はてなキーワード: 臨済宗とは
https://anond.hatelabo.jp/20240609075954
https://web.archive.org/web/20170710063230/http://ashihara-hina.jugem.jp/?month=201212
発売中です~!!
どうぞ宜しくお願い致します。
そして、「Piece」は後一冊、全10巻予定です。
なんとかキリの良い10巻に収まりそうで、良かった!
いやいやしかしその前に、9巻の続きが
2013年1月13日発売の「Betsucomi」2月号にて読めるので、
お楽しみに~!
1
お仕事---
私もイマイチ良く分かってなくて、お伝え出来てませんでしたが。。
10月6日~日テレさんにて放送の、ドラマ「Piece」は、関東ローカルです。
☆10月6日(土) 深夜24:55~ 日本テレビ(関東ローカル)
☆10月10日(水) 深夜26:06~ FBS福岡放送
☆あと、読売テレビ放送決定です。
チェックしてみてくださいね。
お待ちくださいませ!
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お仕事---
うちは臨済宗なので、クリスマスは関係ございません!!と言いつつ
講談社の編集さんが、毎年シュトーレンを送ってくださるのですよ。
う、、嬉しい、、。嬉しくて震える。(西野カナ風味)
あとは毎年買ってる「パリ・セヴェイユ」のシュトーレンとヴェラヴェッカ。
シャンパン5杯くらいいけそうな気がする。
ただ、仏教学研究者の多くは実家が寺で僧籍もってることが珍しいことではないんだよ。
さる先生疑惑がかかっている某先生は花園大学を卒業してるけど、花園大学の仏教学科の偏差値はボーダーフリー。
そんな名前さえ書ければ入れるようなFランしか受からなかったような人がなんで学者になれるんだっていうと、
親が引退したあとに実家の住職を継ぐために家の宗派の仏教系大学の仏教学科へ進んで得度しなければならん関係で、
成績自体はいいのにFランの仏教学科に送り込まれる寺の子がいて、どうせ将来は寺継ぐだけだからと大学院進学して仏教学者兼僧侶の道へ進んだりするのよ。
さる先生の正体がだれなのか皆目見当もつかないけれども、もし臨済宗の僧籍をもってるような人だとしたら、そりゃやっぱ仏教徒としてそれはどうなんよっていわれても仕方ないんじゃない。
そういえば2年ほど前にTwitterで在日差別のヘイトスピーチを繰り返した臨済宗妙心寺派の僧侶が問題になってたけど、僧侶の人権意識が低いって擁護しようがないと思うよ。
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
仏教というのは釈迦の思想を勝手に発展させたものであり、ずいぶん偽書もあり、それが正統に受け継がれていたりするが、これはインド人の大雑把さなのであろう。
釈迦そのものが荒行を否定しているのは確かであり、これはだいたい枉げられずに受け継がれている。身体的な苦痛が激しい命懸けの荒行をする人間もいることはいるが、これはかなりの少数派である。
ほとんどは、快楽を減らすことで苦痛を減らすという発想を基本としている。欲しいものが手に入らなければ苦痛であるから、何も欲しがらなければいいのである。もしくは、苦しい苦しいと悪あがきするから苦しくなるのであり、平然としていれば、苦しくないこともある。
仏教でなくても、困難を前にして周章狼狽するのはみっともない。難局だからこそ、平然としていた方が、人間として好ましい。
痩せ我慢と言われるだろうが、腹を括ってこそ、この人間を縛り付ける痛みを超越できることもある。泰然自若としているのが望ましいというのは、おそらく仏教とはまた別に、人類普遍の発想でもある。
泣きたいときは泣けばいいという人もいるが、世の中はそれほど優しくないし、歴史的な偉人の末路を記録するときでも、気が動転して泣きわめく文弱な芸術家の素顔を書くこともあるが、大人物として描きたいときは、うろたえることなく無表情で腹を切るような様子を描くわけである。
禅というと臨済宗の方が有名であろうが、わたしは道元(曹洞宗)が好きなので、そちらに重きをおいて書くが、坐禅はただ座ることが大事なのである。
道元は禅問答を批判しているわけではないが、あまり重視していない。只管打坐、ただひたすら座る、それだけである。
寸陰を惜しんで生きている現代人には時間の無駄に思えるかもしれないが、挙動がおかしなパソコンは再起動したほうがいい。
なぜ仏教で坐禅をするのかというのも、いろいろ理由はあるだろうが、快楽や苦痛がわれわれをお誂え向きの弱者に仕立て上げようとする中で、ただ座っているだけというのが人生への気高い姿勢なのである。
坐禅は目を開いた状態、もしくは半眼で行うが、どちらにせよ瞼は閉じない。これは布団でゴロゴロしている朦朧とした状態とは対極である。
目を開いて、明晰な意識で身体静止することが肝要であると思うし、座り方はさほど重要でないだろう。正式な結跏趺坐でなくても、半跏坐で充分と道元禅師は述べられている。身体静止が何よりも肝心であり、座ったほうがその境地に至りやすい、という程度の気がする。
達磨大師のように九年間面壁坐禅とか、そこまでする必要はあるまい。
われわれは生まれてから死ぬまで悪魔に誘惑され、唆され、使嗾される。心が揺さぶられるからこそ、いわば耐震構造の強度を上げるため、身体を止めておかなければならない。
中枢神経に直接触って治すわけにはいかないので、身体の動きをとめることで、自分をコントロールするしかない。
ロボトミー手術みたいに、脳にノミを打ち込む方法は今の医学では効果が見込めないので、身体を静止させることで脳を落ち着かせるのである。
多動性こそが馬鹿の特徴であるという発達障害の考えは的確だが、リタリン服用への是非はともかく、身体が止まっていることが何よりも肝要であり、道元禅師には及ばないにせよ、その境地をお手本にするべきであるように思う。
仏教というのは釈迦の思想を勝手に発展させたものであり、ずいぶん偽書もあり、それが正統に受け継がれていたりするが、これはインド人の大雑把さなのであろう。
釈迦そのものが荒行を否定しているのは確かであり、これはだいたい枉げられずに受け継がれている。身体的な苦痛が激しい命懸けの荒行をする人間もいることはいるが、これはかなりの少数派である。
ほとんどは、快楽を減らすことで苦痛を減らすという発想を基本としている。欲しいものが手に入らなければ苦痛であるから、何も欲しがらなければいいのである。もしくは、苦しい苦しいと悪あがきするから苦しくなるのであり、平然としていれば、苦しくないこともある。
仏教でなくても、困難を前にして周章狼狽するのはみっともない。難局だからこそ、平然としていた方が、人間として好ましい。
痩せ我慢と言われるだろうが、腹を括ってこそ、この人間を縛り付ける痛みを超越できることもある。泰然自若としているのが望ましいというのは、おそらく仏教とはまた別に、人類普遍の発想でもある。
泣きたいときは泣けばいいという人もいるが、世の中はそれほど優しくないし、歴史的な偉人の末路を記録するときでも、気が動転して泣きわめく文弱な芸術家の素顔を書くこともあるが、大人物として描きたいときは、うろたえることなく無表情で腹を切るような様子を描くわけである。
禅というと臨済宗の方が有名であろうが、わたしは道元(曹洞宗)が好きなので、そちらに重きをおいて書くが、坐禅はただ座ることが大事なのである。
道元は禅問答を批判しているわけではないが、あまり重視していない。只管打坐、ただひたすら座る、それだけである。
寸陰を惜しんで生きている現代人には時間の無駄に思えるかもしれないが、挙動がおかしなパソコンは再起動したほうがいい。
なぜ仏教で坐禅をするのかというのも、いろいろ理由はあるだろうが、快楽や苦痛がわれわれをお誂え向きの弱者に仕立て上げようとする中で、ただ座っているだけというのが人生への気高い姿勢なのである。
坐禅は目を開いた状態、もしくは半眼で行うが、どちらにせよ瞼は閉じない。これは布団でゴロゴロしている朦朧とした状態とは対極である。
目を開いて、明晰な意識で身体静止することが肝要であると思うし、座り方はさほど重要でないだろう。正式な結跏趺坐でなくても、半跏坐で充分と道元禅師は述べられている。身体静止が何よりも肝心であり、座ったほうがその境地に至りやすい、という程度の気がする。
達磨大師のように九年間面壁坐禅とか、そこまでする必要はあるまい。
われわれは生まれてから死ぬまで悪魔に誘惑され、唆され、使嗾される。心が揺さぶられるからこそ、いわば耐震構造の強度を上げるため、身体を止めておかなければならない。
中枢神経に直接触って治すわけにはいかないので、身体の動きをとめることで、自分をコントロールするしかない。
ロボトミー手術みたいに、脳にノミを打ち込む方法は今の医学では効果が見込めないので、身体を静止させることで脳を落ち着かせるのである。
多動性こそが馬鹿の特徴であるという発達障害の考えは的確だが、リタリン服用への是非はともかく、身体が止まっていることが何よりも肝要であり、道元禅師には及ばないにせよ、その境地をお手本にするべきであるように思う。
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。
目次 [非表示]
1.2 四宗兼学
1.3 止観行
1.4 所依
1.5.1.1 総本山
1.5.1.2 門跡寺院
1.5.1.3 大本山
1.5.1.4 別格本山
1.5.1.5 その他の寺院
1.5.2 天台寺門宗
1.5.3 天台真盛宗
1.6 その他天台系宗派
1.7 教育機関
1.7.1 大学
1.7.3 養成機関
4 社会運動
5 脚注・出典
6 関連項目
7 外部リンク
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
四宗兼学[編集]
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
止観行[編集]
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
所依[編集]
福王寺(熊本県山都町、宮司兼豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である)
その他天台系宗派[編集]
孝道教団
叡山学院
なので信仰者としての立場を極力排してなぜ胡散臭いのか、本当はどうなのかを考えてみます。
最初からいいますが、僕は新興宗教自体を胡散臭いとは考えていません。
身も蓋もない言い方ですが、キリスト教はユダヤ教の新興宗教ですし、仏教も日蓮宗や浄土宗、臨済宗は密教系とは重要な教義が異なっています。
私はカソリックですが、米大統領選でも注目されるモルモン教や福音派などのプロテスタントは明らかに新興だと言えます。
基本的なことですが、この点をまず明らかにしておきたいと思います。
ではなにが胡散臭いのかというと、相当分がみなさんと宗教の接点ですれ違いが起こっていることになります。
そして悲しいことですが、本気で胡散臭い活動も当然ながらあります。
宗教側からみなさんへの第一の接点は布教活動になると思います。
僕が通っていた大学でも注意書きが掲示されていましたが、家に押し掛けてくるのは胡散臭さレベルが高いので敬遠するのに越したことはないでしょう。
商売と一緒で「売ってくれ」とお客さんが来るのが最高の営業ですが、現代日本ではこれはほとんど期待できないでしょう。
ではどのように新しい信者を獲得するかというと、団体としての活動や宗教活動を通じてということになります。
代表的な新興宗教には宗教活動以外にも莫大なお金をつぎ込んでいるものがあります。
PL教団の花火大会や、米ソルトレークシティのモルモン教の大寺院などはその代表的なものです。
このような活動には伝統的な宗教も古くから関与してきました。宗教は伝統的に文化・芸能活動の庇護者であったのです。
長い歴史の中ではそれに対する反発もありましたが、現代日本でもその恩恵に多く与ることができます。
例えば東京観光や京都観光には寺社仏閣がつきものですが、その観光価値は一般の方には庭園や天井画や襖絵、建造物にあるのが現実だと思います。
そのような文化活動は信者と、一般の方の両方に働きかけるもので、難解な教義を介さない身近な存在として宗教を感じてもらうことができるのだと思います。
新興宗教には巨大、特徴的な寺院を建造するところが多くあると思いますがこの理由はちょっとわかりません。
ただこのような建造物を建てたからと言って、教主や教団幹部の懐に直接お金が入るわけではないということは留意しなければならないでしょう。
教義は信仰者にとっても難しいものです。カソリックでは洗礼を受けるにはちゃんと勉強をして認められなければなりません。
本来ならばどの宗教でも教父にあたる方に接するのが第一歩になるでしょう。
ただ、いきなり相手のホームグラウンドに行くのは恐いですから興味のあるお寺(教会)に電話してみるのはいかがでしょうか?
自分の考えていることを吐露してそれで答えが受け入れられないものであれば、それは相手方の落ち度でしょう。
元増田のアプローチは、まず文字に当たるということですが、どの宗教でもその本質は活動です。
「wikipediaは参考文献に含まれない」とはよく言ったもので少なくとも宗教で学ぶというのは不適当ではあると思います。
完全に新興の宗教は別として、多くの新興宗教は既存の宗教の派生です。なのでそれぞれの教義には数百年単位の積み重ねがあり、
一人でそれを理解しようというのはだれにとっても不可能でしょう。ただしその本質というものはシンプルで良いものであると私は信じています。
長い人類の歴史の中では宗教と歴史が分離されていたことの方が少ないでしょう。
それはさておき、宗教が政治を無視できないのは宗教が人の本質にアプローチするものだからです。
人の生活に直結する政治とはどうしても重なる部分があるということが宗教が政治に関わっていく要因でしょう。
「波動」や「飛行」というのを聞いたときの胡散臭さは相当リアルに感じます。
それはそれとして一歩引いてみれば仏教用語の因果や因縁、「宇」や「宙」というのは非科学的な概念ではないでしょうか。
これらを科学的に検証することはできませんが、明らかに科学と矛盾するものとしてキリスト教の進化論や地動説を否定があります。
私自身は技術者として生計をたてていて、人は猿から進化して、地球は太陽の周りを回っていると思います。
非科学的ということが宗教を損なうのはその真実性を損なうからだと思います
これはどこの宗教でもつきものだと思います。検証不可能なことは証明できませんし聖典は多面的な読み方ができるため科学的な検証には向いていません。
「聖典が正しければ寺院(教会)・教義は正しい」そして「寺院(教会)・教義は正しければ聖典は正しい」というような循環論法に陥りがちです。
これに対しては僕が言えるのは「あなた自身の考えて」という月並みなものです。あなたが一歩を踏み出してよい教えに導いてもらえることをお祈りしています
ウダウダとしてしまった。
◯
朝食はハムと卵を焼いて食べた。
卵焼きとご飯って満足感が高いよね。
好き。
◯
その後、散歩へ出かけた。
今日は30分くらいだ。
◯
それにしても、最近なんだか胸が苦しい。
精神的なものと思われるので、そういう時は呼吸に意識を向けてみる。
そうすると、呼吸自体が苦しいことに気づくことが多い。
そのまま呼吸に意識を向け続けると、だいたい5分もあれば呼吸が落ち着いてくる。
◯
しかしそれでもブロックが残っているなと感じるときは、いつも「軟酥の法」を使う。
この「軟酥の法」、その昔臨済宗の白隠禅師が修行のし過ぎで神経症にかかってしまったときに、仙人を訪ねて教えてもらったという秘技である。
(僕が知っている時点で秘技ではないかもしれないけど、秘技って言いたい。)
これは簡単にいえば、額に乗せたバターが溶けて頭から足へと浸透していくイメージをするという技。
僕も精神的にまいった時には、このイメージ療法に何度と無く助けられている。
身体の中で強張っている箇所がユルユルと解れていき、気持ちも同時に緩んでいく。
普段は座っている時や寝ている時にしていたものだが、朝の散歩の時にするのもアリだなと思った。
◯
そして昨日と同じく、歩きながら今日はどんなテーマで生きてみようかなーと探してみたが、特に見つからなかった。
◯
テーブルの上に団子があったので、お茶を入れて飲んで食べた。
美味しいなぁ、みたらし団子。
杏仁豆腐くらい好き。
◯
そしてコーヒーを飲みながら、幾つかの雑事を行った。
これまでは洋書に集中するために洋書を読むデバイスと和書を読むデバイスを分けていたが、これでひとつのデバイスで読めるようになった。
便利になったが洋書は読まなくなるかもしれない。
◯
あと評価の高い「知的複眼思考法」というKindle本も買った。
◯
その後は、犬の散歩へ行った。
家族が甘やかすせいでグイグイと引っ張る癖があるので、調教しながら散歩した。
最後はストレスが溜まりすぎたためか大いに暴れだしたので僕も暴れた。
◯
夕食の後は、近くのサンマルクカフェへと行った。
加入しているWi-Fiサービスでインターネットが利用できるからだ。
作業に没頭できたのは良かったが、夜にコーヒーは良くないかなーと思ったので明日の午後にもう一回来てみよう。
◯
そう言えば「思い出のマーニー」ってもう公開されてたんだなぁ。
またもν速大勝利、スネークが小沢マンションの中国人女子留学生入れ替わり制を突き止める。朱朱季季
ttp://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1263475685/651
651 : 硯(西日本):2010/01/15(金) 05:59:20.52 ID:bUC2ikHi
295:名無しさん:2010/01/11(月) 08:54:02
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%9B%9B%E5%92%8C%E5%A4%AB
来歴・人物 [編集]
鹿児島県生まれ。鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校を経て、1955年鹿児島大学工学部を卒業、がいしメーカーの
松風(しょうふう)工業を経て、1959年、社員8人で京都セラミツク(現・京セラ)を設立し、10年後、株式上場。
ファインセラミックスの技術で世界的な企業に成長させた。1984年には第二電電(DDI、現・KDDI)を設立した。
グループ全体で売上高が1兆2000億円と成長を遂げた。1984年、財団法人稲盛財団を設立し、京都賞を
創設した。また、若手経営者向けの経営塾「盛和塾」を非営利にて主宰し、若手経営者の育成も行っている。
独特な経営管理手法「アメーバ経営」が有名である。1997年には臨済宗妙心寺派円福寺で得度を受けた。
また民主党幹事長小沢一郎と旧知の仲であり、大企業の実業家ながらも熱心な民主党支持者として
知られている。とりわけ京都市を地盤とする前原誠司の有力な後援者である。小沢一郎が2008年9月21日に
民主党代表として再選された際には来賓として挨拶も行っている。 2005年、立命館小学校こども顧
問委員に就任。母校の鹿児島大学に寄附し、稲盛会館を寄贈した他、稲盛アカデミーへの援助を行なうなど、
朝子夫人は、「韓国農業の父」として知られる禹長春の四女である。 実弟の稲盛実氏は、鹿児島県で
臨済宗とか語ろうか。といっても禅宗って語るものじゃないからなぁ。