はてなキーワード: 山城とは
出羽 人気の守
常陸 たまに守出るでしょ
上野 すけでよく出る
上総 守人気高し
越中 惜しい
信濃 まあまあ
甲斐 人気薄
駿河 人気薄
伊豆 守人気高し
遠江 人気なし 全くありえない
若狭 ありえない
尾張 まあまあ
伊勢 ありえない
紀伊 ありえない
飛騨 ありえない
加賀 ありえない
三河 まあまあ
志摩 ありえない
近江 人気あり
山城 まあまあ
丹後 あり
摂津 なし
和泉 なし
河内 あり
淡路 なし
大和 なし
因幡 あり
伯耆 なし
石見 なし
美作 なし
安芸 なし
周防 なし
長門 まあまあ
阿波 あり
讃岐 なし
伊予 なし
土佐 人気
筑前 あり
筑後 あり
豊前 あり
豊後 あり
肥前 なし
日向 なし
薩摩 あり
大隅 なし
琉球 あり
そらまずいことであるという認識がありつつ、山城氏が間違いを認めたわけでも、間違いを認めない山城氏を排除するわけでもない組織が批判されるのは当然では?
自分のやってることは正しいんだい!それを認めないのは悪なんだい!
ってことよ
はてサといっても運動にリアルで関わってるわけでもなくてネットでグダグダ言ってるだけなんだから、
断言してもいいけど今回のひろゆきを発端とした騒動はどう返答したって基地反対派は非難されるよ。
座り込み継続は誤解を招く表現でした。以後改めます。 → 正義を掲げていればウソが許されるとでも思っていたのか?今さら謝罪したところで信頼は戻らない。
山城氏の暴力は言語道断です。謝罪します。 → こんな人を代表として反対運動を続けている組織に信頼などできるはずがない。こういう人を排除できないこ
とが基地反対運動の妨げになっていることに気づけないのだから終わってる。
みんなもそう思ってるし、反対運動したところで国家権力に勝てるわけないんだから非合理な活動しててバカじゃね?wwって思ってるんでしょ?
正直にそう言えばいいのに、批判も許されない空気が(キリッ)みたいな言い訳しちゃってさ。批判に対して謝罪や反省を示したところで支持する気なんかハナからねーだろうよ。
味方しないなら批判するな、ではなくて立場を明言しろよってことだよ。
反対運動を批判してる人は暴力行為やウソが焦点になってることをカモフラージュにして基地反対運動自体をどう考えてるのかはっきりさせないじゃない。
だからはっきりと基地が必要なので反対運動は邪魔だから消えろと言えばいい。基地反対派のために言ってます、基地反対派であるあなた方の味方ですよ?みたいなツラして中立ぶったコメントしてるやつ何なんだろね、バレバレなのに。
yujimi-daifuku-2222 物凄く皮肉なんだけど、これって強硬な反自民、反安倍の人達の行動様式そのままなんだよ。/基本的に評価するという事が一切なく、カルダゴ滅ぶべし宜しく、自民党やアベは退陣しろで終わるのだよな
絵に描いたような中立を気取った基地反対運動批判派を書いたつもりだったんだけど、本当に絵に描いたような中立気取りブコメが来てワロタw
kihiketufuwabe正直に言います。運動の目的にかかわらず脅迫行為は許されないと思いますよ。運動の正義について否定しているわけではありません
過去のブコメ見させてもらいましたけど、正にあなたのような人のことを書いてるんですよ、ってか私の増田が具現化したのかと思いました。
外国人工作員が沖縄の基地問題の反対運動に混じってる事を知った上でひろゆきは言ってると思うんだよね。
差別的だ!って話のツッコミが一通り出きって広まったタイミングでこの話を出して反対運動を潰しに来ると思うよ。
ボギーてどこん(浦添新基地建設見直し協議会)@fm21wannuumui
以前、山城博治が防衛局員に「連れ込むぞ」と脅迫をした高江の国有地に造られた違法テントの内部の様子。
これを見て、沖縄の反基地運動は純然たる住民運動だと思いますか?
https://twitter.com/fm21wannuumui/status/1579284724463579137
って言う、殴ってきた人間を殴り返せば良いみたいな必死さなんなの?
その結果は自分達の溜飲は下がるかもしれないしメンツが保てたとか思い込めるかもしれないけど、仁藤夢乃vs暇な空白氏や山城博治vsひろゆきなんて対戦じゃないんだから相手倒して終了とか言う話でもなく、寧ろ暇な空白氏殴っても仁藤夢乃氏がちゃんと説明出来てない事が問題の核だったからcolabo不正会計疑惑は独り歩き余裕だし、ひろゆきを侮辱してるだなんだと殴ってもそもそも座り込みとはそう言うものだよろしくひろゆきもそう言うものだから当たってないし、逆にその反基地派に留まらず沖縄県知事からマスコミからと沖縄の権力総出で個人に怒る必死さや、実際のヤバい活動内容動画総スルーで敬意が足りないとか知らないのかとかバカにするニュアンスで言ってるのが、注目され時に本当にそんなんでいいのか?って思う。
colabo問題解決したかったら仁藤夢乃氏がザル会計やめて間取りの一般公開なんてしなくて良いけどせめて自治体には懇切丁寧に資料出して説明して自治体から何も問題はなかったと言わせなきゃいけないし、反基地は座り込み云々なんかよりもとっとと動画や前科晒されるほどの犯罪者を有り難がるの辞めてやり方をアップデートしていかなきゃいけないと思うよ。
少なくともこの二つの騒動は文句つけてきた個人を殴り返したところで何も得るものはないし、そう言う人たちなんだなって更にドン引かれる事しかないだろう。
wapa まあこれは右左に限ったことではないようにもおもうのだが、ステレオタイプに陣営化し、やられたらやり返す、言い負かしたら勝ち、突っ込まれた問題なんてどうでもいい、どっちもどっち理論とか多くて非常に不毛
大抵こういうことは左右どっちもって言うのはわかる。ただ左ばかり目に付いてしまうんだよね。左に頑張って欲しいって証左でもある。だからただ問題点を叩くんじゃなくて提案もしてるし。とりあえず自民党がいくら悪いことして自滅してもそれを指摘する側も自省なく自滅したりで支持もないんじゃ意味なくて、言いたくなるんだよね。
kyukyunyorituryo ひろゆきが2chの運営していた時は2chで犯罪があったがそれをひろゆきとしてくくっていいのかな。
好きにしてくれ。暇な空白氏支持でもひろゆき支持でもない。そんなの論われてもどうでもいいよ。
sonhakuhu23 「『安全圏』から悪意をもって揶揄してる俺らキモチイイー!」と言ってる奴らに「お前ら「揶揄」している時点で、喧嘩を売った「張本人」になっちゃったから、もう安全圏じゃないよ、残念!」って言われているだけ。
その言い振りならヤクザと言う指摘は特に間違ってないのでは。で、私はそのやり口やそれで出してきた人物が時代錯誤も良いところだからアップデートした方がいいんじゃないって提案してるだけです。
sslazio0824 Colaboの会計は税務署には申告してるし補助金事業は自治体に計算書類や活動報告書を提出する必要があるから説明義務は果たしてるはずですよ?それに対して指導なり補助金返還請求があってからザルと言いなよ。
とりあえず成り行き任せではあるけど、Twitterでの氏の反論は多くの人を不安にさせてしまうザルさなのは確かでした。
keytracker ひろゆきは批判するけど、空白なんて人批判した事なんかないんだよなあ。一体何が見えてるんだろうね。俺は保守のつもりなんだけどな。イジメするような奴が嫌いなだけ。傷ついてる人たちをさらに傷つけるような
少なくともkeytracker氏のことは見たことなかった。お互い様だと思うのではじめまして。
ひろゆきだから病むとかしてないけど、最初の動画で反基地の人間とひろゆきが揉めただけなら個人同士の諍いだったけど片や知事や現地マスコミと地元の権力者が乗り出してしまった。もう一方的にいじめと言うのは微妙じゃないかな。
まあそんなひろゆきどうこう構うより、ひろゆきを叩くために山城氏を担ぐみたいな流れは悪手だから考え直したらって言うのが私の主張だ。
kjrio colaboは微妙なのでスルー。 沖縄問題には、基地の無い所に住む人々の代わりに基地問題に苦しんでる側面がある。その苦しみに寄り添わず、正論めいたことや揶揄を言えば沖縄の心が離れる。沖縄との分断は国益を損ねる
沖縄との分断は国益を損なう。と言うのはわかる。ただ山城氏を担ぎながら寄り添うよう言われても寄り添い難さしかない。
今回、反基地の中でもあの人はって人はいるようだと思った。ただ大きく出てきた知事やマスコミはあの人達を推してる。その状況は変えて行った方が良いと思う。
y-wood オールド左翼にしろ、フェミニストにしろ、一般人からは嫌われる仕草だな。でも仁藤氏は資金を引き出せたら勝ちだけど、老害は敵を作ってるだけ。勝ちのラインが違うから並べるのは仁藤氏に失礼じゃないかな。
暇な空白氏を叩いても、ひろゆきを叩いても仕方なくて、今の問題点はそこよりもっと対処すべき所あるんじゃないって。
colaboは仁藤氏が解決するほかないから取り巻きは下手な擁護するくらいなら黙ってた方が良いし、反基地は山城氏の動画総スルーでひろゆきだけ叩いて終わるには無理があるしと。
でもどっちもそこに躍起だったので。
mr_mayama 8の人はこんなチャチじゃないし迂闊に使うなよ
増田がヤクザっぽいとか初耳でこっちも良く分からんけど、人間ってそれで良いよね。
fraction 近年のウヨさんたちって日本の本来の倫理、道徳知らんでしょ。ウヨさん言う所のパヨクの野放図な態度自分で取って咎められたら発狂して泣き出されても「へえ、お大事に(笑)」くらいしか反応できんわ
Dainihonteikokubanzai 突然クレーム付けてきて反論されたら「サヨクはヤクザ!!」って当たり屋思考すぎて逆にそっちがヤクザ仕草じゃないの?まあクレーム・異議は大事だけどさ
クレーム付けたのと反論されたのはひろゆきだね。私はそのひろゆき叩きに必死な様を見てそんな事よりその流れで出てきた山城氏の動画拡散の方対処した方が良くない?って言ってるだけ。
殴り返してても良いけど、自分で振り回したナイフが自分の太ももに刺さりっぱなしだったら気になるじゃん
li1ipqb0ooi1n >>殴ってきた人間を殴り返せば良いみたいな<< その理論では、まず「殴ってきた人間」がヤクザだと思うのだが…キミはあれか? 自分で言ってて自己矛盾に気づけない人か?
◆再追記◆
Zephyrosianus 増田は個人名を挙げて批判するのは規約違反の可能性が高いのにそういうルールを平気で逸脱する。そして身内で批判もしないのは「ヤクザ仕草」の内にはいらないんですね。id:Capricornus 氏はまず自分を顧みりべきでは?
これで私の投稿や垢が個人攻撃だからと消えたところで事実としてTwitter等で山城氏の動画は拡散されてそのイメージで定着した反基地派への批判もいくらでも続いていく。
私はそれに対して知事や沖縄メディアも擁護したあの人が悪目立ちして独り歩きしていくのは反基地派としても不味いんじゃない?と言ってるだけなんだけど。
ai_math_running サヨクって用語が右系冷笑系人々のお仲間向けジャーゴンですよね? この言葉使ってる時点で外向けに対話する気ゼロの人だって思っています。/ トップコメで自分が書いたって自白してる。この人には誇るべき事なんだな
女性にまで危害を及ぼす人々をフェミニストと呼ぶのは躊躇うように、平和や反戦を掲げながら血気盛んに個人攻撃に走る人物を左翼と呼ぶのは躊躇うからだよ。
differential 争いは同じレベル同士でしか発生しないからじゃね?お互い、論理破綻の個人攻撃をしあってるばっかりだし批判されると痛いことにはダンマリ。ダンマリに関してはむしろ右曲紳士の方が統一教会にはダンマリだし笑
統一教会を出せば自分が右翼だと思う人物に効くと言う薄寒い偏見はとっとと捨てた方が良いと思うよ。
統一教会含め世のため人のためカルトは滅んだら良いと思ってるよ。
hobo_king “殴ってきた人間を殴り返せば良いみたいな必死さ” 活動家たちが戦うべきテーマ外の反撃に必死なの無駄だし変というのは分かる。ただ政治活動とか争い含みのものって「舐められたら終わり」が常にある気もする。
読んでくれてありがとうございます。本当に舐められたら終わりなのか、私はそこを切り開く政治家を見たいね。
不要な批判はスルーしてクリティカルに問題を解決して行く人が現れたら気持ち良いと思うな。
それなんだよなあ。結局ここでも私への個人批判はいくらでもあるけど、その点だけは徹底して無視されてる。
って言うか私の趣旨は大して理解されてないまま批判にウェイトが置かれてる。
抗議活動そのものを真っ向から否定してるわけじゃないのにな。寧ろ世間一般的に悪逆行為は様々なハラスメントと認定され排除されより平和になっていく中であの活動内容の山城氏を担いでしまうのは時代錯誤的で不味いんじゃないのって言うのがそもそもの所感です。
gcyn ご希望の答えや論点じゃないかもしれないですけど、批判や論が文字や言葉になって残るということに希望を感じていたり大きく信じる人達がいますね。私もそのひとり。増田はそうでもないですか?そんなことないか。
反基地運動とか抗議そのものを否定した覚えはないんだ。それは当然の権利だし。
ただ知事や沖縄メディアが担いだ人物の前時代的なやり方の動画が拡散されていてそれには何の対処もない。それが一番不味いと思うから、対処した方がいいんじゃないかと言ってるんだ。
Shin-Fedor 山城氏云々に限らず「どさくさでおかしな連中も混じってはいるが、それはごく一部で、多くは真っ当に基地反対運動をしているのだ」と言えた方がいいのではないか?なぜか自陣営の無謬性、全肯定にこだわってしまう。
本当それなんです。ありがとうございます。
とてもじゃないけど現代の価値観で県知事やメディアが称賛して良い姿ではないし、『敬意がない』と言われてもとても敬意を示せるような行動じゃないと言う動画が拡散されてる。結果として反基地派と言うのはこう言う人達だと再認識されているのにそれスルーして個人叩きに徹してる場合じゃないんじゃない?と言うのが主旨です。
家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵も互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と人間くさい一面も紹介されている。
敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。
祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。
許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。
義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[11]。
義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[11]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[13]。
三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場として吉田温泉(えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。
九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨国の領地を管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。そのお礼として、義弘は井上に島津姓と家紋を授けた。この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先であると島津製作所の歴史に記されている[14]。
秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。
愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。
武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていたようである。その為、関ヶ原の撤退戦においても松平忠吉や井伊直政ら徳川譜代のみが追撃を行い直政自身が深手を負う結果に繋がった。
若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎討ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。
慶長4年(1599年)、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父・忠良の号・日新斎にあやかったものである。
木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。
慶長の役の際、義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目の明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻を読みとったとされ7匹のうち2匹が日本に生還した。この2匹を祀った神社が鹿児島の仙厳園にある「猫神神社」である[15]。
晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。
関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原御合戦記』)。
義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫でございますか?」と尋ねると「大丈夫だ。まったく小姓どもは悪さばかりして手を焼かせおる」と笑って返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)。なお、同じ内容の逸話が加藤嘉明にも存在するため、島津家か加藤家のどちらかが模倣した可能性が高い。
戦陣医術に詳しく、『上井覚兼日記』によると天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津忠長と上井覚兼に対して金瘡医術の伝授を行い、秘伝の医書を与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである[16]。
茶の湯を千利休、古田織部に学んだ茶人でもあり、茶書『惟新様より利休え御尋之条書』や織部から薩摩焼の茶入の指導を受けた書状が残る。
え、これ「宇治は京都じゃない」というための書き込みですよね?読み返しました?「宇治は京都じゃない」って書きたくてたまらないのに批判されて困ってると言う内容だよね
いきなり「狭義の京都」とか言い出すのずるくない?狭く取れば除外されるものも出てくるわな。トートロジーやな。問題となってるのはなぜ京都を狭く取りたがるのかと言うところだと思うんだけど。
>三浦は横浜じゃないでしょくらいのニュアンスだよ(一応、両方訪れたことはある)。京都市と宇治市は別の自治体で違う街と言っても伝わらんかな?
三浦と横浜の例えで匹敵するのは「滋賀は京都じゃない」くらいかなあ。滋賀が嫌なら高槻とか守口とか。滋賀も高槻も守口も京都府内ですらないじゃんってことなら亀岡とか?始めから比べる必要もないくらい別と認識されているもの。
あと肌感覚の違いを言ってたはずなのに自治体が違うという話にすり替えるのやめてくれない?
>他府県の人が宇治を京都と言ってても別にいちいち気にしないし、
>言ってきた相手に「宇治は京都じゃない」なんて面倒くさいことは言わんけど
言われてないのにわざわざ書いてましたよね?
>「三浦と横浜はイコールじゃないと思うんだけど」くらいの肌感をネットの片隅に書くことすら差別とか言われたら、もうどうすりゃいいのよ。
ちなみに普通の人は三浦は横浜じゃないみたいなことはいちいち書こうとも思わないし、そもそもそんなこと思いもしない。まあ三浦は横浜ですなんて言う人がいないからだと思うけど
まあ不幸なのは市と府がどっちも京都を名乗ってるとこやね。誰かが書いてたけど山城県にしとけばややこしくならなかったかもだね。
これって日本の城下町とセットになった近世城郭の価値観をヨーロッパの城にあてたナンセンスなツッコミだよなぁ
近世に王侯貴族によって別荘に改修されたり懐古主義で新設されたりしているのだから
村に城があっても何ら不思議ではないはず
逆に明治時代に城が破壊された日本で、これだけ近世城郭の価値観が通じていることを興味深く思うべきかもしれない
追記2
わかりにくかったかもしれんが本文は、日本で「村」に城がなくなったのは近世江戸時代に入ったから(一国一城令)と書いていて、明治では近世城郭の多くが潰された現代でも城下町意識が残っていることが興味深いと書いているので一部のブコメは混同しないでくれ。
Twitterのフォロワーが村長8000人で芝野名人4000人ということから察するに、はてな村の半分くらいの規模を誇る囲碁界通信です。
https://anond.hatelabo.jp/20200824205956
前回、ゴシップとクソニュースだけが目的だったのではなかったのにもかかわらず、書いているうちに名人戦はどうでもいいやと忘れてしまったことを謝罪しなければなりません。本来ならば
明日明後日の囲碁は名人戦!一日目の裏番組がAbemaでの竜王戦挑決?所詮タイトルも持ってない羽生を誰が観るか!こちらの史上最年少名人しばのvs国民栄誉賞ゆうたは日本囲碁界最高峰のゴールデンカード!将棋連盟おわったな!
などと炎上覚悟で宣伝すべきであるところ、誠に申し訳ございませんでした。
https://www.youtube.com/watch?v=sBle346Hp0I
ホテル椿山荘で盛大に開催している割には2020年にまるで北朝鮮からのサッカー中継の画質、実はダイオウグソクムシの放送ではないかと疑うほどに動きがなく、大盤解説は1日2回朝日新聞チャンネルで!という最高品質に酔いしれる。
「もう悪いことは言わないから幽玄の間は諦めろ、みんな野狐で打ってますよ」という民の怒りの声が聞こえないのか、素人Youtuber以下の装備で数時間に一回の解説に懸命な平田と孫の姿に号泣必死。この感動大長編に「一緒にイゴ泣きしません?」のキメ台詞を加えれば気になる人とのデートムービーにもってこいだ。
あまりの低視聴者数からニコニコとアベマに叩き出されたことを開き直り、全力で後ろに向かって突っ走った結果がこれである。ついに日本棋院は同時視聴者数が5000人を余裕で下回る偉業を達成し二流どころか三流のYoutuber組織へ恐竜的進化を遂げた。三大タイトル戦ですら本田翼に比べ三十分の一以下であることを踏まえると、日本棋院がジオン棋院に改名する日は近い。
ちなみに放送を最初から最後まで視聴するとクンダリニー・シャクティを覚醒させるのに非常に有効なことを皆様はご存知でしたか?山城宏が禅語を毎日ツイートしている真の理由はチャクラを開くためだということが理解できます。
やたらハイペースに進んだ1日目に井山挑戦者が大きなリードを奪ったところで「そういや井山vs虎丸というと今までも碁の内容は……」という考えが頭をかすめたが、2日目の虎丸名人決死の猛追で最終盤のヨセ勝負へ……わずかに届かず。と終盤になるにつれエキサイティングだった名人戦第一局。碁の内容が良ければ流行るなら、世は空前の囲碁ブームであるのだが。
通っている高校の図書室には、3つの机のかたまりがある。雑誌の閲覧コーナー、自習をするための学習コ-ナー、普通に閲覧コーナー、それ以外にグループ閲覧室というのもあった。グループ閲覧室の奥は単なる倉庫代わりに段ボールに入った古い本が山積みされていた。昭和の時代に、分校の図書室から引き上げてきたとかいう文集とか本とか、ともかく雑多に入っている。その中の文集とか、郷土の昔話、言い伝え、動植物とかを採取した冊子が割におもしろい。昭和30年代の高校生の各文章とか格調高いというか意識が高いというか読ませる。さすが進学率が低い時にわざわざ高校に入る人達である。郷土の言い伝えの中に、村はずれの妖怪の話だとか、偉いお坊さんだとか、山城の悲劇だとかが掲載されている。まぁ現在だとこんな話も採取できないだろうねという面白さがある。
一通り最終回も終わり今年度の感想は今年度のうちにということで、面白かった順で感想メモ。
天下布武を唱え、腹心であった飯島摂津守及び家臣団五人衆、すなわち中居弾正、木村内匠、稲垣五郎右衛門、香取金吾、草薙武蔵らの離反も、その強大な力により押し潰し、今や鳥を落とす勢いであった喜多川右府が、突如、京にて薨去されたとの噂が、日の本じゅうを駆け巡った。
ある者は流行病によるものと噂し、またある者は家臣による毒殺とも噂しあったが、果たしてその真相は、右府の生死も含めて杳として判らなかった。
マスメディアが十分に発達した現代とは違い、当時は、重大な事件は全て人々の口伝えに頼らざるをえない。戦国武将達は、不確かな状況の中で自らの去就を決めねばならず、その対応如何によって、ある家は栄え、ある家は滅びるといった悲喜劇が、絶えず繰り返されたのであった。
ところで、右府のもとには、二人の有力家臣がいた。木村内匠と滝沢左近である。
木村内匠については、飯島の乱において仲間の謀議を主君へ密告した功により取り立てられ、右府からの覚えもめでたく、非常に権勢を振るったことは、既に述べた。(https://anond.hatelabo.jp/20160119162624)
もう一人の重臣、滝沢左近は、元は一介の素浪人であったが、右府に仕官すると俄に頭角を現し、今や右府の最側近として大いに活躍していた。
さて、両者ともに、この悲報に接したのは、京から遠く離れた土地であった。
その時、木村内匠は、右府の命を受けて城攻めを行っていた。梅雨空の下、城の周囲に幾重にも堤を築き上げ、増水した川の水を中へ流し込む「水攻め」を行うこと約1ヶ月、もはや天守は湖の中の孤島と化していた。
「ってゆーかさぁ、もうそろそろ落ちるんじゃね?」
そんなある晩のこと、勝ち戦への楽観が広がりつつあった木村陣営に、突如、右府逝去の激震が走った。京からも離れていたため情報が錯綜し、いつしか町奉行である東山越前守により弑逆されたとの誤報にすり替わっていたのだった。
突然の悲報に接し、大声を上げて悲嘆する木村内匠に、その妻、静御前は冷徹な言葉を投げかけた。
「殿さま!今すぐ京へ引き返して、逆賊、越前守を討ち滅ぼし、御館様の無念を晴らすのです!」
「よく言うた。それでこそ我が妻よ!」
木村は電撃を受けたように飛び上がると、すぐさま敵方と講和を取りまとめ、全軍を京へ向けて引き返し始めた。
一方、滝沢左近は、遠く関東にてこの悲報に接した。ただし、右府の側近中の側近であったことが幸いし、在京の東山越前守から直接、正確な情報を書簡で受け取ることとなった。滝沢左近は、俄に活発化した敵勢と対峙しつつも、手堅く京へ軍勢を引き返した。
実際のところ、この時点では右府はまだ逝去してはいなかったが、今で言うところのクモ膜下出血により、ほぼ危篤状態であったらしいので、死へ向かいつつあったというのが真相であろう。だが、意識を失う直前、右府は「余の影武者を立てて、死を三年間、隠すように」との遺言を、側近の東山越前守へ伝えていたため、先のような虚実入り混じった噂話を生む結果となってしまったのだった。こうして、両者が接した情報の確度の違いが、やがて両家の命運を全く違うものにしてゆく。
まずは木村内匠であるが、弔い合戦のつもりで軍勢を摂津と山城の国境、山崎まで進めたところで、東山越前守の軍勢と対峙することとなった。
「やれ、賊軍ども、なにゆえ京へ攻め上った!御館様に楯突くものは、尽く成敗してくれる!」
木村内匠、答えて曰く、
「傍ら痛いわっ!お前こそ、御館様の亡き後、政を私しようとする賊軍であろう!」
「何をたわけたことを!ここに、御館様はおわすぞっ!」
銅鑼の合図とともに東山軍が左右に割れると、その間から見覚えのある輿が進み出てきた。そう、それは右府の豪奢な輿であった。
「やばっ!御館様!」
突然の状況に、木村軍は戦わずして敗走を始めた。更に間が悪いことに、関東より引き上げてきた滝沢軍が退路を断つ形になり、木村軍は徹底的に殲滅されることとなった。
ちなみに、東山越前守の機転によって引き出された輿であったが、その中には、既に意識のない主人が乗っていようとは、木村内匠は知る由もなかった。
こして敗退した木村内匠は、ひとり戦場より落ち延びると、ある禅寺でひっそりと出家して生き延びたという。一時は、かつて裏切った自分の主君であり、既に出家して名を改めていた飯島摂津守の元に、弟子として身を寄せていた時期もあったようであり、何とも皮肉な人生である。