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はてなキーワード: 長州藩とは

2020-03-05

受験から解放されてから学問

試験のない学問ってとっても面白くて、数学をひたすら解きまくっていたり英語論文ひたすら読むだけで一日が終わる。幕末が好きなのでそこだけ特化して専門書借りまくってる。もうテストはないから際限なく勉強していい。長州藩大好きだから旅行とかも行きたいな。勉強ってやっぱ楽しいよ。

2019-10-20

現代日本は、長州藩クーデター江戸幕府を倒して作り、それ以来ずっと継続しているもの

2019-08-07

anond:20190807012149

会津藩長州藩とは、子供結婚できなかったらしいやん。

今は日本統一国家になるまでは、血みどろの争いをしていたのだろうかと。

  

2019-06-20

anond:20190620230810

ハーフの子を産みたい女性がいるという偏見

結果として相手外国人だったか子どもミックスになるだけで、最初からそれを目的にする女性はいない。

https://www.captainjack.jp/entry-first-international-marriage-in-japan

長州藩からイギリス留学していた南は、留学先のロンドンでライザと出会い結婚

ライザが南と結婚した理由は、「南がお金持ちだと誤解したから」。一方、南のほうも「自分人種改良論者だったので、日英の混血の子供が欲しかったのだ」と言っている、、とのこと。

人種改良思想は19世紀の遺物にすぎない。

2019-05-01

anond:20190501104327

選挙で負けても武力さえ揃えばいつでもそんなものはひっくり返せる、歴代革命家たちもそうやって独裁確立してきたんじゃないか

今動かないのは長州藩正月の恒例行事逸話みたいなもんで、ただ戦力的に革命を起こすのが現状無理なだけでしかない

マジでそんな根性なししかいないのなら一度自衛隊で鍛え直さないといけない

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。実は三河武士あいだでやたらと流行っていて十人いたら七・八人は唐の頭をつけていたと言われており、というのも唐の頭を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2019-02-01

anond:20190131203255

長州藩毛利敬親みたい。敬親は無能だったらしいけど有能な家臣に藩運営を丸投げしたおかげで、結果として偉人扱いされてるぞ。そうせい候、つったかな。まぁ部下が優秀なら信頼して責任だけ取るってのもいいんじゃないの?

2019-01-08

「年1,2回とゼロは大違いだぞ。」←これ

shea 年1,2回とゼロは大違いだぞ。前者は疲れてるとかそういう言い訳も成立するけど、

後者は「俺はお前に女として何も感じてません」の表明になる。

浮気されて当然。子供いないなら離婚でも。

2019/01/08 リンク

えー意味からない。

そういう邪推をするなら年1,2回だって「何も感じてないけどお義理でやってる」と取れるじゃん。

それでも年1、2回ならオーケーなの?


まりセックス自体がしたいのではなく義理を通せって話なの?

年賀みたいな?

プライド問題

長州藩年始の「徳川討伐」のやりとりみたいな。

anond:20190108040635

2018-12-29

anond:20181229074711

拙者は駿府百姓でござる。

葵の御紋を勝手に使って長州藩にいくさを仕掛ける予定。

どこの皇帝陛下かは存じ上げぬが合戦に御協力いただきたい次第。

なお御協力いただけぬ場合はこの場で切り捨てる所存。

2018-12-16

日本って長州藩アメリカ搾取するための国だよな

民主主義なんて嘘だったんやな

2017-09-02

https://anond.hatelabo.jp/20170902121203

正確には「気にする人もいるが気にしない人もいる」だと思う

完全にわだかまりは消えないし、そもそも人間同士だって本当に理解し合えているかも怪しい

から、「許す」という感情必要なのだと思う

(ただ、「許せ」と言っても、許さない人は許さないのもまた現実である

よって、技術革新によって諸々が満たされたり、教育が向上するのが重要、ということにもなる

 

例えば、安倍首相が今この時期に首相であり、その出身山口であり、山口長州藩だった、そして長州藩毛利元就を始祖とした、という流れにしても、単なる偶然だけでは片付けられないと思う

2017-03-11

http://anond.hatelabo.jp/20170311081712

面白く無き世を面白く、住み成す者は心為り(高杉晋作,野村望東尼)

意味

面白く無いこの世の中で有ろうと、その人の心がけ次第で面白く生きる事が出来る

この句は、江戸時代後期の長州藩士、高杉晋作が詠んだものですが、

当時から男性女性面白い話をして会話を盛り上げる必要があったということです。

せいぜい、がんばりましょう

2016-01-17

こういうのもトラウマっていうのかな

なんか、人間関係でのトラブル喧嘩別れした相手、あまり良くない恋愛の思い出などなどがあると、その人の環境的な情報まで含めて、何か情報摂取するのもしたくなくなる。

例えば前の彼女山口県出身だったんだけど、かなり酷いフラレ方をした。

それ以降、山口県は愚か、長州藩歴史的な話など、要するにその彼女を想起させる全ての情報を見るのも嫌なのだ

他には喧嘩別れしてその後連絡を取っていないような相手。その彼は兵庫県出身だったので、同様にその彼を想起させる全ての情報を目に入れるのもしんどい山陽本線鉄道の旅番組もとても楽しみにしていたが、途中からしんどくなってやめてしまった。

もう結構ないい歳で、こういう事は人生生きていれば、全く無いことはなく、やっぱり嫌な人、嫌な思い出ってのはあるもので避けられない。

いつか、山口県兵庫県も訪れてゆっくり出来る日が来るのだろうか。

このままだと普通生活らするのが嫌になる。なぜなら様々な情報が彼らを想起させてしまうから

2015-09-10

http://anond.hatelabo.jp/20150910144516

長州藩

・何でも部下に丸投げする藩主

過激派が多すぎて薩摩ですらドン引き

テロリスト量産

尊王攘夷にしがみついて外国戦争し敗北

薩摩に助けてもらってようやく倒幕を果たす

会津藩

幕府を主導するリーダーシップ溢れる藩主

・藩祖の遺訓に従い幕府忠義を尽くす

天皇からの信頼も篤い

・海から遠い奥州会津にありながら洋式軍制への改革を断行

朝敵汚名と最新兵器に屈してやむなく降伏

2015-08-27

http://anond.hatelabo.jp/20150827211231

明治維新」の原動力となったのは長州藩…つまり現在の「山口」県…天皇を「神」として崇めた彼らのリーダーは木「戸」孝允…すなわち「神戸」…おっといけねえ、ヒントを出しすぎちまった。

2015-07-12

山口県首都移転しよう

維新戦争の最終的な勝利者である長州藩山口県首都を置くのは当然のこと。

山口県首都移転し、都市人口山口県に移動しよう。

そして地元票を新住民票で圧倒しよう。

2011-02-12

今は世界幕末。もうすぐ藩(クニ)の縛りがとけて全世界が1つの国になる。その時どう生きるか。

日本では江戸時代薩摩藩とか長州藩かいろいろなグループに分かれていてそれぞれ戦争した貿易したりしていたのが、交通手段や通信手段が発達していく中で日本と言うひとつに国になっていって、こんどは日本と言う国が世界の他の国と戦争した貿易していたりしたのだけれど、それが21世紀になっていよいよ世界ひとつになろうとしているだけです

そして、グローバリゼーションによって何が起こるのかと言うと一物一価の経済法則国境を超えて進展していくと言うことです

コカコーラの値段は世界中どこでも同じになっていくということです

同じスキルで同じ仕事をする人の給料はどこの国でも同じになって行きます

そしてグローバリゼーションが我々日本人給料にどう直撃するかと言うと、これもとても簡単なことで、途上国労働者でも簡単に出来る仕事をしているひとの賃金がどんどん下がっていきます

だって、僕が経営者だったら、同じ仕事をやってくれるなら月給30万円の日本人より、月給3万円のベトナム人を雇うもん♪

当たり前でしょ。

逆に、世界中どこにも代えのきかないスキルを持っているほんの一握りの人たち、例えば世界的な歌手とか作家とか、凄腕ヘッジファンド運用者とか、カリスマ経営者とか、天才プログラマとか、そんな本当に一握りの人たちが天文学的な報酬を受け取ることになるわけです

なんせ、そんな人が活躍できるマーケットは一国だけに留まら世界まるごとになるわけですからね。

結局のところ、グローバリゼーションは、先進国のほんの一握りのプロフェッショナル途上国単純労働者にはプラスに働き、先進国の大多数の単純労働者にはマイナスに働くわけです

そんでもって世界全体では経済の効率がさらによくなるのでプラスです

http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51160882.html

2008-07-22

http://anond.hatelabo.jp/20080722170942

ttp://www.kvision.ne.jp/~momorx/nen-p.htm

すぐ見付かったのはこの辺とか。

12月12日高杉晋作らと英国公使館を焼討ち

12月21日、山尾庸三とともに、国学者・塙次郎を斬殺する

この辺はたくさんのサイトが取り上げてるね。

戦後自民党メンバー自体を引き継いでるわけだから無関係ってわけにはいかんでしょ。これが無関係で済むなら今の共産党関係ないとも言えるわなあ。

伊藤博文って、お札に使われる程度には今でも尊敬されてんじゃね?

伊藤博文の行動は、彼の所属していた党派(ええと、長州藩士か)が掲げる攘夷思想の元に行われたわけで。

 
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