージからペンライトまでの距離が遠くなっても狭い会場でのライブをやろうと努力してくれるところが好きだ。わけのわからないダンスも歌も大好きだ。隣にいたカップルも子供も口上を歌う空間が優しい。あなたの美学とあなた達の美学がかっこよくて好きだ。
悩み悶えるあの頃の私にたくさんの面白いものを教えてくれてありがとう。たくさんのきっかけを作ってくれてありがとう。その時の悩みを笑い飛ばせるようになった私には新しく辛いことが生まれ生きることが辛いけれど生きています。今までなんとかやってこれたのは本当に本当にあなたのあなた達のおかげです。
感謝は尽きないけれど、笑って見送ることができない自分を不甲斐なく思う。アイドルが必要なくなるくらい幸せになってほしいと言うけれど、まだまだ私には必要だ。
私の家はスカパーがつながらない。
推しが増えたとしても、寂しいよ。
前からなんとなく気にはなっていて、先日、浅草ロック座に行ってみたのである。
場所は浅草演芸ホールからちょっと行ったあたり。「浅草ブロードウエイ」なる名前がついていて、幅は広いが車は入らないようになっている。向かいはリッチモンドホテルの下層に「まるごとにっぽん」とかいう明らかにインバウンド狙いの商業施設がはいっていたり、案外こぎれいな場所だ。道路もふくめて近年だいぶ整備されたんだろうという雰囲気。
ビルには大きく「ROCKZA」書いてあるがこれまたこぎれい。入り口にはファンから出演者に贈られたらしい花が飾ってあったり、出演者の顔写真が飾ってあったりするが、そんなにいかがわしい雰囲気はなく、階段を上ったところで昔ながらの映画館の窓口みたいなところでチケットを買うとすぐモギリのおっさんがいて「もうすぐ最終回はじまりますよ」と言われる。
公演は毎日午後1時から同じ演目を4回やっていて、料金は5000円(シニア、女性、学生、カップル割あり)、入れ替えなし。ただし、20:10以降に入場して4公演目だけみれば3500円。とりあえずこの割引時間帯にいったのである。
客層は推定45歳以上の小市民風なおっさんがメイン。競艇場ほど「怪しそうな人」は見当たらず、妙な酔っ払いとかもいない。普段はそれなりに真面目に仕事してそうな人も多い感じ。
サブカル好きっぽい女子二人組みとか、そこそこ若いあんちゃんとかもいないわけではない。
劇場内は、やや縦長の長方形で、ざっと120~130人くらいが座れる感じか。客席の両脇と最後部には寄りかかって立ち見するのにちょうどよさそうな手すりも完備している。
ほぼ満席だが、幸い空席をみつけて着席した。
舞台は真ん中から客席中央あたりまで花道が延びていて、花道の突端は丸い舞台になっている。
あそこで女性があんなポーズやこんなポーズをとるのだな、と思っているうちに開演。
場内に朗々と、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の主題歌(The hills are alive with sound of music~ ってやつ)が朗々と流れて、一応、ジュリー・アンドリュース演じるマリアを意識したんだろうな、という衣装(ただし、安っぽい)を着たお姉さんがバレエのようにくるくる回ったりしながら踊ってる。
曲が終わったので、いよいよ次は脱ぐのかと思ったら、子供役と思しきお姉さんも7人でてきて、「ドレミの歌」が始まった。
古い映画なので知らない人も多いと思うが、「ドレミの歌」というのは、厳格な軍人の家であるトラップ家に家庭教師にきたマリアが子供達に音楽をおしえる、というテイの歌なのである。ちゃんと振り付けも、子供達にドレミを教えるっぽいミュージカルっぽい感じになっている。一応、映画のオマージュ的なことなのだろう。
で、ドレミの歌が終わると、子供役のお姉さんの一人がネグリジェみたいなカッコに着替えていて、マリアに手を引かれて、花道突端の円形の舞台までつれてこられた。
BGMは、これも「サウンド・オブ・ミュージック」の曲なのかどうかは良くわからないが、なんか英語で「さあ、今夜もゆっくりお休み」みたいなことを子守唄風のメロディーで歌っている。
そうこうするうちに、マリアは子供を寝かしつけて舞台から引っ込んでしまった。
そして、この女の子が目覚めるテイで起き上がると、一枚一枚服を脱いでいくのである。
正直、ここまでの流れにいささか関心してしまった。いや、なんか、「ちゃんとつくってる」じゃん。
正直、踊りのレベルがどうとか、そういうことは素人なので良くわからん。
土屋太鳳がときおり「アタシ大学でダンスやってたんです」ってことでやってみせるモダンダンスよりはレベルが低そうに感じた。
脱ぎ始めたときのBGMは、なんか「ええ歌風のJ‐Popのバラード」みたいなのだった。詳しくないので、曲名わからないけど。
怪しげなトランペットやサックスの扇情的なメロディで「ちょっとだけよ、アンタも好きねえ」という雰囲気ではない。踊りもなんというか「エロじゃなくてアートです」という感じ。もちろんストリップだから、あんな格好したりこんな格好したり、足を大きく開いたりもするわけだが。
あと、以前タモリ倶楽部でやっていた、職人芸的なリボンも、本当にやっていた。
これは、ボランティアのファンが、絶妙なタイミングでリボンを投げる職人芸である。
本当に絶妙なタイミングで、観客やお姉さん方の邪魔にならない方向にリボンを投げ、するすると手元に巻き込む様は、ベテラン漁師の一本釣り漁をみているようですらある。
そんなわけで関心しきりのうちに一演目が終わると、会場内にド演歌が流れ始めて、歌舞伎の「道行」みたいな、和装の二人連れが出てきた。男性役は男装した女性。一応、なんか逃げるように駆け落ちした二人、みたいな設定、らしい。
なんだか、振り付けに「ロボットダンス」みたいな動きがはいって独特な・・・と思って気がついたのだが、そうか、これ、人形浄瑠璃のパロディなのか!?
・・・と、そんなこんなで、どの演目も結構「ちゃんと」つくっていた。
各演目とも前半はなにかしらのモチーフを基にしたダンスミュージカル風な踊りをやって、後半は脱ぐ、という展開。
「銀河鉄道の夜」のパロディの演目では、インカムつけたお姉さんが「そのよる、ボクはカンパネルラと」とか朗読はじめちゃうし、きゃりーぱみゅぱみゅの音楽にあわせて、おもちゃの兵隊が踊る、みたいなのがあったり。
尾崎の「アイラブユー」に合わせて、何だが不幸な恋愛をしてっぽい二人がじゃれあったり抱き合ったりしてる、という演出もあり。
脱ぐときのBGMはなぜかJ‐Popが多い。ゆず版の「見上げてごらん、夜の星を」とかミスチルとか、意外なほどに合ってたりする。これはJASRACと契約してるんだろうなあ。
休憩中に、幕をスクリーンにして「本日の演目紹介」が投影されていて、最初の演目はちゃんと「サウンドオブミュージック」だった。先ほど「アイラブユー」にあわせてやってたのは「ロミオとジュリエット」だったらしい。なるほど。
本日最後の演目は「チャップリンの独裁者」らしい。何をやるんだろうか・・・と思っていたら、これまたなんか真面目だった。
ステージにはミリタリーっぽい服をきたお姉さんが立った・・・と思ったら、どこからともなく演説が聞こえてきた。
これ、あれや、「独裁者」の最後で主人公が全世界に向かってやる演説。高校のときに英語の教科書に載ってた。自由の尊さを訴えた名文やで。
やがて、演説にかぶさるようにピアノが流れてきて、お姉さんが踊っている。
はじめは何かに束縛されてるような踊り方だったのが、どんどん激しくなっているのは、多分、スピーチのテーマにあわせて、支配からの自由を表現している・・・というのは、こっちの勝手な解釈だが、でも有名な振り付け師でも出てきて「そうなんですよ」といわれれば納得してしまいそうな気がする。
最後、自由への戦いに立ち上がったかのようにこぶしを突き上げたポーズで一旦とまり、そこから曲が変わって脱ぎだすわけだが、これもあれか、支配からの自由の行き着いた先は、「洋服」という束縛からも完全に自由になるということなのか。(深読みしすぎ)
なんというか、みなさん、「売れない劇団の看板女優」みたいな雰囲気。体のラインはさすがに、それなりに美しい。ただメイクばっちりで色とりどりの照明もきついので、正直年齢とかは良くわからん。
あと、これはどこまで書いて良いのかよくわからないのだが、服は全部脱ぐ。で、それなりに高々と足を上げたり、のけぞったり、いろんなポーズをとる。
ちょうどかぶりつきに結構若いお兄ちゃんがいたのが、まさにかぶりつくように見ていた。
ま、ああいうシチュエーションであんなふうに見るのって、なかなかないからなあ。
あれが現在の日本の刑法上、どういう扱いになるのかはよくわからないが、平然とやっているところをみると、「わいせつ」とは扱われてはいないのだろう。
その昔のストリップ劇場は、観客が舞台にあがって女性とあんなこんなことができちゃう「ナマ板ショー」やら、個室で二人きりになってあんなサービスを受けられる設備やらがあったり、そりゃもういろいろある風俗だったらしいが、今の浅草にそんな雰囲気はなく、観客もいたって真面目に鑑賞しているのであった。
ま、各演目の前半はとくに興味ない風な客も多そうだが。
にしてもあのネタは誰が考えているのだろう? 作家とか演出家とかいるのかな?
なんか「昔、寺山修二や唐十郎に憧れてたじいさん」とかが裏でいろいろ携わっていたりするのかもしれない。全般的にネタが古いし。
というわけで、3500円が高いとは思わなかったが、まあ、どうしてももう一度みたいというほどでもないかな。
まあ、興味の沸いた人は話の種に一度くらいみておいても損はしないと思う。
にしてもあれだ。演目とか興味深かったので思わず、軽くメモをとってしまって、だからこそこんな増田もかけているわけだが、ハタからみたら「超熱心なストリップファン」に見えてしまったかもしれないと思うと、ちと恥ずかしい。
ま、どうせ知らない人ばかりだし二度とあうこともない(多分)だろうから、いいんだけどさ。
中学生からおっかけになって、かれこれ15年くらい何らかのヲタクをやって生きている。ジャニーズ、お笑い、女子アイドル…いろいろなものを追い掛けて、応援しているのが生き甲斐だった。逆を返すとそれ以外生き甲斐のない人間だ。だから自分の持ちうる時間もお金も全力で注ぐのは苦痛じゃない。幸い、今まで好きになった人たちは上昇志向が強く、明確な目標があって、ファンの応援を必要としている人ばかりだった。はてブロやtwitterなどで良さを広める、チケットを買う、CDを買う、友達を連れて行く、感想の手紙を送る。奢りかもしれないけど、上昇志向の強い芸能人を応援する上で、自分のヲタクのやり方が間違ってはいなかったと思う。
晩夏、新しい人を好きになった。誰かを好きになるのは理屈じゃなくて一瞬だ。それは恋愛だって、追っかけの対象だって同じなのだ。
新しく好きになった人は劇団の俳優さんだった。いま、私はどうやってその人の応援をすれば良いか分からない。
多分、現状に満足していてこの状態が続けば良いと思っている。劇団の仕事以外はほぼ仕事がない。けれど上昇志向はない。大きな劇団の中堅の俳優さんなので首になることはまずないだろう。特に自分個人へのファンは求めていない感じがする。劇団へのファンは歓迎の節だが、自分のファン、というものに対しては反応が薄い。
彼の舞台を見るのは楽しい。胸が高鳴るし、同じ演目でも何度だって見たい。
なのに、やっぱり何故か満たされない。とてもショックだ。けれど、それは満たされないことに対してではない。求められたくてヲタクをしているわけではない、と思っていたのに、私はやはりどこか求めてほしかった、ということに気付いてしまったからだ。自分のしたことを喜んでもらえる、目に見えて反応がもらえるということの甘美さに私はちっとも気付いていなかった。すごく、すごく、恥ずかしい。
書いていても何を言いたいか分からないんだけど、とりあえずいま、どういう風に応援したら良いか分からない。いや、ファンなんだから普通に見に行けばいいんだけど。だけど反応がないとどうしても悪い考えがよぎる。ファンレターも迷惑かもしれないし、多ステも気持ち悪いと思われてるかもしれない。逆に、じゃがいもみたいに何とも思われてないかもしれない。私は気持ちが悪いことにそのどちらも嫌なのだ。個としての認知はいらないが、ファンの塊として「いつもありがとう。応援してもらえて嬉しい」とは思ってほしい。気持ちが悪いけど、どうしてもその欲を捨てられない。
友人みんなから「あなたに合ってない推しだね」と言われる。私もそう思う。応援されるのが好きで、褒められるのが好きで、愛されるのが好きな人を応援する方が私は幸せだと思う。でも、好きなのだ。舞台の上で一瞬で分かるその声が、情けない役ほど似合う困り顔が、日替わりで繰り出す小ボケが、キメるときはキメる姿が、とにかく大好きなのだ。いつか、この気持ちも笑い話に出来るかもしれない。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
ここだけの話、私も少し前までは誰が作ったか見分けがつかなくてな。
今でも百合とか薔薇とか、右とか左とか、リベラルの種類やPCあたりは正直なところ記憶が怪しい。
ブクマの多さがホッテントリに密接に関係している以上、「ブクマしている人間がしょうもないから」というのが答えになってしまうな。
まあ、あくまで君の主張に則った上での回答だが。
つまり、その「“しょうもない”中に君が含まれていない」というのが本質的な回答になる。
君がその“しょうもない”人間に加担した覚えがあるなら自明の理だが。
今回学ぶべきは、「大局的に見れば、しょうもないモノの方が遥かに多い」ということだ。
その次元内では、しょうもないと思っていないからブクマしているかもしれないし、思っていてなおブクマしている人間だっているかもしれない。
幸か不幸か、私の質問会場はしょうもなくないことが多いが。
スープにできた膜を食べる仕事も大概だが、こっちはまだ理解できる方だからな。
昔の日本でも敵討ちは認められていたから、そんな感じになるだろうな。
そういったものを題材にした演目もいくつかあるので、私刑行為ってのは古今東西需要があったわけだ。
私が知っているレベルの時代劇とかでも、基本的には悪い奴らを非合法な手段や、超法規的措置で成敗するものが多いしな。
とはいっても演目になる程度には、理想と現実が異なっていることの証左でもあるが。
多くは返り討ちに合うか、そもそも仇相手と出会うこともないまま旅の途中で死んでいたようだ。
武家とかは仇を討たないと家督を継げないなんていう風潮もあり、嫌々やらされることも珍しくなかった。
つまり何かを公に認めるということは、しがらみも多くなりやすいってことだ。
ぐだぐだ言わずにやってみればいいのに。一ファンとして言わせてもらうと、
このゲームの核になるのは、「ノイズ」という魔法生物によって掘り返された思春期の女子が抱える葛藤や悩みを、
精神世界に入って「調律」していくノベル作品としての価値で、シナリオと演技の出来がすこぶる良いことに強みがある作品だ。
きちんと読み進めていけば、きっとそんな難癖思考は消えているはずだ。
むしろ思いの外フィクションの範囲で上手にまとめていると感心できるはずだ。
章を進めるたびに、その章の主役(調律対象)となった子を好きにならずにいられない、老若男女に勧められる作品だと思う。
楽器編成がぐちゃぐちゃなことも、部長の性格と絡めてたいへんボジティブに解釈できるようにきちんと描かれている。
そしてファンブックを読めば分かるが、担当楽器は固定ではなく、演目に合わせて別楽器を扱うこともあるようだ。
箏の子がオケ編成にあわせづらくて、今回はコントラバスで…と思案するような展開もある。
「呪い」のせいで散り散りになる前の器楽部の奏でる音は常識はずれで荒削りだけど、
それが人の心を奪う「魔法の音」だったのだという。そう、これは魔法少女ものでもある。
チュートリアルでいきなり終末感漂う異世界で戦っていて、北欧神話の登場人物や出来事も入り混じっている。
そういうファンタジーな作品でありつつ、青春部活ものでありつつ、楽器や音楽をモチーフに上手く物語に取り込んでいる、奇跡的なバランスの作品だ。
愚痴というか呪というか晴れることのない胸の内を整理させてほしい。
それまでも観劇していたが、演目を楽しんでいるだけで他の舞台や映画の趣味と変わらずに見れる時に見る。その程度だった。それが1年ちょっと前にAllforOneという公演がはじまりよくわからないまま惹きつけられ複数回見るファンになった。組ファンになりスカステに加入しぐんぐん知識を蓄えて地方ツアーも複数回見た。本拠地の小箱公演はチケットが取れないので行けなかったけれど、ポスターは素敵だなと思った。
2月からの本公演は芝居はともかくショーが熱かった。まだ終わって数か月なのに、万が一タイムマシンが発明される瞬間まで長生きしていたら預金も年金もねじこんであの時間に帰りたいと思うくらいに重症ではある。
AllforOneも鳳凰伝もBADDYも、真ん中のふたりが大好きだった。
群衆芝居でも真ん中にすっと立ち、努力の跡が芸事の極みとして上塗りされて洗練されたたまきさんと
孤高の存在のようでいて、血が通って暖かく、時に激しく、あふれる涙をたまきさんにぬぐわれて笑うちゃぴさんが
書いてて泣くくらい今も大好きだ。
有難いことに1月からその事情は発表され、演目も発表になり、製作会見もあり、こちらが冷静になる時間は存分にあった。ただ冷静になるのと実際その時が近づくのは人間が出来てないせいもあって乖離しがちではあるが。
今は組子にもたくさん好きな子がいるので、組ファンとしてトップコンビを愛せることのありがたさを漢字で書いて丸めて飲み込みたいくらいではある。有難い。そう、有難い。
難しいことなのだ。トップコンビが大好きというのは。宝塚という組織の人事と自分の好みが合致するというのは並大抵のことではないのだ。
特に、路線と言われる分野にあまりひかれない自分のようなファンにとっては。
じわじわと、そうじゃないのかなと噂されていたとおり、組内からの抜擢となった。
自分が関与できることではないので、比較的冷静に受け止めつつも軽く貧血になったりもして、この件に関する大喜利を見て笑って心を落ち着かせたりしつつ、あぁでもしんどいな。というのが今も晴れない心の底の本音である。
ごめん。
なんか、ごめん。
応援するとか組ファンとか自称しといて一度の人事で打ちのめされるとか100年以上続く宝塚舐めてんのか、ってなる。うん。
なので、ごめん。
AllforOneでは、複数回見るうちに姪っ子ーズの中で面白い顔芸の子がいるなぁっていう程度でまぁ面白がって見ることもあった。
小箱公演は見てないのでわからないけど、特に気にすることもなかった。
因みにそれ以前の公演については全然把握していなかった。
もちろん新人公演というのがあることも1年前に知ったくらいなので見ていない。
2月からの本公演の芝居で、彼女の役はアイドル的アスリートだった。演出の指示なんだろうが相当アホっぽくて見ているのがつらかった。なのに子供ができて引退を決意するところではじっとり重い雰囲気芝居で、あれ?二重人格???え?なんか怖い。とうっすら思った。別に見なくても芝居は進むので見ないことにした。相手役のまないくんが見れないのは非常に残念だったしなるべくかぶらないところで見るように心がけたけれどほぼ見ていなかった。他に見るべきところもあったので仕方ないと思っていた。
ショーでは、悪役チームの二大美女であった。こちらもほかに見るところがあったのであまり見なかった。ショーは本当に観客それぞれで見ている視点が違いすぎるそれもまた面白いみたいな感じだったので、気にしないようにした。だが実はちょっと気にしていた。
なんかしんどい。
けど、好きな人もいるしわざわざ言い立てることでもない。心に仕舞った。
梅雨時に、季節柄というか雨をモチーフにしたミュージカル公演があった。
退団を発表しているちゃぴさん(現娘トップ)は本拠地小箱で主演をされるので、たまきさんを単独で見るのははじめてになる。
(スカステや映像ではちゃぴさん以外の娘役と組んでるものもたくさん見た)
相手役が、ちょっとしんどいなと思っていた彼女だったので内心ドキドキしていた。
予想は悪い意味で的中した。
真ん中が見れなかった。
彼女に思いを寄せるたまきさんが信じられなかった。笑。
複数回見ても、何も変わらず、たまきさんを見れないのがしんどいな。。。ということに気づきつつも、相手役を脚立に見立ててみたりするのもしんどかった。脚立って。無機物。
ひたすら彼女じゃありませんようにと願った。できることならあの子がいいという対抗馬も特に掲げず、彼女じゃなければ誰でもいいと思った。
脚立再び。
別組の子でもいいし、路線じゃない子だっていい、なんだっていいから彼女じゃありませんようにという非常に失礼で勝手なことを思う自分が嫌で疲れた。
しんどいと思いながら見ていると、自分自身がしんどくなってくる。
だったら見なきゃいいじゃん。正論です。
真ん中で輝く(んだろう)彼女を見て「うちのナンバーワンですよ!かわいいでしょ!」って言える日が来るのだろうか。
今んとこ難しい。
でもいつかなってるかもしれない。
その日にこのエントリーを思い出して笑えるといい。
前向きになるには一度吐き出さないとならない、面倒なファンで申し訳ない。1年目だから一喜一憂の高低差についていけてないのか、いやたぶん宝塚のファンに向いてないんだよねってことはうっすら自分でも気づいている。
舞台に出ているそれが全て。
その舞台を見てムリだったらたぶん全部ムリ。
(戻っちゃった)
ショック療法でたくさん見たら慣れるかと思って
おめでとう!なツイをいろいろ見てみたけど、ニュースに使われてるおとめの写真の耳たぶが気になり過ぎてもうダメだと気付いた。
やっと気づいた。
目指すは解脱。これっきゃナイ☆
先日「メタルマクベスdisc1」という演目を豊洲のIHIシアターで見て来たんだけど、本当にカルチャーショックだった。
まず、客席が回る。何を言ってるのか分からないかもしれないけど、とにかく客席が回るのだ。
そんでもって、ステージ上に生バンドがいてライブのようにメタルを演奏し続けている。音が良すぎ。
更に、演者の生歌が痺れるくらいに良い。
演技のこととか話のことはよく分からない。普通に面白かったけど。自分は普段、あんまりお芝居見ないから。
他にも舞台装置がLEDとかキラキラしたり、バイク走り回ったり、エレベーターあったり、とにかく凄かった。
連れて行ってくれた友人の話だとあんまりチケットが捌けてないらしい。
もったいない!もったいなさすぎる!
お芝居普段見ないって人ほど行ってほしい。
嫌いな奴にも平等に接しろ。(社会人なら嫌々接してるだろうが)
○○できないやつがかわいそうだから、お前はやめろ。
演目で主役になれない子がかわいそうだから、皆主役をやらせろ。
頑張って努力している奴がいたとしても「他のやつがかわいそうだからやめろ」って禁止する。
そんな世の中になって本当にすばらしい未来が来るとでも思ってんのか?
段々、言い分が極端になってきているのに気づいていない奴がいるのか?
これがどんどん進んでいくと
・嫌いな奴を避けることは許されない。⇒ストレスでぶっ壊れて暴走するやつ増加
「素敵な絵を描きたい!と努力しても「うちの子が出来なくてかわいそうでしょ!」と弱者(?)正義の時代。
・金持ちの金が分配されて、みな平等になり、誰も仕事をしなくなる
・何でもかんでも「○○が可哀想でしょ!」と言っていたら相手の行動を制限できる
こんな時代くるの、俺嫌なんだけど。
以下は、あとでデレステ・ミリシタ運営へ送る要望の保存用メモなので(外出先で打って保存)、そのうち消します。
===============================================
デレステ1
いつも楽しくプレイしています。アイドルの可愛さもゲームの楽しさも味わえる神アプリになっていると思います。スタッフの皆さんに感謝いたします。
昨年実装された『誕生日カード作成機能』『フォトスタジオ機能』は素晴らしいです。「ウチのアイドルは素敵だろ!」とアピールし合う事こそが最終目的の『アイドルマスター』に相応しい神機能だと思います。ありがとうございます。
この素晴らしい機能に加えもう一声、『2~5人のユニット単位でアピールできる機能』が欲しいです。モバゲー版『アイドルマスターシンデレラガールズ』の『アイドルLIVEロワイヤル』のように、「これがウチのユニット!」「この組み合わせ良くない?」をみんなでシェアしたい。
モバゲー版の『ドリームLIVEフェスティバル』のライバルユニットやデレステの誕生日カードのように、複数人のアイドルのイラスト(特技発動時に出てくるもの)を同一画面内に表示してユニットを表現したり、モバゲー版の『ぷちスナップ機能』のように、3Dモデルを複数人表示させてポーズを取らせて写真を撮りみんなに自慢できる機能があると、よりプロデュース活動が楽しくなると思います。また、名刺機能でも「このユニット担当!」と言えると嬉しいです。
トレチケタイム機能はありがたいのですが、「あれ、今日は何時から何時がトレチケタイムだっけ」というのが分かりにくいのが玉に瑕です。当日から3日~7日くらいのトレチケタイムのスケジュール表がどこかに表示されていると、生活の中にデレステを組み込みやすくなると思います。
3.営業の一覧性を高めてほしい
『営業』も楽しい機能です。沢山抱えすぎたアイドルみんなに活躍の場が与えられるし、忙しい時にスタミナをパッと消費できるのもありがたいです。
ただ、「6時間コースでトレチケが手に入る営業はどこだ?」「4時間コースで特訓アイテムが手に入る営業は?」みたいに、望みの営業先を探すのが若干面倒に感じます。小さなアイコンでいいので、全体マップに、各エリア内のどこにどんな営業があるかが表示されてるとありがたいです。
===============================================
デレステ2
いつも楽しくプレイしています。コンスタントな改善と要素の追加とで、とても楽しく遊びやすくなっています。ありがとうございます。
1.『ススメ!シンデレラロード』での獲得ポイントに対するステータスの閾値の公表
『ススメ!シンデレラロード』、とても面白いイベントだと思います。声が実装されていないアイドルの活躍も楽しいし、ゲームとしても、参照されるステータスが毎度変わるので飽きが来ません。
ただ、「獲得ポイントに対する参照ステータスの閾値」が公表されていないため、ユニット編成に面倒を感じたり、思考を放棄してゲームの楽しさが減退してしまうことがあります。効率的に楽しくユニットを組むためにも、各ステータスについて閾値を公表して頂きたく思います。
『LIVEParade』も各タームで達成条件が違って、ユニットを考える楽しさがあるイベントなのですが、曲を選んでいる最中やアイドルを選んでいる最中に公演目標を見られないのが不便です。
「コンボが求められているからこの曲とこのアイドル」「ハイスコアが求められてるからこの曲とこのアイドル」のように、せっかくの「いろんな曲やアイドルを選ぶ楽しみ」を活かすためにも、曲選択画面とユニット選択画面でも公演目標を表示したいです。
ネット上の言説やライブを見ても、過去と比べ女性プロデューサーの増加は顕著です。ぜひ、Pの性別を選択できるようにしていただきたいと思います。(アイドルのセリフ等は大分配慮されているように見受けますので、Pの一人称などを修正するだけでだいぶ変わると思います)
4.曲の得意不得意を数値化したい
これは『LIVEParade』をやっている時に特に感じるのですが、「結局自分はどの曲が得意で、どの曲なら高スコアを出せて、どの曲ならコンボを繋げられるのか」を、感覚ではなく数値で知りたいのです。
要するに、「『ミリシタ』で最近実装された『パーフェクト率』の実装」「フルコンボ数に対しどれだけコンボ数を出せているかの『コンボ率』の実装」「『パーフェクト率』『コンボ率』を軸にしたソートの実装」を検討して頂きたいです。少なくとも『LIVEParade』の期間中だけでもお願いしたいです。
色々な人から要望があると思います。かなりきついです。ぜひお願いします。
===============================================
ミリシタ
いつも楽しくプレイしています。サービス開始当初は「んっ」と思いましたが、システムの改善、度重なる良曲の追加、そして豊富なサービスによって、『デレステ』にも負けない神アプリになってると思います。わかちこPをはじめスタッフの皆さんに感謝いたします。
最近実装された『パーフェクト率表示機能』、いい機能だと思います。「パーフェクト率を高めていく楽しみはあるけど、ゲームとして報奨対象にしない・高めることを必須にしない」というバランスが素晴らしい。ただ、せっかくなので、このパーフェクト率を基に「自分の得意曲が何なのか」を、感覚ではなく数値で知るためにも使いたいです。「フルコンボ数に対しどれだけコンボ数を出せているかの『コンボ率』表示」「『パーフェクト率』『コンボ率』を軸にしたソート機能」も実装して頂くと、今後のゲームプレイと練習がよりスムーズになると思います。
ネット上の言説やライブを見ても、女性プロデューサーの増加は顕著です。ぜひ、Pの性別を選択できるようにしていただきたいと思います。(アイドルのセリフ等は大分配慮されているように見受けますので、Pの一人称などを修正するだけでだいぶ変わると思います)
3.初期曲への歓声SEの追加
『Happy Darling』や『エターナルハーモニー』は、曲や歌やダンスも楽しいですが、所謂"俺たち"のコールも楽しいです。まるでライブBDを観ているような、ライブに参加しているような感覚を味わえます。「ライブを楽しくするのが到達点」のミリオンライブにふさわしい機能だと思います。亜利沙の曲も楽しみにしています。
ただ、新規実装された曲がここまで楽しくなってくると、今度は逆に初期実装の曲に歓声が少ないのが気になります。特に『素敵なキセキ』! コールの楽しさ・ライブ現場での楽しさもミソとなっている曲なので、この曲に歓声が少ないのはとても寂しいです。『Thank You!』なども含め、是非とも初期曲への歓声の追加をお願いします。
名刺で、例えば「クレシェンドブルーの担当です!」「灼熱少女の担当です!」とアピールしたり、あるいは「『美希、貴音、響のユニット』の担当です!」「『琴葉、恵美、エレナのユニット』の担当です!」とアピールする機能が欲しいです。LTPやLTH以降、素晴らしいコンビやユニットが生まれていったミリオンだけに、需要があると思います。
https://anond.hatelabo.jp/20180518014637 の続きです。
2018/5/12に開催された「THE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSIC♪GROOVE☆」の如月千早主演公演第3部に参加してきました。この公演では如月千早が体調を崩し、歌うことが困難になるというトラブルが起きました。ここでは、その公演で私が感じた感情とその後考えたことを整理するためにまとめた文章を公開します。
レポートや感想というよりは感情の吐露です。また、如月千早は私が一番好きで応援したいと思っているアイドルです。そういった人間が書いたということを念頭においていただけると全体のめんどくささを予想、納得いただけるかと思います。
・公演の詳細に触れますので内容を知りたくない方はご注意ください。
・基本的に自分の千早観丸出しなので独善的解釈を多く含みます。
●公演の概要
●感情の整理。
●少しだけ理性を取り戻して。これから出来ること。
注意:ここから先は今井麻美さんについても必要な場合は言及いたします。
1.如月千早の約束をかなえる⇒リベンジのMR公演を実現させる
2.今回のようなことを防ぐ⇒アイマスイベントで体調を押して演者が参加することを防ぐ
基本的に後遺症が残ったり、長期間の治療リスクを発生させるようなことは、たとえ可能性が低くても絶対に避けるべきです。
どういう理由があってもです。
何よりこんな思いはもうしたくないのです。
だからこそ、何か防ぐために出来る事があるならやっておきたいと思いいろいろと考えてみました。
それはそれとして、私は今回の公演を否定しません。如月千早のやったことを否定しません。
彼女の何を思って舞台に立ったのか、それを考えれば考えるほど、その選択をした彼女はまさに私が応援してきた如月千早そのものであり、私が支えたい、応援したいと思ったアイドルの選択として痛いほど苦しいほど納得できます。
公演が成功だったとは口が裂けてもいえません。
が、それでも私は、「避けるべきリスクを避けずに行われたあげく、結果製品レベルのサービス(すなわちちゃんと歌えるソロパート)が提供できなかった」という理由をもってして、「今回の公演はすべて失敗でありあらゆる判断は間違っていた」と結論付ける事は絶対にしたくありません。なのでしません。
これはこの章においてなお理性の1000倍存在する感情の判断なので、理性に欠けておりいろんな意味でよくない判断だと思います。
それでも私は如月千早が舞台に立ったこと、そしてその決断をした背景と意思を否定したくありません。
結果、第三部は互いに傷ついてぼろぼろになりながら何とか最後までたどり着くというかたちになりました。
多くの部分で良くも悪くも感動があり、大きな心の動きがありました。
私はより如月千早を好きになり、応援したいと思い、支えたいと思いました。
でもこんなライブは二度とごめんですし、絶対に繰り返してほしくないですし、繰り返させないようにしたいです。
その上で、がんばった千早とその思いは否定したくないのです。絶対に。
なので私の中でこの公演については例外として扱います。唯一無二の例外です。
これ以外は絶対にもう二度と同じようなことは認めません。というつもりで生きていきます。
目的は3つです
今回の件のリスクの重大さを理性的に判断するには今井麻美さんにも注目する必要があります。
なぜか。今回のような無理をしてリスクを背負うのは如月千早と今井麻美さんであり、実存存在は今井麻美さんだからです。
今井麻美さんは声優であり歌手です。したがってのど・歌声というのは命と同じぐらい大切なものです。
そこにリスクを負うということが今回行われました。これは大変なことです。
今井麻美さんは如月千早役だけをやっているわけではありません。
一個のコンテンツが、ひとつのイベントが、その人の人生を左右するようなリスクを背負わせていいのか?
一般的に言えば「コンテンツ側の都合だけで持たせるのは絶対NO」です。
以上が(1)の確認です。アイマスを長く続けるためにはコンテンツ全体でこういった事態を招かないような仕組みを保持し、信頼を獲得する必要があるようにも思います。
このことから今回の件については、今井麻美さん自身も少なくない割合で「如月千早を舞台に立たせる」という判断をとったのではないかという推察が出来ます。
リスクを負う本人の意思はまったく考慮されず、ライブ制作側(バンダイナムコ)からの強要だけで強行ということは考えにくいからです。
あくまで推察であり、経緯の詳細が判明することはありませんが、少なくとも今井麻美さんの判断0で決まったということはないでしょう。(そんなことしてくるような極悪人集団と10年以上辛酸をなめながら同じコンテンツを作るなんて到底無理です。)
これは逆も言えることで、演者が無理を押して出たいといっても主催側がOKを出さなくては舞台が始まらないはずです。
1つ前の公演の終了が会場時間の1時間半前ということも考えると、主催側としても公演の中止や内容変更についてかなり厳しい状態で判断する必要があったであろう子とも想像できます。
では、今井麻美さんは何を思いあの舞台に如月千早を送り出したのでしょう?(ポエム開始)
今井麻美さんにとって如月千早が大切で特別な存在であるということは随所のインタビューやコメントなどで知ることが出来ます。
今回はその如月千早のMR公演の初回であり、現実世界における初めての舞台でした。
私はおそらく世界で一番如月千早のことを思う今井麻美さん自身が、少なからず今回の公演を予定通り実施することにこだわった可能性はあるのではないかと思っています。
千早を最もよく理解し、千早とともに悩み、歩き、喜びと苦しみを分かち合ってきた今井麻美さんだからこそ、ゆずれないものがあったはずです。
自分の負担とか不利益とかそういったことを超えて、如月千早にとっても、今井麻美さん自身としても、逃したくないもの、失いたくないもののために、今この時をどうしてもゆずることができない。
そういった感情があったのではないでしょうか。
如月千早は絶対にやりきるはずだ。やりきってみせる。彼女の志を、積み重ねを嘘にしないために。
そういった思いがあったのではないでしょうか。
そういう妄想です。
(3)について。
ポエムでもちょっと触れましたが無茶をする背景には演者と舞台主催側両方の都合があるはずということです。
ではどっちかを説得できれば今回の事態は避けられるということで、そこにヒントがありそうです。
ポエミーおおめの前置きが長くなりましたが、私としては
といった意見です。
上記を踏まえ取り組んでいくとよさそうなことを考えてみました。
最近ではもう前時代的な感覚になってきていると思いますが、スポーツ競技、特に若年層の部活動などでは怪我や不調を押してチームに貢献しようと試合に出たりそれで結果を残したりする選手が居ると、美談化され感動物語としてもてはやす風潮がかつて見られることがありました。
「その選手が自分の意思でやってんだからいいやろ!」というのが有りますがそういう問題だけではないです。
どちらかと言うとその選手の周り、コミニティの価値観が作る空気のほうが問題になってくると考えます。
コミニティの中で上記のような行動がもてはやされていると少なからずそれを強制する力が働き、場合によっては逃げられなくなります。
チームの柱、そいつが居ないとどうしても戦えないような試合でエースが限界を超えて延長戦に永遠に出場し続ける。
そうするとほめられる風潮がそれを後押ししている可能性は大いにあります。
そして一番厄介なのがその風潮のせいで「そうしないといけないのでは?」「そうしなかったら私は薄情ものになるのでは?」と言う気持ちを選手に抱かせる可能性があるということです。
「みとめてやらなくちゃいけないのでは?」「こいつの意思を踏みにじるだめな大人なのでは?」という迷いを監督や指導者に抱かせる可能性があるということです。
アイマスの元祖である765ASの歌姫、蒼の系譜の如月千早が行った今回の公演が美談化され神格化されたとしましょう。
そんな中、ほかのアイマスアイドルの演者達が似たような窮地に立たされたとしたら。
今回の事はあってはならぬこと、深く反省し戒めるべきことだとコンテンツ消費者側が認識していることを表明する必要があります。
皆さんお気づきの通り私はこれを行うことが出来ません。
私は先ほど自分勝手な感情論で「今回の公演を絶対に否定しない」と決めたからです。
ですので皆さんが私の代わりに、今回のような体調不良を押して、後に影響が残るかもしれない健康的身体的リスクを演者に背負わせる公演はダメ!ということをコミニティの共通認識にしてください。
「プロデューサー達はアイドルの健康について大変関心が高く、無理をすることを好まない」
私はその動きに参加も貢献も出来ませんが、邪魔は絶対にしません。
意思決定機関の内の一方、舞台主催側であるアイマス制作陣営に「消費者は演者の体調が優れない場合は、公演強行よりも中止や代打、演出変更での対応を高く評価する」といった認識を伝えるということです。
これが最も直接的で効果的だと思います。そしてそれ以外ほとんど手がないようにも思えます。
どうやったって当日現場でまさに今判断のとき!となっているところに私達は口を挟めないです。
ですので、中止や代打や演目変更が妥当で最善だと判断させるための材料を事前に送っておくしかないでしょう。
私は、今回のMRのアンケートにはかなり強めに複数個所「今後はもう絶対にやめてほしい」と意見を書きました。
これは私にとって直接第三部公演を否定しない行為だったので何とか実施できました。
5/17の深夜(正確には針はてっぺんを越えているのでもう5/18です)、果たして明日の公演はどうなるのか。
はじめはネットに散らばる色々なプロデューサーの記録を拝見することで感情を整理しようと考えました。
色々な意見や見方、捉え方が有り、千早へのアイマスへの愛がありました。
そして多くの方の思いに触発され、私はよりいっそう色々と考える結果になりました。
そんな中、自分の感情を整理するために怪文書をしたためたわけですが、いまだに様々な感情の渦が心をめぐり、落ち着きません。
結局、元気に力強く歌を歌う千早に再び出会うことでしか整理できない何かを感じているのかもしれません。
彼女の窮地に手を差し伸べることが出来ず、逆に彼女に救いを求めているというなんとも情けない状況です。
情けなくても何でもいいので私は心から如月千早に元気になってもらいたいです。
2018/05/18に開催された千早主演公演に参加してきました。
結果、彼女はこの日の公演をすべて歌いきってくれました。
参加した1部、2部公演の感想をレポートにまとめました → https://anond.hatelabo.jp/20180518235241
そのユニットはまぁまぁそこそこ人気があり、イベントやらステージやらがあるとチケットが争奪戦になる。
そういう機会の度に毎度モヤっとしたり腹が立ったりすることもあるが、普段なかなか言えないので長くなるけれども吐き出したい。
少し前にそのユニットの舞台のチケットの当落があったときに、知人が2回いけることになった。
最初本人の申し込みが落選したことを残念がっていたのだが、恐らく一緒に行こうとしていたご友人は当選したのと、あとは別の人がお誘いをしたことでいけることになった。
だが2回いけることをツイートしたらそれを見たフォロワーが引用RTをしてバッシングをはじめた。
相互フォローだったようだが直接リプライするわけでもなくエアリプで取り上げ、別のフォロワーと2回行く行為についてバッシングしまくった。
"自分だったら行けない人に譲る、それをしないなんて”、という観点でのバッシングであった。
行けない人がいるならばそちらにチケットを譲りたい、という広い心はいいと思うが、それはあくまで個人の考えであって、自分はこうするから他の人もこうすべき、という押し付けはいかがなものかなと思い、モヤモヤとした。
自分の立ち位置としては一つのイベントについて行ける限り複数行くタイプだ。
ただチケットが取りにくいものに関してはそういう行動について目に付くところに出すと面倒ごとが起きると思っているので出さないし、知人についてそれを表に出してしまったことは迂闊だったなと思う。
この知人に限らず、チケットが当選したというだけでブロックされたという話も聞いたし、「見たい人がいるのに何回も行くなんて○○さん(ユニットのメンバーの名前)が聞いたら怒っちゃうよ」とか本人が言ってもいないことを出してバッシングする人も出てきた。
そんなに複数回行くことが悪なのか。
正直疑問なのだ。
ファンクラブ、携帯サイト会員、劇場先行、主催先行、プレイガイド先行(有料会員先行も別にあったりする)、一般発売
一般勝負のものもなくはないけれど、大体何かしらの先行がある。
ということであればなんら違法なことをしなくても一人の人間が複数のチケットを手にする機会が存在するということだ。
まぁ先述のような人たちはFCなどで当たったらそれ以降申し込みすべきでないというスタンスなのかもしれないけれども、公式がご用意している限りは持っている権利だと自分は思う。
で、よく耳にする文言としては「行きたくても行けない人がいる」というやつなのだけれども、その「行きたい」とはどの程度行きたいのか。
どの先行も申し込んでも申し込んでも落ちてしまうのは運だから仕方ないというところは実際ある。
でもその落ちてしまう理由っていうのもただの運だけじゃないと自分は思う。
例えば、申し込む全てが東京の初日や楽日、土日に集中して、多くの希望者がいるところだけだった場合、当然当選率も落ちる。
それは「自分が都合のいいときに行けない」であって本当に「行けない」というのとは違うんじゃないだろうか。
例えばそういう日程ばかりでしか申し込まず、全然当たらない…と言ってる人に対して、交通費が多くかかる地方でのチケットがあると言ったら行くだろうか。
自分も勿論人気の日程も行きたい気持ちもあるが、申し込みをするときにはまず「行く」ことを優先して、場所、日程共にどこだったらば当選率が高いかを考えて申し込みをする。
駄目元で人気日程を申し込みをすることもあるが、そのときは申し込み枠を半分捨てる気持ちは持っている。
それで確実にチケットを取っていき、各先行でチケットを増やしていく。
また、先行だけじゃなくても、友人などがチケットを被らせてしまって譲渡をしたいというのであれば迷う余地なくすぐに譲ってもらう。
公演日直前になって同行者が行けなくなったとか、 外せない仕事でいけなくなってしまったとかで席が空きそうという連絡を貰えば最大限調整をする。
その他おけぴ等のチケットお譲りは随時チェックを欠かさないし、有難いことに友人からのお誘いもあって何回も行けることが出来る。
利益を上乗せしない個人間の譲渡がアリかどうかという点については今回の論点とちょっとずれるのでおいておく。
ただダフ屋のような転売には一切手を出さないし、当落の後、落選の怒りは全部オークションや転売サイトの違反報告にぶつけている。
友人からの譲渡等については本当友人に感謝しかないのだが、そういう繋がりでのやりとりを快く思わない人もいる。
最初に出した知人の件だが、知人にチケットを譲った人は、知人をバッシングした人とも繋がりがあったらしい。
知人は、その人に譲ればよかったのかな、と落ち込んでいた。
もしその人がバッシングした人の方に譲ると言っていた場合、どういう行動を取ったのだろうかな、と思ったりもする。
この件とは全く別の件だが、同じように一回行けたなら行けてない人に譲るべき!と息巻いていた人がいたが、蓋を開けてみたら抽選形式の当日券にて何度も観に行っていたりして、どの口が言っていたのかと思ったことがある。
だから先ほどの件もバッシングの仕方を見て下衆な憶測をすると、自分と繋がりがあるにも関わらず、自分ではなく他の人に譲られるのが腹が立ったんじゃないかなと。
でもその譲った人は知人に譲ったわけで、恐らくそこには知人と相手との交友関係があったからで、そのバッシングした人は譲渡した人とそこまでの交友関係を築いていなかったわけで。
日頃交友を結ぶことへ労力をつぎ込んでおくのも大事なことであり、普段そういうことをしないでチケットだけ勝手に舞い込むなんてあるわけがない。
本当にそうなんだろうとは思う。
でも、そういう道を選んでいるのは自分自身だと思う。
自分は昔休みの自由が利かない仕事を長らくしていて身動きが取れなかったときがあったが、自分が行きたい舞台にもろくにいけない生活に正直心は死んでいた。
今は自分の時間がある程度コントロールできる仕事をしている、が給料は安いし、不安定な雇用形態だ。
だとしても自分が行きたいときに自由に動ける立場というのが自分の中ではとても大事で、それで貧しい生活になったとしても何も苦ではない。
だから、仕事で行けない、と理由を言う人については仕事を変えればいいじゃないと軽率に思うし、それが出来ないのであればその舞台より仕事の方がずっと大事なのだから行けないのも仕方ないじゃない、と思う。
あっちもこっちも全部成り立たせようというのだから無理が出てくる。
こんなことを改めて思ったのは、件のユニットとは別にチケットを取ろうとしたものがあり、先行が連続で落ちてしまって取れなかったことがあったからだ。
その界隈に明るくなかったからそこまで人気だということを知らなかったので甘く見ていた。
別に見たいだけで席はいいところでなくてもいいし、夜の公演なら仕事終わってからでも十分間に合う時間だし、と考えながらの申し込みだった。
落ち込んだところで友人に言われたのが「○○(地域名)ならあるみたいだよ」とのこと。
そこだけでなく、大きい都市以外の地方のチケットは一般でも全然残っており、行きたければ行ける状況。
だから、その状況における自分の”行きたい”は所詮そんなもんなんだな、と思った。
そんなことがあって、複数ステを悪とする人の言う「行きたい人」ってどれほど行きたいものか、と考えた。
自分が追っかけているユニットについては、東京だったら行きたい、とか、土日なら行きたい、という人の”行きたい”より、どの地域でもとにかく行きたい自分の”行きたい”方がより強い欲求、強い熱量だと思う。
それだけ行きたいなら行けるように自分の環境を整えろよ、いろんな先行に目を光らせろよ、有料の会員になって申し込めるタイミングを増やせよ、日々チケットを探す手間を惜しむなよ、普段から交流してネットワーク作る努力しろよ、それらを惜しんでただぼんやりチケット欲しいなぁ~って人が口を開けてるだけで来るわけがない。
勿論ビジネスとして行きたいと思ったまだ浅いファンや、ちょっと興味を持った人が行けない状況というのはファンの間口を狭めることになるので、行きたいと思った人が皆行けるのが理想ではあるが、なにぶん入れる人数に限りがあるので難しい。
その分、チケットが取りづらい為に楽日などには全国の映画館でライブビューイングもやって、見たいけど見れない人の受け皿をちゃんと作っている。
ちょっとチケット代も安いので、初心者にはそれくらいがちょうど良かったりもするんじゃないかと思う。
それこそ、一人一回しか見るべきではないという制限をつける方がビジネスとしては厳しい状態になると思う。
都会はチケットがなくなるけれど、田舎はガラ空き、そうなったとするとその実施地域では採算が取れないということになり、今後そのエリアでの上演はなくなってしまう可能性も十分に考えられる。
実際、全国を回るツアーなどでの観客のそこそこの人数は遠征してきている人たちだ。
少し話はずれるが、その実施地域についてはその地元の人が行くべきで、遠征組は控えろという意見も見たことがある。
だが地域としては地元民だけではなく、遠征の人間がその土地へ行き、観光をし、普段の食よりちょっと奮発していいものを食べ、お土産を買ったりすることでその地域の為になることも少なくない。
一人一回とかにすることで得られるメリットより、その制限を設けることで損失することの方が多いのではないかと思う。
沢山ある演目の中連日盛況でチケット争奪になるものというのは偏りがある。
行われる多くの舞台ではチケットが残り続けたり、盛況に見せるためにあまりすぎた公演はチケットをプレイガイド社内で配って客寄せをしたりすることだってある。
地方が空いているのであれば一度見に来てくれている人がまたお金を出して来てくれるのはありがたいことだ。
それを複数行くことでメンバーが怒るとか、本人が思ってもいないであろうことをなに勝手に代弁しているんだと思う。
だがその価値観はけして他の人に押し付けるべきじゃないし、マナーでも、正義でもなんでもない。
違法行為でもないことについてそこまで言及出来るまでの根拠が自分にはわからないし、そういうと「違法じゃなければしなくていいわけじゃない」とか言うゆるっゆるな根拠が出てくる。
https://anond.hatelabo.jp/20170523204731
前にこんな話を書いた。
端的に言うと「歴史が繰り返されるのは『役者』が変わってるから一見して同じ演目をやっていると気づかない」という内容だ。
この後日本の政治は激動したが、結果的に「二・二六事件」は起きなかった。
前回も描いた話だが、安倍晋三という人物は散々ヒトラーに例えられて、マスメディアでも散々危険視されてる。
これだけ警戒されてる人間は、最後まで危険な企てを達成できない。
一部の人たちはよく自分に都合の悪い選挙結果が出ると「愚民」だなんだというが、日本国民の大半は馬鹿じゃない。
「一度やったパターン」なら、回避できる。歴史で勉強して、メディアも散々その危険をあおってくれるからだ。
だからこそ、俺は次に「ヒトラー」になれるのは、これまで一度も「ヒトラー」に例えられてない奴だけだと思っている。
カイロ大学で学んでいたせいか、彼女は民主主義を軽視し、独裁的な手法で次々と物事を決めていたが、メディアは小池百合子を一度もヒトラーとは言わなかった。
俺は、小池百合子が選挙に勝って勢力を広げていくのを見ながら、この政治家は、次の独裁者の役割を担える「役者」だと思った。
国政に出てきたときはいよいよ危ないと思ったが、「排除」の一言で最大の味方だったメディアからそっぽを向かれ、反乱は不発に終わった。
ただ、最近テレビを見ていて「結局、歴史は繰り返しそうだな」という思いが増してきた。
今行われている平昌オリンピックは、1936年の「ベルリンオリンピック」と同じ役目を担っているように見える。
ベルリンオリンピックは、ヒトラー政権化のドイツで開催された夏の五輪だ。
ヒトラー自身はオリンピックを「ユダヤ人の祭典」とみなして毛嫌いしていたが、周囲から「プロパガンダに活用できる」と説得され、力を入れて実施する方向に考えを変えた。
その後の歴史を知っていれば、「なぜヒトラー政権下でオリンピックができたんだ」と不思議に思う人も多いだろうが、このとき、ヒトラーは重要な決定を下していた。
国内からユダヤ人迫害を煽る看板などを撤去し、ユダヤ人を含めたさまざまな人種の出場を認めることで、ヒトラーは無事ベルリンオリンピックを開催にこぎつけた。
その後ヒトラーは「聖火ランナー」をはじめ、これまでのオリンピックになかった演出を効果的に取り入れることで、大会を成功に導いた。
大会の様子は世界中にテレビ中継され、世界中の人々が釘付けになった。
「意思の勝利」の監督でもある女性映画監督、リーフェンシュタールによって、この大会は「オリンピア」という名前で映画化され、その映像は国内外で絶賛された。
この歴史をふまえて、今の平昌オリンピックの様子を思い出してほしい。
開催されているのは韓国・平昌だが、その話題の中心は北朝鮮だ。
開催直前に、金正恩が対話の姿勢を見せたことで、文在寅は喜んで北朝鮮の選手団を迎え入れ、統一チームさえ作った。
開会式には金正恩の妹・金与正が派遣され、世界中のメディアが、その姿を連日報道し続けている。
美女応援団は堂々とスタジアム内での応援を許され、明らかに金日成のものと思われる「美男子の仮面」まで取り出したが、お咎めはなかった。
これらの様子は、世界中のメディアが「融和」の言葉とともに連日報道し、誰もが金与正、美女応援団の存在を知っている。
見事なプロパガンダだ。
アメリカのペンス副大統領は、世論が「朝鮮半島の融和」一色に染められないよう、
北朝鮮に拉致され拷問死した大学生、オットー・ワームビアの家族とともに北朝鮮を訪問していたが、
そのことを取り上げたメディアはごくわずかだ。地上波で取り上げられた時間は、金与正の百分の一以下だろう。
金正恩と北朝鮮は、オリンピックを利用したプロパガンダに、現在進行形で成功している。
その意味を、どれだけ多くの人が真剣に捉えているのか、正直疑問だ。
さらに悪いことに、ヒトラーと違って、金正恩は「核兵器の廃棄」を約束すらしていない。
オリンピックが終われば、すぐにその野心を隠さなくなるはずだ。
ベルリンオリンピックが開催されたのは、1936年だった。
次の開催予定地が何処だったか。思い出した人は、俺が言いたいことを理解してくれていると思う。
いわゆる「幻の東京オリンピック」の年だ。
俺は、2020年のオリンピックが幻になる可能性は、ゼロじゃないと思っている。
前回は、開催される可能性は「50%くらい」じゃないかと書いたが、今は、その可能性はもう少し下がったと思う。