はてなキーワード: 墓所とは
どっかで見たよ~な要素がぶち込まれまくってひたすら車輪の再発名をしている感じ
あんたそれ以外描けないの?いや描けないであろうことはわかるんだけどさ
風立ちぬはいいよ?初めて(その年にして初めて!)「俺は結局はお坊ちゃんなんだよ」って言ったからね
でも二度も三度もやることじゃないでしょ
良くも悪くも心が動かされたのは序盤の風立ちぬ+トトロ再利用したような絵面に突っ込みいれているあたりと
終盤に入って爺さんから積み木の話聞かされて以降くらいだった
あっそっすよね
ペリカンさんも大変っすよね
たしかNHKドキュメンタリーの「終わらない人 宮崎駿」のなかだったと思うけど
鈴木敏夫がポニョについて「あまり好きじゃない」と語るくだりがあった
全編昔やったことだらけじゃないの
だってほぼ全てのひとが思ってるだろうけど
しかもその石の破壊も主人公じゃなくてインコがぶった切っちゃうし
いや、いろいろ読解の余地はあるよ
外界の住人である主人公ではなくて世界の住民自身の(誤った)行動によって世界が崩壊するとか
崩壊ではあるけどインコたちは外に出れてるわけで自らを束縛するものを自分たち自身の手で否定できてるとか
でもね、些末なのよ
味のないガムも楽しもうと思えば楽しめますみたいなものであってそれ以上じゃない
インコの王様の動きは「おっ!」と思わせるものがあってここで最後に主人公と大立ち回りを繰り広げてくれるのか!?と思ったら
剣でテーブルごと積み木ぶった切るだけ
マジか~
まぁ説明不足なのとか見てると宮崎駿が体力的に持たなかったってことなんかな
それならもう仕方がないや
でも「敢えて」描かなかったとかならエンタメ映画つくるのやめちまえよと思う
通俗エンタメにも作法があるはずで、ここでアクションをいれる!みたいのあるでしょ
昨今のジャンル映画がジャンルの型を否定するがあまりジャンルそのものを否定するのを見てると脱力する
そんなに枠組みを否定したいならそのジャンルでやんなきゃいいじゃんね
通俗エンタメならちゃんと観客をスカッとさわやかな気分にさせてくれ
いや個別にそういう作品もあるってんならまだ納得できるかもだが
ただまぁ時が経てば言及する奴は熱狂的なファンに限定されていくし
否定的なファンの感情も摩滅していくから結果的に味のある作品って社会的評価になるのかもね
宮さんお疲れさまでした
いやーあれはよかった
なんか国の王様がトチ狂って自城の地下墓所に国の軍勢派遣してお宝探しを始めるも地下墓所が超絶ヤバいトラップにモンスターだらけで軍勢壊滅しちゃって主人公の父親は偉い騎士で生存者を助けに向かうも力尽きて死亡し主人公は遺品として父親の愛剣なお石製でクソ重く切れない実質的に鈍器を拾ってなんやかんやあって国の守護神的な「森の竜」に遭遇したと思ったらクソ重くて使いづらい父親の遺品が超絶軽くて超切れてなんなら光波出せるムーンライトソードに変貌ししかも実は王様が探していたお宝はムーンライトソードと発覚して王様は実はモンスターでムーンライトソードでぶっ殺して主人公が国王に即位しハッピーエンドるもこれって対外的には単なる暗殺乗っ取り事件だよね。
ちなみにゲームバランス的にはラスボス以外の全ての敵がちょっとでもダメージ通ると一瞬怯んで動きを止める仕様だったためMP自動回復する装備具体的にはトリプルファングを手に入れた瞬間に最弱魔法のライトニードルでチクチク敵の動き止めつつ殴るだけのヌルゲーと化すが関係なく即死トラップで死ぬ。
あと人体のことを一切考慮していない歩き揺れっぷりで超絶3D酔いするってかこのゲームの最難関ポイントはこの3D酔いであるが3日で慣れる。
ムーンライトソードが盗まれてやべえよと思ったら実は「森の竜」の仕業でってか森の竜は実は「ギーラ」という悪い奴で放置するとヤバいぜってなって1の主人公の親友な隣の国の王子が純粋に善意でムーンライトソード取り返し&ギーラ討伐に向かって水没死しまくりつつなんとか進んで崖から飛び降りて日本刀拾ったりムーミン狩りまくって最強の刺突剣なお性能的には鈍器を拾ったり聖剣鍛えられるすげえ鍛冶師と出会ってギーラに対抗できる存在の「シース」て奴の力を込めたギーラをぶっ殺せるダークスレイヤーって聖剣を作ってもらってなんやかんやギーラぶっ殺してムーンライトソード回収してハッピーエンド余談だが実はギーラをぶっ殺さなくてもムーンライトソード回収可能だがギーラをぶっ殺さないとエンディングが始まらないためとにかくギーラをぶっ殺す必要がある。
ゲームバランス的にはKFの中で最も良いとされておりダンジョンの構造とトラップから感じられる作り手の殺意が芸術的な領域でかつそこまで長くもないのでRTAもやれたりするしファンの評価は高いがHPとMPの自動回復装備を拾った瞬間にかなりヌルくなるがそれはまあ仕方ないと言えよう。
ちなみに歩き揺れがかなりマイルドになったのとそもそも歩き揺れをオフにできるオプションが設定されたため3D酔いの心配はいらない。
ムーンライトソードがまた盗まれたと思ったら回収できたんだけど何故かムーンライトソード折れててあと1主人公がトチ狂っちゃったもんだから2主人公が命と引き換えに城ごと1主人公を封印してその前にギリ逃げてた1主人公の息子が成長して1主人公をぶっ殺しに行く話なんだけど城の封印を解くために手持ちの剣を成長させたりとか各属性の魔力を得る必要があるとか地味に遠回りさせられてる感は否めないものの崖から飛び降りて日本刀回収したりミーアの死体を見たりしつつ城の封印解除して折れたムーンライトソード回収してなんとなく1ダンジョンでもある地下墓所に行ったら2でぶっ殺したギーラの怨念漂っててムーンライトソードが直ってそれで1主人公をぶっ殺したら実は1主人公はシースに操られていたと発覚しなんだよシースも悪い奴じゃねえかとシースをぶっ殺してやっぱ得体のしれない強い力に頼っちゃならんよねって辻褄合わせてハッピーエンド。
ゲームバランス的にはマップ広がったりアイテム増えたり魔法増えたりした関係でプレイヤー側のやれることが増えて結果だいぶヌルくなったがブロミウス装備揃えて物理ダメージ無効にするとかプレイヤーのアクションスキルに依存しない対策が取れるようになってやってて楽しい。
まるっきり話を覚えてない。PS2でグラフィックキレイになったよなというのと水死しなくなったよなということしか覚えてない。なんかやっててダルかった。ムーンライトソードの光波は過去最高にカッコよく強かったがムーンライトソードのデザインが変わっちゃって端的にダサくなって残念だった。
四天王みたいな人と一通り対戦?したしなんか遊戯王のカードスロットみたいなのも付けたし多分クリアーしたと思う
でもまだ謎解きとかがわからんのよねー。初期の小屋の中でのカードの配置とか
第2ステージ?での墓所の中の棺のやつとか、P30戦での墓所エリアの鍵とか、わからんのが結構のこってるんだよなー
しかしなんだろう、やれどもやれどもゲームのルールが際限なく変わっていって、ゲームのルール把握できたかなーって思ったタイミングで
盤面をひっくり返さえて、カードを奪われて、むちゃくちゃすんじゃねーー!っていう気分になる
カードゲームプレーヤーはこういう公式のアナウンスに延々と付き合ってるのか?そういうことを再現してるのかな?みたいな気分になった
ただこのゲーム作るのめちゃくちゃたいへんだろうなーっていう、ほとんどの戦闘に専用演出みたいなのが組み込まれてて、8割ボス戦っていう感覚
アドベンチャーゲムに近いんだろうけど、なんていう作り込みなんだろうか、ここまでゲームのシステムを作り込んでてそれを平気で壊すような演出まであるし、
なんかすげーゲームしたっていう気分。多分 UNDERTALE の影響もバチクソ受けてるんだろうけど、私はこの作品のほうが好みです。
寒いギャグが無いのがいいですね。あと役者の人の演技がめっちゃうまいので好印象です
しかしなんだ。むちゃくちゃなゲームだな。なんだろうやってもやってもこのゲームのそこが見えない感じは。いいゲームだけど、なんだろう、これゲームなのかな?
ゲームっぽいことはやってたしルールも成立してるから、ちゃんとゲームとしてもっと対戦したかったなーっていう感じはする。なんか打ち切り漫画のど等のラストスパートみたいでもったいない。でもまぁ実際これだけのボリュームのゲームを作り続けるのはシンドいだろうししゃーないのかな
あとおばちゃんとモリゾーみたいな魔道士ともちゃんと戦いたかったな。エンディングは別の選択肢もあったのかな?よくわからん。とりあえずクリアーしたしネタバレ解禁ということで攻略記事でも見てこようかなー
まぁ面白かったかな?面白くなくはないかな。ちょっと意地悪な戦闘に辟易するところもあったけど、
って!再起動したらまだなんかあるみたいだな。もう少し続けるか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E6%A8%A9%E5%85%AB
1655年
死没 延宝7年11月3日
藩 鳥取藩
妻 小紫
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平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本の武士である[1][2][3][4][5][6]。講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる[1][2][3][4][5][6]。
明暦元年(グレゴリオ暦1655年)に生まれた、とされる[1]。「享年25」からの推測である[1]。父は平井正右衛門。
因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫(須藤助太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)した[1][2][3][4][5][6][7]。新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となる[1][4][5][6]。やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる[1][2][3][4][5][6]。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたことから、自首したとされる[7]。
1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した[1]。享年25(満23-24歳没)[1]。小紫は刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる[7]。
[B! 司法] 「国民の一般的な宗教的感情」を害したので有罪。孤立出産で死産したベトナム人技能実習生、地裁判決の中身(望月優大) - 個人 - Yahoo!ニュース
この件、既にブコメでも言われてるから敢えて書く必要はないかもしれないが、「国民の一般的な宗教的感情」が持ち出されるのは仕方ないと思う。
誤解無いように言えば技能実習生だったリンさんに対して下された判決そのものを妥当だと言ってるわけではない。「国民の一般的な宗教的感情」の中身や適用範囲には議論の余地があるが、「国民の一般的な宗教的感情」という概念自体はやむを得ないというお気持ち。
Q. 「国民の一般的な宗教感情」概念自体は仕方ないにしても有罪に導くロジックはおかしいのでは?
A. 実際のところ実務的な論点はそっちの方が重要だと思うよ!このエントリは死体遺棄罪の保護法益は「国民の一般的な宗教感情」としか言えないしそこはしゃーないって話しかしてないからね。「殺人罪の保護法益は『人命』です」ってエントリだけじゃ実際の事件に対して殺人か傷害致死か過失致死か、正当防衛か緊急避難か、手術の失敗みたいな仕方ない事案なのか、責任能力はあるのか、そもそも被疑者が犯人なのかetcなんて語れてないというのと同じです。
ベトナム人元技能実習生に逆転無罪判決 死産児遺棄の罪 最高裁 | NHK | 事件
最高裁で逆転無罪判決が出たようです。かなり珍しい形ではないでしょうか。難しい判断だったかと愚考しますが個人的には良かったと思います。NHKのこの記事は論点を網羅していて良い記事ですね。技能実習生に対する妊娠・出産に関しての不適切な言動について「出入国在留管理庁が去年初めて……実態調査を行った」レベルなのは今まで行われてなかったのかと愕然とするものがありますが…。
制度に関する有識者会議が現在開かれています。この事件を通して技能実習制度が孕む問題について真剣な社会的議論が行われることを切に望みます。技能実習制度の抜本的な改革が叫ばれてもう20年以上経ちました。その間に訴訟が起き労働者性が認められ、法が変わり労基法も適用されるようになりましたし、外国人技能実習機構という新しい組織がなんかできたりもしました。もちろん状況の改善がなかったとは言いません。しかし一方でずっと同じ問題が指摘され続けてもいます。そろそろこの問題に決着をつけてほしいと願うばかりです。
第188条
1 神祠し、仏堂、墓所その他の礼拝所に対し、公然と不敬な行為をした者は、六月以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。
2 説教、礼拝又は葬式を妨害した者は、一年以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。
第189条
墳墓を発掘した者は、二年以下の懲役に処する。
第190条
死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する。
第191条
第百八十九条の罪を犯して、死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三月以上五年以下の懲役に処する。
第192条
まず刑法の建て付けとして死体遺棄罪を含む死体損壊罪等(190条)は「礼拝所及び墳墓に関する罪」という章の中にあるんだよね。同じ章にある第188条は「礼拝所に対し、公然と不敬」をした人間を罰するもの(礼拝所不敬罪)だったり第189条は墳墓の発掘者を罰するもの(墳墓発掘罪)だったりで非常に宗教的な内容。なので190条も宗教的な項目だと見るのはそこまでおかしくない。もちろん猥褻関係の罪のように同じ章でも個人法益の保護と社会法益の保護と分かれてるものもあるので必ずしもというところではあるんだけど。実際192条は明らかに性質が違うので。
第1条
この法律は、墓地、納骨堂又は火葬場の管理及び埋葬等が、国民の宗教的感情に適合し、且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から、支障なく行われることを目的とする。
関連して墓地埋葬法では宗教的感情を理由に墓地や埋葬に関わる規制を行うと明示している。
しかし、それでも死体損壊罪等は宗教的側面から逃れられないだろう。と、その前に感情を保護法益にできるのかという話をしなければならない。
確かに刑法において感情を保護法益にするのはあまり好ましく思われていない。例えば侮辱罪について保護法益を名誉感情とする説もあるが人気はない。刑法は謙抑的でなければならないのに安易に感情を理由にした規制を認めれば際限なく広がりうるからだ。社会秩序としての「国民の一般的な宗教的感情」が云々と言った時も何とかして法益の最終地点を社会秩序とか宗教的風俗とかそういうところに落とし込もうという謎の努力が垣間見られる。
しかしはっきり言えば第188-191条は基本的に「宗教的感情」を保護法益とするものだと理解されることが多い。礼拝所不敬罪についての高裁の判例を見てみよう。
……思うに、同条は、国民の宗教的崇敬ないしは死者に対する尊敬の感情を害する行為を処罰するものであつて、そのいかなる行為がこれに該当するかは時代によつて同一ではないであろう。しかしながら、今日のわが国の公衆一般の感情としては、特に清浄を保つべき場所たる墓所の区画内において放尿するがごときはなお明らかに墓所の神聖を穢すものと観念されるのであつて、このことからさらに推して考えるならば、たとえ現実には放尿しなくとも、放尿するがごとき格好をすること自体、見る者をしてその墓所に対する崇敬の念に著しく相反する感を与えるものといわなければならない。……
いや、判例がそう言おうとも礼拝所不敬罪(188条1項)と説教等妨害罪(188条2項)についてはあくまで宗教的自由の保障なんだという意見はありえる。墳墓発掘罪(189条)についても確かにそう言えなくもない。これらは他者の宗教的行為に対して害をなしていると言う立論もできなくもないからだ。
しかし果たして死体遺棄や損壊は他人の宗教的行為に害をなしていると言えるのだろうか?やはり死者への崇敬の念という宗教的感情で説明せざるを得ないのではないか(通常189条に対してもこう説明される)。
これはつまりそもそも何故死体はここまで保護されるのだろうかという問題である。何故器物損壊罪では飽き足らず、死体損壊罪を特別に規定したのだろうか。感情を持ち出したくないなら死者の生前の人格権の延長と見なすという方法はある。それでも権利主体でもない死体が法益の帰属主体となりえるのかという疑問は湧く。しかもこれだと生前の火葬を拒否していた人間を火葬したら人格権の否定として死体損壊罪の構成要件に該当する可能性まで生まれてしまう。
実際のところ死体が敬意を伴って丁重に扱われ慰撫されるのは生きている我々でしかない。死体が傷つけられたのを生命への侮辱と見るのはそれこそ素朴な「宗教的感情」ではないか。無宗教を自認する人間の多い日本では宗教的感情と死者への敬虔を別と考えたくもなるかもしれない。ナイーブな気がするが、まあ宗教的でない普遍的な感情としてもやはり「感情」が保護法益であることを否定はできていない。「国民の一般的感情」としても問題は変わるわけではあるまい。
まあネットでは「お気持ち」カード切ればゲームに勝てる感じだしまあネット上の議論なんてそんなものでもいいのだが、現実を見るとそう簡単に割り切れるものでもない。今回は刑事なのでちょっと違うが民事の名誉毀損では「名誉”感情”」が保護されることになっている。「お気持ち」と法で言う「感情」は同じじゃないと言えるかもしれんが…本当にそうかなあ。実務的にはどういう感情というかお気持ちが保護されるべきかみたいな方が喫緊の課題なんじゃないかな。ネット上の議論はその辺り無視して話をできるからやりやすいですな。建設的になってるかは知らんけども。でもはてブのAPIも非建設的なコメントを建設的と認識してる気もするからまあヨシ。
「一般的」とか勝手に言うなというのは分かる。ところが刑法判例を見ると「普通人」だの「通常人」だのという言葉もそれなりに見る。
最高裁様が決めた悪名高き刑法175条「わいせつ」概念の定義を見てみよう。
「普通人」「正常な」ってなんだよ。そもそも羞恥心みたいな感情を害することを軽々と要件にしていいのか。何らなら「善良な性的道義」もよく分からないが、しかしまあこの定義は脈々と受け継がれている。ただ、正直に言えばこうした罪状はこういう言い方しかできない部分が無いではない。
もう少し言えば他の罪状でも「通常人」を持ち出すしかない部分はある。例えば過失の認定をするのに危険が発生することを予見できたのか、という思考実験を行わざるをえない時もある。その際に通常人から見て予見可能性はあったのかと考えるのである。そうでなければ、被疑者が「自分には危険は予期できなかった」と言えばそれに反する証拠を提出できなければ全て無罪になってしまう。過失犯は立証困難になり死ぬというわけだ。
それと実際上の問題としてわいせつ概念や死者への敬虔の発露の方法が時代や社会によって大きく異なることは留意せねばなるまい。わいせつに関しては女性の胸の扱いとか見ると分かる気がするんだけど、下着姿の女性が公然わいせつになったりというのはある時代ある社会ではありえないことだろう。今の日本では実際に逮捕されたりしてるけどね。死者の扱いもやはりその場所その時の習俗に大きく左右されるのは分かるだろう。だからこそ「一般」「普通人」みたいな限定をかけておいてあまりにも硬直的で時代遅れにならないようにしてる部分はある…のかは分からないんだけどたぶんそう。
ただまあ「一般」も「普通人」も「通常人」も裁判官の想像上の産物しかないので注意を向けなければならないのも確かではある。どうしても恣意的になるしそうなると罪刑法定主義からしてどうなんだって話にはなるし。今回の件も宗教的感情という言葉そのものよりそういうとこが問題なんじゃないかな。
これはもう労働法が妊娠による不利益取り扱いを禁じていて、その労働法が技能実習生に適用されるよう法改正した時点で自明なことなんだけど、何故か未だに妊娠禁止とか恋愛禁止とか決められてたりするんだよねえ…。技能実習生に対しては日本人労働者と同じ扱いしなくていいと思ってるのか、そういうヤバイ労働環境だから日本人が来なくて技能実習生で代替せざるをえないのか分からんけど。
裁判例としては最初期の2013年の地裁判決の内容を紹介しておく。
(事例)
中国人技能実習生の女性は中国の送り出し機関と妊娠禁止の規定を結んでいた。ところが来日し食品加工会社で働き始めてから6ヶ月後に妊娠が判明した。
すると日本の受け入れ団体(監理団体)は妊娠を理由に強制帰国させるべく抵抗する当該女性を拘束して空港に連行した。なおも女性は抵抗し空港で保護される。
こののち女性は流産。女性はこのことで記者会見を開いたため会社に解雇された。
(結論)
技能実習生に対しては非人道的な行為がわりと行われてたりするので法の限界事例みたいなのがしばしば起こる。会社所有の寮にカメラがあって盗撮されてたという事例なんかははてブでも話題になってたが実は日本の法体系の間隙を突いた問題なんだよね。迷惑防止条例は公共の場に限定してることが多いから会社所有の寮みたいな私的空間には適用できず、そういう時に拡張して使われる建造物侵入罪は所有者が被害届を出さないと適用できない。軽犯罪法の窃視の罪にはなりそうだけど、迷惑防止条例と拡大解釈した建造物侵入罪でとりあえず対応しておくという実務というかちゃんと法整備してないツケ。閉店した後の店とかも公共の場ではなくなるので実は真摯に議論する必要がある部分だと思うんだけど、まあこういうことが技能実習制度で分かるというのは平常人間が受けない仕打ちを技能実習が受けやすいということでもあるんだろうなあ。違法状態が常態化してるのおかしいですよ。
生まれてから高校卒業までを過ごしたこの街は県庁所在地というだけあって都会機能の一揃いがひとつまみずつ鎮座している
それは物理的距離や交通の不便から他の同規模以上の都市に気軽に移動できない(できてしまわない)ことの裏返しかもしれない
他市町村から吸い上げていてこれかとも思うが、東京という巨大なブラックホールを抱えたこの国では仕方のない自己相似なのだろう
学生時代は米より安いパスタを茹でるか、白飯おかわり無料の店へ行くか、絶食して寝るかの3択を繰り返していた
自炊は1人ぶんをつくるのが一番高くつくのを知った数年だった
逆に言えば数人分であれば外食よりも随分と自炊のほうが安くすむ
父の料理趣味もあって、よほど忙しくなければ外食をしないのが「うち」の不文律だ
日曜にもかかわらず年度末の怪物に忙殺されてしまった料理番が「昼は適当に食え」と令を発した
自分の食べるものを自分で決めなければならなかったのは、あるいは決めさせてくれたのは実に1年ぶりだった
町並みを夔動自転車で少しぶらついて、ふとオメガラーメンの真っ黒な看板が目に入った
オメガ系が「向こう」の学生街に入学当初なかったので私は仲間連中と駄弁りながら私鉄を乗り継いで「無謬屋」へ行ったものだった
去年「あるオメガ系チェーンが意識高い系ビジネスと悪魔合体した地獄のような店を47都道府県全部に展開する」と報じられた
実際我が街にも一軒建ったものの、開店早々食中毒によって閑古鳥を鳴かせていた
しかしまともなオメガラーメンを食べるに県境をまたぐ必要はない
ここは田舎でも都会でもないのだ
地下鉄やイタリアンファミレスこそないが、オメガ系の名店は数年前から既に「墓所」「縹渺」などがある
本家系列の店で修行したオーナーの腕が絶品と聞いたことがあり、私は好奇心とともに最後尾になった
完食した
「無謬屋」さえ引けを取ると思った
美味しかったのは確かだ
だけれど、学生時分に掻き込んだ思い出とは体験として異なっていた
歯の裏にこびりついた甘ったるい余韻に多幸感ではなく、くどさを覚えた
異様に温かい人々に飛び跳ねまわる元気すぎる子、憂鬱な感情を持っても周囲に発散しまくってお咎めなしな登場人物。
わけの分からぬ家族の談笑。だけのこの人のウソは美しい。夢を見たい人々には良い酩酊剤として働くのだろう。
実際の宮崎ワールドは風の谷のナウシカの原作に求められるように思う。権力と自分足りの理由に奔走して世界を悪くする人々。ただこの人には一つの抜けがあって、純粋に世界を壊すことを楽しんでいる下らない人間がいることを描いていない。人間は基本的に善性で動いており、成り立ちや理由によって悪になったり悪の如き正義を振るったりするのだ、という発想で描いている。まさかネットストーキングをするような糞がいるなんて想像だにしてない。もっとも人をおもちゃにするような人種を描くことに関して抵抗があるのかもしれないが。多分監督がリベラル左翼だからこその発想なんだろう。
この点高畑勲は妹への恋慕のあまり妹を餓死させてしまう火垂るの墓を淡々と作った。ここにある断絶はなにかといえば、人に対する信心があるか、あるいは人は単なる観察対象かだ。この意味で宮崎と知り合いの押井守はより人に寄り添っていない。彼にとって重要なのは人ではなく形式や構造のように思える。そもそも人間に対する信心という感性そのものが人間らしいという皮肉めいた構造があるように思える。翻って、リベラル左翼という思想は大変構造的だ。それは無機質にすべての人は許容され、すべての人や権力は批判されるべきだというフラットな発想に基づいている。むしろ思想であるからフラットでなくてはならない。実はこうした思想と宮崎駿の人間力は非常に相性が悪いのではないか。
宮崎駿的人間力は非常に理想的で恣意的で、思想的ではない。彼が言う老後の入院生活を描いた絵にはたくさんの欠点が存在する。理想を維持するのに多大なコストがかかる。しかも彼は革命家であったので、スタジオジブリを給料制にして一度は倒産寸前にまで追い込んでいる。宮崎駿が全てを仕組みと制度で考える人間なら人間の不条理もそのまま無感情に描いていたように思う。ナウシカ原作ですら全ては情熱によって動かされれており、無感情なのは墓所の先人たちだけだ(もっともこの墓所の住人は旧癖の形象化だとは思うが)。つまり彼はリベラル左翼的でありながら、リベラル左翼すら鼻白む感性で批判しているのだ。この点でむしろ非常に左翼的なのはアンビバレントな監督らしい。概ねあたっているとする予測でしかないが、インテリ左翼はムスカのように道化として描き、権力も嫌い、同じように抑圧的な共産主義も嫌い、それでいて人間には希望があるべきだという大矛盾の分断された心象を監督は内包していることになる。だからこそ宮崎駿のウソは今でも世界で輝いている。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191112/k10012173811000.html
書類送検されたが、検察がまた時間をかけて飯塚幸三被疑者の寿命待ちをしそうな勢い
もちろんサクサク進んで刑事裁判の刑が確定するかも知れないが、内容的に懲役・禁錮間違いなしだが年齢を鑑みて恐らくは罰金刑に収まるのではないか
そうなると飯塚幸三は多くの家族に見守られながら寿命を全うすることになる
恐らく家の墓はあるだろうが、どこからか漏れ出て荒らされることは間違いないし、寺側も監視カメラや警備員を設置することも難しい
共同墓所や室内墓地はプライドが許さないだろう。室内墓地など嫌がらせの電話も頻繁にかかってくるかも知れない
海や大地に飯塚幸三が撒かれ、それが行き渡り、飯塚幸三を含んだ動植物が産まれ、やがて人の身体に入る。あれだけの事故を起こした人間に許されてはいけない内容だ!
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
重く受け止めているからこそ、旧人類のした「生命をもてあそぶ」という愚行を責めていないだろう。それは仕方がなかったと言っている。それを重く受け止めた上で、現人類は別の道を行くと言ってるだけだ。
旧人類は「リセット」したんだよ。現人類は「リセットはしない」と言っている。そのことをもっと重く受け止めろ。
団塊世代は高度成長期という比較的過ごしやすい時代を生きていたのに後生のことは考えていなかったから批判されている。ナウシカたちの死ぬか生きるかの世界とは全然違う。雑な例を出すな。あと「ナウシカが正義」なんて一度も書いてないだろ。「ナウシカもそうするしかなかった」と書いてるの。
ナウシカは選択の是非を問われる立場にいたし、それまでの功績がどうであろうがその1点については人類滅亡まで問われ続ける。それは揺らぎようのない事実。
あなたはいつも「~なのは疑いようがない」とか「~は揺らぎようのない事実」とか書いているけど、根拠がないんだよ。「○○だと思う。なぜなら私がそう思うから」でしかない。毎回そうだ。
違う。未来への道筋を残すために今を生き残る必要があるの。現人類はあなたの言う「未来を作る確固とした意志」の上に今を選択した。
一方の旧人類は自身の改善を諦めた。旧人類は「未来の今を生きる人間のため」に新人類を作ったんじゃない。道筋なんて作ってないの。自分たちに絶望し、自分たちと未来との繋がりを切って捨てたの。旧人類が未来に残したのは音楽や詩だけ。卵には旧人類の積み重ねなんて残っちゃいない。
あなたは「旧人類の絶望が分かる」と言うが、これが理解できていないようでは全然分かってないんじゃないの?
私は最初はあなたに期待していたんだよ。「きっと別の方法が取れる」かのように書いているから「確かに選択肢は多い方がいいな。どんな手段を考えているんだろう」と読んでみたら「~は揺らぎようのない事実。~は恨むだろう」だ。
別にあなた一人がそう思うだけならそれで何の問題もないよ。でもその思考をもって他人を責めたり、他人の思考を代弁する気なら、それなりの根拠が必要だろう。
繰り返すが、私がここまでで一番納得いかないのは、あなたにはまともな根拠がないこと。あっても簡単に反論できてしまうものしかないことなんだよ。
ここでもう一度これまでにあなたが出してきた疑問点について書いてみたい。
ない、と私は書いた。それは物語から読み取れることであり、また「ある」とした場合矛盾が生まれるからだ。
1.現人類と新人類は共存できない。なぜなら現人類は新人類を簡単に滅ぼせる力を持っており、新人類は簡単に滅ぼされるほど弱い。
2.よって旧人類は、現人類をそのまま生かしておくことは考えていない。唯一の抜け道は現人類の新人類化。
3.しかし、新人類化=感情をなくした人間=「そんなもの人間ではない」と私は考える。
4.「それもまた人間である」派に「そんなもの人間ではない」派を止める力はない。あなたにその力がないように。
5.結果、現人類は旧人類の技術を受け入れない。墓の技術は使用されない。
現生人類が奇跡的に新しい環境に適応できる確率と、墓と和解する、墓の技術を使って適応できるよう変わる、新生人類と共存の道を歩む確率なら後者の方が高いことは疑いようがない。
同意しない。私はナウシカが言うように、血を吐きながらでも現人類の中から浄化された環境に適応できる人が現れると考える。なぜなら自然界の中で生き多様性を身に着けた人類の生命力は、頭空っぽの新人類には想像できないくらい強いからだ。
一方の新人類の生命力は恐ろしく弱い。あなたが言うように、敵を殺すぐらいなら自分で死を選ぶからだ。捕食して栄養を得る能力を持つ単細胞生物(粘菌)にすら及ばないのだ。墓所の技術で栄養はなんとでもなるし、不死身にもできるが、実際は寿命が設定されて次の卵と変わるだけだろう。一種のウイルスか、卵が寄生虫に乗っ取られるか、いずれにせよ同じ体に作り変えられたら現人類は一緒に全滅する。
なによりそれらの方法を検討している余裕がない。墓は現人類の存続を現在進行形で脅かしている。墓所を生かしておけば先に現人類が滅ぶ。そして何度も言うが現人類は滅びを選ばない。
現生人類が生き残ることではなく、火の七日間を再度起こさないと確信に値するものを示すしかない。
上にも書いたけど、あなたは旧人類の思考を理解できていないと思うよ。または「あなたは理解できた」かもしれないが、現人類の大多数には理解できなかったんだよ。そしてあなたには理解をしてもらえるだけの説得力がない。
全滅してから言え。
とかまだ言ってるし。人類は「今は絶滅しない」道を選んだんだよ。あなたの言うことは聞かない。
絶滅するしかない、という案を取るか取らないかはその時の人類が決めることだ。あなたが「現人類には絶滅してほしい」「新人類に希望を」と言ったところで現人類を説得できなければかなわないじゃないか。
私は、あなたの疑問に一つ一つ反論を出し、その根拠を書いてきた。なのにあなたはなんだ?パチンコが~とか本来日本人は~とか雑な例はいらないんだよ。疲れてたのは分かるけどさ。
私は、一応は人類としての回避策を出しただろ。現人類が踏みとどまり、どうにか戦争と自滅を回避し、新人類を受け入れられるだけの余裕を持てればよかったと。しかし今回はかなわなかった。私自身がその場にいても、協力らしい協力もできず、ナウシカに託すくらいしかなかっただろう。
多様性のない新人類はそのままでは王蟲のようにはなれないし、あの時点で現人類に新人類を受け入れる余裕もない。ナウシカが滅ぼさずとも現人類に滅ぼされる。
罪をかぶるなら全人類が被るべきであって、最後の決断をゆだねられたナウシカではない。あなたは自分なら罪をかぶらずに済んだのにと思っているようだがあなた自身も現人類であり、新人類を救えなかった一人だ。
私は先日、
「ナウシカは一人の人物ではあるけど、結局はそこに至るまでの過程を現人類が選択したんだよ。あなたならその時破滅を止めるために何か協力できただろうか?」
と書いたが、一番聞きたい回答はこれについてなんだ。あなたは、自身がどうすれば今回の悲劇を止められただろうと思っているのか。
「ナウシカがこうすればよかった」という例についてはこれまでに書いた通り「それはできそうにない」と私は思う。なので、ここではあなた自身、いや個人でできることなんてたかが知れてるので、あの場の「人類が」どうすればナウシカの行動を止めることができたか?ということについて聞いてみたい。
で、私は今後三週間くらい忙しくて増田を読んでる余裕がなくなる。もしこのダラダラと長い駄文に回答してくれる余裕があるなら、急がないんでのんびりどうぞ。
(実は上記以外に、もう一つ追加で文章を書いていて、長いので別記にした。anond:20180303232700 忙しいだろうし余裕があるときにでも)
とりあえず全部読んだ。
が疲れていて細かい返信ができない。
ナウシカ最大の責任は「『歴史は繰り返す』『お前達はその朝をこえることはできない』」
これに正しく答えられなかったところだ。
「その場限りのプーは気楽でええですねん!」
先のことを考えず今その瞬間でベストな選択をしてきた結果、墓所までたどり着いた、
だからナウシカは正しいことをしてきた、というのは結果論に過ぎない。
旧人類の長い歴史を顧みればその時代に当然ナウシカのような人間が一人や二人い無かったという方が難しい。
旧人類だって殺してでも生きなければ生き抜けない時代なんて経験してる。
その経験の果てに新人類の卵を作ったんだということをもっと重く受け止めろといっている。
歴史は繰り返すけど俺らプーだからパチンコ打ちにいくぜ!って連中にまじめにしろなんて言ったところで通じるわけがないよな。
特にそれまでパチンコで食っていけたパチプロのカリスマみたいにナウシカに言ったところで通用するわけがない。
墓所がナウシカと出会ったことが墓所最大の失敗であり敗因であったというならまさにその通りだろうよ。
でも墓所側が提供する環境に適応した改造手術と同レベルの救済の道をナウシカが示さない限りはナウシカの責任は残り続ける。
ナウシカは選択の是非を問われる立場にいたし、それまでの功績がどうであろうがその1点については人類滅亡まで問われ続ける。
それは揺らぎようのない事実。
迎えられない朝がきたときに、そのとき「今を生きる現生人類」は歴史を知ってナウシカを恨むだろう。
それは当然のことだろうよ、今しか生きてこなかった人間のツケってのは、
日本で例えるなら今を生きてきた団塊世代たちのせいで貧して今を生きたいはずの若者が背負わされてる姿だ。
説得力もなにも、今を生きるしか頭にないやつには、そりゃ未来なんて永遠に存在しない「今」だろうな。
そして、今しかいきれないというのなら過去の積み重ねという未来への道筋を自分らの功績かのように語るんじゃない。
未来を作る確固とした意志もなく、ただ過ごしてきた時間を過去として語るのは愚かですらない、単なる無知だ。
本来日本人は自分を犠牲にしてでも「家」、つまり一族の未来を重視する人間だったんだが
半端なアメリカ文化が到来してからは自分を守るもの、守るべきものという一族・家庭は崩壊して弱体化してしまった。
今を生きるのがずっとその先うまくいくなんてのは、宗教だよ。
特にずっと上手くいってきたナウシカがそういっても、それこそ説得力がない。
全滅してから言え。
うん。めちゃくちゃ肩入れしてるよ。私はナウシカという人物が大好きだし。
そして、ナウシカは現人類に肩入れしている。ユパが好きだし、アスベルやチククも好き。クシャナやクロトワだって好きだ。風の谷のみんなが好きだし、トルメキア人やドルク、蟲使いも。それ以上に王蟲が好きなんだけど……。いがみ合いは嫌いだが、いがみ合ってる人物そのものを嫌っているわけではない。
その好きな人々を亡くしたくないんだよ。そのためにできることは何でもするだけだ。犠牲行動を「良い」と思ってやっているわけではない。行動原理は「その相手を助けたい」だ。そのためなら瘴気の中でマスクだって取っちゃうし、周りをドルクに囲まれて死の一歩手前だろうがトリウマを助けるのが先だ。「良いか悪いか」で判断してるような人にこの行動はとれない。
ナウシカは墓所が現人類に邪魔だから消したんだよ。私もその決断に同意する。「私達のように凶暴でなく、おだやかで、かしこい人間」なんていらない。少なくともそれを生かすことによって自身の愛する世界を失うことになるのなら、その障害を潰すことを厭わない。
作中の現人類の多くはこの思考に同意するだろう。漫画の世界ではなく、今PCを閲覧している読者の多くも、ヴ王と同様に「そんなもの人間とはいえん」と思っているだろう。
うん、それは私の思い込みだな。新人類が進化して「凶暴で、おだやかでない、バカな人間」に、現人類並みに育つ可能性はあるよ。私はそれまで待てない、と言い換えるか。それにどうせ現人類並みになるならリセットせずに今の現人類を使えばいいじゃない。そしてそのとき、墓所の技術は現人類にとって危なすぎるの。そこの技術が現人類のいがみ合いの種の一つになってるから。「ヒトラーと同じだ」というが、ヒトラーなら優性思想だから「おだやかで賢い人間」を生かすんじゃないの。知らんけど。
墓所側が攻撃するのは当たり前のことだ。旧人類の悲願は人間性の闇を捨てることだ。現生人類を死滅させたいのも当たり前だ。それが残っていては計画が水の泡になる。交渉する余地など最初からない。武力で負かして交渉のテーブルに無理やり着かせる必要がある。
あ、そういうこと言っちゃうんだ。じゃあまあ墓が弱かったから仕方ないね。「交渉の余地すらない。武力で負かして交渉のテーブルに無理やり着かせる必要がある」と言うからには負けた旧人類と新人類は黙って消えるしかないだろ。どうもあなたは「墓所が勝った場合は人類に交渉の余地はない」しかし「墓所が負けた場合は、墓所は交渉のテーブルに着かせてもらえる」と思っているようだが、そんな甘いわけがない、巨神兵の裁定はおりている。そして巨神兵をプログラムしたのは旧人類だ。
新人類に正しい審判を下せるのは旧人類でも現生人類でも新人類でも王蟲でもナウシカでもない。はるかかなたの未来に生きる人類たちだ
「今」を生きるのに精いっぱいの人々にはるかかなたの未来に生きる人類を気にかけてる余裕なんかない。21世紀の現代日本ですらそうだろ。繰り返すけど、あなたは物語の中の今を生きている人類に寄り添えていない。そんな人物の言説を誰が聞く?
古今東西、人を説得できないと物事は変わらない。国会でどれだけ「日本を良くする法だ!」と自説の正しさ唱えたところで、党内の票をまとめられなければ法案は通らず歴史は変わらない。
その、愚かな人類と決別しようとする "新人類教" では物語の中の世界を変えられないんだよ。せいぜい数千年後にまだしぶとく生き残っている現人類が「古文書見つけた!『お前ら人類は虐殺者だ』『ナウシカは悪魔だ!世界を滅ぼしたのだ!』とか書いてあるよ。新人類教だってさ」と珍しがる程度だ。
そうだろうね。そしてそういう人物は、誰かを殺す心配をするまでもなく、とうに誰かに殺さているだろう、と先にも書いたよ。
ナウシカの世界は、その環境の過酷さにより人々がいがみ合い、憎しみ合っている。しかしそれぞれの人は "新人類ではない" から、憎悪の一方で愛も持っている。良い一面も悪い一面も持っている。これが人間だ。そういう人々の行動を変えるにはどうしたら良いか。まずは説得だ。ナウシカは数々説得してきた。しかし凶暴で賢くない人類だから、説得には応じられないこともあるだろう。では説得に応じない相手はどうすれば良いのだろうか?そう "行動を起こす" のだ。あなたは「交渉する余地などない、まず武力だ」と言っているが、まずは交渉、のちに行動。
最終話近く、マニ族とクシャナ軍がにらみあっている。ユパが、ケチャや年寄り連中と一緒に必死にマニ族を説得している。だがマニの若者たちは納得しない。彼ら彼女らも "復讐は何も生まない" と理性では分かっているのだ。だが自身の感情を説得しきれない。そして、この気持ちを晴らすにはトルメキア人を殺すしかない、と"行動を起こし"クシャナに襲い掛かかった。(法の整備された現代日本では許されないよ)
ここでユパも説得は通じなかったことを悟り次の手段に出る。マニ族とクシャナの間に割って入り、マニの刃を受けることで双方の連鎖を止めた。先だって左腕も犠牲にし「この片腕、わしの心のあかしだ。たのむ判ってくれ」と再度説得。単なるきれいごとではなく、自らを痛めてまで訴える人間の言葉は人の心に届く。(これには先立ってマニの僧正が同じ方法でユパの命を救っており、恩返しという側面と、僧正の念がこの場に出現しマニ族を説得するという流れになっている。この通り、聞かなきゃ殴るだけが行動ではない)
ナウシカも同様に、数々の行動によって人々を説得してきた。
ナウシカは恐れでためらうことが少なく、瞬時の判断力を持っており、おおむね良い方向に作用する。(主人公補正はあるが)
アスベルを新人類と入れ替えてみたらどうだ?と言いたそうだな。やってみようか。新人類は生き残ろうとしない。生に執着しない。あなたと同様に「人間の凶悪さを発揮し蟲を殺してまで生きようとは思わない」と言い残し、ナウシカに遭遇する前に蟲に食われる。おしまい。
説得・行動・説得・行動だ。これによりナウシカは数々の障壁を超えてきた。残念ながらあなたの思惑とは違い、最終話ではもはやナウシカを止める人はいない。ナウシカはもう辺境の一首長ではない。行動により強力な支持者を得て、民衆を説得できる力を持った。ナウシカはみんなをつなぐ糸になれた。
あなたには説得力もなければ行動力もない。だから序盤で死んでいるだろうけど、それを大目に見てこの場で
新人類に正しい審判を下せるのは旧人類でも現生人類でも新人類でも王蟲でもナウシカでもない。はるかかなたの未来に生きる人類たちだ
と言えたとしよう。で?誰が耳を……あ!聞く耳持つ人がいたわ!墓所と守り人。ヒドラ。
これがあなたの発言。そして墓所・庭園の主『歴史は繰り返す』『お前達はその朝をこえることはできない』。そっくりだな!といってもあなたは墓の側に立って意見を出してるんだからそりゃそうか。
あなたが墓所かヒドラだった場合、結局ナウシカを説得できなかったので歴史は変わらない。変えるとしたら、最後の生き残りの人々の前に現れ、今回の数々の教義を唱え、賛同者を募ってナウシカを止めてもらう必要がある。
そこにいる人々は、戦乱の世を必死に生き延び、死にたくないと願い、場合によっては人を殺めても生き延びてきた人たちである。その中でどのくらいあなたの賛同者がいると思う?ナウシカを引き留めるには到底足りないと思うんだけどね。
ナウシカだって最初は無垢でいたかったんだよ。でもそれだけでは自分の愛する人は救えないと理解し、成長する物語だ。そしてナウシカは罪悪感や自己矛盾をちゃんと受け入れている。「人類を滅ぼしにいくのかもしれない」と自覚している。「悪魔として記憶されてもかまわぬ」と言っている。それに比べりゃ私たちなんて楽なもんだ。最後の決定をナウシカに任せちゃえるんだから。だからこそ、その決定について、ナウシカに責を負わせることはしないでおこうと思う。
新人類だってあなたを救世主だとは思えないだろう。「その人は私たちのために何かをしてくれたの?」「なんだ、世界の片隅で祈ってただけか」と。
あなたは、未来を変えたいが、自分の手は汚したくないという。墓所の主はそういう役割としてプログラムされているからまだわかる。しかしあなたはには自分の意志があるのに、その体があるのに、先へ進もうとしない。今の自分を超えようとしない。現人類より新人類側に思いを寄せている。もしかしたらあなたも旧人類のように全てに絶望しているのかもしれない。どうせ全滅するのだから何をしたって同じか?「そうではない」とこの物語は示している。
ナウシカの行為に正当性を産むことができるとしたら現生人類が生き残ることではなく、火の七日間を再度起こさないと確信に値するものを示すしかない。しかし作中の現生人類がそれを示すことはないまま作品は終わってしまった。
「答え」なんか分かるわけがない、っていうか自分で考えろってことだよ。人類は再度火の七日間を起こすよ。歴史は繰り返す。人類は愚かだから正統性より目の前の命を取る。
今回私が書いたことはほとんど漫画の中に描写されていることだ。あなたは最後の答えを知りたいというが、まずそこに至るまでをうまく読み取れていないじゃないか。まずもう一度通して読んでみてはどうだ。
あなたは結果を重視しているが、私は現人類の過程を重視している。あなたは「自然に任せよう」と思っているらしいが、あなたが自然だと思っていることは実のところ人間のプログラムだ。穏やかで、賢い、人工の物体だ。自然体は許されない。人も動物も全てを書き換えるつもりだ。ナウシカの方法の方がずっと自然だ。「今」を乗り越えても、凶暴で頭の悪い人類は結局は滅ぶかもしれない。でも人類は滅んでも虫や動物は生き続ける。人類は滅ぶが、世界は滅ばない。とはいえ、人類はそんな簡単には諦めないという話だ。
たとえ過去1万回同じ過ちを繰り返したとしても、諦めなければ1万1回目でクリアできてしまうのが人類だ。1万1回やったけどダメだったから諦めたのが旧人類なんだろう。現人類は1万2回目、歴史は繰り返す。しかしそれがいつになるかは現人類が決めるし、現人類はその今を精いっぱい生きるの。
このあたりはどこまでいっても平行線かもしれない。だからあなたが「私はナウシカの決断に同意できない」と宣言すること自体に問題はない。ただ、最後の決断をした人物を責めてはいけない。私は旧人類の決断が間違っていると思うが、旧人類がそれしか取る手がなかったのだということは受け入れる。旧人類を責めはしない。現人類として、その決断には従わないという意思を示すだけだ。
1万2回目の人類の最後はナウシカが決める。少数の反対を除き、私を含め大多数はナウシカに最後を託した。
歴史に埋もれたできごとが間違っているわけではないが、トルメキアとドルクをクシャナとチククが再興していくことを考えると、はるかかなたの未来に生きる人類たちはナウシカを「救世主」として受け止めることになるよ。「青き衣の人」として。新人類は生に執着しないが、もし執着するほど進化したとしたら、その時は現人類の選択を理解し受け入れるだろう。(同時にはなし得ないのでパラドックスだが)
あなたは現人類に絶望しているのだろうが、それでも旧人類の決断に自分を託すんじゃなくて現人類として自分で決めよう。誰からも必要とされない自分なんていなくていいと思っているかもしれないが、人の評価で未来を決めることはない。
本当に絶望の淵に立っている人に「マンガでこう言ってるし」「不安も絶望も背負って、それでも生きていくしかない」と諭してもまったく力にはならないだろうなとは思う。私は漫画版ナウシカから力をもらったけど、絶望中にはせいぜい現実逃避として読んでただけな気がする。ある程度元気になって、現実世界に少し救いがあったからこそ、余裕をもってああだこうだ言える今がある。
とはいえ、あなたは「マンガだし」と投げ捨てず、その内容について意見を書き綴れるくらいの力があるんだから、もう一度立ち止まって読んでみてはどうですか。
逆にいうけど、あなたはあなたでナウシカに肩入れしすぎている。
墓所側の言い分はどうなんだ。
人類の行きつく先として巨神兵や王蟲を作るほどの高度な科学技術を手に入れたが
ヴ王やナウシカの好む人間としての闇が強すぎた結果、滅びの道に進んでしまったのが旧人類ではないか。
滅びに進むにつれて旧人類はナウシカたちが想像するよりもずっと大きな絶望と失敗を繰り返した。
ナウシカのいうような「血反吐を吐いてまで」という経験は旧人類側はもう既に十分すぎるほど経験している。
墓所側の歩いてきた歴史を信じられないし、同情もできなかった。
血反吐を吐いて進んだ道の答えが新人類であり、現生人類たちが例え環境に適応し生き残ったとしても、
まったく徒労でしかない。
人間性の闇を捨てる計画を立て、自分たちで破壊した環境を取り戻すために尽力した行動と選択は、全部旧人類の流れた血によってつくられている。
神の視点に立たずともナウシカには墓所側の行動と動機を推し測るだけの情報は十分すぎるほど得ている。
ナウシカのエゴが贔屓されたのは、それは自分たちに向いていたからだ。
ナウシカは自己犠牲や時には反知性的な犠牲行動を、「良い」と思ってやっている。
やりたいから、やっているだけであり、その行動の結果がどうなるか推し測る能力にたけているわけではない。
トルメキアの兵士を怒りに任せて殺した場面でも仲間をより危険にさらすだけだ。
それが残っていては計画が水の泡になる。
旧人類は徹頭徹尾、新人類を次の星の覇者にしたいのであって、現生人類はずっと捨て駒としてしか見てない。
だからこそ武力で負かして交渉のテーブルに無理やり着かせる必要がある。
あの時点で武力衝突するのは当たり前のことだし、それで和平が成立しないというのも早計すぎる。
交渉は戦争が終わってからしかできない、墓所と現生人類の戦争はあの時点では何も終わっていない。
むしろ墓所側からしてみれば現生人類が約束を守ってくれるなんて信じられるわけがないんだから。
真実を話せば殺される、なら戦うまでだろう。
実際その予想は当たっていてナウシカという現生人類に殺されたわけだ。
それもまた思い込みにすぎない。
旧人類の計画では新人類は現生人類が死滅した浄化された世界ではじめて活動を再開する生き物であって、
それが一体新人類にどういった影響を与えるかはそれこそ神ですら分からないことだ。
完全に未知の領域であり、王蟲のようによりよい変化が起きる可能性もあるし、
そういった可能性のある未来を確かにナウシカはあの場で殺したのだ。
ナウシカは道化との問答で自然に生きて自然に死ぬべきだといっていたが、
それはナウシカが産まれるよりずっと前から存在し何百年も経過した後の結果である、
王蟲の心という、それこそ旧人類の計画で産まれた上澄みだけを掬い取って悟ったつもりになっているだけだ。
新人類に正しい審判を下せるのは旧人類でも現生人類でも新人類でも王蟲でもナウシカでもない。
人々はナウシカを見て心動かされるかもしれないし、ナウシカのおかげで助かった人間もいる、
だがそれは、そこまでは正しかっただけであり、この先もナウシカという暴力とカリスマが正しくあり続ける保証などない。
ナウシカの聖人性の反証として最後の新人類虐殺があったわけだ。
人間性の闇に疲れて果てた旧人類側からしてみれば成し遂げられそうだった計画を台無しにして、
生みの親どころか抵抗すらできない子どもを殺す悪魔でしかない。
あの世で彼らは環境変化を生き延びた現生人類が再び科学技術を再興し、二度目の火の七日間に進むまでじっと見てるだろう。
現生人類が生き残ることではなく、火の七日間を再度起こさないと確信に値するものを示すしかない。
しかし作中の現生人類がそれを示すことはないまま作品は終わってしまった。
誰もが森の賢者のようにはなれない、それを実現しようとしたのが墓所の願いだった。
ナウシカを読んだからこそ、愚かな人類と決別しようとした旧人類の思考を理解できるし、
あなたの視点は読者として外の世界から見ているからこそ言える「神の視点」なんだよ。
『墓と和解せよ』というけど、裁定者となった巨神兵が話合いのために責任者を出せと言ったのに墓は問答無用で攻撃してきた。交渉を拒否したのは墓側だよ。
『勝手に一人で現生人類を愚かだと決めつけて』というが、ナウシカは色々なところで何度も説得したよ。でも民衆は聞かなかったの。
『それがエゴ以外の何だというんだ』については先にも書いたけどその通り「エゴ」だよ。これは本にも描かれてる。
"虚無" から『お前はもう何人も殺してるくせに何カマトトぶってんだ』なんて言われてるし。
『どれだけ苦しくても人の命を奪ってでも生きたいと願わない人間もいる』
そういう人間がいた方がいい。しかし、あの世界のナウシカにそれは不可能だった。風の谷を守るためにトルメキアの捕虜になり戦場へ赴かなければいけなかった。
少年兵だと分かっていながら切り殺さなければいけなかった。そこで自分が死んではいけなかったからだ。ナウシカは風の谷を守るために人を殺してでも生き残る必要があった。
ナウシカのエゴ。戦場で赤ちゃんを拾っても足手まといなだけだ。戦場を一騎で駆け抜けたり、兵士が瘴気を吸って吐いた血を口で取り除くなんて自殺行為だ。トリウマ一匹に泣くなんて無駄だ。
しかし、これらのエゴが兵士や民を惹き付けた。あのクロトワですらな。
村の長なのに一人で腐海の深部をうろついて凶暴な王蟲を愛でている。この無謀な行動が、"汚れているのは土である" に繋がり、"粘菌の暴走の原因に気づくことができた" 理由であり、
"王蟲の信頼を得ている”ので "大海嘯の最前線に入ることができ" "王蟲は怒っているのではなく腐海となって土地の傷を癒そうとしている" "腐海は土を浄化するためにある" "これらが大海嘯の原因である" "どうも地球は腐海まみれになって滅ぼうとしているのではなく、ギリギリのバランスで生き残ろうとしている" というすべての流れに繋がっていくんだよ。それでも一回諦めちゃったけどな。
これがあなたにできただろうか?ナウシカは無敵のマンガの主人公だからなんて話は聞かないよ。私なら頭悪いから腐海に入って5秒で死んでる。あなたはおそらくどこかの時点で自らの命を絶っただろう。「最後の決断」まで辿り着けない、のはまだしもナウシカを助ける脇役にもなれないだろう。
『どれだけ苦しくても人の命を奪ってでも生きたいと願わない人間もいる』
というあなたと同じことをする人物がこの物語の中に存在する。綺麗で争わない新人類だ。あなたは私から見るとどこか「大人しくて清らかな人類の側」に立っているようにみえる。あなたは物語の中の今を生きている人類に寄り添っていない。
そして、あなたは新人類と王蟲を同列に扱い「新人類にも希望を」と言っているが、私はこの二つは同列に扱えないと考えている。
まず、旧人類は「汚染に適応した人類を元に戻す技術もここに記されている」と現人類を諭しているが、おそらくこれは嘘だ。または条件付きだろう。ロボトミー手術よろしく、頭を書き換え清廉潔白な体になれ、と。これを現人類が受け入れるわけがないし、旧人類もそれは承知なので、危険な現人類を生かしておきはしない。役目が終わったら死ぬようにプログラムした。
そして、墓もエラーが出ないように旧人類がきちんとプログラムしている。夏至と冬至に1行アウトプットするだけだ。同様に墓が管理する卵にもエラーはない。恋愛があれば争いが生まれるので、単性生殖すら避け、墓が製造した卵からのみ増えることになるだろう。
ではなぜ王蟲にはエラーが出たのか。それは ”王蟲は自然界に放たれたから”に他ならないと思う。"外敵"に襲われ、自然の驚異にさらされるなか命を長らえ、交わり子を産み世代を重ねることで突然変異も生まれる。
敵のいない、すべてを中央コンピュータに支配された新人類は、何世代も進化のないまま一種類のウイルスに対応できず全滅するだろう。"血を吐きつつもそれを乗り越えて飛ぶ"力はない。だからといって殺しても良いとは言えないけどさ……。
(墓所も能力に上限がかけられてて自我を目覚めさせるレベルにはないと思う。最後なんやかんや喚いてるがあれは旧人類の伝言。自我は巨神兵が担ってるし)
『その場にもしヴ王がいたらやはり選択は違っていただろう』『居たような気がする』
そう、その場にヴ王はいたよ。しかし、ヴ王がいても選択は変わらない。
ヴ王はナウシカの「私達のように凶暴でなく、おだやかで、かしこい人間になるはずの卵です」という言葉に「そんなものは人間とはいえん」と返している。
ヴ王は人間の闇の部分がわりと好きなんだよ。王に対してボロカスな口をきく「道化」を蹴っ飛ばしながらも割と仲良くやってるしね。清廉潔白な人なんか面白くないと踏んでる。お人よしかどうかの話ではない。
「とんでもないことになると分かってても欲しがるタイプ」というのは正しい見方で、まったくもって危ない人物ではあるけどな。
最後に毒気が抜けたのは「お綺麗な」墓の光を浴びたのでまさに「毒気が抜けた」んだろう。この辺は漫画だから「そんな超常現象」とか言わずにね。ナウシカのカリスマ性も一因だろうね。
ここまでで挙げたように、たぶん今あなたは手元に本が無いから?内容を曖昧にしか理解できていない気がする。
という私もコミックをある所に持ち出したら、その場に定着しちゃって置いてきたから今は持ってない。勘違いしてる部分が沢山あるはず。ちゃんと買って読み直そうっと。
確かにナウシカがいなければ現生人類はすぐに絶滅していただろう、そこは認める。
しかしナウシカに全責任を押し付けたのなら、押し付けられた最高責任者であるナウシカは最後まで慎重な判断をするべきだった。
墓の技術を用いれば現生人類が新しい環境でも生きていけるだけの可能性だってあった。
その真偽を確かめる前に破壊したのは全責任を背負わされた者の判断としては絶対に間違っている。
人が傲慢であることを認めるなら例え危険を冒してでも墓の技術を現生人類存命のために転用しようと努力するべきだろ。
ナウシカの境遇に対する同情は当たり前だが、それとは分けてナウシカは現生人類の運命を決断する立場にいたことを理解するべきだった。
墓と和解する、墓の技術を使って適応できるよう変わる、新生人類と共存の道を歩む確率なら後者の方が高いことは疑いようがない。
武力的制圧の観点からなら生殺与奪拳をナウシカが握った時点でついている。
ところがナウシカは根っからのテロリストだから相手が無力化しても最後まで暴力を手放さなかったわけだ。
真意を聞かされた人間がナウシカだけだったのが現生人類・旧人類・新生人類全員の不幸だった。
それにナウシカが押し付けられた側というのなら、ナウシカは現生人類と話し合い情報を共有しあったか?
勝手に一人で現生人類を愚かだと決めつけて話すタイミングもあったのに、一人で判断し一人で決断してたじゃないか。
それがエゴ以外の何だというんだ。
王蟲とは心を通わせるというが、ナウシカのような特異な人間でないからこそ現生人類を導く役目があったのではないか。
カリスマ的求心力を向かわせた先は結局ただの暴力と破壊活動だった。
平時においてはみなまとも、とは夏目漱石の言葉だが、平時でないからこそナウシカの本質が浮き出た最終審判となった。
どれだけ苦しくても人の命を奪ってでも生きたいと願わない人間もいる。
ナウシカは危険な道を手探りで歩くことよりも、エゴイズムにまみれた自分の信じる正義で現生人類の生きのこる選択を奪った。
それはナウシカに背負わされた責任よりも遥かに重い結果だった。
何度でもいうが墓の技術を破壊したというのは取り返しがつかない選択だ。
政治力・武力を持った人間が行うべき選択は、支持率や多数決が問題ではない。
正しい歴史が残るかどうかだ。
ってこんだけ書いててヴ王もその場にいたような気がするなあ。
というかラストでヴ王がナウシカの決断に納得してるのがやっぱり腑に落ちないわ。
ヴ王なんて墓所の技術を何としても手が欲しかった側の人間じゃん。
横からだけど。あそこに至るまでに全人類の希望をナウシカ一人に責負わせちまったからなぁ。
命をもてあそぶのをやめろって言ってもやめないし、争いをやめろって言ってもやめない。なんでこんなことになったのかというと墓のヤバイ技術が漏れ出してるからで、そんな墓何のためにあるのよと思ったら「現人類はバカだからリセットして、争わない綺麗な新人類を作るんだ」だもん。ざっけんなよって言いたくなるわ。
(整理。旧人類:巨神兵や王蟲を作り、火の七日間を起こした世代。現人類:ナウシカの世代(浄化までの捨て駒)。新人類:世界浄化後、卵から生まれる予定の綺麗なジャイアン)
まああんたの言う通り、王蟲も巨神兵も人工物だけど当初の予定以上の知能を持つようになったんだから、頭空っぽの新人類だって年月を経ればまともな感情を持つかもしらんよ(オーマは裁定者として元からスーパーAIだったろうし、王蟲と墓の血液が同じだと分かったのは墓の崩壊後だけどな)。
綺麗な新人類はすぐに邪悪な現人類に攻撃されて滅ぼされそうだけど、それをナウシカが守ってやればいいじゃんってのもまた一理ある。ただな、最終話の時点で人々はもうどうにもこうにも限界が来てた。旧人類が絶望の末に綺麗なジャイアンや音楽くらいしか残す価値を見出せなかったように、人間は絶望すると余裕のある判断はできなくなる。
なにより前提として、そこに至るまでにすでに現人類はナウシカに全部を託したんだよ。そうしないと現人類絶滅が避けられそうになかった。ナウシカによってどうにか破滅の一歩手前で止まってたわけ。ヴ王とかに任せてたら巨神兵使って再度核戦争まっしぐら。
で、託してしまった以上「文句を言うのが遅い」と思うね。本当に綺麗な新人類を助けたいなら、それまでに現人類がナウシカを助ける必要があった。現人類同士での争いをやめて、新人類を受け入れるくらいの余裕がありますよと言えればよかったのに…できなかった。クッソ重い責任をたった一人に背負わせて「最終判断間違ってるぞ!」って責めるのは酷だろう。
ナウシカは一人の人物ではあるけど、結局はそこに至るまでの過程を現人類が選択したんだよ。あなたならその時破滅を止めるために何か協力できただろうか?
絶望した旧人類の選択を、これまた絶望した現人類が書き換える。傲慢だ。ただそれはちゃんと漫画にも描写されてて、旧人類にはああするしかなかったと書かれてるし、ナウシカ(というよりは現人類)が傲慢だってのはまあそうだ。その傲慢さを持つのが人間だと。
『巨神兵を使い捨てにした』と言うが、技術が未完成で育つ見込みは薄かった。そしてナウシカが指示したわけではなく巨神兵(オーマ)自身の判断もある。あの時点で裁定者として動き始めてたからな。前線でドンパチやってる「墓所」を前にして「責任者を出せ」と言ったら墓所が問答無用で発砲してきたのが発端。最後はナウシカもオーマ本人も、助かる見込みはないということが分かっていて、ナウシカの最後のお願いを聞いてオーマは発砲し死んだ。ナウシカ自身もオーマに自身を母親のように認識させておきながら同時に「オーマの死を望んでいる」。物としては危なすぎるからな。その傲慢さは本人も自覚している。
結果として、墓の崩壊とヴ王の死去により今後はクシャナ殿下が国を統治することになり、人類は少しは軌道修正できるだろう。
最後にユパが身を挺してトルメキアとドルクの報復合戦を止めたことも大きい。そのユパの存在はナウシカの存在によるものが大きく、ナウシカなくしてはユパもまだ腐海の探検を続けてただろうし、ここまで身を挺さなかっただろう。
ナウシカが巨神兵を物扱いせず名前(オーマ)を授けたことで、巨神兵の知識が急速に進み「昔の人は巨神兵をただの兵器としてではなく裁定者として作ったのかも」ということが分かった。
旧人類は自らに絶望し、すべて新人類に託すことにした。一方の現人類は、旧人類同様リセット寸前だし、浄化後の世界に耐えられないかもしれない、だがそれでも「我々は血を吐きながら、繰り返し繰り返し、その朝を越えて飛ぶ」という選択ができた。
俺としては「ナウシカは称えられこそすれ、責められるべきではない」「ナウシカに全責任を負わす前に、人類が自分たちで踏みとどまる必要があった」だな。