はてなキーワード: 辛酸とは
自分が中学生の頃にネットが発達していて発達障害というものが現在くらいには認知されていて心療内科に行くことに抵抗が無かったならば
もうちょっとマシな人生だっただろうなと思う。あの頃にストラテラでも処方して貰えてたらなあ
最悪、その程度の文化が大学時代にあったならばギリギリ間に合ったかな
現在40代前半くらいがデッドラインだよな。それより年食ってると発達系はアウトなまま社会に放り出されて完全にアウトな人生になる
(というか普通に超氷河期なんで発達じゃなくてもアウトな人は多いけど)
自分の状態を知らないまま社会に出て辛酸を舐めてメンタルやられてからお医者さんにかかってお薬出して貰っても予後が悪い
社会に出る前にある程度のカタつけておかないと。出先も自分に合ったところ目指さないと。無理
あと、発達は遺伝するなあって思うわ。父親と自分はそっくりだもん。ポンコツキチガイなところとかさ
だけど妹は母親似でだいぶ違う。別の方向に病んではいるけれども(あっちは母方の鬱系だな)
はー。馬鹿らしい。やめやめ
こんなブクマが賑わっている。
はてな民のために球技の意味について政治的かつ実効的に語りたい - メロンダウト
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/plagmaticjam.hatenablog.com/entry/2022/05/23/222507
いくつものコメントが指摘している通り、これは徹頭徹尾〈できる側〉の理屈であり〈できる側〉の見ている景色であり〈できる側〉の自己弁護であり〈できる側〉の正当化でしかない。
体育の授業でさせられる球技に屈辱と惨めさの思い出しかない人間だって実際には山ほどいるのだが、まるでそんなやつは存在しないはずだと言わんばかりの口ぶりである。もはや呑気なのか傲慢なのかわからん。
そもそも球技の必要性が理解できたところで、〈できない側〉の屈辱や惨めさは何も変わらない。
筆者さんはこれを書いて何がしたかったの? 〈できない側〉の僕たちに何をわからせたかったの? 何を変えたかったの?
球技くらいしか選択肢がないという部分には百歩譲ってうなずけても、「だって楽しいじゃんほら球技って!だろ?」と言わんばかりの中盤以降は死んだ目で読んだ。俺には球技が楽しかったためしはない。
ポンコツぶりを見せて冗談関係を築くって? そのポンコツ理論が冗談だろ? しらんけど
女子が放ったスパイクを顔面レシーブしたあの日、俺の人生が1mmでもいい方向に転がったと思うか? 最悪だった人生がさらに最悪になっただけだ。壊れた俺のメガネは地面に転がったがな。
こういうのをね、屈辱って言うの。惨めって言うの。辛酸って言うの。
この鬱屈した感情を知らねーなら黙っててほしい。この件については一生口をつぐんでいてほしい。
運動神経はほぼ天賦の才能だ。生まれながらにそれを持ってるやつに、生まれながらにそれを持っていない俺たちの苦しみ悲しみがわかるもんか。
そういう奴らに俺たちの苦しみ悲しみに口を突っ込む資格はこれっぽっちもないの。君には私に救いを与えることはできない。
いいかよく聞けよ、運動音痴ってのはな、「ノンバーバルコミュニケーションの語彙すら乏しい者たち」なんだよ! なにしろ運動ができないんだからな!
君たちは君たちの言葉で意思を通じ合ってればいいさ。だが俺たちはヘブライ語が話せないのにユダヤ人の討論会に放り込まれた日本人なんだよ!
どんな体育の授業も業火の煉獄でしかなかった自分だが、まあまあ楽しかったなという経験も少しはある。
まず柔道や剣道。ほぼ全員がド素人からのスタートだったし一歩間違えば大怪我をするので、本当に基本中の基本からゆっくりと駒を進めていく授業だった。
基本的には個人種目で気楽だったし、団体戦でも先鋒あたりで出してもらえば自分が負けても気が楽だった。
全員がド素人からのスタートという意味ではラグビーもそうだった。もちろん能力差はあるものの、教師の指導がどちらかというと基本技術や戦術・戦略に振ったものだったおかげで、運動神経だけで明暗がくっきり決まってしまうようなつまらない授業内容にはならずに済んでいたように思う。少なくとも、ウォーミングアップしたらすぐにガチ勢天国の試合が始まってしまうサッカーやバスケとは気分がぜんぜん違った。
そういうこともある
モビルスーツが好きなわけではなく、あの概念が好きだから見てたんだけど…
サイコっぽかったり、ひねこびてるくせにガキっぽいガキだったり、女の妄執(御大の妄想)だったり
そこに、あの集合的無意識みたいな概念をぶっこんでくるっていう荒業
ニュータイプは正に「新人類」なわけだけど「早く生まれすぎて辛酸を嘗めまくる人」というイメージしか無くて、その生き辛さがイイ!
(おまけに、ファーストの主人公のライバルはニュータイプに憧れるオールドタイプっていう惨めさが堪らない!あんなに中年になるまで引っ張る惨めさ!!)
なのに、「ニュータイプ」途中でほぼ無視されてるから見なくなったんだよなあ
(主人公がただの「勘のいいガキ」くらいになっちゃってたり。ニュータイプはエスパーじゃない)
まあ、あの概念ありきの作品てわけではないとのことなんで仕方ないけど
残念だわ
けっこういい感じに分厚かったけど、半日没頭して読んでしまった。
来月辺りに広瀬すずと松坂桃李の主演の映画が公開されるし、TSUTAYAに行けば売れ筋ナンバーワンとしていっぱい平積みされているので、わざわざ私が紹介しなくてもいい気がするが……。
著者の凪良ゆう先生はBL小説家としてデビューした人気作家。数年前からBLレーベル外の小説も書くようになった。『美しい彼』『わたしの美しい庭』『滅びの前のシャングリラ』など著書多数。
主人公の更紗(さらさ)は、風変わりな両親に愛され、自由奔放で健やかに育っていた。だが、平和な日々は突然瓦解してしまう。天涯孤独となった更紗は伯母の家に預けられたものの、普通の家庭に馴染むことが出来ない。居場所のない彼女は放課後、独りきりで公園に行き、ベンチに腰掛けて読書をして時間を潰すようになる。
公園には更紗以外にもう一人、ベンチの常連がいた。更紗の学校の友人達からは「ロリコン」と呼ばれる、痩身の若い男。彼は毎日、暗い目で女児達の姿を追っていた。
更紗が伯母の家での暮らしに限界を感じた夕方、これまで更紗に対して無関心を貫いていた「ロリコン」が彼女に近づいてきて……。
ざっくりと言えば、かつてTwitterとかでフルボッコにされた伝説の『幸色のワンルーム』(はくり)みたいなストーリー。傍目には、猥褻目的誘拐犯に性犯罪被害者が懐いてしまうストックホルム症候群にしか見えないけれど、実は訳ありのお兄さんが虐待を受けている女の子を救い、それをきっかけに強い絆で結ばれ、唯一無二の関係性を築いた二人の物語。
なんか物議を醸しそうな筋書きだけど、今のところ『幸色のワンルーム』のようなボコられ方はされていなさそうだし、これからもそうはならないかもしれない。
ただ、レビューを見てみると、猫も杓子も作者が読んで欲しいように読んでいるというか、「事実は真実とは違うということがわかりました。わたしも無理解から他人を傷つけないように気をつけてようと思いました」と多くの人々が判を押したように書いていて、道徳の時間の小学生じみていて、うすら怖い。一体どうした、みんな真面目か。
まあそれは置いといて。『幸色―』よりは好意的に受け入れられているっぽいのはたぶん、そもそも挿し絵無しの小説なので、女児の可愛い言動や性犯罪被害を描いてもそれを「性的消費」目的で書かれたとは思われ難いというのがあるのかなと思う。それに、物語全体のうち、被害者女児と誘拐犯の暮らしが書かれた部分はそんなに多くない。それより、更紗が事件以来、15年の歳月をどのように生きてきて、現在はどんな風に暮らしているのかに多くのページが割かれている。そして、更紗が性的虐待を受けている場面や、彼女にとってはしんどいだけの性行為の場面は、心情はリアルに書かれても行為そのものは生々しく描写されはしないので、虐待描写のオカズ化は防がれている。そういう意味では安心。
未成年者略取という犯罪に夢見すぎという批判はあると思う。だがそれも罪を犯した文(ふみ)の内心が吐露される章で緩和されるのかな、たぶん。
現実にも起こりうる、子供が被害に遭う犯罪とその冤罪。当事者しか真実は知らないはずなのに憶測が飛び交い、被害者・加害者ともにオーバーキルとなるほど晒し者にされ平穏な日常生活を奪われ追い詰められること。そういうことを物語のネタとして取り上げることの良し悪し。それについて私自身がどう思うのかといえば、良しとも悪しとも言えないなぁという歯切れの悪いことを言うしかない。
個人的な好き嫌いのことをいえば、センシティブなネタほど「逃げの一手」を打たない方が好き。例えば近親相姦もので実は血が繋がっていなかったのでセーフでしたとか、小児性愛者が未成年者略取の罪を犯したと思ったら実はそいつは小児性愛者ではなかったのでセーフでしたとかいうのは、何がセーフじゃ甘えんな! もっと業に正面から向き合えと思う。
『流浪の月』はどうだったかといえば、文は実は小児性愛者ではなかったので、そういうとこは私のあまり好きじゃないものの類なんだけれど。だってたぶん多くの読者が「更紗と文にはこれからは静かなところで幸せに暮らして欲しい」とレビューに書いているのって、文が「安全な人」だとわかったからで、もしもまじもんの小児性愛者だったら同じ感想が出るか? っていう。なんていうのか、結局は罪を軽減して世間並に受け入れられるレベルまで物語引き下ろした感が出てしまうというか。それで事実と真実は違うよねーと言われてもなって感じがする。
だが、文がなぜ自らを偽ってまで小児性愛者のふりをしてきたのか、その事情と心情があまりにも切々と書かれていて胸を打たれたので、私の個人的好き嫌いとかどうでもいいかもう、と思い直した。
事実と真実は違う。人それぞれに抱えているものがあって、それを他人が何も知らない癖に常識だのなんだのを笠に着て叩くことが許されようか? 本作のテーマはそんな感じだが、幼い頃の更紗を育んだ家庭や、大人になった更紗に関わる人々などを、更紗が許容するもの・拒絶するものに、そうは言ってもな……とちょっと疑問が残るようになっているところが良いと思った。
たとえば、母親が無理をせずに幸せであることは大切だとして、更紗は彼女自身の母親や、同僚の子持ち女性の自由奔放ぶりを許容する。ところが更紗の母親と同僚女性は娘の物分りのよさに甘え、自分の恋愛にかまけて娘を放置するという全く同じ行動をする。だが、その結果は大きく異なる。更紗は母親に遺棄されたせいで理不尽に辛酸をなめることになったが、同僚女性の娘は放置されたものの完全には棄てられず、それが切っ掛けで更紗と文という年の離れた友人に出会い、精神的に救われることとなる。同僚女性は更紗と文という協力者を得たお陰で、娘を遺棄せずに自分の人生も大切にできたとも言えるかもしれない。同じ事が起きても結果は違う。これを人それぞれと言うか、そんなんただの運だから、最初からちゃんとしているに越した事はないと思うか。現実としては、周囲から親にかけられるプレッシャーのお陰で子供が守られているという事も、往々にしてあるが……? などと、ちょっと考え込んでしまう余地が読者には与えられている。
一方で、更紗はDV気質のある恋人の亮のことは、交り合うところが一つもないと拒絶し切り捨ててしまう。亮がなぜDVを止められなくなってしまったのか、その理由を知っていながら、理解も共感も彼女は拒否するのだ。母親が我が子を遺棄することには同情すら示すというのに、DV男はどんな事情があれどもダメであるというアンバランス。DV男は許してはならない、そんな奴からは早急に逃げるべきだというのは正しい。ここを違えたら今時の読者には受入れられないのは想像に難くないが、世間へのご機嫌取りとも思えない、あえての偏った描写なのだろうか。と、ここにも悶々と考えさせられる余地がある。
また、他人の無理解によって苦しめられてきた更紗もまた無謬の人という訳でもなく、無邪気な思い込みで発した一言で文を深く傷つけたのに長い間気づかず、文の真実を知らないままであった。それは、読者が安易に更紗と自己を同一視して気分を良くするだけにとどまるのを阻んでいる。更紗が文の真実を知った時、それまで更紗と一緒に被害者意識を持って、解っていない人々を糾弾出来る立場にいたはずの我々は、自分達が解っていない人々と同じ穴の狢であることに気付かされ、ショックを受けるのだ。
後半、読者目線では余裕で予想できる破滅的な結末に向けて、更紗と文が善意やちょっとした人としての良識を発揮したせいで転がり落ちてゆくところは、はらはらしてつい目が離せなかった。それはダメだ、善意でもやったらいけないやつだと、更紗達を批判することを、圧巻の心理描写が妨害してくる。簡単に教訓を得ていい気分になって読み終えることを許してはくれない。それがこの小説のすごい所なのかなと思う。
にも関わらず、レビュー者が判を押したように教訓を得た事ばかりを書くのは、この小説が安易な共感を読者に許さない、熟考を強いてくるからなのかもと私は思った。そう易々とは自分の意見を書くことが出来ないから、かえってテンプレみたいな感想を書いてお茶を濁すことになるのだ。
さて、以下は凪良ゆう先生のBL作品の紹介と、『流浪の月』とテーマが似ていると思う作品とかの紹介。
主人公の平良は吃音を持っているせいで上手く喋ることができず、学校生活の中ではスクールカースト最底辺に追いやられていた。両親に心配をかけることを畏れた平良は、イジメのターゲットにならないように極力目立たぬよう、息をひそめて暮らしている。
そんな平良は、高校二年の新学期、同じクラスになった清居(きよい)に一目惚れをしてしまう。清居はスクールカーストの頂点に君臨し、陽キャの面々に一目置かれながらも孤高にマイペースを貫く、まさに王者である。そんな清居とそのしもべ達から奴隷のようにこき遣われる平良だったが、清居が気まぐれに差し伸べる暴力的な救いの手や、逆境をものともしない凛とした姿勢に心酔する。やがて平良は、清居の一兵卒から立派なストーカーへと進化していくのだった……。
凪良ゆう先生のBL小説のなかでたぶん最も人気のあるシリーズである。イジメの被害者と加害者のカップリング。主人公の平良と、平良に惚れられた清居、それぞれの視点によって相手の人間性や共通の体験についての見方ががらりと変わる。事実と真実は違うとはまさにこのこと。
幼い頃、近所に住む「にいちゃん」に遊んでもらっていた、ゆい。彼はにいちゃんのことが大好きだった。ところがある日、にいちゃんが奇妙な遊びに誘ってきた。怖くなったゆいは、にいちゃんの部屋から逃げ出した。そこへゆいの母親が鉢合わせたことにより、にいちゃんは逮捕されてしまう。
数年後。高校生になっても、ゆいはにいちゃんのことが忘れられず、親には内緒でにいちゃんの行方を探していた。そして遂ににいちゃんと再会を果たしたゆいだったが、にいちゃんはゆいを怨んでいた。にいちゃんはゆいを拘束して動画を取り、それを脅迫材料として、ゆいを呼び出し、苛烈な性的虐待を加えるのだった。
ほんものの小児性愛者でしかも性犯罪者の大人と、ストックホルム症候群な高校生のカップリング。虐待描写があまりにも凄惨で心を折ってくるので、性描写がゴリゴリにあるが抜けないエロ本みたいなことになっている。ヤバい奴に雁字搦めにされてしまった状況での愛は偽りなのかもしれないが、渦中にある本人にとっては本物に見える。その様を綺麗事なしに描写した怪作である。
腐野花(くさりの はな)は、恋人との結婚をもって養父の腐野淳吾の手を離れることになった。花は幼いうちからまだ年若い養父と性的な関係を持ち、そしてもう一つ、誰にも言えない秘密を淳吾と共有していた。
そんな花と淳吾の暮らしを、時の流れとは逆順に、章ごとに語り手を変えつつ描いた物語。最後には花と淳吾の真の関係性が明かされる。
はたからみれば養父から性的虐待を受ける女児の物語だが、やはりこれも事実と真実は違う系。ところが真実は事実よりもどろどろとしていて、なのに純心であり耽美でもあるが、物凄い業の深さでもある。
第1章が花と淳吾の別れの話で、それから章ごとに時を遡っていき、最終章は家族を亡くして孤児になった花が淳吾と出会い養子になるところで終わる。
私は初読の時に、まるでハッピーエンドのように終わるなぁと思ったのだが、再読したら別にハッピーエンドには思えなかったのは何故なんだ。もう一度読めってことかな、ハハッ。
映画にもなっているのだが、映画版はまるで小さな悪女・花に淳吾が狂わされ搾り滓にされたみたいなラストだったから、あまり好きじゃないな。
酷暑の真夏、若い母親は幼い子供達を部屋に置き去りにし、餓死させた。懲役30年の実刑判決を受けた母親を、世間の人々は好き勝手に糾弾する。一体、母親は何故、愛していたはずの子供達を死に追いやってしまったのか? 母親自身の生い立ち、彼女の祖母の代から続く凄絶な負の連鎖とは……。
小説にしか描けない現実があるとして、実際に起こった事件をモチーフに書かれたフィクション小説である。
児童虐待と、世間の人々が助けたいとは思わないタイプの社会的弱者の物語。著者の山田詠美先生は自由な女性の恋愛小説を書く一方で、昔から社会の最下層にひっそりと生きる人々の事も書いてきた。中でもこれはすごい作品。
ロシア人もアメリカ人もヨーロッパ人もお互いいがみ合って滅びりゃいいんだよ。日本人には関係ない。
日本ではロシア信用できない、アメリカ信用できないってある一定数いるが、日本人からすればどっちも信用できないが正しい。日本は第二次世界大戦においてはどっちにも辛酸をなめさせられている。どっちもどっちだからウクライナの事は日本人が関わってわいけない事象だな。ウクライナ人が戦争反対っていっても日本に来てるのなんて富裕層みたいなもんでそいつらが困ってもどうでもいいし。逆にロシアが経済制裁を受けることで、日本は間接的にカニとかロシアから受けていた貿易とかの恩恵も受けられなくなる。
なんにも頑張らなくても自然と地元で最も優秀とされる国立大には38度の熱が出てても受かる程度の学力があった。知識を得ることが好きだったので自然にそうなったのだ。
だが自分と同じように当然そこに進学するであろうクラスメイトたちの纏う、うっすらとしたカーストの雰囲気がとにかく嫌いだった。
事業に失敗して家を貧しくしたのに、拗ねながら母や私の前で偉そうに振る舞う父が醜くて嫌いだった。
こいつらを全員ギャフンと言わせてやりたいと強く思ってた。
東京に行けば、東大生になってしまいさえすれば、最高の友達が出来ると思ってた。
絶対に自分の好みの女子東大生がいて、つきあえて、青春を10倍にして取り戻せる確信があった。
無理矢理信じたというか、自分を盛り上げたというか、それで知識やパズルを貪って無理矢理負荷をかけて筋肉を育むみたいに能力を鍛えた。
今振り返ってみると、あの自己催眠みたいなのがなかったら早慶止まりだったと思う。
東大生になったあとは、それ以前の願いは全部成就させた。院に進むほど真面目にはなれなかったが、ベタな就職をしてベタな辛酸を舐めてベタな結婚をした。結局東大生としては相当下の方だということはよくよく味わったが、身の丈にあった幸福と恵まれた人間関係を享受している。
学力課金とかよくわからない。大学生活への夢とか渇望とかの問題だと思う。行きたくないなら行かなきゃいいし、知りたくないなら知らなきゃいい。勉強が嫌いならやらなくていい。向いてないことさせても仕方ない。鬼なんか狩らずに炭を焼いて暮らせばいい。
ただ、受験ってのはルービックキューブみたいにコツがわかると飛躍的に面白くなり、ルールが試験官のものでなく自分のものになるので滅多に不合格にならなくなる。そんなことは大抵の東大生は容易く気づいてることだが、私の場合、人生を丸ごと賭けるような気持ちで取り組んでようやく掴めたことだった。
自分で人生を変えてみたかったんだよな。で、実際に変えることができた。自分は馬鹿な東大卒だが、あの体験はいまだに自分を助けてくれる。生涯奪われようのない財産だ。馬鹿だったからこそ得られた体験のおかげで、だいぶ枯れてきた今でもロマンチストでいられる。
はてなーのみなさんは年功じゃなくて働きざまに応じて給与は設定されるべきというジョブ型最右翼だと思うけど、危機が身近にある身としてはジョブ型って理想の共産主義と同じくらい困るんだわ。
これは会社が設定するジョブディスクリプションが正しく運用され、十分な給与へ資金が回されるのであればまだしも、現実は経営側のコストカットに利用されがちだからだ。例えば課長の能力に対して部下の方が明らかに長じる場合、それをすげ替えられるかといえば、まぁ無理でしょう。「弊社ならではのジョブ型」とか言い出すと、かなり怪しい。
あと、入社前だったらいいんだけど、今まで将来的にこれくらいもらえる、と見込んで辛酸を嘗めてきたものがパーになるわけだからね。これまでお爺ちゃん達のお世話をしてきた分、一時金精算してほしい。
それに、事業分野の撤退となったらどうなんの?と考えると首がひやっとなるし、これからのご時世、会社側に切られたやつは「スキルのない人間」として転落するしかないわけだ。
なんか「こんなやつに真似されてジョーカーもいい迷惑だ」みたいなジョーカーを持ち上げて犯人を下げるようなコメントが多いけど
映画はジョーカーに肩入れしたくなるように描かれてるから贔屓したくなるだけで、ジョーカーが(妄想ではなく)実際に犯罪を犯したら、劇中の住人たちはこの犯人に対する批判と同じような批判をジョーカーに投げかけていただろう
そもそもジョーカーはドジで間抜けでどうしようもない無能なんだよ。映画を観ることで「ダークヒーロー」に格上げされてしまうわけだが、それはあなたが彼の人生を同情的な目線で眺めさせられたからに他ならない
だが、劇中の住人たちはそんなお構いなしにジョーカーを無能扱いし続けるだろう。彼らはジョーカーがどんな辛酸を舐めてきたかなど知らず、犯罪の結果だけをニュースで知り、憤慨し、批判する
今回の犯人を擁護する気はさらさらないが、ジョーカーを持ち上げることで犯人を批判するというやり方は「ジョーカーに同情している」という歪んだバイアスありきであることに気づくべき
ガウガメラの戦いは、紀元前331年ヨーロッパ東方のペルシアにおいて、当時のアケメネス朝ペルシャの本軍と、アレクサンドロス率いるマケドニア軍が激突した戦いである。
これまで取り上げている二つの戦いから分かるように、戦争芸術の定義は「圧倒的な戦力差、戦略的不利を、指揮官の機転によって打破する」ことにある。このガウガメラの戦いはそのような意味合いで、戦争芸術の極致と言える。
当時ギリシャの一小国に過ぎなかったマケドニアは、アレクサンドロスの父であるフィリッポス二世の尽力によって急速な軍事・政治改革を遂げ、瞬く間にギリシャ全土を手中に収めると、フィリッポス二世の死後マケドニアの実権を握ったアレクサンドロスの指揮下、紀元前334年ボスポラス海峡から小アジアへと渡り、東の大国アケメネス朝ペルシャに対し征服戦争を仕掛けた。これが世に名高い東方遠征である。
その後十年の長きに渡って続いた戦いは、アレクサンドロスが企図した、アレクサンドロスによる、アレクサンドロスのための戦いであった。
アレクサンドロスは紛れもない西方世界の英雄であり、破壊者であった。当時アレクサンドロスが破壊し、虐殺・略奪を行った都市は数多に渡って存在している。
アレクサンドロスの猛進を前に、時のペルシア王ダレイオス三世はペルシア西岸のイッソスにて、王自ら率いる五万以上の軍勢をもって決戦を挑み、敗北した。数的優勢に立ったペルシア軍は川を挟んでマケドニア軍に対峙し、防衛を試みるが、果敢にも渡河を遂げたアレクサンドロスを前に有効な機動戦法が取れず、壊走したのである。ダレイオス三世自身が率いるペルシア本軍敗北の衝撃は余りあるものであり、敗戦の後、ダレイオス三世は堪らずアレクサンドロスへと講和を願い出ているものの、アレクサンドロスはこれを一蹴している。
それから二年、ダレイオス三世はアレクサンドロス本隊を壊滅させるべくイッソスの戦いを上回る規模の軍勢を招集し、ガウガメラの荒野にてアレクサンドロス軍を迎え撃とうとしたのであった。これがガウガメラの戦いである。
この一戦のためにダレイオス三世はありとあらゆる準備を重ねた。
第一に、(当然のことながら)数的優位を築くこと。マケドニア軍五万弱に対して、この時ダレイオス三世の招集した軍勢は傭兵を含む十万以上であり、つまりアレクサンドロス軍の二倍以上に当たった。この規模の軍隊は当時の兵站で維持可能な最大レベルの軍隊と言え、当時におけるペルシア軍の威信の程が推し量られる。
また、彼らの戦いの数百年の後に行われたカンナエの戦いにおいて、勝敗を分けたのは騎兵戦力の優劣(とハンニバルの用兵)であったことは先述の通りであるが、マケドニア騎兵七千に対してペルシア軍騎兵の数は一万を超えており、質はともかくとして量においてはペルシア軍はマケドニア軍を圧倒していた。ここにおいても油断は無かった。
更にダレイオス三世は当時最新鋭の兵器の一つであった戦車(チャリオット)を陣中に大量に配置した。これは複数の軍馬によって牽かれる戦闘用の馬車のようなもので、車輪の左右には鋭利な刃物が取り付けられると共に、車上には弓兵が配置されており、通常の歩兵戦闘において絶大な威力を発揮する筈であった。ダレイオス三世はこのチャリオットの突進力によってマケドニア軍を圧倒しようとしたのである。
また、ペルシア軍は戦場の整備をも欠かさなかった。チャリオットの機動を阻害する石や木の根などの障害物を、決戦の事前に排除しておき、イッソスの戦い(ペルシア軍は閉所にて有効な機動ができず壊滅した)で舐めた辛酸を繰り返すまいとしたのである。
相手に倍する軍隊、奥の手としての秘密兵器、駄目押しにその秘密兵器の機動を有利にする戦場整備、限りなく万端に近い準備の上で、ダレイオス三世は決戦の時を待った。
紀元前331年10月1日、ペルシア軍とマケドニア軍の双方はガウガメラの地にて対峙し、戦闘を開始する。
この時、マケドニア軍の司令官であるアレクサンドロスの立てた作戦はシンプルなものだった。それは、緒戦から防衛に徹し、敵の隙を見て騎兵を突撃させ、敵の本陣を陥れるというものであった。
言うは易しだが、何しろマケドニア軍とペルシア軍の数的差は一対二であり、言い換えれば、敵軍には五万以上の余力があった。そんな状況で、本来であれば隙など生まれる筈はなかったのである。
開戦直後、アレクサンドロスは全軍を緩やかに右斜め前方へと斜行させる。本来であれば軍隊の斜行は自陣に綻びを生む可能性の多い行動であり、採用されることはまず無かったものの、アレクサンドロスは自軍の機動に合わせてペルシア軍の不用意な機動を誘った。案の定、折角整備した戦場から離脱されることを恐れたダレイオスは、三方(正面、右左翼)から雲霞のごとき兵数を動員し、マケドニア軍を包囲しに掛かった。
その大軍の王道とも言うべき用兵に対抗するべく、アレクサンドロスは自軍を純粋な横列ではなく、左翼と右翼を折り曲げた弓状に変形させており、この鉤状になった右翼と左翼を持ってペルシア軍の猛攻を受け止めようとした。
しかし兵数の差が決定的であったことから、持久戦となればマケドニア軍の敗北は自明であった。左右のいずれかを突破され、後方にペルシア軍の進撃を許した時点で、マケドニア軍の崩壊は決定づけられる。更には、マケドニア軍正面にはペルシア軍の虎の子であるチャリオット隊の猛攻が迫っていた。
とは言え結論から言えば、このチャリオット隊の猛攻をマケドニア軍は退ける。
曰く、マケドニア軍は軍馬というものの持つ本能――顔面に鋭利な物体(槍など)を突き付けられると足を停めてしまう本能や、チャリオット特有の旋回能力の低さを突いたと言われている。つまり、チャリオットの突撃を部隊の散開によって躱し、その後方から弓などの武装によって攻撃を仕掛けたのである。恐らくは事前の情報やこれまでの戦闘から、マケドニア軍は対チャリオット戦術を磨き上げており、どのような場面においても遅れを取ることはなかったのであろう。
これらの柔軟な対応によって、マケドニア軍に対する有効な戦果を挙げることのできないままチャリオット隊は壊滅することとなる。
さらには、マケドニア軍両翼はその圧倒的な数差にも関わらず極めて堅陣であり、容易に抜かれることは無かった。強いて言うならば、アレクサンドロス本人が率いる右翼騎兵に比べ、左翼を指揮するパルメニオン将軍は劣勢を訴えていたものの、それでもペルシア軍の猛攻をひたすら受け止め続けていた。
ダレイオス三世の予想に反し、戦況は膠着状態に陥る。ダレイオス三世は本来であれば本陣の防衛に充てるはずであった予備兵力の騎兵を動員し、マケドニア軍両翼の騎兵に対する圧迫を増大させようとした。短期決戦によってマケドニア軍を壊滅させようとしたのである。
この決戦から二千年以上もの時が流れた後では詮無い事だが、この時ペルシア軍が持久戦に徹し、その両翼での戦闘を維持し続けていれば、ガウガメラの戦いにおける帰趨は逆になっていたかもしれない。
アレクサンドロスは超人的な直感によりペルシア軍の崩壊を予知した。右翼の防衛に当たっていた自ら率いる騎馬隊を突如ペルシア軍正面へと転換させ、両翼へと予備兵力を割いたために手薄になっている、ペルシア軍本陣のダレイオス三世を狙ったのである。当時、マケドニアの率いる騎兵部隊、いわゆるヘタイロイ騎兵は世界においても有数の練度を誇っており、その突進力は歩兵にとって純粋な脅威であった。ヘタイロイ騎兵の突進により、ペルシア本陣のダレイオス三世の位置を告げる軍旗が大きく揺れる。ペルシア軍を支える精鋭である親衛隊は敢然とその侵攻を阻もうとするが、アレクサンドロスの猛進は止まることはなかった。
やがて、ダレイオス三世の本陣の上に翻る軍旗は逃走を始め、アレクサンドロスはその追撃へと移った。ガウガメラの戦いの勝敗はここに決したのである。
参考文献:ttps://www.youtube.com/channel/UC5dzkTCM0Jxnc5widb8arDw
小山田圭吾の障害者虐待に関して執筆されたQuick Japan(QJ)やRockin' On(RO)の記事、そして北尾修一によって発表された村上清と小山田圭吾を擁護するブログ記事を読んで、改めて感じたのは「自分たち(=サブカル業界人)の欲求や愉悦のためには、他者の尊厳を踏み躙ること、他者に負担を負わせることを何とも思わない」と云う、昔も今も変わらないサブカル業界人の自己中心的な体質です。そして、この体質は、町山智浩ら旧体制『映画秘宝』と瓜二つです。
件のQJ連載記事『いじめ紀行』の中で村上清は「イジメはエンターテイメントだ!」と明言しました。それが本当ならば、村上清は何故、彼自身をイジメた加害者を取材しなかったのでしょうか?何故、村上清は、彼自身をイジメた加害者を探し出し、彼(ら)を取材して、村上をイジメた時に加害者(ら)が覚えたであろう興奮や愉悦、或いは村上自身が舐めた辛酸や屈辱感について、詳細にレポートしなかったのでしょうか?何故、村上清は加害者(ら)と「アレはヤバかったよね(笑)」と、いじめトークで盛り上がらなかったのでしょうか?村上清が言う「救いが無いことも含めて、イジメはエンターテイメントだ!」と云う主張が本物ならば、村上にはそれが出来たはずです。
もちろん、村上清がそれをしなかった/出来なかった理由は分かりきっています。本当は「村上清にとってイジメは、決してエンターテイメントではなかった」からです。記事を執筆した当時の村上清は、彼自身をイジメた加害者に対して、依然として恐怖感や忌避感を抱いていたのです。
本当は村上清は、彼自身をイジメた加害者にリベンジしたかったが、それは村上には出来なかったのです。本当の加害者へのリベンジが出来ないことは、村上清にとって大いなる屈辱であり、劣等感の源でした。その代償行為として『いじめ紀行』を執筆し、それを通じて仮想的に加害者となることで、被害者としての屈辱感を解消しようとしたのです。
この村上清の行動は、見れば見るほど町山智浩ら旧体制『映画秘宝』と瓜二つです。
小山田圭吾に対する世間の批判が高まった後、町山智浩はTwitterで「悪趣味・鬼畜系カルチャーの原動力は、電通・ホイチョイ・フジテレビ的なカルチャーへの対抗心だった」と云う主旨の発言を行いました。また町山智浩だけでなく、旧体制『映画秘宝』全体が、ジョックス(米国スクールカーストで上位である体育会系)に対する怒りと憎悪を撒き散らしていたことは周知の事実です。
では町山智浩らは、その電通・ホイチョイ・フジテレビ・ジョックスに対して復讐したでしょうか?していません。町山智浩らの怒りや憎悪を向ける本来の相手である、電通・ホイチョイ・フジテレビ・ジョックスには町山らの力では敵わないから、その鬱憤を晴らす代償行為として、女性や同性愛者やアニメ愛好者を攻撃して、憂さ晴らしをしていたのです。或いは『映画秘宝』内部のカースト下位の人間(ギンティ小林等)に対してパワハラやイジメをして、いじめ加害者としての立場を楽しんでいたのです。
そして、町山智浩による筋違いな鬱憤晴らしは、今なお止むこと無く続いています。現在も町山智浩は、女性差別・蔑視発言や同性愛者差別・蔑視発言を繰り返しています。
このように比較することで、悪趣味・鬼畜系であろうがなかろうが、また90年代から変わることなく現在も、サブカル業界人たちは、恨み(?)を晴らすべき本来の相手に敵わないが故に、その鬱憤を晴らすために「弱そう/反撃してこなさそうな相手」を選んで攻撃している卑怯者たちであることが理解できると思います。
この投稿は、以上です。
PS4とSteamで新しいアイドルマスターのゲームが発売されるが、
結構な頻度でネガティブな発言をよく見るので、主なものを挙げて自分の感想をまとめておく
プラチナスターズから3Dモデルがブラッシュアップされ、スターリットシーズンにて再度3Dモデルが新しくなった。
おおむね、諸星きらりや双葉杏のようなかなり身長差が激しいアイドルを躍らせるために3Dモデルやモーションを一新するのが目的だろう。
ステラスターズまではどのキャラもだいたい同じような身長差で、ゲストキャラも元のアイドル達と大きく離れてはいなかった。
ウマ娘のほうが出来が良いと言えばよいが、ぶっちゃけシェーダーの違いなので個人の好みの差だと思う。
例えると、どの絵師の絵が好き?くらいの違いだ。
今さらアイマス1のようなモデルだと古臭いし、2やOFAなどのモデルも洗練されているが、そこはミリシタに引き継がれている。
プラチナやステラは美麗ではあるが癖が強いかなと思ったので、スタマスはだいぶ落ち着いたようなモデルだと思う
強いていうなら、肩とかの関節がうまく処理できていないのでそこは直してほしいところか
デレマス、ミリマス、シャニマスから5人ずつというのは確かに少ない。
デレミリは選抜で出てくるならまだしも、シャニはユニット売りなのにユニット関係なく選抜メンバーで出てきたので結構ネガティブな意見が多かった気がする。
まぁアイマスは全作品通じてDLC商法ではあるので、1年間毎月各マスから1名ずつ追加で入ってくるというのはあり得る。
Steam版があるので、怒られそうなスレスレなところで追加アイドルModを作ったりとかもアリだろうか。
あとDSがはぶられてるという意見もあったが、演者が忙しすぎるのでどうしようもないというのはある。
余談だが、プラチナ、ステラのときはマネタイズに苦労していた(ガチャのほうが金を落とされやすいため)ので、
これも発表当初から結構言われているが、正直女性と男性で骨格や3Dモデルの作り方が違いすぎて非常に難しいというのがあると思う。
ダンスモーションの破綻を許しても、女性歌唱のダンスを男性が踊ったり、男性歌唱のダンスを女性が踊ったり、
据え置き作品のアイマスは全アイドル歌い分け(アイドルを編成した順番で個別に歌い分けができる)が基本だが、
ワンチャン、3Dモデル付きでストーリーとかには出るかもしれない。
それはそう(断言)
ライトやスモークの加減とかの絵作りはウマ娘のほうが上な気がする。
PS4で動かすのにスタマスは5人でウマ娘はもっとたくさんなんだが?という意見もあるが、
バックダンサーはモーションやテクスチャを共通化しているのでそこまでの負荷ではなさそうだと思っている。
スタマスは先日の生配信で情報が公開された「STAGE FOR YOU」という好きなアイドルと楽曲でMVを作るモードで
以前はできなかったが今回はステージ演出をいじることができるようになったり、そのうえでアイドル個別で撮るなどカメラワークを操作して
結果をオンラインで公開などができるのでそこは期待している。
先日のスタマス生配信のコメントで「OFAからずっと思ってたことあってスタマスで見切りをつけた」おじさんはOFAから何が気に食わなかったのか教えてほしいところ。
あと久夛良木Pはプロデューサーらしくあってほしいとは思った。
あがり症っぽいのはわかるけど、もう少し克服してほしい。
生配信などの場でユーザーに対してゲームのことを伝えるのがゲームプロデューサーとしての対外的な仕事だろう。
STAGE FOR YOUの情報公開で「ぼくのかんがえたさいきょうのアイマス」に近いアイマスが出ると思っているので、買おうと思っている。
プロデュースシステム的にはアイマス2やOFAっぽさを感じるので、プラチナやステラで辛酸をなめたプロデューサーももう一度手を取ってみてはいかがだろうか。
俺が今までの人生で思ってき事だ。
スポーツをやるのも観戦するのもファミコンより楽しくなかった。
自分が主役になれるわけでも何でもないものに何の魅力も感じなかった。
サスペンスドラマは、自分がそれを体験できるわけでもなんでもないので
ファミコンより楽しくなかった。
ポートピア連続殺人事件は自分が主役になれるの楽しかった。
漫画やアニメは確かに楽しい部分があったけれど、そのアニメのキャラクターを
自分が動かせるわけでもないのでそこが嫌だった。
だからドラえもん ギガゾンビの逆襲とかキャッ党忍伝てやんでえとかドラゴンボール大魔王復活の方が
楽しかった。
人形は確かに飾ったり遊んだり出来たけれど、壊すと叱られるのが嫌だった。
ロストワードオブジェニーのジェニーがパンチやキックとかで戦う方が楽しかった。
映画は2時間近く自分では何も動かせないから見ていて段々とまどろっこしいと思った。
2時間もあればスーパーマリオブラザーズ3の笛無しでかなり楽しめるし、ロックマンだって出来て楽しかった。
それなのに全然動かせない映画を見続けるのは展開がよくても苦痛だった。
学校の勉強は達成感がなくて楽しくなかった。ドンキーコングJrの算数遊びの方が楽しかった。
こっちのほうが算数を学べた。ババア先生はすぐ癇癪を引き起こすし校長先生の話は無駄に長く一つも話を覚えていない。
どこに行っても何しても主役になれなかったけれど、ドラゴンクエストでは自分が勇者になれて楽しかった。
特に3では最強の攻撃魔法ギガデイン、最強の回復魔法ベホマズン、勇者だけの最強の装備、そして最強の伝説を作ったのが
最強が大好きだったので楽しくて何度もプレイして下敷きが今でも宝物。
4でギガデインは微妙になったけれどやっぱり最強なのが勇者であって、自分は勇者なんだ!とイキるのが楽しかった。
学校の音楽の時間に音楽を聴くのも自分で演奏するのも下手で嫌だったけれど
シティコネクションの音楽とかパロディウスの音楽が使われていた時は、この音楽が流れるならファミコンをさせてくれればいいのにと思った。
テレビで音楽が流れても、これよりキャプテン翼のゲームの音楽の方が100倍かっこよくて楽しかった。
超能力が流行った時は、父親が中古でマインドシーカーを買ってきてプレイして全クリして
だけど学校で自分は超能力に目覚めたんだと主張したら馬鹿にされて辛酸をなめさせられた屈辱は今でも忘れられない。
家族旅行に連れていかれるのが嫌だった。その間ファミコンが出来ないから。
移動時間中ファミコンが出来なくてイライラした。いつファミコンが出来るようになるのか。
泊りの時は最悪だった。ファミコンはあるのかとしきりに親に聞いたが無いとしか返事が来なかった。
観光地に行ってなんかよく分からない鳥とか見ても、テラクレスタの火の鳥になって無敵になったほうがいいとか
植物を見ても、ファイアマリオになってパックンフラワーにファイアボールを投げつける方が楽しかった。
運動会は大嫌いだったけれど、くにおくんの熱血行進曲それいけ大運動会は楽しかった。
くにおくんみたいな大運動会は実際になかったのも現実のつまらさなを感じた。
甲竜伝説ヴィルガスト外伝のリュキアが可愛くて今でも好きだ。性癖歪んだ。
お前はリュキアと比べるとブスだなと平然と言っていた。現実の女はみんな性格が悪かった。
ここまで書いたけれど何をするにもどんな時も感じていた事はファミコンより楽しいの?ということだ。
じゃあ今はどうなのかと聞かれると。
今でもファミコンをやっている。正確にはバーチャルコンソールでだけど。ファミコン実機もたまに出す。
勿論他のゲーム機で遊ぶこともあるけれど。
俺の人生は全てファミコンだったと思うし、ファミコンこそが楽しかった。
ファミコンが無ければ俺の人生は砂色だったし、ファミコンこそが正義だった。
何をするのもファミコンがあったから、ファミコンが無ければ何もできなかった。
ファミコンがやりたいからこんなところ(旅行先)から早く帰りたいね!
ファミコンのほうが友達より大事だよ!だってファミコンの方が楽しいし!
こんな感じだった。本当にこんな感じ。
はてな匿名ダイアリーに書く時間があるならファミコンをやってればいいと昔は言ってたと思う。
そして今もこれを書くならファミコンをやればよかったと思っている。
けど、突発的に言いたくなった。どうしても言いたくなった。
みんなにもきちんと理解して欲しいと主張したくなった。
衝動的に書きたくなった。