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はてなキーワード: 信濃とは

2024-07-15

逃げ上手の若君 原作ネタバレ

北条時行9歳 足利尊氏に攻め入られ、父と親族ら数百人が自害or虐殺。一人だけ逃げ延び、信濃諏訪氏に匿われる

10歳 北条の残党など5万騎を従えて鎌倉に帰還、「中先代の乱」によって足利直義勝利鎌倉奪還。

   わず20日足利尊氏鎌倉を奪われる。

   その際に時行を擁護していた諏訪頼重らが自害集団心中した遺体らは「先祖に顔向けできない」として自ら顔の皮を剝いでおり、その中の死体の一つが時行とされたが、実際には別の子供だった。

11歳 足利尊氏後醍醐天皇が決裂、尊氏光明天皇を立て、南北朝時代へ。

   時行は南朝後醍醐天皇につき、父や親族らが後醍醐天皇のもとで死んだ件について父の自業自得であるとの文書を送る。

12歳 南朝公卿北畠顕家を味方にし、再び鎌倉に帰還、「杉本城の戦い」によって足利家長を討ち鎌倉奪還。

   翌月の「般若坂の戦い」で形勢逆転し敗走。

   数か月後の「石津の戦い」で北畠顕家が死亡。時行はしばらく消息が途絶える。

   信濃には「時行が巫女にお手付けして子を産ませた」と称する時行の末裔が多くおり、事実であれば失踪時期に大量に子を作っている。

   一説では伊勢暮らしていたともいう。

16歳 後醍醐天皇が病没。次は後村上天皇が継ぐ。

   一説によれば大徳王寺城で小笠原貞宗戦闘

27歳 足利氏で内輪もめ、尊氏執事と弟が争う。

28歳 足利氏が揉めている間に時行が三度目の鎌倉奪還。翌月に足利尊氏に再び奪われる。

   尊氏執事と弟はなんやかんや両方死亡、執事養子である高師冬自害

29歳 鎌倉で捕らえられ龍口刑場で処刑。一説では処刑されたのは影武者で、伊勢に逃げ延びたとされる。

2023-08-14

ラムー(激安スーパー)の駐車場ほっこりしたはなし。

ラムーという知る人ぞ知るスパーがある。弁当は184円、おにぎり50円たこ焼き100円など、価格破壊で有名な幸福の科学スーパーだ。

私のような貧困独居中年にはとてもやさしく、「ラムーは福祉」という言葉すらある。

 

先日、ラムーでいつもどおり激安総菜を買って出たところ、クルマの中で親子でパクパク買ったものを食べている光景が見られた。

9歳くらいの娘と、35歳くらいの若いお父さんだった。

これはラム駐車場の土日祝日ではよくみられる光景である

「パパ、アップルパイ美味しいね♪」

うまいなぁ」

そんな会話が聞こえた。

ふたりアップルパイを半分こにして食べているようだった。

奥さんは車内にはいなかったから、ナイショで買い食いデートをしたという感じだろうか?

 

アップルパイは150円くらいのもので、ラムーで手作りしているものである

から市販のものより多少は美味しいだろう。

けっして信濃りんご使用!とかグルテンフリー!とか意識の高いものではない。むしろジャンクフードのたぐいである。

しかし、娘にとってはお父さんと二人で夏休みにナイショで食べたアップルパイは、このうえなく美味しいものだったろう。

 

私はそのなにげない会話に、とても幸せそうな瞬間を感じ、ほっこりした。

2023-06-28

LGBTシンボル、図形にしてくれないか

虹ってLGBTシンボルじゃん、今。

正直勘弁してくれない?て思う。

人類が生まれる前からずっとある綺麗なだけの自然現象をさ、思想象徴にしないでほしい。

いま「🌈梅雨空に虹が出ました🌈」みたいなツイートしたら、これはもうLGBTに関する話題だと受け取られるわけじゃん、少なくとも発信者有名人だったり企業公式だったりするとそう読む人が出る。LGBTに媚びてる、とかさあ。

『初虹も わかば盛りや しなの山』という俳句がある。小林一茶の句。

これを説明せずに現代の句だって言って見せたら、意味は「信濃山でLGBTに目覚めた人がサカっている」て意味になるでしょ。ならんか?なるよ。

ただ虹の話がしたいだけなのにLGBTニュアンスが生まれちゃうダメでしょ。

虹に特別ニュアンスを入れ込むのやめてほしいんだよ。

宗教シンボルの✝や卍や⛩みたいに、そのシンボルとしての意図だけを持った図形を新しく作ってくれないかね。

2022-12-03

創作中でもっとも使われる旧国名に対する印象

蝦夷 ゴールデンカムイとか?

松前 あんまり

陸奥 あんまり

出羽 人気の守

常陸 たまに守出るでしょ

下野 あんまり

上野 すけでよく出る

上総 守人気高し

下総 安房 守人気そこそこ

武蔵 安定人気 現代でも

相模 現代でも残る

越後 守大人

越中 惜しい

越前 守大人

信濃 まあまあ

甲斐 人気薄

駿河 人気薄

伊豆 守人気高し

遠江 人気なし 全くありえない

若狭 ありえない

尾張 まあまあ

伊勢 ありえない

紀伊 ありえない

飛騨 ありえない

加賀 ありえない

三河 まあまあ

志摩 ありえない

近江 人気あり

山城 まあまあ

丹後 あり

丹波 大人

摂津 なし

和泉 なし

河内 あり

淡路 なし

大和 なし

因幡 あり

伯耆 なし

石見 なし

出雲 超人

備前 大人

備中 大人

備後 大人

美作 なし

安芸 なし

周防 なし

長門 まあまあ

阿波 あり

讃岐 なし

伊予 なし

土佐 人気

筑前 あり

筑後 あり

豊前 あり

豊後 あり

肥前 なし

肥後 大人

壱岐 対馬 なし

日向 なし

薩摩 あり

大隅 なし

琉球 あり

2022-11-30

[]

可児郡御嵩町にあるみたけ城に行ってまいりましたわ

マイナー国人領主小栗信濃守が根城にしていたお城ですわ

勢力拡大を目指して暴れまわったけれど周囲の連合によって返り討ちにあって滅亡ですわ

お城は二の丸の縁に沿うように藤棚が設けられていて、

本丸には合掌造り連想させるモニュメントが建っていましたわ

やりたい放題されてましたけどモニュメントから見下ろした御嵩町可児市の眺望は素晴らしかったですの

中山道みたけ館で🦀薬師の解体修理工事についての説明を読みましたわ

総工費11億5千万円を予定しているそうですわ

さら町役場の新設に78億円もかかるのは反対という看板をそこかしこで見かけましたわ

お嬢財閥に任せていただき鯛ですわ

泥棒ブレーカーを落とされて魚が全滅した土岐市釣り堀の前を通りました

幟が立っていて営業している様子でしたわ

2022-11-18

anond:20221118111028

信玄守護から始まって甲斐信濃駿河を手に入れたし、砥石川中島以外にほとんど負けてないからまあ

 

しかし、戦国時代後期に偏りすぎなような

畠山義就六角高頼朝倉宗滴北条早雲あたりが挙がってもいいと思うし、伊達政宗が挙がるなら津軽為信が挙がってもいいだろうと思う

結局、大河ドラマは強いな、って感じ(島津を除く)

2022-11-06

anond:20221106152900

とんでもない左遷だな。やっぱ三河武士はんぱねーわ。

もともとの江戸城太田道灌(どうかん)が長禄元年(1457年)に築いた小さな城だった。その後の北条氏時代江戸は寒村にすぎなかった。現在日比谷あたりまで海水が入り込む湿地帯のため農耕には不向きで、人口も少なく、江戸城は荒廃していた。

転機となったのは天正18年(1590年)、豊臣秀吉北条氏を攻めた小田原征伐である。この戦いで最大級の功績をあげた徳川家康は、北条氏の所領をそっくりそのまま秀吉から与えられる。伊豆相模武蔵上総下総上野下野の7国である。だが、これまでの領地駿河遠江三河甲斐信濃の5国を失う。前の領地は150万石、新たな関東領地は250万石。石高は増えても慣れ親しんだ領地を離れることは、家康にとって大きな痛手だった。報奨のかたちはとっているが、関東移封は家康大坂から遠ざけるための秀吉の計略である

2022-09-15

福満しげゆき

ふと思ったけど、福が満ちるってすげー縁起いい苗字だな

と思ったらもともとは福じゃなかったらしいへー

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A6%8F%E6%BA%80

富山県である越中国砺波郡福光村が起源ルーツである中臣鎌足天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)利仁流井口氏族。ほか滋野氏(現長野県である信濃)などにもみられる。 「福」は深・吹などが転化したもの

2022-08-30

anond:20220830105342

ここに詳細あったわ

参考になる

下山殿を側室に迎えてからしばらくしてのこと、元忠が屋敷に女を囲っていると徳川家臣の間で話題になります。それがどうも、家康が狙っていた馬場の娘らしい・・・。もしそうなら、元忠は家康命令無視しているではないか・・・家康は他の家臣にこっそりと調査させると、やはり噂通り馬場信房の娘を屋敷に住まわせているどころか、既に××まで進んでいることが判明。元忠が信房の娘を見つけても彼女は一歩も引かず毅然としてふるまいました。死線を潜り抜けてきた元忠、やっていることは人さらいなのでさも信濃の人々にとっては恐ろしく見えたことでしょうが、流石そこは馬場美濃守が娘、気丈な彼女に元忠は惚れ込み己が妻にしてしまうのでした。なお連れて帰ってからの2人の動向はしばらく不明。そこは妄想がはかどらないかちゃんと記録に残しておけよ元忠。

元忠にお目当ての娘を奪われた家康。ですが怒り出すようなことはせずむしろワハハと笑いながら「流石、彦右衛門めちゃっかりしておるわ。婚姻を祝う準備しておくから正室を一緒に見せに来いと伝えておけ」と正式に元忠の妻である公表するのでした。

その後、元忠と彼女の間には3男1女に恵まれます関ヶ原を前にして夫・元忠が伏見城留守居していた時、彼女は夫が籠っている伏見城図面を見て

「松の丸が守りに非常に弱い構造となっている。落ちるとするならばまず松の丸が原因になるでしょう」

と元忠から留守を任された家臣たちに言っています事実伏見城の戦いでは松の丸が最初に落とされ、そこから雪崩式伏見城落城してしまいました。流石は築城名人馬場美濃守の娘、血は争えぬと人々は大いに驚嘆したとのことです。

http://niwareki.doorblog.jp/archives/27032859.html

2022-07-09

anond:20220708230410

犯人の言ってることがホントだとすれば、安倍氏政治的主張政策などにはあまり関係なく、某宗教がらみで犯人の家庭が壊された(と思い込んでる)せいで、テロに及んだわけで...

ならば、民主主義への冒涜否定だ挑戦だとかではないし、多くの政治家政党幹部の皆さんはビビる必要も、「テロに屈しない!」とかイキリたつ必要もないよね。

しろ、各種宗教団体の教祖さんとか幹部さんは心当たりがあるなら活動自粛するとか、ガッチリ警備を固めるなどしてテロに屈しないよう頑張る必要があるw

ーー 追記22/07/10

でも結局、安倍氏への同情票が集まるせいで、いわゆる改憲勢力議席が十分多くなってしまって、後世には「安倍氏のおかげで憲法改正が実現した」ていうレジェンドが残るんじゃないか説。

ここから教訓を学んだ野党勢は、選挙に勝つには投票日の少し前にだれか暗殺されればいいのだ!みたいなことになって、お祭りにイケニエを捧げる古の慣習が蘇ったりするんじゃないか説。

イケニエがコロされるのは忍びないと思った旅のお坊様が、信州信濃のハヤタロウを呼びに行って、勇猛な犬のハヤタロウ選挙に駆けつけ、与党勢をバッサバッサとなぎ倒して、血だるまになりつつも信州に帰って行って、神社に祀られるんじゃないか説w

2022-03-17

anond:20220317100545

信濃竜はでかいだけ。日本三大急竜(富士川球磨川最上川、『ふじみのくまさんもがいてる』と覚えよう)をも超える攻撃力、富山の暴れ竜こと常願寺川が最強よ!!

昔の人は川を擬竜化して遊んだ

自然界において大きさは強さだから日本最強は信濃竜。世界最強はナイルドラゴン

ティグリスドラゴン、ユーフラテドラゴン、ナイルドラゴンインダスドラゴン黄竜人類文明をもたらした伝説の竜(人間人間の都合で勝手伝説と呼んでいるだけで、竜にとってはこの5体はただの強い竜にすぎない)。

2022-02-01

anond:20220201120515

恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす

声はすれども姿は見えぬ 君は深山のきりぎりす

様とわしとは焼野の桂 蔓は切れても根は切れぬ

岩の清水は底から湧くが 様の心も底から

吉野川には鮎が住むかよ わしの胸にはこいが住む

こなた思えば照る日が曇る 冴えた月夜が闇となる

はいみじき闇こそ良けれ 忍ぶ姿の顔見えず

紅葉焦がるる色とは聞けど 末の落葉を誰か知る

死なば諸共 稼がば共に 乞食するとも二人連れ

およそ世間にせつないものは 惚れた三字に 義理の二字

泣くも焦れるも塞ぐもおまえ 機嫌なおすも またおまえ

嫌なお客の親切よりも 好いたお方の無理が良い

舟板一枚 怖くはないが 舌の二枚が恐ろしい

信州信濃の新蕎麦よりも 私ゃおまえのそばがよい

2021-12-27

anond:20211216111446

河尻みたいに征服した武田領の仕置をしているのが、河尻、毛利、森、遠山かな?

水野、団、斉藤坂井信忠に付き従っていた

武田滅亡からまだ日が経っていない(4ヶ月)んだよね・・・

尾張衆:

河尻秀隆、甲斐に据えられる

池田恒興(当時は遊撃隊あつかいか)、摂津支配

毛利長秀、伊那領を統治

塚本小大膳、?

浅井政貞、天正9年(1581年)5月24日死去?

水野忠重、二条城にいたが生還

団忠正二条城信忠と一緒に戦い討死

丹羽氏次、?変後は信雄家臣になる

美濃衆:

森長可信濃海津城領主

斎藤五郎二条城信忠と一緒に戦い討死

坂井越中守、二条城信忠と一緒に戦い討死

佐藤秀方、天正6年(1578年)には、越中戦線派遣された(月岡野の戦い)。 そのまま北陸にいた模様

遠山友忠、東濃にいた模様

2021-12-12

君は全体的に秀吉の偉業を過小評価しすぎ

https://anond.hatelabo.jp/20211212125107

1.その場合誰が光秀に勝てるんだよ

まずそのことで明智勢力を温存できたのかどうか?

おそらくはありえない。

秀吉がやらなくても他の織田家勢力によって滅ぼされていただろう。

意味わからん

簡単に言わないでほしい。

 

そもそも当時の織田家の最も強力な軍団長は羽柴と明智であって

あのとき中国大返しと言う大胆な機動を見せた秀吉以外の誰があれほど鮮やかに明智を滅ぼせるのか。

 

一番近い摂津にいた信孝?

変の報せだけで逃亡兵が相次ぐぐらい求心力のない男だ。

秀吉中国から帰ってこないなら兵力は自前の5,000程度しかない。

一方明智史実ルートでも1万から1万五千の兵がいる。

2,3倍の兵力抱える歴戦の戦上手の光秀にどうやって勝つの

 

しか史実と違って秀吉軍がいないなら

信孝軍団からはより多くの逃亡兵が出るし反対に明智勢力は膨らむ。

おそらく山崎合戦自体が起こらない。

  

信雄?

信孝より更に遠いところに居て兵力も更に少なく合戦の腕も似たり寄ったり。

   

はっきり言ってこんな奴等では光秀の動きを制限することも出来ない。

光秀は勝家が戻ってくるまでの3週間近くを京での政治的運動宣伝に使えることになる。

 

  

2.秀吉が帰ってこないことで生じる余裕

史実では秀吉が信じられない速さで帰ってきたことや

「上様中将殿ともにご無事!」などと触れ回ったことで

明智勢力が大いに動揺したし、明智与力や姻族まで様子見を決め込んでしまった。 

 

そういうファクターが一切なくなるということは

明智光秀は見事に逆臣織田信長信忠を討ち取った

・遺された信孝信雄は弔い合戦を挑むことも出来ない

と言う状況が現れるわけで、

これを見たら筒井順慶だって洞ヶ峠から這い出てきて明智に従う。

 

そもそも光秀に与えられてる畿内軍団信長に冷酷に追放された佐久間与力

信長を討って主替えすることにいまさら抵抗感なんかない。利害が合えばついてくる。

それぐらい勢いが出たら細川すらやっぱり明智側に来るかもしれない。

 

 

3.雪崩を打って織田が滅ぶ

何より毛利上杉北条長宗我部という

これまで織田家軍団に圧迫されて存亡の危機に立ってた各地の大勢力は

こぞって明智に祝賀の使節を送ってきて恭順と連携を申し出る。

 

こうなったらもう秀吉ですら後の祭り

事情わかってる毛利に追いすがられながら撤退なんかそうそうできない。

毛利の追撃で散り散りにされたらどこで再起すればいい?姫路城まで戻れてもそこは安全か?

そもそもその状況で中国播磨大名が従い続けると思う?

  

明智と縁の深い長宗我部なんかは俄然張り切る。

信孝を討って光秀助けに京までのぼってくる。

 

そこまで織田の情勢が悪いとわかれば

北条上杉も余力を考えずに全力で追撃出来るから

滝川も森も柴田もいよいよたたでは戻ってこれない。

 

例えば滝川なんか史実では北条と一当たりして敗れたあと真田諏訪まで送られてるけど

「もう織田の再起の目は薄いな」と思われてたら同じ待遇になると思う?

昌幸「滝川首にして光秀に送ってご褒美に上野を安堵してもらお」ってなるでしょ。

もともと主家を滅ぼした織田好感情持ってるやつなんか甲斐信濃はいないんだから。 

史実ですら河尻とか逃げ帰る事すら出来ずに殺されてる。

 

 

4.信長殺しにお墨付きがくだる

織田が滅びていくのと前後して

光秀の主殺しに公的な認可が下る。

 

鞆まで逃れてた将軍様が戻って来て「大義である」って言い出すかもしれないし

もともと朝廷と繋がりが強い光秀だから帝の内意があった説すらある。

京をがっちり固めて将軍を戴けばそれより先か後かに朝廷から

「よくやりました」「各地の大名に号令を出して織田残党を討ちなさい」なんて宣下が来る。

 

英雄秀吉中国から出られないまま肝心の時に決断しなかったことを悔いながら殺されていくし

柴田は雪の中で滝川信濃山中で状況が分からないまま討ち死にして

信孝達はまあ降伏ののちに不審死三法師出家? 

 

ただ高齢デカ子供もいない光秀はどうやっても次世代に残す基盤は作れない。

衰え次第天下は再度荒れる。

国をまとめるはずだった織田もその後継勢力ももう居ない。

このルート日本てどうなるのかね。

毛利かな。  

吉川小早川がまだ生きてて若いのがいいよね。

  

 

おまけ

しかし、史実秀吉ほど狡猾に主家乗っ取りを出来るような

政治家が出現することはなかっただろうから織田家が存続する形になる。

そうなったとしても結局は信長の統率力を失った家臣団によって

勢力争いが展開され信長の遺児たちが神輿として担ぎ上げられて

結局は織田家を脅かす家臣が誕生して織田家乗っ取りが行われるのは

戦国時代によく見られた光景であり実際そのとおりに進むのは間違いない。

意味わからん

当主頓死したあとの家は必ず乗っ取られるのか?

 

(どうやるんだかわからないが)信孝が光秀を討って信長葬儀をやれば

それは何の問題もなく信孝が家督を継ぐ形でまとまるだろう。

信孝という当主がいるのにそれを蔑ろにするほど抜きん出られる家臣がそんな必ず現れるの?

  

なんか全体に言えるのは

秀吉中国大返しをめちゃくちゃ過小評価してるってことなんだよね。

あれは素晴らしく冴えた勝負手であって、

あれ以外のルートで光秀があんな早く打ち滅ぼされるなんてことはあり得ないし

その光秀成敗がなければ有力家臣に過ぎなかった秀吉があそこまで強引なイニシアチブ取れることもあり得ないんだよね。

 

ただそんなことを時間をかけて長々と展開してる間に

九州中国四国統一した地方勢力が力をつけており

その後の日本統一という意味での天下取り

現実的展望ではなくなっており

そのレベル地方統一なんてもの

織田豊臣や徳川支配とは比べられないってことをわかってないよね。

支配体制なんか確立してないか中央勢力と戦うとなった時に

滅ぼした大名勢力を手勢に使えるわけでもない。

基本的には勝負になんないよ。

 

秀吉四国九州関東東北の成敗がどんなだったのかもわかってないんじゃないの。

地方勢力に準備期間があったら対抗できたと?

フワフワしたイメージでモノ言わないでほしいんですよね。

 

織田勢力日本中央部を勢力図としての

限定的な天下政権となったことが予想される。

その政権地方政権戦国の世を続けるのか?

織田勢力地方勢力生産力や兵力ちょっと数字で比べてみたらいいと思います

秀吉であれ信孝であれ信雄であれ、あれを相続されちゃ勝ち目なんかないから。

光秀が勝って織田勢力を壊滅させつつ無責任老衰で死んで瓦解、

のようなひでえルートの時のみ地方勢力にチャンスが生まれると思うよ。

2021-07-27

anond:20180820103723

母さん、僕のあの脳みそどうしたでせうね  ええ、夏、信濃から競技場へ行くみちで 首都高へ落としたあの灰色脳ですよ…

2021-07-15

anond:20210715150820

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆武田二十四将の一人に数えられる。

信茂の勝頼離反から滅亡

岩殿城

天正9年12月織田信長徳川家康武田領攻めを開始し(甲州征伐総大将織田信忠副将滝川一益)、信濃木曽郡国衆木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模後北条氏武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日織田信忠伊那郡高遠城仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。

勝頼は天正9年に新府城山梨県韮崎市)を新たに築城甲府から本拠移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃国衆真田昌幸上野岩櫃城群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅小山田を頼り郡内の岩殿城大月市岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。

なお、岩殿城小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)から距離があることから岩殿城小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日岩殿城武田勝頼が在番衆派遣している事実も注目されている[17]。

武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。

信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟小山田左衛門と勝頼の従兄弟武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠大月市甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。

甲斐善光寺

一方、織田徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。

織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男人質として差し出すために信長拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。

信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

人物

武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場重臣と共に名を列ねている。

武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。

設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

鉄道唱歌(作詞福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。

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