はてなキーワード: 信濃とは
犯人の言ってることがホントだとすれば、安倍氏の政治的主張や政策などにはあまり関係なく、某宗教がらみで犯人の家庭が壊された(と思い込んでる)せいで、テロに及んだわけで...
ならば、民主主義への冒涜だ否定だ挑戦だとかではないし、多くの政治家や政党幹部の皆さんはビビる必要も、「テロに屈しない!」とかイキリたつ必要もないよね。
むしろ、各種宗教団体の教祖さんとか幹部さんは心当たりがあるなら活動を自粛するとか、ガッチリ警備を固めるなどしてテロに屈しないよう頑張る必要があるw
でも結局、安倍氏への同情票が集まるせいで、いわゆる改憲勢力の議席が十分多くなってしまって、後世には「安倍氏のおかげで憲法改正が実現した」ていうレジェンドが残るんじゃないか説。
ここから教訓を学んだ野党勢は、選挙に勝つには投票日の少し前にだれか暗殺されればいいのだ!みたいなことになって、お祭りにイケニエを捧げる古の慣習が蘇ったりするんじゃないか説。
イケニエがコロされるのは忍びないと思った旅のお坊様が、信州信濃のハヤタロウを呼びに行って、勇猛な犬のハヤタロウが選挙に駆けつけ、与党勢をバッサバッサとなぎ倒して、血だるまになりつつも信州に帰って行って、神社に祀られるんじゃないか説w
https://anond.hatelabo.jp/20211212125107
おそらくはありえない。
簡単に言わないでほしい。
あのとき中国大返しと言う大胆な機動を見せた秀吉以外の誰があれほど鮮やかに明智を滅ぼせるのか。
一番近い摂津にいた信孝?
変の報せだけで逃亡兵が相次ぐぐらい求心力のない男だ。
秀吉が中国から帰ってこないなら兵力は自前の5,000程度しかない。
信孝軍団からはより多くの逃亡兵が出るし反対に明智の勢力は膨らむ。
信雄?
信孝より更に遠いところに居て兵力も更に少なく合戦の腕も似たり寄ったり。
はっきり言ってこんな奴等では光秀の動きを制限することも出来ない。
光秀は勝家が戻ってくるまでの3週間近くを京での政治的運動や宣伝に使えることになる。
明智側勢力が大いに動揺したし、明智の与力や姻族まで様子見を決め込んでしまった。
そういうファクターが一切なくなるということは
・遺された信孝信雄は弔い合戦を挑むことも出来ない
と言う状況が現れるわけで、
これを見たら筒井順慶だって洞ヶ峠から這い出てきて明智に従う。
そもそも光秀に与えられてる畿内軍団は信長に冷酷に追放された佐久間の与力で
信長を討って主替えすることにいまさら抵抗感なんかない。利害が合えばついてくる。
それぐらい勢いが出たら細川すらやっぱり明智側に来るかもしれない。
これまで織田家の軍団に圧迫されて存亡の危機に立ってた各地の大勢力は
事情わかってる毛利に追いすがられながら撤退なんかそうそうできない。
毛利の追撃で散り散りにされたらどこで再起すればいい?姫路城まで戻れてもそこは安全か?
信孝を討って光秀助けに京までのぼってくる。
そこまで織田の情勢が悪いとわかれば
例えば滝川なんか史実では北条と一当たりして敗れたあと真田に諏訪まで送られてるけど
「もう織田の再起の目は薄いな」と思われてたら同じ待遇になると思う?
昌幸「滝川を首にして光秀に送ってご褒美に上野を安堵してもらお」ってなるでしょ。
もともと主家を滅ぼした織田に好感情持ってるやつなんか甲斐信濃にはいないんだから。
史実ですら河尻とか逃げ帰る事すら出来ずに殺されてる。
光秀の主殺しに公的な認可が下る。
鞆まで逃れてた将軍様が戻って来て「大義である」って言い出すかもしれないし
もともと朝廷と繋がりが強い光秀だから帝の内意があった説すらある。
「よくやりました」「各地の大名に号令を出して織田残党を討ちなさい」なんて宣下が来る。
英雄秀吉は中国から出られないまま肝心の時に決断しなかったことを悔いながら殺されていくし
柴田は雪の中で滝川は信濃の山中で状況が分からないまま討ち死にして
ただ高齢でデカい子供もいない光秀はどうやっても次世代に残す基盤は作れない。
衰え次第天下は再度荒れる。
毛利かな。
大政治家が出現することはなかっただろうから織田家が存続する形になる。
そうなったとしても結局は信長の統率力を失った家臣団によって
(どうやるんだかわからないが)信孝が光秀を討って信長の葬儀をやれば
信孝という当主がいるのにそれを蔑ろにするほど抜きん出られる家臣がそんな必ず現れるの?
なんか全体に言えるのは
秀吉の中国大返しをめちゃくちゃ過小評価してるってことなんだよね。
あれは素晴らしく冴えた勝負手であって、
あれ以外のルートで光秀があんな早く打ち滅ぼされるなんてことはあり得ないし
その光秀成敗がなければ有力家臣に過ぎなかった秀吉があそこまで強引なイニシアチブ取れることもあり得ないんだよね。
ただそんなことを時間をかけて長々と展開してる間に
織田豊臣や徳川の支配とは比べられないってことをわかってないよね。
秀吉の四国九州関東東北の成敗がどんなだったのかもわかってないんじゃないの。
フワフワしたイメージでモノ言わないでほしいんですよね。
織田勢力と地方勢力の生産力や兵力をちょっと数字で比べてみたらいいと思います。
秀吉であれ信孝であれ信雄であれ、あれを相続されちゃ勝ち目なんかないから。
小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆。武田二十四将の一人に数えられる。
信茂の勝頼離反から滅亡
天正9年12月、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始し(甲州征伐。総大将織田信忠、副将滝川一益)、信濃木曽郡の国衆・木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模の後北条氏も武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原(長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日に織田信忠は伊那郡高遠城の仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。
勝頼は天正9年に新府城(山梨県韮崎市)を新たに築城し甲府から本拠を移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城を放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅が小山田を頼り郡内の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。
なお、岩殿城は小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)からは距離があることから、岩殿城を小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日に岩殿城へ武田勝頼が在番衆を派遣している事実も注目されている[17]。
武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。
信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室が御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市・甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。
甲斐善光寺
一方、織田・徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田八左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田八左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。
織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。
『信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田八左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日、甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。
武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場ら重臣と共に名を列ねている。
武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。
設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。
鉄道唱歌(作詞:福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。
分かる。分かるよその気持ち。そっちに注力している様に見える。確かにそう見えてもおかしくない。
これが全てだ。
先にも言った通り、C2機関を批判したい側(批判側)から見れば本業のゲームは疎か、公式サイトは無い。
100点の対応ではない。これは間違いない。
ただ、批判側もお行儀が悪い。
そう、批判側はただただお行儀が悪い。
悪いのはちゃんとしない向こう(C2)なのに!
いやそうなんだけどさ、他の人に「そうだそうだ!」って言ってもらった方が君も心強くない?
こういうのはどうかな?という提案です。
少しは批判する側にも真っ当な批判はある、という事を分かって欲しいし伝わって欲しい。
①個人情報を掘るな
メディア欄の映り込みまで徹底的に洗ってマウントを取る。そんなやつら。
ポリコレカードバトルを行うならまぁ有効かもしれんが、残念ながらこれは自分のシンパを増やすバトルなので、残念ながら逆効果である。
大抵の人間は個人情報を掘られることを好まないし、性癖を暴露されたくないし、顔写真を広められたくない。
「C2批判してる連中、迂闊に触れるとメディア欄とか漁られそう」
そう判断された瞬間我々のTwitterアカウントは残念ながらブロックリスト行きである
少なくとも、「俺は批判してお前は擁護する。それ以外はしない」というある種の信頼関係を築かねばシンパは増えない。
方や鍵の中に追い込まれ、プリコネスレでしょっちゅう発言が貼られるようになり、もう方や一躍時の人である。
俺らは中立の人、どちらかと言うと運営寄りの人を取り込んでいかないといけないんだ。
その時に、彼らをフォローしてたり、彼らを擁護してたりするだけでアレルギーを起こされる。
残念ながら彼らは目立ちすぎたし、想像以上に嫌われている。
よって、彼らにはヘイトを集め、批判側のガス抜きの立ち回りに立ってもらおう。我々は表向き対運営と同じ基準で批判することで筋を通し、「やりすぎ」として先制ブロックしてシンパを増やしていこう。
③顔コラで遊ぶな
普通の人間は他人の顔コラで遊ばない、という事を頭の片隅でいいから入れておいて欲しい。
と思うかもしれんが、(是非はさておき)オタクの共通言語になっている(しまった)淫夢と、非批判側が信奉しているゲーム(カレー屋)のP(とか関係者)。
残念ながらこの両者の扱いは等価ではない。後者の方が扱いは重い。
さっき筋を通せと言った口で言うのもなんだが、顔コラで遊んでる瞬間、我々が取り込むべき層は我々をブロックして終わりである。
「非批判側の気持ちに寄り添ってやる」位しないと批判側に対しアレルギーを持ってしまった現状はひっくり返せない。「個人情報掘ってくるお前らが、顔写真を見つけた瞬間どうすると思う?おもちゃにされたくないわ」なんて思われるのは至極当然だろ?
すまん、これは本っ当に純粋な疑問
チャーリーがどう、艦王がこう、簡悔がそう、
【】がああで、ムガブロがどう。
往々にして、残念ながら愚痴スレの用語が出た瞬間そいつはブロックされる。
繰り返しになるが、我々の目的は真っ当な批判だけを、茶化すこと無く、多くの人間に浸透させる事
この4点を抑える事で、まずは非批判側、ひいては運営に対して、「いつもの輩とは違うぜ」「俺は筋を通して真っ当な批判を平等にするぜ」と向こうにも分かってもらう必要がある。
それがまず、スタートラインだ。
そうだ。ここまで来てやっとスタートラインなんだ。
共感してもらう為に、どう攻めればいいかのポイントはどこにあるか。これを考えてみようと思う。
まず、批判の先にあるゴールを決めようか。
「お前らの目的は何だ?」
カレー屋を止めさせたいのか?二度とリアイベを開かず、ゲーム運営だけしてて欲しいのか?
ゲームシステムが俺のアドバイス通りになって欲しいのか?五月雨の改二が欲しいのか?
インターネットレスバトルで構って貰いたいor論破したいのか?
まずこれを明らかにした方がいい。固定ツイなりプロフに書いておけば尚更良い。
そうでない場合、適当な目に付いた事柄にとりあえず文句言ってる人間、きぃのん氏やなぎ氏が目立ちすぎているんだけど、所謂クレーマーとしてブロックリストに入れられてしまう。これはやめた方がいい。
「真っ当に批判する」というのは斯くも難しい。
「真っ当な批判者が出てきて欲しい」だ。
しーらむちゃんの話で冷静に時系列を整理して、グッズ発売当時は商標登録されていなかった、登録後はグッズを売ってないから問題ないかもしれないとブレーキを掛けた批判者はいたか?
パンの話で例外があったときぃのんに伝えた批判者はいたか?(信者は冷静に頑張って一応例外があると見つけていた)
神戸牛で協議会側から声明が出て事実が確定するまでは落ち着けと声高に叫んだ批判者はいたか?(信者はめちゃくちゃ叫んでた)
(真っ白とまでは言わないが)白を、無理やり黒くして、法律違反だと騒ぐその先の目的はなんだ?
無いだろう?目的?
正直、ただ嫌いだから叩きたい、だけだろう?
よぉし、信濃進水させるぞ!と考えるか?
なーんてなりませんよ。
「俺は○○(具体的に)を要求する」
「信濃を実装しろ」「公式サイトを立てろ」「メンテ延長には詫びを配る様にしろ」
こういう内容だ。複数あっても良いが、括らない方がいい。分けるんだ。相手に伝わりやすい。
「増田は愚痴スレの影響を受けていない、ダブスタを取らない批判者が出てくることを要求する」
ここまでやったら次だ。
「落とし所を決める」これだ。
世の中、非常に残念ながら0-100の決着は無い。
精々信号待ちしてたら追突された、位だよ。
だからさっき立てた要求に対して、どこなら妥協できるかだ。これを決めるんだ。
理想はこう、でもまぁこれくらいならして欲しい、なーというラインだ。これも宣言して欲しい。
この行為は非常に難しい。自分だけが折れるように見えるからだ。出来ている人間はほとんど居ない。
「この人マトモじゃん!ちょっと話を聞いてみるか!」
そう思われることが1番の目的だ。これを忘れないで欲しい。
「妥協できる人間」はそれだけでマトモと思われる率が格段に上がる。だからやってみて欲しい。
増田の妥協案は「個人情報を掘る行為ときぃのん氏なぎ氏を諌めながらC2批判する人間が出てきて欲しい」だ。ブロックしろとまでは言わんし愚痴スレ絡んじゃうのは妥協するよ。
主張をぶらさない事、とはどういうことか。
目の前に美味しそうな事件(メンテ延長、Twitterの誤字、神戸牛の話)があっても、一旦落ち着け。
それが解決すると、自分の引いた落とし所ラインに近づくか?を考えて批判した方がいい。
例えば「信濃を実装せよ(終着点)。せめていつ頃やるつもりか出せ(妥協ライン)」と主張している人間が「神戸牛の商標違反しやがって!だからダメなんだ!」と言っても普通の人には「関係あるか?」である(なお、増田は商標周りで攻めるのは分が悪いと思ってると明言する)。
筋を通すこと、とはどういう事か。
己が1度批判したことが改善されたら、それは言及し肯定するという事だ。
「改二が少ない!」と1度でも触れた人間は、昨今の改二実装ペース(飛躍的に増えた事実がある)には、「増えてきたのはよし、ペースをもっと上げてくれ」と肯定するべきである。
ここで「まだ足りない!まだ!」と言ってしまうと、評価は途端にただのクレーマーである。
また、同じ立場の批判者であっても、対C2と同じ基準で批判しなくてはならない。
例えば「ツイートの誤字ww」と、言及したのであれば自身は一切の誤字は許されないし、友人であっても誤字はネタにしなくてはならない。
筋を通す。ということは斯くも難しいのである。
増田はこれを読んでいる、読み切った批判者から見れば信者そのものであろうが、
C2の動きを全肯定している訳では無い。
しかし、「批判者はやりすぎである。C2が可哀想だ」と思ってもいる。
1か0ではなく、玉虫色の決着、妥協ができる人間を増やし、もう少し平和的な議論があれば
ネットの反応、としてC2も言論はサーチしているはずなので、改善されるのではなかろうか。
何か刺さる箇所があった人には、どうか何かが変わって欲しい。
もしかしたらC2アンチじゃない何かのアンチの貴方も読んだかもしれない。
その何かのアンチ活動が、真っ当で冷静なアンチ活動になることを願う。
(2021/07/14編集)
ちょっとした誤字と改行の追加と末文の追加
艦これが信濃実装をツイートしてから奇しくも2525日目、アズレンの信濃実装が発表され、そして今は俺のそばで寝ているわけで。
信濃に限らず涼月、サラトガ、イントレピッド、ウォースパイト、ビスマルク、グラーフ・ツェッペリンと、全て艦これじゃなくアズレンで入手→大活躍という流れ。
他に最上、アークロイヤル、Z1といった、入手はしたけど性能が雑魚すぎて使いようがなかった子も、アズレンでは見どころだらけの活躍。
果ては上述のイントレピッドのみならず、プリンツ・オイゲンのように有名絵師が描いている子でさえ、アズレンが食ってしまうという事態が起きていると。
こうした諸々に、冒頭の信濃の件が決定打となり、艦これは完全に用済みになったという。もう何年も遊んでないのはともかく。
任務の自動受託すら実装できないうえに、季節ごとの衣装替えも手動で画像ファイルをリネームしていると言われる、ありえない技術力の低さだけでもヤバいのに、何やってんだか。
本当に落ちぶれたんだなーという感じで、実に残念。
これは余談だけど、アズレン側から見ると、艦これの一部の艦娘の設定が、実に奇妙極まりないことに気付かされるんだよね。
一体、誰がこんなアホ設定でゴーサイン出したんだろう。
信濃の戦国大名・村上義清の家臣である楽巌寺右馬助には更科姫という娘がいた。
彼女は絶世の美女でありながら武勇の誉れ高く、また年頃の十七歳となれば縁談が絶えないが、
「私の夫となるからには剛勇の士でなければ」と全て断っていた。
当年二十一歳、家中随一の美男であり争いを好まず、といって惰弱というわけでもない。
武芸指南役の井上九郎が「彼こそ信州第一の豪傑」と褒め称えるのを聞いた更科姫は、
彼の姿を見るやたちまち惚れ込んで、すぐさま九郎に取り持ちを頼み、めでたく二人は夫婦と相成った。
彼は常から更科姫に懸想しており、彼女の夫となった森之助に恨みを募らせながら、しつこく更科姫を付け狙っていた。
ある日、更科姫の外出を狙って大九郎は二十人ばかりで彼女を襲ったが、更科姫はそれらをことごとく打ち伏せてしまった。
恨み骨髄に徹した大九郎は、かねてより内通していた武田家の長坂長閑・跡部大炊から百名ほどを借りて、
巧みに誘い出した更科姫を取り囲んだが、それでも彼女を取り押さえられない。
それどころか計略を察した森之助まで駆けつけて、武田家の百名は残らず斬り伏せられ、大九郎も討ち取られてしまった。
事情はどうあれ武田家の家臣を斬ったということで、森之助の身柄は武田に送られた。
武田信玄はその武勇豪胆を惜しんだものの、長坂・跡部の讒言もあり、森之助は馬場美濃守の預かりで切腹となった。
「匹夫の勇 生活保護受給者!」
進行「勝負は3本勝負の2本先取した方の勝ちです ただしジャッジマンの審査が5人満場一致だった時クリティカルとなりその時点で勝利が確定 試合は即終了」
進行「それでは1stバトル第1ラウンド 先攻後攻の選択権は全てチャレンジャーにあります 1stラウンドはどちらでいきますか?」
生活保護受給者「後攻で」
進行「先攻 三流大学卒、後攻 生活保護受給者、 DJ CELORY ぶっかませ!」
三流大学卒「うわ臭ぇ、ニオイえげつねぇ、中卒っぽさも臭うな、小が臭いニオイしてる 小学生にも石投げられてそうだな 糞みたいなお前と石 一緒に海に流れちまえ」
生活保護受給者「学校の話が出たので言っておきますが 私、東京大学出身なんだけど……」 (観客から歓声が上がる)
三流大学卒「…っていうのは嘘で、軽い冗談みたいなw ちょっと格好つけてみただけで、いいねそのセンス。」
進行「終了!」
進行「さあそれでは第1ラウンドの判定に入ります Let's judge お願いします!」
審査員(女)「この生活保護受給者さんはセンスが違いますよね。1つ1つの言葉が博識に感じられますし、輝いて見えますね。この人と一緒にいたいって思っちゃいますね。」
艦これは、あらゆる海戦における日本海軍の戦没艦をほぼほぼ実装しているのだが、ご存知信濃の他にも、何故か実装されない艦がある。
それはセント・ジョージ岬沖海戦の戦没艦である、大波・巻波・夕霧である。
この海戦は、当時最新技術だったレーダーを用いた米艦隊の新戦術により、日本艦隊が一方的に沈められた海戦の1つで、その意味では本作のテーマである「悲しく沈んでいった艦の慰霊・鎮魂」にふさわしい艦として、本来なら最優先で実装してもおかしくない話である。
実際、類似の海戦だったビラ・スタンモーア夜戦組(村雨・峯雲)とベラ湾夜戦組(嵐・萩風・江風)は、とっくの昔に実装済みだったりする。
さらに、これら一連の海戦は、日本海軍のお家芸だった夜戦において、実際第一次ソロモン海戦・ルンガ沖夜戦・クラ湾夜戦・コロンバンガラ島沖海戦と、さんざん苦汁を嘗め続けてきた米海軍が、ようやくそのハンデを克服したという意味でも、極めて重要な歴史的意義があると言っていい。
これは本作が重視する史実という観点からも、絶対に無視できないと思うのだ。
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
2013秋に始めた艦これだが、ここ数年は休止していた。
やりこみ上等かつ屋上屋を架すような、行き当たりばったりな仕様追加や変更に嫌気が差し、モチベが無くなったことが理由だ。
そのままフェードアウトと思っていたのだが…
8月になってHTML5移行して、海域リセットとか抜かしやがった。
知らねーよそんなことで済ましても良かったのだが、もし今後やりたいイベントがあって、その時に海域未攻略の提督が締め出しを食らうのも気に食わないと思い、全く気は進まなかったけど再攻略に乗り出した。
ちなみに休止前は6-3までクリアしていて、6-4は基地航空隊を開放したところで力尽きた。
というか5-1の新編三川艦隊任務が鬼のようにキツかったのが堪えた。なんだよ古い大正時代の重巡と軽巡が中核を占める艦隊で機動部隊と戦えって。ふざけてんのかバカジャネーノ。
支援艦隊のうち前線支援の方は全艦キラつけても来るかどうか怪しかったし、前線と決戦の両方のガチ砲撃支援のために、火力と命中を上げる装備整えるのもメチャクチャ大変だったし、そこまでしても羅針盤はじめとする運頼みのおかげでクリアはかなり厳しかったし。
ともかく、全く気乗りしない攻略でもなんらかの動機づけがあればと思い、攻略対象海域が関係する未達成任務を消化しながら進め、現在やっと6-4の2ゲージ目まで終わったところ。
上述のように死ぬ思いで基地航空隊開放したのに、その航空隊を使った6-4がこれまた攻略超大変とか、いい加減にしろよクソ運営が。
つか、正直5-3以降の攻略は本当に苦痛で苦痛で仕方なくて、「早く終われ」以外の感想はない。
つまり、ゲーム提供側としていちばん大事な「新しい楽しみの提供」に完全に失敗しているわけで。もうマジで一期より楽しくなった要素皆無だし。
いやそもそもそのための二期リニューアルじゃないって?そんな変更、プレイヤーの俺らには関係なくね?
なんでテメーらの勝手な都合に付き合わなきゃいけねーんだよ、舐めてんのかコラ。
こうなったら、明日か今週末までには持てる資材と時間つぎ込んで、こんなクソ攻略さっさと終わらせてやるわ。
そして信濃が実装されるその日まで、また長い長い休眠期間に入ると。
まず艦娘の育成は駆逐艦の改二改造が全く追いつかない。特に陽炎型・夕雲型・朝潮型はほぼ手付かずで、かつ改造に漕ぎ着ける見込みもない。
こうも次から次へと改二が湧いてきて、しかも改造レベルが遠いだけでも負担なのに、改装設計図に戦闘詳報だとか付き合ってらんねーよ。
次に大型建造、ビス子とサラは多分永久にウチの鎮守府には来ない。
ビス子は狙ってるときに矢矧が出た時点で、サラは神威をどうにか建造した時点で心が折れて、それ以来放置してるから。
どっちもイベでドロップする機会なさそうだし。
それで何を頑張れと?
というわけで、なんとか艦これを片付けたら、1年間ずっと様子見していたアズレンをようやく始めようと思う。